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教育が子どもから自主性を奪う:【書評】反教育論(泉谷関示、講談社現代新書)



反教育論(泉谷関示、講談社現代新書)を読みました。
面白かったです。

内容としては、いかにして自主性をはぐくむかという点にあると私は感じました。
基礎教育にこだわったり、何でもレールを引いてあげたりすることで、いかに個人の自主性がなくなっていくのかといった内容です。
本書の内容は、かなり根本橘夫氏の『「いい人に見られたい」症候群』等の著作につながるものが多い印象を持ちました。
いずれも「自分を持て」というメッセージを発しているように私は感じます。
『「いい人に見られたい」症候群』がどうやって「自分の持つか」という方法が主だったのに対して、本書は「なぜ自分を持てなくなるのか」という根本原因を深堀したような感じでしょうか。
また、様々な先人からの引用や現代社会とのつながりなども絡めて説明するため、「自分を持てなくなる背景」がより鮮明になっている感じがします。

自主性の育て方

本書には、「自主性を育ませたいなら、自主的にさせておかなくてはならない」というロジックが底流しています。
なるほどその観点で行くのであれば、私たち大人は「どうにか子どもをコントロールしないように」自律しなくてはいけません。
そして、私たち大人から逃れるべき機関である学校にもそのことを求めなければなりません。
そのためにも、自主性は外から育てることはできないということを認めることが必要です。
「いい距離で見守る勇気」、大人にはこの勇気が求められているようです。

子離れが大事

そういう意味では、本書は、子育てをしている方にとっては、結構きつい本かもしれません。
例えば、幼児教育やいい学習環境が子どもを必ずしも成長させるわけではないなど、親としてはしてあげたいことが子どもの成熟には却ってマイナスに働くというような主張も多いです。
逆に、親に嘘をつけないと子どもは成長しないという主張も、親的には少し「えっ…本当に?」と思ってしまうでしょう。
ただ、「無菌状態で育てれば、弱い子になる」と言われてみれば、私としてはよくわかります。
極力親は介入せず、子どもが大けがしないように見守ってあげることが、親のしてあげられる最大限のことなのかもしれません。
そういう点からみると、ぜひ子育てに自信を持っている人にこそ読んでほしい一冊です。
(まぁ自信を持っている人はこういう本を読まないと思いますが)

逆に、子育てにへとへとになっている人にはいいかもしれない。
本書を読めば、子どもはうっちゃっておいてもいいかもと思えると思います。
親がかかわらないほうが、子どもが成熟するのですから。
あとは、親が何か没頭できる遊びのようなものを持っているほうが、子どももそれをまねるかもしれないので、そういう時間を作ってもいいのかもしれないと思えるかもしれません。
そういう意識を持っておけば、少なくとも、子どもが何かに没頭していることを容認できるはずです。
また、子どもが集団の中で浮いていたり、先生から疎まれたりしていたとしても、ひょっとしたら自分で考えることのできる子どもなのかもしれないとポジティブに考えることができます。
(もちろん人を傷つけるというようなことは許されませんが)
こういう風に見ていくと、子育てや教育というのは、そんなに難しいことではないように思えます。

といった感じで、人によっては少し肩の荷が下りる本です。


幸せと執着の関係:【映画評】秒速5センチメートル(新海誠)




秒速5センチメートル(新海誠)を観ました。
胸をえぐる作品です。

ジブリ作品の『耳をすませば』の正反対というか、バッドエンドというか、そんな風に表現すればいいのでしょうか。

あんなにぜんぜん進まない電車でイライラ感を共有させた上でいい感じになった2人なのに、そこからなんやかんやあって「え、そうなるの? 実は主人公といい感じで終わるとかじゃないの?」という感じでスパッと終わります。

本作を端的に表現してしまえば、「繊細な人達がすれ違う物語」です。
そんな物語なので、主題歌の「One more time, One more chance」はぴったりです。


が、各登場人物たちそれぞれの繊細に気付けるのは、ひょっとしたら鑑賞者だけかもしれません。
例えば澄田からしたら、遠野は繊細とは思えないだろうなぁと思います。

繊細ゆえに、ここではない遠くを見て生きてしまうというのは仕方のないことなのかもしれません。
しかも、そういう生き方というのは、一見浮世離れしていてかっこいい側面もあります。
まして澄田のような狭い世界に窮屈な思いをしている高校生からしたらなおさらかもしれません。
(遠野くんイケメンだしね)
でも、ここではない遠くを見て生きているというのは、ある意味自分の人生を生きれていないということで、だから遠野は苦しみ続けているのです。

