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東洋哲学は説明ができない:【書評】史上最強の哲学入門-東洋の哲人たち(飲茶、河出文庫)



史上最強の哲学入門-東洋の哲人たち(飲茶、河出文庫)を読みました。
面白い。
相変わらずいろいろな作品からの名言をちりばめており、男の子ならクスリと笑いながら読める一冊です。
ぜひ姉妹本の『史上最強の哲学入門』も合わせて読まれることをお勧めします。
史上最強の哲学入門(飲茶、河出文庫)


東洋哲学の最大の特徴は、「説明することができない」ということです。

『インドで生まれた仏教が、中国でタオとして生き残り、日本に来て禅へと昇華された。東へ、東へと言葉や形を変えながら継承されてきている。』というようなことは言えても、中身については、説明ができない。
西洋哲学との比較はできても、「じゃぁ東洋哲学の真理って具体的に何なの?」と聞かれても答えられない。
なぜなら、それは「個人が体験すること」であり「個人が理解をすること」だから。
単純に書物を読めば「はい悟ったよ」とはならないので、説明のしようがない。
どうしてこういうことになるのか、それは、そもそもの真理へのアプローチに原因があるようです。

西洋哲学は、過去の哲学を壊しながら新しい哲学を作って真理に近づこうとする。
一方で東洋哲学はすでに真理を捕まえたところから、どのようにそれを知るか(理解するか)というアプローチの仕方を取る。
ということで、西洋哲学は究極の真理へと登りつめていこうとする「階段」の構造であり、東洋哲学は究極の真理から様々な解釈が裾を広げていくような「ピラミッド型」の構造といえます。

西洋哲学はそのため、言葉で表現しなくてはならない。
逆に言うと、言葉で表現できないものは扱えない。
一方、東洋哲学は、そもそも言葉で表現できないもの(教祖の体験)を教授・解釈していくため、上のような構造の違いが生まれるそうだ。
どちらが優れているということもなく、方向性の違いです。
(とはいえ、この方向性の違いが科学技術等の発展の違いを生むことになるわけですが…)

 西洋は、論理や知識というものを有効だと信じている。だからこそ、西洋はより高度な論理を組み上げることを目指し、西洋哲学は巨大な理屈の体系として発展していった。
 だが、東洋は、理論や知識というものをそれほど有効だとは信じていない。なぜなら、東洋にとって「真理」とは「あ、そうか、わかったぞ!」という体験として得られるものであり、そして、体験とは決して言葉では表せられないものであるからだ。そのため、「思考を磨き続ければいつか真理に到達できる。言語の構造物で真理を表現できる」といった幻想を東洋哲学は最初から持っていなかった。
 だから、東洋哲学は、理屈の体系はそっちのけで、「どうすれば釈迦と同じ『悟りの体験』を起こすことができるのか」、その一点だけに絞り、そこに特化して体系を洗練してきた。かくして、東洋哲学は「悟りの体験を引き起こす方法論(方便)の体系」として発展していったのである。
 このように東洋哲学は「とにかく釈迦と同じ体験をすること」を目的とし、「その体験が起きるなら、理屈や根拠なんかどうだっていい! 嘘だろうと何だろうとつかってやる!」という気概でやってきた。なぜなら、彼らは「不可能を可能にする(伝達できないものを伝達する)」という絶望的な戦いに挑んでいるからだ。そういう「気概」でもなければ、とてもじゃないがやってられない!
 そして、事実、東洋哲学者たちは、そのウソ(方便)を何千年もかけて根気強く練り続けてきた。(P340)

そんなわけだから、東洋哲学の場合、本当に仏陀とほかの哲人たちが同じ体験をしたのかはわからない。
ひょっとしたら仏教から禅への系譜は全く引き継がれていないかもしれない。
でも、すべて「個人の体験」だから、当人にさえ可否さえは判別できないし、ましてや最終的な境地は「普通の人」見わけがつかないのだから、他人にはどうしたってわかりようがない。
ゆえに、説明のしようがないのである

*

かなり冒頭に出てくる「世界は自分とは関係のない映画みたいなもの」という考え方は、なんだか不思議な感じがした。
しかし、それを悟ったからといって、いったいどうなるのだろうか。
なんとなく、むなしくなるだけではないかと思うのだけど、ひょっとしたらそのむなしさの先みたいなものがあるのかもしれない。

そう考えると、ある意味、学問と似ています。
・一般人からすれば、何のためにそんなに修行をするのか(研究をするのか)わからない。
・修行(研究)の先に何があるのかもわからない。
・わかったとしても、一般人には理解できないことが多い。
などなど。
結局、人間というものは「学問してしまう生き物」なのかもしれませんね。


 

幸田露伴1867-1947(幸田露伴、筑摩書房)



幸田露伴1867-1947(幸田露伴、筑摩書房)』を読みました。
少ししんどいところもありましたが、面白かったです。
『貧乏』は江戸っ子の語り口が面白く、『突貫紀行』は徒歩旅行をしたくなります。
『蒲生氏郷』は重かったけど、伝記らしく、その人の周辺の世界がわかり、伊達政宗や豊臣秀吉の人柄が呑み込みやすい形で表現されていて、読み終わったときには少しさわやかな気持ちになります。
ところで、武士の世界の倫理というかルール、規律のようなものも、なるほどこういうことだったのかと合点がいった部分も多かったのが印象的でした。
いやはや、武士の世界とは、不良の世界ですね。

それから、個人的には『野路』という話が好きでした。
幸田露伴のイメージからは全然想起できないような、春の温かい、パステルカラーのゆったりとした世界が描かれています。
そして、そんな春の休日で、のんびり散歩しながら野草を食べて歩くというのはなかなか乙ですね。
酒が飲みたくなってしまいます。

解説の人も書いていましたが、幸田文の「父・こんなこと」を読む限りは堅物の父親のイメージがあったので、本書を読んで全体的に人情味のある、明るい内容が多かったのがいい意味で予想外でした。
父こんなこと(幸田文、新潮文庫)
(幸田文の文体と重なる部分が散見され、ちょっとほっこりしました)

ということで、次は代表作『五重塔』を読みたいと思います。


 

史上最強の哲学入門(飲茶、河出文庫)



『史上最強の哲学入門』(飲茶、河出文庫)を読みました。
大変面白かったです。
西洋哲学史を、単純に時系列で並べていないところがいいですね。
大きなテーマ(真理、国家、神様、存在の4テーマ)に分けて哲学者が紹介されており、「あの人の考えとその人の考えはこうつながっているのか!」、というのが理解しやすく、非常にわかりやすい。
初学者でもわかるように、かなり端折っている部分もあるため、これ一冊で哲学を知ったつもりになるのは痛い目を見そうだけど、教養として哲学の流れや、概要や、つながりを理解するのには、大変役立つと思いました。

また、現代の我々の視点をもちながら説明してくれるので、現代社会とのつながりというか、私達が日常的な事柄を考える際にも役立つと思います。
例えば、愚衆政治の話(P137)や新自由主義の話(P204〜)などは、まさに身近なニュースとも関係するトピックスかと思います。
いやいや、実際のところ、民主主義にも大きな落とし穴がある。(中略)民衆が政治に興味を持って十分に吟味したうえで投票し、優れた政治家を選べばよいが、そうでない場合、民衆は政治家の思想や公約の内容も知らずに「なんか堂々としていて、リーダーシップがありそうだから」などのイメージで選ぶようになってしまう。そうすると、煽動政治家(もっともらしく語るのが上手なだけの無能な政治家)ばかりが支持されてしまい、国家がどんどん間違った方向に進んでしまうのだ。こういう状態を愚衆政治という。(P137)

