現代語訳 幸徳秋水の基督抹殺論(鹿砦社)



現代語訳 幸徳秋水の基督抹殺論』(鹿砦社)を読みました。
大変おもしろかったです。

キリスト教が、既存の宗教から名前を変えただけのものであることが、実に多くの歴史家が多くの著で述べてきたのかが分かります。
論理的に考えるなら、多分キリストはいなかったのでしょう、と思わせるに十分。
(もっと言えば、マリアも使徒もいなかったようです)
それにしても、相変わらずコテンパンです。
これでもか、これでもか、というくらいあらゆる議論にメスを入れていきます。
で、結論としては、こう。
論じてここに至ればもはや明らかである。基督教というのは、その根本の教義から枝葉の式典に至るまで、なんら独創の事物は有していないのだ。他の宗教から画然と卓越した基督教ならではの独特の色彩、などというものはなんら存在していない。すべてがまさに、古代の太陽崇拝や生殖器崇拝を起源に発生した諸々の信仰の、遺物にすぎないのである。すべてがまさに、印度・波斯・埃及・猶太・希臘・羅馬の、残飯やら飲み残しの酒ばかりなのだ。そういうわけで、もはや史的人物としての基督の肖像は、ますます薄くなるばかりである。(中略)基督教の依って立つ土台は、『無智』以外の何ものでもないのだから。(同書P142)

個人的には「聖書が信じられてきた」という歴史は変えようのない事実なので(それ自体が非常に野蛮なことのようにも思えてしまうのですが)、イエスの存在がまんま聖書の意義に左右するかは少し議論の余地もある気もします。
ただ、秋水先生も別にキリストがいようがいまいが信仰としては関係ないと明記しています。
そして、そのあとで「でも基督がいて、基督の伝説を信じる、という姿勢はおかしい」と続くわけです。
信仰が人々の生活に規律と平穏を与えるのなら良いのでしょうが、これまでの歴史を見れば、基督教はかんたんに教会の便利な道具になるし、しかも帝国主義ともつながります。
秋水先生としては、そこは見逃せなかったのかもしれません。
帝国主義(幸徳秋水、岩波文庫)

面白かった話を二三あげます。
・あらゆる信仰の根本にあるのは「生殖器崇拝」と「太陽崇拝」(命を生むことの偉大さに起因)
・十字架は男性を、丸は女性を表す昔から用いられる記号である(イースター祭の卵も女性を表している)
・12月25日を祝うのは、太陽崇拝の宗教では一般的。多くの行事がこの辺に集まる。それは、ちょうど冬至から3日後に日が伸び始める(太陽が死んで復活する。しかもちょうど3日)というところに起因している
・僧院生活はテラピウト教派そのもの
・初期基督教の飲み会は食人、近親相姦の場となっており、故にローマ帝国で多大なる迫害を受けた
・クリシュナ(インド神話の英雄。多くの人が「Crishna」と書いて表したそう。Cristnaと記載されているのを秋水先生も見たことがあるという)との類似性
などなど。

ーーー

死刑の前(幸徳秋水)と同様、本書も獄中で死刑を前にして書かれたと、訳者のあとがきには書いてありました。
手元に出典もなく、よくもまぁこんな書がかけることです。
それに、この方は高校中退の学歴なのに、どうしてこうも博学なのでしょうか。
私も、もっと本を読んで、色々考えなくちゃならんなと思わされます。

本書は、『死刑の前とかなり近い思想をベースに書かれている気がします。
(同じ人が書いているのだから、当たり前といえば当たり前ですね)
すなわち、両書は次の一言を言いたかったのではないかと思うのです。
科学的精神に適合せず、道理に協(かな)わず、批評に耐えず、常識と相容れないものが、どうして今日における倫理道理の主義や、安心立命の基礎になれようか?(同書P180)
つまり秋水先生は、この「科学的精神」でもって生と死を捉えることを奨励したいのです。
(とはいえ、『死刑の前』は1章しか書かれていないので、本当のところはもう誰にもわからないのですが)

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ところで、帝国主義の序には、キリスト教徒の内村鑑三が文をしたためていました。
二人は仲が「良かった」のだと思われます。
さて、内村鑑三がもしこの書を読んでいれば、果たしてどう思ったであろうか。
ぜひキリスト教徒としての感想(できれば反論)を伺ってみたいと思いました。


   

死刑の前(幸徳秋水、kindle)



死刑の前(幸徳秋水)を読みました。
死刑を目前に控えていて、なんなんだこの落ち着きは。
そして、続きがめっぽう気になる。
どうして死刑に処してしまったのか…。
せめて本稿が終わるまで待てなかったのか。

本書は、自殺幇助とも取れる内容だから、あまり人に進められる内容ではないのかもしれないが、非常に理系的(?)な発想で「死」を捉えており、あるいはこの説で救われる人もいるのではないかと思います。
だからこそ、続きが読みたい。
同氏がどんな運命感を持っていたのか、ぜひ書いてほしかった。
およそ死ぬ段になってもこんな文章を書く人間は、殺し甲斐のない人間ではないか。
個人的には、この書がここに終わっていることの一事を持って死刑の反対に十分の理由となる。
誠に、残念でならない。

同じく獄中で書いたという『現代語訳 幸徳秋水の基督抹殺論』がいくらかその続きを示唆しているのだとすれば、早く同書の続きを進めたくなります。

  

帝国主義(幸徳秋水、岩波文庫)




先日、幸徳秋水著の『兆民先生』を読んで、もう少し同氏の別の書も読みたいと思って帝国主義 (幸徳秋水、岩波文庫)を読んで見ました。
兆民先生(幸徳秋水、岩波文庫)

これでもかというほど執拗に帝国主義(暴力を持って領土拡大をすすめる国の姿勢)を批判し続けていました。
軍人の主張する軍備拡充の必要性を、一つ残らず叩き潰す感じ。
痛快です。
曰く、
・戦争によって、経済が疲弊している
・戦争によって、芸術、文明が破壊されている
・暴力的な組織(軍隊)が、社会的規範を破壊している
・軍隊が暴力を呼ぶ
・戦争をしたいと思うのは動物的本能である
などなど。