チューしたときに「この先がないことがはっきりわかった」とかなんとか察してないで、後日さっさと明里ちゃん会いに行って、色々とはっきりさせればよかったのに、それを逃げててだらだらと生きていたところに大きなかけ違いが生じたのです。
(「鹿児島に住んでたって、羽田で合流すればいいじゃん」と言ってしまえば作品にはならないのでしょうけれど)
繊細な人というのは、粘着質なところがあるのかもしれません。
(…気を付けよう)

その点、明里ちゃんは偉い。
遠野のことなんてすっぱり忘れて、結婚相手も見つけて幸せになっています。
遠野との思い出を昔のこととして受けれてもいる。

2人の違いは何だったのか。
それは執着の有無でしょう。

こう考えると、どうにもならない(と思える)ことを手放すというか、忘れるということは、幸福に生きていく上で重要なんだなぁと思わされます。
仏教も「執着を手放せ」とはよく言いますが、こういうことですね。

忘れて、許して、今を生きれる人が一番幸せなのです。
秒速5センチメートルは、そんなことを突き付けてくる作品でした。

こちら側につなぎとめてくれる人が近しい人とは限らない:【映画評】言の葉の庭(新海誠)



言の葉の庭(新海誠)を観ました。
面白かったです。

新海監督のかかわっている「彼女と彼女の猫」や「秒速5センチメートル」のように、少し重たい物語です。
ちょっと病み気味の人物がメインに置かれているという意味で共通しています。


本作のストーリーとしては、公式では以下のように紹介されています。
靴職人を目指す高校生・タカオは、雨の朝は決まって学校をさぼり、公園の日本庭園で靴のスケッチを描いていた。ある日、タカオは、ひとり缶ビールを飲む謎めいた年上の女性・ユキノと出会う。ふたりは約束もないまま雨の日だけの逢瀬を重ねるようになり、次第に心を通わせていく。居場所を見失ってしまったというユキノに、彼女がもっと歩きたくなるような靴を作りたいと願うタカオ。六月の空のように物憂げに揺れ動く、互いの思いをよそに梅雨は明けようとしていた。(言の葉の庭公式HPより https://www.kotonohanoniwa.jp/page/product.html)

しかし、私が思うには、この物語はユキノを中心とした物語です。
ユキノというあちら側に行きそうな女性を、こちら側の男の子・タカオが救うというのがこの映画の主題だと思います。
そして、主題曲の「Rain」もやっぱりユキノさんの歌なのです。



そういう観点に立ってこの映画を振り返ってみると、村上春樹の『アフター・ダーク』と重なります。
アフターダークもこちら側の男の子が、あちら側に行きそうな女の子を引き留めるお話でした。
また、アフターダークでは渋谷のホテル街が(昼と夜の)境界の舞台でしたが、言の葉の庭では新宿御苑が(日常とアウトローの)境界として描かれていたように思います。

それだけでなく、言の葉の庭にも、同じように「悪」が表現されている点が類似しています。
ひとりはユキノを追い込んだ女子高生(とその取り巻き)。
そして、もう一人は同僚の元カレ。
どちらも日常を普通に生きながら、他者を傷つけ、そのことに罪を感じていないように描かれています。
まるで、「だってそうするしかないでしょう?」というような感じ。
日常というのは、常にそうした闇(悪)と隣り合わせで営まれている、こちらとあちらの境界は割とあいまいである、ということを再確認させられます。
両作はその上で、闇はある一方で希望もあるということを強調しているのだと思われます。
【読了】アフターダーク(村上春樹著、講談社)

新海先生は本作を通じて、日常の闇(というか悪)が一人の女性を壊しかけ、名前も知らない一人の「自分の世界」を持つ男性が彼女を救った、というお話をしたかったのではないでしょうか。

(余談ですが、ビールが飲みたくなる点も、村上春樹作品と類似してます。本作を観た後に、金麦を買いにコンビニへ駆けて行ったのは私だけではないはず…)



ところで、先日『「いい人に見られたい」症候群』という本を読んだ私には、この映画がその本の解説動画なのではないかとも思えました。
まるで、ユキノという代償的自己を生きる女性が、自分の人生を生きようとしている男の子に救済される、そんな例を映画化したようです。
そういう意味で、タカオの生き方は代償的自己を生きる人の参考になりそうです。
(明確な目標とそれに向けた行動、毅然とした自己表示、感情の素直な発露、などなど)
他者を優先する「甘えんぼいい子ちゃん」を卒業しよう:【書評】「いい人に見られたい」症候群(根本橘夫、文藝春秋)


