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共働き社会は格差を固定する



結婚と家族のこれから~共働き社会の限界~ (光文社新書)

仕事と家族 - 日本はなぜ働きづらく、産みにくいのか (中公新書)人口減少社会の未来学を上げながら、出生力の回復に向けて、女性の社会的なつながりと経済基盤の確保の重要性を指摘しました。
しかし、結婚と家族のこれから~共働き社会の限界~ (光文社新書)では、共働き社会の実現は、必ずしもいいことばかりではないことを突きつけてきます。
共働き社会は、格差の固定を引き起こしかねないのです。

原因は、女性の社会進出が進む一方で男性の非正規雇用率を高まっていることが一点。
また、人は、放っておくと価値観や考え方の近い同類と結婚する傾向があるという点がもう一点。
この2つが組み合わさるとどうなるか?
その答えが、「傾向として、金持ち同士、貧乏同士のカップリングが増える」という事態に至る、というわけです。

私の読んだ限りでは、これを解決するすべはまだ見つかっていないようです。
著者は税の仕組みからこの解決が測れないか?との問を立てますが、税の仕組みは一長一短あり、あちらを立てればこちらが立たずと言った状況で、バシッと解決する方法はまだ見つかっていないのだとか。
具体的に言えば、あんまり高所得者に税金をかけ過ぎるとカップルが成立しにくくなるし、かと言ってやすくすると格差が広がる…そんな感じです。
筆者は最後に、「結婚しなくても困らない社会を作ること」が大事では?との提言をしていました。

以下は私の感想です。
「結婚しなくても困らない社会」この実現にはもうベーシック・インカムしかないのでは?と早合点したくなります。
ベーシック・インカムであれば、低所得の人のほうが税的な補助が多くなるし、子供を生むことで収入が増えるわけだから出生力にプラスに働くと思われます。
また、そもそも子供を経済的な負担から作れないという事態は減るのではないでしょうか。
加えて言えば、こうした経済的な基盤があることで、ケア・サービスに就職するハードルも下がり、サービスの拡充が格差の是正を伴いながら、進んでいくのではないでしょうか?
(ちょっと話がうますぎるので、眉唾ものですが)

ちなみに、現状ではケア・サービスは格差が前提で供給されており、ケア・サービスは供給する側が、自分たちのケアの機会を奪われる事態が生じています。
例えば、移民のケア・ワーカー(ナニー)は、自分の子供のケアを自国のケア・ワーカーにまかせています。
つまり、国と国との格差を利用して、先進国はケア・サービスを享受しているわけですね。
ケア・サービスを受けれる経済的に優位な女性しか、経済的な安定を得られないという格差の固定化が進んでいるようです。



ベーシック・インカムに興味のある方は、下の書籍もご参考になさってください。
   

関連記事
【読了】AI時代の新・ベーシックインカム論(井上智洋著、光文社新書)
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ベーシック・インカム - 国家は貧困問題を解決できるか (中公新書)
ベーシック・インカム - 国家は貧困問題を解決できるか (中公新書)
中央公論新社
大変楽しく読めた。
現実的に可能だと、データをもとに説明してくれている。
早く実現してくれたらいいのだけど…
でも世界中でまだ一カ国もやったことがないってのはどうしてなんだろうか?

以下、面白いと思った箇所。
・貧困はお金のないことなのだから、お金をばらまけばいい。
・バラマキのほうが無駄な公共事業などより平等でプラスになることが多い。
・バラまかない政策は基準の調査など無駄が生じる。

なかなか歯切れのいい展開も良かった。
自分の論拠の曖昧なところもしっかりと記載していて好感が持てる。
まめ、その上で現行よりはマシという結論もその通りだと感じる。

とどの詰まり、変えたくないから変えないのだ。
貧困が少数派だからってのもあるだろうし、頑張って働いている意識のある人はなんで働かないやつをバラマキで助けなきゃならんの?と思うのもわかる。
でも、それで貧困を解決できてないのだから、議論にはならない。
そして、著者も言うように、ベーシックインカムによって経営者と交渉ができる従業員は多く出てくるはずだ。
無理してブラック企業で搾取される世の中も変わるんじゃないでしょうか?

月7万ですよ。死ぬまで。
一人で生きていくなら、あと2-3万円あれば自分は十分だ。
そうなったらどう生きていきたいかなぁ。
バイトとボランティアでもいいかもなぁ。

【読了】ルポ 中年フリーター(小林美希著、NHK新書)

『ルポ 中年フリーター』(小林美希著、NHK新書)を読みました。



序盤、胸が痛くなる話が多いですが、最後には希望の光が差すという構成でした。
今後は少子化ですし、人材の確保が難しい時代になることが予想されるわけですが、こうした流れで中年のフリーターの方たちの可能性が明るいものになればいいなと感じます。
(移民の政策が進まなければの話ですが…)
しかし、前半の重さと言ったら…そこには”THE貧困”があぶり出されていました。

レールから外れると、もうレールには戻れず、かつ、ほとんど即貧困につながる流れが、取材を通じて見えてきます。
どう考えてもセーフティネットが機能していないと思わざるを得ません。
(本書では、アクセスに問題があるのか、法律・行政の運営に問題があるのかは触れていません)
この辺を知ると、ベーシックインカムの導入が本気で期待されます。
ベーシックインカム関連の本を読みたいと感じました。

また、あまりにも理不尽な働き方や生活を強いられているケースもあり、とても胸が締め付けられます。
自分はたまたまいい仕事につけたように思えます。
そしてそのことが少し後ろめたく思われるほどです。

『AI時代の新・ベーシックインカム論』の著書である井上智洋さんは、同著の中で以下のようなことを記載しています。
(私は大いに賛同するため、長めに引用させていただきます)

