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旧約聖書物語(犬養道子、新潮社)



旧約聖書物語』(犬養道子、新潮社)を読みました。
いやー面白かった。
旧約聖書ってこういう話だったのね、という感じ。
これは教養の書です。読んでよかった。
これを読んでおけば、欧米の人の名前の由来などもわかるし、キリスト教のベースもわかる。イスラム教のベースもわかる。
実際、著者も新約聖書とのつながりはかなり意識して書いたということでした。
次に読もうと思っている『新約聖書物語』も非常に楽しみです。
古事記物語(鈴木三重吉)』のユダヤ教版というと雑かもしれませんが、そんな感じです。
この本は阿刀田高の『旧約聖書を知っていますか (新潮文庫)』を読んだ際に参考文献として紹介されていたので購入したもの。
余りの分量に一度匙を投げたのですが、先日コーランを読み始めるにあたって再度本棚から出してきたのです。
(捨てなくて良かった)

阿刀田高の『旧約聖書を知っていますか』では「アイヤーヨ」(アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨゼフの頭文字)という言葉を覚えさせられて、それは本書を読むのにも役に立ちましたが、その大筋以外の各預言者の紹介だとか、名もなき家族の信仰の様子なども物語テイストで描いているところも本書の面白い特徴の一つです。
いやはや、非常に血の通った話ばかりではないですか。
3千年も前の話なのに、倫理的に「これは絶対おかしい」という点はあまり多くない。
むしろ周辺国のやり方の方が野蛮というか、蛮族というか、野性味の強い印象を受けます。
結局人間というのはそんなに変わらない、ということなのかもしれません。

ユダヤ教は砂漠や岩石に囲まれた不毛地帯だからこそ生まれた宗教だといいます。
そうですね、だからこそ「試練を与えるのも神」という視点がないと、生きていけない側面もあるのでしょう。
神も割りと理不尽だけど、それも含めて主の思し召しと思えるかどうか、というのが信仰だということでなのでしょう。
でも、それって結構厳しいですよね。
どこまでも果てしない、自分との戦いですから。
だから厳格な信奉者は人格的にも優れているという評価を得ることが多いのかもしれません。
立派な人というのは自分(欲望)を理性でコントロールすることができるということなのでしょう。
そういう意味では、どの宗派でも、尊敬を受ける人間というのは自分を律せる人、ということになるのかもしれません。

話は少しそれますが、内田先生が旧約聖書に関連することをブログに書いていたのでここでも紹介したいと思います。
http://blog.tatsuru.com/2009/06/18_1134.html
曰く、
ミスは「これが原因」と名指しできるような、わかりやすい単一の原因では起こらない。
「誰が有責者かを特定できない」からミスが起きるのである。
それは「私の仕事」と「あなたの仕事」のどちらにも属さない領域で起こる。
「オフィスの床に落ちているゴミ」を拾うのは「私の仕事」ではない。
私のジョブ・デスクリプションには「床のゴミを拾うこと」という条項はないからである。
だから、「私は『そんなこと』のために給料をもらっているわけではない」という言葉がつい口を衝いて出る。
そのような人たちばかりのオフィスはすぐに「ゴミだらけ」になる。
同じように、ミスは「誰もそれを自分の仕事だと思っていない仕事」において選択的に発生する。
「ジョブ」について書かれた印象深いテクストがある。
カインがアベルを殺した後、主はカインに訊ねた。
「あなたの弟アベルはどこにいるのか。」
カインは答えた。
「知りません。私は自分の弟の番人なのでしょうか。」(『創世記』4:9)
「私は自分の弟の番人なのでしょうか」とカインは言った。
「『私の仕事』がどこからどこまでなのか、それをはっきりさせて欲しい」というカインの要求を主は罰された。
「私の仕事」はその境界線を「ここまで」と限定してはならない。
それは信仰上の戒律であるというよりは、集団で仕事をするときの基本的な心構えのように私には思われる。

