【読了】美術館へ行こう(草薙奈津子著、岩波ジュニア新書)

『美術館へ行こう』(草薙奈津子著、岩波ジュニア新書)を読みました。



優しい語り口で美術館の表も裏も話してくれる素敵な本でした。
また、
・適当な感じで交渉に来た外部の学芸員にちょっと意地悪をしちゃった
・展示品を貸してくれない修復家に心のなかで憎まれ口を叩いちゃったり
など、所々に著者の本音が垣間見えて、非常に親近感がわきます。
ちなみに著者は平塚市美術館の館長。

以前、■子どもたちに美術鑑賞の楽しみをという記事を書きましたが、本書には以下のような記載がございました。
また最近は、小中学校での美術教育の一環として鑑賞教育に力を入れるようになってきています。おのずと美術館の出番も多くなってきているのです。(同書P25)
実際にもうこういう取り組みに向かっているのですね。
非常に素晴らしいことだと思います。
絵がうまくなくても、美術は楽しんでいいのです。
そして、自分がある作品からどう感じようと、それは個人の勝手なのです。
こういう個人の勝手な感じ方を尊重することが、個人の尊厳につながるのだということを教えることは、学校教育の非常に大切な役割だと思います。

その他、学芸員にも専門分野があるとは知りませんでした。
また、キュレーターという仕事が、学芸員の仕事を細分化した内の一つであるということもこの本で初めて知りました。
欧米の有名な美術館では、キュレーターの他にもかなり細分化された専門家が配置されているようで、日本ではまだまだ美術館の事業や学芸員の仕事の地位が低いということが伺えます。

本書の中で私が特に感銘をうけたのは、以下の箇所です。
どんなに汚い箱でも捨ててはいけないと言いましたが(中略)新しいものに勝手に変えたりしてはいけません。(中略)なぜなら、そういった古いものにはきちんとした来歴由緒があって、そのまま保管しているのかもしれないからです。歴史のあるものには思いもかけない秘密と価値があるのです。(同書P107-108、下線は私の加筆)
この一文にははっとさせられました。
これは美術作品にだけ言えることではなく、普遍的なことではないかと思わずにはいられません。
「自分には価値の分からないもの」にも「それでも価値がある」と認められること、これが知性を探求する第一歩のような気がします。
もし美術教育が、ここにまで及ぶのであれば、展示される作品や制作する作家、そして美術館・学芸員・管理方を含む行政を見る目は、輝きに満ちてくるのではないかと期待せずにはいられません。

子ども向けの本ですが、全然馬鹿にはできません。
案外大人は、子どもに向けたほうが、本音を語れるのかもしれませんね。

今度是非一度同美術館にお邪魔してみたいなぁと思います。

【読了】図書館で調べる(高田高史著、ちくまプリマー新書)

『図書館で調べる』(高田高史著、ちくまプリマー新書)を読みました。



図書館の存在意義を探りながら、その中で司書として働く著者が「どうやって図書館で情報を探すか」について解説していく本でした。
2時間ほどで読める優しい本でしたが、目からうろこが落ちた気持ちです。
特に分類から情報を探そうという発想は、知るだけで役に立つ知識だと思います。
ワード検索だけでは、なかなか情報にたどり着くことが難しいという前提を知らないと、なかなか飲み込めないかもしれませんが、「情報」が「肉まんの中のたけのこ」を探すような作業だと捉えると、ちょっとわかるかもしれないと思いました。

簡単に説明をすると、「たけのこ」でヒットする本を調べると、「たけのこの育て方」「美味しいたけのこレシピ集」などの本がヒットするでしょう。
「肉まんのあんの作り方集」「肉まん文化史」と言う本仮にあったとしても、「たけのこ」というワードではヒットしないわけです。
ではどう調べるか?
まずは「料理」、「中華」という少し包括的な情報を扱った書籍を調べるのです。
この包括的な情報というのが「分類」に当たるということです。
書架にはこの分類でまとめられて本が並べられるので、そのへんの本をめくっていけば、欲しい情報の周辺情報などが得られて、芋づる式に情報に近づいていくことができます。
要するに、いきなり中心に行くんじゃなくて、まずは周りから見ていったほうが、結局は早いし、自分のレベルにあった情報に行き着く可能性が高いですよ、ということですね。

また、情報量が必ずしも調べやすさに比例するものではなく、したがって大きい図書館だからいいということではないという指摘もありました。
むしろ小さい本だからこそ、限られた書籍の中から様々な本に横断して調べる力がつくのだとか。
また、どうしても深い知識を必要とする場合には、取り寄せることなどもできると紹介されています。
どうしても行き詰ったときには、図書館の重要なサービスの一つとして「司書によるリファレンス(相談)」がありますので、それをどんどん有効に使いましょうとのことでした。

