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大学の未来地図』(五神真、ちくま新書)を読みました。
面白かったです。

大学の経営層にいる方々の本には、「大学はなっとらん」「こんなんじゃ世界と渡り合えない」「大学教員なんかに教育を任せちゃいかん」という世間の声を柔らかく受け入れて、さらりと「ほんとにそうですよね、でもうちの大学は違いますよ。ちなみに私は海外の●●大学で云々」という書き方をする本が多いように感じていますが、本書は違います。
非常に冷静に「東大」を見ているように感じます。
あるいは、「東大」というか、東大をトップとした日本の高等教育の構造の中での東大の役割を(いい意味で)冷めた目でもって整理されている印象を受けました。
「確かにいろんな考えがあることは知っています。ただ、東大はこういう考えで、こういうことをすすめているんですよ」という感じです。

面白かったのは、意外と東大も自由に使えるお金が少ないということです。
資産が多くても、収益性の大きい資産ではなく(山林などの不動産などが多い)、またほとんどの資金(大学なので予算という方が正しいですね)が用途の決まった資金(予算)であり、ゆえに大胆な投資などは構造的にできない仕組みになっているそう。
そして、そこに公的な助成の減額がのっかってくるのだから、一昔前の東大と今の東大とでは経営の難しさが桁違いなのではないだろうかと思えてきます。
現場はどこも喘いでいて、その中でリーダーシップをふるう必要があるのですから、なかなかストレスフルな仕事でしょう。


---以下、話は本から逸れます---

上記のような運営資金に窮している状況であれば、なるほど著者の書いているように、産学連携やベンチャービジネスへの投資に注力していこうというのもわかります。
どうにかしてお金を稼ごうと思うのは当然です。
しかし、この方針は、東大のような大学だからできることであって、小規模かつ文系の大学などはなかなか採用できないでしょう。
ということで、すべての大学ができる施策ではないし、著者もそんなつもりでは言っていないでしょう。

では、小さい大学が生き残るためには何をすればいいのだろか、と思えば、言い方は悪いですが、弱いもの同士で協力することが大事ではないでしょうか。
ノウハウの共有や専門職人材の共有など、できることは多いはずです。
そうした連携が進めば、管理職の共有なんてこともあるかもしれません。
そのためにも、今後多くの大学で経営がひっ迫すればするほど、法人の合併は増えていくはずです。
という風に見ていくと、いろんな方法を使うことでしばらく大学は総数を減らしつつも、生き延びていくと思われます。

しかし、だからと言って(同書でも再三話題にしている)若手の雇用の不安定さが減ることはないでしょう。
大学や入学定員が適正な数に落ち着くのと、人口の減少とがマッチすることはしばらくないでしょうし、日本の雇用形態では専任の教員を首にはできない。
(むしろポストがない今、専任教員は必至で今大学の今のポジションを守ることでしょう)
ということで、どうしてもまだポストについていない若手研究者は専任のポストにありつけないことになります。
それはつまり、大きなスケールでの研究ができない(目先の成果を上げるための研究に力を注がざるを得ない)ということを表します。
これは知識集約型の社会において、非常に大きな損害になるように思います。

じゃぁどうすればいいのか。
私個人の考えでは、公的な助成を増やしてほしいのですが、それが望めないのであれば、人件費を下げてしまう、すなわち給料を下げてしまう、というのがいちばんいい気がします。
その分、もっと研究者を雇って、指導・講義・会議・事務作業の手間を分散してあげれば、むしろ喜んで給料を下げたい先生もいるのではないでしょうか。
人件費を下げてしまえば、優秀な人材が海外に逃げてしまう?
果たして本当にそうでしょうか?
自分が安定して自分の関心のある研究を追求できる環境があるのに、わざわざ別の大変な環境に行ってお金を稼ぎたいと思う人がそれほど多いとは私には思いません。
(どこかの大学で、アンケートでも取ってないものかと思います)

もちろん生活に苦しむほどの安易な給与カットを推奨するつもりは毛ほどもないのですが、給与はそこそこでいいから、教育・研究に使える予算を増やしてほしいという研究者が多いのではないでしょうか。
少なくとも、そういう仕組みでもない限り、ポストは増えないのではないでしょうか。
ポストが増えなければ、若手研究者はそもそも志望する人が減っていくでしょう。
高度な知識を持つ人材を有機的につないで社会的な価値を生み出していく、行かねばならない「知識集約型の社会」というものが到来するのであれば、みんなで少しずつ詰めて席を確保していくしかないのではないかなと思うのですが、いかがでしょうか。
(税金をもっと大胆に教育に投入してくれるなら、もうちょっと違う道もあるのかもしれませんが…)

---

決めつけたように書きましたが、多分道はほかにもあるのでしょう。
すぐに答えのでるものでもないかと思いますので、今後時間をかけて、もう少し落ちついて考えてみたいと思います。

アメリカの大学の裏側 (アキ・ロバーツ、竹内洋、朝日新書)



アメリカの大学の裏側 「世界最高水準」は危機にあるのか? (アキ・ロバーツ、竹内洋、朝日新書)を読みました。
大変面白い。
私の持っていたアメリカの大学に対する「入りやすいけど卒業しにくい」のイメージは上位大学以外のことを指しており、総じてアメリカ全体のことをイメージしていたわけではなかったということがよくわかりました。

その他、面白かった点
・営利大学の存在(金さえ払えば学位が取れる)
・テニュアによって枯れ木教授が生まれている(終身雇用の悪い面)
・テニュアを取りたくて、若手は革新的な研究ができない(評価されにくい研究ではテニュアが取れない。しかも評価するのが枯れ木教授だったりする理不尽)
・授業料を高く設定し、ディスカウントする手法が流行(なお留学生は正規料金)
・やかましい学生の対応が面倒で成績を甘くつける教授が増えてる→学生の質の低下(成績が進路に直結するがゆえの問題点)
・AO入試では差別の助長が横行しかねない
などなど

