【読了】街場の大学論(内田樹著、角川文庫)

『街場の大学論』(内田樹著、角川文庫)を読みました。


『下流志向』などの内容といくらかかぶるところはありましたが、少し古めの記事が多いような気がします。
しかし、最後まで読めば、しっかり前半の認識の誤りを訂正している箇所があり、「あぁやっぱりいつもの内田先生だね」という感じで読み終えれました。

以下、備忘。

1.学生の質について
 学生の質は下がらざるを得ない。
 なぜなら入試とは同一集団内での自身の立ち位置によって合否が決まるものであるから。
 18歳人口という分母が小さくなる上に、大学の定員数は拡大するという状況は、ようする年々同じ学力なら上の大学に入りやすくなることを意味する。
 (絶対的な学力に対するボーダーラインがどんどん下がっていくわけですね。)
 だから、同じ大学に入るのに、10年前と同じ量の勉強をする必要が無いということ。
 このことが大学の質低下の原因と考えられる。

2.評価について
 正しい評価をしようとすると、全体を規格化しなくてはならない。
 そうなると、有能な人も規格に当てはめることになる。
 A.働かない人を働かせて、働く人を枠にはめ込む
 B.働かない人は無視してして働く人に気持ちよく働いてもらう
 という2択について、どちらのほうがメリットが多いかを考えるべき。
 ちなみに、A.であれば、全員が雇用契約書通りにしか働かないことになる可能性が高い。
 イノベーションは、Bのほうが起きやすいのではないだろうか。

3.文科省行政担当者の考え方
 これが、なかなかおもしろい。
 大変”話せる人”ではないか!というのい少々驚いた。
 文科省は…なんて考えていた自分が恥ずかしい。
 同じ人間なのです。担当者レベルでは色々と考えながら働かれていることを理解しました。
 そして、文科省からのメッセージについては、行間を読むことが大切なのですね、と言うのは目からうろこでした。
 つまり、大学に主体性を持ってほしいというのが文科省の考え方なのかなと個人的には理解したいと思います。
 でも、大学の設置規制をもう少し強めてもいいような気がします。

以上、備忘。

大学経営の問題の一つに、定員を満たさないと黒字にならないという点があるのでは無いかと思えてきます。
どうしてそんなにギリギリで経営をしてしまうのでしょうか。
大学人なのに、こんな問に答えられないことが非常に心苦しいのですが、人件費がかかりすぎなのでしょうか?

ということで、少し考えてみましょう。
年間70万円の授業料で150人(1学年の定員数)→1億5千万円
四年間だから、1億5千万円×4年→6億円
教員が30人体制なら1000万円×30→3億円
残りが3億円。
3億円を150人×4年で割ると…50万円
1年間に一人あたり50万円しか教育費をかけれないのか…
教員によっては1000万円/年どころではないでしょうし、教員の他にも事務職員だとか、非常勤講師分なども入るとすると、50万円でも心もとない気がしてきますね。

やっぱりお金かかるんだなぁ。
自分なんて2年間の卒論研究で100万円なんて吹いて飛ぶくらいの試薬とか溶媒を使いましたからねぇ…。
大学全体に撒ける助成金も決まっている以上、大学数が増えればそれも減るし、ほんとにジリ貧ですね。
人件費を下げれば、人材は流出するし、どうすりゃいいんですかね?
(助成金を増やせば解決する気もしますが)

また、定員や、教員数管理については、18歳人口は18年前にその変遷が読めるわけですから、ある程度文科省の方でコントロールしてもいいように思えます。
というかお上からある程度言わないと、どこも減らさないでしょう。
下のほうの大学が定員を少し減らしたところで、上位1割の大学その減少分を攫っていくような事態になりかねません。
ということで、偏差値の高い大学にこそ、規制をかけてはいかがでしょうか?
そうすれば、多分下に下に降りてくるはずです。
実際、昨今は定員厳格化によって、中間層の大学が潤っているはずですから。
…とここまで書いて、なるほど文科省の政策も、必ずしも変なことばかりではないのだなぁと思わされます。
23区内の大学は10年間定員増不可と聞いたときには、何してくれてんのか?と思いましたが、一大学人とは違って、制度としての全体の大学を見なくてはならない以上、全然視点や考え方が違うのかもしれません。
もう少し、「この政策は何を狙っているのか」について、頭を柔らかくして考えなくてはならないなと反省させられます。

結局、文科省としても、都市部の少数の大学を生き残らせたいわけではないのでしょう。
でも、やっぱり受験者の思いとしては、都市部に出たいものだと思います。
であるならば、やはり規制は必要だと思います。
人は都市部のみに生きるわけではありませんからね。
広く、可能な限り多くの方に大学の機能が享受されるようにするには何が必要なのか、一大学人として大学を考える前に、一市民として、大学のあり方を考えていかなくてはならないのかもしれません。

大学に求めることの違い

GoogleNewsを見ていたら、随分香ばしい記事が掲載されていました。
日本電産永守氏が語る「今の大学教育」への失望 カリスマ経営者が元東大教授と挑む大学改革(東洋経済ONLINE)

