東洋哲学は説明ができない:【書評】史上最強の哲学入門-東洋の哲人たち(飲茶、河出文庫)



史上最強の哲学入門-東洋の哲人たち(飲茶、河出文庫)を読みました。
面白い。
相変わらずいろいろな作品からの名言をちりばめており、男の子ならクスリと笑いながら読める一冊です。
ぜひ姉妹本の『史上最強の哲学入門』も合わせて読まれることをお勧めします。
史上最強の哲学入門(飲茶、河出文庫)


東洋哲学の最大の特徴は、「説明することができない」ということです。

『インドで生まれた仏教が、中国でタオとして生き残り、日本に来て禅へと昇華された。東へ、東へと言葉や形を変えながら継承されてきている。』というようなことは言えても、中身については、説明ができない。
西洋哲学との比較はできても、「じゃぁ東洋哲学の真理って具体的に何なの?」と聞かれても答えられない。
なぜなら、それは「個人が体験すること」であり「個人が理解をすること」だから。
単純に書物を読めば「はい悟ったよ」とはならないので、説明のしようがない。
どうしてこういうことになるのか、それは、そもそもの真理へのアプローチに原因があるようです。

西洋哲学は、過去の哲学を壊しながら新しい哲学を作って真理に近づこうとする。
一方で東洋哲学はすでに真理を捕まえたところから、どのようにそれを知るか(理解するか)というアプローチの仕方を取る。
ということで、西洋哲学は究極の真理へと登りつめていこうとする「階段」の構造であり、東洋哲学は究極の真理から様々な解釈が裾を広げていくような「ピラミッド型」の構造といえます。

西洋哲学はそのため、言葉で表現しなくてはならない。
逆に言うと、言葉で表現できないものは扱えない。
一方、東洋哲学は、そもそも言葉で表現できないもの(教祖の体験)を教授・解釈していくため、上のような構造の違いが生まれるそうだ。
どちらが優れているということもなく、方向性の違いです。
(とはいえ、この方向性の違いが科学技術等の発展の違いを生むことになるわけですが…)

 西洋は、論理や知識というものを有効だと信じている。だからこそ、西洋はより高度な論理を組み上げることを目指し、西洋哲学は巨大な理屈の体系として発展していった。
 だが、東洋は、理論や知識というものをそれほど有効だとは信じていない。なぜなら、東洋にとって「真理」とは「あ、そうか、わかったぞ!」という体験として得られるものであり、そして、体験とは決して言葉では表せられないものであるからだ。そのため、「思考を磨き続ければいつか真理に到達できる。言語の構造物で真理を表現できる」といった幻想を東洋哲学は最初から持っていなかった。
 だから、東洋哲学は、理屈の体系はそっちのけで、「どうすれば釈迦と同じ『悟りの体験』を起こすことができるのか」、その一点だけに絞り、そこに特化して体系を洗練してきた。かくして、東洋哲学は「悟りの体験を引き起こす方法論(方便)の体系」として発展していったのである。
 このように東洋哲学は「とにかく釈迦と同じ体験をすること」を目的とし、「その体験が起きるなら、理屈や根拠なんかどうだっていい! 嘘だろうと何だろうとつかってやる!」という気概でやってきた。なぜなら、彼らは「不可能を可能にする(伝達できないものを伝達する)」という絶望的な戦いに挑んでいるからだ。そういう「気概」でもなければ、とてもじゃないがやってられない!
 そして、事実、東洋哲学者たちは、そのウソ(方便)を何千年もかけて根気強く練り続けてきた。(P340)

そんなわけだから、東洋哲学の場合、本当に仏陀とほかの哲人たちが同じ体験をしたのかはわからない。
ひょっとしたら仏教から禅への系譜は全く引き継がれていないかもしれない。
でも、すべて「個人の体験」だから、当人にさえ可否さえは判別できないし、ましてや最終的な境地は「普通の人」見わけがつかないのだから、他人にはどうしたってわかりようがない。
ゆえに、説明のしようがないのである

*

かなり冒頭に出てくる「世界は自分とは関係のない映画みたいなもの」という考え方は、なんだか不思議な感じがした。
しかし、それを悟ったからといって、いったいどうなるのだろうか。
なんとなく、むなしくなるだけではないかと思うのだけど、ひょっとしたらそのむなしさの先みたいなものがあるのかもしれない。

そう考えると、ある意味、学問と似ています。
・一般人からすれば、何のためにそんなに修行をするのか(研究をするのか)わからない。
・修行(研究)の先に何があるのかもわからない。
・わかったとしても、一般人には理解できないことが多い。
などなど。
結局、人間というものは「学問してしまう生き物」なのかもしれませんね。


 

教育が子どもから自主性を奪う:【書評】反教育論(泉谷関示、講談社現代新書)



反教育論(泉谷関示、講談社現代新書)を読みました。
面白かったです。

内容としては、いかにして自主性をはぐくむかという点にあると私は感じました。
基礎教育にこだわったり、何でもレールを引いてあげたりすることで、いかに個人の自主性がなくなっていくのかといった内容です。
本書の内容は、かなり根本橘夫氏の『「いい人に見られたい」症候群』等の著作につながるものが多い印象を持ちました。
いずれも「自分を持て」というメッセージを発しているように私は感じます。
『「いい人に見られたい」症候群』がどうやって「自分の持つか」という方法が主だったのに対して、本書は「なぜ自分を持てなくなるのか」という根本原因を深堀したような感じでしょうか。
また、様々な先人からの引用や現代社会とのつながりなども絡めて説明するため、「自分を持てなくなる背景」がより鮮明になっている感じがします。

自主性の育て方

本書には、「自主性を育ませたいなら、自主的にさせておかなくてはならない」というロジックが底流しています。
なるほどその観点で行くのであれば、私たち大人は「どうにか子どもをコントロールしないように」自律しなくてはいけません。
そして、私たち大人から逃れるべき機関である学校にもそのことを求めなければなりません。
そのためにも、自主性は外から育てることはできないということを認めることが必要です。
「いい距離で見守る勇気」、大人にはこの勇気が求められているようです。

子離れが大事

そういう意味では、本書は、子育てをしている方にとっては、結構きつい本かもしれません。
例えば、幼児教育やいい学習環境が子どもを必ずしも成長させるわけではないなど、親としてはしてあげたいことが子どもの成熟には却ってマイナスに働くというような主張も多いです。
逆に、親に嘘をつけないと子どもは成長しないという主張も、親的には少し「えっ…本当に?」と思ってしまうでしょう。
ただ、「無菌状態で育てれば、弱い子になる」と言われてみれば、私としてはよくわかります。
極力親は介入せず、子どもが大けがしないように見守ってあげることが、親のしてあげられる最大限のことなのかもしれません。
そういう点からみると、ぜひ子育てに自信を持っている人にこそ読んでほしい一冊です。
(まぁ自信を持っている人はこういう本を読まないと思いますが)

