スピードアップは目隠しと同じ


スローライフでいこう―ゆったり暮らす8つの方法 (ハヤカワ文庫NF)

私達にとって、効率化が極限まで求められようとしているこの社会は、果たして”良い社会”なのでしょうか。
本書は、その問いを真っ向から否定して、スピードダウンすることの利を提示します。
現代社会の抱えるスピード狂いという現象は、実は仏教の祖、ブッダの生まれる前から存在し、多くの宗教や思想が効率追求による弊害を説いています。
具体的なステップを事例を踏まえて解説し、自分の人生を”意識して”生きるための方法を提示します。

具体的には、以下の8つのステップに集約されます。
1.スローダウンする
2.1点集中する
3.人を優先させる
4.感覚を制御する
5.精神的な仲間を持つ
6.啓発的な本を読む
7.マントラを唱える
8.瞑想をする

私は本書を購入して6年となります。
これまで何度通読したかわかりませんが、それでこの8つのステップを完成できるわけではありません。
はっきり言ってまだ1つもちゃんと取り組めているような気がしません。
ただ、6.7.8あたりについては、具体的にアクションすることなので、いくらか取り組みやすいと感じています。
特に、そのうちの「啓発的な本を読む」については、朝と夜寝る前に啓発的な本を読みましょう、ということなのですが、私の個人的な嗜好もあって、結構長く続けていられています。
著者は啓発的な本の例として「法句教」や「ヴァガヴァッド・ギーター」などを上げており、つまるところ思想の本ということで、これまで私にとってあまり関わりのなかった宗教や思想の書を手に取る機会を増やしてくれました。
そこで説かれている考えは、なかなかエキサイティングで、私に「そんな考えがあるのか」という驚きや、「すでにここまで整理して考えていた人がいるのか」という畏怖をもたらし楽しませてくれます。
また、ガンディーについての記述は、その後、私にとって特別な意味を持つようになりました。
ガンディーという一人の人間がいかに遠くまでたどり着いたか、私は20代の最後になってようやく知りました。
対話に基づく合意形成こそが市民の果たすべき使命であり、ガンディーはその使命を自身の生き方で表現したように思います。
市民的な成熟のモデルをダンディーにみるとすれば、成熟自体が困難なことに思えますが、ガンディーを目指すことが成熟へと向かう道と考えれば、道の上には乗れる気がします。
そしてこの「道に乗る」ということが”信仰”というものなのではないかな?とそんなことも思います。



本書はいろいろな思想や宗教が提示している”自分の人生をよりよく生きる術”を整理、統合し、現代社会でも理解・実践されやすいようにまとめたものです。
「なんかよくわからないけど毎日慌ただしい」と感じている人や、「一体何のために生活しているのかよくわからなくなってきた」と感じている人には、ぜひ一度手にとってほしいと思います。
著者の体験した「慌ただしい日常」における「小さな気付き」は、そうした人たちの気付きにも寄与するはずです。

共働き社会は格差を固定する



結婚と家族のこれから~共働き社会の限界~ (光文社新書)

仕事と家族 - 日本はなぜ働きづらく、産みにくいのか (中公新書)人口減少社会の未来学を上げながら、出生力の回復に向けて、女性の社会的なつながりと経済基盤の確保の重要性を指摘しました。
しかし、結婚と家族のこれから~共働き社会の限界~ (光文社新書)では、共働き社会の実現は、必ずしもいいことばかりではないことを突きつけてきます。
共働き社会は、格差の固定を引き起こしかねないのです。

原因は、女性の社会進出が進む一方で男性の非正規雇用率を高まっていることが一点。
また、人は、放っておくと価値観や考え方の近い同類と結婚する傾向があるという点がもう一点。
この2つが組み合わさるとどうなるか?
その答えが、「傾向として、金持ち同士、貧乏同士のカップリングが増える」という事態に至る、というわけです。

私の読んだ限りでは、これを解決するすべはまだ見つかっていないようです。
著者は税の仕組みからこの解決が測れないか?との問を立てますが、税の仕組みは一長一短あり、あちらを立てればこちらが立たずと言った状況で、バシッと解決する方法はまだ見つかっていないのだとか。
具体的に言えば、あんまり高所得者に税金をかけ過ぎるとカップルが成立しにくくなるし、かと言ってやすくすると格差が広がる…そんな感じです。
筆者は最後に、「結婚しなくても困らない社会を作ること」が大事では?との提言をしていました。

以下は私の感想です。
「結婚しなくても困らない社会」この実現にはもうベーシック・インカムしかないのでは?と早合点したくなります。
ベーシック・インカムであれば、低所得の人のほうが税的な補助が多くなるし、子供を生むことで収入が増えるわけだから出生力にプラスに働くと思われます。
また、そもそも子供を経済的な負担から作れないという事態は減るのではないでしょうか。
加えて言えば、こうした経済的な基盤があることで、ケア・サービスに就職するハードルも下がり、サービスの拡充が格差の是正を伴いながら、進んでいくのではないでしょうか?
(ちょっと話がうますぎるので、眉唾ものですが)

ちなみに、現状ではケア・サービスは格差が前提で供給されており、ケア・サービスは供給する側が、自分たちのケアの機会を奪われる事態が生じています。
例えば、移民のケア・ワーカー(ナニー)は、自分の子供のケアを自国のケア・ワーカーにまかせています。
つまり、国と国との格差を利用して、先進国はケア・サービスを享受しているわけですね。
ケア・サービスを受けれる経済的に優位な女性しか、経済的な安定を得られないという格差の固定化が進んでいるようです。



ベーシック・インカムに興味のある方は、下の書籍もご参考になさってください。
   

関連記事
【読了】AI時代の新・ベーシックインカム論(井上智洋著、光文社新書)
【読了】ベーシック・インカム(原田泰著、中央公論社新書)

少子化対策のヒント(『人口減少社会の未来学』から)



人口減少社会の未来学を読みました。

前回の記事では少子化においては、女性がいかにして経済基盤を獲得するかが出生力の回復に重要な要素であり、「共働き社会」の実現が少子化社会脱却の第一歩になるのではないか、という提言をした『仕事と家族 - 日本はなぜ働きづらく、産みにくいのか (中公新書)』を紹介しました。

これについて、「ではどうすればいいのか?」のヒントが『人口減少社会の未来学』には書いてあります。

本書は専門の異なる著者陣が、自身の専門領域から人口減少という現象を捉えてその社会がどこに向かうのか、どういう対応が求められるのか、などについて論じています。

著者陣の一人、平田オリザさんの章には、女性が子供を生みたくなる自治体の具体的な取り組みが紹介されています。

特に市役所内にワークシェアリングの場を設けるなどの取り組みは、女性をコミュニティーに緩やかにつなぐ、素晴らしい取り組みだと思います。
ただ、平田オリザさんの提言の中で私が重要だと思ったのは、「女性が昼間っから酒を飲んでも後ろ指を刺されない社会でないと話にならない」という指摘です。
このことは、何も女性が昼間から酒を飲める環境をもっと作るべき、という具体的な対策をすすめるものではないと思われます。
この指摘は、もっと大きな視点、すなわち「個人を尊重しつつ、緩やかなつながりが形成できる社会」を目指しましょうという提言だと私は捉えました。

これからの自治体は、女性が安心して子供を産み、育てる環境を作れるかどうかが生き残りのポイントで、そのためには、母親の生活しやすい社会基盤が必要です。
こういった社会基盤を整備するためには、市民一人ひとりが「個人を尊重する」「個人が社会につながることを奨励する」意識を持つことが重要で、そのことを「昼間から外で酒を飲んでも」に込めたのだと思います。

女性が安心して子供を産み、育てられる自治体であれば、やがてその子供たちが大人になり、子供を産もうと思ったときに帰ってくる可能性も高まるでしょう。
多くの自治体がそうなれば、国として見た際には少子化という問題が改善されていることになる。
そして、現にそういう自治体が出てき始めている。

地域が母親を助け、地域で子供を育てるという意識のある自治体づくりが求められているということですね。
でも難しいのは、あまり介入しすぎるのもマイナスだということ。
それは確かに勝手すぎる気もしますが、それが移住者の本音であることもまた事実でしょう。

自治体の担当者は、こんなに難しいことを調整しなくちゃいけないんだから、まずは公務員の給料を上げるとこから始めてもいいのでは?と思えてしまいます。
公務員の皆さんにはほんとに頭が下がります。

【読了】仕事と家族(筒井淳也、中公新書)



仕事と家族 - 日本はなぜ働きづらく、産みにくいのか (中公新書)を読みました。

女性の長期的な収入確保をどうするかが出生力に影響するようです。
ノルウェー(大きな政府)とアメリカ(小さな政府)はどちらも先進国の中で出生力が回復している国なのですが、その2つの国と他の国を比較しながら、そのことを本書は論証していきます。

それらを踏まえて、「日本ではなぜ少子化が進んでいるのか」といえば、日本は総合職という男しか働けない環境が広く整備されており、政府も企業のこの雇用体系をずっと支援してきたから、とのこと。
(そのおかげで財政支出を抑えることができたから)
こうすることで、女性は家庭にいることしかできなくなってしまったわけですね。
ここには農家を含む自営業がどんどん減っていったという背景も関わります。

このことはつまり、国が企業の働かせ方を変えさせれば、極端な少子高齢化を回避することができたと言えます。
でも、それをしなかった。
そこには戦争を経験した国民の「出産についての言及を忌避したがる感情」があったということもあるということですが、だからといって政府がそこまで具体的な対策を取ってこなかったことを否定できるわけではありません。
要するに国民・政府が目をそらし続けているわけですね。

また、個人的には、産業界の体質が全然変わっていないというのが非常に気になりました。
一大学人としては、これだけ大学に変われ変われと言っている産業界自身が全然変わっていないと言うのは笑止千万です。
自分たちが変われないから周りに変われというのはわがままではないでしょうか?

ちなみに、私自身は、少子化問題についてはかねてから「しょうがないのでは?誰も悪くないし…」と思っていました。
しかし、本書を通読すると、政府としてできることがこんなにもあったんだなぁと勉強になりました。
(あるいはそれは振り返ってこそわかることなのかもしれませんが)
そして、私のこの政府への批判は、結局のところその政策を議論させることのできなかった有権者(つまり私)にも向かってしまうということにも気付かされます。

本書一冊で「じゃぁ、個人としては結局どうしたらいいの?」という質問に即答できるはずもありません。
(結婚して産めというのは暴論でしょう)
しかし、その答え…ではないですが、ヒントは人口減少社会の未来学にありましたので、後日紹介します。

それと、余談ですが、著者は「「共働き社会」は日本社会のこれからの社会的連帯の第一歩であると筆者は考える。」と書きますが、実は結婚と家族のこれから 共働き社会の限界 (光文社新書)において、「共働き社会」が格差を固定化しかねないという論に達します。
自分で提言した内容の、批判を自分でしてしまうと言うのは、すごいことだと感じます。
こちらについても、後日紹介できればと思います。


【読了】街場の大学論(内田樹著、角川文庫)

『街場の大学論』(内田樹著、角川文庫)を読みました。


『下流志向』などの内容といくらかかぶるところはありましたが、少し古めの記事が多いような気がします。
しかし、最後まで読めば、しっかり前半の認識の誤りを訂正している箇所があり、「あぁやっぱりいつもの内田先生だね」という感じで読み終えれました。

以下、備忘。

1.学生の質について
 学生の質は下がらざるを得ない。
 なぜなら入試とは同一集団内での自身の立ち位置によって合否が決まるものであるから。
 18歳人口という分母が小さくなる上に、大学の定員数は拡大するという状況は、ようする年々同じ学力なら上の大学に入りやすくなることを意味する。
 (絶対的な学力に対するボーダーラインがどんどん下がっていくわけですね。)
 だから、同じ大学に入るのに、10年前と同じ量の勉強をする必要が無いということ。
 このことが大学の質低下の原因と考えられる。

2.評価について
 正しい評価をしようとすると、全体を規格化しなくてはならない。
 そうなると、有能な人も規格に当てはめることになる。
 A.働かない人を働かせて、働く人を枠にはめ込む
 B.働かない人は無視してして働く人に気持ちよく働いてもらう
 という2択について、どちらのほうがメリットが多いかを考えるべき。
 ちなみに、A.であれば、全員が雇用契約書通りにしか働かないことになる可能性が高い。
 イノベーションは、Bのほうが起きやすいのではないだろうか。

3.文科省行政担当者の考え方
 これが、なかなかおもしろい。
 大変”話せる人”ではないか!というのい少々驚いた。
 文科省は…なんて考えていた自分が恥ずかしい。
 同じ人間なのです。担当者レベルでは色々と考えながら働かれていることを理解しました。
 そして、文科省からのメッセージについては、行間を読むことが大切なのですね、と言うのは目からうろこでした。
 つまり、大学に主体性を持ってほしいというのが文科省の考え方なのかなと個人的には理解したいと思います。
 でも、大学の設置規制をもう少し強めてもいいような気がします。

以上、備忘。

大学経営の問題の一つに、定員を満たさないと黒字にならないという点があるのでは無いかと思えてきます。
どうしてそんなにギリギリで経営をしてしまうのでしょうか。
大学人なのに、こんな問に答えられないことが非常に心苦しいのですが、人件費がかかりすぎなのでしょうか?

