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生き方を考えざるを得ない|脱資本主義宣言(鶴見済、新潮社)を読んで

 
脱資本主義宣言―グローバル経済が蝕む暮らし』(鶴見済、新潮社)を読みました。
面白かったです。
本書は世界の経済的なつながりのゆがみを見ていき、私たちが普通に生活することがどのように世界に影響を与えているかを教えてくれます。
著者の言うように、ただ単に個人が生活スタイルを変えればいいというものではなく、企業に圧力をかける、規制を強めるなどの施策もとる必要性がよく理解できます。
とはいえ、個人で何かするための道も照らしてくれる本です。

生きてるだけで誰かを搾取しているという衝撃

世界を北と南、上と下に分けてみると世の中はこんな風に繋がっているのかとゲンナリしてしまいます。

私たちが普通に暮らしているこの暮らし自体が南の世界を搾取せずには成り立たない暮らしなのです。

もちろん、輸入がゼロになれば多大な不便が出るだろうなぁとは思いつつも、こんな形で貿易をしているとはつよほども知りませんでした。

パンを食べ、コーヒーやビールを飲み、安い服を着てマックに行く自分は間違いなく南の人から搾取する側です(とはいえ北の上からは搾取されてるかも知れないけど)。

国際社会というものを南の国々も含めたものであるならば、国際社会の一員として学校で学ぶべきことってのは語学やプログラミング技術などではなく、こういう現実を知ることなんじゃないかと思えます。

(しかし、一方でこの一冊で全てを決め付けない態度も大事かも知れませんが)

何のため、誰のために経済を回すのか

本書を読むと、経済を回す必要がある社会を作ったのは、どうも経済が回ることで儲かる人たちのようです。

この視点に立つと、今回のコロナ禍で経済を回す必要性が叫ばれていたのが少し空々しく感じられます。

お偉い方たちの言う経済を回せってのは、つまり金を吐き出して召し上げさせろってことなのではないでしょうか。

あるいは「俺らの金を再配分なんてしねーかんな?」ってところでしょうか。


コーヒーを飲まなくても、農家は困らないのかもしれない

こうやって経済を回すことに否定的なことを言うと、「お前はいいけど、それで職を失う人だっているんだぞ」と批判されそうです。

でも、職を失っても生けていけるようにするのが政府の仕事でしょ?

それに、世界中の人がコーヒーを飲まなくなっても、コーヒー農家は多分別の作物を栽培するようになるのではないかな。

あんなに苦くて加工に手間のかかる作物よりも、おいしくて栄養の多い作物を作ったほうがその地域にもいいような気がします。

しかも、その方がグローバル企業から買い叩かれることもなくて幸せかも知れない。

そしてこれはコーヒーだけに限った話ではないはずです。

(あるいは他の仕事をするよりも今の仕事を続けた方が楽な理由があるのかも知れないけれど)


なにはともあれ、職を失うことを恐れさせるってのは、搾取する側の基本戦略なわけです。

札束でほっぺたを叩けば人を好きに動かせれるってのは、楽ちんに違いありません。

その札束だって、その叩いている人から吐き出される金なんですから。


ではどう生きるのか

さて、じゃあ搾取されつつも、どちらかと言えば搾取する側についている自分には何ができるのか。

例えばこんなこととか。

  •  コーヒー、缶ビールを飲まない(結構難しそう…)
  •  チェーン店は避ける(マックで時間つぶせるのはありがたいのだが…)
  •  高くても国産品を買う(服はめっちゃ高くなりそう)
  •  応援したいものを買う(これはできそう)
  •  ご飯中心の生活にする(これもできそう)

とまぁ、こんなところでしょうか?

あとは、流行には乗らない、とかかな(これはいける気がする)。

参考までに流行を作り出す企業代表であると思われる電通の「戦略十戒」をご紹介します(P43)。

  1. もっと使用させろ
  2. 捨てさせ忘れさせろ
  3. 無駄づかいさせろ
  4. 季節を忘れさせろ
  5. 贈り物をさせろ
  6. コンビナート(組み合わせ)で使わせろ
  7. きっかけを投じろ
  8. 流行遅れにさせろ
  9. 気安く買わせろ
  10. 混乱を作り出せ

これらに抵抗すれば、大量消費・大量廃棄への抵抗につながるかも知れません。


とはいえ、個人は弱いから

でも、いろんな南の惨状を知った上でも、やっぱりコーヒーを飲みたい気持ちは消えない(し、結構飲まざるを得ない状況は多い上に、つい飲んでしまう)。

だからそんなに悪いものなら、そもそも輸入されなければいいのになと思う。

目の前に快があれば、手を伸ばしたくなるのが人情というもの。

自由だけでは、世の中は良くなりそうにありません。

読んでみると、すごく常識的な感じ:【書評】クルアーン(水谷周、国書刊行会)




クルアーン:やさしい和訳(水谷周、国書刊行会)を読みました。
アメリカへのテロやフランスでのテロなど、イスラム教には過激なイメージがあると思うかたも多いと思いますが、クルアーンを読む限りは、その過激さは一部の集団に限られるのではないかなという気がします。
それくらい、常識的な諭しがちりばめられた書です。

