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知恵とやさしさに満ちたイスラーム|【レビュー】イスラム――癒しの知恵(内藤正典、集英社新書)

本記事では、

イスラーム法学者・中田考先生の入門書として|【レビュー】イスラーム 生と死と聖戦 (中田考、集英社新書)

で紹介した、『イスラム――癒しの知恵(内藤正典、集英社新書)』について書きたいと思います。

―――

イスラームって窮屈?

イスラームに限らず、宗教とはまず、意識的にせよ無意識にせよ、信じることから始まる。

イスラームにおいては、神と天使を信じ、預言者とクルアーンを信じ、来世と運命を信じる。

神と天使を信じるからこそ、預言者とクルアーンが信じられ、それゆえに来世と運命を信じることが出来る。

来世と運命を信じることで、イスラームは人々に規範と、その規範内における自由を与えている。


この世界で起こることは全て、神の思し召しである。

良いことも、悪いことも、全て神の思し召し。

それに対してどう解釈して、どう行動するかは、個々人に託されている。

イスラム教徒たちにおいて、その解釈・行動の指針となるのが神からの啓示であるクルアーンと預言者の現行録であるハディースだ。

それらに直接的・間接機に示されている指針に則って取った行動の結果として失敗したとしても、それはそれでポイントがつくというのがイスラム教である。

失敗もまた、神の思し召し。

しかし天国に近づくため、神の意志を推し量って行動をとったことにポイントがつく。

現世においてはマイナスの結果かもしれないが、来世で天国に行くことには近づくと考える。


生きていれば選択は日常茶飯事にやってくる。

何を食べるか、何を話すか、何をするか、どう過ごすか…などなど。

そうした選択の度にムスリムたちは指針に沿って考え、行動する。

なぜなら来世を信じており、来世に向けて少しでも近づける選択を取りたいから。

だから、来世を信じないならイスラームの戒律など守られるはずもない。

そもそも守る意義を見出せるはずもない。

現世での実害をいかに減らすかということに重きを置く方が合理的だ。


私たち日本人から見ればとても窮屈に見える。

でも、本当はそうではない、ということをわかりやすく教えてくれるのが『イスラム――癒しの知恵(内藤正典、集英社新書)』という本です。

この本は、現代イスラーム地域研究者である非ムスリムの著者が、イスラームにどのような生きる知恵が内蔵されているか、イスラーム地域での実際の体験を織り交ぜながらとてもわかりやすく記述しています。


戒律はやさしさ

イスラームは、人を弱いものと捉えている。

間違いを犯す存在、神から離れうる存在、それこそが人間だと規定する。

だからこそ、その誤りを起こさないようにする方法もセットで規定されている。


例えば、礼拝は、神から離れやすい人間が、1日に何度か神を思い出すことを助けるだろう。

また、婚前交渉の禁止は、公正な相続、結婚への動機づけ、感染症のまん延防止など、家族や親族、そしてもっと広い共同体の存続に寄与するものも考えられる。


施しやすいシステム

また、人の尊厳にも配慮されているのがイスラームのいいところだ。

イスラームでは、格差は当然あるものとして捉えられており、故にその格差を埋めることが良いと定める。

富める者は、施しをしなくてはならない。

しかし、面白いのは、この施しは、神への行為となるのである。

また、施しを受ける側も、神から施しを受けたものとなる。

つまり、善行は、神を経由して施されるのである。

与える方は、神様に対して差し上げて、来世へのポイントをもらう。

受け取る方は、神様から施されるのだ。


これなら与える方も気兼ねなく与えられるし、受け取る方も後ろめたさを感じることが少ない。

つまりみんながが施しやすく、施されやすい仕組みになっているのだ。


―――


危ない宗教なら16億人も信じない

上のような、イスラームが内包している機能について、本書は肯定的に紹介しています。

私たち日本人の社会は、イスラーム社会とは全然違うので、参考にできない部分も多いかもしれませんが、それでも本書を読むことでイスラームへの眼差しは少し柔らかいものになるのではないかと思います。


イスラームは決して危ない宗教でも怖い宗教でもないというのが私の考えです。

むしろとても合理的というか、理に適っているというか、無理がなく、よくできた宗教だと思います。


だからこそ各地域の言語や文化を残しながらと、人々は徐々にイスラームに入信していきました。

今では世界に16億人と言われていますが、そのわけの一端がこの本で理解することができると思われます。


イスラームに興味がわいた方は、以下の本もおすすめです。

漫画+対話形式でイスラームがどんな宗教なのかが学べます。


 
イスラームがどういう論理で物事を捉えるかが知れます。
そのことから、転じて私たち日本人を含めた世俗主義の世界が、どんな神をあがめて生きているのかも客観的に浮かび上がらせています。

イスラーム法学者・中田考先生の入門書として|【レビュー】イスラーム 生と死と聖戦 (中田考、集英社新書)

 


大変わかりやすい。

これまで中田先生の本はいくつか読んできましたが、中でも一番わかりやすく自身の主張を説明されていると感じます。
語りかけてくるような文体のため、講義を受けているように感じられ、言葉がスッと飲み込める(ような気が)します。

