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生き方を考えざるを得ない|脱資本主義宣言(鶴見済、新潮社)を読んで

 
脱資本主義宣言―グローバル経済が蝕む暮らし』(鶴見済、新潮社)を読みました。
面白かったです。
本書は世界の経済的なつながりのゆがみを見ていき、私たちが普通に生活することがどのように世界に影響を与えているかを教えてくれます。
著者の言うように、ただ単に個人が生活スタイルを変えればいいというものではなく、企業に圧力をかける、規制を強めるなどの施策もとる必要性がよく理解できます。
とはいえ、個人で何かするための道も照らしてくれる本です。

生きてるだけで誰かを搾取しているという衝撃

世界を北と南、上と下に分けてみると世の中はこんな風に繋がっているのかとゲンナリしてしまいます。

私たちが普通に暮らしているこの暮らし自体が南の世界を搾取せずには成り立たない暮らしなのです。

もちろん、輸入がゼロになれば多大な不便が出るだろうなぁとは思いつつも、こんな形で貿易をしているとはつよほども知りませんでした。

パンを食べ、コーヒーやビールを飲み、安い服を着てマックに行く自分は間違いなく南の人から搾取する側です(とはいえ北の上からは搾取されてるかも知れないけど)。

国際社会というものを南の国々も含めたものであるならば、国際社会の一員として学校で学ぶべきことってのは語学やプログラミング技術などではなく、こういう現実を知ることなんじゃないかと思えます。

(しかし、一方でこの一冊で全てを決め付けない態度も大事かも知れませんが)

何のため、誰のために経済を回すのか

本書を読むと、経済を回す必要がある社会を作ったのは、どうも経済が回ることで儲かる人たちのようです。

この視点に立つと、今回のコロナ禍で経済を回す必要性が叫ばれていたのが少し空々しく感じられます。

お偉い方たちの言う経済を回せってのは、つまり金を吐き出して召し上げさせろってことなのではないでしょうか。

あるいは「俺らの金を再配分なんてしねーかんな?」ってところでしょうか。


コーヒーを飲まなくても、農家は困らないのかもしれない

こうやって経済を回すことに否定的なことを言うと、「お前はいいけど、それで職を失う人だっているんだぞ」と批判されそうです。

でも、職を失っても生けていけるようにするのが政府の仕事でしょ?

それに、世界中の人がコーヒーを飲まなくなっても、コーヒー農家は多分別の作物を栽培するようになるのではないかな。

あんなに苦くて加工に手間のかかる作物よりも、おいしくて栄養の多い作物を作ったほうがその地域にもいいような気がします。

しかも、その方がグローバル企業から買い叩かれることもなくて幸せかも知れない。

そしてこれはコーヒーだけに限った話ではないはずです。

(あるいは他の仕事をするよりも今の仕事を続けた方が楽な理由があるのかも知れないけれど)


なにはともあれ、職を失うことを恐れさせるってのは、搾取する側の基本戦略なわけです。

札束でほっぺたを叩けば人を好きに動かせれるってのは、楽ちんに違いありません。

その札束だって、その叩いている人から吐き出される金なんですから。


ではどう生きるのか

さて、じゃあ搾取されつつも、どちらかと言えば搾取する側についている自分には何ができるのか。

例えばこんなこととか。

  •  コーヒー、缶ビールを飲まない(結構難しそう…)
  •  チェーン店は避ける(マックで時間つぶせるのはありがたいのだが…)
  •  高くても国産品を買う(服はめっちゃ高くなりそう)
  •  応援したいものを買う(これはできそう)
  •  ご飯中心の生活にする(これもできそう)

とまぁ、こんなところでしょうか?