逆に、子育てにへとへとになっている人にはいいかもしれない。
本書を読めば、子どもはうっちゃっておいてもいいかもと思えると思います。
親がかかわらないほうが、子どもが成熟するのですから。
あとは、親が何か没頭できる遊びのようなものを持っているほうが、子どももそれをまねるかもしれないので、そういう時間を作ってもいいのかもしれないと思えるかもしれません。
そういう意識を持っておけば、少なくとも、子どもが何かに没頭していることを容認できるはずです。
また、子どもが集団の中で浮いていたり、先生から疎まれたりしていたとしても、ひょっとしたら自分で考えることのできる子どもなのかもしれないとポジティブに考えることができます。
(もちろん人を傷つけるというようなことは許されませんが)
こういう風に見ていくと、子育てや教育というのは、そんなに難しいことではないように思えます。

といった感じで、人によっては少し肩の荷が下りる本です。


幸せと執着の関係:【映画評】秒速5センチメートル(新海誠)




秒速5センチメートル(新海誠)を観ました。
胸をえぐる作品です。

ジブリ作品の『耳をすませば』の正反対というか、バッドエンドというか、そんな風に表現すればいいのでしょうか。

あんなにぜんぜん進まない電車でイライラ感を共有させた上でいい感じになった2人なのに、そこからなんやかんやあって「え、そうなるの? 実は主人公といい感じで終わるとかじゃないの?」という感じでスパッと終わります。

本作を端的に表現してしまえば、「繊細な人達がすれ違う物語」です。
そんな物語なので、主題歌の「One more time, One more chance」はぴったりです。


が、各登場人物たちそれぞれの繊細に気付けるのは、ひょっとしたら鑑賞者だけかもしれません。
例えば澄田からしたら、遠野は繊細とは思えないだろうなぁと思います。

繊細ゆえに、ここではない遠くを見て生きてしまうというのは仕方のないことなのかもしれません。
しかも、そういう生き方というのは、一見浮世離れしていてかっこいい側面もあります。
まして澄田のような狭い世界に窮屈な思いをしている高校生からしたらなおさらかもしれません。
(遠野くんイケメンだしね)
でも、ここではない遠くを見て生きているというのは、ある意味自分の人生を生きれていないということで、だから遠野は苦しみ続けているのです。

チューしたときに「この先がないことがはっきりわかった」とかなんとか察してないで、後日さっさと明里ちゃん会いに行って、色々とはっきりさせればよかったのに、それを逃げててだらだらと生きていたところに大きなかけ違いが生じたのです。
(「鹿児島に住んでたって、羽田で合流すればいいじゃん」と言ってしまえば作品にはならないのでしょうけれど)
繊細な人というのは、粘着質なところがあるのかもしれません。
(…気を付けよう)

その点、明里ちゃんは偉い。
遠野のことなんてすっぱり忘れて、結婚相手も見つけて幸せになっています。
遠野との思い出を昔のこととして受けれてもいる。

2人の違いは何だったのか。
それは執着の有無でしょう。

こう考えると、どうにもならない(と思える)ことを手放すというか、忘れるということは、幸福に生きていく上で重要なんだなぁと思わされます。
仏教も「執着を手放せ」とはよく言いますが、こういうことですね。

忘れて、許して、今を生きれる人が一番幸せなのです。
秒速5センチメートルは、そんなことを突き付けてくる作品でした。

読んでみると、すごく常識的な感じ:【書評】クルアーン(水谷周、国書刊行会)




クルアーン:やさしい和訳(水谷周、国書刊行会)を読みました。
アメリカへのテロやフランスでのテロなど、イスラム教には過激なイメージがあると思うかたも多いと思いますが、クルアーンを読む限りは、その過激さは一部の集団に限られるのではないかなという気がします。
それくらい、常識的な諭しがちりばめられた書です。

もちろん一神教ですし、21世紀を生きる日本人の私たちの目から見たら???と思う箇所も散見されますが、ほとんどのところは「うんうん、なるほど、そういうことね」「そういう考えもあるかもね」と感じられる内容です。
というか、私の目から見たら結構誠実な生き方を奨励しているという印象を受けます。

面白いなぁと思ったのは、以下のような世界観。

  • 人は弱く作られている(だからアッラーに庇護を求めよ)
  • 善悪は人間には判断できない(いやなこともアッラーからの啓示かもしれない)
  • この世は仮の世界(最後の審判のための徳を貯める時間)
  • 恵まれるものは忘れ、困難にあるものは嘆願する(常に信仰せよ)

ここだけ引っ張ってくると、何となく仏教にも近いものがあると思えてきます。
(人は苦しむ存在、善も悪もない、解脱…)



旧約聖書や新約聖書との関連も多数出てきます。
クルアーンでは、キリストも預言者のひとりと考えており、一神教ではあるものの、ユダヤ教やキリスト教徒の親和について、意識的に余地を残しているようです。
どのくらい関連しているかは、以下の預言者一覧をご参照ください。

イスラム教預言者一覧、()内の名前は、聖書表記。P614より

  1. アーダム(アダム、人類の初めであり、預言者の初め)
  2. イドリース(エノク、19:56,57 21:85)
  3. ヌーフ(ノア、ノアの箱舟で知られる)
  4. フード(エベル、アラビア半島南部のアードの民に使わされたアラブ人)
  5. サーリフ(アラビア半島北部のサムードの民に遣わされたアラブ人)
  6. イブラーヒーム(アブラハム、一神教を再興した預言者として重視される)
  7. イスマーイール(イシュマエル、イブラーヒームの長男でアラブ人の祖)
  8. イスハーク(イサク、イブラーヒームの次男でユダヤ人の祖)
  9. ルート(ロト、イブラーヒームの甥、パレスチナ北部カナーン地方の町サデゥームに遣わせられた)
  10. ヤアクーブ(ヤコブ、イスハークの息子、別名イスラーイール)
  11. ユースフ(ヨセフ、ヤアクーブの12人の息子の一人で美男子)
  12. シュアイブ(ナジュド地方窓やんの町の「森(アイカ)の人たち」に遣わせられたアラブ人)
  13. アイユーブ(ヨブ、忍耐の人として知られる)
  14. ムーサ―(モーゼ、ユダヤ教の「立法」を授かった)
  15. ハールーン(アロン、ムーサーの兄)
  16. ズー・アルキフル(エゼキエル、21:85,38:48に言及される)
  17. ダーウード(ダビデ、イスラエル王国の王、「詩編」を授かった)
  18. スライマーン(ソロモン、ダーウードの息子、エルサレム神殿を建設)
  19. イルヤース(エリヤ、6:85 37:123-132)
  20. アルヤサア(エリシア、紀元前9世紀、ユダヤ王国の混乱を収めた)
  21. ユーヌス(ヨナ、魚に飲み込まれた人として知られる)
  22. ザカリーヤー(ザカリア、マルヤムの保護者)
  23. ヤフヤー(ヨハネ、ザカリーヤーの息子で、洗礼者)
  24. イーサー(イエス、キリスト教の「福音」を授かった)
  25. ムハンマド(クルアーン中では、アフマド。61:6)