そう考えると、今、私がニートやホームレスではなく大学教員でいられるのは、究極的のところ偶然にすぎない。そして、私だけでなく、今順調な人は人生を歩んでいるという人は、等し並に運がよいのではないだろうか。(中略)人は、病気や障害、高齢、失業など様々な理由で貧困に陥る。純粋に労働意欲がなく怠けるというケースも中にはあるかもしれない。だが、勉強意欲や労働意欲がないことも、広い意味ではハンディキャップとはいえないだろうか? そうした人たちにも、生きる権利があってしかるべきではないだろうか? 生まれる前にまで遡行すれば、自分がホームレスになる人生を歩んでいたという可能性を私は全く否定できなくなる。その可能性に思いを馳せたとき、「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」が保証された社会であって欲しいと願わずにはおれない。
本当にそのとおりだなぁと思います。
たまたま、自分は今の状況にありますが、そうでない可能性もあったわけです。
そう考えると、この社会でのうのうと生きてこれたことがなんだか綱渡りをしてきたように感じられます。

安定ばかりを求めては行けないと、おじさんたちは言いますが、こういう本をよむと安定こそ一番大事と思えてしまいます。
エイベックス社の社長が言う「安定しているからこそ、付加価値を生むことができる」という言葉は印象的でした。

個人としては、人とうまくやり、少しでも他社の成長に貢献できるように慣れればなと、薄っぺらい気持ちをつのらせています。

また、やはり子どもには、安定を求めてほしいなぁと感じます。
そして、その事自体は、親としては寂しくもあります。
叶うならば、ベーシックインカムのようなセーフティネットの充実した社会で、本人の希望に沿った生き方が選べればなぁと思います。

仕事の有無にかかわらず、その人の尊厳を保てる仕組みがあるといいなぁと心から願うばかりです。



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お金を使わないことを目指すのがいいことなのかどうなのか

私は大学の関係者ですが、今大学の置かれている状況はなかなかに厳しい。
少子化がどんどん進む中、定員の削減は定期昇給があって、雇用の整理ができない日本ではなかなか難しい(どんどん頭でっかちになっちゃうから)
また、一度作った組織を壊すのは、そうそうできることではない。
失敗した事業(例えばあまり人の集まらない立地に校舎を建ててしまった、など)もかんたんには是正できない。
また、事業から撤退したとしても、マイナスのイメージが着くから、大本の授業料納付金が集まらない(定員が確保できない)というリスクが伴い、判断を更に先送りにし、事態が悪くなっていく(大体理事も高齢なので、自分のいるときには撤退をしたがらない)。
こう書くと、高等教育というのは、なかなか経営が難しい業種なのかもしれない。
というか、いろいろな意味で、起死回生ができない業種といえるのかもしれません。

まだまだ私の職場は普通に給料をもらって、普通に少しくらいの残業をすれば回るくらいの状況ですが、定員割れをしている大学さんは多分新卒も雇えず、毎日馬車馬のように働いているのだと思います。
とはいえ、明日は我が身。

そんなことを思えば、とりあえず今のうちにお金をためておこうと思うのは当然のことでしょう。
これは日本経済低迷の根本的な理由の一つに加担をすることになるかもしれませんが、リスクを考えると、貯めざるを得ない。

収入は残業をすれば増えるでしょうけど、働き方改革がこうも叫ばれている時代にそんな働き方は許されることもなく、かと言って副業をするほどの時間的な余裕もない。
家事、子育ては待ってくれません。
じゃあどうするの? 支出を減らすしかないですよね。

ということで私の今のお小遣いは2万円ほどです。
といってもこの内使うのは1万5千円程度。
家計は私が管理しているため、2万円はあくまで予算としての考えで、実際には2万円をもらうというよりは、倹約をしながら生活していたらだいたい1万5千円で過ごせているという状況です。
で、これをもう少し絞ろうとすると、結構しんどい。
多分、以下のようなことをしなくてはいけなくなります。

・携帯電話のsimを最安のデータ専用にして、電話はIP電話にする
・交通費を浮かせるため、どこにでも自転車で行く(子供を連れて)
・高い料金の娯楽施設には行かない
・飲み会には行かない
・本は図書館で借りる
などなど…

まぁもうすでにこの辺のことは半分足を突っ込んで入るんですが、今よりも締め付けるとなると、多分子供の活動範囲(休日の遊び内容)にも影響を及ぼしそうで気が引ける。
自分のモチベーションとしても、収入が深刻なまでに少ないわけでないから、ついつい「別にいまのままでいいんじゃねぇの?」的な落とし所を探る自分がいる。
とは言え、一方で「ここまで削れたらやばくない?(すごくない?)」とウキウキする自分もいる。
でもそれを「一体何のために生きているんだい?」と諭そうとする自分もいる。

どうすればいいのかは、多分その時のノリで決めるのでしょうけど、多少は人付き合い(通信費、交際費)にはお金をかけないと、それはそれで老後の孤独など、別のリスクを生みそうだなぁなんてことも思うし、リスクを想定し始めたらなんだかもう全部考えるのが面倒になってきてしまう。

とりあえず65歳までの収入と積立のシュミレーションはしてみたのですが、仮に私の勤める大学が15年持つとすると、65歳まで働けたときのおよそ半分ほどのお金しかたまらない。
そしてそれは残りの人生を賄えるほどの額ではない。
(年金もあてにできないしね)
だからできれば潰れないでほしいなぁと思うけど、こればっかりはなんともわからない。
転職はあまり考えていない。というのは、今の状況はまだ悪くないから。
でも今後悪くなったとして、(例えば15年後に)転職できる仕事なんてあるのかな、と少し不安になるのは『AI時代のベーシックインカム論』を読んだから。
仕事がなくてもベーシックインカムがあればいいけど、仕事が無いけどベーシックインカムがない世の中も十分ありえるわけで。

いざとなれば、バイトで妻と2人で月10万円ずつ稼げば、まぁ不自由なく暮らせるわけだから、当面は今のシュミレーションで続けて良いのかもしれない。
でも、自分が働けなくなったら…?
その保険も必要なのかなぁ…。
と言うか、そういうときこそ人のつながりが大事な気もしてくる。
やっぱりある程度、使うべきときにはお金を使うべきなのでしょう。
でも、「使うべきとき」っていったいいつのことなのだろうか…。
そして、何に対して…?