あとは、流行には乗らない、とかかな(これはいける気がする)。

参考までに流行を作り出す企業代表であると思われる電通の「戦略十戒」をご紹介します(P43)。

  1. もっと使用させろ
  2. 捨てさせ忘れさせろ
  3. 無駄づかいさせろ
  4. 季節を忘れさせろ
  5. 贈り物をさせろ
  6. コンビナート(組み合わせ)で使わせろ
  7. きっかけを投じろ
  8. 流行遅れにさせろ
  9. 気安く買わせろ
  10. 混乱を作り出せ

これらに抵抗すれば、大量消費・大量廃棄への抵抗につながるかも知れません。


とはいえ、個人は弱いから

でも、いろんな南の惨状を知った上でも、やっぱりコーヒーを飲みたい気持ちは消えない(し、結構飲まざるを得ない状況は多い上に、つい飲んでしまう)。

だからそんなに悪いものなら、そもそも輸入されなければいいのになと思う。

目の前に快があれば、手を伸ばしたくなるのが人情というもの。

自由だけでは、世の中は良くなりそうにありません。

三酔人経綸問答(中江兆民、光文社古典新訳文庫)



三酔人経綸問答 (中江兆民、光文社古典新訳文庫)を読了。
面白かった。
一年有半と異なり、原文でもちゃんと意味がわかりました。
一年有半・続一年有半(中江兆民、岩波文庫)
原文と訳文の両方が掲載されており、どちらも味わうことができる素晴らしい構成です。
校注はほとんどないけれど、行ったり来たりすれば大体の意味はつかめます。
どちらも独特のリズムがあって、面白い。

さて、本書は問題提起の本だと思います。
当時の日本における課題とそれを取り巻く活動や世論をわかりやすく分類し、整理して、一冊の中で戦わせてしまったのだと私は理解しました。
帝国主義を読んだ後なので、どうしても幸徳秋水と洋学紳士が重なってしまいますが、その真意や如何に。
帝国主義(幸徳秋水、岩波文庫)
ひょっとしたら、これは世の中に向けてということもあるけれども、弟子たちに向けたテキストのようなものとして書かれた、という側面もあったのではないかと考えてしまいます。
対象はどうであれ、兆民自身も少なくとも多くの人間に思想という種をまくということを重視していることは確かであろうから、100%外れているということもないでしょう。
そして、多くの人の頭に残すためにあえて劇作のように拵えたのかもしれません。
確かに、座談形式なので読みやすく、自分の中で議論を咀嚼しやすい。
最終的になんの結論も書かれていないから、議論の扉は開け放たれた形で終わりますので、読後も自分の中で問い続けることができます。
ひょっとしたら兆民は、以降の議論を個々の自由に委ねることで種の肥料としようとしたのではあるまいか…。
などなど、読んだ後もなかなか楽しめる本です。

解説の中で、兆民の思想を端的に表す引用があったので、それを紹介します。

社会というものはな、秩序と進歩と相待ったものである、若しも急激に事を処すると飛んだ間違を起こすものぢやぞ、小児の病は癒ること速かなるが大人はそふぢやない。社会は成長すれば其構造も発達するものぢや、丁度人間の成長するに能く似て居るものぢや、斯く永久の年月を経て進歩する性質のものであるから、之れを改良するにはヤツパリ進歩の法則に従ひ、次第次第に根本的改良に従事せねばならぬものぢや、若しも急激に荒療治をするときは、正当なる身体をして却って害毒を来たし、不健康に陥らしむることがあるものぢや、徐かに急げとは社会改良家の一日も忘るべからざる言ぢや、理解たか理解たらモー帰れ帰れ(『中江兆民全集』第十七巻)(欄外に曰く。さあ、早く家に帰って『三酔人経綸問答』を読もう)(三酔人経綸問答P188)

改革を叫ぶ人は、この論をよく考えてみる必要があるだろう、ということを、以降頭の片隅に置いておきたいと思います。

 

【読了】仕事と家族(筒井淳也、中公新書)



仕事と家族 - 日本はなぜ働きづらく、産みにくいのか (中公新書)を読みました。

女性の長期的な収入確保をどうするかが出生力に影響するようです。
ノルウェー(大きな政府)とアメリカ(小さな政府)はどちらも先進国の中で出生力が回復している国なのですが、その2つの国と他の国を比較しながら、そのことを本書は論証していきます。