確かに、戦争はかなりお金を必要とすることが、本書を読むとわかりやすく解説されています。
ただ、問題なのは、そのお金のかかるところが極端に偏るというのが問題で、多くの費用は戦争に関連する産業にしか回らない。
そして、福利の方は手薄になる。
そうすると、結局貧乏な人ほど大変になり、社会が回らなくなるということですね。
至ってその通りです。

工業製品の生産過剰についても、中産階級以上は貧民の労働力を搾取することで海外展開するほどの生産力を持つけど、その海外進出する原因(国内の需要量を生産量が上回ってしまうの)は国内の人々から購買力がなくなるためだということを指摘しています。
これはまさに資本論に通じるものではないのでしょうか?
というか、社会主義者と自分で言っているくらいなのですから、多分そうなのでしょう。

この本を読むと、社会主義の本来の意義というか目的がわかってくる気がします。
「格差の是正」、それにともなう「平和」こそが、幸徳秋水の思い描く社会主義の世界だったのでしょう。

社会主義は、私達の中では基本的に「失敗作」として理解されているように思います。
しかし、その思想のいいところを、うまく今の社会に取り込まないと、今後ますます格差は広がり、やがてまた凄惨な事件を起こすような気がします。
ということで、ぜひベーシックインカムを導入してほしいなぁという思いを新たにしました。
ベーシックインカム関連記事

ところで、改題を読むと、幸徳秋水のこうした「平等」「博愛」「平和」という思想は、中江兆民から受け継いでいるとの記載がありました。
そう書かれてしまうと、中江兆民の作品も読みたくなってしまいます。
とりあえず、三酔人経綸問答 (岩波文庫)を読んでみようかなぁと思います。

また、改題では、本書を中江兆民に事前に見せてやり取りをしたのが『兆民先生』内の書簡のやり取りに当たるとの解説もされていました。
なるほど、そういうことだったのかと腑に落ちました。
原著を読んでから誰かの解説を聞くというのも、面白いものですね。

また、同氏の著書で面白そうな本があったので、借りてみました。
書名はズバリ『現代語訳 幸徳秋水の基督抹殺論』。
どうも基督を当時の天皇のスケープゴートにして批判をしたという疑いをかけられている作品のようです。
でも、そんなことどうでもいいくらいに、基督教をボコボコにしています。
イエスキリストは、当時こんなにも無名だったのかと思うと、一体今のキリスト教とは何なのだろうかと思わずにはいられません。
先日『旧約聖書物語』を読み終えて、『新約聖書物語』を今度読もうと思っていたのに、一体どういう心持ちで望めばいいのやら・・・。
でも、”物語”だから、その時の”つもり”で読めばいいのか。
旧約聖書物語(犬養道子、新潮社)

そういえば、本書の序では、キリスト教徒の内村鑑三が文を寄せていました。
内村鑑三が『現代語訳 幸徳秋水の基督抹殺論』を読んだら、なんというのか、非常に興味がわきます。
友達の思想をこてんぱんにすることに、抵抗はなかったのだろうか。
ネットで調べた限りでは、あまりそういう資料は残ってなさそうですが、今度内村鑑三の著書も読んでみたいものです。

また、当のキリスト教徒やキリスト教会は、この辺の事実をどう捉えているのだろうかとも気になります。
別にキリストがいたかどうかは関係ない、聖書が聖書として信じられてきたことが大事なのだ、という論説もあるかもしれませんが、胡散臭さを拭い去ることはできないでしょう。

それにしても、キリストがいたのかどうかなんて、考えたこともありませんでした。
私はてっきりいたものかと思っていましたが…頬に平手打ちを受けたような思いです。

ちなみに、『クルアーン』(イスラム教)では、キリストを預言者としては認めているものの、メシアとしては認めておらず、同様に三位一体説も否定をしています。


    

氷川清話(勝海舟、講談社学術文庫)


氷川清話』(勝海舟、講談社学術文庫)を読みました。

夢酔独言』に引き続き、『困難な成熟』(内田樹、夜間飛行)で紹介されていた一冊です。
参考:夢酔独言(勝小吉、講談社現代文庫)

面白かったです。
勝海舟って、こういう人物だったんですね。
昔読んだ『武揚伝』(佐々木譲、中公文庫)では、ちょっと痛い感じで書かれていましたが、最下級の武士から直接将軍より幕府の後処理を任せられるまでに上り詰めた男としての貫禄というか、凄みみたいなものが本書からは感じ取れます。
視点がすごく高い。
それでいてシンプル。
おそらく、自分のダッシュボードの大きさをよく理解していて、そこに載せるべき要素の取捨選択に抜群の才能があったのだと思います。
そして、そこに父・小吉から引き継いだかはわかりませんが、胆力というものが備わったことで、このような人物が生まれたのでしょう。
本人は、剣術と禅のおかげと言っていますね。
あとは、戦が人を育てるとも言っています。
また、そういう意味では、今後人物が出てくる、ということもなかなか期待はできないということも話していました。
(この辺のことを、今読んでいる幸徳秋水の『帝国主義』(岩波文庫)は全面的に否定していますが、その幸徳秋水の書きぶりの痛快なことと言ったらありません。メッタ斬りです)
でも、そんなにこんな人間がホイホイ出てくるもんではないですよね。
だって、こういう人が他にいないから、勝海舟が幕府の後処理役になってしまっているわけで、そう考えると、その状況に適当な人物をしっかり表舞台に出す機能を維持しているのかどうか、ということのほうが重要な気がします。
そして現代においてそれができているとは思いませんが、明治維新30年の時点でもすでにそうだったようだ、というのが本書を読んで面白かったことの一つです。
父・勝小吉の本もそうでしたが、本書においても、気がつくと江戸の町中や明治の小さな座敷にタイムスリップしており、楽しい時間旅行できました。

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本書には、所々「爺の僻み」みたいな箇所もあります。
本人は政局などを「蚊帳の外」から見ているわけですから、もどかしさも多分にあったのでしょう。
それは、自分がその中心にすでに行けないことを知っているが故のもどかしさでもあると思います。
(役職定年になると、そういう気持ちになるのかもしれません)
だから、現役の議員や一部の人達からは(本人も言うように)「爺が何をいってやがんだい」というようなことにもなってしまうのでしょう。
聞いている側も「爺さんそりゃおかしいぜ」「そりゃいいすぎってもんだ」と感じる部分の散見されます。

