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教育が子どもから自主性を奪う:【書評】反教育論(泉谷関示、講談社現代新書)



反教育論(泉谷関示、講談社現代新書)を読みました。
面白かったです。

内容としては、いかにして自主性をはぐくむかという点にあると私は感じました。
基礎教育にこだわったり、何でもレールを引いてあげたりすることで、いかに個人の自主性がなくなっていくのかといった内容です。
本書の内容は、かなり根本橘夫氏の『「いい人に見られたい」症候群』等の著作につながるものが多い印象を持ちました。
いずれも「自分を持て」というメッセージを発しているように私は感じます。
『「いい人に見られたい」症候群』がどうやって「自分の持つか」という方法が主だったのに対して、本書は「なぜ自分を持てなくなるのか」という根本原因を深堀したような感じでしょうか。
また、様々な先人からの引用や現代社会とのつながりなども絡めて説明するため、「自分を持てなくなる背景」がより鮮明になっている感じがします。

自主性の育て方

本書には、「自主性を育ませたいなら、自主的にさせておかなくてはならない」というロジックが底流しています。
なるほどその観点で行くのであれば、私たち大人は「どうにか子どもをコントロールしないように」自律しなくてはいけません。
そして、私たち大人から逃れるべき機関である学校にもそのことを求めなければなりません。
そのためにも、自主性は外から育てることはできないということを認めることが必要です。
「いい距離で見守る勇気」、大人にはこの勇気が求められているようです。

子離れが大事

そういう意味では、本書は、子育てをしている方にとっては、結構きつい本かもしれません。
例えば、幼児教育やいい学習環境が子どもを必ずしも成長させるわけではないなど、親としてはしてあげたいことが子どもの成熟には却ってマイナスに働くというような主張も多いです。
逆に、親に嘘をつけないと子どもは成長しないという主張も、親的には少し「えっ…本当に?」と思ってしまうでしょう。
ただ、「無菌状態で育てれば、弱い子になる」と言われてみれば、私としてはよくわかります。
極力親は介入せず、子どもが大けがしないように見守ってあげることが、親のしてあげられる最大限のことなのかもしれません。
そういう点からみると、ぜひ子育てに自信を持っている人にこそ読んでほしい一冊です。
(まぁ自信を持っている人はこういう本を読まないと思いますが)

逆に、子育てにへとへとになっている人にはいいかもしれない。
本書を読めば、子どもはうっちゃっておいてもいいかもと思えると思います。
親がかかわらないほうが、子どもが成熟するのですから。
あとは、親が何か没頭できる遊びのようなものを持っているほうが、子どももそれをまねるかもしれないので、そういう時間を作ってもいいのかもしれないと思えるかもしれません。
そういう意識を持っておけば、少なくとも、子どもが何かに没頭していることを容認できるはずです。
また、子どもが集団の中で浮いていたり、先生から疎まれたりしていたとしても、ひょっとしたら自分で考えることのできる子どもなのかもしれないとポジティブに考えることができます。
(もちろん人を傷つけるというようなことは許されませんが)
こういう風に見ていくと、子育てや教育というのは、そんなに難しいことではないように思えます。

といった感じで、人によっては少し肩の荷が下りる本です。


「自分はただいるだけでいい」という感覚をつかみ取る方法:【書評】「自分には価値がない」の心理学(根本橘夫、朝日新書)




「自分には価値がない」の心理学(根本橘夫、朝日新書)を読みました。
面白かったです。

ベースには先日紹介した『「いい人に見られたい」症候群』があると思われる内容です。
どちらかといえばこちらのほうがより実践的な印象でしょうか。
「自分に価値がない」と思ってしまうその原因・メカニズム・解消法を多く紹介しています。

著者も言うように、本書を読んだからすぐ心がすっきり晴れる、というものではありません。
心理的技能も練習してだんだんとできるようになるのである。時間をかけて、何回も何回も練習することで、少しずつ上手になっていくのである。(P111)
ノウハウを知っても、すぐには身につかない。
だけど、時間をかけて何度も取り組めば、やがて身につくという希望があるということですね。
本当の安心は、自分の価値などという意識を超越したところに存在する。
しかし、それを直接求めることは、解脱を求めるようなものである。
逆に、自分の外側をいくら飾り立てても、心底の無価値感から免れることはできない。
自分を成長させ、幸福な人生を築こうとする誠実な努力を積み重ねるうちに、しっかりとした自己価値感が形成されるのである。
(P100)

幸福な状況は他者が与えることができても、幸福であるかどうかは本人に依存する。
(中略)自分の人生は自分にしか作れない。これからの人生についての責任は自分しか追うことができない。
(P98)
そして、その自分の人生を作るという作業を「人生設計」を通じて行うことを著者は勧めます。



その他には「人を大切にすること」や自律訓練法などの具体的なトレーニングなども紹介されていました。
また、「感謝すること」も大切なことなのだとか。
感謝は自己価値感を高揚させる。なぜなら感謝とは、自分が他者から恩恵を受けていることを意識することだからであり、自分が愛され、気にかけてもらっていると感じることだからである。感謝の反対は愚痴である。愚痴を言うほど足りない部分に目が行き、不満だらけになる。愚痴は相手を貶めるだけではなく、愚痴を言う視点は自分にも向けられ、足りないだらけの自分として自分を貶めることにもなる。(P214)
…気を付けようと思います。



親としては、非常に気になる箇所があったので、それもご紹介。

親自身が多かれ少なかれ快体験に罪意識や恐れを抱いている。このために、子どもが楽しんでいるとつい不安になってしまい、水を差す行動をする。(P22 0)
まさにわが身を射たりです。

子どもが夢中になっているところに、「勉強はいいの?」「そろそろやめよう」などと水を差すのは、そういう心理があったのかもしれないと少し反省しています。
(とはいえ、あまりテレビを見すぎるのも問題なので、上の心理を意識しつつ、常識的な範囲で対応が必要なのでしょう。)



自己価値感を取り戻す方法が多数紹介されていましたが、大事なのは「自分はこれでいいのだ」と思えるということのようです。
そのためにも、快・不快、好き・嫌いというのをもっと感じ取って、表現してあげつつ、家族や社会と対立が生じたらいい落としどころを探してくという作業が必要とのこと。
実は、そういう作業を通じて、親も子どもも成熟していくのかもしれませんね。


 

多数決=民主主義ではないし、民主主義ってそんなに簡単じゃない:【書評】多数決を疑う―社会選択理論とは何か―(坂井豊貴、岩波新書)




多数決を疑う―社会選択理論とは何か―(坂井豊貴、岩波新書)を読みました。
とても面白かったです。

本書のいいところは、多数決を疑うところから始まって、民主主義の歴史や自由とは何か、一般意思とは何か、民主主義とは何か、民主主義を遂行するとはどういうことか、など多岐にわたるトピックスに触れている点だと思います。
ある意味、倫理の本を読んでいるようでした。
多数決というものについて、ここまで深く考える余地があるということも驚きです。

通読してみて、自分が当たり前のように選挙に行き、民主主義国家の主権の一人として権利を行使しているものと思っていましたが、全然そんなことはないということを知りました。


多数決では民意が反映されない

著者は何度かアメリカ大統領選の例を取り上げて説明を試みる。
ブッシュVSゴアの大統領選だ。
当初ゴアが有力候補であったが、そこに第三の立候補者でゴアよりの政策を打ち出したネーダーが入ることで、ゴアの票が割れてしまい、ブッシュが漁夫の利を得たという。
このような複数の選択肢の中から1人を選ぶ多数決の場合、単純に第一志望のみを集約してくとこのような「票割れ」が起きてしまい、民意が反映されなくなってしまうことがある。
こういった票割れを起こさない集約ルールはないのかと考えたのが、ジャン=シャルル・ド・ボルダだ。
ボルダは、第一志望にだけ得票を入れるのではなく、すべての選択肢の順位を集約することで、全体の意見を集約するという「ボルダルール」を考案した。
具体的には一つの投票で1番には3点、2番には2点、3番には1点を付与し、すべての投票を加点して集計するというものだ。
先の大統領選でボルダルールを使用したとして、世論通りに投票されたとしたならば、おそらくゴア、ネーダー、ブッシュ(民主党寄り)あるいは、ブッシュ、ゴア、ネーダー(共和党寄り)という票が多く入ることとなったであろう。
しかし、結果は民主党寄りの多数派意見は反映されなかった。
同じことは小選挙区制の日本でも言える。