今後図書館で調べ物をするときに、非常に役に立つ知識・考え方が整理された素敵な本だと思いました。

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この本を読んで思ったのは、「先日疑問に思った”屏風”のこともそうやって調べればよかったのかもしれない」ということです。
何もいきなり『屏風と日本人』(しかも600ページ)という対策に挑むのではなく、美術史(屏風の位置づけ)、屏風の代表作品、屏風と歴史、みたいな形で段階的、横断的に調べていったのなら、もう少し短時間で消化不良を起こすことなく調べることができたのかもしれません。
(とはいえ、通読したからこそ感じることもあるわけで、一概にどっちが良かったとはいえないのでしょう)
【読了】屏風と日本人(榊原悟著、敬文社)

今私が気にしていることは「大学はなぜ生まれたのか」「そして今大学はどういう存在であるべきなのか」ということです。
これまで『大学の理念』(ヤスパース)、『文系学部廃止の衝撃』(吉見俊哉)などを読みましたが、いずれも少し難しかった…。
もう少し柔らかく調べて行きたいと思っていたところなので、少しずつやっていきたいと思います。
できれば本書に出てくる栞さんのように、理解の流れなどをちゃんとメモとして残して自分の中に積み上げられると望ましいですね。
とはいえ、仕事でも勉強でもなんでもないので、楽しくやることを第一にして取り組めたらいいなぁと思います。

【読了】屏風と日本人(榊原悟著、敬文社)

『日本人と屏風』(榊原悟著、敬文社)を読みました。


ページ600近い大書です。
しかもずーっと屏風について。
こんなに情熱的に屏風を解説する本が世の中にあるとは、驚きです。
(あとがきでは、原稿用紙に鉛筆書きとも書かれていてさらに驚きました)

そもそも「なぜこの本を手に取ったか」というと、美術展でみる作品になんとなく違和感を感じていたからです。
というのも、美術館に行くときには、だいたい予習として目玉作品の解説に目を通してから行きます。
そうすると、現物を見たときに、なんとなく馴染めない感じを持ってしまうのです。
色や質感については、どうしたって現物を見ないとわかりませんから、たしかに「見てやったぞ」という充実感があるのですが、なぜかモヤモヤっとしたものが心に残るまま美術展をあとにすることが多々ありました。
なぜか?と考えてみて、ひょっとしたら「屏風にかかれているから」ではないか?という仮説に至ったのです。

書籍等で紹介される屏風の多くは、しっかりと広げられ、1面の絵画のように紹介されています。
しかし、現物はあくまでも屏風であり、曲げて立たせる調度なのです。
つまり、折れ曲がった絵を見ることになります。
ここに大きなギャップが生じ、もやもやを生むことになっているのではないか?ということですね。

私の感覚としては、「1面の絵」としてみたほうが美しく感じています。
でも、長い歴史の中で様々な絵が”屏風”というキャンパスに描かれてきた以上、そこには私の知らない美しさがあるのに気づいていないのではないか?そんな風に思ったのです。

そして、普通に見ているこの屏風ですが、「そもそも屏風って何なの?」「なんでみんな屏風に描いたの?」「何のために屏風が作られていたの?」という疑問も湧いてきました。

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本書は、上記の疑問について、多くを答えてくれています。

  • 屏風とは、中国において風を避けるための衝立として生まれたらしいこと。
  • 中国から朝鮮を経由して日本に伝来したらしいこと。
  • そのうち日本製のものを逆に海外に送り出していたこと。
  • 屏風が祭祀において空間を仕切ったり、背後を飾ることに用いられたこと。

などなど。

海外から来たものに、日本のオリジナリティを付与して輸出するようになるというのは、現代にも通じるものがあって面白いですね。
また、日本の屏風の特徴として、金・銀に極彩色の絵を描いた派手さが挙げられていましたが、日本人は昔から派手派手しいのが好きなのですね。
この辺は奇想の系譜や奇想の図譜を読んでいただけるとよく分かるように思います。
(あと、黄金の国ジパングなんて呼ばれたのも、金屏風が出回ったからでは?なんて想像してしまいますが、Wikipediaには平泉の中尊寺金色堂がモデルとありました。当時、奥州では砂金がたくさん取れたというのは知りませんでした)
【読了】奇想の図譜(辻惟雄著、ちくま学芸文庫)
【読了】奇想の系譜

さて、私が知りたかった「”屏風絵”として屏風の絵を楽しむ方法」についてですが、本書はこれについて、別書『日本絵画の見方』(榊原悟著)を当たって欲しいとの記載がありました。
ただ、その一端として、「富士・三保松原図屏風」(狩野山雪筆、静岡県立美術館蔵)を例に「折り曲げることで、富士山の傾斜がきつくなる」など、絵から受ける印象を変化させることができることを紹介しています。(P11)