ということで、なんとなく、本書は、おじいちゃんが死んだその葬式で、たまたま待ち時間に同じ机に座った親戚のおじちゃんから聴く昔話みたいな感じがあります。
話し方も面白いし、人のつながりとかが面白いから、なんか聞き入っちゃうんだけど、時々事実誤認や自慢話が織り交ぜられて、終いの方は少し説教臭くなっちゃう、みたいな。

それでも、人とのつながりって言ったて、あの西郷やら大久保やらですから、そんじょそこらのおじちゃんとはスケールが違いますね。
上の二人のほか、いろいろな方に対する人物評も、なかなかおもしろい。
「へぇ、そういう見方もあるのね?」という感じで勉強になります。
(横井小楠をえらく評価しているので、今度関連書籍を読んでみたいと思いました。)
あと、話しを聞いて(読んで)いると、西郷は非常にスマートな印象で、上野公園の銅像のイメージが崩れてきます。
(私の中で、もっと細身のイメージが強くなりました)

ーーー

また、本書からは、反知性主義の匂いも感じられました。
それは、おそらく勝が現場主義だったからでしょう。
世の中には、時勢があり、現場主義の時代と、知性主義の時代が行ったり来たりするのだと思います。
令和の今は、どっちなんだろう、もし現場主義の時代なら、勝の生きた時代のような、「社会に活かす知」を渇望する若者をどんどん登用する制度が必要でしょう。
(今はどちらかと言えば「自分を活かす知」が重用されている気がします)
でもそれは、ちょっと違う気もする。
もちろん、上昇志向の若者を積極的に登用することがだめだと言っているわけではありません。
(上昇志向の若者がどんどん登用するほどいるかは怪しいところですが)
多分今勝が生きていても、うまく必要なところには登用されないような気がするのです。
そういう制度になっているように思うのです。
それは、勝がこのような人物ではなく、腹黒く、卑しい性質を持っていたと仮定すれば、仕方ないことな気がします。
傑物がそのポストに収まるという前提で作られる制度なんて、とてもではないけど私は恐ろしくて信じられない。

とはいえ、そんなこんなで、勝や西郷のような人物は完全に駆逐されてしまった。
そして多分、私達みんなが、それを望んだのだと、本書を読んでそんなことを思わされました。
そこに2つの問が浮かんできます。
「それは悪いことなのだろうか?」
「悪いとすればどうすればいいのか?」
この2つの問は、しばらく頭の片隅で温めて置きたいと思います。

   

教育改革の幻想(刈谷剛彦、ちくま新書)




教育改革の幻想 (刈谷剛彦、ちくま新書)を読みました。
面白かった。
ドラスティックな改革は不利益を生むことが多いんだろうね。
改革なんてやめた方がいい。
現場が実践する、小さな改善の積み重ねが大事です。

本書は、2002年4月から施行された新学習指導要領に対してその政策の良し悪しを、いろいろな角度から書かれた本です。
まぁ、ほとんど批判ですね。
もうちょっと分析と議論をしっかりやってよ、というのが本書の主張だと私は理解しています。

それにしても通読してみると、お上(役人)の頓珍漢なことといったら笑えてきますね。
しかも子どもを主人公にする教育については、すでにカリフォルニアで失敗例があることというのもなおさらおかしい。
いや、笑ってる場合ではないのですが。
ロサンゼルス・タイムズ紙に紹介された、カリフォルニア大学のエンバス教授はその失敗について、こんなことを言っています。
「私たちは、学校を子どもたちにとってより有意義で、より楽しい場にするための努力をしてきた。その中で、知識を暗記するとか、つづりと発音の関係を教えるためのドリルとかは、『退屈』な活動としてカリキュラムから消されていった。しかし、たらいの水と一緒に赤ん坊も流してしまったようなものだ。学習には、必ず、むずかしいことや、楽しくはないが大事なことも含まれているのだから」(著者抄訳)
「水と一緒に赤ん坊を流しちゃう」という比喩は言いえて妙です。
考えるのにも、材料としての知識がないと考えられないというのは、いかにも当たり前のことで、反論の余地はないように思えますが、実はこの問題が程度の問題であるというところに一番の問題があるのです。
程度の問題ということは、結局個人のレベルにどこまで合わせてあげようか、という問題で、明確な答えなどない。
だから、議論が進まない。

しかも、学ぶ子どもたちにも個人差もあるので、「みんながわかる」という極端なレベルを設定してしまうと、勉強ができる子は自分でどんどん知識を仕込んでいくでしょうが、勉強が苦手な子はそれが全然できなくなるわけですね。
だってそもそも何を仕込めばいいのかもわからないし、やる気もないんだから。

そもそもの話になってしまいますが、私は、教育で個人を変えることができるというのが幻想のように思います。
また、個人の本質的な性格は変わらないという前提に立って教育をした方がいいと思います。
知識を授けるのはできても、主体性をはぐくむ(望ましい性格を持たせる)なんてことは、たぶんできない。
(ちょっと曲解しているかもしれませんが、この辺については、安藤寿康先生の本を一度読んでみていただけると少しわかっていただけると思います。おすすめは、遺伝子の不都合な真実―すべての能力は遺伝である (ちくま新書)
様々な体験を通じて、本人が変わる可能性はあっても、それは人為的にコントロールできるものではないと思います。

だから、今一度、学校の役割というものを整理するところから着手したほうがいいのではないでしょうか。
「学校は豊かに生きていくための「知識」を得、「健全な肉体」を生涯にわたって維持するための手段を学ぶ場」、というのが私の案です。
うーん、でもこれだと結構いろんなことを勉強しないといけない気がしますが、別の人は「これだけならこれとこれの教科さえあればいいのでは」、という方もいるでしょう。
程度の問題とは、こういうことですね。
議論の余地ばかりあり、個人の感覚で議論すると平行線になる。
だからできるだけ個人の感覚ではない「研究などで調べた結果」を基にして決めていってほしいと思います。