(私の仕事2009-06-18 jeudi)
我が行いを省みざるを得なくなるお言葉です。
とはいえ、なんとなく、欧米というのは仕事の範囲を決めて(ジョブディスクリプションを取り交わし)、それ以上のことはしない、というスタンスが一般的という印象を持っていましたが、旧約聖書のスタンスがこういう感じだとすると、案外そうでもないものなのでしょうか。
それとも新約聖書だとこの辺の概念はあまりないのかな。
砂漠での集団生活をしているわけでもないから、関係ないのかもしませんね。
となると、イスラム圏の方がこの思想を残しているのかもしれない…のだろうか。
現状、あんまりそういうイメージは持っていないけれど、調べてみたら面白そうな気がしてきます。
(あるいは、宗教は関係ないのかもしれませんが)

   

【読了】屏風と日本人(榊原悟著、敬文社)

『日本人と屏風』(榊原悟著、敬文社)を読みました。


ページ600近い大書です。
しかもずーっと屏風について。
こんなに情熱的に屏風を解説する本が世の中にあるとは、驚きです。
(あとがきでは、原稿用紙に鉛筆書きとも書かれていてさらに驚きました)

そもそも「なぜこの本を手に取ったか」というと、美術展でみる作品になんとなく違和感を感じていたからです。
というのも、美術館に行くときには、だいたい予習として目玉作品の解説に目を通してから行きます。
そうすると、現物を見たときに、なんとなく馴染めない感じを持ってしまうのです。
色や質感については、どうしたって現物を見ないとわかりませんから、たしかに「見てやったぞ」という充実感があるのですが、なぜかモヤモヤっとしたものが心に残るまま美術展をあとにすることが多々ありました。
なぜか?と考えてみて、ひょっとしたら「屏風にかかれているから」ではないか?という仮説に至ったのです。

書籍等で紹介される屏風の多くは、しっかりと広げられ、1面の絵画のように紹介されています。
しかし、現物はあくまでも屏風であり、曲げて立たせる調度なのです。
つまり、折れ曲がった絵を見ることになります。
ここに大きなギャップが生じ、もやもやを生むことになっているのではないか?ということですね。

私の感覚としては、「1面の絵」としてみたほうが美しく感じています。
でも、長い歴史の中で様々な絵が”屏風”というキャンパスに描かれてきた以上、そこには私の知らない美しさがあるのに気づいていないのではないか?そんな風に思ったのです。

そして、普通に見ているこの屏風ですが、「そもそも屏風って何なの?」「なんでみんな屏風に描いたの?」「何のために屏風が作られていたの?」という疑問も湧いてきました。

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本書は、上記の疑問について、多くを答えてくれています。

  • 屏風とは、中国において風を避けるための衝立として生まれたらしいこと。
  • 中国から朝鮮を経由して日本に伝来したらしいこと。
  • そのうち日本製のものを逆に海外に送り出していたこと。
  • 屏風が祭祀において空間を仕切ったり、背後を飾ることに用いられたこと。

などなど。

海外から来たものに、日本のオリジナリティを付与して輸出するようになるというのは、現代にも通じるものがあって面白いですね。
また、日本の屏風の特徴として、金・銀に極彩色の絵を描いた派手さが挙げられていましたが、日本人は昔から派手派手しいのが好きなのですね。
この辺は奇想の系譜や奇想の図譜を読んでいただけるとよく分かるように思います。
(あと、黄金の国ジパングなんて呼ばれたのも、金屏風が出回ったからでは?なんて想像してしまいますが、Wikipediaには平泉の中尊寺金色堂がモデルとありました。当時、奥州では砂金がたくさん取れたというのは知りませんでした)
【読了】奇想の図譜(辻惟雄著、ちくま学芸文庫)
【読了】奇想の系譜

さて、私が知りたかった「”屏風絵”として屏風の絵を楽しむ方法」についてですが、本書はこれについて、別書『日本絵画の見方』(榊原悟著)を当たって欲しいとの記載がありました。
ただ、その一端として、「富士・三保松原図屏風」(狩野山雪筆、静岡県立美術館蔵)を例に「折り曲げることで、富士山の傾斜がきつくなる」など、絵から受ける印象を変化させることができることを紹介しています。(P11)