おそらく、画家たちは屏風に描くことが決まっている以上、”屏風絵”としてどう見られるかを計算して描いたはずです。
果たしてその視線で見るならば、これまで見た屏風はどう見れるのか、改めてみたいという思いに駆られています。
ぜひ、もう一回「燕子花図屏風」(尾形光琳、根津美術館蔵)を見に行きたい、その気持ちが高まっております。
【鑑賞】尾形光琳と燕子花図@根津美術館

 

【読了】ホモ・ルーデンス(ホイジンガ著、高橋英夫訳、中公文庫)

『ホモ・ルーデンス』(ホイジンガ著、高橋英夫訳、中公文庫)を読みました。

ぜんっぜんわかりませんでした。
こんな難しい本を読んだのは、果たしていつぶりだろうか…。
普段見ている様々なブログや本で紹介されていたので、多少なりとも下知識があると思って読んでみましたが、まったくもってちんぷんかんぷん。

「遊びには規定(ルール)や区分けされた領域が必要」「文化は遊びを遊ばれながら文化となった」というようなことをおっしゃっているのはわかるのですが、そのような話が出るころには前段の話が頭から抜けている次第で、非常にむなしい気持ちになりました。
ちょっと己の読解能力のなさが悔しい気持ちです。

ただ、少し前に読んだ『奇想の図譜』で出てきた「文化は飾りから始まった」という表現については、たぶんホイジンガに言わせれば、「一緒のことだよ」といいそうだなぁと思いました。
それは祭祀に関連があり、決められた様式(キャンパスとしての素材)があり、しかも楽しんで作られたのですから、辻氏が述べられていた「飾り」とはすなわち遊びの一つの形式であり、遊びに含まれるものだったのではないかなと思います。
特に戦の際に頭にかぶった個性豊かな造形の兜などは、まさに「遊び」の体現だと思われるのです。
(西洋の鬘とは言い合いが違うものの、結果の形態が近づくというのも面白いですね)
【読了】奇想の図譜
【読了】奇想の系譜

私としては「無駄」なことにこそ、遊びがあり、「無駄がない」「無駄を許せない」状況では「遊び」が存在できないということだと読みました。
そして、著者はどんどん世の中から遊びの要素がなくなってきているように感じているのではないか、そんなことを感じました。
その点、古来からあらゆる飾りを試みてきた日本という国は、結構遊び好きだったのかもしれません。

ホイジンガはローマ時代を指して、遊びが抑圧されると、人は遊びを求めるもので、その結果が「パンと見世物遊びを」につながるというのですが、和歌が栄えた平安時代、浮世絵の広まった江戸時代も、これに近いものがあるのではないでしょうかと考えてしまいます。
つまらない平和が、芸術作品を生むというつながりが見えてきはしないでしょうか。
逆に言うと、現代の戦争など、極端な合理性のもとに時代が邁進する時代では、芸術は生まれてきてないのではないでしょうか。
(そんな時に芸術活動にいそしんでいたら、何発ケツバットされるかわかったもんではありませんし…)
こういう観点で美術史を見ていくと、ちょっと面白そうだなぁと思いました。
しかし、戦争と美術の関連なんてのは、もしかしたら結構考察されているのかもしれません。
また、そもそもホイジンガは戦国時代の武士の世界にも遊びの要素が多分にあったといっていましたから、ちょっとこの理論は我ながら怪しい気もしています。
ただ、このことも、武士としての振る舞いを遊ぶことに夢中だったと解釈すれば、平和な時代(遊びが少ない時代)には、芸術という遊びに注力されるという流れは、そんなに不自然には思えない気がしてきます。
となると、現代はどうなのでしょうね?

また、本書の中で、その社会の「遊びへの関心度合」というものが、男性の服装でなんとなく見えるというのは面白い指摘だったと思います。
確かにそうかもしれませんね。
服装というのが世情を表すということは感覚的には分かる気がします。
しかし、男性にその相関があることを指摘するのは、おそらく歴史を長大なスパンで見てきた著者だから捉えられたことなのかもしれません。
服装は、ある意味着用する芸術ともいえそうです。
そう考えると、服装から文化史を見ていくのも、なかなか面白そうですね。
と思ったらすでにそういう本があるようでした。



浮世絵を見る際には、服装への理解も必要でしょうから、そのうち読んでみたいと思います。

 

テレビってちょっとやばくない?