という事態がすでに2000年前の古代ギリシャでも起きていたそうで、なるほど、人間というのはなかなか変わらないというのがよくわかります。

最後に存在について、ソシュールの記号論を説明しながら、このようにまとめます。
(前略)もし、あなたに、どうしても譲れない、自分にとって一番大切な「価値のある何か」が存在するのであれば、もしあなたが死んだら、その存在はもはや存在しない。あなたが見ている「世界」に存在するものはすべて、あなた特有の価値で切り出された存在なのである。だから、あなたがいない「世界」は、あなたが考えるような「世界」として決して存在しないし、継続もしない。なぜなら、存在とは存在に「価値」を見いだす存在がいて、はじめて存在するからである。(P344)
熱い…熱すぎる…「バキ」分が溢れ出しているのを感じます。

とは言いつつも、著者のテンションは、かなり軽いです。
「よろしいならば戦争だ」
「一向に構わん」
などなどのフレーズが散見されるといえば、「若者向きで、(誤解を恐れずいえば)男の哲学入門書と言える」ということの意味が何となくわかっていただけるのではないかと思います。

実は、本書には終い本として「東洋の哲学者版」もあるそうなので、近々読んでみたいと思います。

飲茶氏の本は、こちらもおすすめ→■正義の教室(飲茶、ダイヤモンド社)

  

三酔人経綸問答(中江兆民、光文社古典新訳文庫)



三酔人経綸問答 (中江兆民、光文社古典新訳文庫)を読了。
面白かった。
一年有半と異なり、原文でもちゃんと意味がわかりました。
一年有半・続一年有半(中江兆民、岩波文庫)
原文と訳文の両方が掲載されており、どちらも味わうことができる素晴らしい構成です。
校注はほとんどないけれど、行ったり来たりすれば大体の意味はつかめます。
どちらも独特のリズムがあって、面白い。

さて、本書は問題提起の本だと思います。
当時の日本における課題とそれを取り巻く活動や世論をわかりやすく分類し、整理して、一冊の中で戦わせてしまったのだと私は理解しました。
帝国主義を読んだ後なので、どうしても幸徳秋水と洋学紳士が重なってしまいますが、その真意や如何に。
帝国主義(幸徳秋水、岩波文庫)
ひょっとしたら、これは世の中に向けてということもあるけれども、弟子たちに向けたテキストのようなものとして書かれた、という側面もあったのではないかと考えてしまいます。
対象はどうであれ、兆民自身も少なくとも多くの人間に思想という種をまくということを重視していることは確かであろうから、100%外れているということもないでしょう。
そして、多くの人の頭に残すためにあえて劇作のように拵えたのかもしれません。
確かに、座談形式なので読みやすく、自分の中で議論を咀嚼しやすい。
最終的になんの結論も書かれていないから、議論の扉は開け放たれた形で終わりますので、読後も自分の中で問い続けることができます。
ひょっとしたら兆民は、以降の議論を個々の自由に委ねることで種の肥料としようとしたのではあるまいか…。
などなど、読んだ後もなかなか楽しめる本です。

解説の中で、兆民の思想を端的に表す引用があったので、それを紹介します。

社会というものはな、秩序と進歩と相待ったものである、若しも急激に事を処すると飛んだ間違を起こすものぢやぞ、小児の病は癒ること速かなるが大人はそふぢやない。社会は成長すれば其構造も発達するものぢや、丁度人間の成長するに能く似て居るものぢや、斯く永久の年月を経て進歩する性質のものであるから、之れを改良するにはヤツパリ進歩の法則に従ひ、次第次第に根本的改良に従事せねばならぬものぢや、若しも急激に荒療治をするときは、正当なる身体をして却って害毒を来たし、不健康に陥らしむることがあるものぢや、徐かに急げとは社会改良家の一日も忘るべからざる言ぢや、理解たか理解たらモー帰れ帰れ(『中江兆民全集』第十七巻)(欄外に曰く。さあ、早く家に帰って『三酔人経綸問答』を読もう)(三酔人経綸問答P188)

改革を叫ぶ人は、この論をよく考えてみる必要があるだろう、ということを、以降頭の片隅に置いておきたいと思います。

 

一年有半・続一年有半(中江兆民、岩波文庫)



一年有半・続一年有半 (中江兆民、岩波文庫)を読みました。
面白かったです。
兆民先生はこういう本を書いていたのですね。
なるほど、幸徳秋水は完全に文体を引き継いでいます。

一年有半については時事の話が多く、なかなか進みませんでした。
難しい。
解説を読むと、なるほどそういうところを楽しむものかと関心する。
一緒に三酔人経綸問答の現代語訳を読んでいますが、現代語訳だと明治に書かれたものとは思えません。
付録の原文も現代語訳を読んだ後ということもあるのでしょうけれど、なかなか分かります。
そう考えると、多分この一年有半が難しいのでしょうね。

一方で、続一年有半については、大変分かりやすかったです。
以前世界十五大哲学で紹介されていた内容のほとんどが、続一年有半から引用されているようでした。
兆民先生(幸徳秋水、岩波文庫)
この続一年有半が兆民先生の絶筆となるのですが、本書はまさに兆民先生の集大成だったのだと思います。
内容はいたってシンプルで、物質(を構成する元素)は不変だが、精神は肉体より生じるものであるから死ねば消滅するという事で、それに伴って宗教や神話を木っ端みじんに退けていました。
この辺の知的な激しさは弟子の幸徳秋水にしっかり受け継がれていたのだなぁと思います。
帝国主義(幸徳秋水、岩波文庫)

ところで、本文とはあまり関係ないのですが、解説に面白いことが紹介されていました。
本書は非常にルビや校注が多いのですが、その点について訳者も解説で弁明しています。
そして、その理由に、一つの単語にいくつも読み方があって、その辺のニュアンスを楽しんでもらうということがあったようです。
例えば、「未曾有」に5通り、「正真正銘」に4通りの読み方があったのだとか。
あとは、「無害」というのが「無類」の意味だったりしたそうです。
それゆえに訳者は、あえて極力校注を入れたとのこと。
そして、ここには訳者に影響を与えた一言があったとのこと。
やさしいことのむずかしさをしることはむずかしい(里見弴、文章の話)
なるほど、わが身をよく省みたくなるお言葉です。
当たり前のように古典を楽しんでいますが、そこには必ず訳者、解説者の尽力があることに思い至ります。
こうした翻訳をしてくれる方がいるおかげで、私のような無学な人間でも尊い書物と交わることができるのですから、翻訳とは、誠に偉大な仕事のように思われます。
(欄外に曰く、英語教育の必要性ここに見つけたるか)
英語教育の危機(鳥飼玖美子、ちくま新書)

  

戦艦大和ノ最期(吉田満、講談社文芸文庫)



戦艦大和ノ最期 (吉田満、講談社文芸文庫)を読みました。

父・こんなこと』(幸田文、新潮文庫)に引き続き、『困難な成熟』(内田樹、夜間飛行)で紹介されていた一冊です。

参考:
兆民先生(幸徳秋水、岩波文庫)
夢酔独言(勝小吉、講談社現代文庫)
氷川清話(勝海舟、講談社学術文庫)
父・こんなこと(幸田文、新潮文庫)

