【読了】妻たちの思秋期(斎藤茂男著、講談社+α文庫)

先日読んだ『酒飲みの社会学』(清水新二著、素朴社)で紹介されていた『妻たちの思秋期』を読みました。


【読了】酒飲みの社会学(清水新二著、素朴社)

専業主婦が主人公の短編小説だと思って読み始めたのですが、大いなる勘違いでした。
前半では専業主婦としての悲しみや虚しさを酒で埋めることからアルコール依存症に陥った主婦たちが描かれており、後半では酒で埋めることなく離婚というアクションを取った主婦たちにスポットライトを当てた、れっきとしたルポルタージュです。
重い。

妻たちの言葉だけでなく、様々な取材を通して、いろんな視点から問題を切り取っており、非常に踏み込んだところまで書かれています。
私は記者という仕事を少々軽く見ておりました。
当たり前に存在している常識に対して、取材と文で世の中に疑問を投げかける素晴らしい作品だと思います。
本作で問われていることは「男と女、これでいいのか?」ということになると思います。

本書に出てくる女性たちは、「まーなんでこんな夫をもらっちゃったのご愁傷様」というくらいひどい男たちを夫にしています。
いずれのカップルも知り合ってから結婚までが短く、何かから逃げるようにして結婚をしているケースが多いのですが、それにしたって、ねぇ? という感じです。
しかし、こういう感想は、「自分は大丈夫」という前提から見ているわけであって、「果たして私は大丈夫なのか?」と考えない訳にはいかない。
少し家の中での身の振り方を省みるべきなのでしょう。

精神科の話(実際あっていない男を分析するのはいかがかと思いましたが)の中で、「結婚は自立した大人同士がしないと、ベッタリと寄りかかった関係になり、不幸なものになりかねない」と指摘しており、本当にそのとおりだなぁと思わされます。
しかし、一方でそうした認識が浸透したら、結婚する人は多分減るだろうし、少子化はどんどん進むに違いないと思います。
ここをどう考えるかが女性の権利拡大派になれるかどうかだと思います。
私は、たとえ少子化が進んだとしても、権利拡大路線に切り替えたいと思いました。

ある女性から、下のような投稿が届いたと紹介されます。

<夫との距離に心傷つき、アルコールで全てを麻痺させようとする妻の姿は痛ましい。だが、今の日本の妻たちにとって、教育ママになることも、亭主のおしりを叩くことさえも、かたちを変えたアルコールではなかろうか。夫たちにしても、身も心も捧げ尽くしている"仕事"というものが、その実、形を変えたアルコールではないか>(『妻たちの思秋期』P151)
この言葉を読んだときに、『マインド・コントロール』(岡田尊司、文春新書)に出てきた以下の言葉を思い出しました。
デビーはこう語っている。「貧者の面倒を見ることも、株式を公開して100万ドルを手に入れることも、最終的な目的は同じなのです。自分の苦しみは何らかの形で報われるはずだと思う。そうして人は広い視野を失ってしまうのです」と。(渡会圭子訳『隠れた脳』より)(『マインド・コントロール』P35)
これらの言葉の底流には「脳にとって耐え難い状況」があることが考えられます。
だからこそ、思考を止めて「あるべきとされてきた役割」を演じようとするのでしょう。
妻たちは、自分の視野を極端に狭くして、自らトンネルに入り込もうとしているのかも知れません。
そして、そうせざるを得ない状況が、そこにはあったということでしょう。
【読了】マインド・コントロール

X先生は、統計やアンケートでは上がってこないであろう事例の回収に本書が成功していると評します。
結局、統計やアンケートは個々人を一つのサンプルに押し込んで全体の傾向を見るものですから、一つ一つの家庭にある小説よりも奇なる夫婦関係というものは、出てこない、というか出さないようにするのが統計・アンケートなのでしょう。
したがって、こうしたルポによって切り出すのは、非常に意義があるということですね。
しかし、ルボだけに頼れば、恣意的な、偏った記事になることも懸念されます。
ということで、やはりミクロとマクロの両方で物事を見ることが必要なのだということでしょう。
分析だけでは足りないし、特定の事例だけでは間違った方向に舵取りしてしまう。
冷静に、いろんな視野を持って、どうしていくべきなのかを考えることが必要ですし、まずはそれを「個人のレベル」で考え、実践していくことが重要なのだろうなと思わされました。

そのためにも、まずは「労働至上主義」を廃したいと思います。

子どもたちに美術鑑賞の楽しみを

理系以外に大学で勉強する必要がどこあるのか?というのは、私が大学へ進学するにあたって考えていたことです。
大学を卒業して10年近く経ちますが、まぁなんと見識の狭いことかと恥ずかしくなります。
いろいろな本を読んでみれば、理系でなくても大学に行く意義は非常に大きいことに気づきます。
特に、美術の世界を覗いてみると、大学教授の先生方や美術史家の先生の功績は非常に大きいと思います。

どう貢献しているかといえば、作品の凄さに何らかの影響を与えている、という意味ではなく、庶民が美術を楽しむのに非常に役立つ知見を数多く提供している点が挙げられます。

素晴らしい作品は、たいてい何か別の素晴らしい作品(作風)に立脚しているものです。
あるいは、そういう流れからではなく、彗星の如く飛来した天才もいるでしょう。
いずれにしても、歴史という基準を知らずしては、美術の面白さは半分近かく失われるはずです。
どんな作品を師としたのか、そしてそれをどう越えたか、どんな時代背景で書かれたか、何を意図しているのか、こういった問について、専門の教授や美術史家たちが時間をかけて推察した仮説や結論は、様々な要素と絡み合って私たちに迫ってきます。
大いなる伏線回収を美術史家の皆さんはされているのだと言えましょう。
このことに気づいたとき、私は美術鑑賞の楽しさに目覚めました。

私個人は、そもそも絵心というものが欠落しており、小中高と美術の授業がからっきしだめでした。
大概、技術を持ち合わせない実技の授業は辛いものです。
音痴の音楽、足の遅い体育、不器用な家庭科、いずれも苦痛でしょう。
私にとっては、美術はそれらと同列のものでした。
すなわち、絵心なき美術ですね。

しかし、自分の能のなさを棚において振り返るならば、どうして美術が実技に重きをおいていたのか、それが気になります。
(この思いの半分は、絵心ない者の僻みです)
もっと鑑賞に力を入れても良かったのではないか。
実技としての美術は、興味のある子が放課後に習えばいいのではないか。
そんなことを思います。

芸術は、その存在にすでに価値があります。
芸術との向き合い方は、自由だと思いますが、ある作品と向き合って自分が下した価値と世間が下している価値のギャップを見つめるという授業も、なかなかおもしろいのではないでしょうか?
こうした「自分はどう面白いと思ったのか」を掘り下げる練習をしておくと、芸術鑑賞のハードルを下げることにつながると思います。
また、鑑賞に上手い下手はなく、自分が面白いと思えるかどうかが重要である、という気づきは、日常生活においても自身を助ける気づきだと思われます。
面白いと思えない理由も含めて考えることができるとしたら、多分もう大学入学資格は与えてもいいのではないかとさえ思えます。

「美術鑑賞なんて教えて何の意味があるのか?」と問われれば、「様々なきっかけを与えることができるのではないか?」と答えたいです。
芸術に興味を持てば、歴史に興味を持つようになります。
また、言語や文化にも関心を持つことでしょう。
題材に目が向くならば、自然科学に興味を持つ子も出てくるかもしれません。
これが役に立つかどうかはまた別のお話ですが、少なくとも少しだけ人生に幅ができるはずです。

初等教育においてはひとまず絵を描くという身体的な授業があることは構いません。
友だちと楽しく、のびのび書けばいいのです。
しかし、中等教育以降においては、ぜひとも鑑賞にも、もう少しウェイトを置いていただければ、子どもたちの将来が、より豊かになるのではないかと、そんな期待をしています。
(とはいえ、私が中高生だったのは、もう20年近く前なので、今はもう授業も変わっているかもしれません)

“有能さ”ついて(『「官僚とマスコミ」は嘘ばかり』から)

「有能な人間」と聞いて、どんなイメージを持つかは、多分人によってかなり違うとは思いますが、だいたい何パターンかに集約されることでしょう。
・人柄でみんなのまとめ役になるタイプ(スラムダンクの小暮先輩 等)
・個人としての能力が高い職人タイプ(ブラックジャック 等)
・時代の先を見て牽引するタイプ(スティーブ・ジョブズ 等)
などなど、まぁ上げてみればいくらでも上がるでしょうけど、こんなところではないですか?