すごいですね、永守さん。
「(大学を)卒業しても英語も話せない。経済学部を出ているのに、企業の経理に回されても決算書さえ作れない」
「日本電産は世界最大のモーターメーカーだが、そのモーターの技術を学べる大学はどこにあるか」 
こんな思いで大学を作れちゃうんですね。
どうも上の書き方だと、専門学校のような気がしてしまうのですが…いや、それは私の勘違いですね。

また、以下の記述も大変気になります。
京都先端科学大学は4月1日に名称を京都学園大学から変更した。2018年3月に永守氏が大学を運営する学校法人京都学園(現・永守学園)の理事長に就任。100億円を超える私財を投じ、同大の改革を推し進める。
研究施設の建設が次から次へと実施や計画されるスピード感は、永守氏の寄付金と私立大学の組み合わせがなせる技だ。
理事長の寄付で改革が進んでるというのは、ちょっと怖いですね。
昨今はとある大学のスポーツ絡みの不祥事で、理事及び理事長への権力集中が取り沙汰されておりましたし、最近だと某大学での外国人留学生の問題なども一人の人間への権力集中によって起こった事件と伺っております。
どの大学も、お金にデリケートになっており、あまり偏差値の高くない大学ならなおさらです。
永守理事長には誰も文句が言えない状況になっているのではないでしょうか?
こういう穿った視点に立つと、学長のコメントから理事長をフォローしなくてはという必死さが漂っているように思えてきます。
(性格悪いですね)

最後には、すでに改革によるいい影響が出始めていると書いていますが、これも怪しいもんです。
一連の急速な改革とその方針が受験生にも伝わり、学生の募集にも変化が出始めている。旧京都学園大学は「京都内の評判では最もボトム(底)の評判だった」(同大関係者)が、今年の入試志願者数は前年の1.6倍の2435人に増加した。「これまでは近畿大や関関同立など関西の上位大の併願校にすらならなかったが、滑り止めとして併願する学生も出始めている」(学習塾関係者)。
最近は入学定員の厳格化に伴って、上位校が合格数を絞り、受験生はランクを下げた大学に出願する傾向にあります。
この増加は、そうしたトレンドに沿った変化である可能性もあります。
というか、もしそのトレンドに沿わないのであれば、もっと恐ろしい事態が社会全体において進行しているのではないかと危惧されます。

ーーー

色々書きましたが、「じゃぁお前は大学ってどんなところだと思っているんだよ?」という声が聞こえてきそうです。
私の考えでは大学は「変なやつを排出する」ところだと思っております。
したがって、学ぶ分野は別になんだっていいのです。
ただし、最先端である必要があります。
まだ誰も知り得ていないことを研究している研究者が教える人であるからこそ、既存の価値観になびかない変なやつが生まれるのです。

大学教育は「すでに求められている技術」を身につけるところではないのです。
(いや、もちろん既存の技術を得る過程で学ぶことはたくさんあるし、それを教育メソッドにすることは良いことと思うのですが、その技術の習得が目的ではないということです)
想像できる未来への対応なんてすぐにできます。
すでに顕在化しているのですから。
問題は、「未来のことはわからないことばかり」ということなのです。
だから変なやつをたくさん出さなきゃいけないのです。
変なやつがたくさんいれば、それだけ変化に対するリスクが減少するからです。

大学の先生方には、ぜひ、まだ世の中にない、あるいは忘れらたり見落とされたりしている価値を、掘り出してみんなに提示することに資源を費やしてほしい。
そこに学生を巻き込むことで、学生を変なやつにしてほしい。
私は、それが、大学の価値であり使命だと思っています。

ーーー

あとは、個人的には、大学で決算書の書き方なんて教えないで、教授にはぜひ決算書に対して「ほんとにこんなんいるの?」と突っかかってほしいなぁと思います。
世の中に向かって「どう見たって王様の耳はロバの耳だよね」と言っちゃうのも、やっぱり大学の使命の一つではないかと思うのです。

グレイテストティーチャー賞(仮名)に感じる違和感

私の所属する大学では、毎年授業評価の良い教員を「グレイテストティーチャー賞」(大学の名誉のため仮名)なる賞で表彰します。
私には、この表彰に、大変な違和感を覚えます。

まずはじめに、大学なのに「ティーチャー」?というところから突っかかりたくなる。
言いがかりですが、私は大学の先生方をティーチャーと思ったことはありません。
彼らはティーチャーとしては型破りすぎると思うのです。
なんとなくティーチャーと言うのは、「ある基準をもとにそこに到達させるための人」という意味あいがあるものと感じられて、大学の教授陣にふさわしい呼び方かどうか、自信がもてません。
(学習指導要領のもとに教える先生に当てはまる気がしてならないのです)
でも、辞書を調べると、teacherとは「教育に従事する者」「大学でもOK」ということなので、まぁいいでしょう。

しかし、「グレイテスト」の方についても、ちょっと引っかかります。
いったいなにを基準にしてグレイテスト(最大)なのかということが、全然わからないのです。
いや、説明としてはあるのです。授業評価の数値が高いということです。
しかし、この授業評価というものの数値にいかほどの意味があるのか?