   

「自分はただいるだけでいい」という感覚をつかみ取る方法:【書評】「自分には価値がない」の心理学(根本橘夫、朝日新書)




「自分には価値がない」の心理学(根本橘夫、朝日新書)を読みました。
面白かったです。

ベースには先日紹介した『「いい人に見られたい」症候群』があると思われる内容です。
どちらかといえばこちらのほうがより実践的な印象でしょうか。
「自分に価値がない」と思ってしまうその原因・メカニズム・解消法を多く紹介しています。

著者も言うように、本書を読んだからすぐ心がすっきり晴れる、というものではありません。
心理的技能も練習してだんだんとできるようになるのである。時間をかけて、何回も何回も練習することで、少しずつ上手になっていくのである。(P111)
ノウハウを知っても、すぐには身につかない。
だけど、時間をかけて何度も取り組めば、やがて身につくという希望があるということですね。
本当の安心は、自分の価値などという意識を超越したところに存在する。
しかし、それを直接求めることは、解脱を求めるようなものである。
逆に、自分の外側をいくら飾り立てても、心底の無価値感から免れることはできない。
自分を成長させ、幸福な人生を築こうとする誠実な努力を積み重ねるうちに、しっかりとした自己価値感が形成されるのである。
(P100)

幸福な状況は他者が与えることができても、幸福であるかどうかは本人に依存する。
(中略)自分の人生は自分にしか作れない。これからの人生についての責任は自分しか追うことができない。
(P98)
そして、その自分の人生を作るという作業を「人生設計」を通じて行うことを著者は勧めます。



その他には「人を大切にすること」や自律訓練法などの具体的なトレーニングなども紹介されていました。
また、「感謝すること」も大切なことなのだとか。
感謝は自己価値感を高揚させる。なぜなら感謝とは、自分が他者から恩恵を受けていることを意識することだからであり、自分が愛され、気にかけてもらっていると感じることだからである。感謝の反対は愚痴である。愚痴を言うほど足りない部分に目が行き、不満だらけになる。愚痴は相手を貶めるだけではなく、愚痴を言う視点は自分にも向けられ、足りないだらけの自分として自分を貶めることにもなる。(P214)
…気を付けようと思います。



親としては、非常に気になる箇所があったので、それもご紹介。

親自身が多かれ少なかれ快体験に罪意識や恐れを抱いている。このために、子どもが楽しんでいるとつい不安になってしまい、水を差す行動をする。(P22 0)
まさにわが身を射たりです。

子どもが夢中になっているところに、「勉強はいいの?」「そろそろやめよう」などと水を差すのは、そういう心理があったのかもしれないと少し反省しています。
(とはいえ、あまりテレビを見すぎるのも問題なので、上の心理を意識しつつ、常識的な範囲で対応が必要なのでしょう。)



自己価値感を取り戻す方法が多数紹介されていましたが、大事なのは「自分はこれでいいのだ」と思えるということのようです。
そのためにも、快・不快、好き・嫌いというのをもっと感じ取って、表現してあげつつ、家族や社会と対立が生じたらいい落としどころを探してくという作業が必要とのこと。
実は、そういう作業を通じて、親も子どもも成熟していくのかもしれませんね。


 

他者に強くなる方法としての自然体といくつかのおすすめ書籍:【書評】人に強くなる極意(佐藤優、青春新書)


面白かったです。

人に強くなる≒自然体で生きる、ということだと私は理解しました。
人に媚びず、びびらず、直感を大事にしながらも先人や他社の知恵を借りながら賢く生きていくことが大切だと語りかけてくるようです。
ではどうやってそんな生き方をしていけばいいのか。
当然ですが簡単ではなさそうですが、そのための方法論を、著者の体験や読んだ本などを通じて紹介されています。

ところどころに「うつになりやすい人の仕事の捉え方」なども書かれており、なるほどと思いました。
(読んだからといってすぐに捉え方を修正できるような処方箋ではありませんが)
ただ、クラッシャー上司サイコパス上司のように、本当にやばい人もいるということは、知っておいたほうがいいでしょう。
本当にやばい人とは、どううまくやろうとしてもどうにもなりませんから、逃げるしかありません。
私個人としては、その点を強調しておきたいと思います。
(最近の著書ではこの点にも触れらていました→メンタルの強化書(佐藤優、クロスメディア・パブリッシング)

