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読んでみると、すごく常識的な感じ:【書評】クルアーン(水谷周、国書刊行会)




クルアーン:やさしい和訳(水谷周、国書刊行会)を読みました。
アメリカへのテロやフランスでのテロなど、イスラム教には過激なイメージがあると思うかたも多いと思いますが、クルアーンを読む限りは、その過激さは一部の集団に限られるのではないかなという気がします。
それくらい、常識的な諭しがちりばめられた書です。

もちろん一神教ですし、21世紀を生きる日本人の私たちの目から見たら???と思う箇所も散見されますが、ほとんどのところは「うんうん、なるほど、そういうことね」「そういう考えもあるかもね」と感じられる内容です。
というか、私の目から見たら結構誠実な生き方を奨励しているという印象を受けます。

面白いなぁと思ったのは、以下のような世界観。

  • 人は弱く作られている(だからアッラーに庇護を求めよ)
  • 善悪は人間には判断できない(いやなこともアッラーからの啓示かもしれない)
  • この世は仮の世界(最後の審判のための徳を貯める時間)
  • 恵まれるものは忘れ、困難にあるものは嘆願する(常に信仰せよ)

ここだけ引っ張ってくると、何となく仏教にも近いものがあると思えてきます。
(人は苦しむ存在、善も悪もない、解脱…)



旧約聖書や新約聖書との関連も多数出てきます。
クルアーンでは、キリストも預言者のひとりと考えており、一神教ではあるものの、ユダヤ教やキリスト教徒の親和について、意識的に余地を残しているようです。
どのくらい関連しているかは、以下の預言者一覧をご参照ください。

イスラム教預言者一覧、()内の名前は、聖書表記。P614より

  1. アーダム(アダム、人類の初めであり、預言者の初め)
  2. イドリース(エノク、19:56,57 21:85)
  3. ヌーフ(ノア、ノアの箱舟で知られる)
  4. フード(エベル、アラビア半島南部のアードの民に使わされたアラブ人)
  5. サーリフ(アラビア半島北部のサムードの民に遣わされたアラブ人)
  6. イブラーヒーム(アブラハム、一神教を再興した預言者として重視される)
  7. イスマーイール(イシュマエル、イブラーヒームの長男でアラブ人の祖)
  8. イスハーク(イサク、イブラーヒームの次男でユダヤ人の祖)
  9. ルート(ロト、イブラーヒームの甥、パレスチナ北部カナーン地方の町サデゥームに遣わせられた)
  10. ヤアクーブ(ヤコブ、イスハークの息子、別名イスラーイール)
  11. ユースフ(ヨセフ、ヤアクーブの12人の息子の一人で美男子)
  12. シュアイブ(ナジュド地方窓やんの町の「森(アイカ)の人たち」に遣わせられたアラブ人)
  13. アイユーブ(ヨブ、忍耐の人として知られる)
  14. ムーサ―(モーゼ、ユダヤ教の「立法」を授かった)
  15. ハールーン(アロン、ムーサーの兄)
  16. ズー・アルキフル(エゼキエル、21:85,38:48に言及される)
  17. ダーウード(ダビデ、イスラエル王国の王、「詩編」を授かった)
  18. スライマーン(ソロモン、ダーウードの息子、エルサレム神殿を建設)
  19. イルヤース(エリヤ、6:85 37:123-132)
  20. アルヤサア(エリシア、紀元前9世紀、ユダヤ王国の混乱を収めた)
  21. ユーヌス(ヨナ、魚に飲み込まれた人として知られる)
  22. ザカリーヤー(ザカリア、マルヤムの保護者)
  23. ヤフヤー(ヨハネ、ザカリーヤーの息子で、洗礼者)
  24. イーサー(イエス、キリスト教の「福音」を授かった)
  25. ムハンマド(クルアーン中では、アフマド。61:6)

ということで、次は新約聖書物語を読んでみようと思います。
■旧約聖書物語(犬養道子、新潮社)
クルアーン物語とかないのかな。

 


五重塔(幸田露伴、Kindle無料本)



五重塔(幸田露伴、Kindle無料本)』を読みました。
面白く読めました。
幸田露伴は2冊め。
幸田露伴1867-1947(幸田露伴、筑摩書房)

本書は、雑にまとめてしまえば、「堅物どもの美談」です。
登場人物らはとても清々しい人々ではあるものの、十兵衛の仕事観には、池井戸潤作品のような仕事至上主義の感が漂っていて気になります。
表面上は時代錯誤と言えるでしょう、と言いたい。

ただし、それぞれの人々の立ち振舞には感ずるところが多いと思いました。
それぞれの章において、十兵衛、源太はもとより、上人様、お吉、清吉、などなど、個々人が自分で考えてその場で己がすべきだと思われる立ち振舞をし、それにともなう事態については己でしっかり責任を取ろうとする様子が見て取れます。
だから、たとえ個々人の言動が少し自分の感覚とは違っていても、「なるほど彼(彼女)はそう思って、そう動いたのだな」ということがわかるし、周りの登場人物らもそれをわかっているし、多分著者の幸田露伴もそこ(主体的な人間たち)をわかりやすく表現したかったんではなかろうか、と思いました。
(そういう意味でも、とても池井戸潤作品ぽい感じがします)

「恥」という尺度を道徳的に適用する日本人のいい側面が描かれているように感じました。
個人的には、上人様と源太が好きです。

読み終わったときには、無性に熱燗が飲みたくなる本でした。

  

古典がもっと好きになる(田中貴子、岩波ジュニア新書)



古典がもっと好きになる(田中貴子、岩波ジュニア新書)』を読みました。
国文学者の著者が、「文法なんて知らねぇよ。いいから読め」(とまで口悪くはないですが)とぶち上げる痛快な本です。
古典や古文を味わいたいという人には非常に実際的な内容が書かれています。
とても面白かったです。

上の表現は私の超訳で、本書ではもっと穏やかに次のようなことが書かれていました。

文法も不要ではないけれど、そればっかりでは古典の面白さはわかりません。
声を出して読み、何度も読み、そうしているうちに意味が分かってきて、文脈がわかってきて、そして現代にも通じる面白みがあることに気づいて古典と親しめるものです。

…ということです。
「古文は外国語ではなく、昔の日本語」なのだから、あまり肩ひじ張らず、自然体で楽しみましょうね、というスタイルで古典と付き合うことを勧めていました。
私も昨年『大鏡』を読んだ際にはとてもおもしろく読めたので、本当にそう思います。
古文が嫌いで古典を敬遠している人は、もったいないと思います。
時代の風雪に耐えて今もある書物には、何かしら感ずるところがあること請け合いです。
だから、現代語訳でもいいから、興味があれば読んでみるといいと思います。
1000年前の文学だからって、そんなに偉いもんでもないと思って、週刊誌の連続小説を暇つぶしに読むくらいの感覚で付き合えばいいのではないでしょうか。
もちろん読まなくたって生きていくのに不便はありません。
だから、古典・古文なんていうのは趣味の世界なのです(と言ったら専門家の方は怒るかもしれません。ということで、これは私見です)。
でも、古典・古文に親しめば、気軽にタイムスリップができます。
それが人生を豊かにしないなんてことがありますでしょうか?