書名だけは聞いたことがありましたが、こういう内容だったのですね。
腹の奥に何か重たい物が残る一冊でした。
文語体で、リズムは堅く、体を突き刺してくるような文章です。
重油の重さが、水の冷たさが、血の臭さが漂ってくるような気がします。
読んでいると時間の間隔がおかしくなってきます。
何分間かしか読んでいないようなのに1時間近く立っていたり、何分も読んでるのに全然進んでいなかったり…これまであまりない経験をしました。

大和の大きさのせいかもしれませんが、戦場における一個人がいかに小さいのかということが強調されているように感じます。
ただ、その一方で、それでも戦場というフィールドに置いてはその小さい個人の働きが大きな役割を担っている、ということも同時に強調されているようです。

ーーー

当時から戦艦大和の最後の作戦が無謀なものだと理解されていたというのは意外でした。
そして、それでも突っ込む兵士たちの心境は結構揺れていたのだということもわかりました。
まぁそりゃそうだよなぁ、と思います。

主人公が助かって家に帰ったとき、父の「マア一杯ヤレ」と母の料理を振舞う姿に、胸がつかえるものを感じました。

 

父・こんなこと(幸田文、新潮文庫)



父・こんなこと (幸田文、新潮文庫)を読みました。

氷川清話』に引き続き、『困難な成熟』(内田樹、夜間飛行)で紹介されていた一冊です。
参考:
兆民先生(幸徳秋水、岩波文庫)
夢酔独言(勝小吉、講談社現代文庫)
氷川清話(勝海舟、講談社学術文庫)

著者の幸田文は、幸田露伴の次女。
幸田露伴といえば、『氷川清話』で勝海舟が褒めていた人物です。
そんなわけで、近々幸田露伴の作品を読んでみたいなぁと思っていたら、図らずも先に娘さんの作品を読むことになってしまった。
こういうつながり方をするとは…。

いいですね、この流れるような文体。
樋口一葉ほどではありませんが、歯切れのよい流れです。
樋口一葉が川の流れだとすれば、幸田文は岩場の渓流という感じ。
ところどころ感情を露わに表現するところに、引き込まれます。
男勝りな人柄のようですが、非常に女性的な感性が文章からにじみ出ています。
幸田露伴のような父を持つと、大変だろうな…と思うけど、多分それは著者が誠実(という言葉を土橋さんは使う)が故にだろうと思う。
きっと程々でいい、という中途半端が嫌いな人なのではないだろうかと思います。

幸田露伴の作品も二三読みたくなってしましまいます。


  

帝国主義(幸徳秋水、岩波文庫)




先日、幸徳秋水著の『兆民先生』を読んで、もう少し同氏の別の書も読みたいと思って帝国主義 (幸徳秋水、岩波文庫)を読んで見ました。
兆民先生(幸徳秋水、岩波文庫)

これでもかというほど執拗に帝国主義(暴力を持って領土拡大をすすめる国の姿勢)を批判し続けていました。
軍人の主張する軍備拡充の必要性を、一つ残らず叩き潰す感じ。
痛快です。
曰く、
・戦争によって、経済が疲弊している
・戦争によって、芸術、文明が破壊されている
・暴力的な組織(軍隊)が、社会的規範を破壊している
・軍隊が暴力を呼ぶ
・戦争をしたいと思うのは動物的本能である
などなど。

確かに、戦争はかなりお金を必要とすることが、本書を読むとわかりやすく解説されています。
ただ、問題なのは、そのお金のかかるところが極端に偏るというのが問題で、多くの費用は戦争に関連する産業にしか回らない。
そして、福利の方は手薄になる。
そうすると、結局貧乏な人ほど大変になり、社会が回らなくなるということですね。
至ってその通りです。

工業製品の生産過剰についても、中産階級以上は貧民の労働力を搾取することで海外展開するほどの生産力を持つけど、その海外進出する原因(国内の需要量を生産量が上回ってしまうの)は国内の人々から購買力がなくなるためだということを指摘しています。
これはまさに資本論に通じるものではないのでしょうか?
というか、社会主義者と自分で言っているくらいなのですから、多分そうなのでしょう。

この本を読むと、社会主義の本来の意義というか目的がわかってくる気がします。
「格差の是正」、それにともなう「平和」こそが、幸徳秋水の思い描く社会主義の世界だったのでしょう。

社会主義は、私達の中では基本的に「失敗作」として理解されているように思います。
しかし、その思想のいいところを、うまく今の社会に取り込まないと、今後ますます格差は広がり、やがてまた凄惨な事件を起こすような気がします。
ということで、ぜひベーシックインカムを導入してほしいなぁという思いを新たにしました。
ベーシックインカム関連記事

ところで、改題を読むと、幸徳秋水のこうした「平等」「博愛」「平和」という思想は、中江兆民から受け継いでいるとの記載がありました。
そう書かれてしまうと、中江兆民の作品も読みたくなってしまいます。
とりあえず、三酔人経綸問答 (岩波文庫)を読んでみようかなぁと思います。

また、改題では、本書を中江兆民に事前に見せてやり取りをしたのが『兆民先生』内の書簡のやり取りに当たるとの解説もされていました。
なるほど、そういうことだったのかと腑に落ちました。
原著を読んでから誰かの解説を聞くというのも、面白いものですね。

また、同氏の著書で面白そうな本があったので、借りてみました。
書名はズバリ『現代語訳 幸徳秋水の基督抹殺論』。
どうも基督を当時の天皇のスケープゴートにして批判をしたという疑いをかけられている作品のようです。
でも、そんなことどうでもいいくらいに、基督教をボコボコにしています。
イエスキリストは、当時こんなにも無名だったのかと思うと、一体今のキリスト教とは何なのだろうかと思わずにはいられません。
先日『旧約聖書物語』を読み終えて、『新約聖書物語』を今度読もうと思っていたのに、一体どういう心持ちで望めばいいのやら・・・。
でも、”物語”だから、その時の”つもり”で読めばいいのか。
旧約聖書物語(犬養道子、新潮社)

そういえば、本書の序では、キリスト教徒の内村鑑三が文を寄せていました。
内村鑑三が『現代語訳 幸徳秋水の基督抹殺論』を読んだら、なんというのか、非常に興味がわきます。
友達の思想をこてんぱんにすることに、抵抗はなかったのだろうか。
ネットで調べた限りでは、あまりそういう資料は残ってなさそうですが、今度内村鑑三の著書も読んでみたいものです。

また、当のキリスト教徒やキリスト教会は、この辺の事実をどう捉えているのだろうかとも気になります。
別にキリストがいたかどうかは関係ない、聖書が聖書として信じられてきたことが大事なのだ、という論説もあるかもしれませんが、胡散臭さを拭い去ることはできないでしょう。

それにしても、キリストがいたのかどうかなんて、考えたこともありませんでした。
私はてっきりいたものかと思っていましたが…頬に平手打ちを受けたような思いです。

ちなみに、『クルアーン』(イスラム教)では、キリストを預言者としては認めているものの、メシアとしては認めておらず、同様に三位一体説も否定をしています。


    

氷川清話(勝海舟、講談社学術文庫)


氷川清話』(勝海舟、講談社学術文庫)を読みました。

夢酔独言』に引き続き、『困難な成熟』(内田樹、夜間飛行)で紹介されていた一冊です。
参考:夢酔独言(勝小吉、講談社現代文庫)