イスラームの論理 (筑摩選書)帝国の復興と啓蒙の未来(太田出版)増補新版 イスラーム法とは何か?(作品社)カリフ制再興 ―― 未完のプロジェクト、その歴史・理念・未来(書肆心水)などなど、面白い本はいくらでもあるのですが、それらの本を読む前に、一度本書を読んでおくと理解しやすいのではないでしょうか。

中田先生の言う「カリフ制」とは、人による支配からの人々の開放し、法による支配を実現することを意味します。
すなわち、人の作った法律は廃棄する。
ゆえに国境もなくす。
人・物・資本が自由に行き来できるような、自然権が当然に行使できる共同体の実現を目指すものです。

本書を読むとどうして著者が「国境の廃絶」にここまで執着するのかがわかると思います。
自然法に従えば、人はおかしな世界からは離れ、居心地のいい世界に行くことができる。
おかしな世界からはどんどん人がいなくなり、淘汰されていくのに、領域国民国家というシステムがあるからその浄化システムが機能せず、富の偏在がうまれる。
こうした富の偏在をなくす方にイスラームは指向しています。
こう聞くと、格差を減らして、うまいことみんなで助け合って生きていこうよ、という風に諭している宗教だと思えてこないでしょうか。


本書では、著者が健康保険に加入していないことにも触れられていました。
多くの人は「え、この人、頭おかしいんじゃないの」と感じると思いますが、背景を知れば、「筋の通った話」となります。

これは何も健康保険のエピソードに限った話ではなく、イスラームに関しては「背景を知れば」ということが往々にして不足している気がします。
色々な情報が、悪いものとしてとられるように伝えられてしまっているように感じられるのです。

イスラームというと何かと「テロ」や「自由がない」というイメージを持ってしまいがちですが、よくよく知っていくと決して自由がない、ということはないし、テロにしてもなぜそうしたテロが引き起こされるかの問題提起はあまり聞きません。

テロはよくない。
そんなことは子どもでもわかります。
でも、なぜテロがなくならないのか?が議論されないのかについては、あまり関心を持たれているようには思えません。
たぶん私たちの恵まれた生活が、テロを起こす人々の暮らしに支えられているのを意識的にか無意識的にか感じているから、争点にできないのではないかと私は思っています。

もし人々が自由に移動できたなら、テロを起こさざるを得ないような場所からは逃げられるのに…それを妨げるのが領域国民国家というシステムだと著者は主張します。
とはいえ、なかなか領域のない世界というのもピンとこない。
この辺は、イスラム教徒になればわかるのだろうか…たぶんイスラム教徒になってもわからない気がします…。



本書を読んでイスラームに興味を持つ人がどれくらいいるかはわかりません。
私の印象としては、残念ながら、あんまりいないんじゃないかと思います。
イスラム教というのは、日本人にはやっぱりちょっとわかりにくいというか、腰を据えて話を聞かないとどこがいいのかわからない気がします。
(いや、腰を据えて聞いたうえでいいなぁと思っても、その正しく理解できているかはわからないのですが…)

本書は「イスラム教いいですよ~」というスタンスで書かれてはいません。
イスラームではこう考えます、イスラームはこういう原理で回っています、という事実紹介がほとんどのため、すでにイスラームに関心がある人向けの本という印象です。
なので、あらかじめイスラム教に関心がないと、全然響いてこないように思われます。

信じる者は救われるじゃないですが、関心がなければ響くものは少ないってのは、イスラム教に限らず普遍的なことですね。
でも、面白いもので、信じるか信じないかで見え方は180度異なってきます。

例えば「1日5回の礼拝が義務である」という戒律も、イスラム教を信じない人には自由を制限する重荷でしかないと思うでしょうけれど、信徒にしてみれば義務であるおかげで自分の信じるものを1日に5回も確認できるわけです。
この思い出すシステムが、社会生活に実装されているというのは、強いと思います。
1日に5回、自分が使えるべきは神だけだと思い出すのです。
思い出すことで、楽になれる。
楽になれる上に、天国に行ける。
なんて宗教なんだろう…、と感心せずにはいられません。

イスラームのいい面を知りたい人には、イスラム―癒しの知恵 (内藤正典、集英社新書)がおすすめです。

イスラム教から世界がどう見えている?|【レビュー】一神教と国家 イスラーム、キリスト教、ユダヤ教 (内田樹、中田考、集英社新書)

 


 内田樹先生と中田考先生による、イスラム教をメインテーマとした対談をまとめた一冊。

 内田先生が一般的な日本人を代表するような考え方・疑問を提示し、それに対して中田先生がイスラームの視点から回答をするというスタイルで展開されています。

 そのためイスラームに興味のない人でも読みやすく、「へぇ、イスラームってこういう考え方をするのか…」ということが、抵抗感なく飲み込めるような構成になっているように思えました。