あとは、程度の問題であるがゆえに、ある程度線を引いてあげないと、先生方の働き方改革も、モンスターペアレントの問題も、何も解決しないのではないかと思います。
教育に関心があって教員になっている先生が多いでしょうから、線を引かないと、どこまでも対応してしまい、全体としての教育の質が下がってしまうことも懸念されます。
(しかも、真面目な先生のほうが疲弊する可能性が高い)
とはいえ、教員だって玉石混交ということも前提にしておかなくてはまともな制度は作れません。
(教員の能力に100%左右される教育制度にも問題があると思います)

最後に、私個人の考えとしては、公教育は、あくまでも下の子を引き上げることに注力してほしいと考えます。
そうでないと、格差の再生産が起こって、近い将来、凄惨な社会を形作ることになりそうな気がしてしまうのです。
(まぁお金に物言わせて私立に入れちゃう家もあるでしょうけど)
「それではできる子は消化不良してしまうのでは」、という指摘もあるでしょう。
でも、できる子は、できない子を引っ張るように頑張ってもらうというのも、大切なことではないでしょうか。
そこを評価してあげられるようにしてはどうかなと思います。
(むしろそれが教育では?)
ただ、「じゃぁどうやってそれを評価するの?」と言われると、グーの音も出ないのですが…。

 

旧約聖書物語(犬養道子、新潮社)



旧約聖書物語』(犬養道子、新潮社)を読みました。
いやー面白かった。
旧約聖書ってこういう話だったのね、という感じ。
これは教養の書です。読んでよかった。
これを読んでおけば、欧米の人の名前の由来などもわかるし、キリスト教のベースもわかる。イスラム教のベースもわかる。
実際、著者も新約聖書とのつながりはかなり意識して書いたということでした。
次に読もうと思っている『新約聖書物語』も非常に楽しみです。
古事記物語(鈴木三重吉)』のユダヤ教版というと雑かもしれませんが、そんな感じです。
この本は阿刀田高の『旧約聖書を知っていますか (新潮文庫)』を読んだ際に参考文献として紹介されていたので購入したもの。
余りの分量に一度匙を投げたのですが、先日コーランを読み始めるにあたって再度本棚から出してきたのです。
(捨てなくて良かった)

阿刀田高の『旧約聖書を知っていますか』では「アイヤーヨ」(アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨゼフの頭文字)という言葉を覚えさせられて、それは本書を読むのにも役に立ちましたが、その大筋以外の各預言者の紹介だとか、名もなき家族の信仰の様子なども物語テイストで描いているところも本書の面白い特徴の一つです。
いやはや、非常に血の通った話ばかりではないですか。
3千年も前の話なのに、倫理的に「これは絶対おかしい」という点はあまり多くない。
むしろ周辺国のやり方の方が野蛮というか、蛮族というか、野性味の強い印象を受けます。
結局人間というのはそんなに変わらない、ということなのかもしれません。

ユダヤ教は砂漠や岩石に囲まれた不毛地帯だからこそ生まれた宗教だといいます。
そうですね、だからこそ「試練を与えるのも神」という視点がないと、生きていけない側面もあるのでしょう。
神も割りと理不尽だけど、それも含めて主の思し召しと思えるかどうか、というのが信仰だということでなのでしょう。
でも、それって結構厳しいですよね。
どこまでも果てしない、自分との戦いですから。
だから厳格な信奉者は人格的にも優れているという評価を得ることが多いのかもしれません。
立派な人というのは自分(欲望)を理性でコントロールすることができるということなのでしょう。
そういう意味では、どの宗派でも、尊敬を受ける人間というのは自分を律せる人、ということになるのかもしれません。

話は少しそれますが、内田先生が旧約聖書に関連することをブログに書いていたのでここでも紹介したいと思います。
http://blog.tatsuru.com/2009/06/18_1134.html
曰く、
ミスは「これが原因」と名指しできるような、わかりやすい単一の原因では起こらない。
「誰が有責者かを特定できない」からミスが起きるのである。
それは「私の仕事」と「あなたの仕事」のどちらにも属さない領域で起こる。
「オフィスの床に落ちているゴミ」を拾うのは「私の仕事」ではない。
私のジョブ・デスクリプションには「床のゴミを拾うこと」という条項はないからである。
だから、「私は『そんなこと』のために給料をもらっているわけではない」という言葉がつい口を衝いて出る。
そのような人たちばかりのオフィスはすぐに「ゴミだらけ」になる。
同じように、ミスは「誰もそれを自分の仕事だと思っていない仕事」において選択的に発生する。
「ジョブ」について書かれた印象深いテクストがある。
カインがアベルを殺した後、主はカインに訊ねた。
「あなたの弟アベルはどこにいるのか。」
カインは答えた。
「知りません。私は自分の弟の番人なのでしょうか。」(『創世記』4:9)
「私は自分の弟の番人なのでしょうか」とカインは言った。
「『私の仕事』がどこからどこまでなのか、それをはっきりさせて欲しい」というカインの要求を主は罰された。
「私の仕事」はその境界線を「ここまで」と限定してはならない。
それは信仰上の戒律であるというよりは、集団で仕事をするときの基本的な心構えのように私には思われる。

(私の仕事2009-06-18 jeudi)
我が行いを省みざるを得なくなるお言葉です。
とはいえ、なんとなく、欧米というのは仕事の範囲を決めて(ジョブディスクリプションを取り交わし)、それ以上のことはしない、というスタンスが一般的という印象を持っていましたが、旧約聖書のスタンスがこういう感じだとすると、案外そうでもないものなのでしょうか。
それとも新約聖書だとこの辺の概念はあまりないのかな。
砂漠での集団生活をしているわけでもないから、関係ないのかもしませんね。
となると、イスラム圏の方がこの思想を残しているのかもしれない…のだろうか。
現状、あんまりそういうイメージは持っていないけれど、調べてみたら面白そうな気がしてきます。
(あるいは、宗教は関係ないのかもしれませんが)

   

夢酔独言(勝小吉、講談社現代文庫)


