グレイテストティーチャー賞(仮名)に感じる違和感

私の所属する大学では、毎年授業評価の良い教員を「グレイテストティーチャー賞」(大学の名誉のため仮名)なる賞で表彰します。
私には、この表彰に、大変な違和感を覚えます。

まずはじめに、大学なのに「ティーチャー」?というところから突っかかりたくなる。
言いがかりですが、私は大学の先生方をティーチャーと思ったことはありません。
彼らはティーチャーとしては型破りすぎると思うのです。
なんとなくティーチャーと言うのは、「ある基準をもとにそこに到達させるための人」という意味あいがあるものと感じられて、大学の教授陣にふさわしい呼び方かどうか、自信がもてません。
(学習指導要領のもとに教える先生に当てはまる気がしてならないのです)
でも、辞書を調べると、teacherとは「教育に従事する者」「大学でもOK」ということなので、まぁいいでしょう。

しかし、「グレイテスト」の方についても、ちょっと引っかかります。
いったいなにを基準にしてグレイテスト(最大)なのかということが、全然わからないのです。
いや、説明としてはあるのです。授業評価の数値が高いということです。
しかし、この授業評価というものの数値にいかほどの意味があるのか?

そもそも大学というのは、学生にとって「自分が知らないということさえも知らないことを学ぶ」場所です。
そこでの授業とはそんなにわかりやすい、すっと入ってくる授業では無いはずなのです。
もしすっと入ってくるのであれば、それは退屈な授業だし、全然入ってこないなら、それは難解な授業のはずです。
にも関わらず、出席者の多くが「良い」と評価できる授業ということは、「自分が知らないことさえも知らないことを学ぶ授業」ではないのではないかと疑いたくなります。
悪い言い方をすれば、ただの娯楽のような授業ではないのか?
知的刺激を与える授業とは言えないのではないか?
もっと悪く言えば「中の下あたり」に向けて授業してんじゃないの?

もちろん、100%そういう先生ばかりではないでしょう。
学生が楽しみながら知的刺激を受ける、そんな授業を展開している教員もいることと思います。(非常に少数だと思いますが)
しかし、だとすれば学生は楽しめないけど、明らかに知的刺激を喚起している授業もあるはずです。(こっちのほうが多いのでは?)
つまり、評価基準が「学生目線」になっていることが、大きな違和感を感じている部分ということですね。

どうしてその授業の価値もわからない人間(学生)の評価から、授業をする人間(教員)の価値を判断できるのでしょうか。
それは、美術品の鑑定を素人にさせるようなものではないでしょうか?
もちろん、個人が勝手に鑑定を行うのはいいのです。
それは場合によっては本人の勉強にもなるでしょう。(あくまで場合によってはですが)
しかし、大学として、組織としてそれを奨励するのはどうなのよ?
私が教員だったとして、そんな賞をもらうのは正直我慢ならない気がします。
なんとなく、バカにされているような気がしてしまいそうなのです。
「中の下への授業に邁進された素晴らしい先生です!皆さん拍手でお迎えください!どうぞ!」みたいな。

ーーー

ということで、代案を出します。
ぜひ、「ワーストティーチャー賞」を作りましょう。
授業評価の最悪な授業を行った先生を表彰するのです。
そして、その先生には、おまけに全教職員と希望の学生向けに90分間の講義の時間を差し上げましょう。
テーマは「なぜ私の授業は面白くないのか」。

その講義を聞いて大多数の方がわからないなら、まぁしょうがないでしょう。
次年度以降のコマ数を減らしましょう。
けれど、おそらく、そういう講義を聴くことは、非常に先生同士の知的刺激になるはずです。

また、終了後にはその受賞された先生を囲む会も行います。
話をしてみれば、決して学生を蔑ろにするような先生ではないことがわかるはずです。

このようにして、学生の授業評価なんて気にしない空気が大学内にできれば、しめたものです。
学生第一主義とは程遠いへんな大学になることでしょう。
先生ごとに変な個性がほとばしり、そのへんな個性が混じり合ったおかしな学科ができあがり、出て行く学生も変なやつばっかり。
こういうのが、大学の役割ではないかと思うのです。

大学は、けっして平均的な人間を排出するための機関ではありません。
それはむしろ「変なやつ」を世に送り出す装置なのだと思います。
世の中が全部同じようなやつばかりになると、大きな変化に対する免疫が失われます。
どんな価値観の変化が訪れても、そこに順応できるやつやその価値観と戦えるやつ、むしろ変化を読んでくるやつを排出していくことに大学の価値があるのだと、私は思います。

それは、使えるやつという表現とは相容れません。
むしろ「既存の価値観になびかない使いにくいやつ」になるはずです。
だから産業界から怒られる。
「もっと使えるやつをよこせ」と。

でも、産業界にしたって、変わりゆく世の中の価値観についていく(あるいはリードする)ためには、こうした変化に順応できる、戦える、むしろ変化を起こそうとする、そういう戦力が必要なはずです。
ということで、産業界がどれほど大学罵倒しても、大卒を採用しないことは今後も多分無いでしょう。
(今後比率は変わるかもしれませんが)

ただ、政権に訴えて大学を根本的に変えてしまおうという圧力をかけることは許してください。
それだけは勘弁してください。
そうなれば、大卒に価値はなくなります。
年を取った高校生を作るような政策だけは、やめましょう。

ーーー

このグレイテストティーチャー賞が跋扈することは、まさに年取った高校生を作る文化を奨励するような制度たりうる気がしてなりません。

たかが一つの賞ではないかと思うのですが、一時が万事、できることから改善していく必要があるのではないか。
そのような思いから、気を引き締める思いで備忘録を残しておきたいと思いました。

今の大学に一言申しておきたいことは、「学生第一主義なんてくそくらえ」ということです。
大学の使命は、各教員の知のフロンティアの拡大です。
学生たちは、その営みの最前線で歩哨として「知の拡大の有り様そのもの」を知るのです。
それは彼らが12年もの間、学習指導要領のもとで受けてきた「教育に関する理解」というものを根本からひっくり返す体験になるはずです。
歩哨としての仕事が、誰も知らない世界を観るという経験を伴うからです。

そして、歩哨の中でも優秀な子は、教員の引き上げのもと、幹部候補生となり、後にまた新たな歩哨を育てることでしょう。
ということで、大学が一番に考えるべきことは「どうしたら教員は知のフロンティアが拡大できるか」なのではないでしょうか。
そういう環境さえ整えば、学生は勝手に育つと思われます。
私には、先生方が頑張って学生を育てるシステムよりも、勝手に学生が育つシステムのほうが優れているような気がするのですが、どんなもんですかね。

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