おそらく、画家たちは屏風に描くことが決まっている以上、”屏風絵”としてどう見られるかを計算して描いたはずです。
果たしてその視線で見るならば、これまで見た屏風はどう見れるのか、改めてみたいという思いに駆られています。
ぜひ、もう一回「燕子花図屏風」(尾形光琳、根津美術館蔵)を見に行きたい、その気持ちが高まっております。
【鑑賞】尾形光琳と燕子花図@根津美術館

 

【読了】酒飲みの社会学(清水新二著、素朴社)

酒飲みの社会学』(清水新二著、素朴社)を読み終えました。
酒飲みの社会学―アルコール・ハラスメントを生む構造酒飲みの社会学―アルコール・ハラスメントを生む構造素朴社
面白かったです。
参考文献の紹介が少なめなため、より深く知りたいなと思う点などはちょっと残念でした。
また、それ故に、「これって憶測なのでは?」という箇所がちらほらあるのも少し気になりました。
しかし、ストーリーは流れるようで、講義を受けているように感じました。
また、憶測ではないかとの箇所についても、その意見に共感できるという箇所が多く、親しみを持って読み進めることができたのが印象的です。
「研究者たちはこう言ってるけど、私はもっとこうだと思うんだよね」という感じが、とても中立的というか、人間味があるというか、あまり抵抗なく「そうですよねー」と納得できてしまう魅力があります。

著者は、日本における酒があることを前提にしている社会システムを「アルコホリック・ソーシャル・システム(ASS)」と名付けていました。
ASSとは、次のような事を言います。
①飲酒と集団的に共有された酔いのどちらに対しても寛容な飲酒文化
②アルコールが社会の組織化に決定的な役割を果たしている
③アルコールに対する構造的脆弱性
④許容と統制が同時存在する統合メカニズム
⑤以上の四点は、女性には必ずしも当てはまらない。
(『酒飲みの社会学』P67)
日本では共に飲むこと以外に、共に酔うことが求められているといいます。
共に酔うことで、ソトの人間をミウチ化してしまおうという思いがあるようです。
そうしたミウチ化が組織形成や社会形成に必要だという認識が共有されているがゆえに、 飲むことで組織感の意思疎通も図りやすく、それがまた個々の関係形成に酒を必要とする状況に還元されているということですね。
また、日本のアルコール依存症の患者は5万人だが、予備軍としては240万人いると書かれていました。
その背景には「アルコール依存症=逸脱した人」という認識が未だに根強く残っていることがあります。
こうしたレッテル貼りは、かなり強い抑止力として、酒以外にもあらゆる反社会的な行動を抑える力を持っているとのこと。
日本は、こうした他者の目で社会をコントロールする社会なのですね。
それは、一方では犯罪率の低さなどにつながっているわけですが、一方では生きる選択の幅が少ない社会を作っているという側面もあるようです。

日本の酒文化の特徴としては、①共に飲むこと、共に酔うことが求められている②しかし飲んで失敗することは破滅を意味する③そうして逸脱した人はなかなかそこから回復できない④みんなにそういう理解があるから、酒害にあっている人が酒害を認めず、結局医療につながらず、症状がどんどん進行してしまう、ということが挙げられそうです。

また、女性の飲酒にも触れられており、興味深かったのは、キッチンドリンカーについての紹介です。
ことお酒に関しては、非常に女性というのは不利な立場というか、かわいそうな立場にあるということが強調されていました。
理由としては、
・まず肉体的に、男性よりもアルコール依存症になりやすい。
・夫が依存症の場合、離婚しても自活が難しい。
・自分が依存症になった場合には、離婚を言い渡される(かつ、自活が難しい)
という点が挙げられます。
このことは、要するに女性の社会的な立場がまだまだ弱いことを表しているとしか思えません。
女性が経済的な理由からまだまだ弱い立場であるということを痛感します。
この辺の解決には、おそらくベーシックインカム的なものが役に立つでしょう。