夢酔独言』(勝小吉、講談社現代文庫)を読みました。

兆民先生』に引き続き、『困難な成熟』(内田樹、夜間飛行)で紹介されていた一冊です。

いやはや、とんでもねぇ野郎ですよ勝小吉(夢酔)さん。
クレイジーすぎるだろ。

正直いえば、言葉遣いなどが現代とは少々ちがっていて、何を言っているのかわからない箇所もいくらかありましたが、ぶっ飛び加減は嫌でも伝わってきます。
いやだって、この人どう考えても、カタギではないよね。
間違いなく、その筋の人ですよね?
大物、なんだろう…か?
いや、まぁ大物なんだろうなぁ…。
7歳で喧嘩に負けて切腹しようとする子どもはあんまりいない(否、聞いたことない)ものね。
(14歳で8ヶ月乞食しながら旅をする子どももそういないでしょうし、その上もう一回逃げるように旅に出て座敷牢に入れられる青年もあまりいないでしょう)
そしてその精神を40才近くまで持ち続けるんだからなかなかいるわけない。
(いや、江戸時代にはそこそこいたのか?)
それでいて、「俺を真似しないようにくれぐれも気をつけろ」だからやっぱりとんでもない人ですよ。
奥さん、大変だったでしょうね…。

ーーー

本文を読み終えて、年表を見てみると、初見なら絶対に「え?」となりそうな出来事も、あぁこういうことだったのか、と穏やかに読めてしまうから不思議です。
いや、その年表に記載されている内容も、とんでもなことばっかりなんですけどね。

本文はなかなか読むのがしんどい感じの流れとなっていて、そのたどたどしさがまた無骨というか無頼というか、読者に媚びない感じを出してる気がしました。
だから悪いやつなのに、時々、ちょっといいやつ?なんて思ったりしてしまうこともある。
(まぁ実際いいことしているときもあります。映画版のジャイアンみたいなかんじですかね。親分って感じです)
それから、読んでいるとなんとなく江戸時代に来ちゃったような感じがします。
内田先生が『困難な成熟』でいう、グルーヴ感というのは、上のように読んでると「意識が時間・空間を超えちゃう」ということを指しているのかななんてことを思いました。

江戸っ子というにはあまりにアウトローすぎて江戸の人に失礼なんでしょうけれど、江戸っ子っぽい(と私が思っている)両津勘吉をもっと悪い方に持っていくとこういう感じになるのかな。

ーーー

解説を読むと、こんな父親を持ったことで、息子勝海舟も小さい頃は癇癪持ちとして知られていたとの記載がありました。
勝海舟については、せっかく『氷川清話』でいいイメージができていたのに、また残念な感じになってしまった。
(とは言え、いろんな見方があるでしょうから、しょうもない人と断定することも控えましょう。)

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個人的に心に残ったのは、ある老人の言葉。
「世の中は恩を怨で返すが世間人のならいだが、おまへは是から怨を恩で返して見ろ」
素晴らしすぎて歯がゆいくらいですが、夢酔はこの言を受けて「なるほど」とその通りにして色々なことがうまく回るようになったそうです。
「んなあほな!」と思いながらも、なんとなく微笑ましく読めてしまうのが、夢酔さんの魅力の一つなのかなぁと思いました。
キャラですね。

会社を変える分析の力 (河本薫、講談社現代新書)


会社を変える分析の力 (講談社現代新書)

『会社を変える分析の力』を読みました。
時々業務で分析を行う私には、大変面白かったです。

ポイントは、技術よりも感性という点です。
やっぱりクリエイティブでないとだめということですね。
小手先の技術だけなら、だれでもできる。誰でもできないことをやっていかないと、プロフェッショナルにはなれないし、会社を変える分析にもならない、ということをずーっと書いていた。
反論の余地はありません。
そして、指摘はいちいちためになります。
今後私も大学関係者として色々な分析を担当することになるかもしれないので、そうなったら座右の書になるでしょう。
「その分析がうまくできるとどうなるのか?」これを問い続けて業務に当たらなくてはなぁと思いました。
とはいっても、意思決定を行う人にも影響されるのが痛いところ。
プロフェッショナルは、そこもクリアしてこそなのでしょうけど、それはなかなかヘビーな仕事です。

さて、本書は、分析を中心として書かれていますが、本書の指摘は、何も分析だけに限定したことではないと思います。
本書の「分析」という言葉を「仕事」という言葉に置き換えても何ら齟齬は生じないと思われます。
例えば、
・成果を見据える
・トライアルアンドエラー
・オリジナリティ
・コミュニケーション力
・シンプルイズベター
などなど、いずれも分析だけでなく、あらゆる仕事に必要なことのように思います。
そう考えると本書はいたって平凡な内容という評価もできるかもしれませんが、読んでみると著者のこれまでの経験をもとにそれらが再構築された上で話が展開されるため、非常に腑に落ちやすい印象を持てます。
そこら辺のビジネス書とは違い、挫折と苦労の形跡が見えるのもいい。
多分この方、文章がうまいんだね。
そして、おおよそ文章がうまくないと、分析結果を相手に飲み込ませることなどできないのでしょう。
著者もとにかく文章を書けと指南しているように、相手にもわかる文章を書くということを常日頃やっていることが、仕事にも役立つし、役立つからまた書くし、といういいサイクルを生み出しているのでしょう。
また、いいこと言っているなぁと思ったのは、書くことで自分の考えが整理されていく、また、理論の綻びも見つけられるという指摘です。
たしかにね。
考えを書くというよりは、書いたことが自分の考えになる、というのに近いのかもしれません。

世の中全体がIT・データサイエンスという方向に向かいつつある今だからこそ、分析にあたっての心得を整理した本書は、ぜひ多くのひとに読まれるべき一冊だと思います。



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データサイエンス入門 (データサイエンス大系)は、なかなか読みやすかったです。
本当に基本のき、という感じ。
会社を変える分析の力も、本書の中で紹介されて読んだものです。
実務的な話に興味がある方は、下の本もおすすめです。

ただし、少し進めてみるとわかりますが、「どう分析するか」よりも「何を分析すれば、何がわかりそうか」という問いを立てることのほうが重要です。
ツールはどんどん進化していますから、統計の知識なんてなくても解析ができる時代になっています。
だから、問いを立てる力(課題発見能力)が必要なのですが、それはやっぱりいろいろなアンテナをはって(コミュニケーション能力、クリエぃティビティを発揮して)、日々の業務に取り組むということが大事なのかなぁと思います。