我が国は単一国家としての歴史も長く、様々な文化が連綿と続いてきた社会に生きているわけですから、この国でしか味わえない”スルメ”的学問が多くありますす。
その一つがまさに古典・古文ではないかと思うのです。
そして、そういうスタンスで様々な古典・古文の資料と向き合える人が多ければ多いほど、学問としてはよいはずです。
まだまだ現代語訳を待っている多くの古文が古本屋や納屋の奥に眠っています。
それを現代の光にあてる人材を増やすのに、本書は大きな寄与をするのではないかと、読みながら思いました。
このさい、古典文法は頭のなかから追い出してください。それより、日本人の心の宝、文化の泉である古典の一節を、わけもわからないまま暗唱するほうが将来の教養のためにはいいと思います。口をついて出る言葉、それは脳のどこかにしっかりとしまわれてあなたの心の血肉となることでしょう。(P53)
確かに、ちょっとキザな感じもしますが、さらりと場に即して暗唱できたら、場を盛り上げることもできるかもしれませんね。
そんなわけで、私はとりあえず、百人一首から始めようかと思います。

幸田露伴1867-1947(幸田露伴、筑摩書房)



幸田露伴1867-1947(幸田露伴、筑摩書房)』を読みました。
少ししんどいところもありましたが、面白かったです。
『貧乏』は江戸っ子の語り口が面白く、『突貫紀行』は徒歩旅行をしたくなります。
『蒲生氏郷』は重かったけど、伝記らしく、その人の周辺の世界がわかり、伊達政宗や豊臣秀吉の人柄が呑み込みやすい形で表現されていて、読み終わったときには少しさわやかな気持ちになります。
ところで、武士の世界の倫理というかルール、規律のようなものも、なるほどこういうことだったのかと合点がいった部分も多かったのが印象的でした。
いやはや、武士の世界とは、不良の世界ですね。

それから、個人的には『野路』という話が好きでした。
幸田露伴のイメージからは全然想起できないような、春の温かい、パステルカラーのゆったりとした世界が描かれています。
そして、そんな春の休日で、のんびり散歩しながら野草を食べて歩くというのはなかなか乙ですね。
酒が飲みたくなってしまいます。

解説の人も書いていましたが、幸田文の「父・こんなこと」を読む限りは堅物の父親のイメージがあったので、本書を読んで全体的に人情味のある、明るい内容が多かったのがいい意味で予想外でした。
父こんなこと(幸田文、新潮文庫)
(幸田文の文体と重なる部分が散見され、ちょっとほっこりしました)

ということで、次は代表作『五重塔』を読みたいと思います。


 

大石内蔵助―赤穂四十七士 (西本 鶏介、講談社 火の鳥伝記文庫)


大石内蔵助―赤穂四十七士 (西本 鶏介、講談社 火の鳥伝記文庫)を読みました。
実際に歴史を動かした人たちがどんなことを思っていたのかということが細かく書かれた伝記で、面白く読めました。
ただ感想としては、「野蛮」だなぁというのが私の感じたところです。
(これはあくまでも現代から見た視点なのだと思いますが)

そもそもなんで吉良上野介を切ったのだろうかと疑問です。
また、なぜ吉良上野介が浅野内匠頭をいじめなくちゃならなかったのか。
その辺は、まだ本当にわかっていないのだそうですが、この解釈だけで物語の意味が全然変わってしまいます。
そこがわからないのになぜこんなにも赤穂浪士の擁護するようなストーリーになってしまうのかがわかりません。
当時、内匠頭がおかしいという話にならないのはならなかったのでしょうかね。
そういうことをしでかすはずの人物でないのだとしたら、なぜそういう史実を支持する資料がないのか気になります。

ファンからしたら暴言かもしれませんが、例えば内匠頭が短気で傷刃に及んだとすれば、キチガイ部下が逆恨みで復讐したと取れないこともないような気がします。
これが武士の振る舞いだと胸を張って言えるのでしょうか。
腹を切れば何でも許されるわけでもないでしょう。
あくまで現代の目線で見たらという前提ですが、ちょっとクレイジーです。
最後の討ち入りのシーンに至っては、吉良家の家臣や家族たちなんてなんの悪さもしてないのに、可愛そうだなと思ってしまいました。

ということで、最近兆民先生や幸徳秋水に影響されている私としては、
菊と刀はこの物語に義理と恩の分類で説明を試みていたましたが、私にはさっぱりわかりません。
持て余した野蛮人が勝手な大義を作って壮大な、人騒がせな復讐を果たして自殺したってだけではないでしょうか」
と書きたいところなのですけれど、私にはやっぱりこの話を美談として捉えたい気持ちがわかってしまいます。
ということで私も日本人の型にしっかりとはまっていることを実感しました。

そしてこういう感覚が自然にあって、それが社会を覆っているのであれば、たしかに我が国はまだまだ市民社会には到達していないのかもしれません。
菊と刀が書かれた時代にはそうだったかもしれませんが、今の若者はどうなのだろう。
ぜひ若い人の「忠臣蔵」に関する感想を聞いてみたいものです。
案外私と似たような感想を持つ若者も多いような気がします。
(気のせいかもしれませんが)

それにしても、こうした子ども向けの伝記というのは、とてもわかり易いですね。
入門書として、ざっくり、一般的なことを学ぶには、非常に良いように思います。
ちょこちょこ読みつつ、シリーズを読破したい気持ちになりました。

 

三酔人経綸問答(中江兆民、光文社古典新訳文庫)



三酔人経綸問答 (中江兆民、光文社古典新訳文庫)を読了。
面白かった。
一年有半と異なり、原文でもちゃんと意味がわかりました。
一年有半・続一年有半(中江兆民、岩波文庫)
原文と訳文の両方が掲載されており、どちらも味わうことができる素晴らしい構成です。
校注はほとんどないけれど、行ったり来たりすれば大体の意味はつかめます。
どちらも独特のリズムがあって、面白い。