もちろん一神教ですし、21世紀を生きる日本人の私たちの目から見たら???と思う箇所も散見されますが、ほとんどのところは「うんうん、なるほど、そういうことね」「そういう考えもあるかもね」と感じられる内容です。
というか、私の目から見たら結構誠実な生き方を奨励しているという印象を受けます。

面白いなぁと思ったのは、以下のような世界観。

  • 人は弱く作られている(だからアッラーに庇護を求めよ)
  • 善悪は人間には判断できない(いやなこともアッラーからの啓示かもしれない)
  • この世は仮の世界(最後の審判のための徳を貯める時間)
  • 恵まれるものは忘れ、困難にあるものは嘆願する(常に信仰せよ)

ここだけ引っ張ってくると、何となく仏教にも近いものがあると思えてきます。
(人は苦しむ存在、善も悪もない、解脱…)



旧約聖書や新約聖書との関連も多数出てきます。
クルアーンでは、キリストも預言者のひとりと考えており、一神教ではあるものの、ユダヤ教やキリスト教徒の親和について、意識的に余地を残しているようです。
どのくらい関連しているかは、以下の預言者一覧をご参照ください。

イスラム教預言者一覧、()内の名前は、聖書表記。P614より

  1. アーダム(アダム、人類の初めであり、預言者の初め)
  2. イドリース(エノク、19:56,57 21:85)
  3. ヌーフ(ノア、ノアの箱舟で知られる)
  4. フード(エベル、アラビア半島南部のアードの民に使わされたアラブ人)
  5. サーリフ(アラビア半島北部のサムードの民に遣わされたアラブ人)
  6. イブラーヒーム(アブラハム、一神教を再興した預言者として重視される)
  7. イスマーイール(イシュマエル、イブラーヒームの長男でアラブ人の祖)
  8. イスハーク(イサク、イブラーヒームの次男でユダヤ人の祖)
  9. ルート(ロト、イブラーヒームの甥、パレスチナ北部カナーン地方の町サデゥームに遣わせられた)
  10. ヤアクーブ(ヤコブ、イスハークの息子、別名イスラーイール)
  11. ユースフ(ヨセフ、ヤアクーブの12人の息子の一人で美男子)
  12. シュアイブ(ナジュド地方窓やんの町の「森(アイカ)の人たち」に遣わせられたアラブ人)
  13. アイユーブ(ヨブ、忍耐の人として知られる)
  14. ムーサ―(モーゼ、ユダヤ教の「立法」を授かった)
  15. ハールーン(アロン、ムーサーの兄)
  16. ズー・アルキフル(エゼキエル、21:85,38:48に言及される)
  17. ダーウード(ダビデ、イスラエル王国の王、「詩編」を授かった)
  18. スライマーン(ソロモン、ダーウードの息子、エルサレム神殿を建設)
  19. イルヤース(エリヤ、6:85 37:123-132)
  20. アルヤサア(エリシア、紀元前9世紀、ユダヤ王国の混乱を収めた)
  21. ユーヌス(ヨナ、魚に飲み込まれた人として知られる)
  22. ザカリーヤー(ザカリア、マルヤムの保護者)
  23. ヤフヤー(ヨハネ、ザカリーヤーの息子で、洗礼者)
  24. イーサー(イエス、キリスト教の「福音」を授かった)
  25. ムハンマド(クルアーン中では、アフマド。61:6)

ということで、次は新約聖書物語を読んでみようと思います。
■旧約聖書物語(犬養道子、新潮社)
クルアーン物語とかないのかな。

 


モモ (Mエンデ、岩波少年文庫)



モモ (Mエンデ、岩波少年文庫)』を読みました。
時間とはどういうものなのかを考えさせられます。
1973年に書かれた本ですが、まさに今ここで読まれるために書かれた本だと思わせる一冊です。

物語ですから、読んでみないと内容はわかりません。
誰かから聞いてもピンとこないし、端的に言えば「時間泥棒と女の子が戦う話」ですが、これだけではこの物語の核には触れることができない。
でも、読んでみれば「生きていくうえで大事なことってどんなことだったっけか」、と考えるために立ち止まるきっかけをくれることでしょう。
子ども向けの本という設定ですが、忙しい大人こそ読むべきと思います。