グローバリゼーションと領域国民国家の維持

 中田先生がぶっ壊そうとしている「領域国民国家」(領域を区切り、その中に国家を作り、領域内の人間を国民ととらえるシステムのこと)という考え方に対して、内田先生は領域国民国家のよきところをどうにかメンテナンスしながらやっていけないか、というスタイルのため、たぶん多くの日本人は内田先生に憑依しながら中田先生に対峙することになると思います。
 
 私たち日本人は、島国に生きており、現在の「日本」という国が海という領域で区切られていることから領域国民国家というシステムにあまり抵抗がありません。
 しかし、海外に目を向けると、宗主国の都合で作られた国境線によって人・物・金などのネットワークが阻害され、貧富の差を生み出しています。

 資本主義社会においては往々にして、中心と周辺を作り出し、周辺から搾取することで中心が富を独占するということが起こるわけですが、その中心と周辺の区切りに国境というものが大きくかかわっている。

 だからこそ、多くの人々がイスラーム的発想に立ち返ることで、国境がなくなり、独の自宗教的ネットワークで中東に大きなイスラーム共栄圏のようなものが復活(かつてはあった)することを恐れる国々がある。

 このイスラーム共栄圏のようなものの指導者としてカリフが復活する必要がある、この「カリフ制の復活」を目指しているのが中田先生。
 
 カリフとは、イスラム教の全体の代表者のようなもので、イスラム法を執行するのに必要な役職です。

 カリフは今いないのですが、がまた現れれば、イスラーム教徒は一つの共同体になれるかもしれない。

 だからカリフ制復活を訴えると、国によっては殺されかねないそう。

 中田先生は日本だからカリフ制を訴えることができるようです。

 なぜ殺されかねないのか?

 それは領域国民国家というシステムを守ることで援助を受ける人たちが政権を握っているケースがあるからです。

 「周辺」の国の中においても、国内で序列ができており、その序列を崩さないためのパワーが外部から与えられているということです。

 こうして領域の機能を維持するシステムが構築されている。 

 これが本書でも解説されている欧米のダブルスタンダードです。

 つまり、列強国は、中東以外の税を含めた様々な障壁を取り除いて人・モノ・金が何の阻害も受けずに行き来するグローバリゼーションを進める一方、中東のようなイスラーム圏においては逆に領域の区別を強めることで周辺国として維持することを図っているわけです。

多文化理解へのテキスト

 本書の中でも出てきますが、イスラームは「喜捨」を重んじます。2人のやり取りでこのことは、砂漠などの農産物の乏しい世界において衣食住は、「今、あなたが恵んでくれなければ死ぬ」というまさに生命線であり、そうした状況が日常のすぐそばに簡単に生じる、という環境から生まれたのではないかと分析されていました。

 共有しなければ簡単に死んでしまうことを、皆が共有していた。

 こうした土壌があって、一神教が生れ、イスラームが生れた。

  一方、内田先生曰く、日本では一夜泊めてほしいという旅人に一度断る文化があったのだとか。

 こういう話を読むと、イザヤ・ベンダサンの「日本人とユダヤ人」を思い出します。

 全然文化が違う。

 まるで理解しあえる気がしない。

  でもこの「理解しあえないくらい違う」ということを知ることから多文化理解は始まるのではないかと思います。 

 そういう意味では本書は多文化理解のとっかかりになるとともに、理解する方法論や姿勢をも提示してくれる良書だと感じました。

東洋哲学は説明ができない:【書評】史上最強の哲学入門-東洋の哲人たち(飲茶、河出文庫)



史上最強の哲学入門-東洋の哲人たち(飲茶、河出文庫)を読みました。
面白い。
相変わらずいろいろな作品からの名言をちりばめており、男の子ならクスリと笑いながら読める一冊です。
ぜひ姉妹本の『史上最強の哲学入門』も合わせて読まれることをお勧めします。
史上最強の哲学入門(飲茶、河出文庫)


東洋哲学の最大の特徴は、「説明することができない」ということです。

『インドで生まれた仏教が、中国でタオとして生き残り、日本に来て禅へと昇華された。東へ、東へと言葉や形を変えながら継承されてきている。』というようなことは言えても、中身については、説明ができない。
西洋哲学との比較はできても、「じゃぁ東洋哲学の真理って具体的に何なの?」と聞かれても答えられない。
なぜなら、それは「個人が体験すること」であり「個人が理解をすること」だから。
単純に書物を読めば「はい悟ったよ」とはならないので、説明のしようがない。
どうしてこういうことになるのか、それは、そもそもの真理へのアプローチに原因があるようです。

西洋哲学は、過去の哲学を壊しながら新しい哲学を作って真理に近づこうとする。
一方で東洋哲学はすでに真理を捕まえたところから、どのようにそれを知るか(理解するか)というアプローチの仕方を取る。
ということで、西洋哲学は究極の真理へと登りつめていこうとする「階段」の構造であり、東洋哲学は究極の真理から様々な解釈が裾を広げていくような「ピラミッド型」の構造といえます。