さて、本書は問題提起の本だと思います。
当時の日本における課題とそれを取り巻く活動や世論をわかりやすく分類し、整理して、一冊の中で戦わせてしまったのだと私は理解しました。
帝国主義を読んだ後なので、どうしても幸徳秋水と洋学紳士が重なってしまいますが、その真意や如何に。
帝国主義(幸徳秋水、岩波文庫)
ひょっとしたら、これは世の中に向けてということもあるけれども、弟子たちに向けたテキストのようなものとして書かれた、という側面もあったのではないかと考えてしまいます。
対象はどうであれ、兆民自身も少なくとも多くの人間に思想という種をまくということを重視していることは確かであろうから、100%外れているということもないでしょう。
そして、多くの人の頭に残すためにあえて劇作のように拵えたのかもしれません。
確かに、座談形式なので読みやすく、自分の中で議論を咀嚼しやすい。
最終的になんの結論も書かれていないから、議論の扉は開け放たれた形で終わりますので、読後も自分の中で問い続けることができます。
ひょっとしたら兆民は、以降の議論を個々の自由に委ねることで種の肥料としようとしたのではあるまいか…。
などなど、読んだ後もなかなか楽しめる本です。

解説の中で、兆民の思想を端的に表す引用があったので、それを紹介します。

社会というものはな、秩序と進歩と相待ったものである、若しも急激に事を処すると飛んだ間違を起こすものぢやぞ、小児の病は癒ること速かなるが大人はそふぢやない。社会は成長すれば其構造も発達するものぢや、丁度人間の成長するに能く似て居るものぢや、斯く永久の年月を経て進歩する性質のものであるから、之れを改良するにはヤツパリ進歩の法則に従ひ、次第次第に根本的改良に従事せねばならぬものぢや、若しも急激に荒療治をするときは、正当なる身体をして却って害毒を来たし、不健康に陥らしむることがあるものぢや、徐かに急げとは社会改良家の一日も忘るべからざる言ぢや、理解たか理解たらモー帰れ帰れ(『中江兆民全集』第十七巻)(欄外に曰く。さあ、早く家に帰って『三酔人経綸問答』を読もう)(三酔人経綸問答P188)

改革を叫ぶ人は、この論をよく考えてみる必要があるだろう、ということを、以降頭の片隅に置いておきたいと思います。

 

一年有半・続一年有半(中江兆民、岩波文庫)



一年有半・続一年有半 (中江兆民、岩波文庫)を読みました。
面白かったです。
兆民先生はこういう本を書いていたのですね。
なるほど、幸徳秋水は完全に文体を引き継いでいます。

一年有半については時事の話が多く、なかなか進みませんでした。
難しい。
解説を読むと、なるほどそういうところを楽しむものかと関心する。
一緒に三酔人経綸問答の現代語訳を読んでいますが、現代語訳だと明治に書かれたものとは思えません。
付録の原文も現代語訳を読んだ後ということもあるのでしょうけれど、なかなか分かります。
そう考えると、多分この一年有半が難しいのでしょうね。

一方で、続一年有半については、大変分かりやすかったです。
以前世界十五大哲学で紹介されていた内容のほとんどが、続一年有半から引用されているようでした。
兆民先生(幸徳秋水、岩波文庫)
この続一年有半が兆民先生の絶筆となるのですが、本書はまさに兆民先生の集大成だったのだと思います。
内容はいたってシンプルで、物質(を構成する元素)は不変だが、精神は肉体より生じるものであるから死ねば消滅するという事で、それに伴って宗教や神話を木っ端みじんに退けていました。
この辺の知的な激しさは弟子の幸徳秋水にしっかり受け継がれていたのだなぁと思います。
帝国主義(幸徳秋水、岩波文庫)

ところで、本文とはあまり関係ないのですが、解説に面白いことが紹介されていました。
本書は非常にルビや校注が多いのですが、その点について訳者も解説で弁明しています。
そして、その理由に、一つの単語にいくつも読み方があって、その辺のニュアンスを楽しんでもらうということがあったようです。
例えば、「未曾有」に5通り、「正真正銘」に4通りの読み方があったのだとか。
あとは、「無害」というのが「無類」の意味だったりしたそうです。
それゆえに訳者は、あえて極力校注を入れたとのこと。
そして、ここには訳者に影響を与えた一言があったとのこと。
やさしいことのむずかしさをしることはむずかしい(里見弴、文章の話)
なるほど、わが身をよく省みたくなるお言葉です。
当たり前のように古典を楽しんでいますが、そこには必ず訳者、解説者の尽力があることに思い至ります。
こうした翻訳をしてくれる方がいるおかげで、私のような無学な人間でも尊い書物と交わることができるのですから、翻訳とは、誠に偉大な仕事のように思われます。
(欄外に曰く、英語教育の必要性ここに見つけたるか)
英語教育の危機(鳥飼玖美子、ちくま新書)

  

現代語訳 幸徳秋水の基督抹殺論(鹿砦社)



現代語訳 幸徳秋水の基督抹殺論』(鹿砦社)を読みました。
大変おもしろかったです。

キリスト教が、既存の宗教から名前を変えただけのものであることが、実に多くの歴史家が多くの著で述べてきたのかが分かります。
論理的に考えるなら、多分キリストはいなかったのでしょう、と思わせるに十分。
(もっと言えば、マリアも使徒もいなかったようです)
それにしても、相変わらずコテンパンです。
これでもか、これでもか、というくらいあらゆる議論にメスを入れていきます。
で、結論としては、こう。
論じてここに至ればもはや明らかである。基督教というのは、その根本の教義から枝葉の式典に至るまで、なんら独創の事物は有していないのだ。他の宗教から画然と卓越した基督教ならではの独特の色彩、などというものはなんら存在していない。すべてがまさに、古代の太陽崇拝や生殖器崇拝を起源に発生した諸々の信仰の、遺物にすぎないのである。すべてがまさに、印度・波斯・埃及・猶太・希臘・羅馬の、残飯やら飲み残しの酒ばかりなのだ。そういうわけで、もはや史的人物としての基督の肖像は、ますます薄くなるばかりである。(中略)基督教の依って立つ土台は、『無智』以外の何ものでもないのだから。(同書P142)

個人的には「聖書が信じられてきた」という歴史は変えようのない事実なので(それ自体が非常に野蛮なことのようにも思えてしまうのですが)、イエスの存在がまんま聖書の意義に左右するかは少し議論の余地もある気もします。
ただ、秋水先生も別にキリストがいようがいまいが信仰としては関係ないと明記しています。
そして、そのあとで「でも基督がいて、基督の伝説を信じる、という姿勢はおかしい」と続くわけです。
信仰が人々の生活に規律と平穏を与えるのなら良いのでしょうが、これまでの歴史を見れば、基督教はかんたんに教会の便利な道具になるし、しかも帝国主義ともつながります。
秋水先生としては、そこは見逃せなかったのかもしれません。
帝国主義(幸徳秋水、岩波文庫)