また、キッチンドリンカーは高度経済成長を超えて経済的に豊かになった家庭が増えるのとともに、専業主婦が現れたことによって、出現し始めたようです。
面白いのは、それまで女性もちゃんと働いていたということが書かれていて、目からウロコでした。
以前は女性が働きながら子育てをしていたということを知ると、今の社会の余裕の無さがより強調されるように感じます。

だから昔はよかったのだなぁというのは、その昔の一面しか見ていないという情報不足による帰結だと思いますが、今と昔でどう違ったのか、なぜ昔は働きながら子育てができたのか、を調べることは無意味ではなさそうです。

また、そもそも昔は酒造りも女性の仕事だったのだとか。
日本人は、「ハレの日」に酒を飲むという文化なのだそうですが、そうしたハレの時には、女性も結構飲んでいたそうです。

【読了】飲酒文化の社会的役割(ジェリー・スティムソン他著、アサヒビール株式会社)

『飲酒文化の社会的役割(英名:Drinking in Context)』(ジェリー・スティムソン他著、新福尚隆監修、アサヒビール株式会社発行)を読み終えました。
飲酒文化の社会的役割―様々な飲酒形態、規則が必要な状況、関係者の責任と協力
飲酒文化の社会的役割―様々な飲酒形態、規則が必要な状況、関係者の責任と協力
難しい本でした。
基本的には保健医療関係者や研究者、アルコール業界の関係者、NGOなど、アルコールに関する政策を考えたり、実際に策定された対策を導入する立場にある人向けに書かれており、専門性が高い印象を持ちます。
プロからしたら、さまざまな政策の事例と評価がまとめられており、実用的な参考資料になるものだと思われました。

内容は、酒害をどう減らすか? という方向で話が進みます。
個人レベルで問題飲酒とどう向き合いましょうか?という内容ではなく、あくまで介入と評価に力点が置かれています。
また、随所で飲酒のプラス面にも触れています。
そんなことから、少しは飲んだほうがいいのかな? という気持ちになってしまうため、断酒している人向けの本ではないかもしれません。

私は「酒を飲まない立場」なので、一個人としてはどんどん酒に規制をかけて「飲まない人の利益を最大化」してほしいなぁと思っておりました。
しかしそれは人格的な視点からしても、政策的な視点からしても良くない方策のようです。
例えば酒の販売価格を上げたり、購入の機会を極端に制限した場合、過去の事例では密造酒の製造増大などが引き起こされ、個人の消費する酒量があまり変わらないにも関わらず粗悪な品質の酒を摂取することによって健康被害が増大するなど、マイナスな結果を招いてしまったことがあるようです。
こういうやってみたらまずかった、という規制は結構あると言うことを本書では多々紹介しています。
「飲まない人の利益を最大化」してほしいというのは、こうなると随分自分勝手なわがままだなぁと反省せざるを得ません。
(まぁ、常識的に考えても、今日において禁酒に近いそんな極端な政策は採用されないでしょうけど)

上の例のように、飲酒はいろいろな人間活動に関わっているため、極端な規制は、むしろ全体に対してマイナスな影響を与える可能性があるというのが、本書の指摘です。
アルコールの問題消費等に対してどういった介入が望ましいのかは、その国やその地域において酒がどう捉えられているかという、文化的な面を考慮して検討される必要があるようです。
また、合わせて酒のプラス面をいかに増幅するかということも考えておく必要があるということが、度々強調されていました。

この本を読んで気になったのは、以下の3点です。
①日本での飲酒の捉え方とは?(文化的な役割)
②日本での飲酒にまつわる問題とは?(解決すべき課題)
③日本での飲酒によるプラスの面とは?(促進すべき点)
これらは、本書では触れられていません。
というか、日本についての記述がほとんどありません。
ですから、この辺の話については、別の本を読んだりしながら考えを巡らせてみたいと思います。