西洋哲学はそのため、言葉で表現しなくてはならない。
逆に言うと、言葉で表現できないものは扱えない。
一方、東洋哲学は、そもそも言葉で表現できないもの(教祖の体験)を教授・解釈していくため、上のような構造の違いが生まれるそうだ。
どちらが優れているということもなく、方向性の違いです。
(とはいえ、この方向性の違いが科学技術等の発展の違いを生むことになるわけですが…)

 西洋は、論理や知識というものを有効だと信じている。だからこそ、西洋はより高度な論理を組み上げることを目指し、西洋哲学は巨大な理屈の体系として発展していった。
 だが、東洋は、理論や知識というものをそれほど有効だとは信じていない。なぜなら、東洋にとって「真理」とは「あ、そうか、わかったぞ!」という体験として得られるものであり、そして、体験とは決して言葉では表せられないものであるからだ。そのため、「思考を磨き続ければいつか真理に到達できる。言語の構造物で真理を表現できる」といった幻想を東洋哲学は最初から持っていなかった。
 だから、東洋哲学は、理屈の体系はそっちのけで、「どうすれば釈迦と同じ『悟りの体験』を起こすことができるのか」、その一点だけに絞り、そこに特化して体系を洗練してきた。かくして、東洋哲学は「悟りの体験を引き起こす方法論(方便)の体系」として発展していったのである。
 このように東洋哲学は「とにかく釈迦と同じ体験をすること」を目的とし、「その体験が起きるなら、理屈や根拠なんかどうだっていい! 嘘だろうと何だろうとつかってやる!」という気概でやってきた。なぜなら、彼らは「不可能を可能にする(伝達できないものを伝達する)」という絶望的な戦いに挑んでいるからだ。そういう「気概」でもなければ、とてもじゃないがやってられない!
 そして、事実、東洋哲学者たちは、そのウソ(方便)を何千年もかけて根気強く練り続けてきた。(P340)

そんなわけだから、東洋哲学の場合、本当に仏陀とほかの哲人たちが同じ体験をしたのかはわからない。
ひょっとしたら仏教から禅への系譜は全く引き継がれていないかもしれない。
でも、すべて「個人の体験」だから、当人にさえ可否さえは判別できないし、ましてや最終的な境地は「普通の人」見わけがつかないのだから、他人にはどうしたってわかりようがない。
ゆえに、説明のしようがないのである

*

かなり冒頭に出てくる「世界は自分とは関係のない映画みたいなもの」という考え方は、なんだか不思議な感じがした。
しかし、それを悟ったからといって、いったいどうなるのだろうか。
なんとなく、むなしくなるだけではないかと思うのだけど、ひょっとしたらそのむなしさの先みたいなものがあるのかもしれない。

そう考えると、ある意味、学問と似ています。
・一般人からすれば、何のためにそんなに修行をするのか(研究をするのか)わからない。
・修行(研究)の先に何があるのかもわからない。
・わかったとしても、一般人には理解できないことが多い。
などなど。
結局、人間というものは「学問してしまう生き物」なのかもしれませんね。


 

読んでみると、すごく常識的な感じ:【書評】クルアーン(水谷周、国書刊行会)




クルアーン:やさしい和訳(水谷周、国書刊行会)を読みました。
アメリカへのテロやフランスでのテロなど、イスラム教には過激なイメージがあると思うかたも多いと思いますが、クルアーンを読む限りは、その過激さは一部の集団に限られるのではないかなという気がします。
それくらい、常識的な諭しがちりばめられた書です。

もちろん一神教ですし、21世紀を生きる日本人の私たちの目から見たら???と思う箇所も散見されますが、ほとんどのところは「うんうん、なるほど、そういうことね」「そういう考えもあるかもね」と感じられる内容です。
というか、私の目から見たら結構誠実な生き方を奨励しているという印象を受けます。

面白いなぁと思ったのは、以下のような世界観。

  • 人は弱く作られている(だからアッラーに庇護を求めよ)
  • 善悪は人間には判断できない(いやなこともアッラーからの啓示かもしれない)
  • この世は仮の世界(最後の審判のための徳を貯める時間)
  • 恵まれるものは忘れ、困難にあるものは嘆願する(常に信仰せよ)

ここだけ引っ張ってくると、何となく仏教にも近いものがあると思えてきます。
(人は苦しむ存在、善も悪もない、解脱…)



旧約聖書や新約聖書との関連も多数出てきます。
クルアーンでは、キリストも預言者のひとりと考えており、一神教ではあるものの、ユダヤ教やキリスト教徒の親和について、意識的に余地を残しているようです。
どのくらい関連しているかは、以下の預言者一覧をご参照ください。