文科省の政策が、アメリカを模範として、日本に良い点を輸入しようと努めてきたことは以前記事を書いた『アメリカの大学・ニッポンの大学』(刈谷剛彦)や『大学改革の迷走』(佐藤郁哉)でも紹介されていましたが、「模範としているアメリカの大学」というのは、かなり偏ったイメージのもとで捉えられているのではないかと思えてしまいます。

大学改革の病』(山口裕之)でも指摘されているように、「教育」は「社会」と密接につながっており、片方(「教育」)だけを改革しても何も変わらない、というケースが多々あるようです。
(極論とも言える例をあげれば、新卒一括採用、終身雇用が続く限り、偏差値による序列はなくならない、など)
ということで、「アメリカの教育」を輸入する際には、やはり同様にその後ろでつながっている「アメリカの社会制度や習慣」も一緒に導入する必要があるのでしょう。
問題は、その社会制度や習慣を、簡単に日本に根づかせることが容易ではないということでしょう。
だから佐藤氏や刈谷氏が指摘しているように、シラバスやTAと言った小手先の小道具の導入に終始して、最終的に要らない仕事を増やしてしまうという結果に帰結してしまう。

別に、アメリカの真似を一律にする必要はないのではないか、というのが本書を読んだ感想です。
どこの国にも良い点と悪い点があるでしょうから、特定の国の教育制度や仕組みに執着する必要はないのではないでしょうか。
特に、我が国は日本語を公用語として、海外と隣接していないという地理上の特質があります。
そのことを念頭に置かなければ、あらゆる輸入品は骨抜きになるでしょうし、かと言って極端な英語教育などを導入すれば学生も置いてけぼりになりかねません。

これの形骸化・極化を避けるためには、各大学に教育方針の設計・運営について裁量をもたせ、大学ごとの多様性を担保させることが大事だと思うのですが、大学大綱化以降もなかなか日本の大学の多様化は進んでいないことを考えると、そう簡単には行かないんでしょうね。


ーーー

また、本書を読むと学費が高く、学生ローンに悩んでいるアメリカ学生の姿が見えてきます。
その原因は職員の業務の高度化、ポストの増加だそうです。
日本でもどんどん学費が上がってますが、同じような原因なのでしょうか。
否、公的な補助金の推移が多分に関係しているのでしょうけれど、こと職員の人件費については、給与の上がり方が日本は一律なので、人件費をコントロールするという観点からするとなかなか良いシステムと言えそうです。
「やめさせられない」という条件がつく両刃の剣みたいなシステムですが。

さらに、アメリカでも成績のインフレが起きてるとは知りませんでした。
教授としては、時間を食われて成果がでないので、甘く成績をつけるというのは仕方ないのでしょう。
研究成果で評価を下せば、まぁそうなっていくでしょうね。
この辺は、日本の大学もよく考えるべきところだと思います。
大学って研究成果だけを求めるところなのか、ということです。

アメリカの入試については、特に人種の優先入試に関する記述が興味深かった。
一律にやってると、ユダヤ人ばかりになるというのもなかなか興味深い。
またアメリカにおけるAO入試は「格差を再生産させるために始まった」(表向きはもちろんそうではありません)という理解が日本には欠如しているように思われる。
確かに著者の父・竹内氏のいうように、沈思黙考型の人材も排除されてしまいますよね。
(ただ、日本の場合、AOとか推薦で合格する人は、割りといい就職に行ってるのではないかというイメージがあります。そういう調査をしている人いないでしょうか)

関連記事
大学改革の迷走(佐藤郁哉、ちくま新書)
アメリカの大学・ニッポンの大学(刈谷剛彦、中公新書ラクレ)

   

アメリカの大学・ニッポンの大学(刈谷剛彦、中公新書ラクレ)



グローバル化時代の大学論1 - アメリカの大学・ニッポンの大学 - TA、シラバス、授業評価 (刈谷剛彦、中公新書ラクレ)を読みました。
著者は刈谷剛彦。
20年近く前に書かれたアメリカの大学と日本の大学の比較論を取り扱う本ですが、とても面白かったです。
当初、20年前の本だから、あまり参考にならないかな?と思いましたが、とんでもございません。
今を考えるのに、とても参考になる本です。

著者は、アメリカでの教授経験をベースにして、さんざんアメリカの大学のよさそうな面を紹介してきたのに、まとめでは日本の大学には日本の大学の型があるのだから、無条件にアメリカの真似をしてもだめだ、といういたって常識的なまとめ方でした。
というか、そもそもアメリカの学部教育だって、いろいろな問題点を抱えていることを理解しないとだめですよ、という指摘も。
確かに、完璧な教育システムがあれば、どの国でもそれを採用しているものね。

とはいえ、どうにか良くしていこうというあがくことは大事でしょう。そのあがき方にアメリカの真似ということもあってもいいかもしれないとは思います。
その結果として、TA、シラバス、授業評価が日本に導入されて来た事自体は決して悪いことではないのだと感じます。

問題は、それらが個別の小道具として導入されてしまったことです。
例えばTA制度は、優秀な教員養成という目的があったにも関わらず、安価な人材として導入されてしまう傾向があったり、シラバスは授業ごとの契約書にもかかわらず、単なる”カタログ”として導入されてしまったり、授業評価も成績が重視されない日本では一体何の意味があるのか…ということで本当にただ導入するだけになってしまったことが問題だったのだと思います。
(この辺は、『大学改革の迷走(佐藤郁哉、ちくま新書)』が更に深掘りしています)
大学改革の迷走(佐藤郁哉、ちくま新書)

