ラベル 教育 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 教育 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

教育が子どもから自主性を奪う:【書評】反教育論(泉谷関示、講談社現代新書)



反教育論(泉谷関示、講談社現代新書)を読みました。
面白かったです。

内容としては、いかにして自主性をはぐくむかという点にあると私は感じました。
基礎教育にこだわったり、何でもレールを引いてあげたりすることで、いかに個人の自主性がなくなっていくのかといった内容です。
本書の内容は、かなり根本橘夫氏の『「いい人に見られたい」症候群』等の著作につながるものが多い印象を持ちました。
いずれも「自分を持て」というメッセージを発しているように私は感じます。
『「いい人に見られたい」症候群』がどうやって「自分の持つか」という方法が主だったのに対して、本書は「なぜ自分を持てなくなるのか」という根本原因を深堀したような感じでしょうか。
また、様々な先人からの引用や現代社会とのつながりなども絡めて説明するため、「自分を持てなくなる背景」がより鮮明になっている感じがします。

自主性の育て方

本書には、「自主性を育ませたいなら、自主的にさせておかなくてはならない」というロジックが底流しています。
なるほどその観点で行くのであれば、私たち大人は「どうにか子どもをコントロールしないように」自律しなくてはいけません。
そして、私たち大人から逃れるべき機関である学校にもそのことを求めなければなりません。
そのためにも、自主性は外から育てることはできないということを認めることが必要です。
「いい距離で見守る勇気」、大人にはこの勇気が求められているようです。

子離れが大事

そういう意味では、本書は、子育てをしている方にとっては、結構きつい本かもしれません。
例えば、幼児教育やいい学習環境が子どもを必ずしも成長させるわけではないなど、親としてはしてあげたいことが子どもの成熟には却ってマイナスに働くというような主張も多いです。
逆に、親に嘘をつけないと子どもは成長しないという主張も、親的には少し「えっ…本当に?」と思ってしまうでしょう。
ただ、「無菌状態で育てれば、弱い子になる」と言われてみれば、私としてはよくわかります。
極力親は介入せず、子どもが大けがしないように見守ってあげることが、親のしてあげられる最大限のことなのかもしれません。
そういう点からみると、ぜひ子育てに自信を持っている人にこそ読んでほしい一冊です。
(まぁ自信を持っている人はこういう本を読まないと思いますが)

逆に、子育てにへとへとになっている人にはいいかもしれない。
本書を読めば、子どもはうっちゃっておいてもいいかもと思えると思います。
親がかかわらないほうが、子どもが成熟するのですから。
あとは、親が何か没頭できる遊びのようなものを持っているほうが、子どももそれをまねるかもしれないので、そういう時間を作ってもいいのかもしれないと思えるかもしれません。
そういう意識を持っておけば、少なくとも、子どもが何かに没頭していることを容認できるはずです。
また、子どもが集団の中で浮いていたり、先生から疎まれたりしていたとしても、ひょっとしたら自分で考えることのできる子どもなのかもしれないとポジティブに考えることができます。
(もちろん人を傷つけるというようなことは許されませんが)
こういう風に見ていくと、子育てや教育というのは、そんなに難しいことではないように思えます。

といった感じで、人によっては少し肩の荷が下りる本です。





大学の未来地図』(五神真、ちくま新書)を読みました。
面白かったです。

大学の経営層にいる方々の本には、「大学はなっとらん」「こんなんじゃ世界と渡り合えない」「大学教員なんかに教育を任せちゃいかん」という世間の声を柔らかく受け入れて、さらりと「ほんとにそうですよね、でもうちの大学は違いますよ。ちなみに私は海外の●●大学で云々」という書き方をする本が多いように感じていますが、本書は違います。
非常に冷静に「東大」を見ているように感じます。
あるいは、「東大」というか、東大をトップとした日本の高等教育の構造の中での東大の役割を(いい意味で)冷めた目でもって整理されている印象を受けました。
「確かにいろんな考えがあることは知っています。ただ、東大はこういう考えで、こういうことをすすめているんですよ」という感じです。

面白かったのは、意外と東大も自由に使えるお金が少ないということです。
資産が多くても、収益性の大きい資産ではなく(山林などの不動産などが多い)、またほとんどの資金(大学なので予算という方が正しいですね)が用途の決まった資金(予算)であり、ゆえに大胆な投資などは構造的にできない仕組みになっているそう。
そして、そこに公的な助成の減額がのっかってくるのだから、一昔前の東大と今の東大とでは経営の難しさが桁違いなのではないだろうかと思えてきます。
現場はどこも喘いでいて、その中でリーダーシップをふるう必要があるのですから、なかなかストレスフルな仕事でしょう。


---以下、話は本から逸れます---

上記のような運営資金に窮している状況であれば、なるほど著者の書いているように、産学連携やベンチャービジネスへの投資に注力していこうというのもわかります。
どうにかしてお金を稼ごうと思うのは当然です。
しかし、この方針は、東大のような大学だからできることであって、小規模かつ文系の大学などはなかなか採用できないでしょう。
ということで、すべての大学ができる施策ではないし、著者もそんなつもりでは言っていないでしょう。

では、小さい大学が生き残るためには何をすればいいのだろか、と思えば、言い方は悪いですが、弱いもの同士で協力することが大事ではないでしょうか。
ノウハウの共有や専門職人材の共有など、できることは多いはずです。
そうした連携が進めば、管理職の共有なんてこともあるかもしれません。
そのためにも、今後多くの大学で経営がひっ迫すればするほど、法人の合併は増えていくはずです。
という風に見ていくと、いろんな方法を使うことでしばらく大学は総数を減らしつつも、生き延びていくと思われます。

しかし、だからと言って(同書でも再三話題にしている)若手の雇用の不安定さが減ることはないでしょう。
大学や入学定員が適正な数に落ち着くのと、人口の減少とがマッチすることはしばらくないでしょうし、日本の雇用形態では専任の教員を首にはできない。
(むしろポストがない今、専任教員は必至で今大学の今のポジションを守ることでしょう)
ということで、どうしてもまだポストについていない若手研究者は専任のポストにありつけないことになります。
それはつまり、大きなスケールでの研究ができない(目先の成果を上げるための研究に力を注がざるを得ない)ということを表します。
これは知識集約型の社会において、非常に大きな損害になるように思います。

じゃぁどうすればいいのか。
私個人の考えでは、公的な助成を増やしてほしいのですが、それが望めないのであれば、人件費を下げてしまう、すなわち給料を下げてしまう、というのがいちばんいい気がします。
その分、もっと研究者を雇って、指導・講義・会議・事務作業の手間を分散してあげれば、むしろ喜んで給料を下げたい先生もいるのではないでしょうか。
人件費を下げてしまえば、優秀な人材が海外に逃げてしまう?
果たして本当にそうでしょうか?
自分が安定して自分の関心のある研究を追求できる環境があるのに、わざわざ別の大変な環境に行ってお金を稼ぎたいと思う人がそれほど多いとは私には思いません。
(どこかの大学で、アンケートでも取ってないものかと思います)

もちろん生活に苦しむほどの安易な給与カットを推奨するつもりは毛ほどもないのですが、給与はそこそこでいいから、教育・研究に使える予算を増やしてほしいという研究者が多いのではないでしょうか。
少なくとも、そういう仕組みでもない限り、ポストは増えないのではないでしょうか。
ポストが増えなければ、若手研究者はそもそも志望する人が減っていくでしょう。
高度な知識を持つ人材を有機的につないで社会的な価値を生み出していく、行かねばならない「知識集約型の社会」というものが到来するのであれば、みんなで少しずつ詰めて席を確保していくしかないのではないかなと思うのですが、いかがでしょうか。
(税金をもっと大胆に教育に投入してくれるなら、もうちょっと違う道もあるのかもしれませんが…)

---

決めつけたように書きましたが、多分道はほかにもあるのでしょう。
すぐに答えのでるものでもないかと思いますので、今後時間をかけて、もう少し落ちついて考えてみたいと思います。

古典がもっと好きになる(田中貴子、岩波ジュニア新書)



古典がもっと好きになる(田中貴子、岩波ジュニア新書)』を読みました。
国文学者の著者が、「文法なんて知らねぇよ。いいから読め」(とまで口悪くはないですが)とぶち上げる痛快な本です。
古典や古文を味わいたいという人には非常に実際的な内容が書かれています。
とても面白かったです。

上の表現は私の超訳で、本書ではもっと穏やかに次のようなことが書かれていました。

文法も不要ではないけれど、そればっかりでは古典の面白さはわかりません。
声を出して読み、何度も読み、そうしているうちに意味が分かってきて、文脈がわかってきて、そして現代にも通じる面白みがあることに気づいて古典と親しめるものです。

…ということです。
「古文は外国語ではなく、昔の日本語」なのだから、あまり肩ひじ張らず、自然体で楽しみましょうね、というスタイルで古典と付き合うことを勧めていました。
私も昨年『大鏡』を読んだ際にはとてもおもしろく読めたので、本当にそう思います。
古文が嫌いで古典を敬遠している人は、もったいないと思います。
時代の風雪に耐えて今もある書物には、何かしら感ずるところがあること請け合いです。
だから、現代語訳でもいいから、興味があれば読んでみるといいと思います。
1000年前の文学だからって、そんなに偉いもんでもないと思って、週刊誌の連続小説を暇つぶしに読むくらいの感覚で付き合えばいいのではないでしょうか。
もちろん読まなくたって生きていくのに不便はありません。
だから、古典・古文なんていうのは趣味の世界なのです(と言ったら専門家の方は怒るかもしれません。ということで、これは私見です)。
でも、古典・古文に親しめば、気軽にタイムスリップができます。
それが人生を豊かにしないなんてことがありますでしょうか?