面白かったです。
勝海舟って、こういう人物だったんですね。
昔読んだ『武揚伝』(佐々木譲、中公文庫)では、ちょっと痛い感じで書かれていましたが、最下級の武士から直接将軍より幕府の後処理を任せられるまでに上り詰めた男としての貫禄というか、凄みみたいなものが本書からは感じ取れます。
視点がすごく高い。
それでいてシンプル。
おそらく、自分のダッシュボードの大きさをよく理解していて、そこに載せるべき要素の取捨選択に抜群の才能があったのだと思います。
そして、そこに父・小吉から引き継いだかはわかりませんが、胆力というものが備わったことで、このような人物が生まれたのでしょう。
本人は、剣術と禅のおかげと言っていますね。
あとは、戦が人を育てるとも言っています。
また、そういう意味では、今後人物が出てくる、ということもなかなか期待はできないということも話していました。
(この辺のことを、今読んでいる幸徳秋水の『帝国主義』(岩波文庫)は全面的に否定していますが、その幸徳秋水の書きぶりの痛快なことと言ったらありません。メッタ斬りです)
でも、そんなにこんな人間がホイホイ出てくるもんではないですよね。
だって、こういう人が他にいないから、勝海舟が幕府の後処理役になってしまっているわけで、そう考えると、その状況に適当な人物をしっかり表舞台に出す機能を維持しているのかどうか、ということのほうが重要な気がします。
そして現代においてそれができているとは思いませんが、明治維新30年の時点でもすでにそうだったようだ、というのが本書を読んで面白かったことの一つです。
父・勝小吉の本もそうでしたが、本書においても、気がつくと江戸の町中や明治の小さな座敷にタイムスリップしており、楽しい時間旅行できました。

ーーー

本書には、所々「爺の僻み」みたいな箇所もあります。
本人は政局などを「蚊帳の外」から見ているわけですから、もどかしさも多分にあったのでしょう。
それは、自分がその中心にすでに行けないことを知っているが故のもどかしさでもあると思います。
(役職定年になると、そういう気持ちになるのかもしれません)
だから、現役の議員や一部の人達からは(本人も言うように)「爺が何をいってやがんだい」というようなことにもなってしまうのでしょう。
聞いている側も「爺さんそりゃおかしいぜ」「そりゃいいすぎってもんだ」と感じる部分の散見されます。

ということで、なんとなく、本書は、おじいちゃんが死んだその葬式で、たまたま待ち時間に同じ机に座った親戚のおじちゃんから聴く昔話みたいな感じがあります。
話し方も面白いし、人のつながりとかが面白いから、なんか聞き入っちゃうんだけど、時々事実誤認や自慢話が織り交ぜられて、終いの方は少し説教臭くなっちゃう、みたいな。

それでも、人とのつながりって言ったて、あの西郷やら大久保やらですから、そんじょそこらのおじちゃんとはスケールが違いますね。
上の二人のほか、いろいろな方に対する人物評も、なかなかおもしろい。
「へぇ、そういう見方もあるのね?」という感じで勉強になります。
(横井小楠をえらく評価しているので、今度関連書籍を読んでみたいと思いました。)
あと、話しを聞いて(読んで)いると、西郷は非常にスマートな印象で、上野公園の銅像のイメージが崩れてきます。
(私の中で、もっと細身のイメージが強くなりました)

ーーー

また、本書からは、反知性主義の匂いも感じられました。
それは、おそらく勝が現場主義だったからでしょう。
世の中には、時勢があり、現場主義の時代と、知性主義の時代が行ったり来たりするのだと思います。
令和の今は、どっちなんだろう、もし現場主義の時代なら、勝の生きた時代のような、「社会に活かす知」を渇望する若者をどんどん登用する制度が必要でしょう。
(今はどちらかと言えば「自分を活かす知」が重用されている気がします)
でもそれは、ちょっと違う気もする。
もちろん、上昇志向の若者を積極的に登用することがだめだと言っているわけではありません。
(上昇志向の若者がどんどん登用するほどいるかは怪しいところですが)
多分今勝が生きていても、うまく必要なところには登用されないような気がするのです。
そういう制度になっているように思うのです。
それは、勝がこのような人物ではなく、腹黒く、卑しい性質を持っていたと仮定すれば、仕方ないことな気がします。
傑物がそのポストに収まるという前提で作られる制度なんて、とてもではないけど私は恐ろしくて信じられない。

とはいえ、そんなこんなで、勝や西郷のような人物は完全に駆逐されてしまった。
そして多分、私達みんなが、それを望んだのだと、本書を読んでそんなことを思わされました。
そこに2つの問が浮かんできます。
「それは悪いことなのだろうか?」
「悪いとすればどうすればいいのか?」
この2つの問は、しばらく頭の片隅で温めて置きたいと思います。

   

夢酔独言(勝小吉、講談社現代文庫)


夢酔独言』(勝小吉、講談社現代文庫)を読みました。

兆民先生』に引き続き、『困難な成熟』(内田樹、夜間飛行)で紹介されていた一冊です。

いやはや、とんでもねぇ野郎ですよ勝小吉(夢酔)さん。
クレイジーすぎるだろ。

正直いえば、言葉遣いなどが現代とは少々ちがっていて、何を言っているのかわからない箇所もいくらかありましたが、ぶっ飛び加減は嫌でも伝わってきます。
いやだって、この人どう考えても、カタギではないよね。
間違いなく、その筋の人ですよね?
大物、なんだろう…か?
いや、まぁ大物なんだろうなぁ…。
7歳で喧嘩に負けて切腹しようとする子どもはあんまりいない(否、聞いたことない)ものね。
(14歳で8ヶ月乞食しながら旅をする子どももそういないでしょうし、その上もう一回逃げるように旅に出て座敷牢に入れられる青年もあまりいないでしょう)
そしてその精神を40才近くまで持ち続けるんだからなかなかいるわけない。
(いや、江戸時代にはそこそこいたのか?)
それでいて、「俺を真似しないようにくれぐれも気をつけろ」だからやっぱりとんでもない人ですよ。
奥さん、大変だったでしょうね…。

ーーー

本文を読み終えて、年表を見てみると、初見なら絶対に「え?」となりそうな出来事も、あぁこういうことだったのか、と穏やかに読めてしまうから不思議です。
いや、その年表に記載されている内容も、とんでもなことばっかりなんですけどね。

本文はなかなか読むのがしんどい感じの流れとなっていて、そのたどたどしさがまた無骨というか無頼というか、読者に媚びない感じを出してる気がしました。
だから悪いやつなのに、時々、ちょっといいやつ?なんて思ったりしてしまうこともある。
(まぁ実際いいことしているときもあります。映画版のジャイアンみたいなかんじですかね。親分って感じです)
それから、読んでいるとなんとなく江戸時代に来ちゃったような感じがします。
内田先生が『困難な成熟』でいう、グルーヴ感というのは、上のように読んでると「意識が時間・空間を超えちゃう」ということを指しているのかななんてことを思いました。

江戸っ子というにはあまりにアウトローすぎて江戸の人に失礼なんでしょうけれど、江戸っ子っぽい(と私が思っている)両津勘吉をもっと悪い方に持っていくとこういう感じになるのかな。

ーーー

解説を読むと、こんな父親を持ったことで、息子勝海舟も小さい頃は癇癪持ちとして知られていたとの記載がありました。
勝海舟については、せっかく『氷川清話』でいいイメージができていたのに、また残念な感じになってしまった。
(とは言え、いろんな見方があるでしょうから、しょうもない人と断定することも控えましょう。)

ーーー

個人的に心に残ったのは、ある老人の言葉。
「世の中は恩を怨で返すが世間人のならいだが、おまへは是から怨を恩で返して見ろ」
素晴らしすぎて歯がゆいくらいですが、夢酔はこの言を受けて「なるほど」とその通りにして色々なことがうまく回るようになったそうです。
「んなあほな!」と思いながらも、なんとなく微笑ましく読めてしまうのが、夢酔さんの魅力の一つなのかなぁと思いました。
キャラですね。