そもそも大学というのは、学生にとって「自分が知らないということさえも知らないことを学ぶ」場所です。
そこでの授業とはそんなにわかりやすい、すっと入ってくる授業では無いはずなのです。
もしすっと入ってくるのであれば、それは退屈な授業だし、全然入ってこないなら、それは難解な授業のはずです。
にも関わらず、出席者の多くが「良い」と評価できる授業ということは、「自分が知らないことさえも知らないことを学ぶ授業」ではないのではないかと疑いたくなります。
悪い言い方をすれば、ただの娯楽のような授業ではないのか?
知的刺激を与える授業とは言えないのではないか?
もっと悪く言えば「中の下あたり」に向けて授業してんじゃないの?

もちろん、100%そういう先生ばかりではないでしょう。
学生が楽しみながら知的刺激を受ける、そんな授業を展開している教員もいることと思います。(非常に少数だと思いますが)
しかし、だとすれば学生は楽しめないけど、明らかに知的刺激を喚起している授業もあるはずです。(こっちのほうが多いのでは?)
つまり、評価基準が「学生目線」になっていることが、大きな違和感を感じている部分ということですね。

どうしてその授業の価値もわからない人間(学生)の評価から、授業をする人間(教員)の価値を判断できるのでしょうか。
それは、美術品の鑑定を素人にさせるようなものではないでしょうか?
もちろん、個人が勝手に鑑定を行うのはいいのです。
それは場合によっては本人の勉強にもなるでしょう。(あくまで場合によってはですが)
しかし、大学として、組織としてそれを奨励するのはどうなのよ?
私が教員だったとして、そんな賞をもらうのは正直我慢ならない気がします。
なんとなく、バカにされているような気がしてしまいそうなのです。
「中の下への授業に邁進された素晴らしい先生です!皆さん拍手でお迎えください!どうぞ!」みたいな。

ーーー

ということで、代案を出します。
ぜひ、「ワーストティーチャー賞」を作りましょう。
授業評価の最悪な授業を行った先生を表彰するのです。
そして、その先生には、おまけに全教職員と希望の学生向けに90分間の講義の時間を差し上げましょう。
テーマは「なぜ私の授業は面白くないのか」。

その講義を聞いて大多数の方がわからないなら、まぁしょうがないでしょう。
次年度以降のコマ数を減らしましょう。
けれど、おそらく、そういう講義を聴くことは、非常に先生同士の知的刺激になるはずです。

また、終了後にはその受賞された先生を囲む会も行います。
話をしてみれば、決して学生を蔑ろにするような先生ではないことがわかるはずです。

このようにして、学生の授業評価なんて気にしない空気が大学内にできれば、しめたものです。
学生第一主義とは程遠いへんな大学になることでしょう。
先生ごとに変な個性がほとばしり、そのへんな個性が混じり合ったおかしな学科ができあがり、出て行く学生も変なやつばっかり。
こういうのが、大学の役割ではないかと思うのです。

大学は、けっして平均的な人間を排出するための機関ではありません。
それはむしろ「変なやつ」を世に送り出す装置なのだと思います。
世の中が全部同じようなやつばかりになると、大きな変化に対する免疫が失われます。
どんな価値観の変化が訪れても、そこに順応できるやつやその価値観と戦えるやつ、むしろ変化を読んでくるやつを排出していくことに大学の価値があるのだと、私は思います。

それは、使えるやつという表現とは相容れません。
むしろ「既存の価値観になびかない使いにくいやつ」になるはずです。
だから産業界から怒られる。
「もっと使えるやつをよこせ」と。

でも、産業界にしたって、変わりゆく世の中の価値観についていく(あるいはリードする)ためには、こうした変化に順応できる、戦える、むしろ変化を起こそうとする、そういう戦力が必要なはずです。
ということで、産業界がどれほど大学罵倒しても、大卒を採用しないことは今後も多分無いでしょう。
(今後比率は変わるかもしれませんが)

ただ、政権に訴えて大学を根本的に変えてしまおうという圧力をかけることは許してください。
それだけは勘弁してください。
そうなれば、大卒に価値はなくなります。
年を取った高校生を作るような政策だけは、やめましょう。

ーーー

このグレイテストティーチャー賞が跋扈することは、まさに年取った高校生を作る文化を奨励するような制度たりうる気がしてなりません。

たかが一つの賞ではないかと思うのですが、一時が万事、できることから改善していく必要があるのではないか。
そのような思いから、気を引き締める思いで備忘録を残しておきたいと思いました。

今の大学に一言申しておきたいことは、「学生第一主義なんてくそくらえ」ということです。
大学の使命は、各教員の知のフロンティアの拡大です。
学生たちは、その営みの最前線で歩哨として「知の拡大の有り様そのもの」を知るのです。
それは彼らが12年もの間、学習指導要領のもとで受けてきた「教育に関する理解」というものを根本からひっくり返す体験になるはずです。
歩哨としての仕事が、誰も知らない世界を観るという経験を伴うからです。