兆民先生(幸徳秋水、岩波文庫)

以前読んだ『困難な成熟』(内田樹、夜間飛行)で紹介されていた一冊である『兆民先生』(幸徳秋水、岩波文庫)を読みました。
すごく丁寧な書簡を書く人だなぁというのが私の持った兆民先生の印象です。
通読すると、いかに秋水が師を敬っていたのかよく分かるし、兆民は兆民で一人の人物として秋水を見ていたことも分かります。
師弟関係の素敵なモデルと言えるでしょう。
おそらく内田先生もこの師弟モデルを伝えたかったのだと思います。

それにしても兆民先生はすごい人です。
自分の哲学をどうにか世の中において実践し、社会を変えようと努力した行動派の哲学者です。
世界15大哲学』(大井正、寺沢恒信、PHP新書)においては、唯一の日本人の哲学者として、それも「実践する哲学者」「真の哲学者」として紹介されています。
氏の哲学としては、唯物論がメインで、精神は肉体に宿るのだから、肉体が朽ちれば精神もなくなると考えていたそう。
霊も神も信じない、という立場。でも、物質は永遠不変、ということでした。

「釈迦耶蘇の精魂は滅してすでに久しきも、路上の馬糞は世界とともに悠久である」

皮肉が効いてますね。

ーー

兆民は、勝海舟を人物だと認めています。
実は内田先生が『困難な成熟』の中で進めている別の本に『氷川清話』(勝海舟、講談社学術文庫)という勝海舟の談話集が入っており、現在それも並行して読んでいたので感慨深い気持ちになりました。
色々つながって面白い。
勝海舟という人物は、以前読んだ『武揚伝』(佐々木譲、中央公論社文庫)などの榎本武揚関連の書籍では口達者の成り上がりみたいな扱いをされていたので、私の中でイメージが大分変わりました。
いやはや、『氷川清話』を読んでいると、明治の重要人物たる豪傑さです。
また別の機会に書きますが、それにしてもなんで生き延びたんだろうねこのひと(勝海舟)?って感じです。

で、実はもう一冊『夢酔独言』(勝小吉、講談社学術文庫)という本がありまして、これも『困難な成熟』で紹介されている本なのですが、これを読むと勝海舟の豪傑さの由来がわかる気がしてきます。
勝小吉は、勝海舟の父親で、その父親の気質が少なからず受け継がれたと言っていいでしょう。
(遺伝学的にはなんとも言えないけど、そう考えたくなる無骨さが『夢酔独言』にはあります)

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世界15大哲学』によると、兆民は、(革命家のような)実践的な性質と(理学研究者のような)観照的な性質を兼ね備えており、その2つを媒介するニヒリスティックな性質も持っていたそうです。
世界15大哲学』ではそのことを
「われらは、これ、虚無海上一虚舟」
という言葉に見ます。
かれの哲学観にわれわれがみいださざるをえなかったあの観照的な一面の素性もしれるであろう。また、それがそのままではただちに変革的実践にむすびつくことのできぬものであり、むすびつくためにはニヒリスチックなものないし観念的なものを媒介とせねばならなかったということも。
そして、このニヒリスティックないし観念的なもの、弟子の幸徳秋水に顕著に引き継がれたという。
となると、じゃぁその幸徳秋水ってどんなひとだったの?といえば、大逆事件で死刑にあっているようです。
ウィキペディアをみると、かなり肝の座った記者だった様子。
Kindleの無料本がいくつかあったので、近々読んでみたいと思いました。

死刑の前』を少しだけ読みましたが、すごい観照的だなぁという印象。
自分の死刑の直前なのにこんなこと書いとる場合なのか…?。

「赤星孝と赤星信子展」と「第29回福岡県中学校美術展」@福岡県立美術館

福岡県立美術館に行ってきました。
https://fukuoka-kenbi.jp/
(〒810-0001 福岡市中央区天神5丁目2-1 TEL 092-715-3551)

今は、「赤星孝と赤星信子展」が開催されておりました。
夫婦で絵描きという赤星夫妻は、生前共催で展覧会を開くことがなかったのを、同館が企画し夫婦のコラボレーションを図った展覧会です。
いいなぁと思ったのは、

・「自画像」赤星孝
全体的に影が多く、すごく渋い感じが良いです。怪しい雰囲気。だけど力強い。葉巻とバーボンが似合いそう。ダンディー。

・「シシ」赤星孝
画面いっぱいに2頭の獅子。四角で作られたその獅子は、無機質なのに、コミカルな感じ。止まっているような、でも動いているような、不思議な感覚です。直線と直角が多いので、口などに使われている曲線が目立つ。そのチグハグさが独特な愛らしさを醸し出しているのかもしれない。

の2つです。

両氏とも、抽象画が多く展示されていて、一体何を表したいのか、観る者に委ねているような作品が多い印象でした。
だから、よくわからない。
でも、それもいいものです。
その「よくわからない作品」は、作者にとっては完成品としての作品なのだから、私たちはその作品を見て「何を表したかったのか」を問えばいい。
答えはもちろんないのですが、「ひょっとして?」なんて考えるのも面白いし、「やっぱようわからん」でも別に何も減りません。
特に赤星信子氏の作品は、キャンバス一面を赤く塗って、その赤の塗りの厚さで「何か」を表現していたように見受けられました。
一体何を?
結局それはわかりませんが、このもやもやがなんとなく楽しい。
まぁこういう楽しみ方が楽しいから私は美術館に行くかもしれません。

ちなみに、こういう楽しみ方は本でもできます。
例えば、佐藤亜紀さんの著作を読んでみてください。
多分少しだけ私の言いたいことがわかっていただけると思います。

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同館では同時開催で「第29回福岡県中学校美術展」も行われていました。
もちろんこれも見ていくつもりでした。
ただ正直こちらはあまり期待せずに同館に来たのですが、その期待はいい方向に裏切られました。
めちゃめちゃおもしろい。中学生レベル高い!
特に目を引いたのはガラスアートやスクラッチアート。動物の毛やサメの肌をものすごく繊細に再現していて、惚れ惚れしました。
こういう作品があった事自体、初めて知り、大変勉強になりました。