ということで、少し考えてみましょう。
年間70万円の授業料で150人(1学年の定員数)→1億5千万円
四年間だから、1億5千万円×4年→6億円
教員が30人体制なら1000万円×30→3億円
残りが3億円。
3億円を150人×4年で割ると…50万円
1年間に一人あたり50万円しか教育費をかけれないのか…
教員によっては1000万円/年どころではないでしょうし、教員の他にも事務職員だとか、非常勤講師分なども入るとすると、50万円でも心もとない気がしてきますね。

やっぱりお金かかるんだなぁ。
自分なんて2年間の卒論研究で100万円なんて吹いて飛ぶくらいの試薬とか溶媒を使いましたからねぇ…。
大学全体に撒ける助成金も決まっている以上、大学数が増えればそれも減るし、ほんとにジリ貧ですね。
人件費を下げれば、人材は流出するし、どうすりゃいいんですかね?
(助成金を増やせば解決する気もしますが)

また、定員や、教員数管理については、18歳人口は18年前にその変遷が読めるわけですから、ある程度文科省の方でコントロールしてもいいように思えます。
というかお上からある程度言わないと、どこも減らさないでしょう。
下のほうの大学が定員を少し減らしたところで、上位1割の大学その減少分を攫っていくような事態になりかねません。
ということで、偏差値の高い大学にこそ、規制をかけてはいかがでしょうか?
そうすれば、多分下に下に降りてくるはずです。
実際、昨今は定員厳格化によって、中間層の大学が潤っているはずですから。
…とここまで書いて、なるほど文科省の政策も、必ずしも変なことばかりではないのだなぁと思わされます。
23区内の大学は10年間定員増不可と聞いたときには、何してくれてんのか?と思いましたが、一大学人とは違って、制度としての全体の大学を見なくてはならない以上、全然視点や考え方が違うのかもしれません。
もう少し、「この政策は何を狙っているのか」について、頭を柔らかくして考えなくてはならないなと反省させられます。

結局、文科省としても、都市部の少数の大学を生き残らせたいわけではないのでしょう。
でも、やっぱり受験者の思いとしては、都市部に出たいものだと思います。
であるならば、やはり規制は必要だと思います。
人は都市部のみに生きるわけではありませんからね。
広く、可能な限り多くの方に大学の機能が享受されるようにするには何が必要なのか、一大学人として大学を考える前に、一市民として、大学のあり方を考えていかなくてはならないのかもしれません。

大学に求めることの違い

GoogleNewsを見ていたら、随分香ばしい記事が掲載されていました。
日本電産永守氏が語る「今の大学教育」への失望 カリスマ経営者が元東大教授と挑む大学改革(東洋経済ONLINE)

すごいですね、永守さん。
「(大学を)卒業しても英語も話せない。経済学部を出ているのに、企業の経理に回されても決算書さえ作れない」
「日本電産は世界最大のモーターメーカーだが、そのモーターの技術を学べる大学はどこにあるか」 
こんな思いで大学を作れちゃうんですね。
どうも上の書き方だと、専門学校のような気がしてしまうのですが…いや、それは私の勘違いですね。

また、以下の記述も大変気になります。
京都先端科学大学は4月1日に名称を京都学園大学から変更した。2018年3月に永守氏が大学を運営する学校法人京都学園(現・永守学園)の理事長に就任。100億円を超える私財を投じ、同大の改革を推し進める。
研究施設の建設が次から次へと実施や計画されるスピード感は、永守氏の寄付金と私立大学の組み合わせがなせる技だ。
理事長の寄付で改革が進んでるというのは、ちょっと怖いですね。
昨今はとある大学のスポーツ絡みの不祥事で、理事及び理事長への権力集中が取り沙汰されておりましたし、最近だと某大学での外国人留学生の問題なども一人の人間への権力集中によって起こった事件と伺っております。
どの大学も、お金にデリケートになっており、あまり偏差値の高くない大学ならなおさらです。
永守理事長には誰も文句が言えない状況になっているのではないでしょうか?
こういう穿った視点に立つと、学長のコメントから理事長をフォローしなくてはという必死さが漂っているように思えてきます。
(性格悪いですね)

最後には、すでに改革によるいい影響が出始めていると書いていますが、これも怪しいもんです。
一連の急速な改革とその方針が受験生にも伝わり、学生の募集にも変化が出始めている。旧京都学園大学は「京都内の評判では最もボトム(底)の評判だった」(同大関係者)が、今年の入試志願者数は前年の1.6倍の2435人に増加した。「これまでは近畿大や関関同立など関西の上位大の併願校にすらならなかったが、滑り止めとして併願する学生も出始めている」(学習塾関係者)。
最近は入学定員の厳格化に伴って、上位校が合格数を絞り、受験生はランクを下げた大学に出願する傾向にあります。
この増加は、そうしたトレンドに沿った変化である可能性もあります。
というか、もしそのトレンドに沿わないのであれば、もっと恐ろしい事態が社会全体において進行しているのではないかと危惧されます。

ーーー

色々書きましたが、「じゃぁお前は大学ってどんなところだと思っているんだよ?」という声が聞こえてきそうです。
私の考えでは大学は「変なやつを排出する」ところだと思っております。
したがって、学ぶ分野は別になんだっていいのです。
ただし、最先端である必要があります。
まだ誰も知り得ていないことを研究している研究者が教える人であるからこそ、既存の価値観になびかない変なやつが生まれるのです。

大学教育は「すでに求められている技術」を身につけるところではないのです。
(いや、もちろん既存の技術を得る過程で学ぶことはたくさんあるし、それを教育メソッドにすることは良いことと思うのですが、その技術の習得が目的ではないということです)
想像できる未来への対応なんてすぐにできます。
すでに顕在化しているのですから。
問題は、「未来のことはわからないことばかり」ということなのです。
だから変なやつをたくさん出さなきゃいけないのです。
変なやつがたくさんいれば、それだけ変化に対するリスクが減少するからです。

大学の先生方には、ぜひ、まだ世の中にない、あるいは忘れらたり見落とされたりしている価値を、掘り出してみんなに提示することに資源を費やしてほしい。
そこに学生を巻き込むことで、学生を変なやつにしてほしい。
私は、それが、大学の価値であり使命だと思っています。

ーーー

あとは、個人的には、大学で決算書の書き方なんて教えないで、教授にはぜひ決算書に対して「ほんとにこんなんいるの?」と突っかかってほしいなぁと思います。
世の中に向かって「どう見たって王様の耳はロバの耳だよね」と言っちゃうのも、やっぱり大学の使命の一つではないかと思うのです。

グレイテストティーチャー賞(仮名)に感じる違和感

私の所属する大学では、毎年授業評価の良い教員を「グレイテストティーチャー賞」(大学の名誉のため仮名)なる賞で表彰します。
私には、この表彰に、大変な違和感を覚えます。

まずはじめに、大学なのに「ティーチャー」?というところから突っかかりたくなる。
言いがかりですが、私は大学の先生方をティーチャーと思ったことはありません。
彼らはティーチャーとしては型破りすぎると思うのです。
なんとなくティーチャーと言うのは、「ある基準をもとにそこに到達させるための人」という意味あいがあるものと感じられて、大学の教授陣にふさわしい呼び方かどうか、自信がもてません。
(学習指導要領のもとに教える先生に当てはまる気がしてならないのです)
でも、辞書を調べると、teacherとは「教育に従事する者」「大学でもOK」ということなので、まぁいいでしょう。

しかし、「グレイテスト」の方についても、ちょっと引っかかります。
いったいなにを基準にしてグレイテスト(最大)なのかということが、全然わからないのです。
いや、説明としてはあるのです。授業評価の数値が高いということです。
しかし、この授業評価というものの数値にいかほどの意味があるのか?

そもそも大学というのは、学生にとって「自分が知らないということさえも知らないことを学ぶ」場所です。
そこでの授業とはそんなにわかりやすい、すっと入ってくる授業では無いはずなのです。
もしすっと入ってくるのであれば、それは退屈な授業だし、全然入ってこないなら、それは難解な授業のはずです。
にも関わらず、出席者の多くが「良い」と評価できる授業ということは、「自分が知らないことさえも知らないことを学ぶ授業」ではないのではないかと疑いたくなります。
悪い言い方をすれば、ただの娯楽のような授業ではないのか?
知的刺激を与える授業とは言えないのではないか?
もっと悪く言えば「中の下あたり」に向けて授業してんじゃないの?

もちろん、100%そういう先生ばかりではないでしょう。
学生が楽しみながら知的刺激を受ける、そんな授業を展開している教員もいることと思います。(非常に少数だと思いますが)
しかし、だとすれば学生は楽しめないけど、明らかに知的刺激を喚起している授業もあるはずです。(こっちのほうが多いのでは?)
つまり、評価基準が「学生目線」になっていることが、大きな違和感を感じている部分ということですね。

どうしてその授業の価値もわからない人間(学生)の評価から、授業をする人間(教員)の価値を判断できるのでしょうか。
それは、美術品の鑑定を素人にさせるようなものではないでしょうか?
もちろん、個人が勝手に鑑定を行うのはいいのです。
それは場合によっては本人の勉強にもなるでしょう。(あくまで場合によってはですが)
しかし、大学として、組織としてそれを奨励するのはどうなのよ?
私が教員だったとして、そんな賞をもらうのは正直我慢ならない気がします。
なんとなく、バカにされているような気がしてしまいそうなのです。
「中の下への授業に邁進された素晴らしい先生です!皆さん拍手でお迎えください!どうぞ!」みたいな。

ーーー

ということで、代案を出します。
ぜひ、「ワーストティーチャー賞」を作りましょう。
授業評価の最悪な授業を行った先生を表彰するのです。
そして、その先生には、おまけに全教職員と希望の学生向けに90分間の講義の時間を差し上げましょう。
テーマは「なぜ私の授業は面白くないのか」。

その講義を聞いて大多数の方がわからないなら、まぁしょうがないでしょう。
次年度以降のコマ数を減らしましょう。
けれど、おそらく、そういう講義を聴くことは、非常に先生同士の知的刺激になるはずです。

また、終了後にはその受賞された先生を囲む会も行います。
話をしてみれば、決して学生を蔑ろにするような先生ではないことがわかるはずです。

このようにして、学生の授業評価なんて気にしない空気が大学内にできれば、しめたものです。
学生第一主義とは程遠いへんな大学になることでしょう。
先生ごとに変な個性がほとばしり、そのへんな個性が混じり合ったおかしな学科ができあがり、出て行く学生も変なやつばっかり。
こういうのが、大学の役割ではないかと思うのです。

大学は、けっして平均的な人間を排出するための機関ではありません。
それはむしろ「変なやつ」を世に送り出す装置なのだと思います。
世の中が全部同じようなやつばかりになると、大きな変化に対する免疫が失われます。
どんな価値観の変化が訪れても、そこに順応できるやつやその価値観と戦えるやつ、むしろ変化を読んでくるやつを排出していくことに大学の価値があるのだと、私は思います。

それは、使えるやつという表現とは相容れません。
むしろ「既存の価値観になびかない使いにくいやつ」になるはずです。
だから産業界から怒られる。
「もっと使えるやつをよこせ」と。

でも、産業界にしたって、変わりゆく世の中の価値観についていく(あるいはリードする)ためには、こうした変化に順応できる、戦える、むしろ変化を起こそうとする、そういう戦力が必要なはずです。
ということで、産業界がどれほど大学罵倒しても、大卒を採用しないことは今後も多分無いでしょう。
(今後比率は変わるかもしれませんが)

ただ、政権に訴えて大学を根本的に変えてしまおうという圧力をかけることは許してください。
それだけは勘弁してください。
そうなれば、大卒に価値はなくなります。
年を取った高校生を作るような政策だけは、やめましょう。

ーーー

このグレイテストティーチャー賞が跋扈することは、まさに年取った高校生を作る文化を奨励するような制度たりうる気がしてなりません。

たかが一つの賞ではないかと思うのですが、一時が万事、できることから改善していく必要があるのではないか。
そのような思いから、気を引き締める思いで備忘録を残しておきたいと思いました。

今の大学に一言申しておきたいことは、「学生第一主義なんてくそくらえ」ということです。
大学の使命は、各教員の知のフロンティアの拡大です。
学生たちは、その営みの最前線で歩哨として「知の拡大の有り様そのもの」を知るのです。
それは彼らが12年もの間、学習指導要領のもとで受けてきた「教育に関する理解」というものを根本からひっくり返す体験になるはずです。
歩哨としての仕事が、誰も知らない世界を観るという経験を伴うからです。