ーーー

こと教育に関するアメリカの評価できる点は、問題があったら素直にそれを認めて、改善をするところが評価されるという点にあると思います。
(我が国はまず失敗を認めることができない)
もちろん、すべての改善がうまく遂行されるわけではなく、思ってもいない弊害を生むこともあるようですが、そうして生じてきた問題にもまた対処するような風土があるようです。

とはいえ、全てにおいてそうかというとそうでもなく、例えばテニュア制度における枯れ木問題などは、結構八方塞がり感があります。
研究をやめてしまう専任教授。
この辺は日本も同じです。
しかし、個人的にはテニュア制のような終身雇用制度は大学ではなくしてはいけないと思います。
大学は社会を批判する機能を持った社会インフラであるからです。
使えない枯れ木教授が何人いたとしても、その制度をなくしてしまったら、「誰かが批判しなくてはいけないことを批判する人」がいなくなってしまう。

ーーー

本書を読むと、アメリカにおいては教育は”商品”として扱われている感じがひしひしと伝わってきます。
こういう商品を売ります(シラバス)、こういう商品だから買います(履修)、買ったあとに購入レビューをします(授業評価)、という感じ。
で、売ると言っていた商品(知識、経験など)が得られないと思われてしまったら抗議・訴訟と…この辺は少し日本とは温度差がありそうです。
ひょっとしたら、買う側の意識の高さが、売り手の質を上げてるのかもしれません。
授業料も高いですしね。

そして、「アメリカで出版されたアメリカの大学論」を扱う本を通じて、こういう風潮が大学の質にも影響を与えつつあるという指摘もありました。
(前略)アメリカの大学が市場原理にもとづき、学生や親たちを消費者とみなすようにあってきていることにある。学生たちの選択を重視する至上主義は、学生たちの求める様々な教育「サービス」の提供を大学に求める。その中で、例えば消費者(=学生)の声に耳を傾けようとする授業評価なども、学習への要求度の低い授業や、成績評価の甘い授業が学生から好意的に評価されるとなると、そのような授業の広がりを許す一因となる。たとえ一部の教員が厳しい成績評価と学習への高い要求を掲げても、選択重視の仕組みのもとでは、そういう授業の人気は下がり、学生も集まらない。そのうえ、学生や親たちが大学に求めているのは、難しい学習よりも、居心地のよい設備の完備した学生寮であったり、キャンパスでの他の学生たちとの交流や「社会経験であったりする」(R・アラム、J・ロクサ共著『漂流する大学』一三七ページ)(同書P240)
なるほど、日本も近い状況が起きている気がします。
私としては、この一文を読んで、内田先生の『下流志向』を思い出してしまいました。
日本はまさにアメリカの後を追っているようです。
どうして先人の失敗を活かせないのかという疑問は、冒頭の内田先生の話(専門家に託せない性質)につながるのかもしれません。

  

大学改革の迷走(佐藤郁哉、ちくま新書)




大学改革の迷走 (佐藤郁哉、ちくま新書)を読みました。
いやー面白かったです。
随所に皮肉が効いている、ユーモラスな本です。
ブラックユーモアですが。

この本の指摘は、別に教育だけに当てはまるものではないと思います。
内田先生が言うところの「この国の病理」の一つである「専門家のあたるべき問題を非専門家があたってしまう」ということを指摘しています。(内田樹の研究室:コロナウィルスと社会的共通資本2020-02-29 samedi)
そして、大学における政策の失敗について、本書はいろいろな角度(例えば、大学の中から、行政の側面から、などなど)から検証、評価、批判を行っています。

ポイントは以下の通り。
・シラバスの導入で事務業務が増加(しかも形骸化)
・PDCAは工場生産に用いるもので、予算管理の大学教育には適さない(PDCAは神話)
・結局PdCa(計画と評価のみ肥大してしまう。結果として形骸化する)
・KPIを目標にするのは見当違い。KPIはあくまでも達成の度合いを示す指標。
・民間の経営手法は少し遅れて(廃れはじめてから)行政や大学に入ってくるため、うまくその経営手法は機能しないし、次の経営手法がどんどん入ってきて、導入・幻滅を繰り返す
・金は出さないが口は出す行政が大学の多様性を奪っている
・日本はアメリカとは違う
・この国には、失策の責任者がいない
・この国の教育改革は小道具の変更に終止している
・理論武装するためのエビデンス集めが蔓延
・60万人調査も全然調査の手法を意識せずに進められている様子

これまでの多くの大学改革は、思いつき・思い込みをベースに設計され、やること時代に意味をもたせ、シラバスやKPI・PDCAといった小道具を導入することで現場を混乱させてきたというのが趣意。
(しかも結局形骸化して、実質化の改革を図るという始末)
原因として、それらの改革に乗っかった大学人にも問題があるとの指摘はごもっともだと思います。

著者はこれらを総括した上で、以下のようにまとめます。
もっとも当然のことながら、政治や行政の失策について指摘することと並んで大切なのは、大学と大学人がそれに対してどのように向き合ってきたかという点について改めて振り返ってみることでしょう。実際、幾つもの止むにやまれぬ事情があったにせよ、これまで大学側が「大人の事情」を優先させて示してきた対応の中には、子どもたちの未来を奪うことにつながりかねないものが含まれています。 いま必要なのは、そのようなもっぱら「大人たちの都合」だけで進められてきた従来型の改革について徹底的に問い直していくことでしょう。それは、取りも直さず、大学と大学教育が抱えている問題に関して、大学関係者が自分の頭で考え抜いた上で結論を出していくことに他なりません。そして、その結論については借り物ではない自分たち自身の言葉で表現していかなければなりません。実際、そのようにして、「大人げない話」をあえて口に出すことを抜きにしては、これから大学という場で学ぶことになる子どもたちにとって何が本当に必要になってくるのかという問いに対する答えの姿は見えてこないはずなのです。
大学は、あるいは学校は、子どもたちは、一様ではありません。
だからこそ、状況に即した対応なり対策が必要で、それは紋切り型のトップダウン式の改革では見当違いの結果を生むのは仕方のない事のように思います。
いかにしてボトムアップを促すのか、そういう発想で教育を捉え直す必要があると思います。
もし多くの人がこの「現場からのボトムアップ」を願うことができたら、その時教師と生徒の信頼関係が構築され、また地域と学校の信頼関係も整い、故に国としての人材育成も多様な、柔軟な、しなやかな形態を取れるのではないでしょうか。
優秀な指導者とは、ひょっとしたらボトムアップを促せる指導者なのかもしれませんね。
名ばかり大学生(河本敏浩、光文社新書)

