教室内(スクール)カースト(鈴木翔、光文社新書)


教室内(スクール)カースト(鈴木翔、光文社新書)』を読みました。
面白かったです。
読んでいると、「あー、こういうのあったなぁ」という点が多々あります。
自分の過去を振り返ざるを得ません。
そして、自分も一部ではこういう序列形成に関与していたことを認めざるを得ません。


著者は、アンケートとインタビューを通じて、スクールカーストの構造を解明しようとします。
そして、出てきた答えは「生徒」と「教師」は同じ「スクールカースト」という序列を、前者は「権力」の階層とみなし、後者は「能力」による区分け、と見ていることがわかりました。

また、スクールカーストが「下位」の生徒には劣等感や屈辱感を与える一方で、「上位」の生徒にも上位カーストに属するものとしての義務感のような重苦しさを与えるという、両者への負の側面も解説され、単純に上位のものが優遇されるものでないことも示されています。
(それでもやっぱり「上位」のほうが何かと楽しそうですが)

ではどうすればそうした階層・序列をなくすことができるのかといえば、これは学級制度自体に伴う現象であるがゆえに、教育システムの大幅な改修が必要になりそうだと思われます。
それを鑑みた上で、著者は「当事者ができる対応策」を幾つか上げていますが、これがとても優しい印象。
特に「学校は社会に比べればよっぽど複雑」という助言は、かなり当事者(特に下位に属する生徒)を助けるのではないかと思います。
個人的にも学校というのは、「同じ年」「近い地域」の子どもたちが「10年近くも」同じ集団に属して生活の半分近くを捧げなくてはならないという、大変特殊な場所だと思います。
個人的な差異が少ない集団であれば、当然「少ない差異」の中の序列を作ろうとするのが集団です。
ましてや年齢も地域も近いのであれば、「素質」「才能」「人間関係」と言った「どうしても差が生まれるような要素」で序列を作るのは全く違和感を感じません。
しかし、社会に出れば、そういう軸で個人をソートすることは(一応)ありません。
(もちろん大きなくくりで、上級国民・下級国民なんて言葉ありますが)
適材適所とまでは行かないまでも、「まぁ我慢できる居場所」を多くの人が獲得できます。
だから、無理してまで学校に行かなくていい、という対応策もやはり至極真っ当だと感じます。

この辺は、親も理解しておく必要があるでしょう。
別にスクールカーストに疲れてしまうことは、異常ではないし、どんな理由にせよ、学校に通えないから社会に通用しないわけではない。
(例えば幸徳秋水も幸田露伴も学校を卒業していませんしね)
むしろ学校と家庭しか世界のない子どもにとって、学校が苦痛のときに、家庭でも「学校にいけ」という圧力が働いたなら、子どもはおかしくなっても少しも不思議ではないでしょう。

しかし、もしスクールカーストのような序列をなくすことを目的とするならば、本当に私たちには何ができるだろうか。
そもそも序列意識を私達からなくすことなどできるのでしょうか。
著者も「スクールカーストを意識しなかった人たち」の意見を聞く必要があると指摘していますが、本当にその通りだと思います。
もし序列を意識しない人がいるとするのであれば、その人はどういう世界を見ているのだろうか。

あるいは、それはアルプスの少女ハイジの主人公・ハイジのような人なのかもしれない。
なるほど、地球上のみんながハイジのようになれば、世界は平和でしょう。
ということで、道徳の時間にみんなでハイジを観るってのはどうでしょうか?

 

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