ということで、次は新約聖書物語を読んでみようと思います。
■旧約聖書物語(犬養道子、新潮社)
クルアーン物語とかないのかな。

 


こちら側につなぎとめてくれる人が近しい人とは限らない:【映画評】言の葉の庭(新海誠)



言の葉の庭(新海誠)を観ました。
面白かったです。

新海監督のかかわっている「彼女と彼女の猫」や「秒速5センチメートル」のように、少し重たい物語です。
ちょっと病み気味の人物がメインに置かれているという意味で共通しています。


本作のストーリーとしては、公式では以下のように紹介されています。
靴職人を目指す高校生・タカオは、雨の朝は決まって学校をさぼり、公園の日本庭園で靴のスケッチを描いていた。ある日、タカオは、ひとり缶ビールを飲む謎めいた年上の女性・ユキノと出会う。ふたりは約束もないまま雨の日だけの逢瀬を重ねるようになり、次第に心を通わせていく。居場所を見失ってしまったというユキノに、彼女がもっと歩きたくなるような靴を作りたいと願うタカオ。六月の空のように物憂げに揺れ動く、互いの思いをよそに梅雨は明けようとしていた。(言の葉の庭公式HPより https://www.kotonohanoniwa.jp/page/product.html)

しかし、私が思うには、この物語はユキノを中心とした物語です。
ユキノというあちら側に行きそうな女性を、こちら側の男の子・タカオが救うというのがこの映画の主題だと思います。
そして、主題曲の「Rain」もやっぱりユキノさんの歌なのです。



そういう観点に立ってこの映画を振り返ってみると、村上春樹の『アフター・ダーク』と重なります。
アフターダークもこちら側の男の子が、あちら側に行きそうな女の子を引き留めるお話でした。
また、アフターダークでは渋谷のホテル街が(昼と夜の)境界の舞台でしたが、言の葉の庭では新宿御苑が(日常とアウトローの)境界として描かれていたように思います。

それだけでなく、言の葉の庭にも、同じように「悪」が表現されている点が類似しています。
ひとりはユキノを追い込んだ女子高生(とその取り巻き)。
そして、もう一人は同僚の元カレ。
どちらも日常を普通に生きながら、他者を傷つけ、そのことに罪を感じていないように描かれています。
まるで、「だってそうするしかないでしょう?」というような感じ。
日常というのは、常にそうした闇(悪)と隣り合わせで営まれている、こちらとあちらの境界は割とあいまいである、ということを再確認させられます。
両作はその上で、闇はある一方で希望もあるということを強調しているのだと思われます。
【読了】アフターダーク(村上春樹著、講談社)

新海先生は本作を通じて、日常の闇(というか悪)が一人の女性を壊しかけ、名前も知らない一人の「自分の世界」を持つ男性が彼女を救った、というお話をしたかったのではないでしょうか。

(余談ですが、ビールが飲みたくなる点も、村上春樹作品と類似してます。本作を観た後に、金麦を買いにコンビニへ駆けて行ったのは私だけではないはず…)



ところで、先日『「いい人に見られたい」症候群』という本を読んだ私には、この映画がその本の解説動画なのではないかとも思えました。
まるで、ユキノという代償的自己を生きる女性が、自分の人生を生きようとしている男の子に救済される、そんな例を映画化したようです。
そういう意味で、タカオの生き方は代償的自己を生きる人の参考になりそうです。
(明確な目標とそれに向けた行動、毅然とした自己表示、感情の素直な発露、などなど)
他者を優先する「甘えんぼいい子ちゃん」を卒業しよう:【書評】「いい人に見られたい」症候群(根本橘夫、文藝春秋)


   

「自分はただいるだけでいい」という感覚をつかみ取る方法:【書評】「自分には価値がない」の心理学(根本橘夫、朝日新書)




「自分には価値がない」の心理学(根本橘夫、朝日新書)を読みました。
面白かったです。

ベースには先日紹介した『「いい人に見られたい」症候群』があると思われる内容です。
どちらかといえばこちらのほうがより実践的な印象でしょうか。
「自分に価値がない」と思ってしまうその原因・メカニズム・解消法を多く紹介しています。

著者も言うように、本書を読んだからすぐ心がすっきり晴れる、というものではありません。
心理的技能も練習してだんだんとできるようになるのである。時間をかけて、何回も何回も練習することで、少しずつ上手になっていくのである。(P111)
ノウハウを知っても、すぐには身につかない。
だけど、時間をかけて何度も取り組めば、やがて身につくという希望があるということですね。
本当の安心は、自分の価値などという意識を超越したところに存在する。
しかし、それを直接求めることは、解脱を求めるようなものである。
逆に、自分の外側をいくら飾り立てても、心底の無価値感から免れることはできない。
自分を成長させ、幸福な人生を築こうとする誠実な努力を積み重ねるうちに、しっかりとした自己価値感が形成されるのである。
(P100)

幸福な状況は他者が与えることができても、幸福であるかどうかは本人に依存する。
(中略)自分の人生は自分にしか作れない。これからの人生についての責任は自分しか追うことができない。
(P98)
そして、その自分の人生を作るという作業を「人生設計」を通じて行うことを著者は勧めます。



その他には「人を大切にすること」や自律訓練法などの具体的なトレーニングなども紹介されていました。
また、「感謝すること」も大切なことなのだとか。
感謝は自己価値感を高揚させる。なぜなら感謝とは、自分が他者から恩恵を受けていることを意識することだからであり、自分が愛され、気にかけてもらっていると感じることだからである。感謝の反対は愚痴である。愚痴を言うほど足りない部分に目が行き、不満だらけになる。愚痴は相手を貶めるだけではなく、愚痴を言う視点は自分にも向けられ、足りないだらけの自分として自分を貶めることにもなる。(P214)
…気を付けようと思います。



親としては、非常に気になる箇所があったので、それもご紹介。

親自身が多かれ少なかれ快体験に罪意識や恐れを抱いている。このために、子どもが楽しんでいるとつい不安になってしまい、水を差す行動をする。(P22 0)
まさにわが身を射たりです。

子どもが夢中になっているところに、「勉強はいいの?」「そろそろやめよう」などと水を差すのは、そういう心理があったのかもしれないと少し反省しています。
(とはいえ、あまりテレビを見すぎるのも問題なので、上の心理を意識しつつ、常識的な範囲で対応が必要なのでしょう。)