イスラム教預言者一覧、()内の名前は、聖書表記。P614より

  1. アーダム(アダム、人類の初めであり、預言者の初め)
  2. イドリース(エノク、19:56,57 21:85)
  3. ヌーフ(ノア、ノアの箱舟で知られる)
  4. フード(エベル、アラビア半島南部のアードの民に使わされたアラブ人)
  5. サーリフ(アラビア半島北部のサムードの民に遣わされたアラブ人)
  6. イブラーヒーム(アブラハム、一神教を再興した預言者として重視される)
  7. イスマーイール(イシュマエル、イブラーヒームの長男でアラブ人の祖)
  8. イスハーク(イサク、イブラーヒームの次男でユダヤ人の祖)
  9. ルート(ロト、イブラーヒームの甥、パレスチナ北部カナーン地方の町サデゥームに遣わせられた)
  10. ヤアクーブ(ヤコブ、イスハークの息子、別名イスラーイール)
  11. ユースフ(ヨセフ、ヤアクーブの12人の息子の一人で美男子)
  12. シュアイブ(ナジュド地方窓やんの町の「森(アイカ)の人たち」に遣わせられたアラブ人)
  13. アイユーブ(ヨブ、忍耐の人として知られる)
  14. ムーサ―(モーゼ、ユダヤ教の「立法」を授かった)
  15. ハールーン(アロン、ムーサーの兄)
  16. ズー・アルキフル(エゼキエル、21:85,38:48に言及される)
  17. ダーウード(ダビデ、イスラエル王国の王、「詩編」を授かった)
  18. スライマーン(ソロモン、ダーウードの息子、エルサレム神殿を建設)
  19. イルヤース(エリヤ、6:85 37:123-132)
  20. アルヤサア(エリシア、紀元前9世紀、ユダヤ王国の混乱を収めた)
  21. ユーヌス(ヨナ、魚に飲み込まれた人として知られる)
  22. ザカリーヤー(ザカリア、マルヤムの保護者)
  23. ヤフヤー(ヨハネ、ザカリーヤーの息子で、洗礼者)
  24. イーサー(イエス、キリスト教の「福音」を授かった)
  25. ムハンマド(クルアーン中では、アフマド。61:6)

ということで、次は新約聖書物語を読んでみようと思います。
■旧約聖書物語(犬養道子、新潮社)
クルアーン物語とかないのかな。

 


史上最強の哲学入門(飲茶、河出文庫)



『史上最強の哲学入門』(飲茶、河出文庫)を読みました。
大変面白かったです。
西洋哲学史を、単純に時系列で並べていないところがいいですね。
大きなテーマ(真理、国家、神様、存在の4テーマ)に分けて哲学者が紹介されており、「あの人の考えとその人の考えはこうつながっているのか!」、というのが理解しやすく、非常にわかりやすい。
初学者でもわかるように、かなり端折っている部分もあるため、これ一冊で哲学を知ったつもりになるのは痛い目を見そうだけど、教養として哲学の流れや、概要や、つながりを理解するのには、大変役立つと思いました。

また、現代の我々の視点をもちながら説明してくれるので、現代社会とのつながりというか、私達が日常的な事柄を考える際にも役立つと思います。
例えば、愚衆政治の話(P137)や新自由主義の話(P204〜)などは、まさに身近なニュースとも関係するトピックスかと思います。
いやいや、実際のところ、民主主義にも大きな落とし穴がある。(中略)民衆が政治に興味を持って十分に吟味したうえで投票し、優れた政治家を選べばよいが、そうでない場合、民衆は政治家の思想や公約の内容も知らずに「なんか堂々としていて、リーダーシップがありそうだから」などのイメージで選ぶようになってしまう。そうすると、煽動政治家(もっともらしく語るのが上手なだけの無能な政治家)ばかりが支持されてしまい、国家がどんどん間違った方向に進んでしまうのだ。こういう状態を愚衆政治という。(P137)

という事態がすでに2000年前の古代ギリシャでも起きていたそうで、なるほど、人間というのはなかなか変わらないというのがよくわかります。

最後に存在について、ソシュールの記号論を説明しながら、このようにまとめます。
(前略)もし、あなたに、どうしても譲れない、自分にとって一番大切な「価値のある何か」が存在するのであれば、もしあなたが死んだら、その存在はもはや存在しない。あなたが見ている「世界」に存在するものはすべて、あなた特有の価値で切り出された存在なのである。だから、あなたがいない「世界」は、あなたが考えるような「世界」として決して存在しないし、継続もしない。なぜなら、存在とは存在に「価値」を見いだす存在がいて、はじめて存在するからである。(P344)
熱い…熱すぎる…「バキ」分が溢れ出しているのを感じます。

とは言いつつも、著者のテンションは、かなり軽いです。
「よろしいならば戦争だ」
「一向に構わん」
などなどのフレーズが散見されるといえば、「若者向きで、(誤解を恐れずいえば)男の哲学入門書と言える」ということの意味が何となくわかっていただけるのではないかと思います。

実は、本書には終い本として「東洋の哲学者版」もあるそうなので、近々読んでみたいと思います。

飲茶氏の本は、こちらもおすすめ→■正義の教室(飲茶、ダイヤモンド社)

  

一年有半・続一年有半(中江兆民、岩波文庫)



一年有半・続一年有半 (中江兆民、岩波文庫)を読みました。
面白かったです。
兆民先生はこういう本を書いていたのですね。
なるほど、幸徳秋水は完全に文体を引き継いでいます。