そして、歩哨の中でも優秀な子は、教員の引き上げのもと、幹部候補生となり、後にまた新たな歩哨を育てることでしょう。
ということで、大学が一番に考えるべきことは「どうしたら教員は知のフロンティアが拡大できるか」なのではないでしょうか。
そういう環境さえ整えば、学生は勝手に育つと思われます。
私には、先生方が頑張って学生を育てるシステムよりも、勝手に学生が育つシステムのほうが優れているような気がするのですが、どんなもんですかね。

【読了】春画の楽しみ方完全ガイド(白倉敬彦監修、池田書房)

『春画の楽しみ方完全ガイド』(白倉敬彦監修、池田書房)を読了。

同じシリーズの「西洋絵画」「日本絵画」に続き、3作目。
【読了?】西洋絵画の楽しみ方完全ガイド
※日本絵画はまだ記事にしてなかった…

本作は前のシリーズよりも登場する絵師が少ないため、一人の絵師の複数の作品を紹介する形でした。
ただ、本作の楽しみ方の紹介に伴って、絵師の系譜が追えるという構成は変わりません。
これから春画を楽しもうと思う人には大変良い本です。

もちろんこの本で主要な春画のすべてを網羅しているわけではありません。
ただ、春画鑑賞の第一歩には大変有意義な本だと思います。

「うまい・へた」がそのまま「いい・わるい」にならないという点が、春画もやはり美術品だなぁと思わせてくれます。
私の場合には、「いい表情」の作品に魅了されるのだということもわかりました。
ですから前半で紹介される墨摺りの作品の中でも、非常に清々しい表情の作品などは見ていて「いいねぇ」と思わずつぶやいてしまいます。
しかし、逆に表情の無い春信の作品も何考えてんだかわからん作品も好きなのが自分でも不思議です。

それにしても、彫る人は本当に凄いです。
毛の一本一本を浮かび上がらせるように周りを掘っていくわけですよね。
ドットとかだと涙出てきそうです。
当時の彫技術は世界一だったと別の本で読みましたが、だとすると当時の日本人(しかも庶民)の美術への関心というのは、現代人よりもよっぽど深くて広かったのかもしれません。

表情があっていいなぁと思った作品は特に以下の作品です。
※画像はいずれも同書からの引用

菱川師宣 欠題組物Ⅰ 第九図(P66)
吉田半兵衛 うるほひ草(P86)
鳥居清長 袖の巻 四(P126)
鳥居清長 袖の巻 六(P126)
逆に、顔を隠しているのもいい…(矛盾してますね)

喜多川歌麿 歌満くら 十(P130)
喜多川歌麿 歌満くら 七(P15)
歌川国芳 花以嘉多 中、第二図(P180)
歌川国芳 華吉子見 地、第二図(P182)
顔が見えないのに、なんとなく心情がわかってしまいそうなのが面白い。
書き入れの解説のおかげということもあるのでしょうけれど、力の入り方とか、仕草とか、全体から伝わってくるものがあるのだと思います。

前にシャネル銀座店の春画展に行きましたが、また行きたくなってしまいました。
  

【読了】村上春樹にご用心(内田樹、アルテスパブリッシング)

『村上春樹にご用心』(内田樹、アルテスパブリッシング)を読みました。
面白い。

先日アフターダークのことについては書きましたので、それ以外について。
【読了】アフターダーク(村上春樹著、講談社)

本書では、村上春樹氏が
①邪悪なるもの
②死んだ者
③みんなが知らないもの(本人も知らない)
について書こうとしたのではないか、とういことが説かれていました。

①については、それらがときに“意味のない悪意”すなわち純粋な混じり気なしの悪意として、出てくるという。
ひょっとしたら、それは一部には(卵と壁の話における)“システム”のことを言っているのかもしれない。
アフターダークで言うところの「タコ」なんかは多分“システム”のことですよね。
その他、「仮面の男」「白川」あたりも「邪悪なるもの」に含まれる気がします。
ただ、「フルフェイスの男」については、私の中ではどこに置いたもんかと微妙なところです。
センチネル…ではないんだろうけども…もやもやしています。

②については、死んだ者というか、「生きた者を書かない」というテクニックのようです。
これは、③にもつながる要素で、死者というものが世界共通の意識だから彼の作品は世界に広く受け入れられているのではないかと本書は論じていました。
「私が知っていることは、皆も知っている」ということはほとんどないが、「私が知らないことは、皆も知らない」ということはよくある。
だから、彼は「生きていない者」=「死者(のような者)」ばかり描くのだと内田先生は言います。
そして、死者という概念はまさに「私も知らない。皆もの知らない」のケースに該当する概念の一つであり、村上春樹氏はこの「知らないもの」を書くのに長けている、というのが内田先生の認識のようです。
つまり、村上氏の扱う題材自体に、言語の壁を跨ぐような共通理解を得る素質があるということですね。

ーーー

他にも、村上作品への批評に対する提言や、内臓の痒みを例にした言葉の運用能力獲得法など、さまざまなおもしろポイントが満載でした。
村上作品について、こんなにいろんな観点から書いた本って他にあるのでしょうか?
ぜひ近いうちに「もう一度村上春樹にご用心」(ひょっとして文庫版なのかな?)も読んでみたいと思いますし、内田先生以外の方の村上分析も読んでみたいなぁと思いました。

 

【読了】街場の読書論(内田樹、太田出版)

『街場の読書論』(内田樹、太田出版)を読みました。
面白かったぁ。

特に、学力について「学ぶ力」と読むというのは目からウロコでした。
学ぶ力を得るには、メンター(師匠)が必要。
メンターとは「今まさに学びの中にいる人」。
そのメンターに「学びの流れに巻き込まされてしまう」ことこそが学ぶ力には不可欠なのだ。
つまり、「今学ぶ者」と「学びに巻き込まれる者」の関係の中にこそ、知の獲得の手法が伝達されるということですね。
大学の存在意義はまさにここに行き着くのでしょう。

また、『痩我慢の説』(福沢諭吉)についての説明も面白かった。
これはまた別の記事で書きたいと思います。

ーーー

全体を通じて、とても「大人な」本という感じを持ちました。
常識的にものを考えたいという思いが伝わってくるようです。
「常識的に考える」ということは、つまり身体的な快・不快を考慮するということのようにお見受けいたします。
要するに、「違和感があるかないか」と言い換えてもいいかもしれません。
世の中、数値化できることばかりではない、ということも常識の一つでしょう。
そういう常識が忘れられた社会は、多分穴だらけの社会になる。
だから、「常識的な人」になることはとても重要な事なんだけど、みんなが常識的になれるかというと、そうではない。
常識という言葉と裏腹に、常識的な思考・行動を取るのには、素質が必要で、全体の20%くらい常識的な考えができる人がいれば社会や組織は機能するのだとか。

「はて、私は常識的に考えることのできる大人だろうか?」と問うてみると、少々危なっかしい。
となるとできることは、常識的に考えることのできる人の「邪魔をしない」ということだろうと思う。

あんまり読書に関係のない感想ばかりですが、本書に通底するメッセージはずばり「常識を持て」「そのために君が、本を待っている」ということになると思います。
あるいは、この考えは前に読んだ『街場の教育論』の影響を多分に受けた上で感じることなのかもしれません。

常識を持つということは、難しく言えば、共同体の一部であることを理解し、共同体に貢献する使命を自覚せよ、ということになるかと思います。
そして、このことは要するに「成熟する」「大人になる」ということと同義なのだろうと思わされました。

師を持ち、学びの流れに巻き込まれ、常識を得て、成熟せよ。
このステップを踏むとき、師とは本でも良い、というか私はそうしてきたよ。
そういうメッセージを私は受け取った…ような気がします。


※タイトルの太田出版は単行本出版時の出版社

【読了】街場の教育論(内田樹、ミシマ社)

『街場の読書論』(内田樹、ミシマ社)を読みました。
めちゃくちゃ面白い。

教育問題は簡単に解決しないこと、現場に任せることが重要ということ、そもそも儲からないということ、グローバル資本主義から子どもを守ることの重要性、仕事論、メンターの不可欠性、外に求めることこそ学び…などについて非常に含蓄のある指摘をされています。
前ページに付箋を貼りたいくらい面白かったです。

大学で働く者としては、本書を読んで「大学同士で競い合う必要なんてないんじゃん」と思いました。
優秀な子が入ってこなくても、それはそれでいいのかもしれません。
そういう子をしっかりと教育できるようにしたならば、そこに大学の価値は自ずと現れてくるのではないだろうか。
すべての大学が東大である必要もないでしょうし。
あとは、そういう姿勢の大学を我々が守れるかどうかにかかっているように思う。
とういことはつまり、大学は経済的な文脈で経営を語っちゃいけないということですね。
そうなると、大学を運営するのは、やっぱり先生であるべきとも思いました。
経営のプロが大学を経営してしまうと、それはもう大学じゃない、ということですね。

また、労働は協同という考え方にも納得がいった。
自分は少しグローバル資本主義に侵されていたのかもしれません。
もう少しゆったりとした気持ちで仕事に向き合いたいと思います。
いいじゃんね、先生のサポーターで。
サポーターとしてどうしたら頑張る先生を助けられるのかを一生懸命考えるのも大事な仕事でしょう。
昨今は「教職協働」が持て囃されていますが、少し立ち止まって考えるきっかけになったように感じます。
(事務と教務が、お互いをプロとして認識し合えることが大事なのかもしれません)

それから、「言葉のストックを増やす」というのも目からウロコでした。
生まれたての自分というのは「空っぽ」で、言葉がそこに入ることで「その人が出来上がっていく」という考え方です。
思いを言葉にする、ではなく、言葉が思いを作るのですね。
だからこそ、まずはいろんな言葉を体に入れて、そこから自分の思想を作っていくというプロセスが求められる。
そのプロセスが逆になると「ムカつく」を何十通りにも使い分けるなどの事態になってしまう。
なるほどなぁ。確かになぁ。
今後も積極的(意識的)に日本語に接する生活をしていかなくちゃなぁと思いました。
(能でも聞いてみようかしらん。そうすれば真名と仮名の使い分けもうまくなるのかな)と思いながら、まずは百人一首の本を買いました。

ーーー

今後も、内田先生を勝手にメンターとさせていただき、著作もどんどん読んでみたいと思います。
(並行読みしているので全然読み終われないし、結構重なる話が多くて、興味深いと思った話が度の本の内容かわからなくなる、というのも、初めての経験です)
そして、著作の中で紹介されている本もいずれは取り組まねばならないでしょう…。

ちなみに、昨日から『街場の大学論』も読み始めました。
こちらは文科省の職員との対談なども入っており、たまりません。
一日が22時から24時の間にもう3時間分の隙間があればいいのに…。

 
  

【読了】美術館で愛を語る(岩渕純子著、PHP新書)

『美術館で愛を語る』(岩渕純子著、PHP新書)を読みました。

「はじめに」と「終わりに」にすべての言いたいことの9割が詰められているように感じる本でした。
「自分とは異なる価値観に対する寛容性をはぐくむのが美術館の役割」という意見には賛同いたします。

美術鑑賞をどう教育に活かすのかという命題に悩む教師たちに対して、彼女は斬りかかります。

ーー美術作品とは、理解できないことをどう教材にしていいのかわからないのではなく、理解できないということがあるということを学ぶための教材なのだ。
ーーそして、他人とはむしろ違った印象を持つことを求めるための教材なのだ。

こうした寛容性についての指摘から、ヒトラーの話にまで展開していくところに、著者の強い美術愛を感じます。
たぶん彼女は本気で怒っているのだと思いました。
不寛容性とそうした態度の引き起こした歴史的残虐行為に対して。

ーーー

本書はほとんどが著者の旅行記のような形になっています。
そして、美術の本ですが、食べ物の話が多いです。
著者は、その作品の蔵されている美術館に行くことの重要性を身体的あるいは霊的な感覚をベースにして説いています。
全身全霊を用いて作品を鑑賞する際に、場としてのその美術館特有の空気が必要だと言うことだ、と私は理解しました。
そうした美術館を作るための思想というか前提となる価値観のようなものが、食べ物とつながっていると言いたいのかもしれません。
多分、食べ物と美術館は肉体や思想、文化、その他諸々の物理的な条件(気候や地勢)を媒介してつながっているのです。

また、美術の世界の裏側紹介として、社交の大変さを説明するくだりなどもありました。
社交界では個人としての資質(見た目、度胸、会話力など)が求められるようで、なかなかにしんどい世界のように思われます。
たぶん訓練だけではどうしようもない世界なのでしょう。
(もちろん、訓練しないとどうしようもない世界でもあるのでしょうが)

世界中のめぼしい美術館を紹介する本なのに、本書を読んだ後には、むしろ近所の美術館に行きたいなぁと思ったのが不思議な感じでした。
先日読んだ、『美術館へ行こう』(草薙奈津子著、岩波ジュニア新書)の著者が館長である「平塚市美術館」に猛烈に行きたくなりました。
【読了】美術館へ行こう(草薙奈津子著、岩波ジュニア新書)