仕事で体調を壊しかけている私には、ベッポという掃除夫のおじさんの言葉が印象的だったので、長いですが、引用します。

「なあ、モモ、」とベッポはたとえばこんなふうにはじめます。「とっても長い道路をうけもつことがあるんだ。おっそろしく長くて、これじゃとてもやりきれない、こう思ってしまう。」しばらく口をつぐんで、じっと前のほうを見ていますが、やがてまた続きます。「そこでせかせかと働きだす。どんどんスピードを上げてゆく。ときどき目を上げてみるんだが、いつ見てものこりの道路はちっともへっていない。だからもっとすごいいきおいで働きまくる。心配でたまらないんだ。そしてしまいには息がきれて、動けなくなってしまう。道路はのこっているのにな。こういうやり方はいかんのだ。」
ここでしばらく考え込みます。それからようやく、さきをつづけます。
「いちどに道路ぜんぶのことを考えてはいかん。わかるかな? つぎの一歩のことだけ、次の一呼吸のことだけ、つぎの一掃きのことだけを考えるんだ。いつもただつぎのことだけをな。」
またひと休みして、考えこみ、それから
「するとたのしくなってくる。これがだいじなんだな、たのしければ仕事がうまくはかどる。こういうふうにやらにゃあだめなんだ。」
そしてまたまた長い休みを取ってから
「ひょっと気がついたときには、一歩一歩すすんで来た道路がぜんぶおわってる。どうやってやりとげたかは、じぶんでもわからんし、息もきれていない。」
ベッポはひとりうなずいて、こうむすびます。
「これがだいじなんだ。」
(P52)

時間泥棒はまだいなくなっていません。
奴らは、いつでも、そこかしこから現れるのだということを知ること、それが豊かな時間を生きることにつながると思えます。

TN君の伝記(なだいなだ、福音館書店)



TN君の伝記(なだいなだ、福音館書店)』を読みました。
面白かった。大変面白かった。
すごく勇気の湧く本です。
本と社会に学び、はったりで己を鼓舞し、自らの正義を持ち続けるTN君の爽やかさと苦しさが、「お前も動け」と焚き付けてくるような心地がします。

これまで読んできた「三酔人経綸問答」や「一年有半」がどういう歴史の中で書かれてきたのかがよくわかりました。
なるほど洋学先生の言う自由はまだ遠い。
自由に向けて進んでは戻り、進んでは戻り…。
日本人は自由のないところに戻ろうとする国民性があるのかもしれません。
三酔人経綸問答(中江兆民、光文社古典新訳文庫)
一年有半・続一年有半(中江兆民、岩波文庫)

現代はどんなもんだろうかと考えてみると、確かに明治よりは自由だと思うが、精神的に自由になれているかと言えばそうではなさそうです。
そうでないから「スクールカースト」のようなものができるのでしょう。
やはり、まだまだ自由は遠いように思えます。
教室内(スクール)カースト(鈴木翔、光文社新書)

しかし、私たち日本人は本当に自由など求めているのだろうか。
かつての自由党の仲間たちが変わっていってしまったように、現代だってそんなに強く自由を求める雰囲気があるとはなかなか思えません。
それはあるいは私がそういう地位に甘んじているからなのかもしれませんね。
そう考えると、今の世の中に対して、自分が目を閉じてしまっているような気持ちになります。
何からやればいいのかはわかりませんが、動きたくなる、そういう本です。

ーーー

ところで、本書では幸徳秋水のことも多く書かれていて楽しめました。
内村鑑三が政府に反抗的な姿勢を示していたから帝国主義の序に書かせていたということもわかりました。
でも、二人がその後どうなったかは書かれていない。
内村は戦争を養護するような発言をしたとだけ書いていたから、あるいは二人は決別したのでしょうか。
何故だかわかりませんが、二人のことがずっと気になる…。
帝国主義(幸徳秋水、岩波文庫)

ーーー

本書を読めば、明治の政治がどんな人に運営されていたかがわかります。
そこが伝記の面白いところですね。
歴史に息を吹き込んでくれる気がします。
それのお陰で、現代とはそんなに変わらない当時の人々の姿が見えてきて親しみもわきます。

本書を読んでからならば、いくらか「一年有半」の政権批判も飲み込みやすくなりそうです。

  

正義の教室(飲茶、ダイヤモンド社)



正義の教室』(飲茶、ダイヤモンド社)を読みました。
めちゃくちゃ面白かった。

正功利主義、自由主義、直観主義に対応する3名の女の子とそれらの思想に違和感を覚える主人公が倫理の先生の授業を受けながら、正義とは何かを究明していく物語。
主人公の理解と並行して、私たち初学者でも学べるように多大なる配慮がされていました。
また、3つの主義それぞれの特徴と、問題点を学びながら、ざっくりとした西洋哲学史も学べて、哲学の大きな流れが理解できます(枠の中か外かで2500年、構造主義とポスト構造主義→社会が人を形作る)。
今読んでいる『史上最強の哲学入門』(飲茶、河出文庫)とも重なる部分があるけど、どっちも読んでいるとなお面白い。

最後に主人公が採用した「特定の正義を決めないことが正義」というのは、レヴィナスの「他者」と近い発想のような気がします。
真理それ自体に価値があるのではなく(そもそも我々は真理なんていうものには到達できない。誰かが到達した真理を否定する他者の存在を否定できないから)、真理を追い求めるということが大事なのでしょう。
そして、これは他者を尊重しながら、少なくとも公共の福祉を侵さないようにして真理を追い求めていく必要があります。
しかしどうやって?