私の中では、有能の最たるものは漫画「ヒストリエ」のエウメネスや「シン・ゴジラ」の矢口などがそうなのですが、どこがどうすごいのか、いまいち自分でも言葉にはできないでおりました。
そんな中、先日読んだ『「官僚とマスコミ」は嘘ばかり』で、以下のような表現が出てきて衝撃が走ります。

本当にできる財務官僚は、「人間的魅力」と「使命感」と「友だち甲斐」で人脈を広げていける人たちです。(中略)日本のできる官僚たちは、そのようにしてできあがった人脈を武器として国を動かしていくのです。(中略)だからこそ、先ほども述べたように、机にへばりついているばかりの官僚は「能力がない」と見なされるのです。(中略)官僚たちがそのような役割を果たしてきたことは、「国を動かす」ということを考えた場合、けっして悪いことだけだったわけではありません。(『「官僚とマスコミ」は嘘ばかり』P145〜147)

そう、まさにこのことが言いたかったんです。
人を巻き込んで、大きなことを動かしていく、そして、自分はトップではないけど多くの人間関係の中心にいて全体の方向性をコントロールできる、そういうことが“有能”なんだーー。
(このように他人の文を読んで自分の考えが適当な表現を持つというのも、読書の楽しみの一つですね)
しかし、こういう能力というのは、「才能」による部分が大きい気がします。
見た目もあるでしょうし、性格もあるでしょうし、家庭や友達の環境も大きいのでしょう。
つまるところ、「運」と言えると私は思います。
(努力できるのも才能ですから)

こういう“有能さ”というものは、残酷ながら人間社会においては普遍的なアドバンテージだと思います。
どんな組織、団体であっても、優秀な財務官僚のような人間は求められるでしょう。
しかし、頑張ってこういう人間になろう、と考えるのは、不幸な考え方ではないかと私は心配してしまいます。
同様に、「頑張って官僚になり、国を動かせ!」という叱咤激励も、励まされる側にとってはおせっかいで、危険な気づかいではないかと思われてなりません。
いかに使命が大きく、やりがいのある仕事だとしても、合わない人には絶対合わないし、こういう仕事が合う人というのはとても限られた人間だと思うからです。

冒頭でも書いたように“有能”の価値観は、個々人違います。
そして、何よりも有能かどうかは、他人が決めるという点に注意が必要です。
新自由主義的な発想であれば、当然有能な人のほうが市場価値が高いので、そこを目指しましょうという発想につながることは想像できます。
そりゃ一般論でも、無能と言われるよりは、有能だと言われたいでしょう。
ただし、皆がみんな、有能に生まれてこれるわけではありません。
ですから、有能を目指す、という考えに縛られると、自分がなんなのか、わけが分からなくなってしまうのではないかと心配してしまうのです。

AIが発展して、これまで普通に生きてきた「特段有能でもない人」たちは、仕事を失う可能性が大きくなってきます。
そうなると、BIのように、働かなくても生活を保証する仕組みが導入されることでしょう。
というか、そうならないと、皆死んでしまいます。
関連記事
【読了】AI時代の新・ベーシックインカム論(井上智洋著、光文社新書)
汎用AIがBIを連れてくる?(AI時代の新・ベーシックインカム論から②)

仕事がなくなっても、生きられる時代が来るのであれば、人生をどう幸せに生きるか、ということが重要になっていくと私は思います。
その視点に立ったときに必要なのは、むしろ「自分の能力はどのへんなのか?」ということ知ることではないかと思います。

もちろんそれは自分の限界を知ることですから、面白くありません。
でも、気持ちは楽になるでしょう。
気持ちが楽になれば、自分の生きられる世界の中で、面白いものが見えてくるはずです。

私の持論ですが、暇になれば、人間は学びます。
また、学びとは、すなわち遊びです。
学んで遊ぶといえば、研究者ですね。
つまり、働かなくてもいい時代と言うのは、世の中の皆が研究者になれる時代なのです。
人からどう思われても関係のなく、自身の興味のある研究に没頭できる世界。
成熟した社会というのは、そういう社会のことを言うのではないかと、そんなことを考えさせられました。

そして、そんな社会になったら、有能の意味合いも変わっていくのかもしれません。
本の内容とは関係ないですけどね。

余談ですが、先日根津美術館で聴いた奥平先生の話では、貴族の遊びに「和漢聯句」というものがあったそうです。
これは最初を和語の句で始め、以下五言の漢詩句と交互に詠み進めるもの(デジタル大辞泉から)だそうで、要するに連想ゲームみたいなものなのでしょう。
こういう遊びをした、ということが当時のお偉方の周りの人の日記などから確認ができるそうです。
そして、こうした遊びは、一度始まると三日三晩続いた、なんてことも書かれているのだとか。
遊び方が半端じゃないですね。
多分求められた教養も半端じゃなかったんでしょうけどね。
こういう例を聞くと、文化が遊びから生まれたという論がしっくり腑に落ちる気がしてきます。
【聴講】燕子花図と洛中洛外図(奥平俊六さん)@根津美術館

  

【読了】「官僚とマスコミ」は嘘ばかり(髙橋洋一著、PHP新書)

『「官僚とマスコミ」は嘘ばかり』(髙橋洋一著、PHP新書)を読みました。

この作品は、先日『AI時代の新・ベーシックインカム論』(井上智洋著、光文社新書)を読んで、財務省がHPで堂々と国民をミスリードしようとしていることに衝撃を受けて手に取りました。
国家レベルの虚言(AI時代の新・ベーシックインカム論から①)

本作で種明かしされるのは、官僚がいかにしてマスコミをコントロールしているのかです。
それに付随して、コントロールされてしまうマスコミとはどんな人たちなのか、ということも書かれていました。
なんとなく、記者というと、ジャーナリズムという高い志を持った、知力・体力・気力に活気あふれる人種というイメージがありますが、本書で語られる記者は知識がなく、数字が読めず、官僚の言いなりという姿が描かれています。
また、新聞やテレビというメディアは、法律に守られている存在であることも明らかにされます。
どんなふうに守られているかは、著者のWeb記事をご覧になってください。
こんなんでよく世の中のことが批判できるなというふうに思ってしまいます。
新聞テレビが絶対に報道しない「自分たちのスーパー既得権」(講談社現代ビジネス)

その他にも、例えば「フィリップス曲線」という金融政策を実施する上でインフレ目標を決める道具も紹介されていました。
インフレの状況は、常に失業率と関連して説明されるのが海外では当たり前で、インフレが進んでも、フィリップス曲線に当てはめてみて、失業率がまだ下限に達していないのであれば、金融政策を緩めてインフレに進めればいい、ということが自動的に決められるという便利な道具です。
ちなみにこの失業率の下限の始まりの場所(最小のインフレ値)をNAIRUという言うそうです。
(豆知識です)

つまり、新聞等でよく聞く、インフレ目標2.0%と言うのは、日本におけるNAIRUを目指しているわけですね。
なんで2.0%と思っていましたが、根拠があったのです。