面白かった話を二三あげます。
・あらゆる信仰の根本にあるのは「生殖器崇拝」と「太陽崇拝」(命を生むことの偉大さに起因)
・十字架は男性を、丸は女性を表す昔から用いられる記号である(イースター祭の卵も女性を表している)
・12月25日を祝うのは、太陽崇拝の宗教では一般的。多くの行事がこの辺に集まる。それは、ちょうど冬至から3日後に日が伸び始める(太陽が死んで復活する。しかもちょうど3日)というところに起因している
・僧院生活はテラピウト教派そのもの
・初期基督教の飲み会は食人、近親相姦の場となっており、故にローマ帝国で多大なる迫害を受けた
・クリシュナ(インド神話の英雄。多くの人が「Crishna」と書いて表したそう。Cristnaと記載されているのを秋水先生も見たことがあるという)との類似性
などなど。

ーーー

死刑の前(幸徳秋水)と同様、本書も獄中で死刑を前にして書かれたと、訳者のあとがきには書いてありました。
手元に出典もなく、よくもまぁこんな書がかけることです。
それに、この方は高校中退の学歴なのに、どうしてこうも博学なのでしょうか。
私も、もっと本を読んで、色々考えなくちゃならんなと思わされます。

本書は、『死刑の前とかなり近い思想をベースに書かれている気がします。
(同じ人が書いているのだから、当たり前といえば当たり前ですね)
すなわち、両書は次の一言を言いたかったのではないかと思うのです。
科学的精神に適合せず、道理に協(かな)わず、批評に耐えず、常識と相容れないものが、どうして今日における倫理道理の主義や、安心立命の基礎になれようか?(同書P180)
つまり秋水先生は、この「科学的精神」でもって生と死を捉えることを奨励したいのです。
(とはいえ、『死刑の前』は1章しか書かれていないので、本当のところはもう誰にもわからないのですが)

ーーー

ところで、帝国主義の序には、キリスト教徒の内村鑑三が文をしたためていました。
二人は仲が「良かった」のだと思われます。
さて、内村鑑三がもしこの書を読んでいれば、果たしてどう思ったであろうか。
ぜひキリスト教徒としての感想(できれば反論)を伺ってみたいと思いました。


   

死刑の前(幸徳秋水、kindle)



死刑の前(幸徳秋水)を読みました。
死刑を目前に控えていて、なんなんだこの落ち着きは。
そして、続きがめっぽう気になる。
どうして死刑に処してしまったのか…。
せめて本稿が終わるまで待てなかったのか。

本書は、自殺幇助とも取れる内容だから、あまり人に進められる内容ではないのかもしれないが、非常に理系的(?)な発想で「死」を捉えており、あるいはこの説で救われる人もいるのではないかと思います。
だからこそ、続きが読みたい。
同氏がどんな運命感を持っていたのか、ぜひ書いてほしかった。
およそ死ぬ段になってもこんな文章を書く人間は、殺し甲斐のない人間ではないか。
個人的には、この書がここに終わっていることの一事を持って死刑の反対に十分の理由となる。
誠に、残念でならない。

同じく獄中で書いたという『現代語訳 幸徳秋水の基督抹殺論』がいくらかその続きを示唆しているのだとすれば、早く同書の続きを進めたくなります。

  

帝国主義(幸徳秋水、岩波文庫)




先日、幸徳秋水著の『兆民先生』を読んで、もう少し同氏の別の書も読みたいと思って帝国主義 (幸徳秋水、岩波文庫)を読んで見ました。
兆民先生(幸徳秋水、岩波文庫)

これでもかというほど執拗に帝国主義(暴力を持って領土拡大をすすめる国の姿勢)を批判し続けていました。
軍人の主張する軍備拡充の必要性を、一つ残らず叩き潰す感じ。
痛快です。
曰く、
・戦争によって、経済が疲弊している
・戦争によって、芸術、文明が破壊されている
・暴力的な組織(軍隊)が、社会的規範を破壊している
・軍隊が暴力を呼ぶ
・戦争をしたいと思うのは動物的本能である
などなど。

確かに、戦争はかなりお金を必要とすることが、本書を読むとわかりやすく解説されています。
ただ、問題なのは、そのお金のかかるところが極端に偏るというのが問題で、多くの費用は戦争に関連する産業にしか回らない。
そして、福利の方は手薄になる。
そうすると、結局貧乏な人ほど大変になり、社会が回らなくなるということですね。
至ってその通りです。

工業製品の生産過剰についても、中産階級以上は貧民の労働力を搾取することで海外展開するほどの生産力を持つけど、その海外進出する原因(国内の需要量を生産量が上回ってしまうの)は国内の人々から購買力がなくなるためだということを指摘しています。
これはまさに資本論に通じるものではないのでしょうか?
というか、社会主義者と自分で言っているくらいなのですから、多分そうなのでしょう。

この本を読むと、社会主義の本来の意義というか目的がわかってくる気がします。
「格差の是正」、それにともなう「平和」こそが、幸徳秋水の思い描く社会主義の世界だったのでしょう。

社会主義は、私達の中では基本的に「失敗作」として理解されているように思います。
しかし、その思想のいいところを、うまく今の社会に取り込まないと、今後ますます格差は広がり、やがてまた凄惨な事件を起こすような気がします。
ということで、ぜひベーシックインカムを導入してほしいなぁという思いを新たにしました。
ベーシックインカム関連記事

ところで、改題を読むと、幸徳秋水のこうした「平等」「博愛」「平和」という思想は、中江兆民から受け継いでいるとの記載がありました。
そう書かれてしまうと、中江兆民の作品も読みたくなってしまいます。
とりあえず、三酔人経綸問答 (岩波文庫)を読んでみようかなぁと思います。

また、改題では、本書を中江兆民に事前に見せてやり取りをしたのが『兆民先生』内の書簡のやり取りに当たるとの解説もされていました。
なるほど、そういうことだったのかと腑に落ちました。
原著を読んでから誰かの解説を聞くというのも、面白いものですね。

また、同氏の著書で面白そうな本があったので、借りてみました。
書名はズバリ『現代語訳 幸徳秋水の基督抹殺論』。
どうも基督を当時の天皇のスケープゴートにして批判をしたという疑いをかけられている作品のようです。
でも、そんなことどうでもいいくらいに、基督教をボコボコにしています。
イエスキリストは、当時こんなにも無名だったのかと思うと、一体今のキリスト教とは何なのだろうかと思わずにはいられません。
先日『旧約聖書物語』を読み終えて、『新約聖書物語』を今度読もうと思っていたのに、一体どういう心持ちで望めばいいのやら・・・。
でも、”物語”だから、その時の”つもり”で読めばいいのか。
旧約聖書物語(犬養道子、新潮社)