それらを踏まえて、「日本ではなぜ少子化が進んでいるのか」といえば、日本は総合職という男しか働けない環境が広く整備されており、政府も企業のこの雇用体系をずっと支援してきたから、とのこと。
(そのおかげで財政支出を抑えることができたから)
こうすることで、女性は家庭にいることしかできなくなってしまったわけですね。
ここには農家を含む自営業がどんどん減っていったという背景も関わります。

このことはつまり、国が企業の働かせ方を変えさせれば、極端な少子高齢化を回避することができたと言えます。
でも、それをしなかった。
そこには戦争を経験した国民の「出産についての言及を忌避したがる感情」があったということもあるということですが、だからといって政府がそこまで具体的な対策を取ってこなかったことを否定できるわけではありません。
要するに国民・政府が目をそらし続けているわけですね。

また、個人的には、産業界の体質が全然変わっていないというのが非常に気になりました。
一大学人としては、これだけ大学に変われ変われと言っている産業界自身が全然変わっていないと言うのは笑止千万です。
自分たちが変われないから周りに変われというのはわがままではないでしょうか?

ちなみに、私自身は、少子化問題についてはかねてから「しょうがないのでは?誰も悪くないし…」と思っていました。
しかし、本書を通読すると、政府としてできることがこんなにもあったんだなぁと勉強になりました。
(あるいはそれは振り返ってこそわかることなのかもしれませんが)
そして、私のこの政府への批判は、結局のところその政策を議論させることのできなかった有権者(つまり私)にも向かってしまうということにも気付かされます。

本書一冊で「じゃぁ、個人としては結局どうしたらいいの?」という質問に即答できるはずもありません。
(結婚して産めというのは暴論でしょう)
しかし、その答え…ではないですが、ヒントは人口減少社会の未来学にありましたので、後日紹介します。

それと、余談ですが、著者は「「共働き社会」は日本社会のこれからの社会的連帯の第一歩であると筆者は考える。」と書きますが、実は結婚と家族のこれから 共働き社会の限界 (光文社新書)において、「共働き社会」が格差を固定化しかねないという論に達します。
自分で提言した内容の、批判を自分でしてしまうと言うのは、すごいことだと感じます。
こちらについても、後日紹介できればと思います。


【読了】「官僚とマスコミ」は嘘ばかり(髙橋洋一著、PHP新書)

『「官僚とマスコミ」は嘘ばかり』(髙橋洋一著、PHP新書)を読みました。

この作品は、先日『AI時代の新・ベーシックインカム論』(井上智洋著、光文社新書)を読んで、財務省がHPで堂々と国民をミスリードしようとしていることに衝撃を受けて手に取りました。
国家レベルの虚言(AI時代の新・ベーシックインカム論から①)

本作で種明かしされるのは、官僚がいかにしてマスコミをコントロールしているのかです。
それに付随して、コントロールされてしまうマスコミとはどんな人たちなのか、ということも書かれていました。
なんとなく、記者というと、ジャーナリズムという高い志を持った、知力・体力・気力に活気あふれる人種というイメージがありますが、本書で語られる記者は知識がなく、数字が読めず、官僚の言いなりという姿が描かれています。
また、新聞やテレビというメディアは、法律に守られている存在であることも明らかにされます。
どんなふうに守られているかは、著者のWeb記事をご覧になってください。
こんなんでよく世の中のことが批判できるなというふうに思ってしまいます。
新聞テレビが絶対に報道しない「自分たちのスーパー既得権」(講談社現代ビジネス)

その他にも、例えば「フィリップス曲線」という金融政策を実施する上でインフレ目標を決める道具も紹介されていました。
インフレの状況は、常に失業率と関連して説明されるのが海外では当たり前で、インフレが進んでも、フィリップス曲線に当てはめてみて、失業率がまだ下限に達していないのであれば、金融政策を緩めてインフレに進めればいい、ということが自動的に決められるという便利な道具です。
ちなみにこの失業率の下限の始まりの場所(最小のインフレ値)をNAIRUという言うそうです。
(豆知識です)