また、著者も井上氏と同様、「財政再建には反対」の立場を取っておられます。
結局バランスシートで考えたときに、日本の財政は諸外国と比べても、そんなに悪いわけではなく、アメリカと比較しても健全で、むしろもっと積極財政を行わないとダメだとの主張です。
なお、外務省も、外国で国債を売るときには、バランスシートを使っているようです。
いかに健全なのかを伝えないと、買ってもらえるわけありませんもんね。

こうして考えると、果たして新聞とは?テレビとは?と思ってしまいます。
一次情報にアクセスしやすくなった今の社会で、報道機関とはどういう役割が求められているのかを改めて問われる必要がるように思います。
ぜひともメディアに市場経済の原理を働かせていただき、第四の権力として、既存の権力に鋭いメスを入れていただきたいと思います。
そのためにも、広く浅い記事ではなく、「経済なら〇〇新聞」「教育なら〇〇新聞」「政治なら〇〇新聞」というように、個性を強めていってほしいと思います。
そうすることが、官僚との間に緊張感を生むことにもつながるでしょう。
私は新聞を購読していませんが、そんなふうになったら私も何か購読するかもしれないなぁと思います。

いろいろな見方をする必要がありますが、自民党も、官僚も、いいところとだめなところがあるということを感じます。
極端はあまりないようです。
マスコミが盛大に何かを報道するとき、だいたいは裏にマスコミの思惑がありそうです(例:モリカケ等)。
また、本書を読むと、安倍政権は経済政策においてまともだという印象を持ちます。
実際はどうなのか、私には結論が出せませんが、少なくとも雇用は回復しているし、経済政策も誤ってはいない感じ。
賃金上昇という目に見える効果が出るのは、どうもこれからのようです。

それから、官僚も有能な人が働いてくれているのだろうな、と少し安心しました。
なんとなくドラマなどの影響なのか、官僚と政治家は悪いやつばかりというイメージがありましたし、また、本書の中でもしょうもないのもいるような描写もありました。
しかし、それもやっぱり極端な話で、殆どの人は誠実に働いているんだろうなぁと思わされます。
じゃなきゃ、とっくにもっと大変なことになっているように思われます。
(とはいえ、消えた年金問題なんかのように、大変なことになっちゃった例もありますが…)

最後に、昨今の研究への助成に対する「選択と集中」についても、非常に珍しい理系出身の財務官僚として、疑問を投げかけています。
結局研究とは博打で、ハズレは多いが、当たればすごいことになる。
どのくらいすごいかというと、ハズレを全部取り戻してあまりあるくらいにすごいことになる。
ところがどっこい、(選択と集中をすると言っても)当たるかどうかは、やってみないとかわからない。
だから、投資と考えるべきだ、という論ですね。

これは、教育に関連する仕事をしている人間としては、非常にありがたい気持ちと、そのとおりですよね、という共感の気持ちがわきます。

研究とは、長期にわたるものです。
そして、成果が出てくる可能性は未知数です。
でも、それをやらなければ、革新的な技術発展はありえない。
であるならば、未来のために投資をしようという発想は、至って当然の発想であるように思います。
「明日の便利より、今日の飯」という状況の方ももちろんいるでしょう。
しかし、国の方針として、やはり未来の世代のことにも思いを馳せて予算を分配してほしいと思います。
そして、それは理系の技術的なものだけではなく、文系の文化的なものについても同様に発展と保存を目指して、支援をするべきではないでしょうかーー。

と、そんなことを思ったのでした。

【鑑賞】尾形光琳と燕子花図@根津美術館

【聴講】燕子花図と洛中洛外図(奥平俊六さん)@根津美術館
の続きです。


さて、講演後には、改めて展示を拝見いたします。
お目当ての『燕子花図屏風(かきつばたずびょうぶ)』(国宝、根津美術館蔵)ですが、六曲一双の屏風を生で見ると、やはり違います。

金のグラデーションにのっぺりとした質感の燕子花が並んでいるだけなのですが、よく見ると青の色も花弁ごとに違うんですね。
(帰って本で確認すると、たしかに違ってましたが、気づきませんでした)
また、他の作者の燕子花を題材にした作品と比べると、燕子花の花弁が随分ぽっちゃりと強調されていることもわかりました。
とてもアンバランスな感じなのに、調和が取れているようにも見えるのが不思議な感じ。

こういう地が金の作品は、印刷や画像と現物では受ける印象がだいぶ違いますが、本作も同じ印象でした。
また、サイズが思っていたよりも大きく、現物を見ていると屏風の中に没入している感じがしてきます。
(奥平先生いわく、本作は伊勢物語の在原業平が「かきつばた」の歌を読んだ時に見ている燕子花をイメージしているとのこと。見る人を、在原業平にさせようとしているのではないか、というような話をされていました)

本展示の、もう一つの目玉である『洛中洛外図(根津本)』も見てきましたが、これは大変おもしろいですね。
前の記事でも書きましたが、これを見ながら京都巡りを是非したいと思いました。
なぜデジタルデータを公開してくれないのでしょうか。
デフォルメしたものをショップで販売してほしい!
他にもお伊勢めぐりの絵もありましたが、こちらも販売してくれ!

他の作品としては、光琳のお父さんの作品なんかもあります。
光琳はお父さんも芸に通じていたのですね。
弟も焼き物をやっているし、芸術一家だったようです。
また、光琳の周辺の人の作品も多く展示されていました。
全体としての展示は多くないことから、光琳自体の作品は割合としては少なめな印象です。

常設展では、茶器や箱も展示されており、日本人の生活品への芸術意識がどんなものであったか垣間見ることができます。
よく日本人が独創性のないコピー民族だという考えは、多分戦後の高度成長期以降のことなのではないでしょうか。
こんなに芸術が庶民にまで広まっている国はないのではないでしょうか、と思えてしまいます。
(浮世絵なんかがいい例ですよね)

根津美術館は、建築物としても、非常に洗練されていました。
根津美術館は、閉館が17:00のため、講演を聞いたあとではあまり鑑賞する時間が長くありません。
従いまして、できれば午前中に展示を鑑賞し、カフェで昼を食べ、庭を散策した後に講演を聞くという流れが良さそうです。
次はそのようなスケジュールでお邪魔したいと思います。
(家で相談したら連れに怒られそうですが…)

【聴講】燕子花図と洛中洛外図(奥平俊六さん)@根津美術館

東京の南青山にある「根津美術館」で開催されている「尾形光琳の燕子花図」に行きました。
根津美術館
初めて根津美術館にお邪魔しましたが、庭が広いんですね。
庭の池にはたくさんの燕子花が育っており、4月下旬から5月上旬にかけて見頃になるのだとか。
そのタイミングで来ればよかった。
場所柄か、外国人の観光客も多かったです。
おいでになる方は、庭の散策も含めて、時間に余裕を持っていかれることをおすすめします。

一面の燕子花。咲いてるときに来たかった…。
さて、お目当ては『燕子花図屏風(かきつばたずびょうぶ)』(国宝、根津美術館蔵)ですが、その前に、イベントに参加しました。
イベントとは、大阪大学名誉教授の奥平俊六先生による「燕子花図と洛中洛外図」という講演のことです。
無料ということもあって、初めてこうした美術関連の講演会に参加しましたが、定員130名の会場は満席で、大変な賑わいでした。
皆さんメモを取りながら熱心にメモを取られています。
奥平先生が燕子花図のモチーフのところで、「から衣 きつつ慣れにし つましあれば はるばる来ぬる たびをしぞ思う」をうっかり失念してしまったときなど、聴衆から返答があって驚きました。
皆さん大変造詣が深いようでいらっしゃいます。