その答えとして、主人公は、衆人監視下かそうでないかに関わらず善(自分が良いと思うこと)を行うことを正義とします。
しかし、それで被る損害が大きいことは往々にしてありえそうです。
だとすると、やはり他者の視線は強いと言わざるを得ません。
そして、それは要するに我々は社会に形作られているということを否定することができないということを突きつけてくるように思える。

このまま監視社会の強化が続けば、1984年のような世界が来るのだろうか。
それはいやだなぁ。
あるいはマイノリティ・リポートのような社会か。
ただ、個人間のつまらない小競り合いはなくなりそうだから、優しい社会になるようにも思えます。
この辺の感じ方については、どう生きたいか、それによって、答えは個々人で異なるのでしょう。
そして、同一の人物であっても、年を取れば、立場が変れば、優しい社会も退屈な社会となるかもしれません。
かくして正義とはあいまいで、うつろいやすく、だからこそ問い続けなくては私たちはただの元素の塊となってしまうのです。
ただし、ただの元素の塊ではいけない、ということもないというのが味噌です。
あくまで「自分はどう生きたいのか」。
これが各個人に託されているということですね。

結論、「良きに計らえ」

 

現代語訳 幸徳秋水の基督抹殺論(鹿砦社)



現代語訳 幸徳秋水の基督抹殺論』(鹿砦社)を読みました。
大変おもしろかったです。

キリスト教が、既存の宗教から名前を変えただけのものであることが、実に多くの歴史家が多くの著で述べてきたのかが分かります。
論理的に考えるなら、多分キリストはいなかったのでしょう、と思わせるに十分。
(もっと言えば、マリアも使徒もいなかったようです)
それにしても、相変わらずコテンパンです。
これでもか、これでもか、というくらいあらゆる議論にメスを入れていきます。
で、結論としては、こう。
論じてここに至ればもはや明らかである。基督教というのは、その根本の教義から枝葉の式典に至るまで、なんら独創の事物は有していないのだ。他の宗教から画然と卓越した基督教ならではの独特の色彩、などというものはなんら存在していない。すべてがまさに、古代の太陽崇拝や生殖器崇拝を起源に発生した諸々の信仰の、遺物にすぎないのである。すべてがまさに、印度・波斯・埃及・猶太・希臘・羅馬の、残飯やら飲み残しの酒ばかりなのだ。そういうわけで、もはや史的人物としての基督の肖像は、ますます薄くなるばかりである。(中略)基督教の依って立つ土台は、『無智』以外の何ものでもないのだから。(同書P142)

個人的には「聖書が信じられてきた」という歴史は変えようのない事実なので(それ自体が非常に野蛮なことのようにも思えてしまうのですが)、イエスの存在がまんま聖書の意義に左右するかは少し議論の余地もある気もします。
ただ、秋水先生も別にキリストがいようがいまいが信仰としては関係ないと明記しています。
そして、そのあとで「でも基督がいて、基督の伝説を信じる、という姿勢はおかしい」と続くわけです。
信仰が人々の生活に規律と平穏を与えるのなら良いのでしょうが、これまでの歴史を見れば、基督教はかんたんに教会の便利な道具になるし、しかも帝国主義ともつながります。
秋水先生としては、そこは見逃せなかったのかもしれません。
帝国主義(幸徳秋水、岩波文庫)

面白かった話を二三あげます。
・あらゆる信仰の根本にあるのは「生殖器崇拝」と「太陽崇拝」(命を生むことの偉大さに起因)
・十字架は男性を、丸は女性を表す昔から用いられる記号である(イースター祭の卵も女性を表している)
・12月25日を祝うのは、太陽崇拝の宗教では一般的。多くの行事がこの辺に集まる。それは、ちょうど冬至から3日後に日が伸び始める(太陽が死んで復活する。しかもちょうど3日)というところに起因している
・僧院生活はテラピウト教派そのもの
・初期基督教の飲み会は食人、近親相姦の場となっており、故にローマ帝国で多大なる迫害を受けた
・クリシュナ(インド神話の英雄。多くの人が「Crishna」と書いて表したそう。Cristnaと記載されているのを秋水先生も見たことがあるという)との類似性
などなど。

ーーー

死刑の前(幸徳秋水)と同様、本書も獄中で死刑を前にして書かれたと、訳者のあとがきには書いてありました。
手元に出典もなく、よくもまぁこんな書がかけることです。
それに、この方は高校中退の学歴なのに、どうしてこうも博学なのでしょうか。
私も、もっと本を読んで、色々考えなくちゃならんなと思わされます。

本書は、『死刑の前とかなり近い思想をベースに書かれている気がします。
(同じ人が書いているのだから、当たり前といえば当たり前ですね)
すなわち、両書は次の一言を言いたかったのではないかと思うのです。
科学的精神に適合せず、道理に協(かな)わず、批評に耐えず、常識と相容れないものが、どうして今日における倫理道理の主義や、安心立命の基礎になれようか?(同書P180)
つまり秋水先生は、この「科学的精神」でもって生と死を捉えることを奨励したいのです。
(とはいえ、『死刑の前』は1章しか書かれていないので、本当のところはもう誰にもわからないのですが)