そういえば、本書の序では、キリスト教徒の内村鑑三が文を寄せていました。
内村鑑三が『現代語訳 幸徳秋水の基督抹殺論』を読んだら、なんというのか、非常に興味がわきます。
友達の思想をこてんぱんにすることに、抵抗はなかったのだろうか。
ネットで調べた限りでは、あまりそういう資料は残ってなさそうですが、今度内村鑑三の著書も読んでみたいものです。

また、当のキリスト教徒やキリスト教会は、この辺の事実をどう捉えているのだろうかとも気になります。
別にキリストがいたかどうかは関係ない、聖書が聖書として信じられてきたことが大事なのだ、という論説もあるかもしれませんが、胡散臭さを拭い去ることはできないでしょう。

それにしても、キリストがいたのかどうかなんて、考えたこともありませんでした。
私はてっきりいたものかと思っていましたが…頬に平手打ちを受けたような思いです。

ちなみに、『クルアーン』(イスラム教)では、キリストを預言者としては認めているものの、メシアとしては認めておらず、同様に三位一体説も否定をしています。


    

氷川清話(勝海舟、講談社学術文庫)


氷川清話』(勝海舟、講談社学術文庫)を読みました。

夢酔独言』に引き続き、『困難な成熟』(内田樹、夜間飛行)で紹介されていた一冊です。
参考:夢酔独言(勝小吉、講談社現代文庫)

面白かったです。
勝海舟って、こういう人物だったんですね。
昔読んだ『武揚伝』(佐々木譲、中公文庫)では、ちょっと痛い感じで書かれていましたが、最下級の武士から直接将軍より幕府の後処理を任せられるまでに上り詰めた男としての貫禄というか、凄みみたいなものが本書からは感じ取れます。
視点がすごく高い。
それでいてシンプル。
おそらく、自分のダッシュボードの大きさをよく理解していて、そこに載せるべき要素の取捨選択に抜群の才能があったのだと思います。
そして、そこに父・小吉から引き継いだかはわかりませんが、胆力というものが備わったことで、このような人物が生まれたのでしょう。
本人は、剣術と禅のおかげと言っていますね。
あとは、戦が人を育てるとも言っています。
また、そういう意味では、今後人物が出てくる、ということもなかなか期待はできないということも話していました。
(この辺のことを、今読んでいる幸徳秋水の『帝国主義』(岩波文庫)は全面的に否定していますが、その幸徳秋水の書きぶりの痛快なことと言ったらありません。メッタ斬りです)
でも、そんなにこんな人間がホイホイ出てくるもんではないですよね。
だって、こういう人が他にいないから、勝海舟が幕府の後処理役になってしまっているわけで、そう考えると、その状況に適当な人物をしっかり表舞台に出す機能を維持しているのかどうか、ということのほうが重要な気がします。
そして現代においてそれができているとは思いませんが、明治維新30年の時点でもすでにそうだったようだ、というのが本書を読んで面白かったことの一つです。
父・勝小吉の本もそうでしたが、本書においても、気がつくと江戸の町中や明治の小さな座敷にタイムスリップしており、楽しい時間旅行できました。

ーーー

本書には、所々「爺の僻み」みたいな箇所もあります。
本人は政局などを「蚊帳の外」から見ているわけですから、もどかしさも多分にあったのでしょう。
それは、自分がその中心にすでに行けないことを知っているが故のもどかしさでもあると思います。
(役職定年になると、そういう気持ちになるのかもしれません)
だから、現役の議員や一部の人達からは(本人も言うように)「爺が何をいってやがんだい」というようなことにもなってしまうのでしょう。
聞いている側も「爺さんそりゃおかしいぜ」「そりゃいいすぎってもんだ」と感じる部分の散見されます。

ということで、なんとなく、本書は、おじいちゃんが死んだその葬式で、たまたま待ち時間に同じ机に座った親戚のおじちゃんから聴く昔話みたいな感じがあります。
話し方も面白いし、人のつながりとかが面白いから、なんか聞き入っちゃうんだけど、時々事実誤認や自慢話が織り交ぜられて、終いの方は少し説教臭くなっちゃう、みたいな。

それでも、人とのつながりって言ったて、あの西郷やら大久保やらですから、そんじょそこらのおじちゃんとはスケールが違いますね。
上の二人のほか、いろいろな方に対する人物評も、なかなかおもしろい。
「へぇ、そういう見方もあるのね?」という感じで勉強になります。
(横井小楠をえらく評価しているので、今度関連書籍を読んでみたいと思いました。)
あと、話しを聞いて(読んで)いると、西郷は非常にスマートな印象で、上野公園の銅像のイメージが崩れてきます。
(私の中で、もっと細身のイメージが強くなりました)

ーーー

また、本書からは、反知性主義の匂いも感じられました。
それは、おそらく勝が現場主義だったからでしょう。
世の中には、時勢があり、現場主義の時代と、知性主義の時代が行ったり来たりするのだと思います。
令和の今は、どっちなんだろう、もし現場主義の時代なら、勝の生きた時代のような、「社会に活かす知」を渇望する若者をどんどん登用する制度が必要でしょう。
(今はどちらかと言えば「自分を活かす知」が重用されている気がします)
でもそれは、ちょっと違う気もする。
もちろん、上昇志向の若者を積極的に登用することがだめだと言っているわけではありません。
(上昇志向の若者がどんどん登用するほどいるかは怪しいところですが)
多分今勝が生きていても、うまく必要なところには登用されないような気がするのです。
そういう制度になっているように思うのです。
それは、勝がこのような人物ではなく、腹黒く、卑しい性質を持っていたと仮定すれば、仕方ないことな気がします。
傑物がそのポストに収まるという前提で作られる制度なんて、とてもではないけど私は恐ろしくて信じられない。

とはいえ、そんなこんなで、勝や西郷のような人物は完全に駆逐されてしまった。
そして多分、私達みんなが、それを望んだのだと、本書を読んでそんなことを思わされました。
そこに2つの問が浮かんできます。
「それは悪いことなのだろうか?」
「悪いとすればどうすればいいのか?」
この2つの問は、しばらく頭の片隅で温めて置きたいと思います。

   

旧約聖書物語(犬養道子、新潮社)



旧約聖書物語』(犬養道子、新潮社)を読みました。
いやー面白かった。
旧約聖書ってこういう話だったのね、という感じ。
これは教養の書です。読んでよかった。
これを読んでおけば、欧米の人の名前の由来などもわかるし、キリスト教のベースもわかる。イスラム教のベースもわかる。
実際、著者も新約聖書とのつながりはかなり意識して書いたということでした。
次に読もうと思っている『新約聖書物語』も非常に楽しみです。
古事記物語(鈴木三重吉)』のユダヤ教版というと雑かもしれませんが、そんな感じです。
この本は阿刀田高の『旧約聖書を知っていますか (新潮文庫)』を読んだ際に参考文献として紹介されていたので購入したもの。
余りの分量に一度匙を投げたのですが、先日コーランを読み始めるにあたって再度本棚から出してきたのです。
(捨てなくて良かった)