一年有半については時事の話が多く、なかなか進みませんでした。
難しい。
解説を読むと、なるほどそういうところを楽しむものかと関心する。
一緒に三酔人経綸問答の現代語訳を読んでいますが、現代語訳だと明治に書かれたものとは思えません。
付録の原文も現代語訳を読んだ後ということもあるのでしょうけれど、なかなか分かります。
そう考えると、多分この一年有半が難しいのでしょうね。

一方で、続一年有半については、大変分かりやすかったです。
以前世界十五大哲学で紹介されていた内容のほとんどが、続一年有半から引用されているようでした。
兆民先生(幸徳秋水、岩波文庫)
この続一年有半が兆民先生の絶筆となるのですが、本書はまさに兆民先生の集大成だったのだと思います。
内容はいたってシンプルで、物質(を構成する元素)は不変だが、精神は肉体より生じるものであるから死ねば消滅するという事で、それに伴って宗教や神話を木っ端みじんに退けていました。
この辺の知的な激しさは弟子の幸徳秋水にしっかり受け継がれていたのだなぁと思います。
帝国主義(幸徳秋水、岩波文庫)

ところで、本文とはあまり関係ないのですが、解説に面白いことが紹介されていました。
本書は非常にルビや校注が多いのですが、その点について訳者も解説で弁明しています。
そして、その理由に、一つの単語にいくつも読み方があって、その辺のニュアンスを楽しんでもらうということがあったようです。
例えば、「未曾有」に5通り、「正真正銘」に4通りの読み方があったのだとか。
あとは、「無害」というのが「無類」の意味だったりしたそうです。
それゆえに訳者は、あえて極力校注を入れたとのこと。
そして、ここには訳者に影響を与えた一言があったとのこと。
やさしいことのむずかしさをしることはむずかしい(里見弴、文章の話)
なるほど、わが身をよく省みたくなるお言葉です。
当たり前のように古典を楽しんでいますが、そこには必ず訳者、解説者の尽力があることに思い至ります。
こうした翻訳をしてくれる方がいるおかげで、私のような無学な人間でも尊い書物と交わることができるのですから、翻訳とは、誠に偉大な仕事のように思われます。
(欄外に曰く、英語教育の必要性ここに見つけたるか)
英語教育の危機(鳥飼玖美子、ちくま新書)

  

現代語訳 幸徳秋水の基督抹殺論(鹿砦社)



現代語訳 幸徳秋水の基督抹殺論』(鹿砦社)を読みました。
大変おもしろかったです。

キリスト教が、既存の宗教から名前を変えただけのものであることが、実に多くの歴史家が多くの著で述べてきたのかが分かります。
論理的に考えるなら、多分キリストはいなかったのでしょう、と思わせるに十分。
(もっと言えば、マリアも使徒もいなかったようです)
それにしても、相変わらずコテンパンです。
これでもか、これでもか、というくらいあらゆる議論にメスを入れていきます。
で、結論としては、こう。
論じてここに至ればもはや明らかである。基督教というのは、その根本の教義から枝葉の式典に至るまで、なんら独創の事物は有していないのだ。他の宗教から画然と卓越した基督教ならではの独特の色彩、などというものはなんら存在していない。すべてがまさに、古代の太陽崇拝や生殖器崇拝を起源に発生した諸々の信仰の、遺物にすぎないのである。すべてがまさに、印度・波斯・埃及・猶太・希臘・羅馬の、残飯やら飲み残しの酒ばかりなのだ。そういうわけで、もはや史的人物としての基督の肖像は、ますます薄くなるばかりである。(中略)基督教の依って立つ土台は、『無智』以外の何ものでもないのだから。(同書P142)

個人的には「聖書が信じられてきた」という歴史は変えようのない事実なので(それ自体が非常に野蛮なことのようにも思えてしまうのですが)、イエスの存在がまんま聖書の意義に左右するかは少し議論の余地もある気もします。
ただ、秋水先生も別にキリストがいようがいまいが信仰としては関係ないと明記しています。
そして、そのあとで「でも基督がいて、基督の伝説を信じる、という姿勢はおかしい」と続くわけです。
信仰が人々の生活に規律と平穏を与えるのなら良いのでしょうが、これまでの歴史を見れば、基督教はかんたんに教会の便利な道具になるし、しかも帝国主義ともつながります。
秋水先生としては、そこは見逃せなかったのかもしれません。
帝国主義(幸徳秋水、岩波文庫)

面白かった話を二三あげます。
・あらゆる信仰の根本にあるのは「生殖器崇拝」と「太陽崇拝」(命を生むことの偉大さに起因)
・十字架は男性を、丸は女性を表す昔から用いられる記号である(イースター祭の卵も女性を表している)
・12月25日を祝うのは、太陽崇拝の宗教では一般的。多くの行事がこの辺に集まる。それは、ちょうど冬至から3日後に日が伸び始める(太陽が死んで復活する。しかもちょうど3日)というところに起因している
・僧院生活はテラピウト教派そのもの
・初期基督教の飲み会は食人、近親相姦の場となっており、故にローマ帝国で多大なる迫害を受けた
・クリシュナ(インド神話の英雄。多くの人が「Crishna」と書いて表したそう。Cristnaと記載されているのを秋水先生も見たことがあるという)との類似性
などなど。