ちなみに、現段階でこんなことじゃないかなぁ?と思っているのが、いこのようなキーワード。

① 神事、ハレの日、共同体意識の醸成
② キッチンドリンカー、アルハラ、酒害・依存性への理解
③ 穏やかな人間関係の形成、一体感の共有

いずれも想像の域は出ません。
また、穏やかな人間関係の形成というプラス面は、ひょっとしたらソトのトラブルを家庭というウチで解消するという、マイナス面につながっている可能性も考えられます。
こういうことが100%いいというものは、多分ないのでしょう。
いろいろな文献を当たりながら、「これはグレーゾーンの中の、このへんにあるからまぁいいことなんじゃない?」くらいのゆるい考え方で検討していけるといいなぁと思います。


【読了】大学の理念(カール・ヤスパース著、理想社)

大学の理念
大学の理念
理想社
一応通読したけど、難しい。
言葉遣いが厳かです。

なかなか理解できない箇所も多々ありましたが、わかるところを総合して見ると、先日読んだ『文系学部廃止の衝撃』に近い事が書いてありました。
大学とはなんぞやということから始まり、国家との関係にまで言及。
もう60年も前に書かれた本なのに、今日の大学を取り巻く環境について指摘しているのではと思えてしまう本です。

個人的に印象に残ってるのが、学生は大人だという箇所。
大人が学びに来ているのだから、育ててもらうのではなく、頑張っても頑張ってもついていけない学びにそれでもなんとかついていこうと自分をそういった環境における人こそ大学の理念に沿う人なんだ、というようなことが書かれていた。
本当にそのとおりだと思いました。

以下は、根拠のない戯言です。

大学は、真理を追及する場所であり、真理の追及においては教えてもらうものではなく、自分で学ぶことでしか新しいところにはたどり着けないものだと考えるためです。
だから、そもそも就職力(この〇〇力って言葉も品がないですが)なんてもので大学を測ること自体が大学を理解していないということだと思います。
大学が役に立つことしかやらないのなら、それはもう企業の代わりです。
そうではなくて、大学は企業もやらないし、大衆も求めてないけど、それでもその人たちに代わって研究をすることで回り回って実は企業にも人類にも貢献してしまうという、そういう機関だと思います。
そして、貢献はただの結果です。
研究した結果が貢献するか否かは、その研究に取り組む動機になるべきでない気さえします。
なぜなら真理の探求とは、答えのわからないことと格闘することだからです。
それは言ってみれば中に何が入ってるかわからないからくり箱を開けるような作業とも言えるかもしれません。
もちろん、社会に対して研究の意義を説明することは、公の性質を持つ団体の一員である以上、避けて通ることはできないでしょう。
しかし、その研究には、まだ答えが見えていません。
だから、意義なんてのは絵に描いた餅でしかないのです。
そして、答えが見えてないことに取り組むからこそ、社会がその訓練を受けた人として、学生を欲するのです。
つまり、言ってしまえば対象はなんだっていいというのが私の見解です。
各教授の先生がただ真理の探求への情熱を拠り所にして、常にその道の先頭にたち、その後を学生が追いかけてきて、先生は学生がさらに自分の先に行けるように指導する体制がが整うのであれば、間違いなくその大学は社会に対して還元をしてると言えるでしょう。
つまり、研究の充実により、学生も気づいたら育ってる、ということになるんじゃないでしょうかというのが私の考えです。
多くの人が、大学に研究の充実を求める事が、今の大学を救うことになるように思えてなりません、

以上戯言でした。

この本と似たタイトルの本として、オルテガの『大学の使命』という本があります。
まだ読んではないのですが、そちらはむしろ大衆を底上げしてこその大学だという立場を取る本のようです。
ぜひ近いうちに読んでみたいなぁと思います。
大学の使命
大学の使命
玉川大学出版部



辞令交付式への違和感(みんなよく参加するなぁ)

 今日は4月1日。  我社では辞令交付式が行われました。  そのため、土曜日ですが、人事課員として出勤しました。  明日も仕事なので、12連勤となります。   人事課の闇ですね。  それはさておき、辞令交付式に関して、毎年違和感を持ちます。  それは、お礼を言われる側が、何故かホ...