自己価値感を取り戻す方法が多数紹介されていましたが、大事なのは「自分はこれでいいのだ」と思えるということのようです。
そのためにも、快・不快、好き・嫌いというのをもっと感じ取って、表現してあげつつ、家族や社会と対立が生じたらいい落としどころを探してくという作業が必要とのこと。
実は、そういう作業を通じて、親も子どもも成熟していくのかもしれませんね。


 

多数決=民主主義ではないし、民主主義ってそんなに簡単じゃない:【書評】多数決を疑う―社会選択理論とは何か―(坂井豊貴、岩波新書)




多数決を疑う―社会選択理論とは何か―(坂井豊貴、岩波新書)を読みました。
とても面白かったです。

本書のいいところは、多数決を疑うところから始まって、民主主義の歴史や自由とは何か、一般意思とは何か、民主主義とは何か、民主主義を遂行するとはどういうことか、など多岐にわたるトピックスに触れている点だと思います。
ある意味、倫理の本を読んでいるようでした。
多数決というものについて、ここまで深く考える余地があるということも驚きです。

通読してみて、自分が当たり前のように選挙に行き、民主主義国家の主権の一人として権利を行使しているものと思っていましたが、全然そんなことはないということを知りました。


多数決では民意が反映されない

著者は何度かアメリカ大統領選の例を取り上げて説明を試みる。
ブッシュVSゴアの大統領選だ。
当初ゴアが有力候補であったが、そこに第三の立候補者でゴアよりの政策を打ち出したネーダーが入ることで、ゴアの票が割れてしまい、ブッシュが漁夫の利を得たという。
このような複数の選択肢の中から1人を選ぶ多数決の場合、単純に第一志望のみを集約してくとこのような「票割れ」が起きてしまい、民意が反映されなくなってしまうことがある。
こういった票割れを起こさない集約ルールはないのかと考えたのが、ジャン=シャルル・ド・ボルダだ。
ボルダは、第一志望にだけ得票を入れるのではなく、すべての選択肢の順位を集約することで、全体の意見を集約するという「ボルダルール」を考案した。
具体的には一つの投票で1番には3点、2番には2点、3番には1点を付与し、すべての投票を加点して集計するというものだ。
先の大統領選でボルダルールを使用したとして、世論通りに投票されたとしたならば、おそらくゴア、ネーダー、ブッシュ(民主党寄り)あるいは、ブッシュ、ゴア、ネーダー(共和党寄り)という票が多く入ることとなったであろう。
しかし、結果は民主党寄りの多数派意見は反映されなかった。
同じことは小選挙区制の日本でも言える。

どの集約ルールを使うかで結果がすべて変わるわけだ。「民意」という言葉はよく使われるが、この反例を見るとそんなものが本当にあるのか疑わしく思えてくる。結局のところそんざいするのは民意というよりは集約ルールが与えた結果に他ならない。選挙で勝った政治家の中には、自分を「民意」の反映と位置付け自分の政策がすべて信任されたように振る舞う者もいる。だが選挙結果はあくまで選挙結果であり、必ずしも民意と呼ぶにふさわしい何かであるわけではない。そして選挙結果はどの集約ルールを使うかで大きく変わりうる。(P50)


64%ルール:憲法改正の要件は3分の2では弱い

憲法の改正を考えてみたときに、改正案Aというのが出たとする。
この改正案に賛成する者が過半数だったとしても、その改正が適切とは言えない。
なぜなら別の改正案Bのほうが適切だという可能性が排除できないからだ。
では、改正案Aを適切だ(改正案Bを選ぶ人よりも多い)と言わせるためには、どれくらいの賛成率が必要かというと、64%なのだそうだ。
これを64%ルールというが、日本の憲法改正には衆参両院の3分の2の賛成(66%)が必要ということで、かなり近い。
しかし、日本の選挙は小選挙区が多いため、少ない投票率で多くの議席を確保できるケースがある。
著者はこの点を鑑み、適切な改憲ができるよう国民投票で64%の賛成が必要とするように改正すべきという。
衆参両院で3分の1が反対したら改憲できないのは厳しいという意見がある中で、斬新な提言だ。

第九六条の擁護として「人間は判断を間違いうるから現行の三分の二条件を尊重せよ」とはよく言われる。また、改憲の硬性は、多数派の暴走が少数派の権利を侵害することへの歯止めだとしても重視される。
(中略)しかし、そもそも多数決は、人間が判断を間違わなくとも、暴走しなくとも、サイクルという構造的難点を抱えており、その解消には三分の二に近い64%が必要なのだ。そしてまた小選挙区で制のもとでは、半数にも満たない有権者が衆参両院に三分の二以上の議員を送り込むことさえできる。つまり第九六条はみかけより遥かに弱く、より改憲しにくくなるよう改憲すべきなのだ。具体的には、国民投票における改憲可決ラインを、現行の過半数ではなく、64%程度まで高めるのがよい。
(P135)

実は民主主義に参加できていない主権者(民衆)

最後にこうした民意の集約ルールがあるものの、現実ではそれがそもそも生かせていない例(都道328号線について)が挙げられた。
都が新しく道路を整備するという施策について、市民の意見というのはほとんど入り込む余地がないのである。
唯一できる市民投票でも、市議会等でそれを受け付けるかどうかを決めることができるそうだ。
そして、困ったことに、市の一部の人間に大きな損害がある政策だとしても、市全体での投票率が何%以上でないと開票しないというルールが条例で定められてしまうと、実際に市民投票をしたところで開票もされないままスルーされてしまうということが起こりうる。

主権に基づく統治の困難とは、立法が執行を制御できないということである。しかし「主権者である国民が国会議員を選出し、国会が立法し、行政機関はそれを執行する」という形式があるゆえ、現行制度は国民に由来する正当性を持ち「民主的」である、という理屈がまかり通る。だが行政機関による執行には、実際上のきわめて広い裁量があり、そこで独自の決定ができる。
(中略)執行が強力であることは、ときに「民主的なプロセス」の一部として安易に位置づけられてしまう。すると行政機関は当事者である住民の声を聴く必要がないばかりか、その声は「民主的プロセス」を阻害するノイズにさえ扱われてしまう。
(P149)



最後に、特別紹介しておきたい一文を引用して終えます。

ところで「政治に文句があるなら自分が選挙で立候補して勝て」といった物の言い方がある。何を根拠としているのか不明だが、それを口にする者の頭の中では、それが「ゲームのルール」なのだろう。だが、わざわざ政治家にならねば文句を言えないルールのゲームは、あまりにもプレイの費用が高いので、それは事実上「黙っていろ」というようなものだ。人々に沈黙を求める仕組みはまったくもって民主的ではない。(P150)

「民主的」というのは、対話の場が開かれており、対話の余地が残されているところにしか適用されないものなのです。




他者に強くなる方法としての自然体といくつかのおすすめ書籍:【書評】人に強くなる極意(佐藤優、青春新書)