ーーー
年金については、先日未来年表 人口減少危機論のウソ (扶桑社新書)を読んで少し安心したのですが、「しかし本当に想定する経済成長を起こせるの?」という疑問が残りました。
なかなか不安はなくなりませんね。
とはいえ、本書は将来に新しい視点を示してくれました。
一読をおすすめいたします。


汎用AIがBIを連れてくる?(AI時代の新・ベーシックインカム論から②)

先日読んだ『AI時代の新・ベーシックインカム論』で紹介されていたAIの発展について、思うことを少々。

近頃、囲碁や将棋の世界でのAIの話題が多くなってきております。
これらは、特定の処理を高速に行うことができる、「特化型AI」と呼ばれています。
ある特定の職域は、こうした「特化型AI」に取って代わられることが予想されますが、人間の特異的な性質は「汎用性」という、新しい処理を覚えてそれをブラッシュアップできるところにあります(だから本当は人間よりAIのほうが専門職は得意なんでしょうね。かつ、人間には汎用性があるのであるから、昨今の非正規化の流れは、経営者の自由を追求するとすれば、必然なのだと思います。余談ですが)。
ところが、今AIの世界で目指されているのは、まさにその汎用性を持ったAI、すなわち「汎用AI」の開発なのです。
汎用AIが完成した暁には、情報を扱うことはすべてAIがやってくれるようになるようです。
情報というとわかりづらいかもしれませんが、要するに事務仕事については、ほとんどAIやAIを搭載したロボットが人間の代わりにやってくれるという事ですね。
「Hey,Siri.ウチの会社の過去5年の売上実績と純利益を比較して、分析結果をA4一枚くらいのレポートにしてくれる?」みたいなことができるようになるかもしれません。

こんな時には、もうロボットが肉体労働も取って代わるでしょうから、言葉通り、殆どの仕事がなくなります。
残る仕事は、想像系、経営・管理系、ホスピタリティ系の仕事のみとなり、更にそれらの仕事のなかでも、半分近い仕事が特化型AIによって奪われる可能性があると指摘されています。
結局、人口の一割くらいの人しか働く必要がなくなる社会が来るわけです。
「そんな世界で大丈夫なの?」と思いますね。
答えは、微妙です(またか!)。
働く人が減ったとしても、経営する人は、機械やAIを使って収益を出すことができます。
つまり、経営者と貧困者の格差が拡大していくわけです。
ただ、こうなると、実は経営者も困ります。
なぜなら、モノに対する需要が次第に乏しくなり、付加価値をつけてイノベーションを起こす機会がなくなるからです。
そうなると、どんどん経済全体が落ち込んでいくことになり、結局は資産家もジリ貧になっていくという流れですね。
ところが、こうした社会にBI(ベーシックインカム)が導入されることで、人々の暮らしを守ることができ、かつ需要も喚起することができるというのが著者の主張です。

大体こんなことが2030年頃から2060年までには、起こるだろうとのことですから、ひとまずはそこを安定して迎えることができるように、貯金をしておかなくちゃなと思います。
あとは、その辺から働かなくていいなら、なるべく元気に趣味を謳歌したいと思いますので、あまり仕事を頑張りすぎず、のんびり心穏やかに健康的な暮らしをしていきたいなぁと感じます。
実際のところは、BIが導入されるかどうかわかりませんし、汎用AIが導入されるかもわかりません。
だから、今まで通りに生きていくほかない訳ですが、こういうことを考えると、「お金の心配がなければ何がしたいか」という皮算用が、現実味を帯びてきます。
皆さんは、お金の心配がなければ何をしたいですか?

私は、正直、今の生活のままでいたいです。
上昇志向なんてありませんし、現状維持で十分幸せです。
ただ、仕事をしなくていいならば、今仕事をしている分の時間の半分くらいをボランティアに使い、もう半分を趣味に使うくらいがちょうどいいような気がします。
こんな考えが広がり、人々の自発的な活動が、結局みんなの暮らしを豊かにするような社会になるのであれば、さっさと汎用AIが普及して、BIも導入されるといいなと思います(そんな都合よくいくとは思えませんけどね)。

ただし、と著者は警鐘を鳴らします。
汎用AIが導入されて、BIが導入されないならば、格差が拡大し、固定化された社会、すなわちディストピアの社会が到来することも想定されるのです。



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【読了】「官僚とマスコミ」は嘘ばかり(髙橋洋一著、PHP新書)

『「官僚とマスコミ」は嘘ばかり』(髙橋洋一著、PHP新書)を読みました。

この作品は、先日『AI時代の新・ベーシックインカム論』(井上智洋著、光文社新書)を読んで、財務省がHPで堂々と国民をミスリードしようとしていることに衝撃を受けて手に取りました。
国家レベルの虚言(AI時代の新・ベーシックインカム論から①)

本作で種明かしされるのは、官僚がいかにしてマスコミをコントロールしているのかです。
それに付随して、コントロールされてしまうマスコミとはどんな人たちなのか、ということも書かれていました。
なんとなく、記者というと、ジャーナリズムという高い志を持った、知力・体力・気力に活気あふれる人種というイメージがありますが、本書で語られる記者は知識がなく、数字が読めず、官僚の言いなりという姿が描かれています。
また、新聞やテレビというメディアは、法律に守られている存在であることも明らかにされます。
どんなふうに守られているかは、著者のWeb記事をご覧になってください。
こんなんでよく世の中のことが批判できるなというふうに思ってしまいます。
新聞テレビが絶対に報道しない「自分たちのスーパー既得権」(講談社現代ビジネス)

その他にも、例えば「フィリップス曲線」という金融政策を実施する上でインフレ目標を決める道具も紹介されていました。
インフレの状況は、常に失業率と関連して説明されるのが海外では当たり前で、インフレが進んでも、フィリップス曲線に当てはめてみて、失業率がまだ下限に達していないのであれば、金融政策を緩めてインフレに進めればいい、ということが自動的に決められるという便利な道具です。
ちなみにこの失業率の下限の始まりの場所(最小のインフレ値)をNAIRUという言うそうです。
(豆知識です)

つまり、新聞等でよく聞く、インフレ目標2.0%と言うのは、日本におけるNAIRUを目指しているわけですね。
なんで2.0%と思っていましたが、根拠があったのです。

