教育改革の幻想(刈谷剛彦、ちくま新書)




教育改革の幻想 (刈谷剛彦、ちくま新書)を読みました。
面白かった。
ドラスティックな改革は不利益を生むことが多いんだろうね。
改革なんてやめた方がいい。
現場が実践する、小さな改善の積み重ねが大事です。

本書は、2002年4月から施行された新学習指導要領に対してその政策の良し悪しを、いろいろな角度から書かれた本です。
まぁ、ほとんど批判ですね。
もうちょっと分析と議論をしっかりやってよ、というのが本書の主張だと私は理解しています。

それにしても通読してみると、お上(役人)の頓珍漢なことといったら笑えてきますね。
しかも子どもを主人公にする教育については、すでにカリフォルニアで失敗例があることというのもなおさらおかしい。
いや、笑ってる場合ではないのですが。
ロサンゼルス・タイムズ紙に紹介された、カリフォルニア大学のエンバス教授はその失敗について、こんなことを言っています。
「私たちは、学校を子どもたちにとってより有意義で、より楽しい場にするための努力をしてきた。その中で、知識を暗記するとか、つづりと発音の関係を教えるためのドリルとかは、『退屈』な活動としてカリキュラムから消されていった。しかし、たらいの水と一緒に赤ん坊も流してしまったようなものだ。学習には、必ず、むずかしいことや、楽しくはないが大事なことも含まれているのだから」(著者抄訳)
「水と一緒に赤ん坊を流しちゃう」という比喩は言いえて妙です。
考えるのにも、材料としての知識がないと考えられないというのは、いかにも当たり前のことで、反論の余地はないように思えますが、実はこの問題が程度の問題であるというところに一番の問題があるのです。
程度の問題ということは、結局個人のレベルにどこまで合わせてあげようか、という問題で、明確な答えなどない。
だから、議論が進まない。

しかも、学ぶ子どもたちにも個人差もあるので、「みんながわかる」という極端なレベルを設定してしまうと、勉強ができる子は自分でどんどん知識を仕込んでいくでしょうが、勉強が苦手な子はそれが全然できなくなるわけですね。
だってそもそも何を仕込めばいいのかもわからないし、やる気もないんだから。

そもそもの話になってしまいますが、私は、教育で個人を変えることができるというのが幻想のように思います。
また、個人の本質的な性格は変わらないという前提に立って教育をした方がいいと思います。
知識を授けるのはできても、主体性をはぐくむ(望ましい性格を持たせる)なんてことは、たぶんできない。
(ちょっと曲解しているかもしれませんが、この辺については、安藤寿康先生の本を一度読んでみていただけると少しわかっていただけると思います。おすすめは、遺伝子の不都合な真実―すべての能力は遺伝である (ちくま新書)
様々な体験を通じて、本人が変わる可能性はあっても、それは人為的にコントロールできるものではないと思います。

だから、今一度、学校の役割というものを整理するところから着手したほうがいいのではないでしょうか。
「学校は豊かに生きていくための「知識」を得、「健全な肉体」を生涯にわたって維持するための手段を学ぶ場」、というのが私の案です。
うーん、でもこれだと結構いろんなことを勉強しないといけない気がしますが、別の人は「これだけならこれとこれの教科さえあればいいのでは」、という方もいるでしょう。
程度の問題とは、こういうことですね。
議論の余地ばかりあり、個人の感覚で議論すると平行線になる。
だからできるだけ個人の感覚ではない「研究などで調べた結果」を基にして決めていってほしいと思います。

あとは、程度の問題であるがゆえに、ある程度線を引いてあげないと、先生方の働き方改革も、モンスターペアレントの問題も、何も解決しないのではないかと思います。
教育に関心があって教員になっている先生が多いでしょうから、線を引かないと、どこまでも対応してしまい、全体としての教育の質が下がってしまうことも懸念されます。
(しかも、真面目な先生のほうが疲弊する可能性が高い)
とはいえ、教員だって玉石混交ということも前提にしておかなくてはまともな制度は作れません。
(教員の能力に100%左右される教育制度にも問題があると思います)

最後に、私個人の考えとしては、公教育は、あくまでも下の子を引き上げることに注力してほしいと考えます。
そうでないと、格差の再生産が起こって、近い将来、凄惨な社会を形作ることになりそうな気がしてしまうのです。
(まぁお金に物言わせて私立に入れちゃう家もあるでしょうけど)
「それではできる子は消化不良してしまうのでは」、という指摘もあるでしょう。
でも、できる子は、できない子を引っ張るように頑張ってもらうというのも、大切なことではないでしょうか。
そこを評価してあげられるようにしてはどうかなと思います。
(むしろそれが教育では?)
ただ、「じゃぁどうやってそれを評価するの?」と言われると、グーの音も出ないのですが…。

 

0 件のコメント:

コメントを投稿

辞令交付式への違和感(みんなよく参加するなぁ)

 今日は4月1日。  我社では辞令交付式が行われました。  そのため、土曜日ですが、人事課員として出勤しました。  明日も仕事なので、12連勤となります。   人事課の闇ですね。  それはさておき、辞令交付式に関して、毎年違和感を持ちます。  それは、お礼を言われる側が、何故かホ...