面白かったです。

人に強くなる≒自然体で生きる、ということだと私は理解しました。
人に媚びず、びびらず、直感を大事にしながらも先人や他社の知恵を借りながら賢く生きていくことが大切だと語りかけてくるようです。
ではどうやってそんな生き方をしていけばいいのか。
当然ですが簡単ではなさそうですが、そのための方法論を、著者の体験や読んだ本などを通じて紹介されています。

ところどころに「うつになりやすい人の仕事の捉え方」なども書かれており、なるほどと思いました。
(読んだからといってすぐに捉え方を修正できるような処方箋ではありませんが)
ただ、クラッシャー上司サイコパス上司のように、本当にやばい人もいるということは、知っておいたほうがいいでしょう。
本当にやばい人とは、どううまくやろうとしてもどうにもなりませんから、逃げるしかありません。
私個人としては、その点を強調しておきたいと思います。
(最近の著書ではこの点にも触れらていました→メンタルの強化書(佐藤優、クロスメディア・パブリッシング)

各章の最後には、おすすめの書籍も紹介されていました。
今後読みたいなぁと思った書籍をメモ代わりに列挙します。

怒らない

びびらない

侮らない

断らない

あきらめない

先送りしない

他者を優先する「甘えんぼいい子ちゃん」を卒業しよう:【書評】「いい人に見られたい」症候群(根本橘夫、文藝春秋)



面白かったです。

「自分よりも他人を優先してしまう」という心理を分析し、そのことに『「偽りの自分」を感じてしまう人』に対してどうすればそれを乗り越えられるかを示した一冊でした。
自分を犠牲にして、他者を優先させるというのは、多かれ少なかれ、自分も該当してると思う方も多いと思いますが、その他人優先が行き過ぎてしんどくなる人に向けられた本です。

こうした他者を過剰に優先するという心理の裏には、「あなたを優先するのだから、自分にも優しくしてくれ」という甘えが存在すると著者は分析します。
また、こういう心理に至るのには、自分の価値を低く見てしまうせいであり、自分の価値を低く見てしまうのは、十分な愛を得られずに自分を表現してこなかったからだとも。
自分の価値を見出すためには、自分の感情や思いを吐き出し、社会や他人とぶつかることでちょうどいいところを探っていくという作業が必要で、そのためにも反抗期というのは重要な自己表現の時期となる。
だからこそ反抗期がないというのは成熟へのきっかけを失うことにつながるそうです。
(どうせ分かり合えない、という諦めはすでに代償的自己への階段を上りつつあるということでしょうね。わかる気がします)

本書の中には20代から60代まで、男女ともに多数の患者(?)の声が紹介されています。
いい人に見られたい自分に苦しんでいる(代償的自己を生きている)人は世代や性別を問わないようです。
また、特に日本は自分を律することを求められることが多く、学校という機能そのものにも、代償的自己を助長する部分があると著者は指摘します。
代償的自己を生きるほうが楽な時期というのがあるということだと私は理解しました。

本書がよかったのは、代償的自己のような生き方についても、これまでそういう生き方だったことをまずは認めることが大事だと教えてくれるところです。
誰のせいでもなく、代償的自己を生きるしかないからそのように生きてきた、という認識でまずは受け止める。
次に、それをどうしたいか、どう生きていきたいかを自分でつかみ取りましょう、そのためにはこんな風に考えるのがいいのでは? というような感じです。
普通の人が読めば、「こんなの普通じゃん」という内容かもしれません(例えば、自分の感情や感性を大事にする、など)。
でも、代償的自己を生きる人は些細なことですべてが崩れ去ると思っています。
だから、自分を出せず、それによってさらに自分の価値が低く感じられ、余計に自分を出せずになり…といったつらいループをぐるぐる回ってしまうのですね。
このループから抜け出すには、自分でやるしかないのがポイントです。
自分の人生は、自分にしか変えることはできないのです。
そして、自分の人生を変えるために必要なことは「傷つくことから逃げないこと」「行動すること」の2つだけと著者は強調していました。

私自身も仕事で上司と合わずに休みながらこの本を読んでみると、確かに代償的自己のような生き方をしていた部分があると感じます。
「私は、いい子ちゃんになりたがっていたんだなぁ」と気づかされました。
これまでの人生を思い返してみれば、そうやって自分からしんどい方向に自分を持って行ってもがいていた部分もありそうです。

タイトルを見て何かピンと来た人は、ぜひ一読をお勧めします。
「あぁ、この感覚は、そういうことなのか」と腑に落ちる部分がきっとあるはずです。



たぶん根っこの部分は『繊細さん』と近いものがあると思います。

モモ (Mエンデ、岩波少年文庫)



モモ (Mエンデ、岩波少年文庫)』を読みました。
時間とはどういうものなのかを考えさせられます。
1973年に書かれた本ですが、まさに今ここで読まれるために書かれた本だと思わせる一冊です。

物語ですから、読んでみないと内容はわかりません。
誰かから聞いてもピンとこないし、端的に言えば「時間泥棒と女の子が戦う話」ですが、これだけではこの物語の核には触れることができない。
でも、読んでみれば「生きていくうえで大事なことってどんなことだったっけか」、と考えるために立ち止まるきっかけをくれることでしょう。
子ども向けの本という設定ですが、忙しい大人こそ読むべきと思います。

仕事で体調を壊しかけている私には、ベッポという掃除夫のおじさんの言葉が印象的だったので、長いですが、引用します。

「なあ、モモ、」とベッポはたとえばこんなふうにはじめます。「とっても長い道路をうけもつことがあるんだ。おっそろしく長くて、これじゃとてもやりきれない、こう思ってしまう。」しばらく口をつぐんで、じっと前のほうを見ていますが、やがてまた続きます。「そこでせかせかと働きだす。どんどんスピードを上げてゆく。ときどき目を上げてみるんだが、いつ見てものこりの道路はちっともへっていない。だからもっとすごいいきおいで働きまくる。心配でたまらないんだ。そしてしまいには息がきれて、動けなくなってしまう。道路はのこっているのにな。こういうやり方はいかんのだ。」
ここでしばらく考え込みます。それからようやく、さきをつづけます。
「いちどに道路ぜんぶのことを考えてはいかん。わかるかな? つぎの一歩のことだけ、次の一呼吸のことだけ、つぎの一掃きのことだけを考えるんだ。いつもただつぎのことだけをな。」
またひと休みして、考えこみ、それから
「するとたのしくなってくる。これがだいじなんだな、たのしければ仕事がうまくはかどる。こういうふうにやらにゃあだめなんだ。」
そしてまたまた長い休みを取ってから
「ひょっと気がついたときには、一歩一歩すすんで来た道路がぜんぶおわってる。どうやってやりとげたかは、じぶんでもわからんし、息もきれていない。」
ベッポはひとりうなずいて、こうむすびます。
「これがだいじなんだ。」
(P52)