ーーー

ところで、帝国主義の序には、キリスト教徒の内村鑑三が文をしたためていました。
二人は仲が「良かった」のだと思われます。
さて、内村鑑三がもしこの書を読んでいれば、果たしてどう思ったであろうか。
ぜひキリスト教徒としての感想(できれば反論)を伺ってみたいと思いました。


   

少子化対策のヒント(『人口減少社会の未来学』から)



人口減少社会の未来学を読みました。

前回の記事では少子化においては、女性がいかにして経済基盤を獲得するかが出生力の回復に重要な要素であり、「共働き社会」の実現が少子化社会脱却の第一歩になるのではないか、という提言をした『仕事と家族 - 日本はなぜ働きづらく、産みにくいのか (中公新書)』を紹介しました。

これについて、「ではどうすればいいのか?」のヒントが『人口減少社会の未来学』には書いてあります。

本書は専門の異なる著者陣が、自身の専門領域から人口減少という現象を捉えてその社会がどこに向かうのか、どういう対応が求められるのか、などについて論じています。

著者陣の一人、平田オリザさんの章には、女性が子供を生みたくなる自治体の具体的な取り組みが紹介されています。

特に市役所内にワークシェアリングの場を設けるなどの取り組みは、女性をコミュニティーに緩やかにつなぐ、素晴らしい取り組みだと思います。
ただ、平田オリザさんの提言の中で私が重要だと思ったのは、「女性が昼間っから酒を飲んでも後ろ指を刺されない社会でないと話にならない」という指摘です。
このことは、何も女性が昼間から酒を飲める環境をもっと作るべき、という具体的な対策をすすめるものではないと思われます。
この指摘は、もっと大きな視点、すなわち「個人を尊重しつつ、緩やかなつながりが形成できる社会」を目指しましょうという提言だと私は捉えました。

これからの自治体は、女性が安心して子供を産み、育てる環境を作れるかどうかが生き残りのポイントで、そのためには、母親の生活しやすい社会基盤が必要です。
こういった社会基盤を整備するためには、市民一人ひとりが「個人を尊重する」「個人が社会につながることを奨励する」意識を持つことが重要で、そのことを「昼間から外で酒を飲んでも」に込めたのだと思います。

女性が安心して子供を産み、育てられる自治体であれば、やがてその子供たちが大人になり、子供を産もうと思ったときに帰ってくる可能性も高まるでしょう。
多くの自治体がそうなれば、国として見た際には少子化という問題が改善されていることになる。
そして、現にそういう自治体が出てき始めている。

地域が母親を助け、地域で子供を育てるという意識のある自治体づくりが求められているということですね。
でも難しいのは、あまり介入しすぎるのもマイナスだということ。
それは確かに勝手すぎる気もしますが、それが移住者の本音であることもまた事実でしょう。

自治体の担当者は、こんなに難しいことを調整しなくちゃいけないんだから、まずは公務員の給料を上げるとこから始めてもいいのでは?と思えてしまいます。
公務員の皆さんにはほんとに頭が下がります。

【読了】春画の楽しみ方完全ガイド(白倉敬彦監修、池田書房)

『春画の楽しみ方完全ガイド』(白倉敬彦監修、池田書房)を読了。

同じシリーズの「西洋絵画」「日本絵画」に続き、3作目。
【読了?】西洋絵画の楽しみ方完全ガイド
※日本絵画はまだ記事にしてなかった…

本作は前のシリーズよりも登場する絵師が少ないため、一人の絵師の複数の作品を紹介する形でした。
ただ、本作の楽しみ方の紹介に伴って、絵師の系譜が追えるという構成は変わりません。
これから春画を楽しもうと思う人には大変良い本です。

もちろんこの本で主要な春画のすべてを網羅しているわけではありません。
ただ、春画鑑賞の第一歩には大変有意義な本だと思います。

「うまい・へた」がそのまま「いい・わるい」にならないという点が、春画もやはり美術品だなぁと思わせてくれます。
私の場合には、「いい表情」の作品に魅了されるのだということもわかりました。
ですから前半で紹介される墨摺りの作品の中でも、非常に清々しい表情の作品などは見ていて「いいねぇ」と思わずつぶやいてしまいます。
しかし、逆に表情の無い春信の作品も何考えてんだかわからん作品も好きなのが自分でも不思議です。

それにしても、彫る人は本当に凄いです。
毛の一本一本を浮かび上がらせるように周りを掘っていくわけですよね。
ドットとかだと涙出てきそうです。
当時の彫技術は世界一だったと別の本で読みましたが、だとすると当時の日本人(しかも庶民)の美術への関心というのは、現代人よりもよっぽど深くて広かったのかもしれません。

表情があっていいなぁと思った作品は特に以下の作品です。
※画像はいずれも同書からの引用

菱川師宣 欠題組物Ⅰ 第九図(P66)
吉田半兵衛 うるほひ草(P86)
鳥居清長 袖の巻 四(P126)
鳥居清長 袖の巻 六(P126)
逆に、顔を隠しているのもいい…(矛盾してますね)