どの集約ルールを使うかで結果がすべて変わるわけだ。「民意」という言葉はよく使われるが、この反例を見るとそんなものが本当にあるのか疑わしく思えてくる。結局のところそんざいするのは民意というよりは集約ルールが与えた結果に他ならない。選挙で勝った政治家の中には、自分を「民意」の反映と位置付け自分の政策がすべて信任されたように振る舞う者もいる。だが選挙結果はあくまで選挙結果であり、必ずしも民意と呼ぶにふさわしい何かであるわけではない。そして選挙結果はどの集約ルールを使うかで大きく変わりうる。(P50)


64%ルール:憲法改正の要件は3分の2では弱い

憲法の改正を考えてみたときに、改正案Aというのが出たとする。
この改正案に賛成する者が過半数だったとしても、その改正が適切とは言えない。
なぜなら別の改正案Bのほうが適切だという可能性が排除できないからだ。
では、改正案Aを適切だ(改正案Bを選ぶ人よりも多い)と言わせるためには、どれくらいの賛成率が必要かというと、64%なのだそうだ。
これを64%ルールというが、日本の憲法改正には衆参両院の3分の2の賛成(66%)が必要ということで、かなり近い。
しかし、日本の選挙は小選挙区が多いため、少ない投票率で多くの議席を確保できるケースがある。
著者はこの点を鑑み、適切な改憲ができるよう国民投票で64%の賛成が必要とするように改正すべきという。
衆参両院で3分の1が反対したら改憲できないのは厳しいという意見がある中で、斬新な提言だ。

第九六条の擁護として「人間は判断を間違いうるから現行の三分の二条件を尊重せよ」とはよく言われる。また、改憲の硬性は、多数派の暴走が少数派の権利を侵害することへの歯止めだとしても重視される。
(中略)しかし、そもそも多数決は、人間が判断を間違わなくとも、暴走しなくとも、サイクルという構造的難点を抱えており、その解消には三分の二に近い64%が必要なのだ。そしてまた小選挙区で制のもとでは、半数にも満たない有権者が衆参両院に三分の二以上の議員を送り込むことさえできる。つまり第九六条はみかけより遥かに弱く、より改憲しにくくなるよう改憲すべきなのだ。具体的には、国民投票における改憲可決ラインを、現行の過半数ではなく、64%程度まで高めるのがよい。
(P135)

実は民主主義に参加できていない主権者(民衆)

最後にこうした民意の集約ルールがあるものの、現実ではそれがそもそも生かせていない例(都道328号線について)が挙げられた。
都が新しく道路を整備するという施策について、市民の意見というのはほとんど入り込む余地がないのである。
唯一できる市民投票でも、市議会等でそれを受け付けるかどうかを決めることができるそうだ。
そして、困ったことに、市の一部の人間に大きな損害がある政策だとしても、市全体での投票率が何%以上でないと開票しないというルールが条例で定められてしまうと、実際に市民投票をしたところで開票もされないままスルーされてしまうということが起こりうる。

主権に基づく統治の困難とは、立法が執行を制御できないということである。しかし「主権者である国民が国会議員を選出し、国会が立法し、行政機関はそれを執行する」という形式があるゆえ、現行制度は国民に由来する正当性を持ち「民主的」である、という理屈がまかり通る。だが行政機関による執行には、実際上のきわめて広い裁量があり、そこで独自の決定ができる。
(中略)執行が強力であることは、ときに「民主的なプロセス」の一部として安易に位置づけられてしまう。すると行政機関は当事者である住民の声を聴く必要がないばかりか、その声は「民主的プロセス」を阻害するノイズにさえ扱われてしまう。
(P149)



最後に、特別紹介しておきたい一文を引用して終えます。

ところで「政治に文句があるなら自分が選挙で立候補して勝て」といった物の言い方がある。何を根拠としているのか不明だが、それを口にする者の頭の中では、それが「ゲームのルール」なのだろう。だが、わざわざ政治家にならねば文句を言えないルールのゲームは、あまりにもプレイの費用が高いので、それは事実上「黙っていろ」というようなものだ。人々に沈黙を求める仕組みはまったくもって民主的ではない。(P150)

「民主的」というのは、対話の場が開かれており、対話の余地が残されているところにしか適用されないものなのです。




他者に強くなる方法としての自然体といくつかのおすすめ書籍:【書評】人に強くなる極意(佐藤優、青春新書)


面白かったです。

人に強くなる≒自然体で生きる、ということだと私は理解しました。
人に媚びず、びびらず、直感を大事にしながらも先人や他社の知恵を借りながら賢く生きていくことが大切だと語りかけてくるようです。
ではどうやってそんな生き方をしていけばいいのか。
当然ですが簡単ではなさそうですが、そのための方法論を、著者の体験や読んだ本などを通じて紹介されています。

ところどころに「うつになりやすい人の仕事の捉え方」なども書かれており、なるほどと思いました。
(読んだからといってすぐに捉え方を修正できるような処方箋ではありませんが)
ただ、クラッシャー上司サイコパス上司のように、本当にやばい人もいるということは、知っておいたほうがいいでしょう。
本当にやばい人とは、どううまくやろうとしてもどうにもなりませんから、逃げるしかありません。
私個人としては、その点を強調しておきたいと思います。
(最近の著書ではこの点にも触れらていました→メンタルの強化書(佐藤優、クロスメディア・パブリッシング)

各章の最後には、おすすめの書籍も紹介されていました。
今後読みたいなぁと思った書籍をメモ代わりに列挙します。

怒らない

びびらない

侮らない

断らない

あきらめない

先送りしない

他者を優先する「甘えんぼいい子ちゃん」を卒業しよう:【書評】「いい人に見られたい」症候群(根本橘夫、文藝春秋)



面白かったです。

「自分よりも他人を優先してしまう」という心理を分析し、そのことに『「偽りの自分」を感じてしまう人』に対してどうすればそれを乗り越えられるかを示した一冊でした。
自分を犠牲にして、他者を優先させるというのは、多かれ少なかれ、自分も該当してると思う方も多いと思いますが、その他人優先が行き過ぎてしんどくなる人に向けられた本です。

こうした他者を過剰に優先するという心理の裏には、「あなたを優先するのだから、自分にも優しくしてくれ」という甘えが存在すると著者は分析します。
また、こういう心理に至るのには、自分の価値を低く見てしまうせいであり、自分の価値を低く見てしまうのは、十分な愛を得られずに自分を表現してこなかったからだとも。
自分の価値を見出すためには、自分の感情や思いを吐き出し、社会や他人とぶつかることでちょうどいいところを探っていくという作業が必要で、そのためにも反抗期というのは重要な自己表現の時期となる。
だからこそ反抗期がないというのは成熟へのきっかけを失うことにつながるそうです。
(どうせ分かり合えない、という諦めはすでに代償的自己への階段を上りつつあるということでしょうね。わかる気がします)

本書の中には20代から60代まで、男女ともに多数の患者(?)の声が紹介されています。
いい人に見られたい自分に苦しんでいる(代償的自己を生きている)人は世代や性別を問わないようです。
また、特に日本は自分を律することを求められることが多く、学校という機能そのものにも、代償的自己を助長する部分があると著者は指摘します。
代償的自己を生きるほうが楽な時期というのがあるということだと私は理解しました。