この観点から考えると、刈谷氏が『教育改革の幻想』であとがきに書いていた「教育行政」を地方に委ねる、ということの重要性が理解できてくる気がします。
教育改革の幻想(刈谷剛彦、ちくま新書)
すべてを現場に任せるのではなく、現場周辺で色々と試行錯誤をしていく、そして大本の文科省が地域ごとのネットワークを形成して国としての共有を図るというのがいいのではないか。
とはいえ、これも理想論です。文科省が予算を地方に移譲するなど考えにくい。
省益と反するでしょうから。
だから、せめて大学だけは、うまくできないもんでしょうかね。
いや、うまくやるためにはやっぱりお金が必要だから、お上への忖度はなくせない。
どうも八方塞がりな感じになってしまった。どうにかうまくやる方策がないものだろうか…。

この本とその姉妹編である『50年目の「大学解体」20年後の大学再生』も近いうちに読んでみたいと思います。


   

名ばかり大学生(河本敏浩、光文社新書)



名ばかり大学生 日本型教育制度の終焉 (河本敏浩、光文社新書)を読みました。
まことに面白かったです。
著者は東進ハイスクールの講師という肩書なので、予備校講師から見た学力の話なのかな?と思って読み始めましたが、そんな限定的な話ではなく、今の教育制度の根本的な瑕疵を様々なデータから考察している素晴らしい本でした。
絞れば荒れる、12歳で大きな壁、いずれも聞けばなるほど納得の論でした。

要点を列挙します。
・絞れば荒れる(大学定員の減少は、いい改革ではない)
・大学のアクセスをよくせよ(間口を拡げよ)
・初年次教育にこそ力をいれ、卒業しにくくするべき
(ちなみに、入りやすく、卒業しやすいのは日本独自。日本はとにかく私学が多すぎる)
・対策としては、「義務教育修了の資格試験」「古典読書の奨励」など
・とにかく、現行の制度設計の失敗点を認めて、いい教育を再生産できるように再度制度設計すべき(競争しても子どもは伸びない。競争すべきは大人である)
・今は大学受験も勉強をするモチベーションにできない(12歳で超えられない壁、地方と都市部の熱量差)
・東北大学が地域での勉強のモチベーションの底上げに貢献している。しかもAOの方がいい学生が入る(新しい展開。受験生も手間を理解する)
・教育を公共事業と捉えて、お金を投入することも大事(中等教育を無償化しないのは世界にも珍しい)
などなど

これらを挙げた後、著者は以下のように締めくくる。
 つまり、問題は学力論ではなく大学論なのである。まず議論の出発点を大学教育、あるいは選抜試験のありようから始めるべきなのではないか。小学校や中学校、高校を「改革」しても誰も踊らないが、大学入試が変われば、教育熱心な家庭は一斉に変化する。
 だから、小学校や中学校、高校の小手先の改革はすべてやめた方がいい。改革など何もせず、勉強をしない子供に大人が一生懸命教えるということだけを念頭に置いて行動するべきである。
 高校卒業時に中学レベルの学力を問う資格試験を実施し、それに向けて大人が競い、より多くの子供が目標を達成するべく奔走する。塾にはできないが、小学校や中学校、高校にできることは学力の底上げである。これは目立たないが、極めて重要なことである。なぜならそういう手厚い教育を受けた子供は、学校を信じ、社会を信じ、そして大人になったときに子供を学校や勉強に積極的に関与させるだろうから。
 誰がどう考えても、教育の根本はこういう営みにこそあるのではないか。そしてそう思い、行動している人は、この現代の日本において決して少ない数ではないはずだ。
(同書P196。下線は私の加筆)

義務教育終了の資格試験も無理のない提案かと思います。
加えて古典を読ませる対策も、いいなぁと思いました。
(考える子は、読めば色々考えるでしょうからね)

子どもの教育がうまくできていないと感じるのであれば、それは大人の作った制度に問題がある、というのは真摯な受け止め方だと感じます。
その上でいかに子どもの学びに寄り添うかということが重要で、子どものときに受けた対応を、その子が子ども持ったときに次世代に伝えてしまう、というサイクルができてしまうことを、大人が理解することが大切なのでしょう。
我が家の場合は、どうなのだろう。
ちゃんと子どもの学びに付き添ってあげられてるんだろか。
時々わが身を顧みないといけないなぁと反省させられます。


また、やはり教育は、現場に任せたほうがいいのだ、と言うのは秋田県の義務教育に関する対応の成果をみて思います。
そして、行政、文科省はそれらの良い点を他の地域に共有するところに役割を負うというのがいいのでしょう。
これは、■教育改革の幻想(刈谷剛彦、ちくま新書)と同じ結論です。
相手が人間である以上、画一的な対策には無理が生じてしまうのでしょう。
ましてや地域ごとに文化や風習も違うのであればなおさらです。

その点から考えると、リーダーシップを求める組織というのは、そもそも弱い組織なのかもしれません。

ーーー

大学人として、東北大学のオープンキャンパスに行ってみるのは、具体的にできる行動でしょう。
文系理系両方共なかなかおもしろそうな催しがたくさんありそうです。
http://www.tnc.tohoku.ac.jp/opencampus.php