我が国は単一国家としての歴史も長く、様々な文化が連綿と続いてきた社会に生きているわけですから、この国でしか味わえない”スルメ”的学問が多くありますす。
その一つがまさに古典・古文ではないかと思うのです。
そして、そういうスタンスで様々な古典・古文の資料と向き合える人が多ければ多いほど、学問としてはよいはずです。
まだまだ現代語訳を待っている多くの古文が古本屋や納屋の奥に眠っています。
それを現代の光にあてる人材を増やすのに、本書は大きな寄与をするのではないかと、読みながら思いました。
このさい、古典文法は頭のなかから追い出してください。それより、日本人の心の宝、文化の泉である古典の一節を、わけもわからないまま暗唱するほうが将来の教養のためにはいいと思います。口をついて出る言葉、それは脳のどこかにしっかりとしまわれてあなたの心の血肉となることでしょう。(P53)
確かに、ちょっとキザな感じもしますが、さらりと場に即して暗唱できたら、場を盛り上げることもできるかもしれませんね。
そんなわけで、私はとりあえず、百人一首から始めようかと思います。

国際感覚ってなんだろう(渡部淳、岩波ジュニア新書)



国際感覚ってなんだろう(渡部淳、岩波ジュニア新書)』を読みました。
耳が痛いなぁと思いながら、楽しく読めました。

全体を通じて、「喋れれば国際感覚を持った人間になれるというものではない」ということを強調しています。
(そうですよね)
大切なことは「異文化を否定しない」「理解できない他者に手を差し伸べる」「自分にできることをやる、発信する、行動する」というようなことに集約されるのではないか、ということでした。
(本当にその通りだなぁ)
特に新型コロナウイルスの感染が拡大している今の世の中において、世界が一丸となってことにあたることの重要性はさらに増しているのではないかと思います。
合意形成の進行形式(集団討論など)を考えると、喋れることが国際化にならないとは言いつつも、喋れるということは合意を形成するうえでとても大切なようです。
ディベートの箇所を読むと、そうした直接的、瞬間的なコミュニケーションのやり取りの重要性が強調されていました。
特に大人数で、一定の時間の中で合意を形成する場合、事前の準備とその場での対応力が求めらるということですから、まだまだgoogle翻訳では難しい領域かもしれません(そのうち解決しそうですが)。
とはいえ、やはり「自分の意見」をもって、それを発信し、「他者の意見」を受け入れ、それに返事をする、こういうことが一般的な世界になるのです(そうでない日本が特殊なのかもしれませんが)。
そうなると、確かに海外で(あるいは「の」)教育を受けている人の方が、なじみやすいかもしれません。
ここで変な方向に舵を切ってしまいますが、このことはつまり、外国語の学習が「日本の教育から逃れるための船」のような役割を果たすことにならないかと不安になります。
「日本では世界とやりとりする教育は受けられない。だから話せる英語を身に着けて、海外でコミュニケーション力を持った人材が育ってほしい」という願いのもとに外国語教育がなされてしまっていないかと疑いの気持ちが芽生えてしまいます。
もちろん、グローバルスタンダードが正解とは思いません。
国ごと、個人ごとに理想をもって勉強なり生活に励めばいいと思います。

とはいいつつも、一定数海外で学ぶ人がいることは、国内の教育制度改善の刺激にもなるかもしれませんので、絶対ダメという事も言えないですね。
ということで国内で生きていたって「自分の理解できない事象に対する寛容さ」が求められるわけです。
ということでこの本の示した「国際感覚」とは、「常識」「成熟」という言葉に置き換えてもいいものなのかもしれません。


三酔人経綸問答(中江兆民、光文社古典新訳文庫)



三酔人経綸問答 (中江兆民、光文社古典新訳文庫)を読了。
面白かった。
一年有半と異なり、原文でもちゃんと意味がわかりました。
一年有半・続一年有半(中江兆民、岩波文庫)
原文と訳文の両方が掲載されており、どちらも味わうことができる素晴らしい構成です。
校注はほとんどないけれど、行ったり来たりすれば大体の意味はつかめます。
どちらも独特のリズムがあって、面白い。

さて、本書は問題提起の本だと思います。
当時の日本における課題とそれを取り巻く活動や世論をわかりやすく分類し、整理して、一冊の中で戦わせてしまったのだと私は理解しました。
帝国主義を読んだ後なので、どうしても幸徳秋水と洋学紳士が重なってしまいますが、その真意や如何に。
帝国主義(幸徳秋水、岩波文庫)
ひょっとしたら、これは世の中に向けてということもあるけれども、弟子たちに向けたテキストのようなものとして書かれた、という側面もあったのではないかと考えてしまいます。
対象はどうであれ、兆民自身も少なくとも多くの人間に思想という種をまくということを重視していることは確かであろうから、100%外れているということもないでしょう。
そして、多くの人の頭に残すためにあえて劇作のように拵えたのかもしれません。
確かに、座談形式なので読みやすく、自分の中で議論を咀嚼しやすい。
最終的になんの結論も書かれていないから、議論の扉は開け放たれた形で終わりますので、読後も自分の中で問い続けることができます。
ひょっとしたら兆民は、以降の議論を個々の自由に委ねることで種の肥料としようとしたのではあるまいか…。
などなど、読んだ後もなかなか楽しめる本です。

解説の中で、兆民の思想を端的に表す引用があったので、それを紹介します。

社会というものはな、秩序と進歩と相待ったものである、若しも急激に事を処すると飛んだ間違を起こすものぢやぞ、小児の病は癒ること速かなるが大人はそふぢやない。社会は成長すれば其構造も発達するものぢや、丁度人間の成長するに能く似て居るものぢや、斯く永久の年月を経て進歩する性質のものであるから、之れを改良するにはヤツパリ進歩の法則に従ひ、次第次第に根本的改良に従事せねばならぬものぢや、若しも急激に荒療治をするときは、正当なる身体をして却って害毒を来たし、不健康に陥らしむることがあるものぢや、徐かに急げとは社会改良家の一日も忘るべからざる言ぢや、理解たか理解たらモー帰れ帰れ(『中江兆民全集』第十七巻)(欄外に曰く。さあ、早く家に帰って『三酔人経綸問答』を読もう)(三酔人経綸問答P188)

改革を叫ぶ人は、この論をよく考えてみる必要があるだろう、ということを、以降頭の片隅に置いておきたいと思います。

 

菊と刀 (ルース・ベネディクト、講談社学術文庫)



菊と刀 (ルース・ベネディクト、講談社学術文庫)を読みました。
面白かったです。

本書のタイトルは「日本人は圧力をもって菊をあたかも自然にあるように、育てる。そして、自身を刀と捉えてその美しさを保つところに美意識を感じる」ということを表しています。
本書はそのことを様々な角度(歴史、生活様式、教育、など)から分析している本です。
至る所に「あー、確かに」「なるほど、そう考えれば筋が通るな」という点が多々ありました。
これで一度も日本に来ていない人が書いているのだから信じられません。
解説者も書いていましたが、是非日本に来て直に観て、追加の分析をしてほしかったものです。

驚くべきは、アメリカが戦勝後に日本を占領するにあたり、どのような統治を行うべきか、その研究を進めていたのに対し、日本においては、そのような話は一切聞かないことです。
そういう話はあったのでしょうか。
大東亜共栄圏の発想の下には戦勝後のアジアにおける統治の構想はあったのかもしれませんが、アメリカを占領してカナダやメキシコとの関係をどうしようなんて構想があったというのは聞いたこともありません。
その差が全く戦果に影響を与えなかったということは、おそらくないと思われます。

ところで、この本を読んだ今でも、日本がアメリカを統治しているイメージが全く持てません。
アメリカでは個々人が強いから、指導者層だけを操ってもダメでしょう。
ということで、アメリカが日本を統治したやり方では、おそらくアメリカを統治することはできないと思えます。
果たしてアメリカという国は、どうやったら占領できるんだろう。
(誰か考えた人の本があるなら読んでみたいです)

ーーー

著者は、先の戦争は、日本が自分のいるべき位置を確認するための戦争だったといいます。
なるほどそうかもしれないという気持ちになりました。
日本人は自分の治まりどころがわからないと、非常にストレスを感じるのが一般だというのは全く違和感ありません。
この辺は『スクールカースト』にも通じるものがありますね。
教室内(スクール)カースト(鈴木翔、光文社新書)

なまじ日清、日露で買っちゃったから、どこまでつきすすむべきなのか、分からないまま、いけるところまでやってしまった、という事なのかもしれません。
そして、限界が来たら(敗戦において)、ここが限界だと気づいて、すぐに方向転換してしまう性質も私たちの特徴のようです。
結構図太い民族のようです。
これらは、恥の文化(西洋の罪の文化との対比)にその一因があることも指摘されていました。

また、この本で指摘されるまでは当たり前すぎて気にもとめなかったことがいくつもありました。
例えば、義理と義務、人情、歴史、誠(まこと)など、欧米人はこういう見方をするのか、というさわやかな驚きを何度も経験できます。
全く意識せずにこれらの運用を私たちがしてきたということも目から鱗でした。
異文化理解とは、つまるところ、こういうことではないでしょうか。
他者から見た自己を理解し、その差異にスポットライトを当てて自他を理解する。
そして、外国語でなければ光を当てることのできない箇所がある、という点に、外国語を学ぶ意味があるのではないかと、そんなことを思いました。
英語教育の危機(鳥飼玖美子、ちくま新書)

本書を読んだからどうなる、という事ではないのでしょうけれど、本書を読んだ人と読んでいない人とでは、日本人としての自分の行動原理への理解度が大きく隔たれるのではないかと思います。
自分の行動原理が理解できたからと言って、得するもんでもないのでしょうけれど、気心のしれない他人と接する際に自分を律することに対しては、いくらか役に立ちそうな気がします。

本書は、解説もなかなかいい感じでした。
読みながら、なんとなくもやもやしていたものについて、詳細に解説しくれました。
ぜひ、解説もご一読をおすすめします。

英語教育の危機(鳥飼玖美子、ちくま新書)


英語教育の危機』(鳥飼玖美子、ちくま新書)を読みました。
いやいや、痛快ですね。
英語にまつわる日本社会が持つふんわりとした希望に形を与え、その上でそれらをばっさばっさと切っていきます。