本書がよかったのは、代償的自己のような生き方についても、これまでそういう生き方だったことをまずは認めることが大事だと教えてくれるところです。
誰のせいでもなく、代償的自己を生きるしかないからそのように生きてきた、という認識でまずは受け止める。
次に、それをどうしたいか、どう生きていきたいかを自分でつかみ取りましょう、そのためにはこんな風に考えるのがいいのでは? というような感じです。
普通の人が読めば、「こんなの普通じゃん」という内容かもしれません(例えば、自分の感情や感性を大事にする、など)。
でも、代償的自己を生きる人は些細なことですべてが崩れ去ると思っています。
だから、自分を出せず、それによってさらに自分の価値が低く感じられ、余計に自分を出せずになり…といったつらいループをぐるぐる回ってしまうのですね。
このループから抜け出すには、自分でやるしかないのがポイントです。
自分の人生は、自分にしか変えることはできないのです。
そして、自分の人生を変えるために必要なことは「傷つくことから逃げないこと」「行動すること」の2つだけと著者は強調していました。

私自身も仕事で上司と合わずに休みながらこの本を読んでみると、確かに代償的自己のような生き方をしていた部分があると感じます。
「私は、いい子ちゃんになりたがっていたんだなぁ」と気づかされました。
これまでの人生を思い返してみれば、そうやって自分からしんどい方向に自分を持って行ってもがいていた部分もありそうです。

タイトルを見て何かピンと来た人は、ぜひ一読をお勧めします。
「あぁ、この感覚は、そういうことなのか」と腑に落ちる部分がきっとあるはずです。



たぶん根っこの部分は『繊細さん』と近いものがあると思います。

バカの壁(養老孟司、新潮新書)



バカの壁』(養老孟司、新潮新書)を読みました。

たしか高校生のときに読んで、なんでこの本がベストセラーになるのかわからないと思ったと記憶していましたが、この年で読み返すと染み渡ります。
「そうそう、本当にそうなんだよね!」というところばかり。
この我が意を得たりという感じは内田先生に通じるものがあります。

本書の趣旨は「常識を大切にしろ」「わかるということを軽んじるな」という2点に集約されると思いますが、この2点はまさに民主主義が成立するために市民に求められる要素にほかならないと思います。
この2つの要素がない人は、「頓珍漢な考えを持ち」「それこそ正しいと確信している」。
故に話にならない。
壊しようのない「壁」ができてしまうわけですね。
バカの壁というのは、ある種、一元論に起因するという面があるわけです。バカにとっては、壁の内側だけが世界で、向こう側が見えない。向こう側が存在していることすらわかっていなかったりする。(中略)今の一元論の根本には、「自分は変わらない」という根拠のない思い込みがある。(P194)

自分は100%正しい(相手が折れるべきだ=自分は意見を変えるつもりはない)と思っている人間とは、議論なんてできません。
議論とは相手を論破するためのものではなく、より良い答えを導くための"相談"に近いのですから。
ところがそこを理解せずに、自分は議論に「強い」などと豪語したりする人がいる。
普通に考えれば、おめでたくて凝り性の人だと思われるだろうけど、なんとなく今の社会はそういう人を持ち上げるきらいがある気がする。
「常識に縛られない鬼才」だとか、「毅然とした改革者」だとか。
養老先生はそういうのが「気持ち悪い」と思ったのではないかと私は思います。
(もし本当にそうだとすれば、私には養老先生の感覚が非常にわかります)

社会は共通了解の上に成り立ち、その構成員としての振る舞いが求められるということは、(格差の再生産が甚だしくなければ)当たり前でしょう。
自称人間嫌い中島義道先生さえもその前提で持論を展開している。
(非常識人のような人間嫌いが、常識を理解している事は1ミリもおかしくない。詐欺師が法律や人の心理を理解していてもおかしくないでしょう?)
「人間嫌い」のルール(中島義道、PHP新書)

問題は、どうしたら「壁を取り払うことができるのか」ということですが、著者の言うように「個人的に付き合っていくしかない」(P200)のかもしれません。
「ひょっとしたら、全く通じないかもしれないけど、付き合っていればいつか状況が変わるかもしれない」という希望を抱いて接し続けることのできる人が近くにいたとして、そのことのありがたさを感じられる様な人間を肯定するのも教育だと思わせられました。

ということで、やっぱり、先生にはいろんなタイプの人間がいたほうががいいと思います。
たまには「常識と外れた人」や「常識を外れた人」もいたほうがいい。
だけどこの辺の問題は、やっぱり程度の問題で、だからこそやっぱり難しい。

いずれにしてもいい本です。
読んでどう思うかはわからないけど、ぜひ子どもにも読んでほしい。
(そういえばこの本は実家の父の本から借りてきたのでした、父はどんな思いでこの本を読んでいたのやら?)
ということで、本棚入りです。

 

「人間嫌い」のルール(中島義道、PHP新書)



「人間嫌い」のルール』(中島義道、php新書)を読みました。
人間嫌いというとても反人情的な響きのあるテーマを扱う本ですが、私としては非常に筋の通った本だと思えました。
私には、自分の社会的な弱点を見つめるこの著者だって普通の人間のように思えます。

個人的には、著者の意見は、ほとんどすべて納得できます。
要するに、個々人違うのだから、それを認める社会たれというだけのことです。
こういう本が書かれなくてはならないことが悲しいと思うのですが、そうでもないのでしょうか。
少なくない人が、著者とおんなじ事を思っていると思います。
特に立場の低い者はそうでしょう。
職場のパワハラもこういうところに根があると私は思っています。

中江兆民も葬式は行かなかったそうだし、私としても別に葬式に行く必要はないと思います。
行きたい人は行けばいいし、行きたくない人は行かなければいい。
後日線香をあげるのもよし、家で黙想するでも良いではないですか。
なぜに悲しさを外に見えるように表さなければならないのか。
著者はただ、他人の考えは他人に任せておけと言っているだけです。
行動の動機は、その真意は、つまるところ本人しか知り得ないのだから、周りが憶測でどうのこうの言うなという事に尽きると思います。

そして、現代社会はどんどんそういう方向に向かっているというのが私の印象です。
この社会的合理化がどこまで行くかはわかりませんが、近いうちに著者の望んだ共同体が日本という国には出来上がる気がします。

この本を理解できる人には、「昔は良かった」という言葉をそのまま受け取れることはできないでしょう。
「よそはよそ」という社会こそを理想とするし、現実の社会は今、家の解体や、核家族化、非婚・晩婚、シェアハウスなどなど、明らかに社会的な縛り(つながり)を減らす方向に動いていますから。
今回の新型コロナウイルスへの対応で、人と人との物理的な距離もいくらか広がるでしょう。
今後は、不必要なつながりは避けられ、現実的な生活に必要なゆるいつながりを残す流れが肯定されていくように思います(という希望)。

今日も社会の至るところ(主には日陰が多いかもしれません)で、緩やかな共同体が生まれつつあります。
私としては、いい時代だと思うのですが、たぶん異論は多いのでしょう。

この本を読んで自分の人間嫌いを自覚する人も多いのではないかと思います。
問題はそれで救われるか、傷つくかどうかです。
救われる人は救われればいい。
傷つく人も、気にする必要はありません。
傷つくあなたは、たぶん人間嫌いではないはずです。





大学の未来地図』(五神真、ちくま新書)を読みました。
面白かったです。

大学の経営層にいる方々の本には、「大学はなっとらん」「こんなんじゃ世界と渡り合えない」「大学教員なんかに教育を任せちゃいかん」という世間の声を柔らかく受け入れて、さらりと「ほんとにそうですよね、でもうちの大学は違いますよ。ちなみに私は海外の●●大学で云々」という書き方をする本が多いように感じていますが、本書は違います。
非常に冷静に「東大」を見ているように感じます。
あるいは、「東大」というか、東大をトップとした日本の高等教育の構造の中での東大の役割を(いい意味で)冷めた目でもって整理されている印象を受けました。
「確かにいろんな考えがあることは知っています。ただ、東大はこういう考えで、こういうことをすすめているんですよ」という感じです。

