面白い。
先日、色々と思うところがあって『三省堂国語辞典(小型版)』を買いました。
また、職場では『新明解国語辞典』を使っています。
すでに2冊(と広辞苑をあわせて3冊)使っているのですが、他にも色々と欲しくなりました。
例えば、『ベネッセ表現・読解国語辞典』『語感の辞典』『基礎日本語辞典』あたりは、今度買おうと思います。
(ミニマリストを目指していたのですが、少し難しそうです…)
デジタル時代にはつい忘れがちですが、私達が人間である以上完璧な情報というものは存在しません。
情報が多けりゃいいってもんでもないのです。
いかにピンポイントに要約されているか。
自分が知りたいの情報の深さの程度によっても、辞書に求める語釈のレベルは変わります。
辞書も例外ではなく、自分の用途に合わせて選ぶ必要が有ることを思い知らされました。
つまり、辞書も一つの本(性質としては実用書や技術書でしょうか)である、ということなのですが、そのことが本書を読むとよくわかります。
一つの本として、辞書と向き合うと、たしかにそれぞれの辞書ごとに個性が浮かび上がってくる。
この辺は2つ以上の辞書を持たないと味わえないと著者は言うのですが、こう言われると、2冊以上持ちたくなっちゃいますね。
(私はもう持っていますが、もっと欲しくなります)
言葉を集め、取捨選択し、編集する、こうした事業には、国語の専門家が必要です。
その専門家とは誰か?それは、すなわち学者です。
それなのに、文系の学者なんていらないと言われるのはどういうことなのでしょうか?
言葉が生きているものである以上、生きた学者を輩出し続ける必要があるとなぜ気づかないのでしょうか。
と、本書を読む前の自分に言ってやりたい。
私は、高校〜大学生の頃、文系の大学なんて不要と思っておりましたが、まったくもって世界が狭かったと反省しています。
本を読んでいると、その本を書いているのが大学の先生であることも多く、文系の大学があるからこそこうした面白い本が読めるのだと思えば、文系の大学が不要、なんてことは思えなくなりました。
本を読まないと、極論に走ってしまう、というのは私の持論ですが、本書を読んで国語辞典制作の難しさ・苦労・重要性などを知ると、そのことを再確認させられたように感じました。
(逆に言うと、極論を言う人は、概ね教養がないと、個人的には踏んでいます。偏見ですし、これも極論かもしれませんね。読書が足りない、かも知れない。)
話は少し変わりますが、暇つぶしをするのに、紙の辞書は大変便面白いです。
どう面白いかというと、関心のない言葉に出会えるという点が大変面白い。
デジタルではピンポイントで言葉を調べますが、紙だとその隣の言葉なんかもつい見てしまう。
これが素晴らしい。
ラジオで突然素敵な楽曲に出会うというのと似ています。
まだまだ紙媒体の良さっていうのはなくならないでしょう。
ちなみに私の辞書使用状況は以下の通り。
職場→新明解国語辞典、広辞苑
自宅→三省堂国語辞典、電子辞書
(家にはネットがないので、電子辞書は大変助かります。)
ゆくゆくは職場に『ベネッセ表現・読解国語辞典』を、家には『語感の辞典』と『基礎日本語辞典』を置きたいなあと思います。