曰く、
・外国語のみの外国語学習はその効果が久しく疑問視されており、時代遅れの感が否めない
・外国語を学ぶことが直接異文化理解につながるものではない
→母語との差異を学ぶ必要があるが、そのためには一定の母語運用能力が必要
・外国での体験がそのまま異文化理解につながるものではない
→留学を増やせばいいというものではない
・民間試験では英語での「コミュニケーション能力」は伸びない
→そもそもコミュニケーション能力は測定ができない
などなど。


読んでみて驚いたのは、今年から導入される新学習指導要領の小学校英語についての到達目標が余りにもレベルが高すぎると思われた点です。

以下、小学校での導入される英語の実施に向けた目標(学習指導要領からの転載)
(1)外国語の音声や文字、語彙、表現、文構造、言語の働きなどについて、日本語と外国語との違いに気付き、これらの知識を理解するとともに、読むこと、書くことに慣れ親しみ、聞くこと、読むこと、話すこと、書くことによる実際のコミュニケーションにおいて活用できる基礎的な技能を身に付けるようにする。
(2)コミュニケーションを行う目的や場面、状況などに応じて、身近で簡単な事柄について、聞いたり話したりするとともに、音声で十分に慣れ親しんだ外国語の語彙や基本的な表現を推測しながら読んだり、語順を意識しながら書いたりして、自分の考えや気持ちなどを伝え合うことができる基礎的な力を養う。
(3)外国語の背景にある文化に対する理解を深め、他者に配慮しながら、主体的に外国語を用いてコミュニケーションを図ろうとする態度を養う。

鳥飼玖美子. 英語教育の危機 (ちくま新書) (Kindle の位置No.773-780). 筑摩書房. Kindle 版.

これを小学校で到達できるレベルだとするならば、今までは何だったのか。
これが絵にかいた餅でないなら、これまでの学習指導要領を採用していたことについて、文科省は謝罪をしてほしい。
私全然しゃべれないよ!
それは冗談ですが、小学校の先生は、おそらくこんな目標を達成できるような英語を、教えきれないでしょう。
教えられるなら、英会話教室を立ち上げている先生が大勢いるはずです。
政策起草者は学校の先生をスーパーティーチャー集団か何かだと思っているのではないでしょうか。

しかも、小・中・高の英語の目標がほとんど同じで、どのように接続・発展させていくのかは現場任せの様子。
これでは学校ごとや教室ごとでの到達度合いにムラが生じます。
そもそも、そういうムラを極力生じさせないための指導要領ではないのでしょうか。

さらに言えば、このご時世、翻訳は機械がやってくれる。
だとしたら、なぜに外国語を学ぶ必要があるかと言えば、自国の文化等を知るためだと思います。
他国との差異を知ることが、自国を知ることになり、異文化への寛容を助けることに外国語学習の意義があると思います。
しかし、他国との差異を知るのは、翻訳された書物(つまり母語の資料)からもできるのですから、これでもやはり外国語が絶対必要というものでもないでしょう。
やはりまずは「母語で読める」ことが重要だと思うのです。
その上で翻訳の際の微妙なニュアンスの違いなどを読み込むために、「外国語で読む」というステップに至るのではないでしょうか。

ーーー

ところで、著者の提案する英語学習では、グループワークの推奨がありました。
確かに個々人の個性を、長所を生かしたディスカッションができれば、自信につながる授業が展開できるでしょう。
しかしながら、スクールカーストなどが教室運営の要素と密接に絡んでいる我が国の学校ではなかなかなじまないという懸念が生じます。
このことは、著者の懸念している、そもそも日本人は自立した個人を育てたいのか、という疑問につながります。

もっと言えば、日本社会は本当に「自立した個人」を育てたいのか、という疑問にもぶつかる。「主体的で自立し、批判精神旺盛な個人」は、和をもって尊しとなす日本社会で果たして求められているのだろうか。欧米の教育実践の一部を恣意的に表面だけ導入しても、カリキュラムなど教育の根本を変えようとしないのは、もしかすると日本社会の本音が表れているのかもしれない。
鳥飼玖美子. 英語教育の危機 (ちくま新書) (Kindle の位置No.584-588). 筑摩書房. Kindle 版.

なるほど、我々大人たちは、「俺は喋れなくても、喋れる奴がいればいいんだ。喋れるだけでいい。批判は要らない」というスタンスだったかもしれない。
直接こうは意識していないけれど、否定はできない気がします。

そして、私の頭の中では、先日読んだ『スクールカースト』が、これはうまくいかないと警報を鳴らしています。
また、以前読んだ『アクティブラーニング』という書籍もこの辺の学びの難しさ、特に日本の教育の中での実践の難しさ、歪みやすさを指摘していた気がします。


最期に、多くの日本人が英語を喋れない最も大きな要因の一つは、外国語が必要な状況が日本にはあまりない、という点あると言えないでしょうか。
だから全員が外国語を学ぶ必要があるのかどうかをまず議論してはいかがかと思います。

  

教室内(スクール)カースト(鈴木翔、光文社新書)


教室内(スクール)カースト(鈴木翔、光文社新書)』を読みました。
面白かったです。
読んでいると、「あー、こういうのあったなぁ」という点が多々あります。
自分の過去を振り返ざるを得ません。
そして、自分も一部ではこういう序列形成に関与していたことを認めざるを得ません。


著者は、アンケートとインタビューを通じて、スクールカーストの構造を解明しようとします。
そして、出てきた答えは「生徒」と「教師」は同じ「スクールカースト」という序列を、前者は「権力」の階層とみなし、後者は「能力」による区分け、と見ていることがわかりました。

また、スクールカーストが「下位」の生徒には劣等感や屈辱感を与える一方で、「上位」の生徒にも上位カーストに属するものとしての義務感のような重苦しさを与えるという、両者への負の側面も解説され、単純に上位のものが優遇されるものでないことも示されています。
(それでもやっぱり「上位」のほうが何かと楽しそうですが)

ではどうすればそうした階層・序列をなくすことができるのかといえば、これは学級制度自体に伴う現象であるがゆえに、教育システムの大幅な改修が必要になりそうだと思われます。
それを鑑みた上で、著者は「当事者ができる対応策」を幾つか上げていますが、これがとても優しい印象。
特に「学校は社会に比べればよっぽど複雑」という助言は、かなり当事者(特に下位に属する生徒)を助けるのではないかと思います。
個人的にも学校というのは、「同じ年」「近い地域」の子どもたちが「10年近くも」同じ集団に属して生活の半分近くを捧げなくてはならないという、大変特殊な場所だと思います。
個人的な差異が少ない集団であれば、当然「少ない差異」の中の序列を作ろうとするのが集団です。
ましてや年齢も地域も近いのであれば、「素質」「才能」「人間関係」と言った「どうしても差が生まれるような要素」で序列を作るのは全く違和感を感じません。
しかし、社会に出れば、そういう軸で個人をソートすることは(一応)ありません。
(もちろん大きなくくりで、上級国民・下級国民なんて言葉ありますが)
適材適所とまでは行かないまでも、「まぁ我慢できる居場所」を多くの人が獲得できます。
だから、無理してまで学校に行かなくていい、という対応策もやはり至極真っ当だと感じます。

この辺は、親も理解しておく必要があるでしょう。
別にスクールカーストに疲れてしまうことは、異常ではないし、どんな理由にせよ、学校に通えないから社会に通用しないわけではない。
(例えば幸徳秋水も幸田露伴も学校を卒業していませんしね)
むしろ学校と家庭しか世界のない子どもにとって、学校が苦痛のときに、家庭でも「学校にいけ」という圧力が働いたなら、子どもはおかしくなっても少しも不思議ではないでしょう。

しかし、もしスクールカーストのような序列をなくすことを目的とするならば、本当に私たちには何ができるだろうか。
そもそも序列意識を私達からなくすことなどできるのでしょうか。
著者も「スクールカーストを意識しなかった人たち」の意見を聞く必要があると指摘していますが、本当にその通りだと思います。
もし序列を意識しない人がいるとするのであれば、その人はどういう世界を見ているのだろうか。

あるいは、それはアルプスの少女ハイジの主人公・ハイジのような人なのかもしれない。
なるほど、地球上のみんながハイジのようになれば、世界は平和でしょう。
ということで、道徳の時間にみんなでハイジを観るってのはどうでしょうか?

 

アメリカの大学の裏側 (アキ・ロバーツ、竹内洋、朝日新書)



アメリカの大学の裏側 「世界最高水準」は危機にあるのか? (アキ・ロバーツ、竹内洋、朝日新書)を読みました。
大変面白い。
私の持っていたアメリカの大学に対する「入りやすいけど卒業しにくい」のイメージは上位大学以外のことを指しており、総じてアメリカ全体のことをイメージしていたわけではなかったということがよくわかりました。

その他、面白かった点
・営利大学の存在(金さえ払えば学位が取れる)
・テニュアによって枯れ木教授が生まれている(終身雇用の悪い面)
・テニュアを取りたくて、若手は革新的な研究ができない(評価されにくい研究ではテニュアが取れない。しかも評価するのが枯れ木教授だったりする理不尽)
・授業料を高く設定し、ディスカウントする手法が流行(なお留学生は正規料金)
・やかましい学生の対応が面倒で成績を甘くつける教授が増えてる→学生の質の低下(成績が進路に直結するがゆえの問題点)
・AO入試では差別の助長が横行しかねない
などなど

文科省の政策が、アメリカを模範として、日本に良い点を輸入しようと努めてきたことは以前記事を書いた『アメリカの大学・ニッポンの大学』(刈谷剛彦)や『大学改革の迷走』(佐藤郁哉)でも紹介されていましたが、「模範としているアメリカの大学」というのは、かなり偏ったイメージのもとで捉えられているのではないかと思えてしまいます。