【読了】街場の大学論(内田樹著、角川文庫)

『街場の大学論』(内田樹著、角川文庫)を読みました。


『下流志向』などの内容といくらかかぶるところはありましたが、少し古めの記事が多いような気がします。
しかし、最後まで読めば、しっかり前半の認識の誤りを訂正している箇所があり、「あぁやっぱりいつもの内田先生だね」という感じで読み終えれました。

以下、備忘。

1.学生の質について
 学生の質は下がらざるを得ない。
 なぜなら入試とは同一集団内での自身の立ち位置によって合否が決まるものであるから。
 18歳人口という分母が小さくなる上に、大学の定員数は拡大するという状況は、ようする年々同じ学力なら上の大学に入りやすくなることを意味する。
 (絶対的な学力に対するボーダーラインがどんどん下がっていくわけですね。)
 だから、同じ大学に入るのに、10年前と同じ量の勉強をする必要が無いということ。
 このことが大学の質低下の原因と考えられる。

2.評価について
 正しい評価をしようとすると、全体を規格化しなくてはならない。
 そうなると、有能な人も規格に当てはめることになる。
 A.働かない人を働かせて、働く人を枠にはめ込む
 B.働かない人は無視してして働く人に気持ちよく働いてもらう
 という2択について、どちらのほうがメリットが多いかを考えるべき。
 ちなみに、A.であれば、全員が雇用契約書通りにしか働かないことになる可能性が高い。
 イノベーションは、Bのほうが起きやすいのではないだろうか。

3.文科省行政担当者の考え方
 これが、なかなかおもしろい。
 大変”話せる人”ではないか!というのい少々驚いた。
 文科省は…なんて考えていた自分が恥ずかしい。
 同じ人間なのです。担当者レベルでは色々と考えながら働かれていることを理解しました。
 そして、文科省からのメッセージについては、行間を読むことが大切なのですね、と言うのは目からうろこでした。
 つまり、大学に主体性を持ってほしいというのが文科省の考え方なのかなと個人的には理解したいと思います。
 でも、大学の設置規制をもう少し強めてもいいような気がします。

以上、備忘。

大学経営の問題の一つに、定員を満たさないと黒字にならないという点があるのでは無いかと思えてきます。
どうしてそんなにギリギリで経営をしてしまうのでしょうか。
大学人なのに、こんな問に答えられないことが非常に心苦しいのですが、人件費がかかりすぎなのでしょうか?

ということで、少し考えてみましょう。
年間70万円の授業料で150人(1学年の定員数)→1億5千万円
四年間だから、1億5千万円×4年→6億円
教員が30人体制なら1000万円×30→3億円
残りが3億円。
3億円を150人×4年で割ると…50万円
1年間に一人あたり50万円しか教育費をかけれないのか…
教員によっては1000万円/年どころではないでしょうし、教員の他にも事務職員だとか、非常勤講師分なども入るとすると、50万円でも心もとない気がしてきますね。

やっぱりお金かかるんだなぁ。
自分なんて2年間の卒論研究で100万円なんて吹いて飛ぶくらいの試薬とか溶媒を使いましたからねぇ…。
大学全体に撒ける助成金も決まっている以上、大学数が増えればそれも減るし、ほんとにジリ貧ですね。
人件費を下げれば、人材は流出するし、どうすりゃいいんですかね?
(助成金を増やせば解決する気もしますが)

また、定員や、教員数管理については、18歳人口は18年前にその変遷が読めるわけですから、ある程度文科省の方でコントロールしてもいいように思えます。
というかお上からある程度言わないと、どこも減らさないでしょう。
下のほうの大学が定員を少し減らしたところで、上位1割の大学その減少分を攫っていくような事態になりかねません。
ということで、偏差値の高い大学にこそ、規制をかけてはいかがでしょうか?
そうすれば、多分下に下に降りてくるはずです。
実際、昨今は定員厳格化によって、中間層の大学が潤っているはずですから。
…とここまで書いて、なるほど文科省の政策も、必ずしも変なことばかりではないのだなぁと思わされます。
23区内の大学は10年間定員増不可と聞いたときには、何してくれてんのか?と思いましたが、一大学人とは違って、制度としての全体の大学を見なくてはならない以上、全然視点や考え方が違うのかもしれません。
もう少し、「この政策は何を狙っているのか」について、頭を柔らかくして考えなくてはならないなと反省させられます。

結局、文科省としても、都市部の少数の大学を生き残らせたいわけではないのでしょう。
でも、やっぱり受験者の思いとしては、都市部に出たいものだと思います。
であるならば、やはり規制は必要だと思います。
人は都市部のみに生きるわけではありませんからね。
広く、可能な限り多くの方に大学の機能が享受されるようにするには何が必要なのか、一大学人として大学を考える前に、一市民として、大学のあり方を考えていかなくてはならないのかもしれません。

大学に求めることの違い

GoogleNewsを見ていたら、随分香ばしい記事が掲載されていました。
日本電産永守氏が語る「今の大学教育」への失望 カリスマ経営者が元東大教授と挑む大学改革(東洋経済ONLINE)

すごいですね、永守さん。
「(大学を)卒業しても英語も話せない。経済学部を出ているのに、企業の経理に回されても決算書さえ作れない」
「日本電産は世界最大のモーターメーカーだが、そのモーターの技術を学べる大学はどこにあるか」 
こんな思いで大学を作れちゃうんですね。
どうも上の書き方だと、専門学校のような気がしてしまうのですが…いや、それは私の勘違いですね。