喜多川歌麿 歌満くら 十(P130)
喜多川歌麿 歌満くら 七(P15)
歌川国芳 花以嘉多 中、第二図(P180)
歌川国芳 華吉子見 地、第二図(P182)
顔が見えないのに、なんとなく心情がわかってしまいそうなのが面白い。
書き入れの解説のおかげということもあるのでしょうけれど、力の入り方とか、仕草とか、全体から伝わってくるものがあるのだと思います。

前にシャネル銀座店の春画展に行きましたが、また行きたくなってしまいました。
  

【読了】村上春樹にご用心(内田樹、アルテスパブリッシング)

『村上春樹にご用心』(内田樹、アルテスパブリッシング)を読みました。
面白い。

先日アフターダークのことについては書きましたので、それ以外について。
【読了】アフターダーク(村上春樹著、講談社)

本書では、村上春樹氏が
①邪悪なるもの
②死んだ者
③みんなが知らないもの(本人も知らない)
について書こうとしたのではないか、とういことが説かれていました。

①については、それらがときに“意味のない悪意”すなわち純粋な混じり気なしの悪意として、出てくるという。
ひょっとしたら、それは一部には(卵と壁の話における)“システム”のことを言っているのかもしれない。
アフターダークで言うところの「タコ」なんかは多分“システム”のことですよね。
その他、「仮面の男」「白川」あたりも「邪悪なるもの」に含まれる気がします。
ただ、「フルフェイスの男」については、私の中ではどこに置いたもんかと微妙なところです。
センチネル…ではないんだろうけども…もやもやしています。

②については、死んだ者というか、「生きた者を書かない」というテクニックのようです。
これは、③にもつながる要素で、死者というものが世界共通の意識だから彼の作品は世界に広く受け入れられているのではないかと本書は論じていました。
「私が知っていることは、皆も知っている」ということはほとんどないが、「私が知らないことは、皆も知らない」ということはよくある。
だから、彼は「生きていない者」=「死者(のような者)」ばかり描くのだと内田先生は言います。
そして、死者という概念はまさに「私も知らない。皆もの知らない」のケースに該当する概念の一つであり、村上春樹氏はこの「知らないもの」を書くのに長けている、というのが内田先生の認識のようです。
つまり、村上氏の扱う題材自体に、言語の壁を跨ぐような共通理解を得る素質があるということですね。

ーーー

他にも、村上作品への批評に対する提言や、内臓の痒みを例にした言葉の運用能力獲得法など、さまざまなおもしろポイントが満載でした。
村上作品について、こんなにいろんな観点から書いた本って他にあるのでしょうか?
ぜひ近いうちに「もう一度村上春樹にご用心」(ひょっとして文庫版なのかな?)も読んでみたいと思いますし、内田先生以外の方の村上分析も読んでみたいなぁと思いました。

 

【読了】街場の読書論(内田樹、太田出版)

『街場の読書論』(内田樹、太田出版)を読みました。
面白かったぁ。

特に、学力について「学ぶ力」と読むというのは目からウロコでした。
学ぶ力を得るには、メンター(師匠)が必要。
メンターとは「今まさに学びの中にいる人」。
そのメンターに「学びの流れに巻き込まされてしまう」ことこそが学ぶ力には不可欠なのだ。
つまり、「今学ぶ者」と「学びに巻き込まれる者」の関係の中にこそ、知の獲得の手法が伝達されるということですね。
大学の存在意義はまさにここに行き着くのでしょう。

また、『痩我慢の説』(福沢諭吉)についての説明も面白かった。
これはまた別の記事で書きたいと思います。

ーーー

全体を通じて、とても「大人な」本という感じを持ちました。
常識的にものを考えたいという思いが伝わってくるようです。
「常識的に考える」ということは、つまり身体的な快・不快を考慮するということのようにお見受けいたします。
要するに、「違和感があるかないか」と言い換えてもいいかもしれません。
世の中、数値化できることばかりではない、ということも常識の一つでしょう。
そういう常識が忘れられた社会は、多分穴だらけの社会になる。
だから、「常識的な人」になることはとても重要な事なんだけど、みんなが常識的になれるかというと、そうではない。
常識という言葉と裏腹に、常識的な思考・行動を取るのには、素質が必要で、全体の20%くらい常識的な考えができる人がいれば社会や組織は機能するのだとか。

「はて、私は常識的に考えることのできる大人だろうか?」と問うてみると、少々危なっかしい。
となるとできることは、常識的に考えることのできる人の「邪魔をしない」ということだろうと思う。

あんまり読書に関係のない感想ばかりですが、本書に通底するメッセージはずばり「常識を持て」「そのために君が、本を待っている」ということになると思います。
あるいは、この考えは前に読んだ『街場の教育論』の影響を多分に受けた上で感じることなのかもしれません。

常識を持つということは、難しく言えば、共同体の一部であることを理解し、共同体に貢献する使命を自覚せよ、ということになるかと思います。
そして、このことは要するに「成熟する」「大人になる」ということと同義なのだろうと思わされました。