各章の最後には、おすすめの書籍も紹介されていました。
今後読みたいなぁと思った書籍をメモ代わりに列挙します。

怒らない

びびらない

侮らない

断らない

あきらめない

先送りしない

他者を優先する「甘えんぼいい子ちゃん」を卒業しよう:【書評】「いい人に見られたい」症候群(根本橘夫、文藝春秋)



面白かったです。

「自分よりも他人を優先してしまう」という心理を分析し、そのことに『「偽りの自分」を感じてしまう人』に対してどうすればそれを乗り越えられるかを示した一冊でした。
自分を犠牲にして、他者を優先させるというのは、多かれ少なかれ、自分も該当してると思う方も多いと思いますが、その他人優先が行き過ぎてしんどくなる人に向けられた本です。

こうした他者を過剰に優先するという心理の裏には、「あなたを優先するのだから、自分にも優しくしてくれ」という甘えが存在すると著者は分析します。
また、こういう心理に至るのには、自分の価値を低く見てしまうせいであり、自分の価値を低く見てしまうのは、十分な愛を得られずに自分を表現してこなかったからだとも。
自分の価値を見出すためには、自分の感情や思いを吐き出し、社会や他人とぶつかることでちょうどいいところを探っていくという作業が必要で、そのためにも反抗期というのは重要な自己表現の時期となる。
だからこそ反抗期がないというのは成熟へのきっかけを失うことにつながるそうです。
(どうせ分かり合えない、という諦めはすでに代償的自己への階段を上りつつあるということでしょうね。わかる気がします)

本書の中には20代から60代まで、男女ともに多数の患者(?)の声が紹介されています。
いい人に見られたい自分に苦しんでいる(代償的自己を生きている)人は世代や性別を問わないようです。
また、特に日本は自分を律することを求められることが多く、学校という機能そのものにも、代償的自己を助長する部分があると著者は指摘します。
代償的自己を生きるほうが楽な時期というのがあるということだと私は理解しました。

本書がよかったのは、代償的自己のような生き方についても、これまでそういう生き方だったことをまずは認めることが大事だと教えてくれるところです。
誰のせいでもなく、代償的自己を生きるしかないからそのように生きてきた、という認識でまずは受け止める。
次に、それをどうしたいか、どう生きていきたいかを自分でつかみ取りましょう、そのためにはこんな風に考えるのがいいのでは? というような感じです。
普通の人が読めば、「こんなの普通じゃん」という内容かもしれません(例えば、自分の感情や感性を大事にする、など)。
でも、代償的自己を生きる人は些細なことですべてが崩れ去ると思っています。
だから、自分を出せず、それによってさらに自分の価値が低く感じられ、余計に自分を出せずになり…といったつらいループをぐるぐる回ってしまうのですね。
このループから抜け出すには、自分でやるしかないのがポイントです。
自分の人生は、自分にしか変えることはできないのです。
そして、自分の人生を変えるために必要なことは「傷つくことから逃げないこと」「行動すること」の2つだけと著者は強調していました。

私自身も仕事で上司と合わずに休みながらこの本を読んでみると、確かに代償的自己のような生き方をしていた部分があると感じます。
「私は、いい子ちゃんになりたがっていたんだなぁ」と気づかされました。
これまでの人生を思い返してみれば、そうやって自分からしんどい方向に自分を持って行ってもがいていた部分もありそうです。

タイトルを見て何かピンと来た人は、ぜひ一読をお勧めします。
「あぁ、この感覚は、そういうことなのか」と腑に落ちる部分がきっとあるはずです。



たぶん根っこの部分は『繊細さん』と近いものがあると思います。

【読了】妻たちの思秋期(斎藤茂男著、講談社+α文庫)

先日読んだ『酒飲みの社会学』(清水新二著、素朴社)で紹介されていた『妻たちの思秋期』を読みました。


【読了】酒飲みの社会学(清水新二著、素朴社)

専業主婦が主人公の短編小説だと思って読み始めたのですが、大いなる勘違いでした。
前半では専業主婦としての悲しみや虚しさを酒で埋めることからアルコール依存症に陥った主婦たちが描かれており、後半では酒で埋めることなく離婚というアクションを取った主婦たちにスポットライトを当てた、れっきとしたルポルタージュです。
重い。