面白かったのは、意外と東大も自由に使えるお金が少ないということです。
資産が多くても、収益性の大きい資産ではなく(山林などの不動産などが多い)、またほとんどの資金(大学なので予算という方が正しいですね)が用途の決まった資金(予算)であり、ゆえに大胆な投資などは構造的にできない仕組みになっているそう。
そして、そこに公的な助成の減額がのっかってくるのだから、一昔前の東大と今の東大とでは経営の難しさが桁違いなのではないだろうかと思えてきます。
現場はどこも喘いでいて、その中でリーダーシップをふるう必要があるのですから、なかなかストレスフルな仕事でしょう。


---以下、話は本から逸れます---

上記のような運営資金に窮している状況であれば、なるほど著者の書いているように、産学連携やベンチャービジネスへの投資に注力していこうというのもわかります。
どうにかしてお金を稼ごうと思うのは当然です。
しかし、この方針は、東大のような大学だからできることであって、小規模かつ文系の大学などはなかなか採用できないでしょう。
ということで、すべての大学ができる施策ではないし、著者もそんなつもりでは言っていないでしょう。

では、小さい大学が生き残るためには何をすればいいのだろか、と思えば、言い方は悪いですが、弱いもの同士で協力することが大事ではないでしょうか。
ノウハウの共有や専門職人材の共有など、できることは多いはずです。
そうした連携が進めば、管理職の共有なんてこともあるかもしれません。
そのためにも、今後多くの大学で経営がひっ迫すればするほど、法人の合併は増えていくはずです。
という風に見ていくと、いろんな方法を使うことでしばらく大学は総数を減らしつつも、生き延びていくと思われます。

しかし、だからと言って(同書でも再三話題にしている)若手の雇用の不安定さが減ることはないでしょう。
大学や入学定員が適正な数に落ち着くのと、人口の減少とがマッチすることはしばらくないでしょうし、日本の雇用形態では専任の教員を首にはできない。
(むしろポストがない今、専任教員は必至で今大学の今のポジションを守ることでしょう)
ということで、どうしてもまだポストについていない若手研究者は専任のポストにありつけないことになります。
それはつまり、大きなスケールでの研究ができない(目先の成果を上げるための研究に力を注がざるを得ない)ということを表します。
これは知識集約型の社会において、非常に大きな損害になるように思います。

じゃぁどうすればいいのか。
私個人の考えでは、公的な助成を増やしてほしいのですが、それが望めないのであれば、人件費を下げてしまう、すなわち給料を下げてしまう、というのがいちばんいい気がします。
その分、もっと研究者を雇って、指導・講義・会議・事務作業の手間を分散してあげれば、むしろ喜んで給料を下げたい先生もいるのではないでしょうか。
人件費を下げてしまえば、優秀な人材が海外に逃げてしまう?
果たして本当にそうでしょうか?
自分が安定して自分の関心のある研究を追求できる環境があるのに、わざわざ別の大変な環境に行ってお金を稼ぎたいと思う人がそれほど多いとは私には思いません。
(どこかの大学で、アンケートでも取ってないものかと思います)

もちろん生活に苦しむほどの安易な給与カットを推奨するつもりは毛ほどもないのですが、給与はそこそこでいいから、教育・研究に使える予算を増やしてほしいという研究者が多いのではないでしょうか。
少なくとも、そういう仕組みでもない限り、ポストは増えないのではないでしょうか。
ポストが増えなければ、若手研究者はそもそも志望する人が減っていくでしょう。
高度な知識を持つ人材を有機的につないで社会的な価値を生み出していく、行かねばならない「知識集約型の社会」というものが到来するのであれば、みんなで少しずつ詰めて席を確保していくしかないのではないかなと思うのですが、いかがでしょうか。
(税金をもっと大胆に教育に投入してくれるなら、もうちょっと違う道もあるのかもしれませんが…)

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決めつけたように書きましたが、多分道はほかにもあるのでしょう。
すぐに答えのでるものでもないかと思いますので、今後時間をかけて、もう少し落ちついて考えてみたいと思います。

男のからだ・女のからだ―人体スペシャルレポート2 (Quark編、ブルーバックス)



男のからだ・女のからだ―人体スペシャルレポート2 (Quark編、ブルーバックス)』を読みました。
ゲスの極み、というのはちょっとかわいそうなくらい、頑張って取材して興味を持ってもらおうとがんばっているライターたちの様子が見て取れます。
面白い。

とはいえ、ゲスです。
しかしながら、飲み会で使えるかどうかという観点から見れば、実に実用的な一冊でしょう。
いい意味でも、悪い意味でも、ですが。
あとは、酒のツマミにもとてもいい。
なんたって頭を使わずに読めます。

それでいて、人生において大切なこと、つまり「人はみんなそれぞれなだし、それでいいんだ」ということを教えてくれます。

性については個々人、色々と悩むこともあることでしょう。
特に子どもなんかは興味を持ちつつも、変わっていく自分の心身に不安を抱いても何ら不思議ではありません。
(自分もそうだった気がします)
ということで、自分の子どもが思春期を迎えたときに、あまりおかしな方向に凝り固まらないように、本棚においておきたいと思いました。

「これでブルーバックス?!」という感じでしたが、こういうブルーバックスがあったって、まぁ悪くはないですよね。


古典がもっと好きになる(田中貴子、岩波ジュニア新書)



古典がもっと好きになる(田中貴子、岩波ジュニア新書)』を読みました。
国文学者の著者が、「文法なんて知らねぇよ。いいから読め」(とまで口悪くはないですが)とぶち上げる痛快な本です。
古典や古文を味わいたいという人には非常に実際的な内容が書かれています。
とても面白かったです。

上の表現は私の超訳で、本書ではもっと穏やかに次のようなことが書かれていました。

文法も不要ではないけれど、そればっかりでは古典の面白さはわかりません。
声を出して読み、何度も読み、そうしているうちに意味が分かってきて、文脈がわかってきて、そして現代にも通じる面白みがあることに気づいて古典と親しめるものです。

…ということです。
「古文は外国語ではなく、昔の日本語」なのだから、あまり肩ひじ張らず、自然体で楽しみましょうね、というスタイルで古典と付き合うことを勧めていました。
私も昨年『大鏡』を読んだ際にはとてもおもしろく読めたので、本当にそう思います。
古文が嫌いで古典を敬遠している人は、もったいないと思います。
時代の風雪に耐えて今もある書物には、何かしら感ずるところがあること請け合いです。
だから、現代語訳でもいいから、興味があれば読んでみるといいと思います。
1000年前の文学だからって、そんなに偉いもんでもないと思って、週刊誌の連続小説を暇つぶしに読むくらいの感覚で付き合えばいいのではないでしょうか。
もちろん読まなくたって生きていくのに不便はありません。
だから、古典・古文なんていうのは趣味の世界なのです(と言ったら専門家の方は怒るかもしれません。ということで、これは私見です)。
でも、古典・古文に親しめば、気軽にタイムスリップができます。
それが人生を豊かにしないなんてことがありますでしょうか?

