ラベル 美術史 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 美術史 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

【読了】春画の楽しみ方完全ガイド(白倉敬彦監修、池田書房)

『春画の楽しみ方完全ガイド』(白倉敬彦監修、池田書房)を読了。

同じシリーズの「西洋絵画」「日本絵画」に続き、3作目。
【読了?】西洋絵画の楽しみ方完全ガイド
※日本絵画はまだ記事にしてなかった…

本作は前のシリーズよりも登場する絵師が少ないため、一人の絵師の複数の作品を紹介する形でした。
ただ、本作の楽しみ方の紹介に伴って、絵師の系譜が追えるという構成は変わりません。
これから春画を楽しもうと思う人には大変良い本です。

もちろんこの本で主要な春画のすべてを網羅しているわけではありません。
ただ、春画鑑賞の第一歩には大変有意義な本だと思います。

「うまい・へた」がそのまま「いい・わるい」にならないという点が、春画もやはり美術品だなぁと思わせてくれます。
私の場合には、「いい表情」の作品に魅了されるのだということもわかりました。
ですから前半で紹介される墨摺りの作品の中でも、非常に清々しい表情の作品などは見ていて「いいねぇ」と思わずつぶやいてしまいます。
しかし、逆に表情の無い春信の作品も何考えてんだかわからん作品も好きなのが自分でも不思議です。

それにしても、彫る人は本当に凄いです。
毛の一本一本を浮かび上がらせるように周りを掘っていくわけですよね。
ドットとかだと涙出てきそうです。
当時の彫技術は世界一だったと別の本で読みましたが、だとすると当時の日本人(しかも庶民)の美術への関心というのは、現代人よりもよっぽど深くて広かったのかもしれません。

表情があっていいなぁと思った作品は特に以下の作品です。
※画像はいずれも同書からの引用

菱川師宣 欠題組物Ⅰ 第九図(P66)
吉田半兵衛 うるほひ草(P86)
鳥居清長 袖の巻 四(P126)
鳥居清長 袖の巻 六(P126)
逆に、顔を隠しているのもいい…(矛盾してますね)

喜多川歌麿 歌満くら 十(P130)
喜多川歌麿 歌満くら 七(P15)
歌川国芳 花以嘉多 中、第二図(P180)
歌川国芳 華吉子見 地、第二図(P182)
顔が見えないのに、なんとなく心情がわかってしまいそうなのが面白い。
書き入れの解説のおかげということもあるのでしょうけれど、力の入り方とか、仕草とか、全体から伝わってくるものがあるのだと思います。

前にシャネル銀座店の春画展に行きましたが、また行きたくなってしまいました。
  

【読了】美術館で愛を語る(岩渕純子著、PHP新書)

『美術館で愛を語る』(岩渕純子著、PHP新書)を読みました。

「はじめに」と「終わりに」にすべての言いたいことの9割が詰められているように感じる本でした。
「自分とは異なる価値観に対する寛容性をはぐくむのが美術館の役割」という意見には賛同いたします。

美術鑑賞をどう教育に活かすのかという命題に悩む教師たちに対して、彼女は斬りかかります。

ーー美術作品とは、理解できないことをどう教材にしていいのかわからないのではなく、理解できないということがあるということを学ぶための教材なのだ。
ーーそして、他人とはむしろ違った印象を持つことを求めるための教材なのだ。

こうした寛容性についての指摘から、ヒトラーの話にまで展開していくところに、著者の強い美術愛を感じます。
たぶん彼女は本気で怒っているのだと思いました。
不寛容性とそうした態度の引き起こした歴史的残虐行為に対して。

ーーー

本書はほとんどが著者の旅行記のような形になっています。
そして、美術の本ですが、食べ物の話が多いです。
著者は、その作品の蔵されている美術館に行くことの重要性を身体的あるいは霊的な感覚をベースにして説いています。
全身全霊を用いて作品を鑑賞する際に、場としてのその美術館特有の空気が必要だと言うことだ、と私は理解しました。
そうした美術館を作るための思想というか前提となる価値観のようなものが、食べ物とつながっていると言いたいのかもしれません。
多分、食べ物と美術館は肉体や思想、文化、その他諸々の物理的な条件(気候や地勢)を媒介してつながっているのです。