GWなので、実家に帰ってきております。
帰省をしてギャップを感じることは、それはそれはたくさんあるわけですが、その中でも「テレビがついてる」というのは大きなギャップの一つです。

我が家では主に録画した番組しか観ないので、思いがけず面白い番組出会うということはありませんが、実家でテレビをなんとなく観ていても、別段面白い番組はやっていないように思います。
それよりも、「こんなんでいいのか?」というような内容の放送が多い気がします。

というのも、たまたま放送されていた池上彰さんの番組で、最近ニュースに関係する問題を20字で説明してくださいという企画があったのです。
この企画、結構やばい。
やばいというのは、「考える力を奪う」可能性が高いという意味です。

例えば「なぜ消費税を上げる必要があるのか?」という問いが出て、模範解答として「高齢化社会に伴い社会保障費が不足するから」というようなものが挙げられていました。
このどこがおかしいかといえば、「そもそも消費税を上げる必要があるのか?」という問いがすっぽ抜けているという点や、「消費税を上げる以外の方法はないのか?」という問いがないわけです。

尺やスポンサーの意向などもあるのかもしれませんが、ともすれば「へぇ」と思いかねない展開とキャスティングで、しかも論理的な説明も大してされないから、疑問を挟む余地があまりない。
いわゆる識者と思われている方が一方的で一義的な解説をします。

多分この番組を観た人が、私みたいな奴から「なんで消費税上げなきゃいけない前提なの?社会保障費が足りないのに社会保障の制度を変えないつもりなの?消費税上げて困るのは貧乏人だよね?それになんでデフレなのに消費税を上げるわけ?」みたいなことを問われると多分「あーあまたなんか言ってるぜあいつ。ちょっとやべーから無視しよう」みたいな対応を取ることでしょう。
上の消費税の話のように「これはこうですよ」とだけ説明されてしまうと、自分でこれがこうなんだなと論理が追えないから、それが常識として捉えてしまうおそれがあるのです。
そうなると、別の意見を聞こうとしないし、聞いても聞く耳を持たない。
それが非常に危ういと感じます。

テレビ番組がこんな番組ばかりなのかどうかは知りませんが、もしそうなのだとすれば若者のテレビ離れなんて大いに歓迎すべき事態だと言わざるを得ません。
制作サイドもわかりやすさを重視しているのでしょうけど、ここまで行くとテレビはバカ製造機だと思えてしまいます。

ちなみに、「これはこうですよ」という説明に疑問を持ち、それを問い詰めていくのが「大学の学び」です。
こうしたテレビが放送されているということは、まだまだ、大学の学びが世の中に浸透していないように感じます。

やっぱり導入しようよベーシックインカム

【読了】妻たちの思秋期(斎藤茂男著、講談社+α文庫)
の続きです。

『妻たちの思秋期』を読むと、男女の平等はどこに置くべきなのか?ということを考えてしまいます。
男と女は生物学的に見てもかなりその生態に違いがあります。
(例えば月経や妊娠・出産など)
あくまで肉体的に、という意味のおいては、男のほうがあまり変化がなく、安定していると言えるでしょう。
だからこそ、会社という組織に属する歯車としては、男のほうが都合がいいのです。

しかし、この前提で物事を話していくと、どうしたって女性は勝ち目がありません。
だってそれは生理的なことだから。
それは背が高い人のほうが出世に有利(そんな会社があればの話ですが)というくらい理不尽なことに思われます。
とはいえ、こうした流れは急には変わらないでしょう。
ましてや日本の場合には解雇ができませんから、ことを慎重に進めるだろうと思われます。

じゃぁどうすればいいか。
とりあえずベーシックインカムを始めましょう。

夫婦のトラブルでも、一番の問題は「お金」のことだと思います。
お金のことさえ解決できれば逃げられる女性が多いというのが現実ではないでしょうか。
また、離婚による貧困で困るのも、ほぼ女性でしょう。
子の面倒を見るのも多くは女性でしょうし、育児や主婦でブランクのある女性が正社員で就職できてかつ子を育てられる収入が得られるかといえば、かなり厳しいはずです。

だから、女性限定でもいいのかな?とも思いましたが、そうすると、多分女性は肩身がせまくなることでしょう。
「男に食わせてもらえていいな」的な嫌味を言うやつが出てくるでしょう。
そんな社会で果たして自己実現ができるかといえば、厳しいように思います。
だから、さっさと全員への支給を始めましょうよ。
始めてしまえば、世の中の流れを変えるきっかけになると思うのです。

  

辞令交付式への違和感(みんなよく参加するなぁ)

 今日は4月1日。  我社では辞令交付式が行われました。  そのため、土曜日ですが、人事課員として出勤しました。  明日も仕事なので、12連勤となります。   人事課の闇ですね。  それはさておき、辞令交付式に関して、毎年違和感を持ちます。  それは、お礼を言われる側が、何故かホ...