そして、歩哨の中でも優秀な子は、教員の引き上げのもと、幹部候補生となり、後にまた新たな歩哨を育てることでしょう。
ということで、大学が一番に考えるべきことは「どうしたら教員は知のフロンティアが拡大できるか」なのではないでしょうか。
そういう環境さえ整えば、学生は勝手に育つと思われます。
私には、先生方が頑張って学生を育てるシステムよりも、勝手に学生が育つシステムのほうが優れているような気がするのですが、どんなもんですかね。

【読了】春画の楽しみ方完全ガイド(白倉敬彦監修、池田書房)

『春画の楽しみ方完全ガイド』(白倉敬彦監修、池田書房)を読了。

同じシリーズの「西洋絵画」「日本絵画」に続き、3作目。
【読了?】西洋絵画の楽しみ方完全ガイド
※日本絵画はまだ記事にしてなかった…

本作は前のシリーズよりも登場する絵師が少ないため、一人の絵師の複数の作品を紹介する形でした。
ただ、本作の楽しみ方の紹介に伴って、絵師の系譜が追えるという構成は変わりません。
これから春画を楽しもうと思う人には大変良い本です。

もちろんこの本で主要な春画のすべてを網羅しているわけではありません。
ただ、春画鑑賞の第一歩には大変有意義な本だと思います。

「うまい・へた」がそのまま「いい・わるい」にならないという点が、春画もやはり美術品だなぁと思わせてくれます。
私の場合には、「いい表情」の作品に魅了されるのだということもわかりました。
ですから前半で紹介される墨摺りの作品の中でも、非常に清々しい表情の作品などは見ていて「いいねぇ」と思わずつぶやいてしまいます。
しかし、逆に表情の無い春信の作品も何考えてんだかわからん作品も好きなのが自分でも不思議です。

それにしても、彫る人は本当に凄いです。
毛の一本一本を浮かび上がらせるように周りを掘っていくわけですよね。
ドットとかだと涙出てきそうです。
当時の彫技術は世界一だったと別の本で読みましたが、だとすると当時の日本人(しかも庶民)の美術への関心というのは、現代人よりもよっぽど深くて広かったのかもしれません。

表情があっていいなぁと思った作品は特に以下の作品です。
※画像はいずれも同書からの引用

菱川師宣 欠題組物Ⅰ 第九図(P66)
吉田半兵衛 うるほひ草(P86)
鳥居清長 袖の巻 四(P126)
鳥居清長 袖の巻 六(P126)
逆に、顔を隠しているのもいい…(矛盾してますね)

喜多川歌麿 歌満くら 十(P130)
喜多川歌麿 歌満くら 七(P15)
歌川国芳 花以嘉多 中、第二図(P180)
歌川国芳 華吉子見 地、第二図(P182)
顔が見えないのに、なんとなく心情がわかってしまいそうなのが面白い。
書き入れの解説のおかげということもあるのでしょうけれど、力の入り方とか、仕草とか、全体から伝わってくるものがあるのだと思います。

前にシャネル銀座店の春画展に行きましたが、また行きたくなってしまいました。
  

【読了】村上春樹にご用心(内田樹、アルテスパブリッシング)

『村上春樹にご用心』(内田樹、アルテスパブリッシング)を読みました。
面白い。

先日アフターダークのことについては書きましたので、それ以外について。
【読了】アフターダーク(村上春樹著、講談社)

本書では、村上春樹氏が
①邪悪なるもの
②死んだ者
③みんなが知らないもの(本人も知らない)
について書こうとしたのではないか、とういことが説かれていました。

①については、それらがときに“意味のない悪意”すなわち純粋な混じり気なしの悪意として、出てくるという。
ひょっとしたら、それは一部には(卵と壁の話における)“システム”のことを言っているのかもしれない。
アフターダークで言うところの「タコ」なんかは多分“システム”のことですよね。
その他、「仮面の男」「白川」あたりも「邪悪なるもの」に含まれる気がします。
ただ、「フルフェイスの男」については、私の中ではどこに置いたもんかと微妙なところです。
センチネル…ではないんだろうけども…もやもやしています。

②については、死んだ者というか、「生きた者を書かない」というテクニックのようです。
これは、③にもつながる要素で、死者というものが世界共通の意識だから彼の作品は世界に広く受け入れられているのではないかと本書は論じていました。
「私が知っていることは、皆も知っている」ということはほとんどないが、「私が知らないことは、皆も知らない」ということはよくある。
だから、彼は「生きていない者」=「死者(のような者)」ばかり描くのだと内田先生は言います。
そして、死者という概念はまさに「私も知らない。皆もの知らない」のケースに該当する概念の一つであり、村上春樹氏はこの「知らないもの」を書くのに長けている、というのが内田先生の認識のようです。
つまり、村上氏の扱う題材自体に、言語の壁を跨ぐような共通理解を得る素質があるということですね。