また、著者も井上氏と同様、「財政再建には反対」の立場を取っておられます。
結局バランスシートで考えたときに、日本の財政は諸外国と比べても、そんなに悪いわけではなく、アメリカと比較しても健全で、むしろもっと積極財政を行わないとダメだとの主張です。
なお、外務省も、外国で国債を売るときには、バランスシートを使っているようです。
いかに健全なのかを伝えないと、買ってもらえるわけありませんもんね。

こうして考えると、果たして新聞とは?テレビとは?と思ってしまいます。
一次情報にアクセスしやすくなった今の社会で、報道機関とはどういう役割が求められているのかを改めて問われる必要がるように思います。
ぜひともメディアに市場経済の原理を働かせていただき、第四の権力として、既存の権力に鋭いメスを入れていただきたいと思います。
そのためにも、広く浅い記事ではなく、「経済なら〇〇新聞」「教育なら〇〇新聞」「政治なら〇〇新聞」というように、個性を強めていってほしいと思います。
そうすることが、官僚との間に緊張感を生むことにもつながるでしょう。
私は新聞を購読していませんが、そんなふうになったら私も何か購読するかもしれないなぁと思います。

いろいろな見方をする必要がありますが、自民党も、官僚も、いいところとだめなところがあるということを感じます。
極端はあまりないようです。
マスコミが盛大に何かを報道するとき、だいたいは裏にマスコミの思惑がありそうです(例:モリカケ等)。
また、本書を読むと、安倍政権は経済政策においてまともだという印象を持ちます。
実際はどうなのか、私には結論が出せませんが、少なくとも雇用は回復しているし、経済政策も誤ってはいない感じ。
賃金上昇という目に見える効果が出るのは、どうもこれからのようです。

それから、官僚も有能な人が働いてくれているのだろうな、と少し安心しました。
なんとなくドラマなどの影響なのか、官僚と政治家は悪いやつばかりというイメージがありましたし、また、本書の中でもしょうもないのもいるような描写もありました。
しかし、それもやっぱり極端な話で、殆どの人は誠実に働いているんだろうなぁと思わされます。
じゃなきゃ、とっくにもっと大変なことになっているように思われます。
(とはいえ、消えた年金問題なんかのように、大変なことになっちゃった例もありますが…)

最後に、昨今の研究への助成に対する「選択と集中」についても、非常に珍しい理系出身の財務官僚として、疑問を投げかけています。
結局研究とは博打で、ハズレは多いが、当たればすごいことになる。
どのくらいすごいかというと、ハズレを全部取り戻してあまりあるくらいにすごいことになる。
ところがどっこい、(選択と集中をすると言っても)当たるかどうかは、やってみないとかわからない。
だから、投資と考えるべきだ、という論ですね。

これは、教育に関連する仕事をしている人間としては、非常にありがたい気持ちと、そのとおりですよね、という共感の気持ちがわきます。

研究とは、長期にわたるものです。
そして、成果が出てくる可能性は未知数です。
でも、それをやらなければ、革新的な技術発展はありえない。
であるならば、未来のために投資をしようという発想は、至って当然の発想であるように思います。
「明日の便利より、今日の飯」という状況の方ももちろんいるでしょう。
しかし、国の方針として、やはり未来の世代のことにも思いを馳せて予算を分配してほしいと思います。
そして、それは理系の技術的なものだけではなく、文系の文化的なものについても同様に発展と保存を目指して、支援をするべきではないでしょうかーー。

と、そんなことを思ったのでした。

やっぱり導入しようよベーシックインカム

【読了】妻たちの思秋期(斎藤茂男著、講談社+α文庫)
の続きです。

『妻たちの思秋期』を読むと、男女の平等はどこに置くべきなのか?ということを考えてしまいます。
男と女は生物学的に見てもかなりその生態に違いがあります。
(例えば月経や妊娠・出産など)
あくまで肉体的に、という意味のおいては、男のほうがあまり変化がなく、安定していると言えるでしょう。
だからこそ、会社という組織に属する歯車としては、男のほうが都合がいいのです。

しかし、この前提で物事を話していくと、どうしたって女性は勝ち目がありません。
だってそれは生理的なことだから。
それは背が高い人のほうが出世に有利(そんな会社があればの話ですが)というくらい理不尽なことに思われます。
とはいえ、こうした流れは急には変わらないでしょう。
ましてや日本の場合には解雇ができませんから、ことを慎重に進めるだろうと思われます。

じゃぁどうすればいいか。
とりあえずベーシックインカムを始めましょう。

夫婦のトラブルでも、一番の問題は「お金」のことだと思います。
お金のことさえ解決できれば逃げられる女性が多いというのが現実ではないでしょうか。
また、離婚による貧困で困るのも、ほぼ女性でしょう。
子の面倒を見るのも多くは女性でしょうし、育児や主婦でブランクのある女性が正社員で就職できてかつ子を育てられる収入が得られるかといえば、かなり厳しいはずです。

だから、女性限定でもいいのかな?とも思いましたが、そうすると、多分女性は肩身がせまくなることでしょう。
「男に食わせてもらえていいな」的な嫌味を言うやつが出てくるでしょう。
そんな社会で果たして自己実現ができるかといえば、厳しいように思います。
だから、さっさと全員への支給を始めましょうよ。
始めてしまえば、世の中の流れを変えるきっかけになると思うのです。

  

【読了】AI時代の新・ベーシックインカム論(井上智洋著、光文社新書)

先日の記事『【読了】ルポ 中年フリーター(小林美希著、NHK新書)』でも引用をした『AI時代の新・ベーシックインカム論』を読みました。

めちゃくちゃおもしろい本でした。

まずは経済の話から入り、AIの今後に触れ、ついで政治的な思想に移り、最後はVR技術で締めくくるという構成。
非常にテーマが広く、かつどの項でも易しく、わかりやすい表現で説明がされており大変勉強になりました。
読んでみると、BIの導入は当然のように思えてきます。
著者の予想では2030年頃には汎用AIができ始めて、BIが導入されないならディストピアになりかねないと警鐘を鳴らします。
また、BIが導入されないと、消費がダメになるため、結局は経済が立ち行かなくなるとも主張。
要するに、BI等のバラマキをするしかないという結論になるということを説明していました。
2030年に失業か…と思うと、真面目に働くのがもう馬鹿らしいことのように感じてしまいます。
でも、著者の主張は笑ってしまうくらい肯定できます。
私もまた、リバタリアンでリベラリストなのかもしれないなと感じました。