 

【読了】アフターダーク(村上春樹著、講談社)

久しぶりに『アフターダーク』(村上春樹著、講談社)を読みました。
本作を読むのはこれが2回目で、確か最初は高校時代。
読んでても舞台の景色は霞んでて、どんな話が進んでいるやらあやふやなまま読み切った、そんな記憶があります。
ところが、30代になり、改めて読めばその情景は湧きやすく、まるで映画を見るように楽しめました。
なるほど、20代は大人への階段だと言うわけですね。

ということで、今回のこの読書体験は、少しだけ私に希望を持たせてくれました。
つまり「今わからなくても、そのうちわかるかもしれない。時期が悪かった」ということが起こりうるというモデルケースになったように思います。
少しだけ難しい本にも挑戦していいかも?という気分です。

ーーー

さて、どうして10年以上ぶりにこの本を手にしたかといえば、内田樹先生の「村上春樹にご用心」で本作が紹介されていたからです。
氏は本作のことを
二人のセンチネル(タカハシくんとカオルさん)が「ナイト・ウォッチ」をして、境界線のギリギリまで来てしまった若い女の子たちの一人を「底なしの闇」から押し戻す物語である(『村上春樹にご用心』P66)
と紹介していて興味を持ったからです。
(そんな風に読めた小説だっただろうか?)…ということで、読んでみました。
それで、私はこの本を「様々な対比の交錯するのがこの世界」ということと「その対比の境界は結構あやふや」ということを表現している本だと思うようになりました。

ーーー

まず、物語は「昼の世界」に対する「夜の世界」が舞台になっています。
そこにやってくるのが主人公のマリ、昼の住人です。
マリは気づくと夜の世界の出来事に巻き込まれていく。
昼と夜を行き来するタカハシがそれを仲介する。
ラブホテル「アルファヴィル」の人たちは、「かつて昼の世界にいたが今は夜の住人」である。
その中の一人、カオル(アルファヴィルのオーナー)はバイクの男(悪)と対比した善として描かれている。
バイクの男はまた夜に棲む悪として、白川(昼の世界の悪)と対比されているのだろう。

そうなると、エリ(マリの姉。寝続けている)はどう解釈できるだろうか?
エリはマリに対する姉という形で、姉妹の対比であるとともに、精神世界と現実世界の対比を表しているのではないだろうか。
また、エリが精神世界に行くときには仮面の男が関わっている。
この男はベクターとしては、タカハシと同じような役割を持っている。
つまり、現実世界のベクターと精神世界のベクターとして対比されているように思われる。
さらには、カメラの存在も私達の世界と小説の世界の対比を表す装置として描かれている。
しかも、私達読者を作品内の登場人物に対して「逃げるんだ」というメッセージを投げかけることのできる装置として機能させられている。

つまり、様々な対比があり、それらは対比されながらつながっている。
そして、ベクターを介して、あるいは介さず、どちらの世界にも一歩を踏み入れそうになって(あるいはすでに踏み入れてしまって)いる。
「今」分けられている「あっち側」と「こっち側」は簡単に開通してしまうのだ。
タカハシが大学の課題で裁判の傍聴へ行った際の感想として、以下のことを述べていますが、
2つの世界を隔てる壁なんてものは、実際には存在しないのかもしれないぞって。もしあったとしても、はりぼてのペラペラの壁かもしれない。ひょいともたれかかったとたんに、突き抜けて向こう側に落っこちてしまうようなものかもしれない。というか、僕ら自身の中にあっち側がすでにこっそりと忍び込んできているのに、そのことに気づいていないだけなのかもしれない。そういう気持ちがしてきたんだ。(同書P141-142)
これがまさにこの物語のサマリーのように思えるのです。

ーーー

余談ですが、タカハシはこれをタコのような生き物の仕業と考えました。
多分これは、「卵と壁」のスピーチで言うところの壁(つまりシステム)に当たるものなのでしょう。
(参考:書き起こし.comのスピーチ書き起こし内容

こうした作品ごとの「つながり」を考えられるようになったのも、私が年を取ったからかもしれませんが、こうも楽しく読書ができるのなら、年を取るのも悪く無い気が致します。

内田先生は、村上春樹にご用心の同じ記事の中で、アフターダークと1973年のピンボールがつながっていることを指摘していました。
ということで、先日一緒にピンボールも買ったので、近いうちに読んでみたいと思います。

ピンボールは実は私の一番好きな作品なのです。
でも、どこがどう好きだったのか、いまいちうまく言葉にできない。
風の歌を聴けにも似た気だるさが良かったような気がするのですが…ちょっと読んでみてまた書いてみたいと思います。

ただ、多分10代の私が読んだときに感じる感動とはもう違うんだろうなぁという予感がします。
何事も、良し悪し両面があるものですね。(まだ読んでもないのに)

  

内田樹先生の著書にハマっています

最近、内田樹さんの著書にはまっています。
きっかけは氏のHPで下の記事を読んで、感動したからです。
大学教育は生き延びられるのか?(内田樹の研究室)
こんなにまとめて大学の歴史と問題点を述べた記事を読んだことがありませんでした。
しかも社会的な問題についても言及されている。
一体この人は何者なのだろう?と思ってほかの記事を読んでみても、どの記事も面白い。
面白いというのは、内容が非常に常識的ということと、すっと体に入ってくるような文章で語りかけてくれるという両方の意味です。

調べてみると、神戸女学院の教授だった方でした。
もう少しこの方の話を聴いててみたい(読んでみたい)と思い、何冊か本を借りて今読んでいます。

読んだのは「街場の教育論」、「街場の読書論」の2冊。
そして、途中ですが「下流志向」と「村上春樹にご用心」の2冊を今読み進めています。

あんまり面白いんで、ほかにも何冊か借りてしまいましたが、おかげで家事が進みません。

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さて、上記URLの記事ですが、ここには大学がどう失敗してきたかということが書かれています。
それは政策の誤りだったり、評価の誤謬だったりと様々です。
しかもこれらの失敗について、自身の誤りも認めたうえで指摘しています。
このことが非常に貴重だと思います。

政策は無能だったが、自分もそれに乗っかった。
しかし、それは誤りだった。
誤りだったから、私は謝る。そのうえで、是正すべきと提案したい。

一体どこに反論する余地があるのでしょうか?

また、評価の誤謬についても、一言申し上げたい。
結局、評価というのは、書面に落とし込むときには”測れるもの”しか記載ができない。
だから、本当に必要な”能力”を評価することなんてできないのだと思います。
内田氏は「街場の読書論」(P181から)で例えば警察官なら「群衆の中から怪しいやつを見つけだす力」というものを例に挙げています。
そんなのをどうやって筆記試験でスクリーニングするんでしょうかね?
同様に、組織のために必要な業務を見つけ出し、それを繕う人材をどのように見つければいいのか?
筆記試験と面接で対応できるわけないですよね?
今は無くなってきていますが、師弟関係というのがやっぱり大事なんだと思います。

それから、評価の手間が増えると、必然よく働く人ほどその手間が増えるというのも、なるほどと思いました。
私はこれまで、いかにして働く人の手間を減らすのか、そういう視点を持ったことがなかったのです。
どうやってまじめにやっていないやつに損をさせるかということばかり考えていたことを反省します。
先日ある先生(大学教授)から、「さしみの法則」というものを伺いました。
「さしみ」とは組織の構成を表し「よく働く人3割(さ)」、「普通の人4割(し)」、「全然働かない人3割(み)」ということだそうです。
なるほどなぁと聞いていましたが、要するに「さ」の人をもっと大切にしようと思えば、評価なんてなくしたほうがいいということになっちゃうのですね。

というような感じで、氏の講義(著書・記事)からは非常に鋭い指摘がブスブスと私に突き刺さってくるのです。
そして、それがなんだか心地よい。

もうしばらく内田先生の講義を受け続けてみたいと思います。

   

プリキュアに必要な力

娘が観る(と言うか妻が観る)のと一緒に、毎週『プリキュア』を観ます。
今観ているのは『スターティンクル・プリキュア』で、私は前作の『HUGっとプリキュア』からプリキュアを観るようになりました。

今観ているスターティンクル・プリキュアは、「なんやかんやありまして、毎回敵を4人で倒します」というストーリーなのですが、冷静に考えると結構恐ろしい敵を相手にしているのです。

敵方は、まずチーム編成として、ピラミッド型の組織体制を構築しています。
そして、構成員もなかなかに多い(毎回撤退しても、その都度同人数程度の陣形が整えられるくらいに層が厚い)。
幹部も(現段階では)4名おり、それぞれに部下と能力が配されているし、痛めつけられてもへこたれない強靭な肉体と精神を持ち合わせています。
しかも登場と退場では消えるようにして、どんな危機的状況でも問題なく逃げ切ることができます。

対して、プリキュアは4人体制(2体おまけがいるけど)です。
こうなると、敵方が一斉に、しかも空間的に隔たれた箇所で好き放題に暴れた場合、プリキュアは1対多の戦闘に望まなくてはならなくなる。
しかも敵方は、登場、退場に瞬間移動ができるような能力者たちなので、そもそも襲来をどう補足するのか、補足したとして敵方と戦闘態勢を整えることができるかどうかも怪しいというのが、私の見立てです。

私が敵方なら間違いなくそうやって消耗させるでしょう。
結局プリキュアには守るもの(街や市民)が多すぎて、守りきれないという状況を作ることが一番手っ取り早いのです。

こうなると、プリキュアたちは単に能力が高ければいいというわけには行きません(もちろん魔法少女のまどか位のスペックがあればどうにかなるかもしれませんが…)。
そこには、市民と行政を絡めた危機対応策を策定しなくては話しにならないのです。

実際に、とんでもない能力の敵がおり、私達(プリキュア)しかそのことを知らないし、武力的に対応できるものがいないとしても、どうにか武力対応をするために危機発生を検知するネットワークの構築を図らなくては市民の安全を守れるはずがありません。
そうしたことに気づいたとき、彼女たちに必要な能力は実は「危機を共有する力」ということが見えてきます。

つまり、力があるだけでは、多くのものを守ることはできないということです。
社会や都市を守るためには、広く、多くの人を巻き込む能力が求められるのです。

もしプリキュアたちが持てる資質や人的ネットワークを駆使して敵方と相対するなら、多分来週話くらいで敵方は打ち砕かれるでしょう(プリキュアの周りには優秀な人材がかなり強固な絆を有する形で配されているのです。例えば優秀なAI、宇宙工学者兼資産家、宇宙人、他のスターの力などなど)。
もちろんそれでは1年(50週)なんて持たせるのは壮大すぎますし、「それってプリキュアなの?」という気もしてしますしね。
(でも前作HUGっとプリキュアはそんな構成がところどころにありました。あれは、間違いなく子ども向けの作品ではありません。やってることはテロリズムですが、敵方のほうが論理的に考え、世の中を良くしようという気概に満ちていました。世の中を良くしたいと思うからこそ危険なのだというロジックは、幼少期の子どもにはいささか早いように思えます。)

というようなことを書きながら、これって『シン・ゴジラ』のことでは?と思えてきました。
『シン・ゴジラ』はまさにそうした人的資源の組み合わせで危機を乗り越えた作品です。

シン・ゴジラ風のプリキュアがもし作られたなら、ぜひ劇場で観てみたいものであります。

【読了】美術館へ行こう(草薙奈津子著、岩波ジュニア新書)

『美術館へ行こう』(草薙奈津子著、岩波ジュニア新書)を読みました。



優しい語り口で美術館の表も裏も話してくれる素敵な本でした。
また、
・適当な感じで交渉に来た外部の学芸員にちょっと意地悪をしちゃった
・展示品を貸してくれない修復家に心のなかで憎まれ口を叩いちゃったり
など、所々に著者の本音が垣間見えて、非常に親近感がわきます。
ちなみに著者は平塚市美術館の館長。

以前、■子どもたちに美術鑑賞の楽しみをという記事を書きましたが、本書には以下のような記載がございました。
また最近は、小中学校での美術教育の一環として鑑賞教育に力を入れるようになってきています。おのずと美術館の出番も多くなってきているのです。(同書P25)
実際にもうこういう取り組みに向かっているのですね。
非常に素晴らしいことだと思います。
絵がうまくなくても、美術は楽しんでいいのです。
そして、自分がある作品からどう感じようと、それは個人の勝手なのです。
こういう個人の勝手な感じ方を尊重することが、個人の尊厳につながるのだということを教えることは、学校教育の非常に大切な役割だと思います。

その他、学芸員にも専門分野があるとは知りませんでした。
また、キュレーターという仕事が、学芸員の仕事を細分化した内の一つであるということもこの本で初めて知りました。
欧米の有名な美術館では、キュレーターの他にもかなり細分化された専門家が配置されているようで、日本ではまだまだ美術館の事業や学芸員の仕事の地位が低いということが伺えます。