奥平先生の話は、大きく(1)「燕子花図」、(2)「洛中洛外図」についての講演とレジュメにはありましたが、ほとんど燕子花図パートについての話で、しかも燕子花図はあくまでも導入で、「藤袴図屏風」についての話に多くの時間が割かれていました。
そもそも、この時代の美術作品においては、能=謡曲の概念が非常に重要で、様々なモチーフが謡曲に存在し、そこから絵画に表現されたと言うことを伺いました。
藤袴図屏風についても、モチーフは謡曲にあり、かつ当時起きた紫衣事件を通じて表現したかったのではないか、というような話をされていました。

この話のポイントとしては、画家にこうした謡曲の知識やそのモチーフを風刺だったり、時代のイベントにつなげるということを、画家が単独でやったわけではないということ。
例えば、上の藤袴図屏風で言えば、宗達に書かせたのは誰か?ということです。
紫衣事件に近しく、かつ、叢蘭秋風という言葉をよく理解する者だということではないか、つまり、非常に尊い人なのではないか、と奥平先生は推測します。
(ちなみに、実は叢蘭が藤袴を指すというのがポイントです)
こういう話を聞くと、今後「誰が発注したのか?」ということも気にかけることができるようになりますね。

と、こんな話が90分も続きます。
へぇ、なるほどなぁ〜という感じ。
こんな風に90分もまるまる楽しそうに美術の話ができるってのは、すごいことだなぁと思いますし、そのベースには何十年とかけて作品と歴史と文献をつなげていく仕事があるのでしょう。
素晴らしいことだと思います。
ところどころ笑いどころもあり、あっという間の90分でした。

短かった「洛中洛外図」においては、「景観指標」というものも知ることができました。
景観指標とは、それがあることで、いつごろのことを描いたのかわかるという目印のことで、例えば京都で言えば二条城の天守が移動しているかどうかで寛永3年の前後どちらなのかがわかるそうです。
そういう豆知識を聞くと、ちょっとおもしろいですよね。
ぜひとも、洛中洛外図を片手に京都中を歩き回りたいと思いました。


本と違って、人の話を聞くと、「余談」があるのが大変おもしろいですね。
一見つながらない話の展開が、新しい発想や発見を生むように感じます。
本だけでは行き詰まることが、講義によって新しい理解をつかむことに繋がることがありそうです。
大学の講義はつまらない、という話しを聞きますが、ひょっとしたら、聞く側にも多少問題があるのかもしれませんね。
実際、大学の先生の話は、私にはとても興味深い話ばかりです。
あるいは、たまたま私の運がいいのかもしれませんが。

【鑑賞】ジョイス・スペンサート展@NANZUKA(渋谷)

東京の南青山にある「根津美術館」で開催されている「尾形光琳の燕子花図」を見に行く途中、渋谷のアートギャラリーである「NANZUKA」に寄ってみました。
なんとジョイス・スペンサートさんの展示がこの日から始まったようで、見ていくことにしました。

ジョイス・ペンサートさんは、アメリカ人女性アーティストで、アニメーションのキャラクターを大きくペイントなどで描く作家さんのようです。
少し不気味で、悲しげな印象の作品が多い印象です。

展示室の奥にあるのはバッドマンのオマージュでしょうか。
悲しみと怒りから来る咆哮を感じさせる表現で、とてつもない激しさを感じます。
#NANZUKA #joicepensato #JoicePensato #ジョイス・スペンサート

また、シンプソンズのパパもなんだか憂いをたたえた表情がなんともいえず面白い。
#NANZUKA #joicepensato #JoicePensato #ジョイス・スペンサート

世の中には、こういう作家さんがいて、こんな作品があるんですねぇ。

ショップには佐伯俊男の小冊子も売っていて、買おうかと思いましたが、踏みとどまりました。
通り道の渋谷で、思わぬ出会いがあり、ありがたい限りでした。


#NANZUKA #joicepensato #JoicePensato #ジョイス・スペンサート

#NANZUKA #joicepensato #JoicePensato #ジョイス・スペンサート

【読了】もっと知りたい尾形光琳(中野啓子著、東京美術)

東京の南青山にある「根津美術館」で開催されている「尾形光琳の燕子花図」を見に行くため、予習として『もっと知りたい尾形光琳』(中野啓子著、東京美術)を読んでみました。

本書は、大変スッキリした内容で光琳の生涯と代表的な作品を紹介していました。
光琳が生まれるところから始まり、画家となり、江戸に行き、また京都に戻ってくる…それぞれに段階に光琳の芸術家としての影響があり、それらを代表作を通して観ていきましょうという趣向です。
最後には光琳の後の世代についても触れられています。

今回私が一番観ておきたかったのは、もちろん『燕子花図屏風(かきつばたずびょうぶ)』(国宝、根津美術館蔵)。
この絵のモチーフとなったのは、『伊勢物語』の第九章に出てくる「から衣 きつつ慣れにし つましあれば はるばる来ぬる たびをしぞ思う」という有名な歌の頭文字を取った「かきつばた」だと言われているようです。
(東国に向かう旅の途中で、妻を置いて来て、ここまで来たことを振り返る悲しい歌のようです。みんなこのあと泣きながらご飯を食べて、ご飯がふやけちゃったそう)

本書の言葉を借りるならば、この絵と向き合う時の知識として、
「かきつばた」から『伊勢物語』そして住み慣れた都を離れ東国に向かう在原業平の望郷の思い。一つのモチーフから生み出される様々なイメージ、そこに美術作品鑑賞の面白さがある。
ということを心に留めておくのは有益かと存じます。

さて、『燕子花図屏風』は、見れば見るほど引き込まれる、不思議な屏風です。
単調なのにリズムがあり、平面的なのに奥行きを感じます。
どんどん視線が横に、奥に、あるいは上に下に引っ張られていくような感じがしてしまい、あたかも自分がこの絵の二次元の世界に入ってしまったかのような感覚に陥ってしまうのです。
金の地に、のっぺりとした緑と青を乗せた絵にしか見えないのに、どこかアンバランスで、違和感を覚えさせ、一体何を語りかけたいのか? と深読みしたくなってしまうものがあります。
根津美術館での現物鑑賞が楽しみです。

また、燕子花で言えば、「八橋蒔絵硯箱(やつはしまきえすずりばこ)」(国宝、東京都美術館蔵)という面白い作品もあります。
これは箱の五面渡って橋をかける、ユニークなデザインで装飾された箱で、燕子花は貝を使って光る趣向が施されています。
美しさがたまりません。
色がいいのでしょうか? 多分それだけではなく、質感や素材の味、丸み、シンメトリーなデザインが一度見ると目を離せなくさせるのでしょう。
ついつい橋を巡って行ったり来たりしながら燕子花を鑑賞せざるを得ません。
こんなんよく思いつきますね。光琳さん。
そして、こういうふうに箱や焼き物にもたくさんの作品を残したのが、尾形光琳なのです。
弟の尾形乾山(おがたけんざん)は焼き物で有名ですが、合作も結構多いようです。

また、光琳は、もともと能が好きだったようです。
でも、遊び人だったようで、お金をバンバン使っちゃって、お金を稼ぐ必要があったことから絵描きになったとか。
本格的に絵描きになったのは、30歳の後半とのこと。
そんなんでこんな作品たちを残せるのだから、すごいことだなと思います。

その他にも、素敵な作品がいくつもありました。
メモとして残しておきたいと思います。
・仙翁図香包
・千羽鶴図香包
・金鶏雌図画稿
・竹梅図屏風
・松島図屏風
・風神雷神図屏風
・槇楓図屏風
・八橋図屏風
・孔雀立葵図屏風
・四季草花図屏風
・紅白梅図屏風
・(おまけ)百合図(乾山作)


【読了】酒飲みの社会学(清水新二著、素朴社)