師を持ち、学びの流れに巻き込まれ、常識を得て、成熟せよ。
このステップを踏むとき、師とは本でも良い、というか私はそうしてきたよ。
そういうメッセージを私は受け取った…ような気がします。


※タイトルの太田出版は単行本出版時の出版社

【読了】街場の教育論(内田樹、ミシマ社)

『街場の読書論』(内田樹、ミシマ社)を読みました。
めちゃくちゃ面白い。

教育問題は簡単に解決しないこと、現場に任せることが重要ということ、そもそも儲からないということ、グローバル資本主義から子どもを守ることの重要性、仕事論、メンターの不可欠性、外に求めることこそ学び…などについて非常に含蓄のある指摘をされています。
前ページに付箋を貼りたいくらい面白かったです。

大学で働く者としては、本書を読んで「大学同士で競い合う必要なんてないんじゃん」と思いました。
優秀な子が入ってこなくても、それはそれでいいのかもしれません。
そういう子をしっかりと教育できるようにしたならば、そこに大学の価値は自ずと現れてくるのではないだろうか。
すべての大学が東大である必要もないでしょうし。
あとは、そういう姿勢の大学を我々が守れるかどうかにかかっているように思う。
とういことはつまり、大学は経済的な文脈で経営を語っちゃいけないということですね。
そうなると、大学を運営するのは、やっぱり先生であるべきとも思いました。
経営のプロが大学を経営してしまうと、それはもう大学じゃない、ということですね。

また、労働は協同という考え方にも納得がいった。
自分は少しグローバル資本主義に侵されていたのかもしれません。
もう少しゆったりとした気持ちで仕事に向き合いたいと思います。
いいじゃんね、先生のサポーターで。
サポーターとしてどうしたら頑張る先生を助けられるのかを一生懸命考えるのも大事な仕事でしょう。
昨今は「教職協働」が持て囃されていますが、少し立ち止まって考えるきっかけになったように感じます。
(事務と教務が、お互いをプロとして認識し合えることが大事なのかもしれません)

それから、「言葉のストックを増やす」というのも目からウロコでした。
生まれたての自分というのは「空っぽ」で、言葉がそこに入ることで「その人が出来上がっていく」という考え方です。
思いを言葉にする、ではなく、言葉が思いを作るのですね。
だからこそ、まずはいろんな言葉を体に入れて、そこから自分の思想を作っていくというプロセスが求められる。
そのプロセスが逆になると「ムカつく」を何十通りにも使い分けるなどの事態になってしまう。
なるほどなぁ。確かになぁ。
今後も積極的(意識的)に日本語に接する生活をしていかなくちゃなぁと思いました。
(能でも聞いてみようかしらん。そうすれば真名と仮名の使い分けもうまくなるのかな)と思いながら、まずは百人一首の本を買いました。

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今後も、内田先生を勝手にメンターとさせていただき、著作もどんどん読んでみたいと思います。
(並行読みしているので全然読み終われないし、結構重なる話が多くて、興味深いと思った話が度の本の内容かわからなくなる、というのも、初めての経験です)
そして、著作の中で紹介されている本もいずれは取り組まねばならないでしょう…。

ちなみに、昨日から『街場の大学論』も読み始めました。
こちらは文科省の職員との対談なども入っており、たまりません。
一日が22時から24時の間にもう3時間分の隙間があればいいのに…。

 
  

【読了】崩壊するアメリカの公教育-日本への警句(鈴木大裕著、岩波書店)


アメリカが、とんでもないことになってる…絶句です。
そしてその流れが、日本にも到来しつつあることに警鐘を鳴らす本でした。
新自由主義という、「金」にフォーカスした価値観の下、社会全体が効率化と規格化を進め、その顕在化としてアメリカでは公教育の崩壊が起こっているようです。
難しい問題だと感じるのは、新自由主義は「それ、どうなの?意味あるの?」という質問を投げかけるのです。
教育や、抽象的な研究は、それについてわかりやすく表現することが困難であり、説明をしても素人には理解しきれない部分があったとしても、新自由主義は更に質問をします。「よくわかんないな。結局役に立つの?」
もちろん役に立つ、しかし教育がどう役に立つかなど、誰にわかろうか?そんな回答には目もくれず、矢継ぎに投げかけてくる質問はこうだろう。「それにお金回す意味あるの?」
そして最後にはこうなる。「こうした方がもっと役に立つし、稼げるよ」

新自由主義の怖いところは、生活の根本を形成するのに必要不可欠な「金」をベースに話をすすめるため、大変理詰めで議論を進めやすいところだと思います。
しかし、市場に任せては行けない領域というのがかならずあるものです。
というか市場は、市場価値だけでは測れないものがあることを無視するため、市場に任せると、市場の価値以上の価値には到達できないことになるのです。
だから先人はそれは公的な事業であるべきだとしてきた経緯が、新自由主義の流れの中で、どんどん効率化の錦旗の下で民営化されていく。
もちろんいい民営化もあるだろうけど、悪い民営化だってあるでしょう。
果たしてそれらを検証し、改善できているだろうか。
行政としてかける予算が減ったから成功、という判断になっていないだろうか。
そして、私達市民も、杯金至上主義に陥っていないだろうか。
教育の崩壊とそれに対して戦う人々の活動という現象から、社会に暮らす私達の、市民としての自覚が問われる一冊でした。
それはあたかも「みんなさ、民主主義って言葉、知ってる?」と投げかけているような心地がしました。