また、有名な絵画(例えばゴッホの「ひまわり」など)の贋作というか、模写のようなものも多数あったのですが、「なるほどそういう解釈もあるのか!」というような色使いやデフォルメ、加工などがされており、これまた刺激的でした。
別の歌手が歌った好きなアーティストのカヴァー曲がなかなかいい!でもそれ聴くと原作も聴き返したくなっちゃう!みたいな感じでしょうか。原作の違う側面が強調されるような、そんな不思議な感覚を覚えました。
(宮崎あおいの歌うソラニンみたいな感じです。)
他にも、細かいのですが、立体構図を描いた作品に付した作者自身のコメントなんかも非常に味があり、中学生ってこんなこと考えてるんだなと、年寄りみたいにしみじみ感じ入ってしまいます。
いいよ、すごくいい。すごく楽しい。

全体として、技術が高いわけではありません。
そして、展示されている作品すべてが素晴らしいと感じたわけでもありません。
殆どの作品は、別に誰かに何かを感じさせることもなく、この展示を終えるのでしょう。
しかし、これらの作品を作っている時間というのは、本人にとって、非常に豊かな時間になっているんじゃないかな、とそんなことを思わされました。
「なんのため」「何に役立つ」そういうことを無視した純粋な表現の楽しみのようなものを感じます。
展示の質、量、共に、無料で見ちゃ申し訳ないレベルといっていいと思いました。
なかなかどうして、中学生も侮れません。

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佐藤亜紀さんはどの小説を読んでも「意味わからんのに面白い」「全然話についていけないのに読み進めるのをやめられない」という体験をさせてくれる、私にとって最高の作家さんです。
その中でも『天使』は割りとわかりやすい方な気がしますので、皮切りにぜひ。

おこづかいの内訳と減らすとしたらどうするか(おこづかいの内訳ver.20200205)

前回の記事ではおこづかいとして、月にだいたい15,000円ほどを使っていると書きました。
あまり興味のある人がいるとも思えませんが、だいたい何にどれくらい使っているかを以下に記載いたします。

 1.交通費 3,000円
 2.娯楽費 3,000円
 3.通信費 2,000円
 4.本 1,000円
 5.飲み会 5,000円
 6.その他 +α
 計 14,000円+α

以上です。

 ちなみに、仕事は週5日のフルタイムで、だいたい朝7時半に出勤し、夜の7時半ころ帰ってくるスタイル。
午後5時に業務終了して、7時までは残業か、残業がなければ読書したり筋トレしたりランニングしたりしています。
 昼食は普段は弁当(卵かけご飯)を食べています。
 また、この中には子どもと遊びに行くお金も含まれています(例えば動物園や美術館など)。
 ということで、私のおこづかいを絞ることで子どもの娯楽まで制限がかかってしまうということなのです。なんという心無い親!
 あと、酒は去年訳あってやめました(時々飲んじゃってますが)

 ここからは各論です。
 減らせる余地がないか、検証していきます。

1.交通費について
 交通費を削るのはかんたんですね。
 どこでも自転車で行けばいいのです。
 ただ、そうなると、夏と冬の真っ盛りはかなり移動が制限されます。
 子どもの体調不良が心配ですからね。
 現状では、だいたい週末に500円〜1,000円ほどかかりますので、出かけるのを減らすことでも削れます。
 しかし、近場でばっかり遊ぶというのも、味気ない感じ。
 最低でも週500円は確保したい。
 そうなると、やはり2,000円の消費はしょうがない気がしてきます。

2.娯楽費について
 娯楽費はやりようですが、やはりコンテンツの質とバラエティーを尊重するのであれば、ある程度高くなってしまうのは仕方ない気がします。
 やはり個人的な趣味としても、有名な絵画が展示されている特別展は2,000円払っても観たい。
 となると、高いのは月に一度に限定するなどの工夫が必要かもしれませんね。
 あとは、年間パスポートを購入するというのも手です。
 例えば上野動物園は2,400円で年間パスポートを購入できますが、これは年5回以上行くともとがとれます。
 個人的には、国立科学博物館の常設展示の年パスは今度買おうと思っています。
 とはいえ、これらにはどうしても交通費がかかりますので、その点も考慮しながら購入を検討する必要がありそう。
 落とし所としては、月に、2,000円クラスを1回、500円以下のクラスを2回、位がいいところでしょうか。
 となると、月に3,000円くらいですね。
 やっぱりこのくらいはかかる。

 だんだん面倒になってきました。

3.通信費について
 現状はワイモバイルのガラケー(電話のみ月1,600円)とポケットワイファイにOCNモバイルのsim(妻のに相乗り月400円で常に速度制限)の2つの回線で運用しています。
 一番安いのは、スマホでIP電話を使用することなのでしょうけれど、仕事の関係で電話回線は持っておきたいところ。
 あとできればスマホを持ち歩きたくない。
 今のガラケーは今年の8月で契約が更新できるので、そのタイミングでLINEsim(月1,200円)を導入し、−400円を狙います。
 突き詰めれば、ocnモバイルも合わせてやめて−800円を狙えるのですが、そうすると休みの日の仕事が全くできなくなってしまうというリスクを抱えます。
 正直、ここが一番の悩みどころ。
 たかが400円、されど400円。
 まぁ、リスクは極力取り除きたいので、月1,600円で行きましょう。

4.本について
 本は、買うのにムラがあります。
 どんどん買って読みたい時期もあれば、そんなことどうでも良くなってしまう時期もあります。
 ちなみに、今は、全然本を読みたくならない時期です。
 何か勉強を始めると、現状の月1,000円では全然足りない。
 ただし、そうでなければ、ほとんど買うこともない。
 実際読みたい本は、殆どが古典なので、kindleで読めばかなり安く読めますし、最近の図書館はネットで取り置きなどもできますので、買う必要がない。
 とはいえ、文化資本としての本も家の中に必要でしょうから、月にブックオフで1冊100円の本をかうというのでどうでしょうかね。
 正直それで文化資本としての役割をはたすかどうかわかりませんが、まぁ、ありなんじゃないでしょうか?
 ということで、月100円。