大学改革の病』(山口裕之)でも指摘されているように、「教育」は「社会」と密接につながっており、片方(「教育」)だけを改革しても何も変わらない、というケースが多々あるようです。
(極論とも言える例をあげれば、新卒一括採用、終身雇用が続く限り、偏差値による序列はなくならない、など)
ということで、「アメリカの教育」を輸入する際には、やはり同様にその後ろでつながっている「アメリカの社会制度や習慣」も一緒に導入する必要があるのでしょう。
問題は、その社会制度や習慣を、簡単に日本に根づかせることが容易ではないということでしょう。
だから佐藤氏や刈谷氏が指摘しているように、シラバスやTAと言った小手先の小道具の導入に終始して、最終的に要らない仕事を増やしてしまうという結果に帰結してしまう。

別に、アメリカの真似を一律にする必要はないのではないか、というのが本書を読んだ感想です。
どこの国にも良い点と悪い点があるでしょうから、特定の国の教育制度や仕組みに執着する必要はないのではないでしょうか。
特に、我が国は日本語を公用語として、海外と隣接していないという地理上の特質があります。
そのことを念頭に置かなければ、あらゆる輸入品は骨抜きになるでしょうし、かと言って極端な英語教育などを導入すれば学生も置いてけぼりになりかねません。

これの形骸化・極化を避けるためには、各大学に教育方針の設計・運営について裁量をもたせ、大学ごとの多様性を担保させることが大事だと思うのですが、大学大綱化以降もなかなか日本の大学の多様化は進んでいないことを考えると、そう簡単には行かないんでしょうね。


ーーー

また、本書を読むと学費が高く、学生ローンに悩んでいるアメリカ学生の姿が見えてきます。
その原因は職員の業務の高度化、ポストの増加だそうです。
日本でもどんどん学費が上がってますが、同じような原因なのでしょうか。
否、公的な補助金の推移が多分に関係しているのでしょうけれど、こと職員の人件費については、給与の上がり方が日本は一律なので、人件費をコントロールするという観点からするとなかなか良いシステムと言えそうです。
「やめさせられない」という条件がつく両刃の剣みたいなシステムですが。

さらに、アメリカでも成績のインフレが起きてるとは知りませんでした。
教授としては、時間を食われて成果がでないので、甘く成績をつけるというのは仕方ないのでしょう。
研究成果で評価を下せば、まぁそうなっていくでしょうね。
この辺は、日本の大学もよく考えるべきところだと思います。
大学って研究成果だけを求めるところなのか、ということです。

アメリカの入試については、特に人種の優先入試に関する記述が興味深かった。
一律にやってると、ユダヤ人ばかりになるというのもなかなか興味深い。
またアメリカにおけるAO入試は「格差を再生産させるために始まった」(表向きはもちろんそうではありません)という理解が日本には欠如しているように思われる。
確かに著者の父・竹内氏のいうように、沈思黙考型の人材も排除されてしまいますよね。
(ただ、日本の場合、AOとか推薦で合格する人は、割りといい就職に行ってるのではないかというイメージがあります。そういう調査をしている人いないでしょうか)

関連記事
大学改革の迷走(佐藤郁哉、ちくま新書)
アメリカの大学・ニッポンの大学(刈谷剛彦、中公新書ラクレ)

   

アメリカの大学・ニッポンの大学(刈谷剛彦、中公新書ラクレ)



グローバル化時代の大学論1 - アメリカの大学・ニッポンの大学 - TA、シラバス、授業評価 (刈谷剛彦、中公新書ラクレ)を読みました。
著者は刈谷剛彦。
20年近く前に書かれたアメリカの大学と日本の大学の比較論を取り扱う本ですが、とても面白かったです。
当初、20年前の本だから、あまり参考にならないかな?と思いましたが、とんでもございません。
今を考えるのに、とても参考になる本です。

著者は、アメリカでの教授経験をベースにして、さんざんアメリカの大学のよさそうな面を紹介してきたのに、まとめでは日本の大学には日本の大学の型があるのだから、無条件にアメリカの真似をしてもだめだ、といういたって常識的なまとめ方でした。
というか、そもそもアメリカの学部教育だって、いろいろな問題点を抱えていることを理解しないとだめですよ、という指摘も。
確かに、完璧な教育システムがあれば、どの国でもそれを採用しているものね。

とはいえ、どうにか良くしていこうというあがくことは大事でしょう。そのあがき方にアメリカの真似ということもあってもいいかもしれないとは思います。
その結果として、TA、シラバス、授業評価が日本に導入されて来た事自体は決して悪いことではないのだと感じます。

問題は、それらが個別の小道具として導入されてしまったことです。
例えばTA制度は、優秀な教員養成という目的があったにも関わらず、安価な人材として導入されてしまう傾向があったり、シラバスは授業ごとの契約書にもかかわらず、単なる”カタログ”として導入されてしまったり、授業評価も成績が重視されない日本では一体何の意味があるのか…ということで本当にただ導入するだけになってしまったことが問題だったのだと思います。
(この辺は、『大学改革の迷走(佐藤郁哉、ちくま新書)』が更に深掘りしています)
大学改革の迷走(佐藤郁哉、ちくま新書)

ーーー

こと教育に関するアメリカの評価できる点は、問題があったら素直にそれを認めて、改善をするところが評価されるという点にあると思います。
(我が国はまず失敗を認めることができない)
もちろん、すべての改善がうまく遂行されるわけではなく、思ってもいない弊害を生むこともあるようですが、そうして生じてきた問題にもまた対処するような風土があるようです。

とはいえ、全てにおいてそうかというとそうでもなく、例えばテニュア制度における枯れ木問題などは、結構八方塞がり感があります。
研究をやめてしまう専任教授。
この辺は日本も同じです。
しかし、個人的にはテニュア制のような終身雇用制度は大学ではなくしてはいけないと思います。
大学は社会を批判する機能を持った社会インフラであるからです。
使えない枯れ木教授が何人いたとしても、その制度をなくしてしまったら、「誰かが批判しなくてはいけないことを批判する人」がいなくなってしまう。

ーーー

本書を読むと、アメリカにおいては教育は”商品”として扱われている感じがひしひしと伝わってきます。
こういう商品を売ります(シラバス)、こういう商品だから買います(履修)、買ったあとに購入レビューをします(授業評価)、という感じ。
で、売ると言っていた商品(知識、経験など)が得られないと思われてしまったら抗議・訴訟と…この辺は少し日本とは温度差がありそうです。
ひょっとしたら、買う側の意識の高さが、売り手の質を上げてるのかもしれません。
授業料も高いですしね。

そして、「アメリカで出版されたアメリカの大学論」を扱う本を通じて、こういう風潮が大学の質にも影響を与えつつあるという指摘もありました。
(前略)アメリカの大学が市場原理にもとづき、学生や親たちを消費者とみなすようにあってきていることにある。学生たちの選択を重視する至上主義は、学生たちの求める様々な教育「サービス」の提供を大学に求める。その中で、例えば消費者(=学生)の声に耳を傾けようとする授業評価なども、学習への要求度の低い授業や、成績評価の甘い授業が学生から好意的に評価されるとなると、そのような授業の広がりを許す一因となる。たとえ一部の教員が厳しい成績評価と学習への高い要求を掲げても、選択重視の仕組みのもとでは、そういう授業の人気は下がり、学生も集まらない。そのうえ、学生や親たちが大学に求めているのは、難しい学習よりも、居心地のよい設備の完備した学生寮であったり、キャンパスでの他の学生たちとの交流や「社会経験であったりする」(R・アラム、J・ロクサ共著『漂流する大学』一三七ページ)(同書P240)
なるほど、日本も近い状況が起きている気がします。
私としては、この一文を読んで、内田先生の『下流志向』を思い出してしまいました。
日本はまさにアメリカの後を追っているようです。
どうして先人の失敗を活かせないのかという疑問は、冒頭の内田先生の話(専門家に託せない性質)につながるのかもしれません。

  

大学改革の迷走(佐藤郁哉、ちくま新書)




大学改革の迷走 (佐藤郁哉、ちくま新書)を読みました。
いやー面白かったです。
随所に皮肉が効いている、ユーモラスな本です。
ブラックユーモアですが。

この本の指摘は、別に教育だけに当てはまるものではないと思います。
内田先生が言うところの「この国の病理」の一つである「専門家のあたるべき問題を非専門家があたってしまう」ということを指摘しています。(内田樹の研究室:コロナウィルスと社会的共通資本2020-02-29 samedi)
そして、大学における政策の失敗について、本書はいろいろな角度(例えば、大学の中から、行政の側面から、などなど)から検証、評価、批判を行っています。

ポイントは以下の通り。
・シラバスの導入で事務業務が増加(しかも形骸化)
・PDCAは工場生産に用いるもので、予算管理の大学教育には適さない(PDCAは神話)
・結局PdCa(計画と評価のみ肥大してしまう。結果として形骸化する)
・KPIを目標にするのは見当違い。KPIはあくまでも達成の度合いを示す指標。
・民間の経営手法は少し遅れて(廃れはじめてから)行政や大学に入ってくるため、うまくその経営手法は機能しないし、次の経営手法がどんどん入ってきて、導入・幻滅を繰り返す
・金は出さないが口は出す行政が大学の多様性を奪っている
・日本はアメリカとは違う
・この国には、失策の責任者がいない
・この国の教育改革は小道具の変更に終止している
・理論武装するためのエビデンス集めが蔓延
・60万人調査も全然調査の手法を意識せずに進められている様子

これまでの多くの大学改革は、思いつき・思い込みをベースに設計され、やること時代に意味をもたせ、シラバスやKPI・PDCAといった小道具を導入することで現場を混乱させてきたというのが趣意。
(しかも結局形骸化して、実質化の改革を図るという始末)
原因として、それらの改革に乗っかった大学人にも問題があるとの指摘はごもっともだと思います。