つまり、新聞等でよく聞く、インフレ目標2.0%と言うのは、日本におけるNAIRUを目指しているわけですね。
なんで2.0%と思っていましたが、根拠があったのです。

また、著者も井上氏と同様、「財政再建には反対」の立場を取っておられます。
結局バランスシートで考えたときに、日本の財政は諸外国と比べても、そんなに悪いわけではなく、アメリカと比較しても健全で、むしろもっと積極財政を行わないとダメだとの主張です。
なお、外務省も、外国で国債を売るときには、バランスシートを使っているようです。
いかに健全なのかを伝えないと、買ってもらえるわけありませんもんね。

こうして考えると、果たして新聞とは?テレビとは?と思ってしまいます。
一次情報にアクセスしやすくなった今の社会で、報道機関とはどういう役割が求められているのかを改めて問われる必要がるように思います。
ぜひともメディアに市場経済の原理を働かせていただき、第四の権力として、既存の権力に鋭いメスを入れていただきたいと思います。
そのためにも、広く浅い記事ではなく、「経済なら〇〇新聞」「教育なら〇〇新聞」「政治なら〇〇新聞」というように、個性を強めていってほしいと思います。
そうすることが、官僚との間に緊張感を生むことにもつながるでしょう。
私は新聞を購読していませんが、そんなふうになったら私も何か購読するかもしれないなぁと思います。

いろいろな見方をする必要がありますが、自民党も、官僚も、いいところとだめなところがあるということを感じます。
極端はあまりないようです。
マスコミが盛大に何かを報道するとき、だいたいは裏にマスコミの思惑がありそうです(例:モリカケ等)。
また、本書を読むと、安倍政権は経済政策においてまともだという印象を持ちます。
実際はどうなのか、私には結論が出せませんが、少なくとも雇用は回復しているし、経済政策も誤ってはいない感じ。
賃金上昇という目に見える効果が出るのは、どうもこれからのようです。

それから、官僚も有能な人が働いてくれているのだろうな、と少し安心しました。
なんとなくドラマなどの影響なのか、官僚と政治家は悪いやつばかりというイメージがありましたし、また、本書の中でもしょうもないのもいるような描写もありました。
しかし、それもやっぱり極端な話で、殆どの人は誠実に働いているんだろうなぁと思わされます。
じゃなきゃ、とっくにもっと大変なことになっているように思われます。
(とはいえ、消えた年金問題なんかのように、大変なことになっちゃった例もありますが…)

最後に、昨今の研究への助成に対する「選択と集中」についても、非常に珍しい理系出身の財務官僚として、疑問を投げかけています。
結局研究とは博打で、ハズレは多いが、当たればすごいことになる。
どのくらいすごいかというと、ハズレを全部取り戻してあまりあるくらいにすごいことになる。
ところがどっこい、(選択と集中をすると言っても)当たるかどうかは、やってみないとかわからない。
だから、投資と考えるべきだ、という論ですね。

これは、教育に関連する仕事をしている人間としては、非常にありがたい気持ちと、そのとおりですよね、という共感の気持ちがわきます。

研究とは、長期にわたるものです。
そして、成果が出てくる可能性は未知数です。
でも、それをやらなければ、革新的な技術発展はありえない。
であるならば、未来のために投資をしようという発想は、至って当然の発想であるように思います。
「明日の便利より、今日の飯」という状況の方ももちろんいるでしょう。
しかし、国の方針として、やはり未来の世代のことにも思いを馳せて予算を分配してほしいと思います。
そして、それは理系の技術的なものだけではなく、文系の文化的なものについても同様に発展と保存を目指して、支援をするべきではないでしょうかーー。

と、そんなことを思ったのでした。

幸せな世界とは(AI時代の新・ベーシックインカム論から③)

先日読んだ『AI時代の新・ベーシックインカム論』を踏まえて、特にVR技術について思うところを書いてみたいと思います。
本書の面白い点の一つに、BIとAIの話が中心になっていると思いきや、最後はVR(ヴァーチャルリアリティ、仮想現実)の技術についての警鐘で幕を閉じるという点があげられると思います。
本書の中でも突然湧いて出てきた感が否めないこのVR技術は、私たちの暮らしを根本から変えてしまうといいます。
著者は、VR技術の発展した世界を、映画『マトリックス』で例えていますが、それを聞いて私はハックスリーの『すばらしい新世界』を思い出しました。