また、美術の世界の裏側紹介として、社交の大変さを説明するくだりなどもありました。
社交界では個人としての資質(見た目、度胸、会話力など)が求められるようで、なかなかにしんどい世界のように思われます。
たぶん訓練だけではどうしようもない世界なのでしょう。
(もちろん、訓練しないとどうしようもない世界でもあるのでしょうが)

世界中のめぼしい美術館を紹介する本なのに、本書を読んだ後には、むしろ近所の美術館に行きたいなぁと思ったのが不思議な感じでした。
先日読んだ、『美術館へ行こう』(草薙奈津子著、岩波ジュニア新書)の著者が館長である「平塚市美術館」に猛烈に行きたくなりました。
【読了】美術館へ行こう(草薙奈津子著、岩波ジュニア新書)

 

【読了】屏風と日本人(榊原悟著、敬文社)

『日本人と屏風』(榊原悟著、敬文社)を読みました。


ページ600近い大書です。
しかもずーっと屏風について。
こんなに情熱的に屏風を解説する本が世の中にあるとは、驚きです。
(あとがきでは、原稿用紙に鉛筆書きとも書かれていてさらに驚きました)

そもそも「なぜこの本を手に取ったか」というと、美術展でみる作品になんとなく違和感を感じていたからです。
というのも、美術館に行くときには、だいたい予習として目玉作品の解説に目を通してから行きます。
そうすると、現物を見たときに、なんとなく馴染めない感じを持ってしまうのです。
色や質感については、どうしたって現物を見ないとわかりませんから、たしかに「見てやったぞ」という充実感があるのですが、なぜかモヤモヤっとしたものが心に残るまま美術展をあとにすることが多々ありました。
なぜか?と考えてみて、ひょっとしたら「屏風にかかれているから」ではないか?という仮説に至ったのです。

書籍等で紹介される屏風の多くは、しっかりと広げられ、1面の絵画のように紹介されています。
しかし、現物はあくまでも屏風であり、曲げて立たせる調度なのです。
つまり、折れ曲がった絵を見ることになります。
ここに大きなギャップが生じ、もやもやを生むことになっているのではないか?ということですね。

私の感覚としては、「1面の絵」としてみたほうが美しく感じています。
でも、長い歴史の中で様々な絵が”屏風”というキャンパスに描かれてきた以上、そこには私の知らない美しさがあるのに気づいていないのではないか?そんな風に思ったのです。

そして、普通に見ているこの屏風ですが、「そもそも屏風って何なの?」「なんでみんな屏風に描いたの?」「何のために屏風が作られていたの?」という疑問も湧いてきました。

---

本書は、上記の疑問について、多くを答えてくれています。

  • 屏風とは、中国において風を避けるための衝立として生まれたらしいこと。
  • 中国から朝鮮を経由して日本に伝来したらしいこと。
  • そのうち日本製のものを逆に海外に送り出していたこと。
  • 屏風が祭祀において空間を仕切ったり、背後を飾ることに用いられたこと。

などなど。

海外から来たものに、日本のオリジナリティを付与して輸出するようになるというのは、現代にも通じるものがあって面白いですね。
また、日本の屏風の特徴として、金・銀に極彩色の絵を描いた派手さが挙げられていましたが、日本人は昔から派手派手しいのが好きなのですね。
この辺は奇想の系譜や奇想の図譜を読んでいただけるとよく分かるように思います。
(あと、黄金の国ジパングなんて呼ばれたのも、金屏風が出回ったからでは?なんて想像してしまいますが、Wikipediaには平泉の中尊寺金色堂がモデルとありました。当時、奥州では砂金がたくさん取れたというのは知りませんでした)
【読了】奇想の図譜(辻惟雄著、ちくま学芸文庫)
【読了】奇想の系譜

さて、私が知りたかった「”屏風絵”として屏風の絵を楽しむ方法」についてですが、本書はこれについて、別書『日本絵画の見方』(榊原悟著)を当たって欲しいとの記載がありました。
ただ、その一端として、「富士・三保松原図屏風」(狩野山雪筆、静岡県立美術館蔵)を例に「折り曲げることで、富士山の傾斜がきつくなる」など、絵から受ける印象を変化させることができることを紹介しています。(P11)