ーーー

死刑の前(幸徳秋水)と同様、本書も獄中で死刑を前にして書かれたと、訳者のあとがきには書いてありました。
手元に出典もなく、よくもまぁこんな書がかけることです。
それに、この方は高校中退の学歴なのに、どうしてこうも博学なのでしょうか。
私も、もっと本を読んで、色々考えなくちゃならんなと思わされます。

本書は、『死刑の前とかなり近い思想をベースに書かれている気がします。
(同じ人が書いているのだから、当たり前といえば当たり前ですね)
すなわち、両書は次の一言を言いたかったのではないかと思うのです。
科学的精神に適合せず、道理に協(かな)わず、批評に耐えず、常識と相容れないものが、どうして今日における倫理道理の主義や、安心立命の基礎になれようか?(同書P180)
つまり秋水先生は、この「科学的精神」でもって生と死を捉えることを奨励したいのです。
(とはいえ、『死刑の前』は1章しか書かれていないので、本当のところはもう誰にもわからないのですが)

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ところで、帝国主義の序には、キリスト教徒の内村鑑三が文をしたためていました。
二人は仲が「良かった」のだと思われます。
さて、内村鑑三がもしこの書を読んでいれば、果たしてどう思ったであろうか。
ぜひキリスト教徒としての感想(できれば反論)を伺ってみたいと思いました。


   

旧約聖書物語(犬養道子、新潮社)



旧約聖書物語』(犬養道子、新潮社)を読みました。
いやー面白かった。
旧約聖書ってこういう話だったのね、という感じ。
これは教養の書です。読んでよかった。
これを読んでおけば、欧米の人の名前の由来などもわかるし、キリスト教のベースもわかる。イスラム教のベースもわかる。
実際、著者も新約聖書とのつながりはかなり意識して書いたということでした。
次に読もうと思っている『新約聖書物語』も非常に楽しみです。
古事記物語(鈴木三重吉)』のユダヤ教版というと雑かもしれませんが、そんな感じです。
この本は阿刀田高の『旧約聖書を知っていますか (新潮文庫)』を読んだ際に参考文献として紹介されていたので購入したもの。
余りの分量に一度匙を投げたのですが、先日コーランを読み始めるにあたって再度本棚から出してきたのです。
(捨てなくて良かった)

阿刀田高の『旧約聖書を知っていますか』では「アイヤーヨ」(アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨゼフの頭文字)という言葉を覚えさせられて、それは本書を読むのにも役に立ちましたが、その大筋以外の各預言者の紹介だとか、名もなき家族の信仰の様子なども物語テイストで描いているところも本書の面白い特徴の一つです。
いやはや、非常に血の通った話ばかりではないですか。
3千年も前の話なのに、倫理的に「これは絶対おかしい」という点はあまり多くない。
むしろ周辺国のやり方の方が野蛮というか、蛮族というか、野性味の強い印象を受けます。
結局人間というのはそんなに変わらない、ということなのかもしれません。

ユダヤ教は砂漠や岩石に囲まれた不毛地帯だからこそ生まれた宗教だといいます。
そうですね、だからこそ「試練を与えるのも神」という視点がないと、生きていけない側面もあるのでしょう。
神も割りと理不尽だけど、それも含めて主の思し召しと思えるかどうか、というのが信仰だということでなのでしょう。
でも、それって結構厳しいですよね。
どこまでも果てしない、自分との戦いですから。
だから厳格な信奉者は人格的にも優れているという評価を得ることが多いのかもしれません。
立派な人というのは自分(欲望)を理性でコントロールすることができるということなのでしょう。
そういう意味では、どの宗派でも、尊敬を受ける人間というのは自分を律せる人、ということになるのかもしれません。

話は少しそれますが、内田先生が旧約聖書に関連することをブログに書いていたのでここでも紹介したいと思います。
http://blog.tatsuru.com/2009/06/18_1134.html
曰く、
ミスは「これが原因」と名指しできるような、わかりやすい単一の原因では起こらない。
「誰が有責者かを特定できない」からミスが起きるのである。
それは「私の仕事」と「あなたの仕事」のどちらにも属さない領域で起こる。
「オフィスの床に落ちているゴミ」を拾うのは「私の仕事」ではない。
私のジョブ・デスクリプションには「床のゴミを拾うこと」という条項はないからである。
だから、「私は『そんなこと』のために給料をもらっているわけではない」という言葉がつい口を衝いて出る。
そのような人たちばかりのオフィスはすぐに「ゴミだらけ」になる。
同じように、ミスは「誰もそれを自分の仕事だと思っていない仕事」において選択的に発生する。
「ジョブ」について書かれた印象深いテクストがある。
カインがアベルを殺した後、主はカインに訊ねた。
「あなたの弟アベルはどこにいるのか。」
カインは答えた。
「知りません。私は自分の弟の番人なのでしょうか。」(『創世記』4:9)
「私は自分の弟の番人なのでしょうか」とカインは言った。
「『私の仕事』がどこからどこまでなのか、それをはっきりさせて欲しい」というカインの要求を主は罰された。
「私の仕事」はその境界線を「ここまで」と限定してはならない。
それは信仰上の戒律であるというよりは、集団で仕事をするときの基本的な心構えのように私には思われる。