阿刀田高の『旧約聖書を知っていますか』では「アイヤーヨ」(アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨゼフの頭文字)という言葉を覚えさせられて、それは本書を読むのにも役に立ちましたが、その大筋以外の各預言者の紹介だとか、名もなき家族の信仰の様子なども物語テイストで描いているところも本書の面白い特徴の一つです。
いやはや、非常に血の通った話ばかりではないですか。
3千年も前の話なのに、倫理的に「これは絶対おかしい」という点はあまり多くない。
むしろ周辺国のやり方の方が野蛮というか、蛮族というか、野性味の強い印象を受けます。
結局人間というのはそんなに変わらない、ということなのかもしれません。

ユダヤ教は砂漠や岩石に囲まれた不毛地帯だからこそ生まれた宗教だといいます。
そうですね、だからこそ「試練を与えるのも神」という視点がないと、生きていけない側面もあるのでしょう。
神も割りと理不尽だけど、それも含めて主の思し召しと思えるかどうか、というのが信仰だということでなのでしょう。
でも、それって結構厳しいですよね。
どこまでも果てしない、自分との戦いですから。
だから厳格な信奉者は人格的にも優れているという評価を得ることが多いのかもしれません。
立派な人というのは自分(欲望)を理性でコントロールすることができるということなのでしょう。
そういう意味では、どの宗派でも、尊敬を受ける人間というのは自分を律せる人、ということになるのかもしれません。

話は少しそれますが、内田先生が旧約聖書に関連することをブログに書いていたのでここでも紹介したいと思います。
http://blog.tatsuru.com/2009/06/18_1134.html
曰く、
ミスは「これが原因」と名指しできるような、わかりやすい単一の原因では起こらない。
「誰が有責者かを特定できない」からミスが起きるのである。
それは「私の仕事」と「あなたの仕事」のどちらにも属さない領域で起こる。
「オフィスの床に落ちているゴミ」を拾うのは「私の仕事」ではない。
私のジョブ・デスクリプションには「床のゴミを拾うこと」という条項はないからである。
だから、「私は『そんなこと』のために給料をもらっているわけではない」という言葉がつい口を衝いて出る。
そのような人たちばかりのオフィスはすぐに「ゴミだらけ」になる。
同じように、ミスは「誰もそれを自分の仕事だと思っていない仕事」において選択的に発生する。
「ジョブ」について書かれた印象深いテクストがある。
カインがアベルを殺した後、主はカインに訊ねた。
「あなたの弟アベルはどこにいるのか。」
カインは答えた。
「知りません。私は自分の弟の番人なのでしょうか。」(『創世記』4:9)
「私は自分の弟の番人なのでしょうか」とカインは言った。
「『私の仕事』がどこからどこまでなのか、それをはっきりさせて欲しい」というカインの要求を主は罰された。
「私の仕事」はその境界線を「ここまで」と限定してはならない。
それは信仰上の戒律であるというよりは、集団で仕事をするときの基本的な心構えのように私には思われる。

(私の仕事2009-06-18 jeudi)
我が行いを省みざるを得なくなるお言葉です。
とはいえ、なんとなく、欧米というのは仕事の範囲を決めて(ジョブディスクリプションを取り交わし)、それ以上のことはしない、というスタンスが一般的という印象を持っていましたが、旧約聖書のスタンスがこういう感じだとすると、案外そうでもないものなのでしょうか。
それとも新約聖書だとこの辺の概念はあまりないのかな。
砂漠での集団生活をしているわけでもないから、関係ないのかもしませんね。
となると、イスラム圏の方がこの思想を残しているのかもしれない…のだろうか。
現状、あんまりそういうイメージは持っていないけれど、調べてみたら面白そうな気がしてきます。
(あるいは、宗教は関係ないのかもしれませんが)

   

夢酔独言(勝小吉、講談社現代文庫)


夢酔独言』(勝小吉、講談社現代文庫)を読みました。

兆民先生』に引き続き、『困難な成熟』(内田樹、夜間飛行)で紹介されていた一冊です。

いやはや、とんでもねぇ野郎ですよ勝小吉(夢酔)さん。
クレイジーすぎるだろ。

正直いえば、言葉遣いなどが現代とは少々ちがっていて、何を言っているのかわからない箇所もいくらかありましたが、ぶっ飛び加減は嫌でも伝わってきます。
いやだって、この人どう考えても、カタギではないよね。
間違いなく、その筋の人ですよね?
大物、なんだろう…か?
いや、まぁ大物なんだろうなぁ…。
7歳で喧嘩に負けて切腹しようとする子どもはあんまりいない(否、聞いたことない)ものね。
(14歳で8ヶ月乞食しながら旅をする子どももそういないでしょうし、その上もう一回逃げるように旅に出て座敷牢に入れられる青年もあまりいないでしょう)
そしてその精神を40才近くまで持ち続けるんだからなかなかいるわけない。
(いや、江戸時代にはそこそこいたのか?)
それでいて、「俺を真似しないようにくれぐれも気をつけろ」だからやっぱりとんでもない人ですよ。
奥さん、大変だったでしょうね…。

ーーー

本文を読み終えて、年表を見てみると、初見なら絶対に「え?」となりそうな出来事も、あぁこういうことだったのか、と穏やかに読めてしまうから不思議です。
いや、その年表に記載されている内容も、とんでもなことばっかりなんですけどね。

本文はなかなか読むのがしんどい感じの流れとなっていて、そのたどたどしさがまた無骨というか無頼というか、読者に媚びない感じを出してる気がしました。
だから悪いやつなのに、時々、ちょっといいやつ?なんて思ったりしてしまうこともある。
(まぁ実際いいことしているときもあります。映画版のジャイアンみたいなかんじですかね。親分って感じです)
それから、読んでいるとなんとなく江戸時代に来ちゃったような感じがします。
内田先生が『困難な成熟』でいう、グルーヴ感というのは、上のように読んでると「意識が時間・空間を超えちゃう」ということを指しているのかななんてことを思いました。

江戸っ子というにはあまりにアウトローすぎて江戸の人に失礼なんでしょうけれど、江戸っ子っぽい(と私が思っている)両津勘吉をもっと悪い方に持っていくとこういう感じになるのかな。

ーーー

解説を読むと、こんな父親を持ったことで、息子勝海舟も小さい頃は癇癪持ちとして知られていたとの記載がありました。
勝海舟については、せっかく『氷川清話』でいいイメージができていたのに、また残念な感じになってしまった。
(とは言え、いろんな見方があるでしょうから、しょうもない人と断定することも控えましょう。)

