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【読了】宗教改革三大文書(ルター著、講談社学術文庫)


読みました。偉い疲れましたが、なかなか興味深く読めました。
こんなに痛烈に批判しててよくもまぁ殺されなかったなと感心してしまいます。

先にマルティン・ルター――ことばに生きた改革者 (岩波新書)を読んでいたため、なんとなくどんな人物かはわかっていましたが、それを知ってて良かったと思います。
これほどの批判を、なんの前提知識もなく読んでいたら、多分気分が悪くなることでしょうから。

さて、ルターの主張はシンプルです。
すべて聖書に従え、これに尽きます。
聖書に載っていないのに、教会が作った規則は横暴であり、サタンに騙された産物であることから、無視しても構わないということを徹底的に書き上げています。
キリスト教徒は洗礼を通じてあらゆるものから自由になるのだから、教皇、司祭にさえ従属することは、それこそ不信仰につながると提言します。
当時としては大胆であったであろうその理論は、わかりやすく噛み砕いて説明されていますます。
一方で、彼のいう、信仰こそが全てであり、業は信仰の前では取るに足らないことである、という理念は、確かにそのとおりなのですが、難しいなぁと思いました。
それは、完全に自分について、常に監視をしていなさいという理念なのです。
ここまでやったからいいでしょう?ではないのです。
死ぬまで自分の行い、信仰を監視し続け、常にキリストに立ち返ることこそがキリスト教徒のあるべき姿だと解くのです。

こう聞くと、なぜキリスト教が聖戦と称して多数の戦争を行ったのか、理解に苦しみますが、多分それは勉強不足のせいでしょう。

*

解説では、ルターの聖書に帰れという姿勢が、ローマ教皇に様々な辛酸を舐めさせられているドイツの諸侯の利害と合致して宗教改革の機運が広まっていったというから、あるいはルターは時代の(あるいは当時のドイツの)代表者として主張をしたのもしれません。
少なくともルターを生む土壌はあったように思えます。
それだけ教会も行くところまで行ってしまっていたのしょうかね。

この本を読めば、なんとなくキリスト教がどんなものかがわかることと、キリスト教会の既得権益の独占っぷりがみてとれます。
特に教皇の、胸中保留と、大権による随意決定はめちゃくちゃの極みです。
教皇はこの教会領地を自分と自分の大権に保留していたとして土地を巻き上げる権利を持っているのだそうですが、まさに外道ですね。
こういうところは民衆が盲目的にキリスト教に対して従属しているから、権力が拡大集中してしまったのかもしれません。
先日読んだ、『アメリカの公教育の崩壊』にでてくる新自由主義の社会への浸透に近いものを感じます。
あるいはナチス誕生の経緯とも似ていなくもない。

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ルターは、聖書を基に、以下の点を主張します。

  • 信仰こそ第一
  • 金のために祈りを上げる司祭はありえない
さて、こんなルターさんが現代日本に来て結婚式を見たら何というのでしょうね?
卒倒するかもしれません。
あるいは文化の違いだと許容されるのでしょうか。
そんなくだらないことを考えてふふふとできるのも、本書の面白いところ…ではないかもしれませんね。

* 

ルターの主張を通して見えるローマのキリスト教会は、完全に権威を利用して富の集中を図っています。
権力は腐る、その様が見て取れたように思いました。
おそらく、キリスト教だけでなく、人間としての普遍的な性質なのではないかとさえ、思えてしまうのでした。

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