我が国は単一国家としての歴史も長く、様々な文化が連綿と続いてきた社会に生きているわけですから、この国でしか味わえない”スルメ”的学問が多くありますす。
その一つがまさに古典・古文ではないかと思うのです。
そして、そういうスタンスで様々な古典・古文の資料と向き合える人が多ければ多いほど、学問としてはよいはずです。
まだまだ現代語訳を待っている多くの古文が古本屋や納屋の奥に眠っています。
それを現代の光にあてる人材を増やすのに、本書は大きな寄与をするのではないかと、読みながら思いました。
このさい、古典文法は頭のなかから追い出してください。それより、日本人の心の宝、文化の泉である古典の一節を、わけもわからないまま暗唱するほうが将来の教養のためにはいいと思います。口をついて出る言葉、それは脳のどこかにしっかりとしまわれてあなたの心の血肉となることでしょう。(P53)
確かに、ちょっとキザな感じもしますが、さらりと場に即して暗唱できたら、場を盛り上げることもできるかもしれませんね。
そんなわけで、私はとりあえず、百人一首から始めようかと思います。

国際感覚ってなんだろう(渡部淳、岩波ジュニア新書)



国際感覚ってなんだろう(渡部淳、岩波ジュニア新書)』を読みました。
耳が痛いなぁと思いながら、楽しく読めました。

全体を通じて、「喋れれば国際感覚を持った人間になれるというものではない」ということを強調しています。
(そうですよね)
大切なことは「異文化を否定しない」「理解できない他者に手を差し伸べる」「自分にできることをやる、発信する、行動する」というようなことに集約されるのではないか、ということでした。
(本当にその通りだなぁ)
特に新型コロナウイルスの感染が拡大している今の世の中において、世界が一丸となってことにあたることの重要性はさらに増しているのではないかと思います。
合意形成の進行形式(集団討論など)を考えると、喋れることが国際化にならないとは言いつつも、喋れるということは合意を形成するうえでとても大切なようです。
ディベートの箇所を読むと、そうした直接的、瞬間的なコミュニケーションのやり取りの重要性が強調されていました。
特に大人数で、一定の時間の中で合意を形成する場合、事前の準備とその場での対応力が求めらるということですから、まだまだgoogle翻訳では難しい領域かもしれません(そのうち解決しそうですが)。
とはいえ、やはり「自分の意見」をもって、それを発信し、「他者の意見」を受け入れ、それに返事をする、こういうことが一般的な世界になるのです(そうでない日本が特殊なのかもしれませんが)。
そうなると、確かに海外で(あるいは「の」)教育を受けている人の方が、なじみやすいかもしれません。
ここで変な方向に舵を切ってしまいますが、このことはつまり、外国語の学習が「日本の教育から逃れるための船」のような役割を果たすことにならないかと不安になります。
「日本では世界とやりとりする教育は受けられない。だから話せる英語を身に着けて、海外でコミュニケーション力を持った人材が育ってほしい」という願いのもとに外国語教育がなされてしまっていないかと疑いの気持ちが芽生えてしまいます。
もちろん、グローバルスタンダードが正解とは思いません。
国ごと、個人ごとに理想をもって勉強なり生活に励めばいいと思います。

とはいいつつも、一定数海外で学ぶ人がいることは、国内の教育制度改善の刺激にもなるかもしれませんので、絶対ダメという事も言えないですね。
ということで国内で生きていたって「自分の理解できない事象に対する寛容さ」が求められるわけです。
ということでこの本の示した「国際感覚」とは、「常識」「成熟」という言葉に置き換えてもいいものなのかもしれません。


大石内蔵助―赤穂四十七士 (西本 鶏介、講談社 火の鳥伝記文庫)


大石内蔵助―赤穂四十七士 (西本 鶏介、講談社 火の鳥伝記文庫)を読みました。
実際に歴史を動かした人たちがどんなことを思っていたのかということが細かく書かれた伝記で、面白く読めました。
ただ感想としては、「野蛮」だなぁというのが私の感じたところです。
(これはあくまでも現代から見た視点なのだと思いますが)

そもそもなんで吉良上野介を切ったのだろうかと疑問です。
また、なぜ吉良上野介が浅野内匠頭をいじめなくちゃならなかったのか。
その辺は、まだ本当にわかっていないのだそうですが、この解釈だけで物語の意味が全然変わってしまいます。
そこがわからないのになぜこんなにも赤穂浪士の擁護するようなストーリーになってしまうのかがわかりません。
当時、内匠頭がおかしいという話にならないのはならなかったのでしょうかね。
そういうことをしでかすはずの人物でないのだとしたら、なぜそういう史実を支持する資料がないのか気になります。

ファンからしたら暴言かもしれませんが、例えば内匠頭が短気で傷刃に及んだとすれば、キチガイ部下が逆恨みで復讐したと取れないこともないような気がします。
これが武士の振る舞いだと胸を張って言えるのでしょうか。
腹を切れば何でも許されるわけでもないでしょう。
あくまで現代の目線で見たらという前提ですが、ちょっとクレイジーです。
最後の討ち入りのシーンに至っては、吉良家の家臣や家族たちなんてなんの悪さもしてないのに、可愛そうだなと思ってしまいました。

ということで、最近兆民先生や幸徳秋水に影響されている私としては、
菊と刀はこの物語に義理と恩の分類で説明を試みていたましたが、私にはさっぱりわかりません。
持て余した野蛮人が勝手な大義を作って壮大な、人騒がせな復讐を果たして自殺したってだけではないでしょうか」
と書きたいところなのですけれど、私にはやっぱりこの話を美談として捉えたい気持ちがわかってしまいます。
ということで私も日本人の型にしっかりとはまっていることを実感しました。

そしてこういう感覚が自然にあって、それが社会を覆っているのであれば、たしかに我が国はまだまだ市民社会には到達していないのかもしれません。
菊と刀が書かれた時代にはそうだったかもしれませんが、今の若者はどうなのだろう。
ぜひ若い人の「忠臣蔵」に関する感想を聞いてみたいものです。
案外私と似たような感想を持つ若者も多いような気がします。
(気のせいかもしれませんが)

それにしても、こうした子ども向けの伝記というのは、とてもわかり易いですね。
入門書として、ざっくり、一般的なことを学ぶには、非常に良いように思います。
ちょこちょこ読みつつ、シリーズを読破したい気持ちになりました。

 

英語教育の危機(鳥飼玖美子、ちくま新書)


英語教育の危機』(鳥飼玖美子、ちくま新書)を読みました。
いやいや、痛快ですね。
英語にまつわる日本社会が持つふんわりとした希望に形を与え、その上でそれらをばっさばっさと切っていきます。

曰く、
・外国語のみの外国語学習はその効果が久しく疑問視されており、時代遅れの感が否めない
・外国語を学ぶことが直接異文化理解につながるものではない
→母語との差異を学ぶ必要があるが、そのためには一定の母語運用能力が必要
・外国での体験がそのまま異文化理解につながるものではない
→留学を増やせばいいというものではない
・民間試験では英語での「コミュニケーション能力」は伸びない
→そもそもコミュニケーション能力は測定ができない
などなど。


読んでみて驚いたのは、今年から導入される新学習指導要領の小学校英語についての到達目標が余りにもレベルが高すぎると思われた点です。

以下、小学校での導入される英語の実施に向けた目標(学習指導要領からの転載)
(1)外国語の音声や文字、語彙、表現、文構造、言語の働きなどについて、日本語と外国語との違いに気付き、これらの知識を理解するとともに、読むこと、書くことに慣れ親しみ、聞くこと、読むこと、話すこと、書くことによる実際のコミュニケーションにおいて活用できる基礎的な技能を身に付けるようにする。
(2)コミュニケーションを行う目的や場面、状況などに応じて、身近で簡単な事柄について、聞いたり話したりするとともに、音声で十分に慣れ親しんだ外国語の語彙や基本的な表現を推測しながら読んだり、語順を意識しながら書いたりして、自分の考えや気持ちなどを伝え合うことができる基礎的な力を養う。
(3)外国語の背景にある文化に対する理解を深め、他者に配慮しながら、主体的に外国語を用いてコミュニケーションを図ろうとする態度を養う。

鳥飼玖美子. 英語教育の危機 (ちくま新書) (Kindle の位置No.773-780). 筑摩書房. Kindle 版.