ーーー

個人的に心に残ったのは、ある老人の言葉。
「世の中は恩を怨で返すが世間人のならいだが、おまへは是から怨を恩で返して見ろ」
素晴らしすぎて歯がゆいくらいですが、夢酔はこの言を受けて「なるほど」とその通りにして色々なことがうまく回るようになったそうです。
「んなあほな!」と思いながらも、なんとなく微笑ましく読めてしまうのが、夢酔さんの魅力の一つなのかなぁと思いました。
キャラですね。

【読了】春画の楽しみ方完全ガイド(白倉敬彦監修、池田書房)

『春画の楽しみ方完全ガイド』(白倉敬彦監修、池田書房)を読了。

同じシリーズの「西洋絵画」「日本絵画」に続き、3作目。
【読了?】西洋絵画の楽しみ方完全ガイド
※日本絵画はまだ記事にしてなかった…

本作は前のシリーズよりも登場する絵師が少ないため、一人の絵師の複数の作品を紹介する形でした。
ただ、本作の楽しみ方の紹介に伴って、絵師の系譜が追えるという構成は変わりません。
これから春画を楽しもうと思う人には大変良い本です。

もちろんこの本で主要な春画のすべてを網羅しているわけではありません。
ただ、春画鑑賞の第一歩には大変有意義な本だと思います。

「うまい・へた」がそのまま「いい・わるい」にならないという点が、春画もやはり美術品だなぁと思わせてくれます。
私の場合には、「いい表情」の作品に魅了されるのだということもわかりました。
ですから前半で紹介される墨摺りの作品の中でも、非常に清々しい表情の作品などは見ていて「いいねぇ」と思わずつぶやいてしまいます。
しかし、逆に表情の無い春信の作品も何考えてんだかわからん作品も好きなのが自分でも不思議です。

それにしても、彫る人は本当に凄いです。
毛の一本一本を浮かび上がらせるように周りを掘っていくわけですよね。
ドットとかだと涙出てきそうです。
当時の彫技術は世界一だったと別の本で読みましたが、だとすると当時の日本人(しかも庶民)の美術への関心というのは、現代人よりもよっぽど深くて広かったのかもしれません。

表情があっていいなぁと思った作品は特に以下の作品です。
※画像はいずれも同書からの引用

菱川師宣 欠題組物Ⅰ 第九図(P66)
吉田半兵衛 うるほひ草(P86)
鳥居清長 袖の巻 四(P126)
鳥居清長 袖の巻 六(P126)
逆に、顔を隠しているのもいい…(矛盾してますね)

喜多川歌麿 歌満くら 十(P130)
喜多川歌麿 歌満くら 七(P15)
歌川国芳 花以嘉多 中、第二図(P180)
歌川国芳 華吉子見 地、第二図(P182)
顔が見えないのに、なんとなく心情がわかってしまいそうなのが面白い。
書き入れの解説のおかげということもあるのでしょうけれど、力の入り方とか、仕草とか、全体から伝わってくるものがあるのだと思います。

前にシャネル銀座店の春画展に行きましたが、また行きたくなってしまいました。
  

【読了】ホモ・ルーデンス(ホイジンガ著、高橋英夫訳、中公文庫)

『ホモ・ルーデンス』(ホイジンガ著、高橋英夫訳、中公文庫)を読みました。

ぜんっぜんわかりませんでした。
こんな難しい本を読んだのは、果たしていつぶりだろうか…。
普段見ている様々なブログや本で紹介されていたので、多少なりとも下知識があると思って読んでみましたが、まったくもってちんぷんかんぷん。

「遊びには規定(ルール)や区分けされた領域が必要」「文化は遊びを遊ばれながら文化となった」というようなことをおっしゃっているのはわかるのですが、そのような話が出るころには前段の話が頭から抜けている次第で、非常にむなしい気持ちになりました。
ちょっと己の読解能力のなさが悔しい気持ちです。

ただ、少し前に読んだ『奇想の図譜』で出てきた「文化は飾りから始まった」という表現については、たぶんホイジンガに言わせれば、「一緒のことだよ」といいそうだなぁと思いました。
それは祭祀に関連があり、決められた様式(キャンパスとしての素材)があり、しかも楽しんで作られたのですから、辻氏が述べられていた「飾り」とはすなわち遊びの一つの形式であり、遊びに含まれるものだったのではないかなと思います。
特に戦の際に頭にかぶった個性豊かな造形の兜などは、まさに「遊び」の体現だと思われるのです。
(西洋の鬘とは言い合いが違うものの、結果の形態が近づくというのも面白いですね)
【読了】奇想の図譜
【読了】奇想の系譜

私としては「無駄」なことにこそ、遊びがあり、「無駄がない」「無駄を許せない」状況では「遊び」が存在できないということだと読みました。
そして、著者はどんどん世の中から遊びの要素がなくなってきているように感じているのではないか、そんなことを感じました。
その点、古来からあらゆる飾りを試みてきた日本という国は、結構遊び好きだったのかもしれません。

ホイジンガはローマ時代を指して、遊びが抑圧されると、人は遊びを求めるもので、その結果が「パンと見世物遊びを」につながるというのですが、和歌が栄えた平安時代、浮世絵の広まった江戸時代も、これに近いものがあるのではないでしょうかと考えてしまいます。
つまらない平和が、芸術作品を生むというつながりが見えてきはしないでしょうか。
逆に言うと、現代の戦争など、極端な合理性のもとに時代が邁進する時代では、芸術は生まれてきてないのではないでしょうか。
(そんな時に芸術活動にいそしんでいたら、何発ケツバットされるかわかったもんではありませんし…)
こういう観点で美術史を見ていくと、ちょっと面白そうだなぁと思いました。
しかし、戦争と美術の関連なんてのは、もしかしたら結構考察されているのかもしれません。
また、そもそもホイジンガは戦国時代の武士の世界にも遊びの要素が多分にあったといっていましたから、ちょっとこの理論は我ながら怪しい気もしています。
ただ、このことも、武士としての振る舞いを遊ぶことに夢中だったと解釈すれば、平和な時代(遊びが少ない時代)には、芸術という遊びに注力されるという流れは、そんなに不自然には思えない気がしてきます。
となると、現代はどうなのでしょうね?