(私の仕事2009-06-18 jeudi)
我が行いを省みざるを得なくなるお言葉です。
とはいえ、なんとなく、欧米というのは仕事の範囲を決めて(ジョブディスクリプションを取り交わし)、それ以上のことはしない、というスタンスが一般的という印象を持っていましたが、旧約聖書のスタンスがこういう感じだとすると、案外そうでもないものなのでしょうか。
それとも新約聖書だとこの辺の概念はあまりないのかな。
砂漠での集団生活をしているわけでもないから、関係ないのかもしませんね。
となると、イスラム圏の方がこの思想を残しているのかもしれない…のだろうか。
現状、あんまりそういうイメージは持っていないけれど、調べてみたら面白そうな気がしてきます。
(あるいは、宗教は関係ないのかもしれませんが)

   

【読了】宗教改革三大文書(ルター著、講談社学術文庫)


読みました。偉い疲れましたが、なかなか興味深く読めました。
こんなに痛烈に批判しててよくもまぁ殺されなかったなと感心してしまいます。

先にマルティン・ルター――ことばに生きた改革者 (岩波新書)を読んでいたため、なんとなくどんな人物かはわかっていましたが、それを知ってて良かったと思います。
これほどの批判を、なんの前提知識もなく読んでいたら、多分気分が悪くなることでしょうから。

さて、ルターの主張はシンプルです。
すべて聖書に従え、これに尽きます。
聖書に載っていないのに、教会が作った規則は横暴であり、サタンに騙された産物であることから、無視しても構わないということを徹底的に書き上げています。
キリスト教徒は洗礼を通じてあらゆるものから自由になるのだから、教皇、司祭にさえ従属することは、それこそ不信仰につながると提言します。
当時としては大胆であったであろうその理論は、わかりやすく噛み砕いて説明されていますます。
一方で、彼のいう、信仰こそが全てであり、業は信仰の前では取るに足らないことである、という理念は、確かにそのとおりなのですが、難しいなぁと思いました。
それは、完全に自分について、常に監視をしていなさいという理念なのです。
ここまでやったからいいでしょう?ではないのです。
死ぬまで自分の行い、信仰を監視し続け、常にキリストに立ち返ることこそがキリスト教徒のあるべき姿だと解くのです。

こう聞くと、なぜキリスト教が聖戦と称して多数の戦争を行ったのか、理解に苦しみますが、多分それは勉強不足のせいでしょう。

*

解説では、ルターの聖書に帰れという姿勢が、ローマ教皇に様々な辛酸を舐めさせられているドイツの諸侯の利害と合致して宗教改革の機運が広まっていったというから、あるいはルターは時代の(あるいは当時のドイツの)代表者として主張をしたのもしれません。
少なくともルターを生む土壌はあったように思えます。
それだけ教会も行くところまで行ってしまっていたのしょうかね。

この本を読めば、なんとなくキリスト教がどんなものかがわかることと、キリスト教会の既得権益の独占っぷりがみてとれます。
特に教皇の、胸中保留と、大権による随意決定はめちゃくちゃの極みです。
教皇はこの教会領地を自分と自分の大権に保留していたとして土地を巻き上げる権利を持っているのだそうですが、まさに外道ですね。
こういうところは民衆が盲目的にキリスト教に対して従属しているから、権力が拡大集中してしまったのかもしれません。
先日読んだ、『アメリカの公教育の崩壊』にでてくる新自由主義の社会への浸透に近いものを感じます。
あるいはナチス誕生の経緯とも似ていなくもない。

*

ルターは、聖書を基に、以下の点を主張します。

  • 信仰こそ第一
  • 金のために祈りを上げる司祭はありえない
さて、こんなルターさんが現代日本に来て結婚式を見たら何というのでしょうね?
卒倒するかもしれません。
あるいは文化の違いだと許容されるのでしょうか。
そんなくだらないことを考えてふふふとできるのも、本書の面白いところ…ではないかもしれませんね。

* 

ルターの主張を通して見えるローマのキリスト教会は、完全に権威を利用して富の集中を図っています。
権力は腐る、その様が見て取れたように思いました。
おそらく、キリスト教だけでなく、人間としての普遍的な性質なのではないかとさえ、思えてしまうのでした。

辞令交付式への違和感(みんなよく参加するなぁ)

 今日は4月1日。  我社では辞令交付式が行われました。  そのため、土曜日ですが、人事課員として出勤しました。  明日も仕事なので、12連勤となります。   人事課の闇ですね。  それはさておき、辞令交付式に関して、毎年違和感を持ちます。  それは、お礼を言われる側が、何故かホ...