時間泥棒はまだいなくなっていません。
奴らは、いつでも、そこかしこから現れるのだということを知ること、それが豊かな時間を生きることにつながると思えます。

バカの壁(養老孟司、新潮新書)



バカの壁』(養老孟司、新潮新書)を読みました。

たしか高校生のときに読んで、なんでこの本がベストセラーになるのかわからないと思ったと記憶していましたが、この年で読み返すと染み渡ります。
「そうそう、本当にそうなんだよね!」というところばかり。
この我が意を得たりという感じは内田先生に通じるものがあります。

本書の趣旨は「常識を大切にしろ」「わかるということを軽んじるな」という2点に集約されると思いますが、この2点はまさに民主主義が成立するために市民に求められる要素にほかならないと思います。
この2つの要素がない人は、「頓珍漢な考えを持ち」「それこそ正しいと確信している」。
故に話にならない。
壊しようのない「壁」ができてしまうわけですね。
バカの壁というのは、ある種、一元論に起因するという面があるわけです。バカにとっては、壁の内側だけが世界で、向こう側が見えない。向こう側が存在していることすらわかっていなかったりする。(中略)今の一元論の根本には、「自分は変わらない」という根拠のない思い込みがある。(P194)

自分は100%正しい(相手が折れるべきだ=自分は意見を変えるつもりはない)と思っている人間とは、議論なんてできません。
議論とは相手を論破するためのものではなく、より良い答えを導くための"相談"に近いのですから。
ところがそこを理解せずに、自分は議論に「強い」などと豪語したりする人がいる。
普通に考えれば、おめでたくて凝り性の人だと思われるだろうけど、なんとなく今の社会はそういう人を持ち上げるきらいがある気がする。
「常識に縛られない鬼才」だとか、「毅然とした改革者」だとか。
養老先生はそういうのが「気持ち悪い」と思ったのではないかと私は思います。
(もし本当にそうだとすれば、私には養老先生の感覚が非常にわかります)

社会は共通了解の上に成り立ち、その構成員としての振る舞いが求められるということは、(格差の再生産が甚だしくなければ)当たり前でしょう。
自称人間嫌い中島義道先生さえもその前提で持論を展開している。
(非常識人のような人間嫌いが、常識を理解している事は1ミリもおかしくない。詐欺師が法律や人の心理を理解していてもおかしくないでしょう?)
「人間嫌い」のルール(中島義道、PHP新書)

問題は、どうしたら「壁を取り払うことができるのか」ということですが、著者の言うように「個人的に付き合っていくしかない」(P200)のかもしれません。
「ひょっとしたら、全く通じないかもしれないけど、付き合っていればいつか状況が変わるかもしれない」という希望を抱いて接し続けることのできる人が近くにいたとして、そのことのありがたさを感じられる様な人間を肯定するのも教育だと思わせられました。

ということで、やっぱり、先生にはいろんなタイプの人間がいたほうががいいと思います。
たまには「常識と外れた人」や「常識を外れた人」もいたほうがいい。
だけどこの辺の問題は、やっぱり程度の問題で、だからこそやっぱり難しい。

いずれにしてもいい本です。
読んでどう思うかはわからないけど、ぜひ子どもにも読んでほしい。
(そういえばこの本は実家の父の本から借りてきたのでした、父はどんな思いでこの本を読んでいたのやら?)
ということで、本棚入りです。

 

「人間嫌い」のルール(中島義道、PHP新書)



「人間嫌い」のルール』(中島義道、php新書)を読みました。
人間嫌いというとても反人情的な響きのあるテーマを扱う本ですが、私としては非常に筋の通った本だと思えました。
私には、自分の社会的な弱点を見つめるこの著者だって普通の人間のように思えます。

個人的には、著者の意見は、ほとんどすべて納得できます。
要するに、個々人違うのだから、それを認める社会たれというだけのことです。
こういう本が書かれなくてはならないことが悲しいと思うのですが、そうでもないのでしょうか。
少なくない人が、著者とおんなじ事を思っていると思います。
特に立場の低い者はそうでしょう。
職場のパワハラもこういうところに根があると私は思っています。

中江兆民も葬式は行かなかったそうだし、私としても別に葬式に行く必要はないと思います。
行きたい人は行けばいいし、行きたくない人は行かなければいい。
後日線香をあげるのもよし、家で黙想するでも良いではないですか。
なぜに悲しさを外に見えるように表さなければならないのか。
著者はただ、他人の考えは他人に任せておけと言っているだけです。
行動の動機は、その真意は、つまるところ本人しか知り得ないのだから、周りが憶測でどうのこうの言うなという事に尽きると思います。

そして、現代社会はどんどんそういう方向に向かっているというのが私の印象です。
この社会的合理化がどこまで行くかはわかりませんが、近いうちに著者の望んだ共同体が日本という国には出来上がる気がします。

この本を理解できる人には、「昔は良かった」という言葉をそのまま受け取れることはできないでしょう。
「よそはよそ」という社会こそを理想とするし、現実の社会は今、家の解体や、核家族化、非婚・晩婚、シェアハウスなどなど、明らかに社会的な縛り(つながり)を減らす方向に動いていますから。
今回の新型コロナウイルスへの対応で、人と人との物理的な距離もいくらか広がるでしょう。
今後は、不必要なつながりは避けられ、現実的な生活に必要なゆるいつながりを残す流れが肯定されていくように思います(という希望)。

今日も社会の至るところ(主には日陰が多いかもしれません)で、緩やかな共同体が生まれつつあります。
私としては、いい時代だと思うのですが、たぶん異論は多いのでしょう。

この本を読んで自分の人間嫌いを自覚する人も多いのではないかと思います。
問題はそれで救われるか、傷つくかどうかです。
救われる人は救われればいい。
傷つく人も、気にする必要はありません。
傷つくあなたは、たぶん人間嫌いではないはずです。





大学の未来地図』(五神真、ちくま新書)を読みました。
面白かったです。

大学の経営層にいる方々の本には、「大学はなっとらん」「こんなんじゃ世界と渡り合えない」「大学教員なんかに教育を任せちゃいかん」という世間の声を柔らかく受け入れて、さらりと「ほんとにそうですよね、でもうちの大学は違いますよ。ちなみに私は海外の●●大学で云々」という書き方をする本が多いように感じていますが、本書は違います。
非常に冷静に「東大」を見ているように感じます。
あるいは、「東大」というか、東大をトップとした日本の高等教育の構造の中での東大の役割を(いい意味で)冷めた目でもって整理されている印象を受けました。
「確かにいろんな考えがあることは知っています。ただ、東大はこういう考えで、こういうことをすすめているんですよ」という感じです。