また、本書の中で、その社会の「遊びへの関心度合」というものが、男性の服装でなんとなく見えるというのは面白い指摘だったと思います。
確かにそうかもしれませんね。
服装というのが世情を表すということは感覚的には分かる気がします。
しかし、男性にその相関があることを指摘するのは、おそらく歴史を長大なスパンで見てきた著者だから捉えられたことなのかもしれません。
服装は、ある意味着用する芸術ともいえそうです。
そう考えると、服装から文化史を見ていくのも、なかなか面白そうですね。
と思ったらすでにそういう本があるようでした。



浮世絵を見る際には、服装への理解も必要でしょうから、そのうち読んでみたいと思います。

 

【読了】宗教改革三大文書(ルター著、講談社学術文庫)


読みました。偉い疲れましたが、なかなか興味深く読めました。
こんなに痛烈に批判しててよくもまぁ殺されなかったなと感心してしまいます。

先にマルティン・ルター――ことばに生きた改革者 (岩波新書)を読んでいたため、なんとなくどんな人物かはわかっていましたが、それを知ってて良かったと思います。
これほどの批判を、なんの前提知識もなく読んでいたら、多分気分が悪くなることでしょうから。

さて、ルターの主張はシンプルです。
すべて聖書に従え、これに尽きます。
聖書に載っていないのに、教会が作った規則は横暴であり、サタンに騙された産物であることから、無視しても構わないということを徹底的に書き上げています。
キリスト教徒は洗礼を通じてあらゆるものから自由になるのだから、教皇、司祭にさえ従属することは、それこそ不信仰につながると提言します。
当時としては大胆であったであろうその理論は、わかりやすく噛み砕いて説明されていますます。
一方で、彼のいう、信仰こそが全てであり、業は信仰の前では取るに足らないことである、という理念は、確かにそのとおりなのですが、難しいなぁと思いました。
それは、完全に自分について、常に監視をしていなさいという理念なのです。
ここまでやったからいいでしょう?ではないのです。
死ぬまで自分の行い、信仰を監視し続け、常にキリストに立ち返ることこそがキリスト教徒のあるべき姿だと解くのです。

こう聞くと、なぜキリスト教が聖戦と称して多数の戦争を行ったのか、理解に苦しみますが、多分それは勉強不足のせいでしょう。

*

解説では、ルターの聖書に帰れという姿勢が、ローマ教皇に様々な辛酸を舐めさせられているドイツの諸侯の利害と合致して宗教改革の機運が広まっていったというから、あるいはルターは時代の(あるいは当時のドイツの)代表者として主張をしたのもしれません。
少なくともルターを生む土壌はあったように思えます。
それだけ教会も行くところまで行ってしまっていたのしょうかね。

この本を読めば、なんとなくキリスト教がどんなものかがわかることと、キリスト教会の既得権益の独占っぷりがみてとれます。
特に教皇の、胸中保留と、大権による随意決定はめちゃくちゃの極みです。
教皇はこの教会領地を自分と自分の大権に保留していたとして土地を巻き上げる権利を持っているのだそうですが、まさに外道ですね。
こういうところは民衆が盲目的にキリスト教に対して従属しているから、権力が拡大集中してしまったのかもしれません。
先日読んだ、『アメリカの公教育の崩壊』にでてくる新自由主義の社会への浸透に近いものを感じます。
あるいはナチス誕生の経緯とも似ていなくもない。

*

ルターは、聖書を基に、以下の点を主張します。

  • 信仰こそ第一
  • 金のために祈りを上げる司祭はありえない
さて、こんなルターさんが現代日本に来て結婚式を見たら何というのでしょうね?
卒倒するかもしれません。
あるいは文化の違いだと許容されるのでしょうか。
そんなくだらないことを考えてふふふとできるのも、本書の面白いところ…ではないかもしれませんね。

* 

ルターの主張を通して見えるローマのキリスト教会は、完全に権威を利用して富の集中を図っています。
権力は腐る、その様が見て取れたように思いました。
おそらく、キリスト教だけでなく、人間としての普遍的な性質なのではないかとさえ、思えてしまうのでした。

【読了】性のタブーのない日本(橋本治著、集英社新書)


読みました。
いやあ、面白かったです。
何でしょうね、この淡々とした展開。
独特のテンポの文体で、スイスイ進んでいきます。
他人事な感じがまたたまらないです。

見る=やる、という前提に立つというのは、目からウロコでした。
そんな前提を知ると知らないとではそれは鑑賞の深さが違うでしょう。
とんでもない設定ですね。

現代でも、コミケや同人誌、企画物などがあったりと、決して古事記の世界から私達の本質的な「生理」は変わっていないように思いました。
もしかしたらそれは過去の作品へのオマージュとして現代に生み出されているのかもしれませんね。
あるいは、私たちは、そういう性癖を持っているのかもしれません。
でもしょうがないですよね。
それは「生理的なものだから」しょうがないのです、という著者の言葉がよくわからないけど腑に落ちました。

「いろんなことがあったけど、まぁ人間ってそういうもんだよね」という達観した思想のようなものが、日本の歴史の中にはあったんだということを俯瞰できる(ような気がする)一冊でした。

ぜひ中学生くらいの子どもたちに読んでほしいと思います。
こういう淡々とした古典への入門書(?)が、自分の国の文化に興味を持つことにつながると思うからです。

【読了】大鏡(全現代語訳)(保坂弘司、講談社)

大鏡 全現代語訳 (講談社学術文庫)
大鏡 全現代語訳 (講談社学術文庫)
講談社
読み終わりました。大変おもしろかった。

三島由紀夫がかつて大鏡を読んで古典にハマったと読んだのが2年前。
ミシマの警告 保守を偽装するB層の害毒 (講談社+α新書)
ミシマの警告 保守を偽装するB層の害毒 (講談社+α新書)
講談社
それを知ってから読みたいと思っていてついに読み終えました。
古典っておもしろいなぁと思いました。

全部が全部理解できたわけではないし、基礎知識も乏しいためわからない箇所も多かったですが、全体を通して、古典の楽しさを知ることができたように思います。
大鏡は、時代を切り取る一つの作品なので、これと関わる各種の古典を紐解き、いろいろなつながり、解釈の違いを読んでいきたいと思うようになりました。

ということで、今度からは古典文学全集に入りたいと思います。
1日30分ずつで、読み終わるのに何年かかるのか…
あとはそれを読みながら、くずし字も覚えつつ、浮世絵とかも鑑賞できるようになれるといいなぁ…

趣味ができました。本当に有難うございました、という気持ち。

新編日本古典文学全集 (1) 古事記
新編日本古典文学全集 (1) 古事記
小学館

辞令交付式への違和感(みんなよく参加するなぁ)

 今日は4月1日。  我社では辞令交付式が行われました。  そのため、土曜日ですが、人事課員として出勤しました。  明日も仕事なので、12連勤となります。   人事課の闇ですね。  それはさておき、辞令交付式に関して、毎年違和感を持ちます。  それは、お礼を言われる側が、何故かホ...