妻たちの言葉だけでなく、様々な取材を通して、いろんな視点から問題を切り取っており、非常に踏み込んだところまで書かれています。
私は記者という仕事を少々軽く見ておりました。
当たり前に存在している常識に対して、取材と文で世の中に疑問を投げかける素晴らしい作品だと思います。
本作で問われていることは「男と女、これでいいのか?」ということになると思います。

本書に出てくる女性たちは、「まーなんでこんな夫をもらっちゃったのご愁傷様」というくらいひどい男たちを夫にしています。
いずれのカップルも知り合ってから結婚までが短く、何かから逃げるようにして結婚をしているケースが多いのですが、それにしたって、ねぇ? という感じです。
しかし、こういう感想は、「自分は大丈夫」という前提から見ているわけであって、「果たして私は大丈夫なのか?」と考えない訳にはいかない。
少し家の中での身の振り方を省みるべきなのでしょう。

精神科の話(実際あっていない男を分析するのはいかがかと思いましたが)の中で、「結婚は自立した大人同士がしないと、ベッタリと寄りかかった関係になり、不幸なものになりかねない」と指摘しており、本当にそのとおりだなぁと思わされます。
しかし、一方でそうした認識が浸透したら、結婚する人は多分減るだろうし、少子化はどんどん進むに違いないと思います。
ここをどう考えるかが女性の権利拡大派になれるかどうかだと思います。
私は、たとえ少子化が進んだとしても、権利拡大路線に切り替えたいと思いました。

ある女性から、下のような投稿が届いたと紹介されます。

<夫との距離に心傷つき、アルコールで全てを麻痺させようとする妻の姿は痛ましい。だが、今の日本の妻たちにとって、教育ママになることも、亭主のおしりを叩くことさえも、かたちを変えたアルコールではなかろうか。夫たちにしても、身も心も捧げ尽くしている"仕事"というものが、その実、形を変えたアルコールではないか>(『妻たちの思秋期』P151)
この言葉を読んだときに、『マインド・コントロール』(岡田尊司、文春新書)に出てきた以下の言葉を思い出しました。
デビーはこう語っている。「貧者の面倒を見ることも、株式を公開して100万ドルを手に入れることも、最終的な目的は同じなのです。自分の苦しみは何らかの形で報われるはずだと思う。そうして人は広い視野を失ってしまうのです」と。(渡会圭子訳『隠れた脳』より)(『マインド・コントロール』P35)
これらの言葉の底流には「脳にとって耐え難い状況」があることが考えられます。
だからこそ、思考を止めて「あるべきとされてきた役割」を演じようとするのでしょう。
妻たちは、自分の視野を極端に狭くして、自らトンネルに入り込もうとしているのかも知れません。
そして、そうせざるを得ない状況が、そこにはあったということでしょう。
【読了】マインド・コントロール

X先生は、統計やアンケートでは上がってこないであろう事例の回収に本書が成功していると評します。
結局、統計やアンケートは個々人を一つのサンプルに押し込んで全体の傾向を見るものですから、一つ一つの家庭にある小説よりも奇なる夫婦関係というものは、出てこない、というか出さないようにするのが統計・アンケートなのでしょう。
したがって、こうしたルポによって切り出すのは、非常に意義があるということですね。
しかし、ルボだけに頼れば、恣意的な、偏った記事になることも懸念されます。
ということで、やはりミクロとマクロの両方で物事を見ることが必要なのだということでしょう。
分析だけでは足りないし、特定の事例だけでは間違った方向に舵取りしてしまう。
冷静に、いろんな視野を持って、どうしていくべきなのかを考えることが必要ですし、まずはそれを「個人のレベル」で考え、実践していくことが重要なのだろうなと思わされました。

そのためにも、まずは「労働至上主義」を廃したいと思います。

【読了】マインド・コントロール

『マインド・コントロール(増補改訂版)』(岡田尊司著、文春新書)を読み終えました。
知っているか知らないかで、それこそ人生を変えるかもしれない、そんな内容でした。