著者はこれらを総括した上で、以下のようにまとめます。
もっとも当然のことながら、政治や行政の失策について指摘することと並んで大切なのは、大学と大学人がそれに対してどのように向き合ってきたかという点について改めて振り返ってみることでしょう。実際、幾つもの止むにやまれぬ事情があったにせよ、これまで大学側が「大人の事情」を優先させて示してきた対応の中には、子どもたちの未来を奪うことにつながりかねないものが含まれています。 いま必要なのは、そのようなもっぱら「大人たちの都合」だけで進められてきた従来型の改革について徹底的に問い直していくことでしょう。それは、取りも直さず、大学と大学教育が抱えている問題に関して、大学関係者が自分の頭で考え抜いた上で結論を出していくことに他なりません。そして、その結論については借り物ではない自分たち自身の言葉で表現していかなければなりません。実際、そのようにして、「大人げない話」をあえて口に出すことを抜きにしては、これから大学という場で学ぶことになる子どもたちにとって何が本当に必要になってくるのかという問いに対する答えの姿は見えてこないはずなのです。
大学は、あるいは学校は、子どもたちは、一様ではありません。
だからこそ、状況に即した対応なり対策が必要で、それは紋切り型のトップダウン式の改革では見当違いの結果を生むのは仕方のない事のように思います。
いかにしてボトムアップを促すのか、そういう発想で教育を捉え直す必要があると思います。
もし多くの人がこの「現場からのボトムアップ」を願うことができたら、その時教師と生徒の信頼関係が構築され、また地域と学校の信頼関係も整い、故に国としての人材育成も多様な、柔軟な、しなやかな形態を取れるのではないでしょうか。
優秀な指導者とは、ひょっとしたらボトムアップを促せる指導者なのかもしれませんね。
名ばかり大学生(河本敏浩、光文社新書)

この観点から考えると、刈谷氏が『教育改革の幻想』であとがきに書いていた「教育行政」を地方に委ねる、ということの重要性が理解できてくる気がします。
教育改革の幻想(刈谷剛彦、ちくま新書)
すべてを現場に任せるのではなく、現場周辺で色々と試行錯誤をしていく、そして大本の文科省が地域ごとのネットワークを形成して国としての共有を図るというのがいいのではないか。
とはいえ、これも理想論です。文科省が予算を地方に移譲するなど考えにくい。
省益と反するでしょうから。
だから、せめて大学だけは、うまくできないもんでしょうかね。
いや、うまくやるためにはやっぱりお金が必要だから、お上への忖度はなくせない。
どうも八方塞がりな感じになってしまった。どうにかうまくやる方策がないものだろうか…。

この本とその姉妹編である『50年目の「大学解体」20年後の大学再生』も近いうちに読んでみたいと思います。


   

名ばかり大学生(河本敏浩、光文社新書)



名ばかり大学生 日本型教育制度の終焉 (河本敏浩、光文社新書)を読みました。
まことに面白かったです。
著者は東進ハイスクールの講師という肩書なので、予備校講師から見た学力の話なのかな?と思って読み始めましたが、そんな限定的な話ではなく、今の教育制度の根本的な瑕疵を様々なデータから考察している素晴らしい本でした。
絞れば荒れる、12歳で大きな壁、いずれも聞けばなるほど納得の論でした。

要点を列挙します。
・絞れば荒れる(大学定員の減少は、いい改革ではない)
・大学のアクセスをよくせよ(間口を拡げよ)
・初年次教育にこそ力をいれ、卒業しにくくするべき
(ちなみに、入りやすく、卒業しやすいのは日本独自。日本はとにかく私学が多すぎる)
・対策としては、「義務教育修了の資格試験」「古典読書の奨励」など
・とにかく、現行の制度設計の失敗点を認めて、いい教育を再生産できるように再度制度設計すべき(競争しても子どもは伸びない。競争すべきは大人である)
・今は大学受験も勉強をするモチベーションにできない(12歳で超えられない壁、地方と都市部の熱量差)
・東北大学が地域での勉強のモチベーションの底上げに貢献している。しかもAOの方がいい学生が入る(新しい展開。受験生も手間を理解する)
・教育を公共事業と捉えて、お金を投入することも大事(中等教育を無償化しないのは世界にも珍しい)
などなど

これらを挙げた後、著者は以下のように締めくくる。
 つまり、問題は学力論ではなく大学論なのである。まず議論の出発点を大学教育、あるいは選抜試験のありようから始めるべきなのではないか。小学校や中学校、高校を「改革」しても誰も踊らないが、大学入試が変われば、教育熱心な家庭は一斉に変化する。
 だから、小学校や中学校、高校の小手先の改革はすべてやめた方がいい。改革など何もせず、勉強をしない子供に大人が一生懸命教えるということだけを念頭に置いて行動するべきである。
 高校卒業時に中学レベルの学力を問う資格試験を実施し、それに向けて大人が競い、より多くの子供が目標を達成するべく奔走する。塾にはできないが、小学校や中学校、高校にできることは学力の底上げである。これは目立たないが、極めて重要なことである。なぜならそういう手厚い教育を受けた子供は、学校を信じ、社会を信じ、そして大人になったときに子供を学校や勉強に積極的に関与させるだろうから。
 誰がどう考えても、教育の根本はこういう営みにこそあるのではないか。そしてそう思い、行動している人は、この現代の日本において決して少ない数ではないはずだ。
(同書P196。下線は私の加筆)

義務教育終了の資格試験も無理のない提案かと思います。
加えて古典を読ませる対策も、いいなぁと思いました。
(考える子は、読めば色々考えるでしょうからね)

子どもの教育がうまくできていないと感じるのであれば、それは大人の作った制度に問題がある、というのは真摯な受け止め方だと感じます。
その上でいかに子どもの学びに寄り添うかということが重要で、子どものときに受けた対応を、その子が子ども持ったときに次世代に伝えてしまう、というサイクルができてしまうことを、大人が理解することが大切なのでしょう。
我が家の場合は、どうなのだろう。
ちゃんと子どもの学びに付き添ってあげられてるんだろか。
時々わが身を顧みないといけないなぁと反省させられます。


また、やはり教育は、現場に任せたほうがいいのだ、と言うのは秋田県の義務教育に関する対応の成果をみて思います。
そして、行政、文科省はそれらの良い点を他の地域に共有するところに役割を負うというのがいいのでしょう。
これは、■教育改革の幻想(刈谷剛彦、ちくま新書)と同じ結論です。
相手が人間である以上、画一的な対策には無理が生じてしまうのでしょう。
ましてや地域ごとに文化や風習も違うのであればなおさらです。

その点から考えると、リーダーシップを求める組織というのは、そもそも弱い組織なのかもしれません。

ーーー

大学人として、東北大学のオープンキャンパスに行ってみるのは、具体的にできる行動でしょう。
文系理系両方共なかなかおもしろそうな催しがたくさんありそうです。
http://www.tnc.tohoku.ac.jp/opencampus.php


氷川清話(勝海舟、講談社学術文庫)


氷川清話』(勝海舟、講談社学術文庫)を読みました。

夢酔独言』に引き続き、『困難な成熟』(内田樹、夜間飛行)で紹介されていた一冊です。
参考:夢酔独言(勝小吉、講談社現代文庫)

面白かったです。
勝海舟って、こういう人物だったんですね。
昔読んだ『武揚伝』(佐々木譲、中公文庫)では、ちょっと痛い感じで書かれていましたが、最下級の武士から直接将軍より幕府の後処理を任せられるまでに上り詰めた男としての貫禄というか、凄みみたいなものが本書からは感じ取れます。
視点がすごく高い。
それでいてシンプル。
おそらく、自分のダッシュボードの大きさをよく理解していて、そこに載せるべき要素の取捨選択に抜群の才能があったのだと思います。
そして、そこに父・小吉から引き継いだかはわかりませんが、胆力というものが備わったことで、このような人物が生まれたのでしょう。
本人は、剣術と禅のおかげと言っていますね。
あとは、戦が人を育てるとも言っています。
また、そういう意味では、今後人物が出てくる、ということもなかなか期待はできないということも話していました。
(この辺のことを、今読んでいる幸徳秋水の『帝国主義』(岩波文庫)は全面的に否定していますが、その幸徳秋水の書きぶりの痛快なことと言ったらありません。メッタ斬りです)
でも、そんなにこんな人間がホイホイ出てくるもんではないですよね。
だって、こういう人が他にいないから、勝海舟が幕府の後処理役になってしまっているわけで、そう考えると、その状況に適当な人物をしっかり表舞台に出す機能を維持しているのかどうか、ということのほうが重要な気がします。
そして現代においてそれができているとは思いませんが、明治維新30年の時点でもすでにそうだったようだ、というのが本書を読んで面白かったことの一つです。
父・勝小吉の本もそうでしたが、本書においても、気がつくと江戸の町中や明治の小さな座敷にタイムスリップしており、楽しい時間旅行できました。

ーーー

本書には、所々「爺の僻み」みたいな箇所もあります。
本人は政局などを「蚊帳の外」から見ているわけですから、もどかしさも多分にあったのでしょう。
それは、自分がその中心にすでに行けないことを知っているが故のもどかしさでもあると思います。
(役職定年になると、そういう気持ちになるのかもしれません)
だから、現役の議員や一部の人達からは(本人も言うように)「爺が何をいってやがんだい」というようなことにもなってしまうのでしょう。
聞いている側も「爺さんそりゃおかしいぜ」「そりゃいいすぎってもんだ」と感じる部分の散見されます。

ということで、なんとなく、本書は、おじいちゃんが死んだその葬式で、たまたま待ち時間に同じ机に座った親戚のおじちゃんから聴く昔話みたいな感じがあります。
話し方も面白いし、人のつながりとかが面白いから、なんか聞き入っちゃうんだけど、時々事実誤認や自慢話が織り交ぜられて、終いの方は少し説教臭くなっちゃう、みたいな。

それでも、人とのつながりって言ったて、あの西郷やら大久保やらですから、そんじょそこらのおじちゃんとはスケールが違いますね。
上の二人のほか、いろいろな方に対する人物評も、なかなかおもしろい。
「へぇ、そういう見方もあるのね?」という感じで勉強になります。
(横井小楠をえらく評価しているので、今度関連書籍を読んでみたいと思いました。)
あと、話しを聞いて(読んで)いると、西郷は非常にスマートな印象で、上野公園の銅像のイメージが崩れてきます。
(私の中で、もっと細身のイメージが強くなりました)