スピードアップは目隠しと同じ


スローライフでいこう―ゆったり暮らす8つの方法 (ハヤカワ文庫NF)

私達にとって、効率化が極限まで求められようとしているこの社会は、果たして”良い社会”なのでしょうか。
本書は、その問いを真っ向から否定して、スピードダウンすることの利を提示します。
現代社会の抱えるスピード狂いという現象は、実は仏教の祖、ブッダの生まれる前から存在し、多くの宗教や思想が効率追求による弊害を説いています。
具体的なステップを事例を踏まえて解説し、自分の人生を”意識して”生きるための方法を提示します。

具体的には、以下の8つのステップに集約されます。
1.スローダウンする
2.1点集中する
3.人を優先させる
4.感覚を制御する
5.精神的な仲間を持つ
6.啓発的な本を読む
7.マントラを唱える
8.瞑想をする

私は本書を購入して6年となります。
これまで何度通読したかわかりませんが、それでこの8つのステップを完成できるわけではありません。
はっきり言ってまだ1つもちゃんと取り組めているような気がしません。
ただ、6.7.8あたりについては、具体的にアクションすることなので、いくらか取り組みやすいと感じています。
特に、そのうちの「啓発的な本を読む」については、朝と夜寝る前に啓発的な本を読みましょう、ということなのですが、私の個人的な嗜好もあって、結構長く続けていられています。
著者は啓発的な本の例として「法句教」や「ヴァガヴァッド・ギーター」などを上げており、つまるところ思想の本ということで、これまで私にとってあまり関わりのなかった宗教や思想の書を手に取る機会を増やしてくれました。
そこで説かれている考えは、なかなかエキサイティングで、私に「そんな考えがあるのか」という驚きや、「すでにここまで整理して考えていた人がいるのか」という畏怖をもたらし楽しませてくれます。
また、ガンディーについての記述は、その後、私にとって特別な意味を持つようになりました。
ガンディーという一人の人間がいかに遠くまでたどり着いたか、私は20代の最後になってようやく知りました。
対話に基づく合意形成こそが市民の果たすべき使命であり、ガンディーはその使命を自身の生き方で表現したように思います。
市民的な成熟のモデルをダンディーにみるとすれば、成熟自体が困難なことに思えますが、ガンディーを目指すことが成熟へと向かう道と考えれば、道の上には乗れる気がします。
そしてこの「道に乗る」ということが”信仰”というものなのではないかな?とそんなことも思います。



本書はいろいろな思想や宗教が提示している”自分の人生をよりよく生きる術”を整理、統合し、現代社会でも理解・実践されやすいようにまとめたものです。
「なんかよくわからないけど毎日慌ただしい」と感じている人や、「一体何のために生活しているのかよくわからなくなってきた」と感じている人には、ぜひ一度手にとってほしいと思います。
著者の体験した「慌ただしい日常」における「小さな気付き」は、そうした人たちの気付きにも寄与するはずです。

【読了】街場の大学論(内田樹著、角川文庫)

『街場の大学論』(内田樹著、角川文庫)を読みました。


『下流志向』などの内容といくらかかぶるところはありましたが、少し古めの記事が多いような気がします。
しかし、最後まで読めば、しっかり前半の認識の誤りを訂正している箇所があり、「あぁやっぱりいつもの内田先生だね」という感じで読み終えれました。

以下、備忘。

1.学生の質について
 学生の質は下がらざるを得ない。
 なぜなら入試とは同一集団内での自身の立ち位置によって合否が決まるものであるから。
 18歳人口という分母が小さくなる上に、大学の定員数は拡大するという状況は、ようする年々同じ学力なら上の大学に入りやすくなることを意味する。
 (絶対的な学力に対するボーダーラインがどんどん下がっていくわけですね。)
 だから、同じ大学に入るのに、10年前と同じ量の勉強をする必要が無いということ。
 このことが大学の質低下の原因と考えられる。

2.評価について
 正しい評価をしようとすると、全体を規格化しなくてはならない。
 そうなると、有能な人も規格に当てはめることになる。
 A.働かない人を働かせて、働く人を枠にはめ込む
 B.働かない人は無視してして働く人に気持ちよく働いてもらう
 という2択について、どちらのほうがメリットが多いかを考えるべき。
 ちなみに、A.であれば、全員が雇用契約書通りにしか働かないことになる可能性が高い。
 イノベーションは、Bのほうが起きやすいのではないだろうか。

3.文科省行政担当者の考え方
 これが、なかなかおもしろい。
 大変”話せる人”ではないか!というのい少々驚いた。
 文科省は…なんて考えていた自分が恥ずかしい。
 同じ人間なのです。担当者レベルでは色々と考えながら働かれていることを理解しました。
 そして、文科省からのメッセージについては、行間を読むことが大切なのですね、と言うのは目からうろこでした。
 つまり、大学に主体性を持ってほしいというのが文科省の考え方なのかなと個人的には理解したいと思います。
 でも、大学の設置規制をもう少し強めてもいいような気がします。

以上、備忘。

大学経営の問題の一つに、定員を満たさないと黒字にならないという点があるのでは無いかと思えてきます。
どうしてそんなにギリギリで経営をしてしまうのでしょうか。
大学人なのに、こんな問に答えられないことが非常に心苦しいのですが、人件費がかかりすぎなのでしょうか?

ということで、少し考えてみましょう。
年間70万円の授業料で150人(1学年の定員数)→1億5千万円
四年間だから、1億5千万円×4年→6億円
教員が30人体制なら1000万円×30→3億円
残りが3億円。
3億円を150人×4年で割ると…50万円
1年間に一人あたり50万円しか教育費をかけれないのか…
教員によっては1000万円/年どころではないでしょうし、教員の他にも事務職員だとか、非常勤講師分なども入るとすると、50万円でも心もとない気がしてきますね。

やっぱりお金かかるんだなぁ。
自分なんて2年間の卒論研究で100万円なんて吹いて飛ぶくらいの試薬とか溶媒を使いましたからねぇ…。
大学全体に撒ける助成金も決まっている以上、大学数が増えればそれも減るし、ほんとにジリ貧ですね。
人件費を下げれば、人材は流出するし、どうすりゃいいんですかね?
(助成金を増やせば解決する気もしますが)

また、定員や、教員数管理については、18歳人口は18年前にその変遷が読めるわけですから、ある程度文科省の方でコントロールしてもいいように思えます。
というかお上からある程度言わないと、どこも減らさないでしょう。
下のほうの大学が定員を少し減らしたところで、上位1割の大学その減少分を攫っていくような事態になりかねません。
ということで、偏差値の高い大学にこそ、規制をかけてはいかがでしょうか?
そうすれば、多分下に下に降りてくるはずです。
実際、昨今は定員厳格化によって、中間層の大学が潤っているはずですから。
…とここまで書いて、なるほど文科省の政策も、必ずしも変なことばかりではないのだなぁと思わされます。
23区内の大学は10年間定員増不可と聞いたときには、何してくれてんのか?と思いましたが、一大学人とは違って、制度としての全体の大学を見なくてはならない以上、全然視点や考え方が違うのかもしれません。
もう少し、「この政策は何を狙っているのか」について、頭を柔らかくして考えなくてはならないなと反省させられます。