人は、こうも簡単な原理でマインド・コントロールに陥るものかと驚きます。本書の中でも、近年「自由意志」に対する信仰に近い考えがあらたまり、本人の思想・行動に強制的な介入も認められるようになってきた、と語られていますが、たしかに自由意志というものが如何に心もとないかを考えさせられます。
恐ろしいのは、「私」はそれを望んでやっている、と「思わせられる」こと。自覚がないことですね。
本書のいいところは、マインド・コントロールの発展してきた歴史やマインド・コントロールのかけ方という技術的な側面に限らず、どうやったら自分や周りの家族たちを守ることができるかという対策の側面にも触れているのが良いと感じます。
もちろん、それを知っているからといっても、拉致、監禁の後に強制的なマインド・コントロールをされてしまえばどうしようもないのですが、日常生活上でのマインド・コントロール(に近いもの)とは一定の免疫を持って立ち向かえるようになれそうです。
ポイントは「自立と依存」。結局は自分の人生を主体的に生きようとしているかどうかが、マインド・コントロールにかかりやすい・かかりにくいを決めているようです。

自分の場合はどうか、と振り返ってみると、私はどうも(特に仕事において)嫌なことをする人に積極的に関わろうとする傾向があるのを感じます。
多分コミュニケーションを重ねることで、心理的・肉体的な不快感が少なくなるようにする無意識の処世術なのでしょうが、これはある意味において嫌なことをする人に縛られている(依存している)状況ともみれます。
…気をつけようと思います。

また、依存の話で出てくるのは、家族の絆が重要という、割りと一般論的な話がされます。
結局は、普遍的な愛やつながりを求めるが故に、マインド・コントロールによって別のものがその普遍的愛やつながりを約束し、その人の価値観を換えてしまうわけです。
だから、安全地帯としての家族というユニットが正常な関係を回復した時、その人のかかっているマインド・コントロールは前提を失い、もろくなるようです。
近年、自己実現に重きが置かれ、家族の価値が少しずつ低下していると感じるのは私だけでしょうか。こうした時代において、マインド・コントロールの危険性が拡大しているという強い懸念を感じます。

本書は、洗脳やマインド・コントロールの歴史にも多くの紙面が割かれています。
マインド・コントロールの歴史は、戦争の歴史と、近代では大衆コントロールの歴史とリンクしていますので、必然、戦争や広告、選挙の手法の遷移についても学べるという趣向になっていました。

また、仕事や人間関係に活かせるテクニックも多く、非常に参考になる本だとも感じます。
矢継ぎ早に話す、善意の第三者になる、相手に共感してみる、断定を避ける、付加疑問的な会話・投げかけをする、などがそれです。
これらのテクニックは、マインド・コントロールの発展とともに編み出された手法を応用して、日常生活を有利に生きるための知恵と考えることもできますが、当然悪徳商法にも使われるため、上のような手法で何か自分に訴えかけてくる人には、よく注意したほうがいいと思われます。

便利は危ない。
危ないは便利。
そんなマインド・コントロールの大まかな概念がつかめる本でした。

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【読了】ザ・ウェーブ(モートン・ルー著、新樹社)

ザ・ウェーブ
ザ・ウェーブ
新樹社


読みました。
ザ・ウェーブ(モートン・ルー著)という本で、ある学校の理科の授業でナチスの取り入れた規律をもとに共同体を意識させる、という実験が行われ、それに伴いどんなことが起きたかを小説にした作品。
表紙がアニメ絵なので、軽い感じで読み始めると、あら大変。
人間は簡単に善悪の判断とか個人そのものを失えてしまうんだなと言うことを突きつけられます。

空気を読めという言葉がありますが、読みすぎるのも考えもんですね。
民主主義は多数派の意見を採用する社会ですが、こうした作品を読んで【集団や大衆の性質】について思いを巡らせるたびに、民主主義って危険だなぁと思わずにはいられません。
議会制民主主義なんていう下りエスカレーターで登る的な制度は、もしかしたら民衆や権力の濫用を抑えるための措置なのかもしれませんね。
だとすると、参議院もあながち反対できないなぁ、なんてことを考えさせられました。

形は違えど、いろんな形でマインドコントロールをされているかもしれないと疑心暗鬼になる劇薬的な本でした。
アルコールよりも効き目が強く、翌日への残りも心配です。

こっちの映画も見たいけど、近所のツタヤでは貸出してない…
THE WAVE ウェイヴ [DVD]
THE WAVE ウェイヴ [DVD]
アットエンタテインメント
2010-04-28
DVD

辞令交付式への違和感(みんなよく参加するなぁ)

 今日は4月1日。  我社では辞令交付式が行われました。  そのため、土曜日ですが、人事課員として出勤しました。  明日も仕事なので、12連勤となります。   人事課の闇ですね。  それはさておき、辞令交付式に関して、毎年違和感を持ちます。  それは、お礼を言われる側が、何故かホ...