酒飲みの社会学』(清水新二著、素朴社)を読み終えました。
酒飲みの社会学―アルコール・ハラスメントを生む構造酒飲みの社会学―アルコール・ハラスメントを生む構造素朴社
面白かったです。
参考文献の紹介が少なめなため、より深く知りたいなと思う点などはちょっと残念でした。
また、それ故に、「これって憶測なのでは?」という箇所がちらほらあるのも少し気になりました。
しかし、ストーリーは流れるようで、講義を受けているように感じました。
また、憶測ではないかとの箇所についても、その意見に共感できるという箇所が多く、親しみを持って読み進めることができたのが印象的です。
「研究者たちはこう言ってるけど、私はもっとこうだと思うんだよね」という感じが、とても中立的というか、人間味があるというか、あまり抵抗なく「そうですよねー」と納得できてしまう魅力があります。

著者は、日本における酒があることを前提にしている社会システムを「アルコホリック・ソーシャル・システム(ASS)」と名付けていました。
ASSとは、次のような事を言います。
①飲酒と集団的に共有された酔いのどちらに対しても寛容な飲酒文化
②アルコールが社会の組織化に決定的な役割を果たしている
③アルコールに対する構造的脆弱性
④許容と統制が同時存在する統合メカニズム
⑤以上の四点は、女性には必ずしも当てはまらない。
(『酒飲みの社会学』P67)
日本では共に飲むこと以外に、共に酔うことが求められているといいます。
共に酔うことで、ソトの人間をミウチ化してしまおうという思いがあるようです。
そうしたミウチ化が組織形成や社会形成に必要だという認識が共有されているがゆえに、 飲むことで組織感の意思疎通も図りやすく、それがまた個々の関係形成に酒を必要とする状況に還元されているということですね。
また、日本のアルコール依存症の患者は5万人だが、予備軍としては240万人いると書かれていました。
その背景には「アルコール依存症=逸脱した人」という認識が未だに根強く残っていることがあります。
こうしたレッテル貼りは、かなり強い抑止力として、酒以外にもあらゆる反社会的な行動を抑える力を持っているとのこと。
日本は、こうした他者の目で社会をコントロールする社会なのですね。
それは、一方では犯罪率の低さなどにつながっているわけですが、一方では生きる選択の幅が少ない社会を作っているという側面もあるようです。

日本の酒文化の特徴としては、①共に飲むこと、共に酔うことが求められている②しかし飲んで失敗することは破滅を意味する③そうして逸脱した人はなかなかそこから回復できない④みんなにそういう理解があるから、酒害にあっている人が酒害を認めず、結局医療につながらず、症状がどんどん進行してしまう、ということが挙げられそうです。

また、女性の飲酒にも触れられており、興味深かったのは、キッチンドリンカーについての紹介です。
ことお酒に関しては、非常に女性というのは不利な立場というか、かわいそうな立場にあるということが強調されていました。
理由としては、
・まず肉体的に、男性よりもアルコール依存症になりやすい。
・夫が依存症の場合、離婚しても自活が難しい。
・自分が依存症になった場合には、離婚を言い渡される(かつ、自活が難しい)
という点が挙げられます。
このことは、要するに女性の社会的な立場がまだまだ弱いことを表しているとしか思えません。
女性が経済的な理由からまだまだ弱い立場であるということを痛感します。
この辺の解決には、おそらくベーシックインカム的なものが役に立つでしょう。

また、キッチンドリンカーは高度経済成長を超えて経済的に豊かになった家庭が増えるのとともに、専業主婦が現れたことによって、出現し始めたようです。
面白いのは、それまで女性もちゃんと働いていたということが書かれていて、目からウロコでした。
以前は女性が働きながら子育てをしていたということを知ると、今の社会の余裕の無さがより強調されるように感じます。

だから昔はよかったのだなぁというのは、その昔の一面しか見ていないという情報不足による帰結だと思いますが、今と昔でどう違ったのか、なぜ昔は働きながら子育てができたのか、を調べることは無意味ではなさそうです。

また、そもそも昔は酒造りも女性の仕事だったのだとか。
日本人は、「ハレの日」に酒を飲むという文化なのだそうですが、そうしたハレの時には、女性も結構飲んでいたそうです。

【読了】飲酒文化の社会的役割(ジェリー・スティムソン他著、アサヒビール株式会社)

『飲酒文化の社会的役割(英名:Drinking in Context)』(ジェリー・スティムソン他著、新福尚隆監修、アサヒビール株式会社発行)を読み終えました。
飲酒文化の社会的役割―様々な飲酒形態、規則が必要な状況、関係者の責任と協力
飲酒文化の社会的役割―様々な飲酒形態、規則が必要な状況、関係者の責任と協力
難しい本でした。
基本的には保健医療関係者や研究者、アルコール業界の関係者、NGOなど、アルコールに関する政策を考えたり、実際に策定された対策を導入する立場にある人向けに書かれており、専門性が高い印象を持ちます。
プロからしたら、さまざまな政策の事例と評価がまとめられており、実用的な参考資料になるものだと思われました。

内容は、酒害をどう減らすか? という方向で話が進みます。
個人レベルで問題飲酒とどう向き合いましょうか?という内容ではなく、あくまで介入と評価に力点が置かれています。
また、随所で飲酒のプラス面にも触れています。
そんなことから、少しは飲んだほうがいいのかな? という気持ちになってしまうため、断酒している人向けの本ではないかもしれません。

私は「酒を飲まない立場」なので、一個人としてはどんどん酒に規制をかけて「飲まない人の利益を最大化」してほしいなぁと思っておりました。
しかしそれは人格的な視点からしても、政策的な視点からしても良くない方策のようです。
例えば酒の販売価格を上げたり、購入の機会を極端に制限した場合、過去の事例では密造酒の製造増大などが引き起こされ、個人の消費する酒量があまり変わらないにも関わらず粗悪な品質の酒を摂取することによって健康被害が増大するなど、マイナスな結果を招いてしまったことがあるようです。
こういうやってみたらまずかった、という規制は結構あると言うことを本書では多々紹介しています。
「飲まない人の利益を最大化」してほしいというのは、こうなると随分自分勝手なわがままだなぁと反省せざるを得ません。
(まぁ、常識的に考えても、今日において禁酒に近いそんな極端な政策は採用されないでしょうけど)

上の例のように、飲酒はいろいろな人間活動に関わっているため、極端な規制は、むしろ全体に対してマイナスな影響を与える可能性があるというのが、本書の指摘です。
アルコールの問題消費等に対してどういった介入が望ましいのかは、その国やその地域において酒がどう捉えられているかという、文化的な面を考慮して検討される必要があるようです。
また、合わせて酒のプラス面をいかに増幅するかということも考えておく必要があるということが、度々強調されていました。

この本を読んで気になったのは、以下の3点です。
①日本での飲酒の捉え方とは?(文化的な役割)
②日本での飲酒にまつわる問題とは?(解決すべき課題)
③日本での飲酒によるプラスの面とは?(促進すべき点)
これらは、本書では触れられていません。
というか、日本についての記述がほとんどありません。
ですから、この辺の話については、別の本を読んだりしながら考えを巡らせてみたいと思います。

ちなみに、現段階でこんなことじゃないかなぁ?と思っているのが、いこのようなキーワード。

① 神事、ハレの日、共同体意識の醸成
② キッチンドリンカー、アルハラ、酒害・依存性への理解
③ 穏やかな人間関係の形成、一体感の共有

いずれも想像の域は出ません。
また、穏やかな人間関係の形成というプラス面は、ひょっとしたらソトのトラブルを家庭というウチで解消するという、マイナス面につながっている可能性も考えられます。
こういうことが100%いいというものは、多分ないのでしょう。
いろいろな文献を当たりながら、「これはグレーゾーンの中の、このへんにあるからまぁいいことなんじゃない?」くらいのゆるい考え方で検討していけるといいなぁと思います。