5.飲み会について
 ここが一番削りやすく、そして削りづらいところでしょう。
 削るのはかんたんです、行かなきゃいいんです。
 しかし、行かないことで、不都合のある孤独を生むリスクがある。
 となると、たまにはいったほうがいいのでしょう。
 しかし、現状の月1での計上は高すぎるとも言える。
 ということで、少数精鋭(?)を掲げて、2ヶ月に1回というペースでいかがでしょう。
 そうすれば、だいたい月に2,500円位で行けるのではないでしょうか。

 その他については、まぁおおめにみましょう。
 あんまり締め付けすぎるとろくなこともありませんからね。
 ということで、今後のおおまかなおこづかいの内訳は以下の通りとなります。

 1.交通費 2,000円
 2.娯楽費 3,000円
 3.通信費 1,600円
 4.本 100円
 5.飲み会 2,500円
 6.その他 +α
 計 9,200円+α

果たしてこれで運用できるんだろうか…。
どう考えても絵に書いたも(ry

お金を使わないことを目指すのがいいことなのかどうなのか

私は大学の関係者ですが、今大学の置かれている状況はなかなかに厳しい。
少子化がどんどん進む中、定員の削減は定期昇給があって、雇用の整理ができない日本ではなかなか難しい(どんどん頭でっかちになっちゃうから)
また、一度作った組織を壊すのは、そうそうできることではない。
失敗した事業(例えばあまり人の集まらない立地に校舎を建ててしまった、など)もかんたんには是正できない。
また、事業から撤退したとしても、マイナスのイメージが着くから、大本の授業料納付金が集まらない(定員が確保できない)というリスクが伴い、判断を更に先送りにし、事態が悪くなっていく(大体理事も高齢なので、自分のいるときには撤退をしたがらない)。
こう書くと、高等教育というのは、なかなか経営が難しい業種なのかもしれない。
というか、いろいろな意味で、起死回生ができない業種といえるのかもしれません。

まだまだ私の職場は普通に給料をもらって、普通に少しくらいの残業をすれば回るくらいの状況ですが、定員割れをしている大学さんは多分新卒も雇えず、毎日馬車馬のように働いているのだと思います。
とはいえ、明日は我が身。

そんなことを思えば、とりあえず今のうちにお金をためておこうと思うのは当然のことでしょう。
これは日本経済低迷の根本的な理由の一つに加担をすることになるかもしれませんが、リスクを考えると、貯めざるを得ない。

収入は残業をすれば増えるでしょうけど、働き方改革がこうも叫ばれている時代にそんな働き方は許されることもなく、かと言って副業をするほどの時間的な余裕もない。
家事、子育ては待ってくれません。
じゃあどうするの? 支出を減らすしかないですよね。

ということで私の今のお小遣いは2万円ほどです。
といってもこの内使うのは1万5千円程度。
家計は私が管理しているため、2万円はあくまで予算としての考えで、実際には2万円をもらうというよりは、倹約をしながら生活していたらだいたい1万5千円で過ごせているという状況です。
で、これをもう少し絞ろうとすると、結構しんどい。
多分、以下のようなことをしなくてはいけなくなります。

・携帯電話のsimを最安のデータ専用にして、電話はIP電話にする
・交通費を浮かせるため、どこにでも自転車で行く(子供を連れて)
・高い料金の娯楽施設には行かない
・飲み会には行かない
・本は図書館で借りる
などなど…

まぁもうすでにこの辺のことは半分足を突っ込んで入るんですが、今よりも締め付けるとなると、多分子供の活動範囲(休日の遊び内容)にも影響を及ぼしそうで気が引ける。
自分のモチベーションとしても、収入が深刻なまでに少ないわけでないから、ついつい「別にいまのままでいいんじゃねぇの?」的な落とし所を探る自分がいる。
とは言え、一方で「ここまで削れたらやばくない?(すごくない?)」とウキウキする自分もいる。
でもそれを「一体何のために生きているんだい?」と諭そうとする自分もいる。

どうすればいいのかは、多分その時のノリで決めるのでしょうけど、多少は人付き合い(通信費、交際費)にはお金をかけないと、それはそれで老後の孤独など、別のリスクを生みそうだなぁなんてことも思うし、リスクを想定し始めたらなんだかもう全部考えるのが面倒になってきてしまう。

とりあえず65歳までの収入と積立のシュミレーションはしてみたのですが、仮に私の勤める大学が15年持つとすると、65歳まで働けたときのおよそ半分ほどのお金しかたまらない。
そしてそれは残りの人生を賄えるほどの額ではない。
(年金もあてにできないしね)
だからできれば潰れないでほしいなぁと思うけど、こればっかりはなんともわからない。
転職はあまり考えていない。というのは、今の状況はまだ悪くないから。
でも今後悪くなったとして、(例えば15年後に)転職できる仕事なんてあるのかな、と少し不安になるのは『AI時代のベーシックインカム論』を読んだから。
仕事がなくてもベーシックインカムがあればいいけど、仕事が無いけどベーシックインカムがない世の中も十分ありえるわけで。

いざとなれば、バイトで妻と2人で月10万円ずつ稼げば、まぁ不自由なく暮らせるわけだから、当面は今のシュミレーションで続けて良いのかもしれない。
でも、自分が働けなくなったら…?
その保険も必要なのかなぁ…。
と言うか、そういうときこそ人のつながりが大事な気もしてくる。
やっぱりある程度、使うべきときにはお金を使うべきなのでしょう。
でも、「使うべきとき」っていったいいつのことなのだろうか…。
そして、何に対して…?

ーーー
年金については、先日未来年表 人口減少危機論のウソ (扶桑社新書)を読んで少し安心したのですが、「しかし本当に想定する経済成長を起こせるの?」という疑問が残りました。
なかなか不安はなくなりませんね。
とはいえ、本書は将来に新しい視点を示してくれました。
一読をおすすめいたします。


辞令交付式への違和感(みんなよく参加するなぁ)

 今日は4月1日。  我社では辞令交付式が行われました。  そのため、土曜日ですが、人事課員として出勤しました。  明日も仕事なので、12連勤となります。   人事課の闇ですね。  それはさておき、辞令交付式に関して、毎年違和感を持ちます。  それは、お礼を言われる側が、何故かホ...