ーーー

また、本書からは、反知性主義の匂いも感じられました。
それは、おそらく勝が現場主義だったからでしょう。
世の中には、時勢があり、現場主義の時代と、知性主義の時代が行ったり来たりするのだと思います。
令和の今は、どっちなんだろう、もし現場主義の時代なら、勝の生きた時代のような、「社会に活かす知」を渇望する若者をどんどん登用する制度が必要でしょう。
(今はどちらかと言えば「自分を活かす知」が重用されている気がします)
でもそれは、ちょっと違う気もする。
もちろん、上昇志向の若者を積極的に登用することがだめだと言っているわけではありません。
(上昇志向の若者がどんどん登用するほどいるかは怪しいところですが)
多分今勝が生きていても、うまく必要なところには登用されないような気がするのです。
そういう制度になっているように思うのです。
それは、勝がこのような人物ではなく、腹黒く、卑しい性質を持っていたと仮定すれば、仕方ないことな気がします。
傑物がそのポストに収まるという前提で作られる制度なんて、とてもではないけど私は恐ろしくて信じられない。

とはいえ、そんなこんなで、勝や西郷のような人物は完全に駆逐されてしまった。
そして多分、私達みんなが、それを望んだのだと、本書を読んでそんなことを思わされました。
そこに2つの問が浮かんできます。
「それは悪いことなのだろうか?」
「悪いとすればどうすればいいのか?」
この2つの問は、しばらく頭の片隅で温めて置きたいと思います。

   

教育改革の幻想(刈谷剛彦、ちくま新書)




教育改革の幻想 (刈谷剛彦、ちくま新書)を読みました。
面白かった。
ドラスティックな改革は不利益を生むことが多いんだろうね。
改革なんてやめた方がいい。
現場が実践する、小さな改善の積み重ねが大事です。

本書は、2002年4月から施行された新学習指導要領に対してその政策の良し悪しを、いろいろな角度から書かれた本です。
まぁ、ほとんど批判ですね。
もうちょっと分析と議論をしっかりやってよ、というのが本書の主張だと私は理解しています。

それにしても通読してみると、お上(役人)の頓珍漢なことといったら笑えてきますね。
しかも子どもを主人公にする教育については、すでにカリフォルニアで失敗例があることというのもなおさらおかしい。
いや、笑ってる場合ではないのですが。
ロサンゼルス・タイムズ紙に紹介された、カリフォルニア大学のエンバス教授はその失敗について、こんなことを言っています。
「私たちは、学校を子どもたちにとってより有意義で、より楽しい場にするための努力をしてきた。その中で、知識を暗記するとか、つづりと発音の関係を教えるためのドリルとかは、『退屈』な活動としてカリキュラムから消されていった。しかし、たらいの水と一緒に赤ん坊も流してしまったようなものだ。学習には、必ず、むずかしいことや、楽しくはないが大事なことも含まれているのだから」(著者抄訳)
「水と一緒に赤ん坊を流しちゃう」という比喩は言いえて妙です。
考えるのにも、材料としての知識がないと考えられないというのは、いかにも当たり前のことで、反論の余地はないように思えますが、実はこの問題が程度の問題であるというところに一番の問題があるのです。
程度の問題ということは、結局個人のレベルにどこまで合わせてあげようか、という問題で、明確な答えなどない。
だから、議論が進まない。

しかも、学ぶ子どもたちにも個人差もあるので、「みんながわかる」という極端なレベルを設定してしまうと、勉強ができる子は自分でどんどん知識を仕込んでいくでしょうが、勉強が苦手な子はそれが全然できなくなるわけですね。
だってそもそも何を仕込めばいいのかもわからないし、やる気もないんだから。

そもそもの話になってしまいますが、私は、教育で個人を変えることができるというのが幻想のように思います。
また、個人の本質的な性格は変わらないという前提に立って教育をした方がいいと思います。
知識を授けるのはできても、主体性をはぐくむ(望ましい性格を持たせる)なんてことは、たぶんできない。
(ちょっと曲解しているかもしれませんが、この辺については、安藤寿康先生の本を一度読んでみていただけると少しわかっていただけると思います。おすすめは、遺伝子の不都合な真実―すべての能力は遺伝である (ちくま新書)
様々な体験を通じて、本人が変わる可能性はあっても、それは人為的にコントロールできるものではないと思います。

だから、今一度、学校の役割というものを整理するところから着手したほうがいいのではないでしょうか。
「学校は豊かに生きていくための「知識」を得、「健全な肉体」を生涯にわたって維持するための手段を学ぶ場」、というのが私の案です。
うーん、でもこれだと結構いろんなことを勉強しないといけない気がしますが、別の人は「これだけならこれとこれの教科さえあればいいのでは」、という方もいるでしょう。
程度の問題とは、こういうことですね。
議論の余地ばかりあり、個人の感覚で議論すると平行線になる。
だからできるだけ個人の感覚ではない「研究などで調べた結果」を基にして決めていってほしいと思います。

あとは、程度の問題であるがゆえに、ある程度線を引いてあげないと、先生方の働き方改革も、モンスターペアレントの問題も、何も解決しないのではないかと思います。
教育に関心があって教員になっている先生が多いでしょうから、線を引かないと、どこまでも対応してしまい、全体としての教育の質が下がってしまうことも懸念されます。
(しかも、真面目な先生のほうが疲弊する可能性が高い)
とはいえ、教員だって玉石混交ということも前提にしておかなくてはまともな制度は作れません。
(教員の能力に100%左右される教育制度にも問題があると思います)

最後に、私個人の考えとしては、公教育は、あくまでも下の子を引き上げることに注力してほしいと考えます。
そうでないと、格差の再生産が起こって、近い将来、凄惨な社会を形作ることになりそうな気がしてしまうのです。
(まぁお金に物言わせて私立に入れちゃう家もあるでしょうけど)
「それではできる子は消化不良してしまうのでは」、という指摘もあるでしょう。
でも、できる子は、できない子を引っ張るように頑張ってもらうというのも、大切なことではないでしょうか。
そこを評価してあげられるようにしてはどうかなと思います。
(むしろそれが教育では?)
ただ、「じゃぁどうやってそれを評価するの?」と言われると、グーの音も出ないのですが…。

 

【読了】街場の大学論(内田樹著、角川文庫)

『街場の大学論』(内田樹著、角川文庫)を読みました。


『下流志向』などの内容といくらかかぶるところはありましたが、少し古めの記事が多いような気がします。
しかし、最後まで読めば、しっかり前半の認識の誤りを訂正している箇所があり、「あぁやっぱりいつもの内田先生だね」という感じで読み終えれました。

以下、備忘。

1.学生の質について
 学生の質は下がらざるを得ない。
 なぜなら入試とは同一集団内での自身の立ち位置によって合否が決まるものであるから。
 18歳人口という分母が小さくなる上に、大学の定員数は拡大するという状況は、ようする年々同じ学力なら上の大学に入りやすくなることを意味する。
 (絶対的な学力に対するボーダーラインがどんどん下がっていくわけですね。)
 だから、同じ大学に入るのに、10年前と同じ量の勉強をする必要が無いということ。
 このことが大学の質低下の原因と考えられる。

2.評価について
 正しい評価をしようとすると、全体を規格化しなくてはならない。
 そうなると、有能な人も規格に当てはめることになる。
 A.働かない人を働かせて、働く人を枠にはめ込む
 B.働かない人は無視してして働く人に気持ちよく働いてもらう
 という2択について、どちらのほうがメリットが多いかを考えるべき。
 ちなみに、A.であれば、全員が雇用契約書通りにしか働かないことになる可能性が高い。
 イノベーションは、Bのほうが起きやすいのではないだろうか。

3.文科省行政担当者の考え方
 これが、なかなかおもしろい。
 大変”話せる人”ではないか!というのい少々驚いた。
 文科省は…なんて考えていた自分が恥ずかしい。
 同じ人間なのです。担当者レベルでは色々と考えながら働かれていることを理解しました。
 そして、文科省からのメッセージについては、行間を読むことが大切なのですね、と言うのは目からうろこでした。
 つまり、大学に主体性を持ってほしいというのが文科省の考え方なのかなと個人的には理解したいと思います。
 でも、大学の設置規制をもう少し強めてもいいような気がします。

以上、備忘。

大学経営の問題の一つに、定員を満たさないと黒字にならないという点があるのでは無いかと思えてきます。
どうしてそんなにギリギリで経営をしてしまうのでしょうか。
大学人なのに、こんな問に答えられないことが非常に心苦しいのですが、人件費がかかりすぎなのでしょうか?

ということで、少し考えてみましょう。
年間70万円の授業料で150人(1学年の定員数)→1億5千万円
四年間だから、1億5千万円×4年→6億円
教員が30人体制なら1000万円×30→3億円
残りが3億円。
3億円を150人×4年で割ると…50万円
1年間に一人あたり50万円しか教育費をかけれないのか…
教員によっては1000万円/年どころではないでしょうし、教員の他にも事務職員だとか、非常勤講師分なども入るとすると、50万円でも心もとない気がしてきますね。

やっぱりお金かかるんだなぁ。
自分なんて2年間の卒論研究で100万円なんて吹いて飛ぶくらいの試薬とか溶媒を使いましたからねぇ…。
大学全体に撒ける助成金も決まっている以上、大学数が増えればそれも減るし、ほんとにジリ貧ですね。
人件費を下げれば、人材は流出するし、どうすりゃいいんですかね?
(助成金を増やせば解決する気もしますが)

また、定員や、教員数管理については、18歳人口は18年前にその変遷が読めるわけですから、ある程度文科省の方でコントロールしてもいいように思えます。
というかお上からある程度言わないと、どこも減らさないでしょう。
下のほうの大学が定員を少し減らしたところで、上位1割の大学その減少分を攫っていくような事態になりかねません。
ということで、偏差値の高い大学にこそ、規制をかけてはいかがでしょうか?
そうすれば、多分下に下に降りてくるはずです。
実際、昨今は定員厳格化によって、中間層の大学が潤っているはずですから。
…とここまで書いて、なるほど文科省の政策も、必ずしも変なことばかりではないのだなぁと思わされます。
23区内の大学は10年間定員増不可と聞いたときには、何してくれてんのか?と思いましたが、一大学人とは違って、制度としての全体の大学を見なくてはならない以上、全然視点や考え方が違うのかもしれません。
もう少し、「この政策は何を狙っているのか」について、頭を柔らかくして考えなくてはならないなと反省させられます。