あまりにも面白かったので、①貨幣制度、②AIの発展、③VR技術の3項目について、別途思ったことなどを書ければなぁと思います。
本書を簡単にまとめると、①により財源の確保は問題ないどころか、財源確保を行うためにもバラマキが必要だと主張します。
②によって雇用がなくなることを示し、BIが導入されるだろうと論じます。
導入には、「儒教的な道徳観」から派生してくる暗黙のルールが邪魔をするだろうと予想。
最終的にはBIの導入により人々はより人間らしく生きることができるだろうとまとめるかと思いきや、③の出現によって、人間の営みとは?という問を立てて幕が閉じます。
AI、BI、VRの導入で、これまでに実現しなかった優しい世界ができるかもしれないけど、それってどうなの?という問ですね。

少し方向はずれるかもしれませんが、どんどんと『素晴らしい新世界』(ハックスリー)の世界観に近づいているように感じます。
(そのうち発生も管理されるかもしれません)

また、「無知のヴェール」などの話を読むと、自分の人生も「たまたま」の上に成り立っていると理解でき、他の人に対して少し優しくなれる気がしてきます。

押し付けがましいところのない、素敵な本だと思いました。





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帝国主義(幸徳秋水、岩波文庫)




先日、幸徳秋水著の『兆民先生』を読んで、もう少し同氏の別の書も読みたいと思って帝国主義 (幸徳秋水、岩波文庫)を読んで見ました。
兆民先生(幸徳秋水、岩波文庫)

これでもかというほど執拗に帝国主義(暴力を持って領土拡大をすすめる国の姿勢)を批判し続けていました。
軍人の主張する軍備拡充の必要性を、一つ残らず叩き潰す感じ。
痛快です。
曰く、
・戦争によって、経済が疲弊している
・戦争によって、芸術、文明が破壊されている
・暴力的な組織(軍隊)が、社会的規範を破壊している
・軍隊が暴力を呼ぶ
・戦争をしたいと思うのは動物的本能である
などなど。

確かに、戦争はかなりお金を必要とすることが、本書を読むとわかりやすく解説されています。
ただ、問題なのは、そのお金のかかるところが極端に偏るというのが問題で、多くの費用は戦争に関連する産業にしか回らない。
そして、福利の方は手薄になる。
そうすると、結局貧乏な人ほど大変になり、社会が回らなくなるということですね。
至ってその通りです。

工業製品の生産過剰についても、中産階級以上は貧民の労働力を搾取することで海外展開するほどの生産力を持つけど、その海外進出する原因(国内の需要量を生産量が上回ってしまうの)は国内の人々から購買力がなくなるためだということを指摘しています。
これはまさに資本論に通じるものではないのでしょうか?
というか、社会主義者と自分で言っているくらいなのですから、多分そうなのでしょう。

この本を読むと、社会主義の本来の意義というか目的がわかってくる気がします。
「格差の是正」、それにともなう「平和」こそが、幸徳秋水の思い描く社会主義の世界だったのでしょう。

社会主義は、私達の中では基本的に「失敗作」として理解されているように思います。
しかし、その思想のいいところを、うまく今の社会に取り込まないと、今後ますます格差は広がり、やがてまた凄惨な事件を起こすような気がします。
ということで、ぜひベーシックインカムを導入してほしいなぁという思いを新たにしました。
ベーシックインカム関連記事

ところで、改題を読むと、幸徳秋水のこうした「平等」「博愛」「平和」という思想は、中江兆民から受け継いでいるとの記載がありました。
そう書かれてしまうと、中江兆民の作品も読みたくなってしまいます。
とりあえず、三酔人経綸問答 (岩波文庫)を読んでみようかなぁと思います。

また、改題では、本書を中江兆民に事前に見せてやり取りをしたのが『兆民先生』内の書簡のやり取りに当たるとの解説もされていました。
なるほど、そういうことだったのかと腑に落ちました。
原著を読んでから誰かの解説を聞くというのも、面白いものですね。

また、同氏の著書で面白そうな本があったので、借りてみました。
書名はズバリ『現代語訳 幸徳秋水の基督抹殺論』。
どうも基督を当時の天皇のスケープゴートにして批判をしたという疑いをかけられている作品のようです。
でも、そんなことどうでもいいくらいに、基督教をボコボコにしています。
イエスキリストは、当時こんなにも無名だったのかと思うと、一体今のキリスト教とは何なのだろうかと思わずにはいられません。
先日『旧約聖書物語』を読み終えて、『新約聖書物語』を今度読もうと思っていたのに、一体どういう心持ちで望めばいいのやら・・・。
でも、”物語”だから、その時の”つもり”で読めばいいのか。
旧約聖書物語(犬養道子、新潮社)

そういえば、本書の序では、キリスト教徒の内村鑑三が文を寄せていました。
内村鑑三が『現代語訳 幸徳秋水の基督抹殺論』を読んだら、なんというのか、非常に興味がわきます。
友達の思想をこてんぱんにすることに、抵抗はなかったのだろうか。
ネットで調べた限りでは、あまりそういう資料は残ってなさそうですが、今度内村鑑三の著書も読んでみたいものです。

また、当のキリスト教徒やキリスト教会は、この辺の事実をどう捉えているのだろうかとも気になります。
別にキリストがいたかどうかは関係ない、聖書が聖書として信じられてきたことが大事なのだ、という論説もあるかもしれませんが、胡散臭さを拭い去ることはできないでしょう。

それにしても、キリストがいたのかどうかなんて、考えたこともありませんでした。
私はてっきりいたものかと思っていましたが…頬に平手打ちを受けたような思いです。

ちなみに、『クルアーン』(イスラム教)では、キリストを預言者としては認めているものの、メシアとしては認めておらず、同様に三位一体説も否定をしています。


    

“有能さ”ついて(『「官僚とマスコミ」は嘘ばかり』から)

「有能な人間」と聞いて、どんなイメージを持つかは、多分人によってかなり違うとは思いますが、だいたい何パターンかに集約されることでしょう。
・人柄でみんなのまとめ役になるタイプ(スラムダンクの小暮先輩 等)
・個人としての能力が高い職人タイプ(ブラックジャック 等)
・時代の先を見て牽引するタイプ(スティーブ・ジョブズ 等)
などなど、まぁ上げてみればいくらでも上がるでしょうけど、こんなところではないですか?