人間は受精卵の段階から培養ビンの中で「製造」され「選別」され、階級ごとに体格も知能も決定される。また、あらゆる予防接種を受けているため病気になる事は無く、60歳ぐらいで死ぬまで、ずっと老いずに若い。ビンから出て「出生」した後も、睡眠時教育で自らの「階級」と「環境」に全く疑問を持たないように教え込まれ、人々は生活に完全に満足している。不快な気分になったときは、「ソーマ」と呼ばれる薬で「楽しい気分」になる。人々は、激情に駆られることなく、常に安定した精神状態である。そのため、社会は完全に安定している。ビンから出てくるので、家族はなく、結婚は否定されてフリーセックスが推奨され、人々は常に一緒に過ごして孤独を感じることはない。隠し事もなく、嫉妬もなく、誰もが他のみんなのために働いている。一見したところではまさに楽園であり、「すばらしい世界」である。すばらしい新世界 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

こうやって考えてみると、マトリックスとすばらしい新世界が描こうとしているのは、非常に近いものがあると思います。
そこで問われているのは、「自分の知っている世界とは別の世界があり、別の世界から自分のいる世界がコントロールされているということを、知らないほうが幸せかどうか」でしょう。
私個人としては、さっさとすばらしい新世界のような世界が訪れることを願っておりますが、そのことが人間の営みとして正しいかどうかは、個々人意見の別れるところでしょう。
正直今に生きる私としては、違和感は感じまくりです。
そして、結局のところ、どんな世界を作ったとしても、ネオやジョンのような人間は出てくると思います。
なぜなら、これまでだって自分の知っている世界が、別の誰かにコントロールされているという状況は多々発生しましたし、人々はそこから脱することで文明が発展してきたからです。

たとえVRで一部(あるいは大多数)の人が「誰も傷つかない優しい世界」に没頭したとしても、おそらくそれとは違う世界(VRを排除した世界)が形作られるように思われます。
その世界とは、「人間の、人間による、人間のための社会」とでも標榜した世界になるのではないかと想像されます。
問題は、その2つの社会が共存できるかどうかではないでしょうか。
特に、人間の社会側が、VRの世界に生きる人々を許せるかどうかが重要になる気がします。

私は、できればVRの世界に住みたいし、そこで生きることを放っておいてほしいと思います。
皆さんはどうでしょうか?

ちなみに、本書では、VR世界の「人間社会としての欠落」した点を儒教やコミュニタリアニズム、アレントの視点から見つけつつも、だからVR世界がだめなのかというと、結論はすぐに出せないと締めくくっています。
確かに、VRに人々が溺れてしまうことは、意思のない個人を作り上げてしまう可能性があります。
そもそもその人を一人の人間としてカウントするかどうかについても、議論があるかもしれません。
マトリックスでは、だからこそ機械が世界を運用していたのでしょう。

果たして、私たち人類は、そのような世界を選ぶのでしょうか。
正直、そこに至る道筋が、私には全くイメージできないというのが、正直な感想です。
VR世界には浸りたいけど、想像力が追いつかない、もどかしい気分です。
ということで思いは答えに至らず、結局、「これまで通り生きていくことになるのではないか」という、面白くもない締めくくりになってしまいました。



ハクスリーは、『すばらしい新世界』では皮肉を持ってディストピアを描いたようですが、『島』という作品ではユートピアを描いたようです。
こちらも読んでみたいなぁ(と思うけど、古書なんですね)。

汎用AIがBIを連れてくる?(AI時代の新・ベーシックインカム論から②)