また、以下の記述も大変気になります。
京都先端科学大学は4月1日に名称を京都学園大学から変更した。2018年3月に永守氏が大学を運営する学校法人京都学園(現・永守学園)の理事長に就任。100億円を超える私財を投じ、同大の改革を推し進める。
研究施設の建設が次から次へと実施や計画されるスピード感は、永守氏の寄付金と私立大学の組み合わせがなせる技だ。
理事長の寄付で改革が進んでるというのは、ちょっと怖いですね。
昨今はとある大学のスポーツ絡みの不祥事で、理事及び理事長への権力集中が取り沙汰されておりましたし、最近だと某大学での外国人留学生の問題なども一人の人間への権力集中によって起こった事件と伺っております。
どの大学も、お金にデリケートになっており、あまり偏差値の高くない大学ならなおさらです。
永守理事長には誰も文句が言えない状況になっているのではないでしょうか?
こういう穿った視点に立つと、学長のコメントから理事長をフォローしなくてはという必死さが漂っているように思えてきます。
(性格悪いですね)

最後には、すでに改革によるいい影響が出始めていると書いていますが、これも怪しいもんです。
一連の急速な改革とその方針が受験生にも伝わり、学生の募集にも変化が出始めている。旧京都学園大学は「京都内の評判では最もボトム(底)の評判だった」(同大関係者)が、今年の入試志願者数は前年の1.6倍の2435人に増加した。「これまでは近畿大や関関同立など関西の上位大の併願校にすらならなかったが、滑り止めとして併願する学生も出始めている」(学習塾関係者)。
最近は入学定員の厳格化に伴って、上位校が合格数を絞り、受験生はランクを下げた大学に出願する傾向にあります。
この増加は、そうしたトレンドに沿った変化である可能性もあります。
というか、もしそのトレンドに沿わないのであれば、もっと恐ろしい事態が社会全体において進行しているのではないかと危惧されます。

ーーー

色々書きましたが、「じゃぁお前は大学ってどんなところだと思っているんだよ?」という声が聞こえてきそうです。
私の考えでは大学は「変なやつを排出する」ところだと思っております。
したがって、学ぶ分野は別になんだっていいのです。
ただし、最先端である必要があります。
まだ誰も知り得ていないことを研究している研究者が教える人であるからこそ、既存の価値観になびかない変なやつが生まれるのです。

大学教育は「すでに求められている技術」を身につけるところではないのです。
(いや、もちろん既存の技術を得る過程で学ぶことはたくさんあるし、それを教育メソッドにすることは良いことと思うのですが、その技術の習得が目的ではないということです)
想像できる未来への対応なんてすぐにできます。
すでに顕在化しているのですから。
問題は、「未来のことはわからないことばかり」ということなのです。
だから変なやつをたくさん出さなきゃいけないのです。
変なやつがたくさんいれば、それだけ変化に対するリスクが減少するからです。

大学の先生方には、ぜひ、まだ世の中にない、あるいは忘れらたり見落とされたりしている価値を、掘り出してみんなに提示することに資源を費やしてほしい。
そこに学生を巻き込むことで、学生を変なやつにしてほしい。
私は、それが、大学の価値であり使命だと思っています。

ーーー

あとは、個人的には、大学で決算書の書き方なんて教えないで、教授にはぜひ決算書に対して「ほんとにこんなんいるの?」と突っかかってほしいなぁと思います。
世の中に向かって「どう見たって王様の耳はロバの耳だよね」と言っちゃうのも、やっぱり大学の使命の一つではないかと思うのです。

グレイテストティーチャー賞(仮名)に感じる違和感

私の所属する大学では、毎年授業評価の良い教員を「グレイテストティーチャー賞」(大学の名誉のため仮名)なる賞で表彰します。
私には、この表彰に、大変な違和感を覚えます。

まずはじめに、大学なのに「ティーチャー」?というところから突っかかりたくなる。
言いがかりですが、私は大学の先生方をティーチャーと思ったことはありません。
彼らはティーチャーとしては型破りすぎると思うのです。
なんとなくティーチャーと言うのは、「ある基準をもとにそこに到達させるための人」という意味あいがあるものと感じられて、大学の教授陣にふさわしい呼び方かどうか、自信がもてません。
(学習指導要領のもとに教える先生に当てはまる気がしてならないのです)
でも、辞書を調べると、teacherとは「教育に従事する者」「大学でもOK」ということなので、まぁいいでしょう。

しかし、「グレイテスト」の方についても、ちょっと引っかかります。
いったいなにを基準にしてグレイテスト(最大)なのかということが、全然わからないのです。
いや、説明としてはあるのです。授業評価の数値が高いということです。
しかし、この授業評価というものの数値にいかほどの意味があるのか?

そもそも大学というのは、学生にとって「自分が知らないということさえも知らないことを学ぶ」場所です。
そこでの授業とはそんなにわかりやすい、すっと入ってくる授業では無いはずなのです。
もしすっと入ってくるのであれば、それは退屈な授業だし、全然入ってこないなら、それは難解な授業のはずです。
にも関わらず、出席者の多くが「良い」と評価できる授業ということは、「自分が知らないことさえも知らないことを学ぶ授業」ではないのではないかと疑いたくなります。
悪い言い方をすれば、ただの娯楽のような授業ではないのか?
知的刺激を与える授業とは言えないのではないか?
もっと悪く言えば「中の下あたり」に向けて授業してんじゃないの?