私の中では、有能の最たるものは漫画「ヒストリエ」のエウメネスや「シン・ゴジラ」の矢口などがそうなのですが、どこがどうすごいのか、いまいち自分でも言葉にはできないでおりました。
そんな中、先日読んだ『「官僚とマスコミ」は嘘ばかり』で、以下のような表現が出てきて衝撃が走ります。

本当にできる財務官僚は、「人間的魅力」と「使命感」と「友だち甲斐」で人脈を広げていける人たちです。(中略)日本のできる官僚たちは、そのようにしてできあがった人脈を武器として国を動かしていくのです。(中略)だからこそ、先ほども述べたように、机にへばりついているばかりの官僚は「能力がない」と見なされるのです。(中略)官僚たちがそのような役割を果たしてきたことは、「国を動かす」ということを考えた場合、けっして悪いことだけだったわけではありません。(『「官僚とマスコミ」は嘘ばかり』P145〜147)

そう、まさにこのことが言いたかったんです。
人を巻き込んで、大きなことを動かしていく、そして、自分はトップではないけど多くの人間関係の中心にいて全体の方向性をコントロールできる、そういうことが“有能”なんだーー。
(このように他人の文を読んで自分の考えが適当な表現を持つというのも、読書の楽しみの一つですね)
しかし、こういう能力というのは、「才能」による部分が大きい気がします。
見た目もあるでしょうし、性格もあるでしょうし、家庭や友達の環境も大きいのでしょう。
つまるところ、「運」と言えると私は思います。
(努力できるのも才能ですから)

こういう“有能さ”というものは、残酷ながら人間社会においては普遍的なアドバンテージだと思います。
どんな組織、団体であっても、優秀な財務官僚のような人間は求められるでしょう。
しかし、頑張ってこういう人間になろう、と考えるのは、不幸な考え方ではないかと私は心配してしまいます。
同様に、「頑張って官僚になり、国を動かせ!」という叱咤激励も、励まされる側にとってはおせっかいで、危険な気づかいではないかと思われてなりません。
いかに使命が大きく、やりがいのある仕事だとしても、合わない人には絶対合わないし、こういう仕事が合う人というのはとても限られた人間だと思うからです。

冒頭でも書いたように“有能”の価値観は、個々人違います。
そして、何よりも有能かどうかは、他人が決めるという点に注意が必要です。
新自由主義的な発想であれば、当然有能な人のほうが市場価値が高いので、そこを目指しましょうという発想につながることは想像できます。
そりゃ一般論でも、無能と言われるよりは、有能だと言われたいでしょう。
ただし、皆がみんな、有能に生まれてこれるわけではありません。
ですから、有能を目指す、という考えに縛られると、自分がなんなのか、わけが分からなくなってしまうのではないかと心配してしまうのです。

AIが発展して、これまで普通に生きてきた「特段有能でもない人」たちは、仕事を失う可能性が大きくなってきます。
そうなると、BIのように、働かなくても生活を保証する仕組みが導入されることでしょう。
というか、そうならないと、皆死んでしまいます。
関連記事
【読了】AI時代の新・ベーシックインカム論(井上智洋著、光文社新書)
汎用AIがBIを連れてくる?(AI時代の新・ベーシックインカム論から②)

仕事がなくなっても、生きられる時代が来るのであれば、人生をどう幸せに生きるか、ということが重要になっていくと私は思います。
その視点に立ったときに必要なのは、むしろ「自分の能力はどのへんなのか?」ということ知ることではないかと思います。

もちろんそれは自分の限界を知ることですから、面白くありません。
でも、気持ちは楽になるでしょう。
気持ちが楽になれば、自分の生きられる世界の中で、面白いものが見えてくるはずです。

私の持論ですが、暇になれば、人間は学びます。
また、学びとは、すなわち遊びです。
学んで遊ぶといえば、研究者ですね。
つまり、働かなくてもいい時代と言うのは、世の中の皆が研究者になれる時代なのです。
人からどう思われても関係のなく、自身の興味のある研究に没頭できる世界。
成熟した社会というのは、そういう社会のことを言うのではないかと、そんなことを考えさせられました。

そして、そんな社会になったら、有能の意味合いも変わっていくのかもしれません。
本の内容とは関係ないですけどね。

余談ですが、先日根津美術館で聴いた奥平先生の話では、貴族の遊びに「和漢聯句」というものがあったそうです。
これは最初を和語の句で始め、以下五言の漢詩句と交互に詠み進めるもの(デジタル大辞泉から)だそうで、要するに連想ゲームみたいなものなのでしょう。
こういう遊びをした、ということが当時のお偉方の周りの人の日記などから確認ができるそうです。
そして、こうした遊びは、一度始まると三日三晩続いた、なんてことも書かれているのだとか。
遊び方が半端じゃないですね。
多分求められた教養も半端じゃなかったんでしょうけどね。
こういう例を聞くと、文化が遊びから生まれたという論がしっくり腑に落ちる気がしてきます。
【聴講】燕子花図と洛中洛外図(奥平俊六さん)@根津美術館

  

幸せな世界とは(AI時代の新・ベーシックインカム論から③)

先日読んだ『AI時代の新・ベーシックインカム論』を踏まえて、特にVR技術について思うところを書いてみたいと思います。
本書の面白い点の一つに、BIとAIの話が中心になっていると思いきや、最後はVR(ヴァーチャルリアリティ、仮想現実)の技術についての警鐘で幕を閉じるという点があげられると思います。
本書の中でも突然湧いて出てきた感が否めないこのVR技術は、私たちの暮らしを根本から変えてしまうといいます。
著者は、VR技術の発展した世界を、映画『マトリックス』で例えていますが、それを聞いて私はハックスリーの『すばらしい新世界』を思い出しました。