本書でも盛んに出てくる、「何を持って学力とするのか?」という問いは、子供を持つ私も当然考えなくてはならないだろうと思いました。
そして、公教育に何を求めるのか、素人なりに考え、プロの意見を尊重しながら、その上で親として何ができるのかを考え、行動しなくてはならないとも思います。
それが、ハンナ・アーレントの言うところの「大人の責任」を果たすことにつながるかもしれないですね。

それにしても、新自由主義ってそんなに影響力のあるものなんだなぁと関心しました。
別の本も読んでみたいと思います。


【読了】春画の見かた(早川聞多著、平凡社)

春画の見かた (コロナ・ブックス)
春画の見かた (コロナ・ブックス)
平凡社
2008-08-25
ちょっとパラパラ見てみようかな、と思って開いたら、面白くてぶっ通しで読んでしまいました。
なるほど、春画がわ印と呼ばれていたのがわかりました。

それにしても日本のエロ文化はすごいですね。
大体今想像されるエロいイメージはすでに江戸時代には考えつくされている感じがしました。
逆に言うと、江戸時代と今の違いは、性的な規制のみであって、本質は変わらないのかなと思います。
多分それは、生理的なことだから仕方がない。というのが、『性のタブーのない日本』の言うところにつながる気がする。
背徳的なところが一切なく、自由奔放なまぐわいが描かれておりました。
不思議なことに、全然興奮しません。
裸のハマのほうが控えめなのによっぽどそそります。
ひょっとして、抑圧された西洋の人々のほうが、エロの発散と実用性に向かったんでしょうかね。
性のタブーのない日本 (集英社新書)
性のタブーのない日本 (集英社新書)
集英社
2015-11-17

【読了】20代で隠居(大原偏理著、K&Bパブリッシャーズ)

20代で隠居 週休5日の快適生活
20代で隠居 週休5日の快適生活
K&Bパブリッシャーズ
読みました。
『年収90万で東京ハッピーライフ』を以前に読んでおり、こっちも気になって読んでみましたが、大変面白く読めました。
内容としては同書と似たような記述が多いですね。
こっちのほうがイラストが少ない感じ。

こうなりたいと思うには、もう色々なものを抱えすぎてる自分ですが、
人生に辛くなったときにはこういう生き方もあるのだと思えるのはいいことだと思います。
皆が嫌な仕事から逃げれば、嫌な仕事はなくなっていくように思いました。
(採用とかにコストがかかって採算が合わなくなるだろうからね。)

就活で悩んでる人たちが読んだら、隠居に向かわせてしまいそうな本でした。
自分も出会うのがもう10年早ければ、感化されていたかもしれません。

年収90万も合わせて、大変いい本です。

年収90万円で東京ハッピーライフ
年収90万円で東京ハッピーライフ
太田出版

【読了】ザ・ウェーブ(モートン・ルー著、新樹社)

ザ・ウェーブ
ザ・ウェーブ
新樹社


読みました。
ザ・ウェーブ(モートン・ルー著)という本で、ある学校の理科の授業でナチスの取り入れた規律をもとに共同体を意識させる、という実験が行われ、それに伴いどんなことが起きたかを小説にした作品。
表紙がアニメ絵なので、軽い感じで読み始めると、あら大変。
人間は簡単に善悪の判断とか個人そのものを失えてしまうんだなと言うことを突きつけられます。

空気を読めという言葉がありますが、読みすぎるのも考えもんですね。
民主主義は多数派の意見を採用する社会ですが、こうした作品を読んで【集団や大衆の性質】について思いを巡らせるたびに、民主主義って危険だなぁと思わずにはいられません。
議会制民主主義なんていう下りエスカレーターで登る的な制度は、もしかしたら民衆や権力の濫用を抑えるための措置なのかもしれませんね。
だとすると、参議院もあながち反対できないなぁ、なんてことを考えさせられました。

形は違えど、いろんな形でマインドコントロールをされているかもしれないと疑心暗鬼になる劇薬的な本でした。
アルコールよりも効き目が強く、翌日への残りも心配です。

こっちの映画も見たいけど、近所のツタヤでは貸出してない…
THE WAVE ウェイヴ [DVD]
THE WAVE ウェイヴ [DVD]
アットエンタテインメント
2010-04-28
DVD

辞令交付式への違和感(みんなよく参加するなぁ)

 今日は4月1日。  我社では辞令交付式が行われました。  そのため、土曜日ですが、人事課員として出勤しました。  明日も仕事なので、12連勤となります。   人事課の闇ですね。  それはさておき、辞令交付式に関して、毎年違和感を持ちます。  それは、お礼を言われる側が、何故かホ...