もちろん、100%そういう先生ばかりではないでしょう。
学生が楽しみながら知的刺激を受ける、そんな授業を展開している教員もいることと思います。(非常に少数だと思いますが)
しかし、だとすれば学生は楽しめないけど、明らかに知的刺激を喚起している授業もあるはずです。(こっちのほうが多いのでは?)
つまり、評価基準が「学生目線」になっていることが、大きな違和感を感じている部分ということですね。

どうしてその授業の価値もわからない人間(学生)の評価から、授業をする人間(教員)の価値を判断できるのでしょうか。
それは、美術品の鑑定を素人にさせるようなものではないでしょうか?
もちろん、個人が勝手に鑑定を行うのはいいのです。
それは場合によっては本人の勉強にもなるでしょう。(あくまで場合によってはですが)
しかし、大学として、組織としてそれを奨励するのはどうなのよ?
私が教員だったとして、そんな賞をもらうのは正直我慢ならない気がします。
なんとなく、バカにされているような気がしてしまいそうなのです。
「中の下への授業に邁進された素晴らしい先生です!皆さん拍手でお迎えください!どうぞ!」みたいな。

ーーー

ということで、代案を出します。
ぜひ、「ワーストティーチャー賞」を作りましょう。
授業評価の最悪な授業を行った先生を表彰するのです。
そして、その先生には、おまけに全教職員と希望の学生向けに90分間の講義の時間を差し上げましょう。
テーマは「なぜ私の授業は面白くないのか」。

その講義を聞いて大多数の方がわからないなら、まぁしょうがないでしょう。
次年度以降のコマ数を減らしましょう。
けれど、おそらく、そういう講義を聴くことは、非常に先生同士の知的刺激になるはずです。

また、終了後にはその受賞された先生を囲む会も行います。
話をしてみれば、決して学生を蔑ろにするような先生ではないことがわかるはずです。

このようにして、学生の授業評価なんて気にしない空気が大学内にできれば、しめたものです。
学生第一主義とは程遠いへんな大学になることでしょう。
先生ごとに変な個性がほとばしり、そのへんな個性が混じり合ったおかしな学科ができあがり、出て行く学生も変なやつばっかり。
こういうのが、大学の役割ではないかと思うのです。

大学は、けっして平均的な人間を排出するための機関ではありません。
それはむしろ「変なやつ」を世に送り出す装置なのだと思います。
世の中が全部同じようなやつばかりになると、大きな変化に対する免疫が失われます。
どんな価値観の変化が訪れても、そこに順応できるやつやその価値観と戦えるやつ、むしろ変化を読んでくるやつを排出していくことに大学の価値があるのだと、私は思います。

それは、使えるやつという表現とは相容れません。
むしろ「既存の価値観になびかない使いにくいやつ」になるはずです。
だから産業界から怒られる。
「もっと使えるやつをよこせ」と。

でも、産業界にしたって、変わりゆく世の中の価値観についていく(あるいはリードする)ためには、こうした変化に順応できる、戦える、むしろ変化を起こそうとする、そういう戦力が必要なはずです。
ということで、産業界がどれほど大学罵倒しても、大卒を採用しないことは今後も多分無いでしょう。
(今後比率は変わるかもしれませんが)

ただ、政権に訴えて大学を根本的に変えてしまおうという圧力をかけることは許してください。
それだけは勘弁してください。
そうなれば、大卒に価値はなくなります。
年を取った高校生を作るような政策だけは、やめましょう。

ーーー

このグレイテストティーチャー賞が跋扈することは、まさに年取った高校生を作る文化を奨励するような制度たりうる気がしてなりません。

たかが一つの賞ではないかと思うのですが、一時が万事、できることから改善していく必要があるのではないか。
そのような思いから、気を引き締める思いで備忘録を残しておきたいと思いました。

今の大学に一言申しておきたいことは、「学生第一主義なんてくそくらえ」ということです。
大学の使命は、各教員の知のフロンティアの拡大です。
学生たちは、その営みの最前線で歩哨として「知の拡大の有り様そのもの」を知るのです。
それは彼らが12年もの間、学習指導要領のもとで受けてきた「教育に関する理解」というものを根本からひっくり返す体験になるはずです。
歩哨としての仕事が、誰も知らない世界を観るという経験を伴うからです。

そして、歩哨の中でも優秀な子は、教員の引き上げのもと、幹部候補生となり、後にまた新たな歩哨を育てることでしょう。
ということで、大学が一番に考えるべきことは「どうしたら教員は知のフロンティアが拡大できるか」なのではないでしょうか。
そういう環境さえ整えば、学生は勝手に育つと思われます。
私には、先生方が頑張って学生を育てるシステムよりも、勝手に学生が育つシステムのほうが優れているような気がするのですが、どんなもんですかね。

テレビってちょっとやばくない?

GWなので、実家に帰ってきております。
帰省をしてギャップを感じることは、それはそれはたくさんあるわけですが、その中でも「テレビがついてる」というのは大きなギャップの一つです。

我が家では主に録画した番組しか観ないので、思いがけず面白い番組出会うということはありませんが、実家でテレビをなんとなく観ていても、別段面白い番組はやっていないように思います。
それよりも、「こんなんでいいのか?」というような内容の放送が多い気がします。

というのも、たまたま放送されていた池上彰さんの番組で、最近ニュースに関係する問題を20字で説明してくださいという企画があったのです。
この企画、結構やばい。
やばいというのは、「考える力を奪う」可能性が高いという意味です。

例えば「なぜ消費税を上げる必要があるのか?」という問いが出て、模範解答として「高齢化社会に伴い社会保障費が不足するから」というようなものが挙げられていました。
このどこがおかしいかといえば、「そもそも消費税を上げる必要があるのか?」という問いがすっぽ抜けているという点や、「消費税を上げる以外の方法はないのか?」という問いがないわけです。

尺やスポンサーの意向などもあるのかもしれませんが、ともすれば「へぇ」と思いかねない展開とキャスティングで、しかも論理的な説明も大してされないから、疑問を挟む余地があまりない。
いわゆる識者と思われている方が一方的で一義的な解説をします。