ーーー

他にも、村上作品への批評に対する提言や、内臓の痒みを例にした言葉の運用能力獲得法など、さまざまなおもしろポイントが満載でした。
村上作品について、こんなにいろんな観点から書いた本って他にあるのでしょうか?
ぜひ近いうちに「もう一度村上春樹にご用心」(ひょっとして文庫版なのかな?)も読んでみたいと思いますし、内田先生以外の方の村上分析も読んでみたいなぁと思いました。

 

【読了】街場の読書論(内田樹、太田出版)

『街場の読書論』(内田樹、太田出版)を読みました。
面白かったぁ。

特に、学力について「学ぶ力」と読むというのは目からウロコでした。
学ぶ力を得るには、メンター(師匠)が必要。
メンターとは「今まさに学びの中にいる人」。
そのメンターに「学びの流れに巻き込まされてしまう」ことこそが学ぶ力には不可欠なのだ。
つまり、「今学ぶ者」と「学びに巻き込まれる者」の関係の中にこそ、知の獲得の手法が伝達されるということですね。
大学の存在意義はまさにここに行き着くのでしょう。

また、『痩我慢の説』(福沢諭吉)についての説明も面白かった。
これはまた別の記事で書きたいと思います。

ーーー

全体を通じて、とても「大人な」本という感じを持ちました。
常識的にものを考えたいという思いが伝わってくるようです。
「常識的に考える」ということは、つまり身体的な快・不快を考慮するということのようにお見受けいたします。
要するに、「違和感があるかないか」と言い換えてもいいかもしれません。
世の中、数値化できることばかりではない、ということも常識の一つでしょう。
そういう常識が忘れられた社会は、多分穴だらけの社会になる。
だから、「常識的な人」になることはとても重要な事なんだけど、みんなが常識的になれるかというと、そうではない。
常識という言葉と裏腹に、常識的な思考・行動を取るのには、素質が必要で、全体の20%くらい常識的な考えができる人がいれば社会や組織は機能するのだとか。

「はて、私は常識的に考えることのできる大人だろうか?」と問うてみると、少々危なっかしい。
となるとできることは、常識的に考えることのできる人の「邪魔をしない」ということだろうと思う。

あんまり読書に関係のない感想ばかりですが、本書に通底するメッセージはずばり「常識を持て」「そのために君が、本を待っている」ということになると思います。
あるいは、この考えは前に読んだ『街場の教育論』の影響を多分に受けた上で感じることなのかもしれません。

常識を持つということは、難しく言えば、共同体の一部であることを理解し、共同体に貢献する使命を自覚せよ、ということになるかと思います。
そして、このことは要するに「成熟する」「大人になる」ということと同義なのだろうと思わされました。

師を持ち、学びの流れに巻き込まれ、常識を得て、成熟せよ。
このステップを踏むとき、師とは本でも良い、というか私はそうしてきたよ。
そういうメッセージを私は受け取った…ような気がします。


※タイトルの太田出版は単行本出版時の出版社

【読了】街場の教育論(内田樹、ミシマ社)

『街場の読書論』(内田樹、ミシマ社)を読みました。
めちゃくちゃ面白い。

教育問題は簡単に解決しないこと、現場に任せることが重要ということ、そもそも儲からないということ、グローバル資本主義から子どもを守ることの重要性、仕事論、メンターの不可欠性、外に求めることこそ学び…などについて非常に含蓄のある指摘をされています。
前ページに付箋を貼りたいくらい面白かったです。

大学で働く者としては、本書を読んで「大学同士で競い合う必要なんてないんじゃん」と思いました。
優秀な子が入ってこなくても、それはそれでいいのかもしれません。
そういう子をしっかりと教育できるようにしたならば、そこに大学の価値は自ずと現れてくるのではないだろうか。
すべての大学が東大である必要もないでしょうし。
あとは、そういう姿勢の大学を我々が守れるかどうかにかかっているように思う。
とういことはつまり、大学は経済的な文脈で経営を語っちゃいけないということですね。
そうなると、大学を運営するのは、やっぱり先生であるべきとも思いました。
経営のプロが大学を経営してしまうと、それはもう大学じゃない、ということですね。

また、労働は協同という考え方にも納得がいった。
自分は少しグローバル資本主義に侵されていたのかもしれません。
もう少しゆったりとした気持ちで仕事に向き合いたいと思います。
いいじゃんね、先生のサポーターで。
サポーターとしてどうしたら頑張る先生を助けられるのかを一生懸命考えるのも大事な仕事でしょう。
昨今は「教職協働」が持て囃されていますが、少し立ち止まって考えるきっかけになったように感じます。
(事務と教務が、お互いをプロとして認識し合えることが大事なのかもしれません)

それから、「言葉のストックを増やす」というのも目からウロコでした。
生まれたての自分というのは「空っぽ」で、言葉がそこに入ることで「その人が出来上がっていく」という考え方です。
思いを言葉にする、ではなく、言葉が思いを作るのですね。
だからこそ、まずはいろんな言葉を体に入れて、そこから自分の思想を作っていくというプロセスが求められる。
そのプロセスが逆になると「ムカつく」を何十通りにも使い分けるなどの事態になってしまう。
なるほどなぁ。確かになぁ。
今後も積極的(意識的)に日本語に接する生活をしていかなくちゃなぁと思いました。
(能でも聞いてみようかしらん。そうすれば真名と仮名の使い分けもうまくなるのかな)と思いながら、まずは百人一首の本を買いました。