幸せな世界とは(AI時代の新・ベーシックインカム論から③)

先日読んだ『AI時代の新・ベーシックインカム論』を踏まえて、特にVR技術について思うところを書いてみたいと思います。
本書の面白い点の一つに、BIとAIの話が中心になっていると思いきや、最後はVR(ヴァーチャルリアリティ、仮想現実)の技術についての警鐘で幕を閉じるという点があげられると思います。
本書の中でも突然湧いて出てきた感が否めないこのVR技術は、私たちの暮らしを根本から変えてしまうといいます。
著者は、VR技術の発展した世界を、映画『マトリックス』で例えていますが、それを聞いて私はハックスリーの『すばらしい新世界』を思い出しました。


人間は受精卵の段階から培養ビンの中で「製造」され「選別」され、階級ごとに体格も知能も決定される。また、あらゆる予防接種を受けているため病気になる事は無く、60歳ぐらいで死ぬまで、ずっと老いずに若い。ビンから出て「出生」した後も、睡眠時教育で自らの「階級」と「環境」に全く疑問を持たないように教え込まれ、人々は生活に完全に満足している。不快な気分になったときは、「ソーマ」と呼ばれる薬で「楽しい気分」になる。人々は、激情に駆られることなく、常に安定した精神状態である。そのため、社会は完全に安定している。ビンから出てくるので、家族はなく、結婚は否定されてフリーセックスが推奨され、人々は常に一緒に過ごして孤独を感じることはない。隠し事もなく、嫉妬もなく、誰もが他のみんなのために働いている。一見したところではまさに楽園であり、「すばらしい世界」である。すばらしい新世界 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

こうやって考えてみると、マトリックスとすばらしい新世界が描こうとしているのは、非常に近いものがあると思います。
そこで問われているのは、「自分の知っている世界とは別の世界があり、別の世界から自分のいる世界がコントロールされているということを、知らないほうが幸せかどうか」でしょう。
私個人としては、さっさとすばらしい新世界のような世界が訪れることを願っておりますが、そのことが人間の営みとして正しいかどうかは、個々人意見の別れるところでしょう。
正直今に生きる私としては、違和感は感じまくりです。
そして、結局のところ、どんな世界を作ったとしても、ネオやジョンのような人間は出てくると思います。
なぜなら、これまでだって自分の知っている世界が、別の誰かにコントロールされているという状況は多々発生しましたし、人々はそこから脱することで文明が発展してきたからです。

たとえVRで一部(あるいは大多数)の人が「誰も傷つかない優しい世界」に没頭したとしても、おそらくそれとは違う世界(VRを排除した世界)が形作られるように思われます。
その世界とは、「人間の、人間による、人間のための社会」とでも標榜した世界になるのではないかと想像されます。
問題は、その2つの社会が共存できるかどうかではないでしょうか。
特に、人間の社会側が、VRの世界に生きる人々を許せるかどうかが重要になる気がします。

私は、できればVRの世界に住みたいし、そこで生きることを放っておいてほしいと思います。
皆さんはどうでしょうか?

ちなみに、本書では、VR世界の「人間社会としての欠落」した点を儒教やコミュニタリアニズム、アレントの視点から見つけつつも、だからVR世界がだめなのかというと、結論はすぐに出せないと締めくくっています。
確かに、VRに人々が溺れてしまうことは、意思のない個人を作り上げてしまう可能性があります。
そもそもその人を一人の人間としてカウントするかどうかについても、議論があるかもしれません。
マトリックスでは、だからこそ機械が世界を運用していたのでしょう。

果たして、私たち人類は、そのような世界を選ぶのでしょうか。
正直、そこに至る道筋が、私には全くイメージできないというのが、正直な感想です。
VR世界には浸りたいけど、想像力が追いつかない、もどかしい気分です。
ということで思いは答えに至らず、結局、「これまで通り生きていくことになるのではないか」という、面白くもない締めくくりになってしまいました。



ハクスリーは、『すばらしい新世界』では皮肉を持ってディストピアを描いたようですが、『島』という作品ではユートピアを描いたようです。
こちらも読んでみたいなぁ(と思うけど、古書なんですね)。

汎用AIがBIを連れてくる?(AI時代の新・ベーシックインカム論から②)

先日読んだ『AI時代の新・ベーシックインカム論』で紹介されていたAIの発展について、思うことを少々。

近頃、囲碁や将棋の世界でのAIの話題が多くなってきております。
これらは、特定の処理を高速に行うことができる、「特化型AI」と呼ばれています。
ある特定の職域は、こうした「特化型AI」に取って代わられることが予想されますが、人間の特異的な性質は「汎用性」という、新しい処理を覚えてそれをブラッシュアップできるところにあります(だから本当は人間よりAIのほうが専門職は得意なんでしょうね。かつ、人間には汎用性があるのであるから、昨今の非正規化の流れは、経営者の自由を追求するとすれば、必然なのだと思います。余談ですが)。
ところが、今AIの世界で目指されているのは、まさにその汎用性を持ったAI、すなわち「汎用AI」の開発なのです。
汎用AIが完成した暁には、情報を扱うことはすべてAIがやってくれるようになるようです。
情報というとわかりづらいかもしれませんが、要するに事務仕事については、ほとんどAIやAIを搭載したロボットが人間の代わりにやってくれるという事ですね。
「Hey,Siri.ウチの会社の過去5年の売上実績と純利益を比較して、分析結果をA4一枚くらいのレポートにしてくれる?」みたいなことができるようになるかもしれません。

こんな時には、もうロボットが肉体労働も取って代わるでしょうから、言葉通り、殆どの仕事がなくなります。
残る仕事は、想像系、経営・管理系、ホスピタリティ系の仕事のみとなり、更にそれらの仕事のなかでも、半分近い仕事が特化型AIによって奪われる可能性があると指摘されています。
結局、人口の一割くらいの人しか働く必要がなくなる社会が来るわけです。
「そんな世界で大丈夫なの?」と思いますね。
答えは、微妙です(またか!)。
働く人が減ったとしても、経営する人は、機械やAIを使って収益を出すことができます。
つまり、経営者と貧困者の格差が拡大していくわけです。
ただ、こうなると、実は経営者も困ります。
なぜなら、モノに対する需要が次第に乏しくなり、付加価値をつけてイノベーションを起こす機会がなくなるからです。
そうなると、どんどん経済全体が落ち込んでいくことになり、結局は資産家もジリ貧になっていくという流れですね。
ところが、こうした社会にBI(ベーシックインカム)が導入されることで、人々の暮らしを守ることができ、かつ需要も喚起することができるというのが著者の主張です。

大体こんなことが2030年頃から2060年までには、起こるだろうとのことですから、ひとまずはそこを安定して迎えることができるように、貯金をしておかなくちゃなと思います。
あとは、その辺から働かなくていいなら、なるべく元気に趣味を謳歌したいと思いますので、あまり仕事を頑張りすぎず、のんびり心穏やかに健康的な暮らしをしていきたいなぁと感じます。
実際のところは、BIが導入されるかどうかわかりませんし、汎用AIが導入されるかもわかりません。
だから、今まで通りに生きていくほかない訳ですが、こういうことを考えると、「お金の心配がなければ何がしたいか」という皮算用が、現実味を帯びてきます。
皆さんは、お金の心配がなければ何をしたいですか?