おそらく、画家たちは屏風に描くことが決まっている以上、”屏風絵”としてどう見られるかを計算して描いたはずです。
果たしてその視線で見るならば、これまで見た屏風はどう見れるのか、改めてみたいという思いに駆られています。
ぜひ、もう一回「燕子花図屏風」(尾形光琳、根津美術館蔵)を見に行きたい、その気持ちが高まっております。
【鑑賞】尾形光琳と燕子花図@根津美術館

 

子どもたちに美術鑑賞の楽しみを

理系以外に大学で勉強する必要がどこあるのか?というのは、私が大学へ進学するにあたって考えていたことです。
大学を卒業して10年近く経ちますが、まぁなんと見識の狭いことかと恥ずかしくなります。
いろいろな本を読んでみれば、理系でなくても大学に行く意義は非常に大きいことに気づきます。
特に、美術の世界を覗いてみると、大学教授の先生方や美術史家の先生の功績は非常に大きいと思います。

どう貢献しているかといえば、作品の凄さに何らかの影響を与えている、という意味ではなく、庶民が美術を楽しむのに非常に役立つ知見を数多く提供している点が挙げられます。

素晴らしい作品は、たいてい何か別の素晴らしい作品(作風)に立脚しているものです。
あるいは、そういう流れからではなく、彗星の如く飛来した天才もいるでしょう。
いずれにしても、歴史という基準を知らずしては、美術の面白さは半分近かく失われるはずです。
どんな作品を師としたのか、そしてそれをどう越えたか、どんな時代背景で書かれたか、何を意図しているのか、こういった問について、専門の教授や美術史家たちが時間をかけて推察した仮説や結論は、様々な要素と絡み合って私たちに迫ってきます。
大いなる伏線回収を美術史家の皆さんはされているのだと言えましょう。
このことに気づいたとき、私は美術鑑賞の楽しさに目覚めました。

私個人は、そもそも絵心というものが欠落しており、小中高と美術の授業がからっきしだめでした。
大概、技術を持ち合わせない実技の授業は辛いものです。
音痴の音楽、足の遅い体育、不器用な家庭科、いずれも苦痛でしょう。
私にとっては、美術はそれらと同列のものでした。
すなわち、絵心なき美術ですね。

しかし、自分の能のなさを棚において振り返るならば、どうして美術が実技に重きをおいていたのか、それが気になります。
(この思いの半分は、絵心ない者の僻みです)
もっと鑑賞に力を入れても良かったのではないか。
実技としての美術は、興味のある子が放課後に習えばいいのではないか。
そんなことを思います。

芸術は、その存在にすでに価値があります。
芸術との向き合い方は、自由だと思いますが、ある作品と向き合って自分が下した価値と世間が下している価値のギャップを見つめるという授業も、なかなかおもしろいのではないでしょうか?
こうした「自分はどう面白いと思ったのか」を掘り下げる練習をしておくと、芸術鑑賞のハードルを下げることにつながると思います。
また、鑑賞に上手い下手はなく、自分が面白いと思えるかどうかが重要である、という気づきは、日常生活においても自身を助ける気づきだと思われます。
面白いと思えない理由も含めて考えることができるとしたら、多分もう大学入学資格は与えてもいいのではないかとさえ思えます。

「美術鑑賞なんて教えて何の意味があるのか?」と問われれば、「様々なきっかけを与えることができるのではないか?」と答えたいです。
芸術に興味を持てば、歴史に興味を持つようになります。
また、言語や文化にも関心を持つことでしょう。
題材に目が向くならば、自然科学に興味を持つ子も出てくるかもしれません。
これが役に立つかどうかはまた別のお話ですが、少なくとも少しだけ人生に幅ができるはずです。

初等教育においてはひとまず絵を描くという身体的な授業があることは構いません。
友だちと楽しく、のびのび書けばいいのです。
しかし、中等教育以降においては、ぜひとも鑑賞にも、もう少しウェイトを置いていただければ、子どもたちの将来が、より豊かになるのではないかと、そんな期待をしています。
(とはいえ、私が中高生だったのは、もう20年近く前なので、今はもう授業も変わっているかもしれません)