ーーー

今後も、内田先生を勝手にメンターとさせていただき、著作もどんどん読んでみたいと思います。
(並行読みしているので全然読み終われないし、結構重なる話が多くて、興味深いと思った話が度の本の内容かわからなくなる、というのも、初めての経験です)
そして、著作の中で紹介されている本もいずれは取り組まねばならないでしょう…。

ちなみに、昨日から『街場の大学論』も読み始めました。
こちらは文科省の職員との対談なども入っており、たまりません。
一日が22時から24時の間にもう3時間分の隙間があればいいのに…。

 
  

【読了】美術館で愛を語る(岩渕純子著、PHP新書)

『美術館で愛を語る』(岩渕純子著、PHP新書)を読みました。

「はじめに」と「終わりに」にすべての言いたいことの9割が詰められているように感じる本でした。
「自分とは異なる価値観に対する寛容性をはぐくむのが美術館の役割」という意見には賛同いたします。

美術鑑賞をどう教育に活かすのかという命題に悩む教師たちに対して、彼女は斬りかかります。

ーー美術作品とは、理解できないことをどう教材にしていいのかわからないのではなく、理解できないということがあるということを学ぶための教材なのだ。
ーーそして、他人とはむしろ違った印象を持つことを求めるための教材なのだ。

こうした寛容性についての指摘から、ヒトラーの話にまで展開していくところに、著者の強い美術愛を感じます。
たぶん彼女は本気で怒っているのだと思いました。
不寛容性とそうした態度の引き起こした歴史的残虐行為に対して。

ーーー

本書はほとんどが著者の旅行記のような形になっています。
そして、美術の本ですが、食べ物の話が多いです。
著者は、その作品の蔵されている美術館に行くことの重要性を身体的あるいは霊的な感覚をベースにして説いています。
全身全霊を用いて作品を鑑賞する際に、場としてのその美術館特有の空気が必要だと言うことだ、と私は理解しました。
そうした美術館を作るための思想というか前提となる価値観のようなものが、食べ物とつながっていると言いたいのかもしれません。
多分、食べ物と美術館は肉体や思想、文化、その他諸々の物理的な条件(気候や地勢)を媒介してつながっているのです。

また、美術の世界の裏側紹介として、社交の大変さを説明するくだりなどもありました。
社交界では個人としての資質(見た目、度胸、会話力など)が求められるようで、なかなかにしんどい世界のように思われます。
たぶん訓練だけではどうしようもない世界なのでしょう。
(もちろん、訓練しないとどうしようもない世界でもあるのでしょうが)

世界中のめぼしい美術館を紹介する本なのに、本書を読んだ後には、むしろ近所の美術館に行きたいなぁと思ったのが不思議な感じでした。
先日読んだ、『美術館へ行こう』(草薙奈津子著、岩波ジュニア新書)の著者が館長である「平塚市美術館」に猛烈に行きたくなりました。
【読了】美術館へ行こう(草薙奈津子著、岩波ジュニア新書)

 

【読了】アフターダーク(村上春樹著、講談社)

久しぶりに『アフターダーク』(村上春樹著、講談社)を読みました。
本作を読むのはこれが2回目で、確か最初は高校時代。
読んでても舞台の景色は霞んでて、どんな話が進んでいるやらあやふやなまま読み切った、そんな記憶があります。
ところが、30代になり、改めて読めばその情景は湧きやすく、まるで映画を見るように楽しめました。
なるほど、20代は大人への階段だと言うわけですね。

ということで、今回のこの読書体験は、少しだけ私に希望を持たせてくれました。
つまり「今わからなくても、そのうちわかるかもしれない。時期が悪かった」ということが起こりうるというモデルケースになったように思います。
少しだけ難しい本にも挑戦していいかも?という気分です。

ーーー

さて、どうして10年以上ぶりにこの本を手にしたかといえば、内田樹先生の「村上春樹にご用心」で本作が紹介されていたからです。
氏は本作のことを
二人のセンチネル(タカハシくんとカオルさん)が「ナイト・ウォッチ」をして、境界線のギリギリまで来てしまった若い女の子たちの一人を「底なしの闇」から押し戻す物語である(『村上春樹にご用心』P66)
と紹介していて興味を持ったからです。
(そんな風に読めた小説だっただろうか?)…ということで、読んでみました。
それで、私はこの本を「様々な対比の交錯するのがこの世界」ということと「その対比の境界は結構あやふや」ということを表現している本だと思うようになりました。