結局、文科省としても、都市部の少数の大学を生き残らせたいわけではないのでしょう。
でも、やっぱり受験者の思いとしては、都市部に出たいものだと思います。
であるならば、やはり規制は必要だと思います。
人は都市部のみに生きるわけではありませんからね。
広く、可能な限り多くの方に大学の機能が享受されるようにするには何が必要なのか、一大学人として大学を考える前に、一市民として、大学のあり方を考えていかなくてはならないのかもしれません。

【読了】アフターダーク(村上春樹著、講談社)

久しぶりに『アフターダーク』(村上春樹著、講談社)を読みました。
本作を読むのはこれが2回目で、確か最初は高校時代。
読んでても舞台の景色は霞んでて、どんな話が進んでいるやらあやふやなまま読み切った、そんな記憶があります。
ところが、30代になり、改めて読めばその情景は湧きやすく、まるで映画を見るように楽しめました。
なるほど、20代は大人への階段だと言うわけですね。

ということで、今回のこの読書体験は、少しだけ私に希望を持たせてくれました。
つまり「今わからなくても、そのうちわかるかもしれない。時期が悪かった」ということが起こりうるというモデルケースになったように思います。
少しだけ難しい本にも挑戦していいかも?という気分です。

ーーー

さて、どうして10年以上ぶりにこの本を手にしたかといえば、内田樹先生の「村上春樹にご用心」で本作が紹介されていたからです。
氏は本作のことを
二人のセンチネル(タカハシくんとカオルさん)が「ナイト・ウォッチ」をして、境界線のギリギリまで来てしまった若い女の子たちの一人を「底なしの闇」から押し戻す物語である(『村上春樹にご用心』P66)
と紹介していて興味を持ったからです。
(そんな風に読めた小説だっただろうか?)…ということで、読んでみました。
それで、私はこの本を「様々な対比の交錯するのがこの世界」ということと「その対比の境界は結構あやふや」ということを表現している本だと思うようになりました。

ーーー

まず、物語は「昼の世界」に対する「夜の世界」が舞台になっています。
そこにやってくるのが主人公のマリ、昼の住人です。
マリは気づくと夜の世界の出来事に巻き込まれていく。
昼と夜を行き来するタカハシがそれを仲介する。
ラブホテル「アルファヴィル」の人たちは、「かつて昼の世界にいたが今は夜の住人」である。
その中の一人、カオル(アルファヴィルのオーナー)はバイクの男(悪)と対比した善として描かれている。
バイクの男はまた夜に棲む悪として、白川(昼の世界の悪)と対比されているのだろう。

そうなると、エリ(マリの姉。寝続けている)はどう解釈できるだろうか?
エリはマリに対する姉という形で、姉妹の対比であるとともに、精神世界と現実世界の対比を表しているのではないだろうか。
また、エリが精神世界に行くときには仮面の男が関わっている。
この男はベクターとしては、タカハシと同じような役割を持っている。
つまり、現実世界のベクターと精神世界のベクターとして対比されているように思われる。
さらには、カメラの存在も私達の世界と小説の世界の対比を表す装置として描かれている。
しかも、私達読者を作品内の登場人物に対して「逃げるんだ」というメッセージを投げかけることのできる装置として機能させられている。

つまり、様々な対比があり、それらは対比されながらつながっている。
そして、ベクターを介して、あるいは介さず、どちらの世界にも一歩を踏み入れそうになって(あるいはすでに踏み入れてしまって)いる。
「今」分けられている「あっち側」と「こっち側」は簡単に開通してしまうのだ。
タカハシが大学の課題で裁判の傍聴へ行った際の感想として、以下のことを述べていますが、
2つの世界を隔てる壁なんてものは、実際には存在しないのかもしれないぞって。もしあったとしても、はりぼてのペラペラの壁かもしれない。ひょいともたれかかったとたんに、突き抜けて向こう側に落っこちてしまうようなものかもしれない。というか、僕ら自身の中にあっち側がすでにこっそりと忍び込んできているのに、そのことに気づいていないだけなのかもしれない。そういう気持ちがしてきたんだ。(同書P141-142)
これがまさにこの物語のサマリーのように思えるのです。

ーーー

余談ですが、タカハシはこれをタコのような生き物の仕業と考えました。
多分これは、「卵と壁」のスピーチで言うところの壁(つまりシステム)に当たるものなのでしょう。
(参考:書き起こし.comのスピーチ書き起こし内容

こうした作品ごとの「つながり」を考えられるようになったのも、私が年を取ったからかもしれませんが、こうも楽しく読書ができるのなら、年を取るのも悪く無い気が致します。

内田先生は、村上春樹にご用心の同じ記事の中で、アフターダークと1973年のピンボールがつながっていることを指摘していました。
ということで、先日一緒にピンボールも買ったので、近いうちに読んでみたいと思います。

ピンボールは実は私の一番好きな作品なのです。
でも、どこがどう好きだったのか、いまいちうまく言葉にできない。
風の歌を聴けにも似た気だるさが良かったような気がするのですが…ちょっと読んでみてまた書いてみたいと思います。

ただ、多分10代の私が読んだときに感じる感動とはもう違うんだろうなぁという予感がします。
何事も、良し悪し両面があるものですね。(まだ読んでもないのに)

  

【読了】ホモ・ルーデンス(ホイジンガ著、高橋英夫訳、中公文庫)

『ホモ・ルーデンス』(ホイジンガ著、高橋英夫訳、中公文庫)を読みました。

ぜんっぜんわかりませんでした。
こんな難しい本を読んだのは、果たしていつぶりだろうか…。
普段見ている様々なブログや本で紹介されていたので、多少なりとも下知識があると思って読んでみましたが、まったくもってちんぷんかんぷん。

「遊びには規定(ルール)や区分けされた領域が必要」「文化は遊びを遊ばれながら文化となった」というようなことをおっしゃっているのはわかるのですが、そのような話が出るころには前段の話が頭から抜けている次第で、非常にむなしい気持ちになりました。
ちょっと己の読解能力のなさが悔しい気持ちです。

ただ、少し前に読んだ『奇想の図譜』で出てきた「文化は飾りから始まった」という表現については、たぶんホイジンガに言わせれば、「一緒のことだよ」といいそうだなぁと思いました。
それは祭祀に関連があり、決められた様式(キャンパスとしての素材)があり、しかも楽しんで作られたのですから、辻氏が述べられていた「飾り」とはすなわち遊びの一つの形式であり、遊びに含まれるものだったのではないかなと思います。
特に戦の際に頭にかぶった個性豊かな造形の兜などは、まさに「遊び」の体現だと思われるのです。
(西洋の鬘とは言い合いが違うものの、結果の形態が近づくというのも面白いですね)
【読了】奇想の図譜
【読了】奇想の系譜

私としては「無駄」なことにこそ、遊びがあり、「無駄がない」「無駄を許せない」状況では「遊び」が存在できないということだと読みました。
そして、著者はどんどん世の中から遊びの要素がなくなってきているように感じているのではないか、そんなことを感じました。
その点、古来からあらゆる飾りを試みてきた日本という国は、結構遊び好きだったのかもしれません。

ホイジンガはローマ時代を指して、遊びが抑圧されると、人は遊びを求めるもので、その結果が「パンと見世物遊びを」につながるというのですが、和歌が栄えた平安時代、浮世絵の広まった江戸時代も、これに近いものがあるのではないでしょうかと考えてしまいます。
つまらない平和が、芸術作品を生むというつながりが見えてきはしないでしょうか。
逆に言うと、現代の戦争など、極端な合理性のもとに時代が邁進する時代では、芸術は生まれてきてないのではないでしょうか。
(そんな時に芸術活動にいそしんでいたら、何発ケツバットされるかわかったもんではありませんし…)
こういう観点で美術史を見ていくと、ちょっと面白そうだなぁと思いました。
しかし、戦争と美術の関連なんてのは、もしかしたら結構考察されているのかもしれません。
また、そもそもホイジンガは戦国時代の武士の世界にも遊びの要素が多分にあったといっていましたから、ちょっとこの理論は我ながら怪しい気もしています。
ただ、このことも、武士としての振る舞いを遊ぶことに夢中だったと解釈すれば、平和な時代(遊びが少ない時代)には、芸術という遊びに注力されるという流れは、そんなに不自然には思えない気がしてきます。
となると、現代はどうなのでしょうね?