私は、正直、今の生活のままでいたいです。
上昇志向なんてありませんし、現状維持で十分幸せです。
ただ、仕事をしなくていいならば、今仕事をしている分の時間の半分くらいをボランティアに使い、もう半分を趣味に使うくらいがちょうどいいような気がします。
こんな考えが広がり、人々の自発的な活動が、結局みんなの暮らしを豊かにするような社会になるのであれば、さっさと汎用AIが普及して、BIも導入されるといいなと思います(そんな都合よくいくとは思えませんけどね)。

ただし、と著者は警鐘を鳴らします。
汎用AIが導入されて、BIが導入されないならば、格差が拡大し、固定化された社会、すなわちディストピアの社会が到来することも想定されるのです。



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国家レベルの虚言(AI時代の新・ベーシックインカム論から①)

先日読んだ『AI時代の新・ベーシックインカム論』で知った、日本の財政状況について簡単にまとめます。

驚くべきことは、日本の財政は、全然悪くないということです。
どういうこと?日本って700兆の借金があるんじゃないの?それで全然悪くないってどういうこと?と思う方もいると思います。
私も大変驚きました。
でも、実情はそうではないようです。
日本政府が抱えている負債のは、国内における公債発行によります。
そして、公債は、日銀による買いオペレーションによって、貨幣と交換することで、市場から回収することができます。
「それでは結局お金を出すんだから借金じゃないか」と私は思いましたが、ここに通貨発行権というものが関わってきます。
中央銀行は、お金を作り出せるのです。
1万円札を作るのに、およそ20円のコストがかかることから、9,980円の利益を“生み出す”ことができます。
負債を回収するためのコストを自分で埋め合わせることができるわけですね。
そんなんあり?と思いますが、そうやって買いオペと売りオペで市場の貨幣量を調整することによって金融を調整するのが中央銀行の役割なのだそうです。
知らなかった…。こんなこと公民でならったかしらん?

そこまで説明を受けて、私としては気になることが出てきました。
「そんなことして大丈夫なの?」
答えは、微妙のようです。
なぜなら、買いオペレーションで市場に貨幣を流すことは、インフレーションを引き起こす可能性があるためです。
しかし、現在日銀は毎年60兆円分の公債を回収しているようですが、それでも目標としているインフレ率2.0%には達していないようで、つまり、今市場に貨幣を投下しても、しすぎることはない(インフレに向かわない)という状況だといえます。

ちょっとまってくれよ、そんなわけねーだろ!嘘ばっかし!
財務省はなんて言っているんだ!と私は思いました。
そこで、財務省のHPを見てみると、まぁ素敵に解説されています。
動画、図解、予算のポイント等を見ながら日本の財政を考える(財務省HP)
国の借金が多く、毎年増えている、だから増税が必要なんだ、という論法です。
非常にわかりやすい。
これを見たら、消費税上げなくちゃいかんねーなんて思いかねません。
(と言うか思ってました)
これに対しては、【三橋貴明】国を家計に例えるのはやめようをご一読ください。
これを読むと、途端に怒りがこみ上げてきます。
国レベルで国民を騙そうとしていると疑わずにはいられません。

その後も「なんでこんな騙すようなことをするのだろうか?」と調べてみておりますが、ここからはいろんな推測があるようです。
財務省の天下り先確保のためだなんていう意見もありましたが、どうなんでしょうね?
「部分的にはあるのかな?」なんてワイドショー的な疑い方ですが、確証は見つけておりません。
ちなみに、ある人の記事では、所得税がこれ以上あげられない(他国と比べて高い)から、消費税でまんべんなく税を徴収したいという思惑があるのではないか、と指摘していました。
しかし、消費税とは、相対的に低所得者が損をする税です。
そして、消費税増税はデフレを引き起こすことから、産業界からも敬遠されてします。
となると、安倍政権でこういう方針を立てていると言うのは、あまり考えづらいような…
(所得税を上げさせない方には安倍政権が噛んでいてもおかしくない気がしますが…これも憶測の域をでておりません。)
まだまだ勉強不足なのですが、謎は深まる一方です。

それから、なんで借金がないなら最近の災害等における復興にお金を回さないのか?という意見もあるかと思います。
なんでなんでしょうね?これは私にもよくわかりません。
もっとバンバン国債を発行して復興に予算を回せばいいのにと思えてしまいます。
素人としては、ある程度モラルを持って予算を配分しようという良心を感じます。
それが本当なのか、また、対応として正しいことなのかどうかは、全然判断できませんが…。

この辺は高橋洋一さんという方が詳しいようなので、高橋さんの著書を色々と読んでみたいと思います。

 

詳しい方がこの記事をお読みになられたら、ぜひご解説やご指摘をいただけるとありがたいなと思うばかりです。

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【読了】国語辞典の遊び方(サンキュータツオ著、角川文庫)

『国語辞典の遊び方』を読みました。


面白い。
先日、色々と思うところがあって『三省堂国語辞典(小型版)』を買いました。
また、職場では『新明解国語辞典』を使っています。
すでに2冊(と広辞苑をあわせて3冊)使っているのですが、他にも色々と欲しくなりました。
例えば、『ベネッセ表現・読解国語辞典』『語感の辞典』『基礎日本語辞典』あたりは、今度買おうと思います。
(ミニマリストを目指していたのですが、少し難しそうです…)

デジタル時代にはつい忘れがちですが、私達が人間である以上完璧な情報というものは存在しません。
情報が多けりゃいいってもんでもないのです。
いかにピンポイントに要約されているか。
自分が知りたいの情報の深さの程度によっても、辞書に求める語釈のレベルは変わります。
辞書も例外ではなく、自分の用途に合わせて選ぶ必要が有ることを思い知らされました。
つまり、辞書も一つの本(性質としては実用書や技術書でしょうか)である、ということなのですが、そのことが本書を読むとよくわかります。
一つの本として、辞書と向き合うと、たしかにそれぞれの辞書ごとに個性が浮かび上がってくる。
この辺は2つ以上の辞書を持たないと味わえないと著者は言うのですが、こう言われると、2冊以上持ちたくなっちゃいますね。
(私はもう持っていますが、もっと欲しくなります)

言葉を集め、取捨選択し、編集する、こうした事業には、国語の専門家が必要です。
その専門家とは誰か?それは、すなわち学者です。
それなのに、文系の学者なんていらないと言われるのはどういうことなのでしょうか?
言葉が生きているものである以上、生きた学者を輩出し続ける必要があるとなぜ気づかないのでしょうか。
と、本書を読む前の自分に言ってやりたい。
私は、高校〜大学生の頃、文系の大学なんて不要と思っておりましたが、まったくもって世界が狭かったと反省しています。
本を読んでいると、その本を書いているのが大学の先生であることも多く、文系の大学があるからこそこうした面白い本が読めるのだと思えば、文系の大学が不要、なんてことは思えなくなりました。
本を読まないと、極論に走ってしまう、というのは私の持論ですが、本書を読んで国語辞典制作の難しさ・苦労・重要性などを知ると、そのことを再確認させられたように感じました。
(逆に言うと、極論を言う人は、概ね教養がないと、個人的には踏んでいます。偏見ですし、これも極論かもしれませんね。読書が足りない、かも知れない。)

話は少し変わりますが、暇つぶしをするのに、紙の辞書は大変便面白いです。
どう面白いかというと、関心のない言葉に出会えるという点が大変面白い。
デジタルではピンポイントで言葉を調べますが、紙だとその隣の言葉なんかもつい見てしまう。
これが素晴らしい。
ラジオで突然素敵な楽曲に出会うというのと似ています。
まだまだ紙媒体の良さっていうのはなくならないでしょう。

ちなみに私の辞書使用状況は以下の通り。
職場→新明解国語辞典、広辞苑
自宅→三省堂国語辞典、電子辞書
(家にはネットがないので、電子辞書は大変助かります。)
ゆくゆくは職場に『ベネッセ表現・読解国語辞典』を、家には『語感の辞典』と『基礎日本語辞典』を置きたいなあと思います。



あとは、言海。これはいずれ欲しい…


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【読了】AI時代の新・ベーシックインカム論(井上智洋著、光文社新書)