結局、文科省としても、都市部の少数の大学を生き残らせたいわけではないのでしょう。
でも、やっぱり受験者の思いとしては、都市部に出たいものだと思います。
であるならば、やはり規制は必要だと思います。
人は都市部のみに生きるわけではありませんからね。
広く、可能な限り多くの方に大学の機能が享受されるようにするには何が必要なのか、一大学人として大学を考える前に、一市民として、大学のあり方を考えていかなくてはならないのかもしれません。

大学に求めることの違い

GoogleNewsを見ていたら、随分香ばしい記事が掲載されていました。
日本電産永守氏が語る「今の大学教育」への失望 カリスマ経営者が元東大教授と挑む大学改革(東洋経済ONLINE)

すごいですね、永守さん。
「(大学を)卒業しても英語も話せない。経済学部を出ているのに、企業の経理に回されても決算書さえ作れない」
「日本電産は世界最大のモーターメーカーだが、そのモーターの技術を学べる大学はどこにあるか」 
こんな思いで大学を作れちゃうんですね。
どうも上の書き方だと、専門学校のような気がしてしまうのですが…いや、それは私の勘違いですね。

また、以下の記述も大変気になります。
京都先端科学大学は4月1日に名称を京都学園大学から変更した。2018年3月に永守氏が大学を運営する学校法人京都学園(現・永守学園)の理事長に就任。100億円を超える私財を投じ、同大の改革を推し進める。
研究施設の建設が次から次へと実施や計画されるスピード感は、永守氏の寄付金と私立大学の組み合わせがなせる技だ。
理事長の寄付で改革が進んでるというのは、ちょっと怖いですね。
昨今はとある大学のスポーツ絡みの不祥事で、理事及び理事長への権力集中が取り沙汰されておりましたし、最近だと某大学での外国人留学生の問題なども一人の人間への権力集中によって起こった事件と伺っております。
どの大学も、お金にデリケートになっており、あまり偏差値の高くない大学ならなおさらです。
永守理事長には誰も文句が言えない状況になっているのではないでしょうか?
こういう穿った視点に立つと、学長のコメントから理事長をフォローしなくてはという必死さが漂っているように思えてきます。
(性格悪いですね)

最後には、すでに改革によるいい影響が出始めていると書いていますが、これも怪しいもんです。
一連の急速な改革とその方針が受験生にも伝わり、学生の募集にも変化が出始めている。旧京都学園大学は「京都内の評判では最もボトム(底)の評判だった」(同大関係者)が、今年の入試志願者数は前年の1.6倍の2435人に増加した。「これまでは近畿大や関関同立など関西の上位大の併願校にすらならなかったが、滑り止めとして併願する学生も出始めている」(学習塾関係者)。
最近は入学定員の厳格化に伴って、上位校が合格数を絞り、受験生はランクを下げた大学に出願する傾向にあります。
この増加は、そうしたトレンドに沿った変化である可能性もあります。
というか、もしそのトレンドに沿わないのであれば、もっと恐ろしい事態が社会全体において進行しているのではないかと危惧されます。

ーーー

色々書きましたが、「じゃぁお前は大学ってどんなところだと思っているんだよ?」という声が聞こえてきそうです。
私の考えでは大学は「変なやつを排出する」ところだと思っております。
したがって、学ぶ分野は別になんだっていいのです。
ただし、最先端である必要があります。
まだ誰も知り得ていないことを研究している研究者が教える人であるからこそ、既存の価値観になびかない変なやつが生まれるのです。

大学教育は「すでに求められている技術」を身につけるところではないのです。
(いや、もちろん既存の技術を得る過程で学ぶことはたくさんあるし、それを教育メソッドにすることは良いことと思うのですが、その技術の習得が目的ではないということです)
想像できる未来への対応なんてすぐにできます。
すでに顕在化しているのですから。
問題は、「未来のことはわからないことばかり」ということなのです。
だから変なやつをたくさん出さなきゃいけないのです。
変なやつがたくさんいれば、それだけ変化に対するリスクが減少するからです。

大学の先生方には、ぜひ、まだ世の中にない、あるいは忘れらたり見落とされたりしている価値を、掘り出してみんなに提示することに資源を費やしてほしい。
そこに学生を巻き込むことで、学生を変なやつにしてほしい。
私は、それが、大学の価値であり使命だと思っています。

ーーー

あとは、個人的には、大学で決算書の書き方なんて教えないで、教授にはぜひ決算書に対して「ほんとにこんなんいるの?」と突っかかってほしいなぁと思います。
世の中に向かって「どう見たって王様の耳はロバの耳だよね」と言っちゃうのも、やっぱり大学の使命の一つではないかと思うのです。

グレイテストティーチャー賞(仮名)に感じる違和感

私の所属する大学では、毎年授業評価の良い教員を「グレイテストティーチャー賞」(大学の名誉のため仮名)なる賞で表彰します。
私には、この表彰に、大変な違和感を覚えます。

まずはじめに、大学なのに「ティーチャー」?というところから突っかかりたくなる。
言いがかりですが、私は大学の先生方をティーチャーと思ったことはありません。
彼らはティーチャーとしては型破りすぎると思うのです。
なんとなくティーチャーと言うのは、「ある基準をもとにそこに到達させるための人」という意味あいがあるものと感じられて、大学の教授陣にふさわしい呼び方かどうか、自信がもてません。
(学習指導要領のもとに教える先生に当てはまる気がしてならないのです)
でも、辞書を調べると、teacherとは「教育に従事する者」「大学でもOK」ということなので、まぁいいでしょう。

しかし、「グレイテスト」の方についても、ちょっと引っかかります。
いったいなにを基準にしてグレイテスト(最大)なのかということが、全然わからないのです。
いや、説明としてはあるのです。授業評価の数値が高いということです。
しかし、この授業評価というものの数値にいかほどの意味があるのか?

そもそも大学というのは、学生にとって「自分が知らないということさえも知らないことを学ぶ」場所です。
そこでの授業とはそんなにわかりやすい、すっと入ってくる授業では無いはずなのです。
もしすっと入ってくるのであれば、それは退屈な授業だし、全然入ってこないなら、それは難解な授業のはずです。
にも関わらず、出席者の多くが「良い」と評価できる授業ということは、「自分が知らないことさえも知らないことを学ぶ授業」ではないのではないかと疑いたくなります。
悪い言い方をすれば、ただの娯楽のような授業ではないのか?
知的刺激を与える授業とは言えないのではないか?
もっと悪く言えば「中の下あたり」に向けて授業してんじゃないの?

もちろん、100%そういう先生ばかりではないでしょう。
学生が楽しみながら知的刺激を受ける、そんな授業を展開している教員もいることと思います。(非常に少数だと思いますが)
しかし、だとすれば学生は楽しめないけど、明らかに知的刺激を喚起している授業もあるはずです。(こっちのほうが多いのでは?)
つまり、評価基準が「学生目線」になっていることが、大きな違和感を感じている部分ということですね。

どうしてその授業の価値もわからない人間(学生)の評価から、授業をする人間(教員)の価値を判断できるのでしょうか。
それは、美術品の鑑定を素人にさせるようなものではないでしょうか?
もちろん、個人が勝手に鑑定を行うのはいいのです。
それは場合によっては本人の勉強にもなるでしょう。(あくまで場合によってはですが)
しかし、大学として、組織としてそれを奨励するのはどうなのよ?
私が教員だったとして、そんな賞をもらうのは正直我慢ならない気がします。
なんとなく、バカにされているような気がしてしまいそうなのです。
「中の下への授業に邁進された素晴らしい先生です!皆さん拍手でお迎えください!どうぞ!」みたいな。

ーーー

ということで、代案を出します。
ぜひ、「ワーストティーチャー賞」を作りましょう。
授業評価の最悪な授業を行った先生を表彰するのです。
そして、その先生には、おまけに全教職員と希望の学生向けに90分間の講義の時間を差し上げましょう。
テーマは「なぜ私の授業は面白くないのか」。

その講義を聞いて大多数の方がわからないなら、まぁしょうがないでしょう。
次年度以降のコマ数を減らしましょう。
けれど、おそらく、そういう講義を聴くことは、非常に先生同士の知的刺激になるはずです。

また、終了後にはその受賞された先生を囲む会も行います。
話をしてみれば、決して学生を蔑ろにするような先生ではないことがわかるはずです。

このようにして、学生の授業評価なんて気にしない空気が大学内にできれば、しめたものです。
学生第一主義とは程遠いへんな大学になることでしょう。
先生ごとに変な個性がほとばしり、そのへんな個性が混じり合ったおかしな学科ができあがり、出て行く学生も変なやつばっかり。
こういうのが、大学の役割ではないかと思うのです。

大学は、けっして平均的な人間を排出するための機関ではありません。
それはむしろ「変なやつ」を世に送り出す装置なのだと思います。
世の中が全部同じようなやつばかりになると、大きな変化に対する免疫が失われます。
どんな価値観の変化が訪れても、そこに順応できるやつやその価値観と戦えるやつ、むしろ変化を読んでくるやつを排出していくことに大学の価値があるのだと、私は思います。

それは、使えるやつという表現とは相容れません。
むしろ「既存の価値観になびかない使いにくいやつ」になるはずです。
だから産業界から怒られる。
「もっと使えるやつをよこせ」と。

でも、産業界にしたって、変わりゆく世の中の価値観についていく(あるいはリードする)ためには、こうした変化に順応できる、戦える、むしろ変化を起こそうとする、そういう戦力が必要なはずです。
ということで、産業界がどれほど大学罵倒しても、大卒を採用しないことは今後も多分無いでしょう。
(今後比率は変わるかもしれませんが)