これを小学校で到達できるレベルだとするならば、今までは何だったのか。
これが絵にかいた餅でないなら、これまでの学習指導要領を採用していたことについて、文科省は謝罪をしてほしい。
私全然しゃべれないよ!
それは冗談ですが、小学校の先生は、おそらくこんな目標を達成できるような英語を、教えきれないでしょう。
教えられるなら、英会話教室を立ち上げている先生が大勢いるはずです。
政策起草者は学校の先生をスーパーティーチャー集団か何かだと思っているのではないでしょうか。

しかも、小・中・高の英語の目標がほとんど同じで、どのように接続・発展させていくのかは現場任せの様子。
これでは学校ごとや教室ごとでの到達度合いにムラが生じます。
そもそも、そういうムラを極力生じさせないための指導要領ではないのでしょうか。

さらに言えば、このご時世、翻訳は機械がやってくれる。
だとしたら、なぜに外国語を学ぶ必要があるかと言えば、自国の文化等を知るためだと思います。
他国との差異を知ることが、自国を知ることになり、異文化への寛容を助けることに外国語学習の意義があると思います。
しかし、他国との差異を知るのは、翻訳された書物(つまり母語の資料)からもできるのですから、これでもやはり外国語が絶対必要というものでもないでしょう。
やはりまずは「母語で読める」ことが重要だと思うのです。
その上で翻訳の際の微妙なニュアンスの違いなどを読み込むために、「外国語で読む」というステップに至るのではないでしょうか。

ーーー

ところで、著者の提案する英語学習では、グループワークの推奨がありました。
確かに個々人の個性を、長所を生かしたディスカッションができれば、自信につながる授業が展開できるでしょう。
しかしながら、スクールカーストなどが教室運営の要素と密接に絡んでいる我が国の学校ではなかなかなじまないという懸念が生じます。
このことは、著者の懸念している、そもそも日本人は自立した個人を育てたいのか、という疑問につながります。

もっと言えば、日本社会は本当に「自立した個人」を育てたいのか、という疑問にもぶつかる。「主体的で自立し、批判精神旺盛な個人」は、和をもって尊しとなす日本社会で果たして求められているのだろうか。欧米の教育実践の一部を恣意的に表面だけ導入しても、カリキュラムなど教育の根本を変えようとしないのは、もしかすると日本社会の本音が表れているのかもしれない。
鳥飼玖美子. 英語教育の危機 (ちくま新書) (Kindle の位置No.584-588). 筑摩書房. Kindle 版.

なるほど、我々大人たちは、「俺は喋れなくても、喋れる奴がいればいいんだ。喋れるだけでいい。批判は要らない」というスタンスだったかもしれない。
直接こうは意識していないけれど、否定はできない気がします。

そして、私の頭の中では、先日読んだ『スクールカースト』が、これはうまくいかないと警報を鳴らしています。
また、以前読んだ『アクティブラーニング』という書籍もこの辺の学びの難しさ、特に日本の教育の中での実践の難しさ、歪みやすさを指摘していた気がします。


最期に、多くの日本人が英語を喋れない最も大きな要因の一つは、外国語が必要な状況が日本にはあまりない、という点あると言えないでしょうか。
だから全員が外国語を学ぶ必要があるのかどうかをまず議論してはいかがかと思います。

  

売り渡される食の安全(山田正彦、角川新書)


売り渡される食の安全(山田正彦、角川新書)』を読みました。
面白かったです。
現政権の産業界への傾注加減がよく分かります。
本書の内容をすっかりそのまま受け取るならば、全くひどいもんです。
政権にも官僚にも呆れ果てます。
どうして種子法の廃止なんてアホな事をするのかということもありますが、そもそも「そういうことができてしまう」ということが恐ろしい。
法治国家、議会制民主主義の限界を感じます。

非遺伝子組み換え食品の表示についても、我が国では「100%非遺伝子組換位食品でないと表示できない」という法律になっており、これは他の国の「0.9%未満」等の制限を更に厳しくしたものとなっているようです。
これは、つまり非遺伝子組換え食品との表示は「ほぼできない」制度を作ったに等しいものなのです。
だって、すべての素材をそれぞれすべて調べない限り、100%の保証なんてできないのですから。
著者は、ここに遺伝子組換え作物を生産している企業の思惑を見て取ります。
もしそれが本当なら、我が国の政府は完全に腐ってますね。

ーーー

アメリカの主婦たちが組織した食の安全を企業等に訴える団体の活動紹介もされていました。
その中で、有機栽培された食品を月に1万円ほど買いましょうという活動が展開されていました。
良い活動ですね。
以前読んだ『日本の「食」は安すぎる』(山本謙治、講談社+α新書)という本でも、消費者がいいものを買うという積極的な行動が農家やサプライチェーンを変えると書いていた。
私達市民も「意識的に選ぶ」こと、そして「声を出す」ことで自分たちの食を守るという姿勢が必要なのでしょう。
私ももう少し「選んで」「積極的に」お金を使っていこうと思います。
節約ばっかりしていては、世の中良くならないでしょうからね。

ところで、この本は、以前読んだ『日本は世界5位の農業大国』(浅川芳裕、講談社+α新書)と「食料自給率」「農家補償」について正面から対立しており、あちらを立てればこちらが立たずの典型のように見受けられます。
でも、議論をすることで、対立があると認識できるわけなので、対立が生じること自体は悪いことではないのだと思います。
見る人が見れば、きっと妥協点があるはずですし、そこにこそプロの視点や議論の意義があるように思います。
(これは、農業に限りませんね)

  

教室内(スクール)カースト(鈴木翔、光文社新書)


教室内(スクール)カースト(鈴木翔、光文社新書)』を読みました。
面白かったです。
読んでいると、「あー、こういうのあったなぁ」という点が多々あります。
自分の過去を振り返ざるを得ません。
そして、自分も一部ではこういう序列形成に関与していたことを認めざるを得ません。


著者は、アンケートとインタビューを通じて、スクールカーストの構造を解明しようとします。
そして、出てきた答えは「生徒」と「教師」は同じ「スクールカースト」という序列を、前者は「権力」の階層とみなし、後者は「能力」による区分け、と見ていることがわかりました。

また、スクールカーストが「下位」の生徒には劣等感や屈辱感を与える一方で、「上位」の生徒にも上位カーストに属するものとしての義務感のような重苦しさを与えるという、両者への負の側面も解説され、単純に上位のものが優遇されるものでないことも示されています。
(それでもやっぱり「上位」のほうが何かと楽しそうですが)

ではどうすればそうした階層・序列をなくすことができるのかといえば、これは学級制度自体に伴う現象であるがゆえに、教育システムの大幅な改修が必要になりそうだと思われます。
それを鑑みた上で、著者は「当事者ができる対応策」を幾つか上げていますが、これがとても優しい印象。
特に「学校は社会に比べればよっぽど複雑」という助言は、かなり当事者(特に下位に属する生徒)を助けるのではないかと思います。
個人的にも学校というのは、「同じ年」「近い地域」の子どもたちが「10年近くも」同じ集団に属して生活の半分近くを捧げなくてはならないという、大変特殊な場所だと思います。
個人的な差異が少ない集団であれば、当然「少ない差異」の中の序列を作ろうとするのが集団です。
ましてや年齢も地域も近いのであれば、「素質」「才能」「人間関係」と言った「どうしても差が生まれるような要素」で序列を作るのは全く違和感を感じません。
しかし、社会に出れば、そういう軸で個人をソートすることは(一応)ありません。
(もちろん大きなくくりで、上級国民・下級国民なんて言葉ありますが)
適材適所とまでは行かないまでも、「まぁ我慢できる居場所」を多くの人が獲得できます。
だから、無理してまで学校に行かなくていい、という対応策もやはり至極真っ当だと感じます。