多分この番組を観た人が、私みたいな奴から「なんで消費税上げなきゃいけない前提なの?社会保障費が足りないのに社会保障の制度を変えないつもりなの?消費税上げて困るのは貧乏人だよね?それになんでデフレなのに消費税を上げるわけ?」みたいなことを問われると多分「あーあまたなんか言ってるぜあいつ。ちょっとやべーから無視しよう」みたいな対応を取ることでしょう。
上の消費税の話のように「これはこうですよ」とだけ説明されてしまうと、自分でこれがこうなんだなと論理が追えないから、それが常識として捉えてしまうおそれがあるのです。
そうなると、別の意見を聞こうとしないし、聞いても聞く耳を持たない。
それが非常に危ういと感じます。

テレビ番組がこんな番組ばかりなのかどうかは知りませんが、もしそうなのだとすれば若者のテレビ離れなんて大いに歓迎すべき事態だと言わざるを得ません。
制作サイドもわかりやすさを重視しているのでしょうけど、ここまで行くとテレビはバカ製造機だと思えてしまいます。

ちなみに、「これはこうですよ」という説明に疑問を持ち、それを問い詰めていくのが「大学の学び」です。
こうしたテレビが放送されているということは、まだまだ、大学の学びが世の中に浸透していないように感じます。

【読了】大学の理念(カール・ヤスパース著、理想社)

大学の理念
大学の理念
理想社
一応通読したけど、難しい。
言葉遣いが厳かです。

なかなか理解できない箇所も多々ありましたが、わかるところを総合して見ると、先日読んだ『文系学部廃止の衝撃』に近い事が書いてありました。
大学とはなんぞやということから始まり、国家との関係にまで言及。
もう60年も前に書かれた本なのに、今日の大学を取り巻く環境について指摘しているのではと思えてしまう本です。

個人的に印象に残ってるのが、学生は大人だという箇所。
大人が学びに来ているのだから、育ててもらうのではなく、頑張っても頑張ってもついていけない学びにそれでもなんとかついていこうと自分をそういった環境における人こそ大学の理念に沿う人なんだ、というようなことが書かれていた。
本当にそのとおりだと思いました。

以下は、根拠のない戯言です。

大学は、真理を追及する場所であり、真理の追及においては教えてもらうものではなく、自分で学ぶことでしか新しいところにはたどり着けないものだと考えるためです。
だから、そもそも就職力(この〇〇力って言葉も品がないですが)なんてもので大学を測ること自体が大学を理解していないということだと思います。
大学が役に立つことしかやらないのなら、それはもう企業の代わりです。
そうではなくて、大学は企業もやらないし、大衆も求めてないけど、それでもその人たちに代わって研究をすることで回り回って実は企業にも人類にも貢献してしまうという、そういう機関だと思います。
そして、貢献はただの結果です。
研究した結果が貢献するか否かは、その研究に取り組む動機になるべきでない気さえします。
なぜなら真理の探求とは、答えのわからないことと格闘することだからです。
それは言ってみれば中に何が入ってるかわからないからくり箱を開けるような作業とも言えるかもしれません。
もちろん、社会に対して研究の意義を説明することは、公の性質を持つ団体の一員である以上、避けて通ることはできないでしょう。
しかし、その研究には、まだ答えが見えていません。
だから、意義なんてのは絵に描いた餅でしかないのです。
そして、答えが見えてないことに取り組むからこそ、社会がその訓練を受けた人として、学生を欲するのです。
つまり、言ってしまえば対象はなんだっていいというのが私の見解です。
各教授の先生がただ真理の探求への情熱を拠り所にして、常にその道の先頭にたち、その後を学生が追いかけてきて、先生は学生がさらに自分の先に行けるように指導する体制がが整うのであれば、間違いなくその大学は社会に対して還元をしてると言えるでしょう。
つまり、研究の充実により、学生も気づいたら育ってる、ということになるんじゃないでしょうかというのが私の考えです。
多くの人が、大学に研究の充実を求める事が、今の大学を救うことになるように思えてなりません、

以上戯言でした。

この本と似たタイトルの本として、オルテガの『大学の使命』という本があります。
まだ読んではないのですが、そちらはむしろ大衆を底上げしてこその大学だという立場を取る本のようです。
ぜひ近いうちに読んでみたいなぁと思います。
大学の使命
大学の使命
玉川大学出版部



【読了】文系学部廃止の衝撃(吉見俊哉著、集英社新書)

「文系学部廃止」の衝撃 (集英社新書)
「文系学部廃止」の衝撃 (集英社新書)
集英社
2016-02-17
前々から読みたいと思っていた本ですが、やっと読めました。
話は全然文系学部のことだけでなく、大学それ自体や大学を取り巻く人や社会についても論じている作品でした。
目白押しです。
今の大学に関する各種議論の基礎知識も得られるため、大学人なら間違いなく読むべき一冊。

世の中全体が短絡的な視点になってるのが一つの問題のように思います。
でもそれは、人口が減り、景気は良くならない社会では仕方のない事なのかもしれない。割を食うのは、多分何年も先の人だ。
それにいちいち説明をしなくちゃならない社会になったというのも大学が劣化し始めた要因ではないだろうか?
それ役に立つの?という問いに、50年か100年後に役に立ってるかもね、と答えて普通にコミュニケーションが取れるわけないものね。
でも大学はそういうところなわけで、その認識がもともと日本には希薄だったんですかね。
そういえば『東京に暮らす』を書いたキャサリン・サンソムも、著書の中で日本人は役に立つものばかりに飛びつくと述べていたなぁ。
昔っからの傾向なんでしょうかね?
東京に暮す―1928~1936 (岩波文庫)
東京に暮す―1928~1936 (岩波文庫)
岩波書店

辞令交付式への違和感(みんなよく参加するなぁ)

 今日は4月1日。  我社では辞令交付式が行われました。  そのため、土曜日ですが、人事課員として出勤しました。  明日も仕事なので、12連勤となります。   人事課の闇ですね。  それはさておき、辞令交付式に関して、毎年違和感を持ちます。  それは、お礼を言われる側が、何故かホ...