ただ、政権に訴えて大学を根本的に変えてしまおうという圧力をかけることは許してください。
それだけは勘弁してください。
そうなれば、大卒に価値はなくなります。
年を取った高校生を作るような政策だけは、やめましょう。

ーーー

このグレイテストティーチャー賞が跋扈することは、まさに年取った高校生を作る文化を奨励するような制度たりうる気がしてなりません。

たかが一つの賞ではないかと思うのですが、一時が万事、できることから改善していく必要があるのではないか。
そのような思いから、気を引き締める思いで備忘録を残しておきたいと思いました。

今の大学に一言申しておきたいことは、「学生第一主義なんてくそくらえ」ということです。
大学の使命は、各教員の知のフロンティアの拡大です。
学生たちは、その営みの最前線で歩哨として「知の拡大の有り様そのもの」を知るのです。
それは彼らが12年もの間、学習指導要領のもとで受けてきた「教育に関する理解」というものを根本からひっくり返す体験になるはずです。
歩哨としての仕事が、誰も知らない世界を観るという経験を伴うからです。

そして、歩哨の中でも優秀な子は、教員の引き上げのもと、幹部候補生となり、後にまた新たな歩哨を育てることでしょう。
ということで、大学が一番に考えるべきことは「どうしたら教員は知のフロンティアが拡大できるか」なのではないでしょうか。
そういう環境さえ整えば、学生は勝手に育つと思われます。
私には、先生方が頑張って学生を育てるシステムよりも、勝手に学生が育つシステムのほうが優れているような気がするのですが、どんなもんですかね。

【読了】街場の読書論(内田樹、太田出版)

『街場の読書論』(内田樹、太田出版)を読みました。
面白かったぁ。

特に、学力について「学ぶ力」と読むというのは目からウロコでした。
学ぶ力を得るには、メンター(師匠)が必要。
メンターとは「今まさに学びの中にいる人」。
そのメンターに「学びの流れに巻き込まされてしまう」ことこそが学ぶ力には不可欠なのだ。
つまり、「今学ぶ者」と「学びに巻き込まれる者」の関係の中にこそ、知の獲得の手法が伝達されるということですね。
大学の存在意義はまさにここに行き着くのでしょう。

また、『痩我慢の説』(福沢諭吉)についての説明も面白かった。
これはまた別の記事で書きたいと思います。

ーーー

全体を通じて、とても「大人な」本という感じを持ちました。
常識的にものを考えたいという思いが伝わってくるようです。
「常識的に考える」ということは、つまり身体的な快・不快を考慮するということのようにお見受けいたします。
要するに、「違和感があるかないか」と言い換えてもいいかもしれません。
世の中、数値化できることばかりではない、ということも常識の一つでしょう。
そういう常識が忘れられた社会は、多分穴だらけの社会になる。
だから、「常識的な人」になることはとても重要な事なんだけど、みんなが常識的になれるかというと、そうではない。
常識という言葉と裏腹に、常識的な思考・行動を取るのには、素質が必要で、全体の20%くらい常識的な考えができる人がいれば社会や組織は機能するのだとか。

「はて、私は常識的に考えることのできる大人だろうか?」と問うてみると、少々危なっかしい。
となるとできることは、常識的に考えることのできる人の「邪魔をしない」ということだろうと思う。

あんまり読書に関係のない感想ばかりですが、本書に通底するメッセージはずばり「常識を持て」「そのために君が、本を待っている」ということになると思います。
あるいは、この考えは前に読んだ『街場の教育論』の影響を多分に受けた上で感じることなのかもしれません。

常識を持つということは、難しく言えば、共同体の一部であることを理解し、共同体に貢献する使命を自覚せよ、ということになるかと思います。
そして、このことは要するに「成熟する」「大人になる」ということと同義なのだろうと思わされました。

師を持ち、学びの流れに巻き込まれ、常識を得て、成熟せよ。
このステップを踏むとき、師とは本でも良い、というか私はそうしてきたよ。
そういうメッセージを私は受け取った…ような気がします。


※タイトルの太田出版は単行本出版時の出版社

【読了】街場の教育論(内田樹、ミシマ社)

『街場の読書論』(内田樹、ミシマ社)を読みました。
めちゃくちゃ面白い。

教育問題は簡単に解決しないこと、現場に任せることが重要ということ、そもそも儲からないということ、グローバル資本主義から子どもを守ることの重要性、仕事論、メンターの不可欠性、外に求めることこそ学び…などについて非常に含蓄のある指摘をされています。
前ページに付箋を貼りたいくらい面白かったです。

大学で働く者としては、本書を読んで「大学同士で競い合う必要なんてないんじゃん」と思いました。
優秀な子が入ってこなくても、それはそれでいいのかもしれません。
そういう子をしっかりと教育できるようにしたならば、そこに大学の価値は自ずと現れてくるのではないだろうか。
すべての大学が東大である必要もないでしょうし。
あとは、そういう姿勢の大学を我々が守れるかどうかにかかっているように思う。
とういことはつまり、大学は経済的な文脈で経営を語っちゃいけないということですね。
そうなると、大学を運営するのは、やっぱり先生であるべきとも思いました。
経営のプロが大学を経営してしまうと、それはもう大学じゃない、ということですね。

また、労働は協同という考え方にも納得がいった。
自分は少しグローバル資本主義に侵されていたのかもしれません。
もう少しゆったりとした気持ちで仕事に向き合いたいと思います。
いいじゃんね、先生のサポーターで。
サポーターとしてどうしたら頑張る先生を助けられるのかを一生懸命考えるのも大事な仕事でしょう。
昨今は「教職協働」が持て囃されていますが、少し立ち止まって考えるきっかけになったように感じます。
(事務と教務が、お互いをプロとして認識し合えることが大事なのかもしれません)

それから、「言葉のストックを増やす」というのも目からウロコでした。
生まれたての自分というのは「空っぽ」で、言葉がそこに入ることで「その人が出来上がっていく」という考え方です。
思いを言葉にする、ではなく、言葉が思いを作るのですね。
だからこそ、まずはいろんな言葉を体に入れて、そこから自分の思想を作っていくというプロセスが求められる。
そのプロセスが逆になると「ムカつく」を何十通りにも使い分けるなどの事態になってしまう。
なるほどなぁ。確かになぁ。
今後も積極的(意識的)に日本語に接する生活をしていかなくちゃなぁと思いました。
(能でも聞いてみようかしらん。そうすれば真名と仮名の使い分けもうまくなるのかな)と思いながら、まずは百人一首の本を買いました。

ーーー

今後も、内田先生を勝手にメンターとさせていただき、著作もどんどん読んでみたいと思います。
(並行読みしているので全然読み終われないし、結構重なる話が多くて、興味深いと思った話が度の本の内容かわからなくなる、というのも、初めての経験です)
そして、著作の中で紹介されている本もいずれは取り組まねばならないでしょう…。

ちなみに、昨日から『街場の大学論』も読み始めました。
こちらは文科省の職員との対談なども入っており、たまりません。
一日が22時から24時の間にもう3時間分の隙間があればいいのに…。

 
  

【読了】美術館へ行こう(草薙奈津子著、岩波ジュニア新書)

『美術館へ行こう』(草薙奈津子著、岩波ジュニア新書)を読みました。



優しい語り口で美術館の表も裏も話してくれる素敵な本でした。
また、
・適当な感じで交渉に来た外部の学芸員にちょっと意地悪をしちゃった
・展示品を貸してくれない修復家に心のなかで憎まれ口を叩いちゃったり
など、所々に著者の本音が垣間見えて、非常に親近感がわきます。
ちなみに著者は平塚市美術館の館長。

以前、■子どもたちに美術鑑賞の楽しみをという記事を書きましたが、本書には以下のような記載がございました。
また最近は、小中学校での美術教育の一環として鑑賞教育に力を入れるようになってきています。おのずと美術館の出番も多くなってきているのです。(同書P25)
実際にもうこういう取り組みに向かっているのですね。
非常に素晴らしいことだと思います。
絵がうまくなくても、美術は楽しんでいいのです。
そして、自分がある作品からどう感じようと、それは個人の勝手なのです。
こういう個人の勝手な感じ方を尊重することが、個人の尊厳につながるのだということを教えることは、学校教育の非常に大切な役割だと思います。

その他、学芸員にも専門分野があるとは知りませんでした。
また、キュレーターという仕事が、学芸員の仕事を細分化した内の一つであるということもこの本で初めて知りました。
欧米の有名な美術館では、キュレーターの他にもかなり細分化された専門家が配置されているようで、日本ではまだまだ美術館の事業や学芸員の仕事の地位が低いということが伺えます。

本書の中で私が特に感銘をうけたのは、以下の箇所です。
どんなに汚い箱でも捨ててはいけないと言いましたが(中略)新しいものに勝手に変えたりしてはいけません。(中略)なぜなら、そういった古いものにはきちんとした来歴由緒があって、そのまま保管しているのかもしれないからです。歴史のあるものには思いもかけない秘密と価値があるのです。(同書P107-108、下線は私の加筆)
この一文にははっとさせられました。
これは美術作品にだけ言えることではなく、普遍的なことではないかと思わずにはいられません。
「自分には価値の分からないもの」にも「それでも価値がある」と認められること、これが知性を探求する第一歩のような気がします。
もし美術教育が、ここにまで及ぶのであれば、展示される作品や制作する作家、そして美術館・学芸員・管理方を含む行政を見る目は、輝きに満ちてくるのではないかと期待せずにはいられません。

子ども向けの本ですが、全然馬鹿にはできません。
案外大人は、子どもに向けたほうが、本音を語れるのかもしれませんね。

今度是非一度同美術館にお邪魔してみたいなぁと思います。

辞令交付式への違和感(みんなよく参加するなぁ)

 今日は4月1日。  我社では辞令交付式が行われました。  そのため、土曜日ですが、人事課員として出勤しました。  明日も仕事なので、12連勤となります。   人事課の闇ですね。  それはさておき、辞令交付式に関して、毎年違和感を持ちます。  それは、お礼を言われる側が、何故かホ...