この辺は、親も理解しておく必要があるでしょう。
別にスクールカーストに疲れてしまうことは、異常ではないし、どんな理由にせよ、学校に通えないから社会に通用しないわけではない。
(例えば幸徳秋水も幸田露伴も学校を卒業していませんしね)
むしろ学校と家庭しか世界のない子どもにとって、学校が苦痛のときに、家庭でも「学校にいけ」という圧力が働いたなら、子どもはおかしくなっても少しも不思議ではないでしょう。

しかし、もしスクールカーストのような序列をなくすことを目的とするならば、本当に私たちには何ができるだろうか。
そもそも序列意識を私達からなくすことなどできるのでしょうか。
著者も「スクールカーストを意識しなかった人たち」の意見を聞く必要があると指摘していますが、本当にその通りだと思います。
もし序列を意識しない人がいるとするのであれば、その人はどういう世界を見ているのだろうか。

あるいは、それはアルプスの少女ハイジの主人公・ハイジのような人なのかもしれない。
なるほど、地球上のみんながハイジのようになれば、世界は平和でしょう。
ということで、道徳の時間にみんなでハイジを観るってのはどうでしょうか?

 

アメリカの大学の裏側 (アキ・ロバーツ、竹内洋、朝日新書)



アメリカの大学の裏側 「世界最高水準」は危機にあるのか? (アキ・ロバーツ、竹内洋、朝日新書)を読みました。
大変面白い。
私の持っていたアメリカの大学に対する「入りやすいけど卒業しにくい」のイメージは上位大学以外のことを指しており、総じてアメリカ全体のことをイメージしていたわけではなかったということがよくわかりました。

その他、面白かった点
・営利大学の存在(金さえ払えば学位が取れる)
・テニュアによって枯れ木教授が生まれている(終身雇用の悪い面)
・テニュアを取りたくて、若手は革新的な研究ができない(評価されにくい研究ではテニュアが取れない。しかも評価するのが枯れ木教授だったりする理不尽)
・授業料を高く設定し、ディスカウントする手法が流行(なお留学生は正規料金)
・やかましい学生の対応が面倒で成績を甘くつける教授が増えてる→学生の質の低下(成績が進路に直結するがゆえの問題点)
・AO入試では差別の助長が横行しかねない
などなど

文科省の政策が、アメリカを模範として、日本に良い点を輸入しようと努めてきたことは以前記事を書いた『アメリカの大学・ニッポンの大学』(刈谷剛彦)や『大学改革の迷走』(佐藤郁哉)でも紹介されていましたが、「模範としているアメリカの大学」というのは、かなり偏ったイメージのもとで捉えられているのではないかと思えてしまいます。

大学改革の病』(山口裕之)でも指摘されているように、「教育」は「社会」と密接につながっており、片方(「教育」)だけを改革しても何も変わらない、というケースが多々あるようです。
(極論とも言える例をあげれば、新卒一括採用、終身雇用が続く限り、偏差値による序列はなくならない、など)
ということで、「アメリカの教育」を輸入する際には、やはり同様にその後ろでつながっている「アメリカの社会制度や習慣」も一緒に導入する必要があるのでしょう。
問題は、その社会制度や習慣を、簡単に日本に根づかせることが容易ではないということでしょう。
だから佐藤氏や刈谷氏が指摘しているように、シラバスやTAと言った小手先の小道具の導入に終始して、最終的に要らない仕事を増やしてしまうという結果に帰結してしまう。

別に、アメリカの真似を一律にする必要はないのではないか、というのが本書を読んだ感想です。
どこの国にも良い点と悪い点があるでしょうから、特定の国の教育制度や仕組みに執着する必要はないのではないでしょうか。
特に、我が国は日本語を公用語として、海外と隣接していないという地理上の特質があります。
そのことを念頭に置かなければ、あらゆる輸入品は骨抜きになるでしょうし、かと言って極端な英語教育などを導入すれば学生も置いてけぼりになりかねません。

これの形骸化・極化を避けるためには、各大学に教育方針の設計・運営について裁量をもたせ、大学ごとの多様性を担保させることが大事だと思うのですが、大学大綱化以降もなかなか日本の大学の多様化は進んでいないことを考えると、そう簡単には行かないんでしょうね。


ーーー

また、本書を読むと学費が高く、学生ローンに悩んでいるアメリカ学生の姿が見えてきます。
その原因は職員の業務の高度化、ポストの増加だそうです。
日本でもどんどん学費が上がってますが、同じような原因なのでしょうか。
否、公的な補助金の推移が多分に関係しているのでしょうけれど、こと職員の人件費については、給与の上がり方が日本は一律なので、人件費をコントロールするという観点からするとなかなか良いシステムと言えそうです。
「やめさせられない」という条件がつく両刃の剣みたいなシステムですが。

さらに、アメリカでも成績のインフレが起きてるとは知りませんでした。
教授としては、時間を食われて成果がでないので、甘く成績をつけるというのは仕方ないのでしょう。
研究成果で評価を下せば、まぁそうなっていくでしょうね。
この辺は、日本の大学もよく考えるべきところだと思います。
大学って研究成果だけを求めるところなのか、ということです。

アメリカの入試については、特に人種の優先入試に関する記述が興味深かった。
一律にやってると、ユダヤ人ばかりになるというのもなかなか興味深い。
またアメリカにおけるAO入試は「格差を再生産させるために始まった」(表向きはもちろんそうではありません)という理解が日本には欠如しているように思われる。
確かに著者の父・竹内氏のいうように、沈思黙考型の人材も排除されてしまいますよね。
(ただ、日本の場合、AOとか推薦で合格する人は、割りといい就職に行ってるのではないかというイメージがあります。そういう調査をしている人いないでしょうか)

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アメリカの大学・ニッポンの大学(刈谷剛彦、中公新書ラクレ)

   

アメリカの大学・ニッポンの大学(刈谷剛彦、中公新書ラクレ)



グローバル化時代の大学論1 - アメリカの大学・ニッポンの大学 - TA、シラバス、授業評価 (刈谷剛彦、中公新書ラクレ)を読みました。
著者は刈谷剛彦。
20年近く前に書かれたアメリカの大学と日本の大学の比較論を取り扱う本ですが、とても面白かったです。
当初、20年前の本だから、あまり参考にならないかな?と思いましたが、とんでもございません。
今を考えるのに、とても参考になる本です。

著者は、アメリカでの教授経験をベースにして、さんざんアメリカの大学のよさそうな面を紹介してきたのに、まとめでは日本の大学には日本の大学の型があるのだから、無条件にアメリカの真似をしてもだめだ、といういたって常識的なまとめ方でした。
というか、そもそもアメリカの学部教育だって、いろいろな問題点を抱えていることを理解しないとだめですよ、という指摘も。
確かに、完璧な教育システムがあれば、どの国でもそれを採用しているものね。

とはいえ、どうにか良くしていこうというあがくことは大事でしょう。そのあがき方にアメリカの真似ということもあってもいいかもしれないとは思います。
その結果として、TA、シラバス、授業評価が日本に導入されて来た事自体は決して悪いことではないのだと感じます。

問題は、それらが個別の小道具として導入されてしまったことです。
例えばTA制度は、優秀な教員養成という目的があったにも関わらず、安価な人材として導入されてしまう傾向があったり、シラバスは授業ごとの契約書にもかかわらず、単なる”カタログ”として導入されてしまったり、授業評価も成績が重視されない日本では一体何の意味があるのか…ということで本当にただ導入するだけになってしまったことが問題だったのだと思います。
(この辺は、『大学改革の迷走(佐藤郁哉、ちくま新書)』が更に深掘りしています)
大学改革の迷走(佐藤郁哉、ちくま新書)

