【読了】ホモ・ルーデンス(ホイジンガ著、高橋英夫訳、中公文庫)

『ホモ・ルーデンス』(ホイジンガ著、高橋英夫訳、中公文庫)を読みました。

ぜんっぜんわかりませんでした。
こんな難しい本を読んだのは、果たしていつぶりだろうか…。
普段見ている様々なブログや本で紹介されていたので、多少なりとも下知識があると思って読んでみましたが、まったくもってちんぷんかんぷん。

「遊びには規定(ルール)や区分けされた領域が必要」「文化は遊びを遊ばれながら文化となった」というようなことをおっしゃっているのはわかるのですが、そのような話が出るころには前段の話が頭から抜けている次第で、非常にむなしい気持ちになりました。
ちょっと己の読解能力のなさが悔しい気持ちです。

ただ、少し前に読んだ『奇想の図譜』で出てきた「文化は飾りから始まった」という表現については、たぶんホイジンガに言わせれば、「一緒のことだよ」といいそうだなぁと思いました。
それは祭祀に関連があり、決められた様式(キャンパスとしての素材)があり、しかも楽しんで作られたのですから、辻氏が述べられていた「飾り」とはすなわち遊びの一つの形式であり、遊びに含まれるものだったのではないかなと思います。
特に戦の際に頭にかぶった個性豊かな造形の兜などは、まさに「遊び」の体現だと思われるのです。
(西洋の鬘とは言い合いが違うものの、結果の形態が近づくというのも面白いですね)
【読了】奇想の図譜
【読了】奇想の系譜

私としては「無駄」なことにこそ、遊びがあり、「無駄がない」「無駄を許せない」状況では「遊び」が存在できないということだと読みました。
そして、著者はどんどん世の中から遊びの要素がなくなってきているように感じているのではないか、そんなことを感じました。
その点、古来からあらゆる飾りを試みてきた日本という国は、結構遊び好きだったのかもしれません。

ホイジンガはローマ時代を指して、遊びが抑圧されると、人は遊びを求めるもので、その結果が「パンと見世物遊びを」につながるというのですが、和歌が栄えた平安時代、浮世絵の広まった江戸時代も、これに近いものがあるのではないでしょうかと考えてしまいます。
つまらない平和が、芸術作品を生むというつながりが見えてきはしないでしょうか。
逆に言うと、現代の戦争など、極端な合理性のもとに時代が邁進する時代では、芸術は生まれてきてないのではないでしょうか。
(そんな時に芸術活動にいそしんでいたら、何発ケツバットされるかわかったもんではありませんし…)
こういう観点で美術史を見ていくと、ちょっと面白そうだなぁと思いました。
しかし、戦争と美術の関連なんてのは、もしかしたら結構考察されているのかもしれません。
また、そもそもホイジンガは戦国時代の武士の世界にも遊びの要素が多分にあったといっていましたから、ちょっとこの理論は我ながら怪しい気もしています。
ただ、このことも、武士としての振る舞いを遊ぶことに夢中だったと解釈すれば、平和な時代(遊びが少ない時代)には、芸術という遊びに注力されるという流れは、そんなに不自然には思えない気がしてきます。
となると、現代はどうなのでしょうね?

また、本書の中で、その社会の「遊びへの関心度合」というものが、男性の服装でなんとなく見えるというのは面白い指摘だったと思います。
確かにそうかもしれませんね。
服装というのが世情を表すということは感覚的には分かる気がします。
しかし、男性にその相関があることを指摘するのは、おそらく歴史を長大なスパンで見てきた著者だから捉えられたことなのかもしれません。
服装は、ある意味着用する芸術ともいえそうです。
そう考えると、服装から文化史を見ていくのも、なかなか面白そうですね。
と思ったらすでにそういう本があるようでした。



浮世絵を見る際には、服装への理解も必要でしょうから、そのうち読んでみたいと思います。

 

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