先日読んだ『AI時代の新・ベーシックインカム論』で紹介されていたAIの発展について、思うことを少々。

近頃、囲碁や将棋の世界でのAIの話題が多くなってきております。
これらは、特定の処理を高速に行うことができる、「特化型AI」と呼ばれています。
ある特定の職域は、こうした「特化型AI」に取って代わられることが予想されますが、人間の特異的な性質は「汎用性」という、新しい処理を覚えてそれをブラッシュアップできるところにあります(だから本当は人間よりAIのほうが専門職は得意なんでしょうね。かつ、人間には汎用性があるのであるから、昨今の非正規化の流れは、経営者の自由を追求するとすれば、必然なのだと思います。余談ですが)。
ところが、今AIの世界で目指されているのは、まさにその汎用性を持ったAI、すなわち「汎用AI」の開発なのです。
汎用AIが完成した暁には、情報を扱うことはすべてAIがやってくれるようになるようです。
情報というとわかりづらいかもしれませんが、要するに事務仕事については、ほとんどAIやAIを搭載したロボットが人間の代わりにやってくれるという事ですね。
「Hey,Siri.ウチの会社の過去5年の売上実績と純利益を比較して、分析結果をA4一枚くらいのレポートにしてくれる?」みたいなことができるようになるかもしれません。

こんな時には、もうロボットが肉体労働も取って代わるでしょうから、言葉通り、殆どの仕事がなくなります。
残る仕事は、想像系、経営・管理系、ホスピタリティ系の仕事のみとなり、更にそれらの仕事のなかでも、半分近い仕事が特化型AIによって奪われる可能性があると指摘されています。
結局、人口の一割くらいの人しか働く必要がなくなる社会が来るわけです。
「そんな世界で大丈夫なの?」と思いますね。
答えは、微妙です(またか!)。
働く人が減ったとしても、経営する人は、機械やAIを使って収益を出すことができます。
つまり、経営者と貧困者の格差が拡大していくわけです。
ただ、こうなると、実は経営者も困ります。
なぜなら、モノに対する需要が次第に乏しくなり、付加価値をつけてイノベーションを起こす機会がなくなるからです。
そうなると、どんどん経済全体が落ち込んでいくことになり、結局は資産家もジリ貧になっていくという流れですね。
ところが、こうした社会にBI(ベーシックインカム)が導入されることで、人々の暮らしを守ることができ、かつ需要も喚起することができるというのが著者の主張です。

大体こんなことが2030年頃から2060年までには、起こるだろうとのことですから、ひとまずはそこを安定して迎えることができるように、貯金をしておかなくちゃなと思います。
あとは、その辺から働かなくていいなら、なるべく元気に趣味を謳歌したいと思いますので、あまり仕事を頑張りすぎず、のんびり心穏やかに健康的な暮らしをしていきたいなぁと感じます。
実際のところは、BIが導入されるかどうかわかりませんし、汎用AIが導入されるかもわかりません。
だから、今まで通りに生きていくほかない訳ですが、こういうことを考えると、「お金の心配がなければ何がしたいか」という皮算用が、現実味を帯びてきます。
皆さんは、お金の心配がなければ何をしたいですか?

私は、正直、今の生活のままでいたいです。
上昇志向なんてありませんし、現状維持で十分幸せです。
ただ、仕事をしなくていいならば、今仕事をしている分の時間の半分くらいをボランティアに使い、もう半分を趣味に使うくらいがちょうどいいような気がします。
こんな考えが広がり、人々の自発的な活動が、結局みんなの暮らしを豊かにするような社会になるのであれば、さっさと汎用AIが普及して、BIも導入されるといいなと思います(そんな都合よくいくとは思えませんけどね)。

ただし、と著者は警鐘を鳴らします。
汎用AIが導入されて、BIが導入されないならば、格差が拡大し、固定化された社会、すなわちディストピアの社会が到来することも想定されるのです。



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国家レベルの虚言(AI時代の新・ベーシックインカム論から①)