本書の中で私が特に感銘をうけたのは、以下の箇所です。
どんなに汚い箱でも捨ててはいけないと言いましたが(中略)新しいものに勝手に変えたりしてはいけません。(中略)なぜなら、そういった古いものにはきちんとした来歴由緒があって、そのまま保管しているのかもしれないからです。歴史のあるものには思いもかけない秘密と価値があるのです。(同書P107-108、下線は私の加筆)
この一文にははっとさせられました。
これは美術作品にだけ言えることではなく、普遍的なことではないかと思わずにはいられません。
「自分には価値の分からないもの」にも「それでも価値がある」と認められること、これが知性を探求する第一歩のような気がします。
もし美術教育が、ここにまで及ぶのであれば、展示される作品や制作する作家、そして美術館・学芸員・管理方を含む行政を見る目は、輝きに満ちてくるのではないかと期待せずにはいられません。

子ども向けの本ですが、全然馬鹿にはできません。
案外大人は、子どもに向けたほうが、本音を語れるのかもしれませんね。

今度是非一度同美術館にお邪魔してみたいなぁと思います。

【読了】図書館で調べる(高田高史著、ちくまプリマー新書)

『図書館で調べる』(高田高史著、ちくまプリマー新書)を読みました。



図書館の存在意義を探りながら、その中で司書として働く著者が「どうやって図書館で情報を探すか」について解説していく本でした。
2時間ほどで読める優しい本でしたが、目からうろこが落ちた気持ちです。
特に分類から情報を探そうという発想は、知るだけで役に立つ知識だと思います。
ワード検索だけでは、なかなか情報にたどり着くことが難しいという前提を知らないと、なかなか飲み込めないかもしれませんが、「情報」が「肉まんの中のたけのこ」を探すような作業だと捉えると、ちょっとわかるかもしれないと思いました。

簡単に説明をすると、「たけのこ」でヒットする本を調べると、「たけのこの育て方」「美味しいたけのこレシピ集」などの本がヒットするでしょう。
「肉まんのあんの作り方集」「肉まん文化史」と言う本仮にあったとしても、「たけのこ」というワードではヒットしないわけです。
ではどう調べるか?
まずは「料理」、「中華」という少し包括的な情報を扱った書籍を調べるのです。
この包括的な情報というのが「分類」に当たるということです。
書架にはこの分類でまとめられて本が並べられるので、そのへんの本をめくっていけば、欲しい情報の周辺情報などが得られて、芋づる式に情報に近づいていくことができます。
要するに、いきなり中心に行くんじゃなくて、まずは周りから見ていったほうが、結局は早いし、自分のレベルにあった情報に行き着く可能性が高いですよ、ということですね。

また、情報量が必ずしも調べやすさに比例するものではなく、したがって大きい図書館だからいいということではないという指摘もありました。
むしろ小さい本だからこそ、限られた書籍の中から様々な本に横断して調べる力がつくのだとか。
また、どうしても深い知識を必要とする場合には、取り寄せることなどもできると紹介されています。
どうしても行き詰ったときには、図書館の重要なサービスの一つとして「司書によるリファレンス(相談)」がありますので、それをどんどん有効に使いましょうとのことでした。

今後図書館で調べ物をするときに、非常に役に立つ知識・考え方が整理された素敵な本だと思いました。

ーーー
この本を読んで思ったのは、「先日疑問に思った”屏風”のこともそうやって調べればよかったのかもしれない」ということです。
何もいきなり『屏風と日本人』(しかも600ページ)という対策に挑むのではなく、美術史(屏風の位置づけ)、屏風の代表作品、屏風と歴史、みたいな形で段階的、横断的に調べていったのなら、もう少し短時間で消化不良を起こすことなく調べることができたのかもしれません。
(とはいえ、通読したからこそ感じることもあるわけで、一概にどっちが良かったとはいえないのでしょう)
【読了】屏風と日本人(榊原悟著、敬文社)

今私が気にしていることは「大学はなぜ生まれたのか」「そして今大学はどういう存在であるべきなのか」ということです。
これまで『大学の理念』(ヤスパース)、『文系学部廃止の衝撃』(吉見俊哉)などを読みましたが、いずれも少し難しかった…。
もう少し柔らかく調べて行きたいと思っていたところなので、少しずつやっていきたいと思います。
できれば本書に出てくる栞さんのように、理解の流れなどをちゃんとメモとして残して自分の中に積み上げられると望ましいですね。
とはいえ、仕事でも勉強でもなんでもないので、楽しくやることを第一にして取り組めたらいいなぁと思います。

【読了】屏風と日本人(榊原悟著、敬文社)

『日本人と屏風』(榊原悟著、敬文社)を読みました。


ページ600近い大書です。
しかもずーっと屏風について。
こんなに情熱的に屏風を解説する本が世の中にあるとは、驚きです。
(あとがきでは、原稿用紙に鉛筆書きとも書かれていてさらに驚きました)

そもそも「なぜこの本を手に取ったか」というと、美術展でみる作品になんとなく違和感を感じていたからです。
というのも、美術館に行くときには、だいたい予習として目玉作品の解説に目を通してから行きます。
そうすると、現物を見たときに、なんとなく馴染めない感じを持ってしまうのです。
色や質感については、どうしたって現物を見ないとわかりませんから、たしかに「見てやったぞ」という充実感があるのですが、なぜかモヤモヤっとしたものが心に残るまま美術展をあとにすることが多々ありました。
なぜか?と考えてみて、ひょっとしたら「屏風にかかれているから」ではないか?という仮説に至ったのです。

書籍等で紹介される屏風の多くは、しっかりと広げられ、1面の絵画のように紹介されています。
しかし、現物はあくまでも屏風であり、曲げて立たせる調度なのです。
つまり、折れ曲がった絵を見ることになります。
ここに大きなギャップが生じ、もやもやを生むことになっているのではないか?ということですね。

私の感覚としては、「1面の絵」としてみたほうが美しく感じています。
でも、長い歴史の中で様々な絵が”屏風”というキャンパスに描かれてきた以上、そこには私の知らない美しさがあるのに気づいていないのではないか?そんな風に思ったのです。

そして、普通に見ているこの屏風ですが、「そもそも屏風って何なの?」「なんでみんな屏風に描いたの?」「何のために屏風が作られていたの?」という疑問も湧いてきました。

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本書は、上記の疑問について、多くを答えてくれています。

  • 屏風とは、中国において風を避けるための衝立として生まれたらしいこと。
  • 中国から朝鮮を経由して日本に伝来したらしいこと。
  • そのうち日本製のものを逆に海外に送り出していたこと。
  • 屏風が祭祀において空間を仕切ったり、背後を飾ることに用いられたこと。

などなど。

海外から来たものに、日本のオリジナリティを付与して輸出するようになるというのは、現代にも通じるものがあって面白いですね。
また、日本の屏風の特徴として、金・銀に極彩色の絵を描いた派手さが挙げられていましたが、日本人は昔から派手派手しいのが好きなのですね。
この辺は奇想の系譜や奇想の図譜を読んでいただけるとよく分かるように思います。
(あと、黄金の国ジパングなんて呼ばれたのも、金屏風が出回ったからでは?なんて想像してしまいますが、Wikipediaには平泉の中尊寺金色堂がモデルとありました。当時、奥州では砂金がたくさん取れたというのは知りませんでした)
【読了】奇想の図譜(辻惟雄著、ちくま学芸文庫)
【読了】奇想の系譜

さて、私が知りたかった「”屏風絵”として屏風の絵を楽しむ方法」についてですが、本書はこれについて、別書『日本絵画の見方』(榊原悟著)を当たって欲しいとの記載がありました。
ただ、その一端として、「富士・三保松原図屏風」(狩野山雪筆、静岡県立美術館蔵)を例に「折り曲げることで、富士山の傾斜がきつくなる」など、絵から受ける印象を変化させることができることを紹介しています。(P11)

おそらく、画家たちは屏風に描くことが決まっている以上、”屏風絵”としてどう見られるかを計算して描いたはずです。
果たしてその視線で見るならば、これまで見た屏風はどう見れるのか、改めてみたいという思いに駆られています。
ぜひ、もう一回「燕子花図屏風」(尾形光琳、根津美術館蔵)を見に行きたい、その気持ちが高まっております。
【鑑賞】尾形光琳と燕子花図@根津美術館

 

【読了】ホモ・ルーデンス(ホイジンガ著、高橋英夫訳、中公文庫)

『ホモ・ルーデンス』(ホイジンガ著、高橋英夫訳、中公文庫)を読みました。

ぜんっぜんわかりませんでした。
こんな難しい本を読んだのは、果たしていつぶりだろうか…。
普段見ている様々なブログや本で紹介されていたので、多少なりとも下知識があると思って読んでみましたが、まったくもってちんぷんかんぷん。

「遊びには規定(ルール)や区分けされた領域が必要」「文化は遊びを遊ばれながら文化となった」というようなことをおっしゃっているのはわかるのですが、そのような話が出るころには前段の話が頭から抜けている次第で、非常にむなしい気持ちになりました。
ちょっと己の読解能力のなさが悔しい気持ちです。

ただ、少し前に読んだ『奇想の図譜』で出てきた「文化は飾りから始まった」という表現については、たぶんホイジンガに言わせれば、「一緒のことだよ」といいそうだなぁと思いました。
それは祭祀に関連があり、決められた様式(キャンパスとしての素材)があり、しかも楽しんで作られたのですから、辻氏が述べられていた「飾り」とはすなわち遊びの一つの形式であり、遊びに含まれるものだったのではないかなと思います。
特に戦の際に頭にかぶった個性豊かな造形の兜などは、まさに「遊び」の体現だと思われるのです。
(西洋の鬘とは言い合いが違うものの、結果の形態が近づくというのも面白いですね)
【読了】奇想の図譜
【読了】奇想の系譜

私としては「無駄」なことにこそ、遊びがあり、「無駄がない」「無駄を許せない」状況では「遊び」が存在できないということだと読みました。
そして、著者はどんどん世の中から遊びの要素がなくなってきているように感じているのではないか、そんなことを感じました。
その点、古来からあらゆる飾りを試みてきた日本という国は、結構遊び好きだったのかもしれません。

ホイジンガはローマ時代を指して、遊びが抑圧されると、人は遊びを求めるもので、その結果が「パンと見世物遊びを」につながるというのですが、和歌が栄えた平安時代、浮世絵の広まった江戸時代も、これに近いものがあるのではないでしょうかと考えてしまいます。
つまらない平和が、芸術作品を生むというつながりが見えてきはしないでしょうか。
逆に言うと、現代の戦争など、極端な合理性のもとに時代が邁進する時代では、芸術は生まれてきてないのではないでしょうか。
(そんな時に芸術活動にいそしんでいたら、何発ケツバットされるかわかったもんではありませんし…)
こういう観点で美術史を見ていくと、ちょっと面白そうだなぁと思いました。
しかし、戦争と美術の関連なんてのは、もしかしたら結構考察されているのかもしれません。
また、そもそもホイジンガは戦国時代の武士の世界にも遊びの要素が多分にあったといっていましたから、ちょっとこの理論は我ながら怪しい気もしています。
ただ、このことも、武士としての振る舞いを遊ぶことに夢中だったと解釈すれば、平和な時代(遊びが少ない時代)には、芸術という遊びに注力されるという流れは、そんなに不自然には思えない気がしてきます。
となると、現代はどうなのでしょうね?

また、本書の中で、その社会の「遊びへの関心度合」というものが、男性の服装でなんとなく見えるというのは面白い指摘だったと思います。
確かにそうかもしれませんね。
服装というのが世情を表すということは感覚的には分かる気がします。
しかし、男性にその相関があることを指摘するのは、おそらく歴史を長大なスパンで見てきた著者だから捉えられたことなのかもしれません。
服装は、ある意味着用する芸術ともいえそうです。
そう考えると、服装から文化史を見ていくのも、なかなか面白そうですね。
と思ったらすでにそういう本があるようでした。



浮世絵を見る際には、服装への理解も必要でしょうから、そのうち読んでみたいと思います。

 

テレビってちょっとやばくない?