人間は受精卵の段階から培養ビンの中で「製造」され「選別」され、階級ごとに体格も知能も決定される。また、あらゆる予防接種を受けているため病気になる事は無く、60歳ぐらいで死ぬまで、ずっと老いずに若い。ビンから出て「出生」した後も、睡眠時教育で自らの「階級」と「環境」に全く疑問を持たないように教え込まれ、人々は生活に完全に満足している。不快な気分になったときは、「ソーマ」と呼ばれる薬で「楽しい気分」になる。人々は、激情に駆られることなく、常に安定した精神状態である。そのため、社会は完全に安定している。ビンから出てくるので、家族はなく、結婚は否定されてフリーセックスが推奨され、人々は常に一緒に過ごして孤独を感じることはない。隠し事もなく、嫉妬もなく、誰もが他のみんなのために働いている。一見したところではまさに楽園であり、「すばらしい世界」である。すばらしい新世界 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

こうやって考えてみると、マトリックスとすばらしい新世界が描こうとしているのは、非常に近いものがあると思います。
そこで問われているのは、「自分の知っている世界とは別の世界があり、別の世界から自分のいる世界がコントロールされているということを、知らないほうが幸せかどうか」でしょう。
私個人としては、さっさとすばらしい新世界のような世界が訪れることを願っておりますが、そのことが人間の営みとして正しいかどうかは、個々人意見の別れるところでしょう。
正直今に生きる私としては、違和感は感じまくりです。
そして、結局のところ、どんな世界を作ったとしても、ネオやジョンのような人間は出てくると思います。
なぜなら、これまでだって自分の知っている世界が、別の誰かにコントロールされているという状況は多々発生しましたし、人々はそこから脱することで文明が発展してきたからです。

たとえVRで一部(あるいは大多数)の人が「誰も傷つかない優しい世界」に没頭したとしても、おそらくそれとは違う世界(VRを排除した世界)が形作られるように思われます。
その世界とは、「人間の、人間による、人間のための社会」とでも標榜した世界になるのではないかと想像されます。
問題は、その2つの社会が共存できるかどうかではないでしょうか。
特に、人間の社会側が、VRの世界に生きる人々を許せるかどうかが重要になる気がします。

私は、できればVRの世界に住みたいし、そこで生きることを放っておいてほしいと思います。
皆さんはどうでしょうか?

ちなみに、本書では、VR世界の「人間社会としての欠落」した点を儒教やコミュニタリアニズム、アレントの視点から見つけつつも、だからVR世界がだめなのかというと、結論はすぐに出せないと締めくくっています。
確かに、VRに人々が溺れてしまうことは、意思のない個人を作り上げてしまう可能性があります。
そもそもその人を一人の人間としてカウントするかどうかについても、議論があるかもしれません。
マトリックスでは、だからこそ機械が世界を運用していたのでしょう。

果たして、私たち人類は、そのような世界を選ぶのでしょうか。
正直、そこに至る道筋が、私には全くイメージできないというのが、正直な感想です。
VR世界には浸りたいけど、想像力が追いつかない、もどかしい気分です。
ということで思いは答えに至らず、結局、「これまで通り生きていくことになるのではないか」という、面白くもない締めくくりになってしまいました。



ハクスリーは、『すばらしい新世界』では皮肉を持ってディストピアを描いたようですが、『島』という作品ではユートピアを描いたようです。
こちらも読んでみたいなぁ(と思うけど、古書なんですね)。

国家レベルの虚言(AI時代の新・ベーシックインカム論から①)

先日読んだ『AI時代の新・ベーシックインカム論』で知った、日本の財政状況について簡単にまとめます。

驚くべきことは、日本の財政は、全然悪くないということです。
どういうこと?日本って700兆の借金があるんじゃないの?それで全然悪くないってどういうこと?と思う方もいると思います。
私も大変驚きました。
でも、実情はそうではないようです。
日本政府が抱えている負債のは、国内における公債発行によります。
そして、公債は、日銀による買いオペレーションによって、貨幣と交換することで、市場から回収することができます。
「それでは結局お金を出すんだから借金じゃないか」と私は思いましたが、ここに通貨発行権というものが関わってきます。
中央銀行は、お金を作り出せるのです。
1万円札を作るのに、およそ20円のコストがかかることから、9,980円の利益を“生み出す”ことができます。
負債を回収するためのコストを自分で埋め合わせることができるわけですね。
そんなんあり?と思いますが、そうやって買いオペと売りオペで市場の貨幣量を調整することによって金融を調整するのが中央銀行の役割なのだそうです。
知らなかった…。こんなこと公民でならったかしらん?

そこまで説明を受けて、私としては気になることが出てきました。
「そんなことして大丈夫なの?」
答えは、微妙のようです。
なぜなら、買いオペレーションで市場に貨幣を流すことは、インフレーションを引き起こす可能性があるためです。
しかし、現在日銀は毎年60兆円分の公債を回収しているようですが、それでも目標としているインフレ率2.0%には達していないようで、つまり、今市場に貨幣を投下しても、しすぎることはない(インフレに向かわない)という状況だといえます。

ちょっとまってくれよ、そんなわけねーだろ!嘘ばっかし!
財務省はなんて言っているんだ!と私は思いました。
そこで、財務省のHPを見てみると、まぁ素敵に解説されています。
動画、図解、予算のポイント等を見ながら日本の財政を考える(財務省HP)
国の借金が多く、毎年増えている、だから増税が必要なんだ、という論法です。
非常にわかりやすい。
これを見たら、消費税上げなくちゃいかんねーなんて思いかねません。
(と言うか思ってました)
これに対しては、【三橋貴明】国を家計に例えるのはやめようをご一読ください。
これを読むと、途端に怒りがこみ上げてきます。
国レベルで国民を騙そうとしていると疑わずにはいられません。