先日読んだ『AI時代の新・ベーシックインカム論』で知った、日本の財政状況について簡単にまとめます。

驚くべきことは、日本の財政は、全然悪くないということです。
どういうこと?日本って700兆の借金があるんじゃないの?それで全然悪くないってどういうこと?と思う方もいると思います。
私も大変驚きました。
でも、実情はそうではないようです。
日本政府が抱えている負債のは、国内における公債発行によります。
そして、公債は、日銀による買いオペレーションによって、貨幣と交換することで、市場から回収することができます。
「それでは結局お金を出すんだから借金じゃないか」と私は思いましたが、ここに通貨発行権というものが関わってきます。
中央銀行は、お金を作り出せるのです。
1万円札を作るのに、およそ20円のコストがかかることから、9,980円の利益を“生み出す”ことができます。
負債を回収するためのコストを自分で埋め合わせることができるわけですね。
そんなんあり?と思いますが、そうやって買いオペと売りオペで市場の貨幣量を調整することによって金融を調整するのが中央銀行の役割なのだそうです。
知らなかった…。こんなこと公民でならったかしらん?

そこまで説明を受けて、私としては気になることが出てきました。
「そんなことして大丈夫なの?」
答えは、微妙のようです。
なぜなら、買いオペレーションで市場に貨幣を流すことは、インフレーションを引き起こす可能性があるためです。
しかし、現在日銀は毎年60兆円分の公債を回収しているようですが、それでも目標としているインフレ率2.0%には達していないようで、つまり、今市場に貨幣を投下しても、しすぎることはない(インフレに向かわない)という状況だといえます。

ちょっとまってくれよ、そんなわけねーだろ!嘘ばっかし!
財務省はなんて言っているんだ!と私は思いました。
そこで、財務省のHPを見てみると、まぁ素敵に解説されています。
動画、図解、予算のポイント等を見ながら日本の財政を考える(財務省HP)
国の借金が多く、毎年増えている、だから増税が必要なんだ、という論法です。
非常にわかりやすい。
これを見たら、消費税上げなくちゃいかんねーなんて思いかねません。
(と言うか思ってました)
これに対しては、【三橋貴明】国を家計に例えるのはやめようをご一読ください。
これを読むと、途端に怒りがこみ上げてきます。
国レベルで国民を騙そうとしていると疑わずにはいられません。

その後も「なんでこんな騙すようなことをするのだろうか?」と調べてみておりますが、ここからはいろんな推測があるようです。
財務省の天下り先確保のためだなんていう意見もありましたが、どうなんでしょうね?
「部分的にはあるのかな?」なんてワイドショー的な疑い方ですが、確証は見つけておりません。
ちなみに、ある人の記事では、所得税がこれ以上あげられない(他国と比べて高い)から、消費税でまんべんなく税を徴収したいという思惑があるのではないか、と指摘していました。
しかし、消費税とは、相対的に低所得者が損をする税です。
そして、消費税増税はデフレを引き起こすことから、産業界からも敬遠されてします。
となると、安倍政権でこういう方針を立てていると言うのは、あまり考えづらいような…
(所得税を上げさせない方には安倍政権が噛んでいてもおかしくない気がしますが…これも憶測の域をでておりません。)
まだまだ勉強不足なのですが、謎は深まる一方です。

それから、なんで借金がないなら最近の災害等における復興にお金を回さないのか?という意見もあるかと思います。
なんでなんでしょうね?これは私にもよくわかりません。
もっとバンバン国債を発行して復興に予算を回せばいいのにと思えてしまいます。
素人としては、ある程度モラルを持って予算を配分しようという良心を感じます。
それが本当なのか、また、対応として正しいことなのかどうかは、全然判断できませんが…。

この辺は高橋洋一さんという方が詳しいようなので、高橋さんの著書を色々と読んでみたいと思います。

 

詳しい方がこの記事をお読みになられたら、ぜひご解説やご指摘をいただけるとありがたいなと思うばかりです。

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辞令交付式への違和感(みんなよく参加するなぁ)

 今日は4月1日。  我社では辞令交付式が行われました。  そのため、土曜日ですが、人事課員として出勤しました。  明日も仕事なので、12連勤となります。   人事課の闇ですね。  それはさておき、辞令交付式に関して、毎年違和感を持ちます。  それは、お礼を言われる側が、何故かホ...