面白かったのは、意外と東大も自由に使えるお金が少ないということです。
資産が多くても、収益性の大きい資産ではなく(山林などの不動産などが多い)、またほとんどの資金(大学なので予算という方が正しいですね)が用途の決まった資金(予算)であり、ゆえに大胆な投資などは構造的にできない仕組みになっているそう。
そして、そこに公的な助成の減額がのっかってくるのだから、一昔前の東大と今の東大とでは経営の難しさが桁違いなのではないだろうかと思えてきます。
現場はどこも喘いでいて、その中でリーダーシップをふるう必要があるのですから、なかなかストレスフルな仕事でしょう。


---以下、話は本から逸れます---

上記のような運営資金に窮している状況であれば、なるほど著者の書いているように、産学連携やベンチャービジネスへの投資に注力していこうというのもわかります。
どうにかしてお金を稼ごうと思うのは当然です。
しかし、この方針は、東大のような大学だからできることであって、小規模かつ文系の大学などはなかなか採用できないでしょう。
ということで、すべての大学ができる施策ではないし、著者もそんなつもりでは言っていないでしょう。

では、小さい大学が生き残るためには何をすればいいのだろか、と思えば、言い方は悪いですが、弱いもの同士で協力することが大事ではないでしょうか。
ノウハウの共有や専門職人材の共有など、できることは多いはずです。
そうした連携が進めば、管理職の共有なんてこともあるかもしれません。
そのためにも、今後多くの大学で経営がひっ迫すればするほど、法人の合併は増えていくはずです。
という風に見ていくと、いろんな方法を使うことでしばらく大学は総数を減らしつつも、生き延びていくと思われます。

しかし、だからと言って(同書でも再三話題にしている)若手の雇用の不安定さが減ることはないでしょう。
大学や入学定員が適正な数に落ち着くのと、人口の減少とがマッチすることはしばらくないでしょうし、日本の雇用形態では専任の教員を首にはできない。
(むしろポストがない今、専任教員は必至で今大学の今のポジションを守ることでしょう)
ということで、どうしてもまだポストについていない若手研究者は専任のポストにありつけないことになります。
それはつまり、大きなスケールでの研究ができない(目先の成果を上げるための研究に力を注がざるを得ない)ということを表します。
これは知識集約型の社会において、非常に大きな損害になるように思います。

じゃぁどうすればいいのか。
私個人の考えでは、公的な助成を増やしてほしいのですが、それが望めないのであれば、人件費を下げてしまう、すなわち給料を下げてしまう、というのがいちばんいい気がします。
その分、もっと研究者を雇って、指導・講義・会議・事務作業の手間を分散してあげれば、むしろ喜んで給料を下げたい先生もいるのではないでしょうか。
人件費を下げてしまえば、優秀な人材が海外に逃げてしまう?
果たして本当にそうでしょうか?
自分が安定して自分の関心のある研究を追求できる環境があるのに、わざわざ別の大変な環境に行ってお金を稼ぎたいと思う人がそれほど多いとは私には思いません。
(どこかの大学で、アンケートでも取ってないものかと思います)

もちろん生活に苦しむほどの安易な給与カットを推奨するつもりは毛ほどもないのですが、給与はそこそこでいいから、教育・研究に使える予算を増やしてほしいという研究者が多いのではないでしょうか。
少なくとも、そういう仕組みでもない限り、ポストは増えないのではないでしょうか。
ポストが増えなければ、若手研究者はそもそも志望する人が減っていくでしょう。
高度な知識を持つ人材を有機的につないで社会的な価値を生み出していく、行かねばならない「知識集約型の社会」というものが到来するのであれば、みんなで少しずつ詰めて席を確保していくしかないのではないかなと思うのですが、いかがでしょうか。
(税金をもっと大胆に教育に投入してくれるなら、もうちょっと違う道もあるのかもしれませんが…)

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決めつけたように書きましたが、多分道はほかにもあるのでしょう。
すぐに答えのでるものでもないかと思いますので、今後時間をかけて、もう少し落ちついて考えてみたいと思います。

男のからだ・女のからだ―人体スペシャルレポート2 (Quark編、ブルーバックス)



男のからだ・女のからだ―人体スペシャルレポート2 (Quark編、ブルーバックス)』を読みました。
ゲスの極み、というのはちょっとかわいそうなくらい、頑張って取材して興味を持ってもらおうとがんばっているライターたちの様子が見て取れます。
面白い。

とはいえ、ゲスです。
しかしながら、飲み会で使えるかどうかという観点から見れば、実に実用的な一冊でしょう。
いい意味でも、悪い意味でも、ですが。
あとは、酒のツマミにもとてもいい。
なんたって頭を使わずに読めます。

それでいて、人生において大切なこと、つまり「人はみんなそれぞれなだし、それでいいんだ」ということを教えてくれます。

性については個々人、色々と悩むこともあることでしょう。
特に子どもなんかは興味を持ちつつも、変わっていく自分の心身に不安を抱いても何ら不思議ではありません。
(自分もそうだった気がします)
ということで、自分の子どもが思春期を迎えたときに、あまりおかしな方向に凝り固まらないように、本棚においておきたいと思いました。

「これでブルーバックス?!」という感じでしたが、こういうブルーバックスがあったって、まぁ悪くはないですよね。


五重塔(幸田露伴、Kindle無料本)



五重塔(幸田露伴、Kindle無料本)』を読みました。
面白く読めました。
幸田露伴は2冊め。
幸田露伴1867-1947(幸田露伴、筑摩書房)

本書は、雑にまとめてしまえば、「堅物どもの美談」です。
登場人物らはとても清々しい人々ではあるものの、十兵衛の仕事観には、池井戸潤作品のような仕事至上主義の感が漂っていて気になります。
表面上は時代錯誤と言えるでしょう、と言いたい。

ただし、それぞれの人々の立ち振舞には感ずるところが多いと思いました。
それぞれの章において、十兵衛、源太はもとより、上人様、お吉、清吉、などなど、個々人が自分で考えてその場で己がすべきだと思われる立ち振舞をし、それにともなう事態については己でしっかり責任を取ろうとする様子が見て取れます。
だから、たとえ個々人の言動が少し自分の感覚とは違っていても、「なるほど彼(彼女)はそう思って、そう動いたのだな」ということがわかるし、周りの登場人物らもそれをわかっているし、多分著者の幸田露伴もそこ(主体的な人間たち)をわかりやすく表現したかったんではなかろうか、と思いました。
(そういう意味でも、とても池井戸潤作品ぽい感じがします)

「恥」という尺度を道徳的に適用する日本人のいい側面が描かれているように感じました。
個人的には、上人様と源太が好きです。

読み終わったときには、無性に熱燗が飲みたくなる本でした。

  

古典がもっと好きになる(田中貴子、岩波ジュニア新書)



古典がもっと好きになる(田中貴子、岩波ジュニア新書)』を読みました。
国文学者の著者が、「文法なんて知らねぇよ。いいから読め」(とまで口悪くはないですが)とぶち上げる痛快な本です。
古典や古文を味わいたいという人には非常に実際的な内容が書かれています。
とても面白かったです。