先日の記事『【読了】ルポ 中年フリーター(小林美希著、NHK新書)』でも引用をした『AI時代の新・ベーシックインカム論』を読みました。

めちゃくちゃおもしろい本でした。

まずは経済の話から入り、AIの今後に触れ、ついで政治的な思想に移り、最後はVR技術で締めくくるという構成。
非常にテーマが広く、かつどの項でも易しく、わかりやすい表現で説明がされており大変勉強になりました。
読んでみると、BIの導入は当然のように思えてきます。
著者の予想では2030年頃には汎用AIができ始めて、BIが導入されないならディストピアになりかねないと警鐘を鳴らします。
また、BIが導入されないと、消費がダメになるため、結局は経済が立ち行かなくなるとも主張。
要するに、BI等のバラマキをするしかないという結論になるということを説明していました。
2030年に失業か…と思うと、真面目に働くのがもう馬鹿らしいことのように感じてしまいます。
でも、著者の主張は笑ってしまうくらい肯定できます。
私もまた、リバタリアンでリベラリストなのかもしれないなと感じました。

あまりにも面白かったので、①貨幣制度、②AIの発展、③VR技術の3項目について、別途思ったことなどを書ければなぁと思います。
本書を簡単にまとめると、①により財源の確保は問題ないどころか、財源確保を行うためにもバラマキが必要だと主張します。
②によって雇用がなくなることを示し、BIが導入されるだろうと論じます。
導入には、「儒教的な道徳観」から派生してくる暗黙のルールが邪魔をするだろうと予想。
最終的にはBIの導入により人々はより人間らしく生きることができるだろうとまとめるかと思いきや、③の出現によって、人間の営みとは?という問を立てて幕が閉じます。
AI、BI、VRの導入で、これまでに実現しなかった優しい世界ができるかもしれないけど、それってどうなの?という問ですね。

少し方向はずれるかもしれませんが、どんどんと『素晴らしい新世界』(ハックスリー)の世界観に近づいているように感じます。
(そのうち発生も管理されるかもしれません)

また、「無知のヴェール」などの話を読むと、自分の人生も「たまたま」の上に成り立っていると理解でき、他の人に対して少し優しくなれる気がしてきます。

押し付けがましいところのない、素敵な本だと思いました。





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【読了】ルポ 中年フリーター(小林美希著、NHK新書)

『ルポ 中年フリーター』(小林美希著、NHK新書)を読みました。



序盤、胸が痛くなる話が多いですが、最後には希望の光が差すという構成でした。
今後は少子化ですし、人材の確保が難しい時代になることが予想されるわけですが、こうした流れで中年のフリーターの方たちの可能性が明るいものになればいいなと感じます。
(移民の政策が進まなければの話ですが…)
しかし、前半の重さと言ったら…そこには”THE貧困”があぶり出されていました。

レールから外れると、もうレールには戻れず、かつ、ほとんど即貧困につながる流れが、取材を通じて見えてきます。
どう考えてもセーフティネットが機能していないと思わざるを得ません。
(本書では、アクセスに問題があるのか、法律・行政の運営に問題があるのかは触れていません)
この辺を知ると、ベーシックインカムの導入が本気で期待されます。
ベーシックインカム関連の本を読みたいと感じました。

また、あまりにも理不尽な働き方や生活を強いられているケースもあり、とても胸が締め付けられます。
自分はたまたまいい仕事につけたように思えます。
そしてそのことが少し後ろめたく思われるほどです。

『AI時代の新・ベーシックインカム論』の著書である井上智洋さんは、同著の中で以下のようなことを記載しています。
(私は大いに賛同するため、長めに引用させていただきます)

そう考えると、今、私がニートやホームレスではなく大学教員でいられるのは、究極的のところ偶然にすぎない。そして、私だけでなく、今順調な人は人生を歩んでいるという人は、等し並に運がよいのではないだろうか。(中略)人は、病気や障害、高齢、失業など様々な理由で貧困に陥る。純粋に労働意欲がなく怠けるというケースも中にはあるかもしれない。だが、勉強意欲や労働意欲がないことも、広い意味ではハンディキャップとはいえないだろうか? そうした人たちにも、生きる権利があってしかるべきではないだろうか? 生まれる前にまで遡行すれば、自分がホームレスになる人生を歩んでいたという可能性を私は全く否定できなくなる。その可能性に思いを馳せたとき、「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」が保証された社会であって欲しいと願わずにはおれない。
本当にそのとおりだなぁと思います。
たまたま、自分は今の状況にありますが、そうでない可能性もあったわけです。
そう考えると、この社会でのうのうと生きてこれたことがなんだか綱渡りをしてきたように感じられます。

安定ばかりを求めては行けないと、おじさんたちは言いますが、こういう本をよむと安定こそ一番大事と思えてしまいます。
エイベックス社の社長が言う「安定しているからこそ、付加価値を生むことができる」という言葉は印象的でした。

個人としては、人とうまくやり、少しでも他社の成長に貢献できるように慣れればなと、薄っぺらい気持ちをつのらせています。

また、やはり子どもには、安定を求めてほしいなぁと感じます。
そして、その事自体は、親としては寂しくもあります。
叶うならば、ベーシックインカムのようなセーフティネットの充実した社会で、本人の希望に沿った生き方が選べればなぁと思います。

仕事の有無にかかわらず、その人の尊厳を保てる仕組みがあるといいなぁと心から願うばかりです。



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【読了】奇想の図譜(辻惟雄著、ちくま学芸文庫)

『奇想の図譜』(辻惟雄著、ちくま文庫)を読みました。


先日記事にも書いた、『奇想の系譜』 (ちくま学芸文庫)の続きですが、内容は北斎、若冲、洒落、白隠を取り上げつつ、『奇想の系譜』の根源がどこにあるのか、縄文土器以来の作品を取り上げながら辿っていく本でした。
最終的には、「見立て」を用いた「かざり」に行き着きます。
前回の記事【読了】奇想の系譜にも

しかし、著者のあとがきにおいて、結局のところ取り上げた奇想の画家6名も単独で存在し得たわけではなく、それまでの主流の流れを汲む中でも前衛的であっただけだ、というように書かれています。
ということは、多分生まれるべくして生まれた作品(あるいは画家)たちだった、といいたいのではないかと、私は理解したいです。
と記載をいたしましたが、結局この系譜は日本人の「かざる」という根源的な性質から起きたものであるということをこの本は証明するべく書かれたものだと思われました。

もともと「かざる」心があり、そこには2種類、すなわち陰と陽の側面があり、陽のほうが奇想=奇をてらう大胆な色彩や構図の絵を産んだというのがこの本の論です。(ちなみに、陰とは詫び・寂びの方向のようです)
ホイジンガの言葉をもじった「文化は<かざり>の形をとって生まれた。文化はその初めから飾られた」が著者の本当に言いたいことだったのではないかと思います。(元ネタ:ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』「文化は遊びの形をとって生まれた、つまり、文化はその初めから遊ばれた」)

東京都美術館で開催されている『奇想の系譜展』にも行きましたが、この本も読んでいればよかったなと少し残念です。
(奇想の系譜展は4月7日(日)まで。まだ行っていない方は、ぜひ本書と『奇想の系譜』を読んでから足をお運びください)

余談ですが、洛中洛外図屏風は当初岩佐又兵衛作説を否定していた著者が、後にその考えを改めることになったのだということなので、ぜひその書(浮世絵をつくった男の謎 岩佐又兵衛 (文春新書))も読んでみたいと思いました。
また、『ホモ・ルーデンス』も読みたいですね。



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辞令交付式への違和感(みんなよく参加するなぁ)

 今日は4月1日。  我社では辞令交付式が行われました。  そのため、土曜日ですが、人事課員として出勤しました。  明日も仕事なので、12連勤となります。   人事課の闇ですね。  それはさておき、辞令交付式に関して、毎年違和感を持ちます。  それは、お礼を言われる側が、何故かホ...