ーーー

こと教育に関するアメリカの評価できる点は、問題があったら素直にそれを認めて、改善をするところが評価されるという点にあると思います。
(我が国はまず失敗を認めることができない)
もちろん、すべての改善がうまく遂行されるわけではなく、思ってもいない弊害を生むこともあるようですが、そうして生じてきた問題にもまた対処するような風土があるようです。

とはいえ、全てにおいてそうかというとそうでもなく、例えばテニュア制度における枯れ木問題などは、結構八方塞がり感があります。
研究をやめてしまう専任教授。
この辺は日本も同じです。
しかし、個人的にはテニュア制のような終身雇用制度は大学ではなくしてはいけないと思います。
大学は社会を批判する機能を持った社会インフラであるからです。
使えない枯れ木教授が何人いたとしても、その制度をなくしてしまったら、「誰かが批判しなくてはいけないことを批判する人」がいなくなってしまう。

ーーー

本書を読むと、アメリカにおいては教育は”商品”として扱われている感じがひしひしと伝わってきます。
こういう商品を売ります(シラバス)、こういう商品だから買います(履修)、買ったあとに購入レビューをします(授業評価)、という感じ。
で、売ると言っていた商品(知識、経験など)が得られないと思われてしまったら抗議・訴訟と…この辺は少し日本とは温度差がありそうです。
ひょっとしたら、買う側の意識の高さが、売り手の質を上げてるのかもしれません。
授業料も高いですしね。

そして、「アメリカで出版されたアメリカの大学論」を扱う本を通じて、こういう風潮が大学の質にも影響を与えつつあるという指摘もありました。
(前略)アメリカの大学が市場原理にもとづき、学生や親たちを消費者とみなすようにあってきていることにある。学生たちの選択を重視する至上主義は、学生たちの求める様々な教育「サービス」の提供を大学に求める。その中で、例えば消費者(=学生)の声に耳を傾けようとする授業評価なども、学習への要求度の低い授業や、成績評価の甘い授業が学生から好意的に評価されるとなると、そのような授業の広がりを許す一因となる。たとえ一部の教員が厳しい成績評価と学習への高い要求を掲げても、選択重視の仕組みのもとでは、そういう授業の人気は下がり、学生も集まらない。そのうえ、学生や親たちが大学に求めているのは、難しい学習よりも、居心地のよい設備の完備した学生寮であったり、キャンパスでの他の学生たちとの交流や「社会経験であったりする」(R・アラム、J・ロクサ共著『漂流する大学』一三七ページ)(同書P240)
なるほど、日本も近い状況が起きている気がします。
私としては、この一文を読んで、内田先生の『下流志向』を思い出してしまいました。
日本はまさにアメリカの後を追っているようです。
どうして先人の失敗を活かせないのかという疑問は、冒頭の内田先生の話(専門家に託せない性質)につながるのかもしれません。

  

大学改革の迷走(佐藤郁哉、ちくま新書)




大学改革の迷走 (佐藤郁哉、ちくま新書)を読みました。
いやー面白かったです。
随所に皮肉が効いている、ユーモラスな本です。
ブラックユーモアですが。

この本の指摘は、別に教育だけに当てはまるものではないと思います。
内田先生が言うところの「この国の病理」の一つである「専門家のあたるべき問題を非専門家があたってしまう」ということを指摘しています。(内田樹の研究室:コロナウィルスと社会的共通資本2020-02-29 samedi)
そして、大学における政策の失敗について、本書はいろいろな角度(例えば、大学の中から、行政の側面から、などなど)から検証、評価、批判を行っています。

ポイントは以下の通り。
・シラバスの導入で事務業務が増加(しかも形骸化)
・PDCAは工場生産に用いるもので、予算管理の大学教育には適さない(PDCAは神話)
・結局PdCa(計画と評価のみ肥大してしまう。結果として形骸化する)
・KPIを目標にするのは見当違い。KPIはあくまでも達成の度合いを示す指標。
・民間の経営手法は少し遅れて(廃れはじめてから)行政や大学に入ってくるため、うまくその経営手法は機能しないし、次の経営手法がどんどん入ってきて、導入・幻滅を繰り返す
・金は出さないが口は出す行政が大学の多様性を奪っている
・日本はアメリカとは違う
・この国には、失策の責任者がいない
・この国の教育改革は小道具の変更に終止している
・理論武装するためのエビデンス集めが蔓延
・60万人調査も全然調査の手法を意識せずに進められている様子

これまでの多くの大学改革は、思いつき・思い込みをベースに設計され、やること時代に意味をもたせ、シラバスやKPI・PDCAといった小道具を導入することで現場を混乱させてきたというのが趣意。
(しかも結局形骸化して、実質化の改革を図るという始末)
原因として、それらの改革に乗っかった大学人にも問題があるとの指摘はごもっともだと思います。

著者はこれらを総括した上で、以下のようにまとめます。
もっとも当然のことながら、政治や行政の失策について指摘することと並んで大切なのは、大学と大学人がそれに対してどのように向き合ってきたかという点について改めて振り返ってみることでしょう。実際、幾つもの止むにやまれぬ事情があったにせよ、これまで大学側が「大人の事情」を優先させて示してきた対応の中には、子どもたちの未来を奪うことにつながりかねないものが含まれています。 いま必要なのは、そのようなもっぱら「大人たちの都合」だけで進められてきた従来型の改革について徹底的に問い直していくことでしょう。それは、取りも直さず、大学と大学教育が抱えている問題に関して、大学関係者が自分の頭で考え抜いた上で結論を出していくことに他なりません。そして、その結論については借り物ではない自分たち自身の言葉で表現していかなければなりません。実際、そのようにして、「大人げない話」をあえて口に出すことを抜きにしては、これから大学という場で学ぶことになる子どもたちにとって何が本当に必要になってくるのかという問いに対する答えの姿は見えてこないはずなのです。
大学は、あるいは学校は、子どもたちは、一様ではありません。
だからこそ、状況に即した対応なり対策が必要で、それは紋切り型のトップダウン式の改革では見当違いの結果を生むのは仕方のない事のように思います。
いかにしてボトムアップを促すのか、そういう発想で教育を捉え直す必要があると思います。
もし多くの人がこの「現場からのボトムアップ」を願うことができたら、その時教師と生徒の信頼関係が構築され、また地域と学校の信頼関係も整い、故に国としての人材育成も多様な、柔軟な、しなやかな形態を取れるのではないでしょうか。
優秀な指導者とは、ひょっとしたらボトムアップを促せる指導者なのかもしれませんね。
名ばかり大学生(河本敏浩、光文社新書)

この観点から考えると、刈谷氏が『教育改革の幻想』であとがきに書いていた「教育行政」を地方に委ねる、ということの重要性が理解できてくる気がします。
教育改革の幻想(刈谷剛彦、ちくま新書)
すべてを現場に任せるのではなく、現場周辺で色々と試行錯誤をしていく、そして大本の文科省が地域ごとのネットワークを形成して国としての共有を図るというのがいいのではないか。
とはいえ、これも理想論です。文科省が予算を地方に移譲するなど考えにくい。
省益と反するでしょうから。
だから、せめて大学だけは、うまくできないもんでしょうかね。
いや、うまくやるためにはやっぱりお金が必要だから、お上への忖度はなくせない。
どうも八方塞がりな感じになってしまった。どうにかうまくやる方策がないものだろうか…。

この本とその姉妹編である『50年目の「大学解体」20年後の大学再生』も近いうちに読んでみたいと思います。


   

辞令交付式への違和感(みんなよく参加するなぁ)

 今日は4月1日。  我社では辞令交付式が行われました。  そのため、土曜日ですが、人事課員として出勤しました。  明日も仕事なので、12連勤となります。   人事課の闇ですね。  それはさておき、辞令交付式に関して、毎年違和感を持ちます。  それは、お礼を言われる側が、何故かホ...