また、本書の中で、その社会の「遊びへの関心度合」というものが、男性の服装でなんとなく見えるというのは面白い指摘だったと思います。
確かにそうかもしれませんね。
服装というのが世情を表すということは感覚的には分かる気がします。
しかし、男性にその相関があることを指摘するのは、おそらく歴史を長大なスパンで見てきた著者だから捉えられたことなのかもしれません。
服装は、ある意味着用する芸術ともいえそうです。
そう考えると、服装から文化史を見ていくのも、なかなか面白そうですね。
と思ったらすでにそういう本があるようでした。



浮世絵を見る際には、服装への理解も必要でしょうから、そのうち読んでみたいと思います。

 

【読了】妻たちの思秋期(斎藤茂男著、講談社+α文庫)

先日読んだ『酒飲みの社会学』(清水新二著、素朴社)で紹介されていた『妻たちの思秋期』を読みました。


【読了】酒飲みの社会学(清水新二著、素朴社)

専業主婦が主人公の短編小説だと思って読み始めたのですが、大いなる勘違いでした。
前半では専業主婦としての悲しみや虚しさを酒で埋めることからアルコール依存症に陥った主婦たちが描かれており、後半では酒で埋めることなく離婚というアクションを取った主婦たちにスポットライトを当てた、れっきとしたルポルタージュです。
重い。

妻たちの言葉だけでなく、様々な取材を通して、いろんな視点から問題を切り取っており、非常に踏み込んだところまで書かれています。
私は記者という仕事を少々軽く見ておりました。
当たり前に存在している常識に対して、取材と文で世の中に疑問を投げかける素晴らしい作品だと思います。
本作で問われていることは「男と女、これでいいのか?」ということになると思います。

本書に出てくる女性たちは、「まーなんでこんな夫をもらっちゃったのご愁傷様」というくらいひどい男たちを夫にしています。
いずれのカップルも知り合ってから結婚までが短く、何かから逃げるようにして結婚をしているケースが多いのですが、それにしたって、ねぇ? という感じです。
しかし、こういう感想は、「自分は大丈夫」という前提から見ているわけであって、「果たして私は大丈夫なのか?」と考えない訳にはいかない。
少し家の中での身の振り方を省みるべきなのでしょう。

精神科の話(実際あっていない男を分析するのはいかがかと思いましたが)の中で、「結婚は自立した大人同士がしないと、ベッタリと寄りかかった関係になり、不幸なものになりかねない」と指摘しており、本当にそのとおりだなぁと思わされます。
しかし、一方でそうした認識が浸透したら、結婚する人は多分減るだろうし、少子化はどんどん進むに違いないと思います。
ここをどう考えるかが女性の権利拡大派になれるかどうかだと思います。
私は、たとえ少子化が進んだとしても、権利拡大路線に切り替えたいと思いました。

ある女性から、下のような投稿が届いたと紹介されます。

<夫との距離に心傷つき、アルコールで全てを麻痺させようとする妻の姿は痛ましい。だが、今の日本の妻たちにとって、教育ママになることも、亭主のおしりを叩くことさえも、かたちを変えたアルコールではなかろうか。夫たちにしても、身も心も捧げ尽くしている"仕事"というものが、その実、形を変えたアルコールではないか>(『妻たちの思秋期』P151)
この言葉を読んだときに、『マインド・コントロール』(岡田尊司、文春新書)に出てきた以下の言葉を思い出しました。
デビーはこう語っている。「貧者の面倒を見ることも、株式を公開して100万ドルを手に入れることも、最終的な目的は同じなのです。自分の苦しみは何らかの形で報われるはずだと思う。そうして人は広い視野を失ってしまうのです」と。(渡会圭子訳『隠れた脳』より)(『マインド・コントロール』P35)
これらの言葉の底流には「脳にとって耐え難い状況」があることが考えられます。
だからこそ、思考を止めて「あるべきとされてきた役割」を演じようとするのでしょう。
妻たちは、自分の視野を極端に狭くして、自らトンネルに入り込もうとしているのかも知れません。
そして、そうせざるを得ない状況が、そこにはあったということでしょう。
【読了】マインド・コントロール

X先生は、統計やアンケートでは上がってこないであろう事例の回収に本書が成功していると評します。
結局、統計やアンケートは個々人を一つのサンプルに押し込んで全体の傾向を見るものですから、一つ一つの家庭にある小説よりも奇なる夫婦関係というものは、出てこない、というか出さないようにするのが統計・アンケートなのでしょう。
したがって、こうしたルポによって切り出すのは、非常に意義があるということですね。
しかし、ルボだけに頼れば、恣意的な、偏った記事になることも懸念されます。
ということで、やはりミクロとマクロの両方で物事を見ることが必要なのだということでしょう。
分析だけでは足りないし、特定の事例だけでは間違った方向に舵取りしてしまう。
冷静に、いろんな視野を持って、どうしていくべきなのかを考えることが必要ですし、まずはそれを「個人のレベル」で考え、実践していくことが重要なのだろうなと思わされました。

そのためにも、まずは「労働至上主義」を廃したいと思います。

【読了】奇想の図譜(辻惟雄著、ちくま学芸文庫)

『奇想の図譜』(辻惟雄著、ちくま文庫)を読みました。


先日記事にも書いた、『奇想の系譜』 (ちくま学芸文庫)の続きですが、内容は北斎、若冲、洒落、白隠を取り上げつつ、『奇想の系譜』の根源がどこにあるのか、縄文土器以来の作品を取り上げながら辿っていく本でした。
最終的には、「見立て」を用いた「かざり」に行き着きます。
前回の記事【読了】奇想の系譜にも

しかし、著者のあとがきにおいて、結局のところ取り上げた奇想の画家6名も単独で存在し得たわけではなく、それまでの主流の流れを汲む中でも前衛的であっただけだ、というように書かれています。
ということは、多分生まれるべくして生まれた作品(あるいは画家)たちだった、といいたいのではないかと、私は理解したいです。
と記載をいたしましたが、結局この系譜は日本人の「かざる」という根源的な性質から起きたものであるということをこの本は証明するべく書かれたものだと思われました。

もともと「かざる」心があり、そこには2種類、すなわち陰と陽の側面があり、陽のほうが奇想=奇をてらう大胆な色彩や構図の絵を産んだというのがこの本の論です。(ちなみに、陰とは詫び・寂びの方向のようです)
ホイジンガの言葉をもじった「文化は<かざり>の形をとって生まれた。文化はその初めから飾られた」が著者の本当に言いたいことだったのではないかと思います。(元ネタ:ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』「文化は遊びの形をとって生まれた、つまり、文化はその初めから遊ばれた」)