GWなので、実家に帰ってきております。
帰省をしてギャップを感じることは、それはそれはたくさんあるわけですが、その中でも「テレビがついてる」というのは大きなギャップの一つです。

我が家では主に録画した番組しか観ないので、思いがけず面白い番組出会うということはありませんが、実家でテレビをなんとなく観ていても、別段面白い番組はやっていないように思います。
それよりも、「こんなんでいいのか?」というような内容の放送が多い気がします。

というのも、たまたま放送されていた池上彰さんの番組で、最近ニュースに関係する問題を20字で説明してくださいという企画があったのです。
この企画、結構やばい。
やばいというのは、「考える力を奪う」可能性が高いという意味です。

例えば「なぜ消費税を上げる必要があるのか?」という問いが出て、模範解答として「高齢化社会に伴い社会保障費が不足するから」というようなものが挙げられていました。
このどこがおかしいかといえば、「そもそも消費税を上げる必要があるのか?」という問いがすっぽ抜けているという点や、「消費税を上げる以外の方法はないのか?」という問いがないわけです。

尺やスポンサーの意向などもあるのかもしれませんが、ともすれば「へぇ」と思いかねない展開とキャスティングで、しかも論理的な説明も大してされないから、疑問を挟む余地があまりない。
いわゆる識者と思われている方が一方的で一義的な解説をします。

多分この番組を観た人が、私みたいな奴から「なんで消費税上げなきゃいけない前提なの?社会保障費が足りないのに社会保障の制度を変えないつもりなの?消費税上げて困るのは貧乏人だよね?それになんでデフレなのに消費税を上げるわけ?」みたいなことを問われると多分「あーあまたなんか言ってるぜあいつ。ちょっとやべーから無視しよう」みたいな対応を取ることでしょう。
上の消費税の話のように「これはこうですよ」とだけ説明されてしまうと、自分でこれがこうなんだなと論理が追えないから、それが常識として捉えてしまうおそれがあるのです。
そうなると、別の意見を聞こうとしないし、聞いても聞く耳を持たない。
それが非常に危ういと感じます。

テレビ番組がこんな番組ばかりなのかどうかは知りませんが、もしそうなのだとすれば若者のテレビ離れなんて大いに歓迎すべき事態だと言わざるを得ません。
制作サイドもわかりやすさを重視しているのでしょうけど、ここまで行くとテレビはバカ製造機だと思えてしまいます。

ちなみに、「これはこうですよ」という説明に疑問を持ち、それを問い詰めていくのが「大学の学び」です。
こうしたテレビが放送されているということは、まだまだ、大学の学びが世の中に浸透していないように感じます。

やっぱり導入しようよベーシックインカム

【読了】妻たちの思秋期(斎藤茂男著、講談社+α文庫)
の続きです。

『妻たちの思秋期』を読むと、男女の平等はどこに置くべきなのか?ということを考えてしまいます。
男と女は生物学的に見てもかなりその生態に違いがあります。
(例えば月経や妊娠・出産など)
あくまで肉体的に、という意味のおいては、男のほうがあまり変化がなく、安定していると言えるでしょう。
だからこそ、会社という組織に属する歯車としては、男のほうが都合がいいのです。

しかし、この前提で物事を話していくと、どうしたって女性は勝ち目がありません。
だってそれは生理的なことだから。
それは背が高い人のほうが出世に有利(そんな会社があればの話ですが)というくらい理不尽なことに思われます。
とはいえ、こうした流れは急には変わらないでしょう。
ましてや日本の場合には解雇ができませんから、ことを慎重に進めるだろうと思われます。

じゃぁどうすればいいか。
とりあえずベーシックインカムを始めましょう。

夫婦のトラブルでも、一番の問題は「お金」のことだと思います。
お金のことさえ解決できれば逃げられる女性が多いというのが現実ではないでしょうか。
また、離婚による貧困で困るのも、ほぼ女性でしょう。
子の面倒を見るのも多くは女性でしょうし、育児や主婦でブランクのある女性が正社員で就職できてかつ子を育てられる収入が得られるかといえば、かなり厳しいはずです。

だから、女性限定でもいいのかな?とも思いましたが、そうすると、多分女性は肩身がせまくなることでしょう。
「男に食わせてもらえていいな」的な嫌味を言うやつが出てくるでしょう。
そんな社会で果たして自己実現ができるかといえば、厳しいように思います。
だから、さっさと全員への支給を始めましょうよ。
始めてしまえば、世の中の流れを変えるきっかけになると思うのです。

  

【読了】妻たちの思秋期(斎藤茂男著、講談社+α文庫)

先日読んだ『酒飲みの社会学』(清水新二著、素朴社)で紹介されていた『妻たちの思秋期』を読みました。


【読了】酒飲みの社会学(清水新二著、素朴社)

専業主婦が主人公の短編小説だと思って読み始めたのですが、大いなる勘違いでした。
前半では専業主婦としての悲しみや虚しさを酒で埋めることからアルコール依存症に陥った主婦たちが描かれており、後半では酒で埋めることなく離婚というアクションを取った主婦たちにスポットライトを当てた、れっきとしたルポルタージュです。
重い。

妻たちの言葉だけでなく、様々な取材を通して、いろんな視点から問題を切り取っており、非常に踏み込んだところまで書かれています。
私は記者という仕事を少々軽く見ておりました。
当たり前に存在している常識に対して、取材と文で世の中に疑問を投げかける素晴らしい作品だと思います。
本作で問われていることは「男と女、これでいいのか?」ということになると思います。

本書に出てくる女性たちは、「まーなんでこんな夫をもらっちゃったのご愁傷様」というくらいひどい男たちを夫にしています。
いずれのカップルも知り合ってから結婚までが短く、何かから逃げるようにして結婚をしているケースが多いのですが、それにしたって、ねぇ? という感じです。
しかし、こういう感想は、「自分は大丈夫」という前提から見ているわけであって、「果たして私は大丈夫なのか?」と考えない訳にはいかない。
少し家の中での身の振り方を省みるべきなのでしょう。

精神科の話(実際あっていない男を分析するのはいかがかと思いましたが)の中で、「結婚は自立した大人同士がしないと、ベッタリと寄りかかった関係になり、不幸なものになりかねない」と指摘しており、本当にそのとおりだなぁと思わされます。
しかし、一方でそうした認識が浸透したら、結婚する人は多分減るだろうし、少子化はどんどん進むに違いないと思います。
ここをどう考えるかが女性の権利拡大派になれるかどうかだと思います。
私は、たとえ少子化が進んだとしても、権利拡大路線に切り替えたいと思いました。

ある女性から、下のような投稿が届いたと紹介されます。

<夫との距離に心傷つき、アルコールで全てを麻痺させようとする妻の姿は痛ましい。だが、今の日本の妻たちにとって、教育ママになることも、亭主のおしりを叩くことさえも、かたちを変えたアルコールではなかろうか。夫たちにしても、身も心も捧げ尽くしている"仕事"というものが、その実、形を変えたアルコールではないか>(『妻たちの思秋期』P151)
この言葉を読んだときに、『マインド・コントロール』(岡田尊司、文春新書)に出てきた以下の言葉を思い出しました。
デビーはこう語っている。「貧者の面倒を見ることも、株式を公開して100万ドルを手に入れることも、最終的な目的は同じなのです。自分の苦しみは何らかの形で報われるはずだと思う。そうして人は広い視野を失ってしまうのです」と。(渡会圭子訳『隠れた脳』より)(『マインド・コントロール』P35)
これらの言葉の底流には「脳にとって耐え難い状況」があることが考えられます。
だからこそ、思考を止めて「あるべきとされてきた役割」を演じようとするのでしょう。
妻たちは、自分の視野を極端に狭くして、自らトンネルに入り込もうとしているのかも知れません。
そして、そうせざるを得ない状況が、そこにはあったということでしょう。
【読了】マインド・コントロール

X先生は、統計やアンケートでは上がってこないであろう事例の回収に本書が成功していると評します。
結局、統計やアンケートは個々人を一つのサンプルに押し込んで全体の傾向を見るものですから、一つ一つの家庭にある小説よりも奇なる夫婦関係というものは、出てこない、というか出さないようにするのが統計・アンケートなのでしょう。
したがって、こうしたルポによって切り出すのは、非常に意義があるということですね。
しかし、ルボだけに頼れば、恣意的な、偏った記事になることも懸念されます。
ということで、やはりミクロとマクロの両方で物事を見ることが必要なのだということでしょう。
分析だけでは足りないし、特定の事例だけでは間違った方向に舵取りしてしまう。
冷静に、いろんな視野を持って、どうしていくべきなのかを考えることが必要ですし、まずはそれを「個人のレベル」で考え、実践していくことが重要なのだろうなと思わされました。

そのためにも、まずは「労働至上主義」を廃したいと思います。

子どもたちに美術鑑賞の楽しみを

理系以外に大学で勉強する必要がどこあるのか?というのは、私が大学へ進学するにあたって考えていたことです。
大学を卒業して10年近く経ちますが、まぁなんと見識の狭いことかと恥ずかしくなります。
いろいろな本を読んでみれば、理系でなくても大学に行く意義は非常に大きいことに気づきます。
特に、美術の世界を覗いてみると、大学教授の先生方や美術史家の先生の功績は非常に大きいと思います。

どう貢献しているかといえば、作品の凄さに何らかの影響を与えている、という意味ではなく、庶民が美術を楽しむのに非常に役立つ知見を数多く提供している点が挙げられます。

素晴らしい作品は、たいてい何か別の素晴らしい作品(作風)に立脚しているものです。
あるいは、そういう流れからではなく、彗星の如く飛来した天才もいるでしょう。
いずれにしても、歴史という基準を知らずしては、美術の面白さは半分近かく失われるはずです。
どんな作品を師としたのか、そしてそれをどう越えたか、どんな時代背景で書かれたか、何を意図しているのか、こういった問について、専門の教授や美術史家たちが時間をかけて推察した仮説や結論は、様々な要素と絡み合って私たちに迫ってきます。
大いなる伏線回収を美術史家の皆さんはされているのだと言えましょう。
このことに気づいたとき、私は美術鑑賞の楽しさに目覚めました。

私個人は、そもそも絵心というものが欠落しており、小中高と美術の授業がからっきしだめでした。
大概、技術を持ち合わせない実技の授業は辛いものです。
音痴の音楽、足の遅い体育、不器用な家庭科、いずれも苦痛でしょう。
私にとっては、美術はそれらと同列のものでした。
すなわち、絵心なき美術ですね。

しかし、自分の能のなさを棚において振り返るならば、どうして美術が実技に重きをおいていたのか、それが気になります。
(この思いの半分は、絵心ない者の僻みです)
もっと鑑賞に力を入れても良かったのではないか。
実技としての美術は、興味のある子が放課後に習えばいいのではないか。
そんなことを思います。

芸術は、その存在にすでに価値があります。
芸術との向き合い方は、自由だと思いますが、ある作品と向き合って自分が下した価値と世間が下している価値のギャップを見つめるという授業も、なかなかおもしろいのではないでしょうか?
こうした「自分はどう面白いと思ったのか」を掘り下げる練習をしておくと、芸術鑑賞のハードルを下げることにつながると思います。
また、鑑賞に上手い下手はなく、自分が面白いと思えるかどうかが重要である、という気づきは、日常生活においても自身を助ける気づきだと思われます。
面白いと思えない理由も含めて考えることができるとしたら、多分もう大学入学資格は与えてもいいのではないかとさえ思えます。

「美術鑑賞なんて教えて何の意味があるのか?」と問われれば、「様々なきっかけを与えることができるのではないか?」と答えたいです。
芸術に興味を持てば、歴史に興味を持つようになります。
また、言語や文化にも関心を持つことでしょう。
題材に目が向くならば、自然科学に興味を持つ子も出てくるかもしれません。
これが役に立つかどうかはまた別のお話ですが、少なくとも少しだけ人生に幅ができるはずです。

初等教育においてはひとまず絵を描くという身体的な授業があることは構いません。
友だちと楽しく、のびのび書けばいいのです。
しかし、中等教育以降においては、ぜひとも鑑賞にも、もう少しウェイトを置いていただければ、子どもたちの将来が、より豊かになるのではないかと、そんな期待をしています。
(とはいえ、私が中高生だったのは、もう20年近く前なので、今はもう授業も変わっているかもしれません)

“有能さ”ついて(『「官僚とマスコミ」は嘘ばかり』から)

「有能な人間」と聞いて、どんなイメージを持つかは、多分人によってかなり違うとは思いますが、だいたい何パターンかに集約されることでしょう。
・人柄でみんなのまとめ役になるタイプ(スラムダンクの小暮先輩 等)
・個人としての能力が高い職人タイプ(ブラックジャック 等)
・時代の先を見て牽引するタイプ(スティーブ・ジョブズ 等)
などなど、まぁ上げてみればいくらでも上がるでしょうけど、こんなところではないですか?