ーーー

まず、物語は「昼の世界」に対する「夜の世界」が舞台になっています。
そこにやってくるのが主人公のマリ、昼の住人です。
マリは気づくと夜の世界の出来事に巻き込まれていく。
昼と夜を行き来するタカハシがそれを仲介する。
ラブホテル「アルファヴィル」の人たちは、「かつて昼の世界にいたが今は夜の住人」である。
その中の一人、カオル(アルファヴィルのオーナー)はバイクの男(悪)と対比した善として描かれている。
バイクの男はまた夜に棲む悪として、白川(昼の世界の悪)と対比されているのだろう。

そうなると、エリ(マリの姉。寝続けている)はどう解釈できるだろうか?
エリはマリに対する姉という形で、姉妹の対比であるとともに、精神世界と現実世界の対比を表しているのではないだろうか。
また、エリが精神世界に行くときには仮面の男が関わっている。
この男はベクターとしては、タカハシと同じような役割を持っている。
つまり、現実世界のベクターと精神世界のベクターとして対比されているように思われる。
さらには、カメラの存在も私達の世界と小説の世界の対比を表す装置として描かれている。
しかも、私達読者を作品内の登場人物に対して「逃げるんだ」というメッセージを投げかけることのできる装置として機能させられている。

つまり、様々な対比があり、それらは対比されながらつながっている。
そして、ベクターを介して、あるいは介さず、どちらの世界にも一歩を踏み入れそうになって(あるいはすでに踏み入れてしまって)いる。
「今」分けられている「あっち側」と「こっち側」は簡単に開通してしまうのだ。
タカハシが大学の課題で裁判の傍聴へ行った際の感想として、以下のことを述べていますが、
2つの世界を隔てる壁なんてものは、実際には存在しないのかもしれないぞって。もしあったとしても、はりぼてのペラペラの壁かもしれない。ひょいともたれかかったとたんに、突き抜けて向こう側に落っこちてしまうようなものかもしれない。というか、僕ら自身の中にあっち側がすでにこっそりと忍び込んできているのに、そのことに気づいていないだけなのかもしれない。そういう気持ちがしてきたんだ。(同書P141-142)
これがまさにこの物語のサマリーのように思えるのです。

ーーー

余談ですが、タカハシはこれをタコのような生き物の仕業と考えました。
多分これは、「卵と壁」のスピーチで言うところの壁(つまりシステム)に当たるものなのでしょう。
(参考:書き起こし.comのスピーチ書き起こし内容

こうした作品ごとの「つながり」を考えられるようになったのも、私が年を取ったからかもしれませんが、こうも楽しく読書ができるのなら、年を取るのも悪く無い気が致します。

内田先生は、村上春樹にご用心の同じ記事の中で、アフターダークと1973年のピンボールがつながっていることを指摘していました。
ということで、先日一緒にピンボールも買ったので、近いうちに読んでみたいと思います。

ピンボールは実は私の一番好きな作品なのです。
でも、どこがどう好きだったのか、いまいちうまく言葉にできない。
風の歌を聴けにも似た気だるさが良かったような気がするのですが…ちょっと読んでみてまた書いてみたいと思います。

ただ、多分10代の私が読んだときに感じる感動とはもう違うんだろうなぁという予感がします。
何事も、良し悪し両面があるものですね。(まだ読んでもないのに)

  

内田樹先生の著書にハマっています

最近、内田樹さんの著書にはまっています。
きっかけは氏のHPで下の記事を読んで、感動したからです。
大学教育は生き延びられるのか?(内田樹の研究室)
こんなにまとめて大学の歴史と問題点を述べた記事を読んだことがありませんでした。
しかも社会的な問題についても言及されている。
一体この人は何者なのだろう?と思ってほかの記事を読んでみても、どの記事も面白い。
面白いというのは、内容が非常に常識的ということと、すっと体に入ってくるような文章で語りかけてくれるという両方の意味です。

調べてみると、神戸女学院の教授だった方でした。
もう少しこの方の話を聴いててみたい(読んでみたい)と思い、何冊か本を借りて今読んでいます。

読んだのは「街場の教育論」、「街場の読書論」の2冊。
そして、途中ですが「下流志向」と「村上春樹にご用心」の2冊を今読み進めています。

あんまり面白いんで、ほかにも何冊か借りてしまいましたが、おかげで家事が進みません。

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さて、上記URLの記事ですが、ここには大学がどう失敗してきたかということが書かれています。
それは政策の誤りだったり、評価の誤謬だったりと様々です。
しかもこれらの失敗について、自身の誤りも認めたうえで指摘しています。
このことが非常に貴重だと思います。

政策は無能だったが、自分もそれに乗っかった。
しかし、それは誤りだった。
誤りだったから、私は謝る。そのうえで、是正すべきと提案したい。

一体どこに反論する余地があるのでしょうか?