【聴講】燕子花図と洛中洛外図(奥平俊六さん)@根津美術館

東京の南青山にある「根津美術館」で開催されている「尾形光琳の燕子花図」に行きました。
根津美術館
初めて根津美術館にお邪魔しましたが、庭が広いんですね。
庭の池にはたくさんの燕子花が育っており、4月下旬から5月上旬にかけて見頃になるのだとか。
そのタイミングで来ればよかった。
場所柄か、外国人の観光客も多かったです。
おいでになる方は、庭の散策も含めて、時間に余裕を持っていかれることをおすすめします。

一面の燕子花。咲いてるときに来たかった…。
さて、お目当ては『燕子花図屏風(かきつばたずびょうぶ)』(国宝、根津美術館蔵)ですが、その前に、イベントに参加しました。
イベントとは、大阪大学名誉教授の奥平俊六先生による「燕子花図と洛中洛外図」という講演のことです。
無料ということもあって、初めてこうした美術関連の講演会に参加しましたが、定員130名の会場は満席で、大変な賑わいでした。
皆さんメモを取りながら熱心にメモを取られています。
奥平先生が燕子花図のモチーフのところで、「から衣 きつつ慣れにし つましあれば はるばる来ぬる たびをしぞ思う」をうっかり失念してしまったときなど、聴衆から返答があって驚きました。
皆さん大変造詣が深いようでいらっしゃいます。

奥平先生の話は、大きく(1)「燕子花図」、(2)「洛中洛外図」についての講演とレジュメにはありましたが、ほとんど燕子花図パートについての話で、しかも燕子花図はあくまでも導入で、「藤袴図屏風」についての話に多くの時間が割かれていました。
そもそも、この時代の美術作品においては、能=謡曲の概念が非常に重要で、様々なモチーフが謡曲に存在し、そこから絵画に表現されたと言うことを伺いました。
藤袴図屏風についても、モチーフは謡曲にあり、かつ当時起きた紫衣事件を通じて表現したかったのではないか、というような話をされていました。

この話のポイントとしては、画家にこうした謡曲の知識やそのモチーフを風刺だったり、時代のイベントにつなげるということを、画家が単独でやったわけではないということ。
例えば、上の藤袴図屏風で言えば、宗達に書かせたのは誰か?ということです。
紫衣事件に近しく、かつ、叢蘭秋風という言葉をよく理解する者だということではないか、つまり、非常に尊い人なのではないか、と奥平先生は推測します。
(ちなみに、実は叢蘭が藤袴を指すというのがポイントです)
こういう話を聞くと、今後「誰が発注したのか?」ということも気にかけることができるようになりますね。

と、こんな話が90分も続きます。
へぇ、なるほどなぁ〜という感じ。
こんな風に90分もまるまる楽しそうに美術の話ができるってのは、すごいことだなぁと思いますし、そのベースには何十年とかけて作品と歴史と文献をつなげていく仕事があるのでしょう。
素晴らしいことだと思います。
ところどころ笑いどころもあり、あっという間の90分でした。

短かった「洛中洛外図」においては、「景観指標」というものも知ることができました。
景観指標とは、それがあることで、いつごろのことを描いたのかわかるという目印のことで、例えば京都で言えば二条城の天守が移動しているかどうかで寛永3年の前後どちらなのかがわかるそうです。
そういう豆知識を聞くと、ちょっとおもしろいですよね。
ぜひとも、洛中洛外図を片手に京都中を歩き回りたいと思いました。


本と違って、人の話を聞くと、「余談」があるのが大変おもしろいですね。
一見つながらない話の展開が、新しい発想や発見を生むように感じます。
本だけでは行き詰まることが、講義によって新しい理解をつかむことに繋がることがありそうです。
大学の講義はつまらない、という話しを聞きますが、ひょっとしたら、聞く側にも多少問題があるのかもしれませんね。
実際、大学の先生の話は、私にはとても興味深い話ばかりです。
あるいは、たまたま私の運がいいのかもしれませんが。

辞令交付式への違和感(みんなよく参加するなぁ)

 今日は4月1日。  我社では辞令交付式が行われました。  そのため、土曜日ですが、人事課員として出勤しました。  明日も仕事なので、12連勤となります。   人事課の闇ですね。  それはさておき、辞令交付式に関して、毎年違和感を持ちます。  それは、お礼を言われる側が、何故かホ...