私の中では、有能の最たるものは漫画「ヒストリエ」のエウメネスや「シン・ゴジラ」の矢口などがそうなのですが、どこがどうすごいのか、いまいち自分でも言葉にはできないでおりました。
そんな中、先日読んだ『「官僚とマスコミ」は嘘ばかり』で、以下のような表現が出てきて衝撃が走ります。

本当にできる財務官僚は、「人間的魅力」と「使命感」と「友だち甲斐」で人脈を広げていける人たちです。(中略)日本のできる官僚たちは、そのようにしてできあがった人脈を武器として国を動かしていくのです。(中略)だからこそ、先ほども述べたように、机にへばりついているばかりの官僚は「能力がない」と見なされるのです。(中略)官僚たちがそのような役割を果たしてきたことは、「国を動かす」ということを考えた場合、けっして悪いことだけだったわけではありません。(『「官僚とマスコミ」は嘘ばかり』P145〜147)

そう、まさにこのことが言いたかったんです。
人を巻き込んで、大きなことを動かしていく、そして、自分はトップではないけど多くの人間関係の中心にいて全体の方向性をコントロールできる、そういうことが“有能”なんだーー。
(このように他人の文を読んで自分の考えが適当な表現を持つというのも、読書の楽しみの一つですね)
しかし、こういう能力というのは、「才能」による部分が大きい気がします。
見た目もあるでしょうし、性格もあるでしょうし、家庭や友達の環境も大きいのでしょう。
つまるところ、「運」と言えると私は思います。
(努力できるのも才能ですから)

こういう“有能さ”というものは、残酷ながら人間社会においては普遍的なアドバンテージだと思います。
どんな組織、団体であっても、優秀な財務官僚のような人間は求められるでしょう。
しかし、頑張ってこういう人間になろう、と考えるのは、不幸な考え方ではないかと私は心配してしまいます。
同様に、「頑張って官僚になり、国を動かせ!」という叱咤激励も、励まされる側にとってはおせっかいで、危険な気づかいではないかと思われてなりません。
いかに使命が大きく、やりがいのある仕事だとしても、合わない人には絶対合わないし、こういう仕事が合う人というのはとても限られた人間だと思うからです。

冒頭でも書いたように“有能”の価値観は、個々人違います。
そして、何よりも有能かどうかは、他人が決めるという点に注意が必要です。
新自由主義的な発想であれば、当然有能な人のほうが市場価値が高いので、そこを目指しましょうという発想につながることは想像できます。
そりゃ一般論でも、無能と言われるよりは、有能だと言われたいでしょう。
ただし、皆がみんな、有能に生まれてこれるわけではありません。
ですから、有能を目指す、という考えに縛られると、自分がなんなのか、わけが分からなくなってしまうのではないかと心配してしまうのです。

AIが発展して、これまで普通に生きてきた「特段有能でもない人」たちは、仕事を失う可能性が大きくなってきます。
そうなると、BIのように、働かなくても生活を保証する仕組みが導入されることでしょう。
というか、そうならないと、皆死んでしまいます。
関連記事
【読了】AI時代の新・ベーシックインカム論(井上智洋著、光文社新書)
汎用AIがBIを連れてくる?(AI時代の新・ベーシックインカム論から②)

仕事がなくなっても、生きられる時代が来るのであれば、人生をどう幸せに生きるか、ということが重要になっていくと私は思います。
その視点に立ったときに必要なのは、むしろ「自分の能力はどのへんなのか?」ということ知ることではないかと思います。

もちろんそれは自分の限界を知ることですから、面白くありません。
でも、気持ちは楽になるでしょう。
気持ちが楽になれば、自分の生きられる世界の中で、面白いものが見えてくるはずです。

私の持論ですが、暇になれば、人間は学びます。
また、学びとは、すなわち遊びです。
学んで遊ぶといえば、研究者ですね。
つまり、働かなくてもいい時代と言うのは、世の中の皆が研究者になれる時代なのです。
人からどう思われても関係のなく、自身の興味のある研究に没頭できる世界。
成熟した社会というのは、そういう社会のことを言うのではないかと、そんなことを考えさせられました。

そして、そんな社会になったら、有能の意味合いも変わっていくのかもしれません。
本の内容とは関係ないですけどね。

余談ですが、先日根津美術館で聴いた奥平先生の話では、貴族の遊びに「和漢聯句」というものがあったそうです。
これは最初を和語の句で始め、以下五言の漢詩句と交互に詠み進めるもの(デジタル大辞泉から)だそうで、要するに連想ゲームみたいなものなのでしょう。
こういう遊びをした、ということが当時のお偉方の周りの人の日記などから確認ができるそうです。
そして、こうした遊びは、一度始まると三日三晩続いた、なんてことも書かれているのだとか。
遊び方が半端じゃないですね。
多分求められた教養も半端じゃなかったんでしょうけどね。
こういう例を聞くと、文化が遊びから生まれたという論がしっくり腑に落ちる気がしてきます。
【聴講】燕子花図と洛中洛外図(奥平俊六さん)@根津美術館

  

【読了】「官僚とマスコミ」は嘘ばかり(髙橋洋一著、PHP新書)

『「官僚とマスコミ」は嘘ばかり』(髙橋洋一著、PHP新書)を読みました。

この作品は、先日『AI時代の新・ベーシックインカム論』(井上智洋著、光文社新書)を読んで、財務省がHPで堂々と国民をミスリードしようとしていることに衝撃を受けて手に取りました。
国家レベルの虚言(AI時代の新・ベーシックインカム論から①)

本作で種明かしされるのは、官僚がいかにしてマスコミをコントロールしているのかです。
それに付随して、コントロールされてしまうマスコミとはどんな人たちなのか、ということも書かれていました。
なんとなく、記者というと、ジャーナリズムという高い志を持った、知力・体力・気力に活気あふれる人種というイメージがありますが、本書で語られる記者は知識がなく、数字が読めず、官僚の言いなりという姿が描かれています。
また、新聞やテレビというメディアは、法律に守られている存在であることも明らかにされます。
どんなふうに守られているかは、著者のWeb記事をご覧になってください。
こんなんでよく世の中のことが批判できるなというふうに思ってしまいます。
新聞テレビが絶対に報道しない「自分たちのスーパー既得権」(講談社現代ビジネス)

その他にも、例えば「フィリップス曲線」という金融政策を実施する上でインフレ目標を決める道具も紹介されていました。
インフレの状況は、常に失業率と関連して説明されるのが海外では当たり前で、インフレが進んでも、フィリップス曲線に当てはめてみて、失業率がまだ下限に達していないのであれば、金融政策を緩めてインフレに進めればいい、ということが自動的に決められるという便利な道具です。
ちなみにこの失業率の下限の始まりの場所(最小のインフレ値)をNAIRUという言うそうです。
(豆知識です)

つまり、新聞等でよく聞く、インフレ目標2.0%と言うのは、日本におけるNAIRUを目指しているわけですね。
なんで2.0%と思っていましたが、根拠があったのです。

また、著者も井上氏と同様、「財政再建には反対」の立場を取っておられます。
結局バランスシートで考えたときに、日本の財政は諸外国と比べても、そんなに悪いわけではなく、アメリカと比較しても健全で、むしろもっと積極財政を行わないとダメだとの主張です。
なお、外務省も、外国で国債を売るときには、バランスシートを使っているようです。
いかに健全なのかを伝えないと、買ってもらえるわけありませんもんね。

こうして考えると、果たして新聞とは?テレビとは?と思ってしまいます。
一次情報にアクセスしやすくなった今の社会で、報道機関とはどういう役割が求められているのかを改めて問われる必要がるように思います。
ぜひともメディアに市場経済の原理を働かせていただき、第四の権力として、既存の権力に鋭いメスを入れていただきたいと思います。
そのためにも、広く浅い記事ではなく、「経済なら〇〇新聞」「教育なら〇〇新聞」「政治なら〇〇新聞」というように、個性を強めていってほしいと思います。
そうすることが、官僚との間に緊張感を生むことにもつながるでしょう。
私は新聞を購読していませんが、そんなふうになったら私も何か購読するかもしれないなぁと思います。

いろいろな見方をする必要がありますが、自民党も、官僚も、いいところとだめなところがあるということを感じます。
極端はあまりないようです。
マスコミが盛大に何かを報道するとき、だいたいは裏にマスコミの思惑がありそうです(例:モリカケ等)。
また、本書を読むと、安倍政権は経済政策においてまともだという印象を持ちます。
実際はどうなのか、私には結論が出せませんが、少なくとも雇用は回復しているし、経済政策も誤ってはいない感じ。
賃金上昇という目に見える効果が出るのは、どうもこれからのようです。

それから、官僚も有能な人が働いてくれているのだろうな、と少し安心しました。
なんとなくドラマなどの影響なのか、官僚と政治家は悪いやつばかりというイメージがありましたし、また、本書の中でもしょうもないのもいるような描写もありました。
しかし、それもやっぱり極端な話で、殆どの人は誠実に働いているんだろうなぁと思わされます。
じゃなきゃ、とっくにもっと大変なことになっているように思われます。
(とはいえ、消えた年金問題なんかのように、大変なことになっちゃった例もありますが…)

最後に、昨今の研究への助成に対する「選択と集中」についても、非常に珍しい理系出身の財務官僚として、疑問を投げかけています。
結局研究とは博打で、ハズレは多いが、当たればすごいことになる。
どのくらいすごいかというと、ハズレを全部取り戻してあまりあるくらいにすごいことになる。
ところがどっこい、(選択と集中をすると言っても)当たるかどうかは、やってみないとかわからない。
だから、投資と考えるべきだ、という論ですね。

これは、教育に関連する仕事をしている人間としては、非常にありがたい気持ちと、そのとおりですよね、という共感の気持ちがわきます。

研究とは、長期にわたるものです。
そして、成果が出てくる可能性は未知数です。
でも、それをやらなければ、革新的な技術発展はありえない。
であるならば、未来のために投資をしようという発想は、至って当然の発想であるように思います。
「明日の便利より、今日の飯」という状況の方ももちろんいるでしょう。
しかし、国の方針として、やはり未来の世代のことにも思いを馳せて予算を分配してほしいと思います。
そして、それは理系の技術的なものだけではなく、文系の文化的なものについても同様に発展と保存を目指して、支援をするべきではないでしょうかーー。

と、そんなことを思ったのでした。

【鑑賞】尾形光琳と燕子花図@根津美術館

【聴講】燕子花図と洛中洛外図(奥平俊六さん)@根津美術館
の続きです。


さて、講演後には、改めて展示を拝見いたします。
お目当ての『燕子花図屏風(かきつばたずびょうぶ)』(国宝、根津美術館蔵)ですが、六曲一双の屏風を生で見ると、やはり違います。

金のグラデーションにのっぺりとした質感の燕子花が並んでいるだけなのですが、よく見ると青の色も花弁ごとに違うんですね。
(帰って本で確認すると、たしかに違ってましたが、気づきませんでした)
また、他の作者の燕子花を題材にした作品と比べると、燕子花の花弁が随分ぽっちゃりと強調されていることもわかりました。
とてもアンバランスな感じなのに、調和が取れているようにも見えるのが不思議な感じ。

こういう地が金の作品は、印刷や画像と現物では受ける印象がだいぶ違いますが、本作も同じ印象でした。
また、サイズが思っていたよりも大きく、現物を見ていると屏風の中に没入している感じがしてきます。
(奥平先生いわく、本作は伊勢物語の在原業平が「かきつばた」の歌を読んだ時に見ている燕子花をイメージしているとのこと。見る人を、在原業平にさせようとしているのではないか、というような話をされていました)

本展示の、もう一つの目玉である『洛中洛外図(根津本)』も見てきましたが、これは大変おもしろいですね。
前の記事でも書きましたが、これを見ながら京都巡りを是非したいと思いました。
なぜデジタルデータを公開してくれないのでしょうか。
デフォルメしたものをショップで販売してほしい!
他にもお伊勢めぐりの絵もありましたが、こちらも販売してくれ!