また、評価の誤謬についても、一言申し上げたい。
結局、評価というのは、書面に落とし込むときには”測れるもの”しか記載ができない。
だから、本当に必要な”能力”を評価することなんてできないのだと思います。
内田氏は「街場の読書論」(P181から)で例えば警察官なら「群衆の中から怪しいやつを見つけだす力」というものを例に挙げています。
そんなのをどうやって筆記試験でスクリーニングするんでしょうかね?
同様に、組織のために必要な業務を見つけ出し、それを繕う人材をどのように見つければいいのか?
筆記試験と面接で対応できるわけないですよね?
今は無くなってきていますが、師弟関係というのがやっぱり大事なんだと思います。

それから、評価の手間が増えると、必然よく働く人ほどその手間が増えるというのも、なるほどと思いました。
私はこれまで、いかにして働く人の手間を減らすのか、そういう視点を持ったことがなかったのです。
どうやってまじめにやっていないやつに損をさせるかということばかり考えていたことを反省します。
先日ある先生(大学教授)から、「さしみの法則」というものを伺いました。
「さしみ」とは組織の構成を表し「よく働く人3割(さ)」、「普通の人4割(し)」、「全然働かない人3割(み)」ということだそうです。
なるほどなぁと聞いていましたが、要するに「さ」の人をもっと大切にしようと思えば、評価なんてなくしたほうがいいということになっちゃうのですね。

というような感じで、氏の講義(著書・記事)からは非常に鋭い指摘がブスブスと私に突き刺さってくるのです。
そして、それがなんだか心地よい。

もうしばらく内田先生の講義を受け続けてみたいと思います。

   

プリキュアに必要な力

娘が観る(と言うか妻が観る)のと一緒に、毎週『プリキュア』を観ます。
今観ているのは『スターティンクル・プリキュア』で、私は前作の『HUGっとプリキュア』からプリキュアを観るようになりました。

今観ているスターティンクル・プリキュアは、「なんやかんやありまして、毎回敵を4人で倒します」というストーリーなのですが、冷静に考えると結構恐ろしい敵を相手にしているのです。

敵方は、まずチーム編成として、ピラミッド型の組織体制を構築しています。
そして、構成員もなかなかに多い(毎回撤退しても、その都度同人数程度の陣形が整えられるくらいに層が厚い)。
幹部も(現段階では)4名おり、それぞれに部下と能力が配されているし、痛めつけられてもへこたれない強靭な肉体と精神を持ち合わせています。
しかも登場と退場では消えるようにして、どんな危機的状況でも問題なく逃げ切ることができます。

対して、プリキュアは4人体制(2体おまけがいるけど)です。
こうなると、敵方が一斉に、しかも空間的に隔たれた箇所で好き放題に暴れた場合、プリキュアは1対多の戦闘に望まなくてはならなくなる。
しかも敵方は、登場、退場に瞬間移動ができるような能力者たちなので、そもそも襲来をどう補足するのか、補足したとして敵方と戦闘態勢を整えることができるかどうかも怪しいというのが、私の見立てです。

私が敵方なら間違いなくそうやって消耗させるでしょう。
結局プリキュアには守るもの(街や市民)が多すぎて、守りきれないという状況を作ることが一番手っ取り早いのです。

こうなると、プリキュアたちは単に能力が高ければいいというわけには行きません(もちろん魔法少女のまどか位のスペックがあればどうにかなるかもしれませんが…)。
そこには、市民と行政を絡めた危機対応策を策定しなくては話しにならないのです。

実際に、とんでもない能力の敵がおり、私達(プリキュア)しかそのことを知らないし、武力的に対応できるものがいないとしても、どうにか武力対応をするために危機発生を検知するネットワークの構築を図らなくては市民の安全を守れるはずがありません。
そうしたことに気づいたとき、彼女たちに必要な能力は実は「危機を共有する力」ということが見えてきます。

つまり、力があるだけでは、多くのものを守ることはできないということです。
社会や都市を守るためには、広く、多くの人を巻き込む能力が求められるのです。

もしプリキュアたちが持てる資質や人的ネットワークを駆使して敵方と相対するなら、多分来週話くらいで敵方は打ち砕かれるでしょう(プリキュアの周りには優秀な人材がかなり強固な絆を有する形で配されているのです。例えば優秀なAI、宇宙工学者兼資産家、宇宙人、他のスターの力などなど)。
もちろんそれでは1年(50週)なんて持たせるのは壮大すぎますし、「それってプリキュアなの?」という気もしてしますしね。
(でも前作HUGっとプリキュアはそんな構成がところどころにありました。あれは、間違いなく子ども向けの作品ではありません。やってることはテロリズムですが、敵方のほうが論理的に考え、世の中を良くしようという気概に満ちていました。世の中を良くしたいと思うからこそ危険なのだというロジックは、幼少期の子どもにはいささか早いように思えます。)

というようなことを書きながら、これって『シン・ゴジラ』のことでは?と思えてきました。
『シン・ゴジラ』はまさにそうした人的資源の組み合わせで危機を乗り越えた作品です。

シン・ゴジラ風のプリキュアがもし作られたなら、ぜひ劇場で観てみたいものであります。

辞令交付式への違和感(みんなよく参加するなぁ)

 今日は4月1日。  我社では辞令交付式が行われました。  そのため、土曜日ですが、人事課員として出勤しました。  明日も仕事なので、12連勤となります。   人事課の闇ですね。  それはさておき、辞令交付式に関して、毎年違和感を持ちます。  それは、お礼を言われる側が、何故かホ...