上の表現は私の超訳で、本書ではもっと穏やかに次のようなことが書かれていました。

文法も不要ではないけれど、そればっかりでは古典の面白さはわかりません。
声を出して読み、何度も読み、そうしているうちに意味が分かってきて、文脈がわかってきて、そして現代にも通じる面白みがあることに気づいて古典と親しめるものです。

…ということです。
「古文は外国語ではなく、昔の日本語」なのだから、あまり肩ひじ張らず、自然体で楽しみましょうね、というスタイルで古典と付き合うことを勧めていました。
私も昨年『大鏡』を読んだ際にはとてもおもしろく読めたので、本当にそう思います。
古文が嫌いで古典を敬遠している人は、もったいないと思います。
時代の風雪に耐えて今もある書物には、何かしら感ずるところがあること請け合いです。
だから、現代語訳でもいいから、興味があれば読んでみるといいと思います。
1000年前の文学だからって、そんなに偉いもんでもないと思って、週刊誌の連続小説を暇つぶしに読むくらいの感覚で付き合えばいいのではないでしょうか。
もちろん読まなくたって生きていくのに不便はありません。
だから、古典・古文なんていうのは趣味の世界なのです(と言ったら専門家の方は怒るかもしれません。ということで、これは私見です)。
でも、古典・古文に親しめば、気軽にタイムスリップができます。
それが人生を豊かにしないなんてことがありますでしょうか?

我が国は単一国家としての歴史も長く、様々な文化が連綿と続いてきた社会に生きているわけですから、この国でしか味わえない”スルメ”的学問が多くありますす。
その一つがまさに古典・古文ではないかと思うのです。
そして、そういうスタンスで様々な古典・古文の資料と向き合える人が多ければ多いほど、学問としてはよいはずです。
まだまだ現代語訳を待っている多くの古文が古本屋や納屋の奥に眠っています。
それを現代の光にあてる人材を増やすのに、本書は大きな寄与をするのではないかと、読みながら思いました。
このさい、古典文法は頭のなかから追い出してください。それより、日本人の心の宝、文化の泉である古典の一節を、わけもわからないまま暗唱するほうが将来の教養のためにはいいと思います。口をついて出る言葉、それは脳のどこかにしっかりとしまわれてあなたの心の血肉となることでしょう。(P53)
確かに、ちょっとキザな感じもしますが、さらりと場に即して暗唱できたら、場を盛り上げることもできるかもしれませんね。
そんなわけで、私はとりあえず、百人一首から始めようかと思います。

国際感覚ってなんだろう(渡部淳、岩波ジュニア新書)



国際感覚ってなんだろう(渡部淳、岩波ジュニア新書)』を読みました。
耳が痛いなぁと思いながら、楽しく読めました。

全体を通じて、「喋れれば国際感覚を持った人間になれるというものではない」ということを強調しています。
(そうですよね)
大切なことは「異文化を否定しない」「理解できない他者に手を差し伸べる」「自分にできることをやる、発信する、行動する」というようなことに集約されるのではないか、ということでした。
(本当にその通りだなぁ)
特に新型コロナウイルスの感染が拡大している今の世の中において、世界が一丸となってことにあたることの重要性はさらに増しているのではないかと思います。
合意形成の進行形式(集団討論など)を考えると、喋れることが国際化にならないとは言いつつも、喋れるということは合意を形成するうえでとても大切なようです。
ディベートの箇所を読むと、そうした直接的、瞬間的なコミュニケーションのやり取りの重要性が強調されていました。
特に大人数で、一定の時間の中で合意を形成する場合、事前の準備とその場での対応力が求めらるということですから、まだまだgoogle翻訳では難しい領域かもしれません(そのうち解決しそうですが)。
とはいえ、やはり「自分の意見」をもって、それを発信し、「他者の意見」を受け入れ、それに返事をする、こういうことが一般的な世界になるのです(そうでない日本が特殊なのかもしれませんが)。
そうなると、確かに海外で(あるいは「の」)教育を受けている人の方が、なじみやすいかもしれません。
ここで変な方向に舵を切ってしまいますが、このことはつまり、外国語の学習が「日本の教育から逃れるための船」のような役割を果たすことにならないかと不安になります。
「日本では世界とやりとりする教育は受けられない。だから話せる英語を身に着けて、海外でコミュニケーション力を持った人材が育ってほしい」という願いのもとに外国語教育がなされてしまっていないかと疑いの気持ちが芽生えてしまいます。
もちろん、グローバルスタンダードが正解とは思いません。
国ごと、個人ごとに理想をもって勉強なり生活に励めばいいと思います。

とはいいつつも、一定数海外で学ぶ人がいることは、国内の教育制度改善の刺激にもなるかもしれませんので、絶対ダメという事も言えないですね。
ということで国内で生きていたって「自分の理解できない事象に対する寛容さ」が求められるわけです。
ということでこの本の示した「国際感覚」とは、「常識」「成熟」という言葉に置き換えてもいいものなのかもしれません。


幸田露伴1867-1947(幸田露伴、筑摩書房)



幸田露伴1867-1947(幸田露伴、筑摩書房)』を読みました。
少ししんどいところもありましたが、面白かったです。
『貧乏』は江戸っ子の語り口が面白く、『突貫紀行』は徒歩旅行をしたくなります。
『蒲生氏郷』は重かったけど、伝記らしく、その人の周辺の世界がわかり、伊達政宗や豊臣秀吉の人柄が呑み込みやすい形で表現されていて、読み終わったときには少しさわやかな気持ちになります。
ところで、武士の世界の倫理というかルール、規律のようなものも、なるほどこういうことだったのかと合点がいった部分も多かったのが印象的でした。
いやはや、武士の世界とは、不良の世界ですね。

それから、個人的には『野路』という話が好きでした。
幸田露伴のイメージからは全然想起できないような、春の温かい、パステルカラーのゆったりとした世界が描かれています。
そして、そんな春の休日で、のんびり散歩しながら野草を食べて歩くというのはなかなか乙ですね。
酒が飲みたくなってしまいます。

解説の人も書いていましたが、幸田文の「父・こんなこと」を読む限りは堅物の父親のイメージがあったので、本書を読んで全体的に人情味のある、明るい内容が多かったのがいい意味で予想外でした。
父こんなこと(幸田文、新潮文庫)
(幸田文の文体と重なる部分が散見され、ちょっとほっこりしました)

ということで、次は代表作『五重塔』を読みたいと思います。


 

辞令交付式への違和感(みんなよく参加するなぁ)

 今日は4月1日。  我社では辞令交付式が行われました。  そのため、土曜日ですが、人事課員として出勤しました。  明日も仕事なので、12連勤となります。   人事課の闇ですね。  それはさておき、辞令交付式に関して、毎年違和感を持ちます。  それは、お礼を言われる側が、何故かホ...