他の作品としては、光琳のお父さんの作品なんかもあります。
光琳はお父さんも芸に通じていたのですね。
弟も焼き物をやっているし、芸術一家だったようです。
また、光琳の周辺の人の作品も多く展示されていました。
全体としての展示は多くないことから、光琳自体の作品は割合としては少なめな印象です。

常設展では、茶器や箱も展示されており、日本人の生活品への芸術意識がどんなものであったか垣間見ることができます。
よく日本人が独創性のないコピー民族だという考えは、多分戦後の高度成長期以降のことなのではないでしょうか。
こんなに芸術が庶民にまで広まっている国はないのではないでしょうか、と思えてしまいます。
(浮世絵なんかがいい例ですよね)

根津美術館は、建築物としても、非常に洗練されていました。
根津美術館は、閉館が17:00のため、講演を聞いたあとではあまり鑑賞する時間が長くありません。
従いまして、できれば午前中に展示を鑑賞し、カフェで昼を食べ、庭を散策した後に講演を聞くという流れが良さそうです。
次はそのようなスケジュールでお邪魔したいと思います。
(家で相談したら連れに怒られそうですが…)

【聴講】燕子花図と洛中洛外図(奥平俊六さん)@根津美術館

東京の南青山にある「根津美術館」で開催されている「尾形光琳の燕子花図」に行きました。
根津美術館
初めて根津美術館にお邪魔しましたが、庭が広いんですね。
庭の池にはたくさんの燕子花が育っており、4月下旬から5月上旬にかけて見頃になるのだとか。
そのタイミングで来ればよかった。
場所柄か、外国人の観光客も多かったです。
おいでになる方は、庭の散策も含めて、時間に余裕を持っていかれることをおすすめします。

一面の燕子花。咲いてるときに来たかった…。
さて、お目当ては『燕子花図屏風(かきつばたずびょうぶ)』(国宝、根津美術館蔵)ですが、その前に、イベントに参加しました。
イベントとは、大阪大学名誉教授の奥平俊六先生による「燕子花図と洛中洛外図」という講演のことです。
無料ということもあって、初めてこうした美術関連の講演会に参加しましたが、定員130名の会場は満席で、大変な賑わいでした。
皆さんメモを取りながら熱心にメモを取られています。
奥平先生が燕子花図のモチーフのところで、「から衣 きつつ慣れにし つましあれば はるばる来ぬる たびをしぞ思う」をうっかり失念してしまったときなど、聴衆から返答があって驚きました。
皆さん大変造詣が深いようでいらっしゃいます。

奥平先生の話は、大きく(1)「燕子花図」、(2)「洛中洛外図」についての講演とレジュメにはありましたが、ほとんど燕子花図パートについての話で、しかも燕子花図はあくまでも導入で、「藤袴図屏風」についての話に多くの時間が割かれていました。
そもそも、この時代の美術作品においては、能=謡曲の概念が非常に重要で、様々なモチーフが謡曲に存在し、そこから絵画に表現されたと言うことを伺いました。
藤袴図屏風についても、モチーフは謡曲にあり、かつ当時起きた紫衣事件を通じて表現したかったのではないか、というような話をされていました。

この話のポイントとしては、画家にこうした謡曲の知識やそのモチーフを風刺だったり、時代のイベントにつなげるということを、画家が単独でやったわけではないということ。
例えば、上の藤袴図屏風で言えば、宗達に書かせたのは誰か?ということです。
紫衣事件に近しく、かつ、叢蘭秋風という言葉をよく理解する者だということではないか、つまり、非常に尊い人なのではないか、と奥平先生は推測します。
(ちなみに、実は叢蘭が藤袴を指すというのがポイントです)
こういう話を聞くと、今後「誰が発注したのか?」ということも気にかけることができるようになりますね。

と、こんな話が90分も続きます。
へぇ、なるほどなぁ〜という感じ。
こんな風に90分もまるまる楽しそうに美術の話ができるってのは、すごいことだなぁと思いますし、そのベースには何十年とかけて作品と歴史と文献をつなげていく仕事があるのでしょう。
素晴らしいことだと思います。
ところどころ笑いどころもあり、あっという間の90分でした。

短かった「洛中洛外図」においては、「景観指標」というものも知ることができました。
景観指標とは、それがあることで、いつごろのことを描いたのかわかるという目印のことで、例えば京都で言えば二条城の天守が移動しているかどうかで寛永3年の前後どちらなのかがわかるそうです。
そういう豆知識を聞くと、ちょっとおもしろいですよね。
ぜひとも、洛中洛外図を片手に京都中を歩き回りたいと思いました。


本と違って、人の話を聞くと、「余談」があるのが大変おもしろいですね。
一見つながらない話の展開が、新しい発想や発見を生むように感じます。
本だけでは行き詰まることが、講義によって新しい理解をつかむことに繋がることがありそうです。
大学の講義はつまらない、という話しを聞きますが、ひょっとしたら、聞く側にも多少問題があるのかもしれませんね。
実際、大学の先生の話は、私にはとても興味深い話ばかりです。
あるいは、たまたま私の運がいいのかもしれませんが。

【鑑賞】ジョイス・スペンサート展@NANZUKA(渋谷)

東京の南青山にある「根津美術館」で開催されている「尾形光琳の燕子花図」を見に行く途中、渋谷のアートギャラリーである「NANZUKA」に寄ってみました。
なんとジョイス・スペンサートさんの展示がこの日から始まったようで、見ていくことにしました。

ジョイス・ペンサートさんは、アメリカ人女性アーティストで、アニメーションのキャラクターを大きくペイントなどで描く作家さんのようです。
少し不気味で、悲しげな印象の作品が多い印象です。

展示室の奥にあるのはバッドマンのオマージュでしょうか。
悲しみと怒りから来る咆哮を感じさせる表現で、とてつもない激しさを感じます。
#NANZUKA #joicepensato #JoicePensato #ジョイス・スペンサート

また、シンプソンズのパパもなんだか憂いをたたえた表情がなんともいえず面白い。
#NANZUKA #joicepensato #JoicePensato #ジョイス・スペンサート

世の中には、こういう作家さんがいて、こんな作品があるんですねぇ。

ショップには佐伯俊男の小冊子も売っていて、買おうかと思いましたが、踏みとどまりました。
通り道の渋谷で、思わぬ出会いがあり、ありがたい限りでした。


#NANZUKA #joicepensato #JoicePensato #ジョイス・スペンサート

#NANZUKA #joicepensato #JoicePensato #ジョイス・スペンサート

【読了】もっと知りたい尾形光琳(中野啓子著、東京美術)

東京の南青山にある「根津美術館」で開催されている「尾形光琳の燕子花図」を見に行くため、予習として『もっと知りたい尾形光琳』(中野啓子著、東京美術)を読んでみました。

本書は、大変スッキリした内容で光琳の生涯と代表的な作品を紹介していました。
光琳が生まれるところから始まり、画家となり、江戸に行き、また京都に戻ってくる…それぞれに段階に光琳の芸術家としての影響があり、それらを代表作を通して観ていきましょうという趣向です。
最後には光琳の後の世代についても触れられています。

今回私が一番観ておきたかったのは、もちろん『燕子花図屏風(かきつばたずびょうぶ)』(国宝、根津美術館蔵)。
この絵のモチーフとなったのは、『伊勢物語』の第九章に出てくる「から衣 きつつ慣れにし つましあれば はるばる来ぬる たびをしぞ思う」という有名な歌の頭文字を取った「かきつばた」だと言われているようです。
(東国に向かう旅の途中で、妻を置いて来て、ここまで来たことを振り返る悲しい歌のようです。みんなこのあと泣きながらご飯を食べて、ご飯がふやけちゃったそう)

本書の言葉を借りるならば、この絵と向き合う時の知識として、
「かきつばた」から『伊勢物語』そして住み慣れた都を離れ東国に向かう在原業平の望郷の思い。一つのモチーフから生み出される様々なイメージ、そこに美術作品鑑賞の面白さがある。
ということを心に留めておくのは有益かと存じます。

さて、『燕子花図屏風』は、見れば見るほど引き込まれる、不思議な屏風です。
単調なのにリズムがあり、平面的なのに奥行きを感じます。
どんどん視線が横に、奥に、あるいは上に下に引っ張られていくような感じがしてしまい、あたかも自分がこの絵の二次元の世界に入ってしまったかのような感覚に陥ってしまうのです。
金の地に、のっぺりとした緑と青を乗せた絵にしか見えないのに、どこかアンバランスで、違和感を覚えさせ、一体何を語りかけたいのか? と深読みしたくなってしまうものがあります。
根津美術館での現物鑑賞が楽しみです。

また、燕子花で言えば、「八橋蒔絵硯箱(やつはしまきえすずりばこ)」(国宝、東京都美術館蔵)という面白い作品もあります。
これは箱の五面渡って橋をかける、ユニークなデザインで装飾された箱で、燕子花は貝を使って光る趣向が施されています。
美しさがたまりません。
色がいいのでしょうか? 多分それだけではなく、質感や素材の味、丸み、シンメトリーなデザインが一度見ると目を離せなくさせるのでしょう。
ついつい橋を巡って行ったり来たりしながら燕子花を鑑賞せざるを得ません。
こんなんよく思いつきますね。光琳さん。
そして、こういうふうに箱や焼き物にもたくさんの作品を残したのが、尾形光琳なのです。
弟の尾形乾山(おがたけんざん)は焼き物で有名ですが、合作も結構多いようです。

また、光琳は、もともと能が好きだったようです。
でも、遊び人だったようで、お金をバンバン使っちゃって、お金を稼ぐ必要があったことから絵描きになったとか。
本格的に絵描きになったのは、30歳の後半とのこと。
そんなんでこんな作品たちを残せるのだから、すごいことだなと思います。

その他にも、素敵な作品がいくつもありました。
メモとして残しておきたいと思います。
・仙翁図香包
・千羽鶴図香包
・金鶏雌図画稿
・竹梅図屏風
・松島図屏風
・風神雷神図屏風
・槇楓図屏風
・八橋図屏風
・孔雀立葵図屏風
・四季草花図屏風
・紅白梅図屏風
・(おまけ)百合図(乾山作)


【読了】酒飲みの社会学(清水新二著、素朴社)

酒飲みの社会学』(清水新二著、素朴社)を読み終えました。
酒飲みの社会学―アルコール・ハラスメントを生む構造酒飲みの社会学―アルコール・ハラスメントを生む構造素朴社
面白かったです。
参考文献の紹介が少なめなため、より深く知りたいなと思う点などはちょっと残念でした。
また、それ故に、「これって憶測なのでは?」という箇所がちらほらあるのも少し気になりました。
しかし、ストーリーは流れるようで、講義を受けているように感じました。
また、憶測ではないかとの箇所についても、その意見に共感できるという箇所が多く、親しみを持って読み進めることができたのが印象的です。
「研究者たちはこう言ってるけど、私はもっとこうだと思うんだよね」という感じが、とても中立的というか、人間味があるというか、あまり抵抗なく「そうですよねー」と納得できてしまう魅力があります。

著者は、日本における酒があることを前提にしている社会システムを「アルコホリック・ソーシャル・システム(ASS)」と名付けていました。
ASSとは、次のような事を言います。
①飲酒と集団的に共有された酔いのどちらに対しても寛容な飲酒文化
②アルコールが社会の組織化に決定的な役割を果たしている
③アルコールに対する構造的脆弱性
④許容と統制が同時存在する統合メカニズム
⑤以上の四点は、女性には必ずしも当てはまらない。
(『酒飲みの社会学』P67)
日本では共に飲むこと以外に、共に酔うことが求められているといいます。
共に酔うことで、ソトの人間をミウチ化してしまおうという思いがあるようです。
そうしたミウチ化が組織形成や社会形成に必要だという認識が共有されているがゆえに、 飲むことで組織感の意思疎通も図りやすく、それがまた個々の関係形成に酒を必要とする状況に還元されているということですね。
また、日本のアルコール依存症の患者は5万人だが、予備軍としては240万人いると書かれていました。
その背景には「アルコール依存症=逸脱した人」という認識が未だに根強く残っていることがあります。
こうしたレッテル貼りは、かなり強い抑止力として、酒以外にもあらゆる反社会的な行動を抑える力を持っているとのこと。
日本は、こうした他者の目で社会をコントロールする社会なのですね。
それは、一方では犯罪率の低さなどにつながっているわけですが、一方では生きる選択の幅が少ない社会を作っているという側面もあるようです。

日本の酒文化の特徴としては、①共に飲むこと、共に酔うことが求められている②しかし飲んで失敗することは破滅を意味する③そうして逸脱した人はなかなかそこから回復できない④みんなにそういう理解があるから、酒害にあっている人が酒害を認めず、結局医療につながらず、症状がどんどん進行してしまう、ということが挙げられそうです。

また、女性の飲酒にも触れられており、興味深かったのは、キッチンドリンカーについての紹介です。
ことお酒に関しては、非常に女性というのは不利な立場というか、かわいそうな立場にあるということが強調されていました。
理由としては、
・まず肉体的に、男性よりもアルコール依存症になりやすい。
・夫が依存症の場合、離婚しても自活が難しい。
・自分が依存症になった場合には、離婚を言い渡される(かつ、自活が難しい)
という点が挙げられます。
このことは、要するに女性の社会的な立場がまだまだ弱いことを表しているとしか思えません。
女性が経済的な理由からまだまだ弱い立場であるということを痛感します。
この辺の解決には、おそらくベーシックインカム的なものが役に立つでしょう。

また、キッチンドリンカーは高度経済成長を超えて経済的に豊かになった家庭が増えるのとともに、専業主婦が現れたことによって、出現し始めたようです。
面白いのは、それまで女性もちゃんと働いていたということが書かれていて、目からウロコでした。
以前は女性が働きながら子育てをしていたということを知ると、今の社会の余裕の無さがより強調されるように感じます。

だから昔はよかったのだなぁというのは、その昔の一面しか見ていないという情報不足による帰結だと思いますが、今と昔でどう違ったのか、なぜ昔は働きながら子育てができたのか、を調べることは無意味ではなさそうです。

また、そもそも昔は酒造りも女性の仕事だったのだとか。
日本人は、「ハレの日」に酒を飲むという文化なのだそうですが、そうしたハレの時には、女性も結構飲んでいたそうです。

辞令交付式への違和感(みんなよく参加するなぁ)

 今日は4月1日。  我社では辞令交付式が行われました。  そのため、土曜日ですが、人事課員として出勤しました。  明日も仕事なので、12連勤となります。   人事課の闇ですね。  それはさておき、辞令交付式に関して、毎年違和感を持ちます。  それは、お礼を言われる側が、何故かホ...