東京都美術館で開催されている『奇想の系譜展』にも行きましたが、この本も読んでいればよかったなと少し残念です。
(奇想の系譜展は4月7日(日)まで。まだ行っていない方は、ぜひ本書と『奇想の系譜』を読んでから足をお運びください)

余談ですが、洛中洛外図屏風は当初岩佐又兵衛作説を否定していた著者が、後にその考えを改めることになったのだということなので、ぜひその書(浮世絵をつくった男の謎 岩佐又兵衛 (文春新書))も読んでみたいと思いました。
また、『ホモ・ルーデンス』も読みたいですね。



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【読了】奇想の系譜

『奇想の系譜』(辻惟雄著、ちくま学芸文庫)を読み終えました。

これから東京都美術館の『奇想の系譜展』を見に行かれる方は、ぜひ一読されることをおすすめします。

残念ながら私はこれまで美術史に関する本を読んだことがないため、本書が当時の日本美術界にどのような意義を投じたかはいまいちピンときてません。
当時は流派こそが日本美術史だった?ようなので、そういう意味において<傍系>や<異端>を取り上げた書としてセンセーショナルであったようです。
しかし、著者のあとがきにおいて、結局のところ取り上げた奇想の画家6名も単独で存在し得たわけではなく、それまでの主流の流れを汲む中でも前衛的であっただけだ、というように書かれています。
ということは、多分生まれるべくして生まれた作品(あるいは画家)たちだった、といいたいのではないかと、私は理解したいです。

いろいろな作品が出てきますが、私が一番観たいと思ったのは、狩野山雪の『老梅図襖』(メトロポリタン美術館所蔵)。
襖いっぱいに蛇行する梅の木のグロテスクさがたまりません。
本作は、株式会社キヤノンによる綴プロジェクトのお陰で精巧な複製が京都天祥院に寄贈されているそう。同社には、私も一眼レフでお世話になっておりますが、改めて素晴らしい会社だと認識しました。今後も積極的に同社の製品を使いたいと思います。GRDⅣとともに)

その他、岩佐又兵衛作の「官女観菊図」(山種美術館)と「山中常盤物語絵巻」の比較や、蘆雪の「薔薇に鶏図襖絵」と応挙の「双鶏図」の比較はぜひ今度やってみたいと思いました。

それから、若冲の作品に登場する「眼」や「のぞき穴」についての指摘も、言われればなるほと確かになぁと思わされます。

本作に書ききれなかったことを、『奇想の図譜』という本に書いているようなので、続いて『奇想の図譜』も読む予定です。


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【読了】宗教改革三大文書(ルター著、講談社学術文庫)


読みました。偉い疲れましたが、なかなか興味深く読めました。
こんなに痛烈に批判しててよくもまぁ殺されなかったなと感心してしまいます。

先にマルティン・ルター――ことばに生きた改革者 (岩波新書)を読んでいたため、なんとなくどんな人物かはわかっていましたが、それを知ってて良かったと思います。
これほどの批判を、なんの前提知識もなく読んでいたら、多分気分が悪くなることでしょうから。

さて、ルターの主張はシンプルです。
すべて聖書に従え、これに尽きます。
聖書に載っていないのに、教会が作った規則は横暴であり、サタンに騙された産物であることから、無視しても構わないということを徹底的に書き上げています。
キリスト教徒は洗礼を通じてあらゆるものから自由になるのだから、教皇、司祭にさえ従属することは、それこそ不信仰につながると提言します。
当時としては大胆であったであろうその理論は、わかりやすく噛み砕いて説明されていますます。
一方で、彼のいう、信仰こそが全てであり、業は信仰の前では取るに足らないことである、という理念は、確かにそのとおりなのですが、難しいなぁと思いました。
それは、完全に自分について、常に監視をしていなさいという理念なのです。
ここまでやったからいいでしょう?ではないのです。
死ぬまで自分の行い、信仰を監視し続け、常にキリストに立ち返ることこそがキリスト教徒のあるべき姿だと解くのです。

こう聞くと、なぜキリスト教が聖戦と称して多数の戦争を行ったのか、理解に苦しみますが、多分それは勉強不足のせいでしょう。

*

解説では、ルターの聖書に帰れという姿勢が、ローマ教皇に様々な辛酸を舐めさせられているドイツの諸侯の利害と合致して宗教改革の機運が広まっていったというから、あるいはルターは時代の(あるいは当時のドイツの)代表者として主張をしたのもしれません。
少なくともルターを生む土壌はあったように思えます。
それだけ教会も行くところまで行ってしまっていたのしょうかね。

この本を読めば、なんとなくキリスト教がどんなものかがわかることと、キリスト教会の既得権益の独占っぷりがみてとれます。
特に教皇の、胸中保留と、大権による随意決定はめちゃくちゃの極みです。
教皇はこの教会領地を自分と自分の大権に保留していたとして土地を巻き上げる権利を持っているのだそうですが、まさに外道ですね。
こういうところは民衆が盲目的にキリスト教に対して従属しているから、権力が拡大集中してしまったのかもしれません。
先日読んだ、『アメリカの公教育の崩壊』にでてくる新自由主義の社会への浸透に近いものを感じます。
あるいはナチス誕生の経緯とも似ていなくもない。

*

ルターは、聖書を基に、以下の点を主張します。

  • 信仰こそ第一
  • 金のために祈りを上げる司祭はありえない
さて、こんなルターさんが現代日本に来て結婚式を見たら何というのでしょうね?
卒倒するかもしれません。
あるいは文化の違いだと許容されるのでしょうか。
そんなくだらないことを考えてふふふとできるのも、本書の面白いところ…ではないかもしれませんね。

* 

ルターの主張を通して見えるローマのキリスト教会は、完全に権威を利用して富の集中を図っています。
権力は腐る、その様が見て取れたように思いました。
おそらく、キリスト教だけでなく、人間としての普遍的な性質なのではないかとさえ、思えてしまうのでした。

【読了】大鏡(全現代語訳)(保坂弘司、講談社)

大鏡 全現代語訳 (講談社学術文庫)
大鏡 全現代語訳 (講談社学術文庫)
講談社
読み終わりました。大変おもしろかった。

三島由紀夫がかつて大鏡を読んで古典にハマったと読んだのが2年前。
ミシマの警告 保守を偽装するB層の害毒 (講談社+α新書)
ミシマの警告 保守を偽装するB層の害毒 (講談社+α新書)
講談社
それを知ってから読みたいと思っていてついに読み終えました。
古典っておもしろいなぁと思いました。

全部が全部理解できたわけではないし、基礎知識も乏しいためわからない箇所も多かったですが、全体を通して、古典の楽しさを知ることができたように思います。
大鏡は、時代を切り取る一つの作品なので、これと関わる各種の古典を紐解き、いろいろなつながり、解釈の違いを読んでいきたいと思うようになりました。

ということで、今度からは古典文学全集に入りたいと思います。
1日30分ずつで、読み終わるのに何年かかるのか…
あとはそれを読みながら、くずし字も覚えつつ、浮世絵とかも鑑賞できるようになれるといいなぁ…

趣味ができました。本当に有難うございました、という気持ち。

新編日本古典文学全集 (1) 古事記
新編日本古典文学全集 (1) 古事記
小学館

辞令交付式への違和感(みんなよく参加するなぁ)

 今日は4月1日。  我社では辞令交付式が行われました。  そのため、土曜日ですが、人事課員として出勤しました。  明日も仕事なので、12連勤となります。   人事課の闇ですね。  それはさておき、辞令交付式に関して、毎年違和感を持ちます。  それは、お礼を言われる側が、何故かホ...