その後も「なんでこんな騙すようなことをするのだろうか?」と調べてみておりますが、ここからはいろんな推測があるようです。
財務省の天下り先確保のためだなんていう意見もありましたが、どうなんでしょうね?
「部分的にはあるのかな?」なんてワイドショー的な疑い方ですが、確証は見つけておりません。
ちなみに、ある人の記事では、所得税がこれ以上あげられない(他国と比べて高い)から、消費税でまんべんなく税を徴収したいという思惑があるのではないか、と指摘していました。
しかし、消費税とは、相対的に低所得者が損をする税です。
そして、消費税増税はデフレを引き起こすことから、産業界からも敬遠されてします。
となると、安倍政権でこういう方針を立てていると言うのは、あまり考えづらいような…
(所得税を上げさせない方には安倍政権が噛んでいてもおかしくない気がしますが…これも憶測の域をでておりません。)
まだまだ勉強不足なのですが、謎は深まる一方です。

それから、なんで借金がないなら最近の災害等における復興にお金を回さないのか?という意見もあるかと思います。
なんでなんでしょうね?これは私にもよくわかりません。
もっとバンバン国債を発行して復興に予算を回せばいいのにと思えてしまいます。
素人としては、ある程度モラルを持って予算を配分しようという良心を感じます。
それが本当なのか、また、対応として正しいことなのかどうかは、全然判断できませんが…。

この辺は高橋洋一さんという方が詳しいようなので、高橋さんの著書を色々と読んでみたいと思います。

 

詳しい方がこの記事をお読みになられたら、ぜひご解説やご指摘をいただけるとありがたいなと思うばかりです。

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【読了】酒飲みの社会学(清水新二著、素朴社)

酒飲みの社会学』(清水新二著、素朴社)を読み終えました。
酒飲みの社会学―アルコール・ハラスメントを生む構造酒飲みの社会学―アルコール・ハラスメントを生む構造素朴社
面白かったです。
参考文献の紹介が少なめなため、より深く知りたいなと思う点などはちょっと残念でした。
また、それ故に、「これって憶測なのでは?」という箇所がちらほらあるのも少し気になりました。
しかし、ストーリーは流れるようで、講義を受けているように感じました。
また、憶測ではないかとの箇所についても、その意見に共感できるという箇所が多く、親しみを持って読み進めることができたのが印象的です。
「研究者たちはこう言ってるけど、私はもっとこうだと思うんだよね」という感じが、とても中立的というか、人間味があるというか、あまり抵抗なく「そうですよねー」と納得できてしまう魅力があります。

著者は、日本における酒があることを前提にしている社会システムを「アルコホリック・ソーシャル・システム(ASS)」と名付けていました。
ASSとは、次のような事を言います。
①飲酒と集団的に共有された酔いのどちらに対しても寛容な飲酒文化
②アルコールが社会の組織化に決定的な役割を果たしている
③アルコールに対する構造的脆弱性
④許容と統制が同時存在する統合メカニズム
⑤以上の四点は、女性には必ずしも当てはまらない。
(『酒飲みの社会学』P67)
日本では共に飲むこと以外に、共に酔うことが求められているといいます。
共に酔うことで、ソトの人間をミウチ化してしまおうという思いがあるようです。
そうしたミウチ化が組織形成や社会形成に必要だという認識が共有されているがゆえに、 飲むことで組織感の意思疎通も図りやすく、それがまた個々の関係形成に酒を必要とする状況に還元されているということですね。
また、日本のアルコール依存症の患者は5万人だが、予備軍としては240万人いると書かれていました。
その背景には「アルコール依存症=逸脱した人」という認識が未だに根強く残っていることがあります。
こうしたレッテル貼りは、かなり強い抑止力として、酒以外にもあらゆる反社会的な行動を抑える力を持っているとのこと。
日本は、こうした他者の目で社会をコントロールする社会なのですね。
それは、一方では犯罪率の低さなどにつながっているわけですが、一方では生きる選択の幅が少ない社会を作っているという側面もあるようです。

日本の酒文化の特徴としては、①共に飲むこと、共に酔うことが求められている②しかし飲んで失敗することは破滅を意味する③そうして逸脱した人はなかなかそこから回復できない④みんなにそういう理解があるから、酒害にあっている人が酒害を認めず、結局医療につながらず、症状がどんどん進行してしまう、ということが挙げられそうです。

また、女性の飲酒にも触れられており、興味深かったのは、キッチンドリンカーについての紹介です。
ことお酒に関しては、非常に女性というのは不利な立場というか、かわいそうな立場にあるということが強調されていました。
理由としては、
・まず肉体的に、男性よりもアルコール依存症になりやすい。
・夫が依存症の場合、離婚しても自活が難しい。
・自分が依存症になった場合には、離婚を言い渡される(かつ、自活が難しい)
という点が挙げられます。
このことは、要するに女性の社会的な立場がまだまだ弱いことを表しているとしか思えません。
女性が経済的な理由からまだまだ弱い立場であるということを痛感します。
この辺の解決には、おそらくベーシックインカム的なものが役に立つでしょう。

また、キッチンドリンカーは高度経済成長を超えて経済的に豊かになった家庭が増えるのとともに、専業主婦が現れたことによって、出現し始めたようです。
面白いのは、それまで女性もちゃんと働いていたということが書かれていて、目からウロコでした。
以前は女性が働きながら子育てをしていたということを知ると、今の社会の余裕の無さがより強調されるように感じます。

だから昔はよかったのだなぁというのは、その昔の一面しか見ていないという情報不足による帰結だと思いますが、今と昔でどう違ったのか、なぜ昔は働きながら子育てができたのか、を調べることは無意味ではなさそうです。

また、そもそも昔は酒造りも女性の仕事だったのだとか。
日本人は、「ハレの日」に酒を飲むという文化なのだそうですが、そうしたハレの時には、女性も結構飲んでいたそうです。

辞令交付式への違和感(みんなよく参加するなぁ)

 今日は4月1日。  我社では辞令交付式が行われました。  そのため、土曜日ですが、人事課員として出勤しました。  明日も仕事なので、12連勤となります。   人事課の闇ですね。  それはさておき、辞令交付式に関して、毎年違和感を持ちます。  それは、お礼を言われる側が、何故かホ...