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生き方を考えざるを得ない|脱資本主義宣言(鶴見済、新潮社)を読んで

 
脱資本主義宣言―グローバル経済が蝕む暮らし』(鶴見済、新潮社)を読みました。
面白かったです。
本書は世界の経済的なつながりのゆがみを見ていき、私たちが普通に生活することがどのように世界に影響を与えているかを教えてくれます。
著者の言うように、ただ単に個人が生活スタイルを変えればいいというものではなく、企業に圧力をかける、規制を強めるなどの施策もとる必要性がよく理解できます。
とはいえ、個人で何かするための道も照らしてくれる本です。

生きてるだけで誰かを搾取しているという衝撃

世界を北と南、上と下に分けてみると世の中はこんな風に繋がっているのかとゲンナリしてしまいます。

私たちが普通に暮らしているこの暮らし自体が南の世界を搾取せずには成り立たない暮らしなのです。

もちろん、輸入がゼロになれば多大な不便が出るだろうなぁとは思いつつも、こんな形で貿易をしているとはつよほども知りませんでした。

パンを食べ、コーヒーやビールを飲み、安い服を着てマックに行く自分は間違いなく南の人から搾取する側です(とはいえ北の上からは搾取されてるかも知れないけど)。

国際社会というものを南の国々も含めたものであるならば、国際社会の一員として学校で学ぶべきことってのは語学やプログラミング技術などではなく、こういう現実を知ることなんじゃないかと思えます。

(しかし、一方でこの一冊で全てを決め付けない態度も大事かも知れませんが)

何のため、誰のために経済を回すのか

本書を読むと、経済を回す必要がある社会を作ったのは、どうも経済が回ることで儲かる人たちのようです。

この視点に立つと、今回のコロナ禍で経済を回す必要性が叫ばれていたのが少し空々しく感じられます。

お偉い方たちの言う経済を回せってのは、つまり金を吐き出して召し上げさせろってことなのではないでしょうか。

あるいは「俺らの金を再配分なんてしねーかんな?」ってところでしょうか。


コーヒーを飲まなくても、農家は困らないのかもしれない

こうやって経済を回すことに否定的なことを言うと、「お前はいいけど、それで職を失う人だっているんだぞ」と批判されそうです。

でも、職を失っても生けていけるようにするのが政府の仕事でしょ?

それに、世界中の人がコーヒーを飲まなくなっても、コーヒー農家は多分別の作物を栽培するようになるのではないかな。

あんなに苦くて加工に手間のかかる作物よりも、おいしくて栄養の多い作物を作ったほうがその地域にもいいような気がします。

しかも、その方がグローバル企業から買い叩かれることもなくて幸せかも知れない。

そしてこれはコーヒーだけに限った話ではないはずです。

(あるいは他の仕事をするよりも今の仕事を続けた方が楽な理由があるのかも知れないけれど)


なにはともあれ、職を失うことを恐れさせるってのは、搾取する側の基本戦略なわけです。

札束でほっぺたを叩けば人を好きに動かせれるってのは、楽ちんに違いありません。

その札束だって、その叩いている人から吐き出される金なんですから。


ではどう生きるのか

さて、じゃあ搾取されつつも、どちらかと言えば搾取する側についている自分には何ができるのか。

例えばこんなこととか。

  •  コーヒー、缶ビールを飲まない(結構難しそう…)
  •  チェーン店は避ける(マックで時間つぶせるのはありがたいのだが…)
  •  高くても国産品を買う(服はめっちゃ高くなりそう)
  •  応援したいものを買う(これはできそう)
  •  ご飯中心の生活にする(これもできそう)

とまぁ、こんなところでしょうか?

あとは、流行には乗らない、とかかな(これはいける気がする)。

参考までに流行を作り出す企業代表であると思われる電通の「戦略十戒」をご紹介します(P43)。

  1. もっと使用させろ
  2. 捨てさせ忘れさせろ
  3. 無駄づかいさせろ
  4. 季節を忘れさせろ
  5. 贈り物をさせろ
  6. コンビナート(組み合わせ)で使わせろ
  7. きっかけを投じろ
  8. 流行遅れにさせろ
  9. 気安く買わせろ
  10. 混乱を作り出せ

これらに抵抗すれば、大量消費・大量廃棄への抵抗につながるかも知れません。


とはいえ、個人は弱いから

でも、いろんな南の惨状を知った上でも、やっぱりコーヒーを飲みたい気持ちは消えない(し、結構飲まざるを得ない状況は多い上に、つい飲んでしまう)。

だからそんなに悪いものなら、そもそも輸入されなければいいのになと思う。

目の前に快があれば、手を伸ばしたくなるのが人情というもの。

自由だけでは、世の中は良くなりそうにありません。

多数決=民主主義ではないし、民主主義ってそんなに簡単じゃない:【書評】多数決を疑う―社会選択理論とは何か―(坂井豊貴、岩波新書)




多数決を疑う―社会選択理論とは何か―(坂井豊貴、岩波新書)を読みました。
とても面白かったです。

本書のいいところは、多数決を疑うところから始まって、民主主義の歴史や自由とは何か、一般意思とは何か、民主主義とは何か、民主主義を遂行するとはどういうことか、など多岐にわたるトピックスに触れている点だと思います。
ある意味、倫理の本を読んでいるようでした。
多数決というものについて、ここまで深く考える余地があるということも驚きです。

通読してみて、自分が当たり前のように選挙に行き、民主主義国家の主権の一人として権利を行使しているものと思っていましたが、全然そんなことはないということを知りました。


多数決では民意が反映されない

著者は何度かアメリカ大統領選の例を取り上げて説明を試みる。
ブッシュVSゴアの大統領選だ。
当初ゴアが有力候補であったが、そこに第三の立候補者でゴアよりの政策を打ち出したネーダーが入ることで、ゴアの票が割れてしまい、ブッシュが漁夫の利を得たという。
このような複数の選択肢の中から1人を選ぶ多数決の場合、単純に第一志望のみを集約してくとこのような「票割れ」が起きてしまい、民意が反映されなくなってしまうことがある。
こういった票割れを起こさない集約ルールはないのかと考えたのが、ジャン=シャルル・ド・ボルダだ。
ボルダは、第一志望にだけ得票を入れるのではなく、すべての選択肢の順位を集約することで、全体の意見を集約するという「ボルダルール」を考案した。
具体的には一つの投票で1番には3点、2番には2点、3番には1点を付与し、すべての投票を加点して集計するというものだ。
先の大統領選でボルダルールを使用したとして、世論通りに投票されたとしたならば、おそらくゴア、ネーダー、ブッシュ(民主党寄り)あるいは、ブッシュ、ゴア、ネーダー(共和党寄り)という票が多く入ることとなったであろう。
しかし、結果は民主党寄りの多数派意見は反映されなかった。
同じことは小選挙区制の日本でも言える。

どの集約ルールを使うかで結果がすべて変わるわけだ。「民意」という言葉はよく使われるが、この反例を見るとそんなものが本当にあるのか疑わしく思えてくる。結局のところそんざいするのは民意というよりは集約ルールが与えた結果に他ならない。選挙で勝った政治家の中には、自分を「民意」の反映と位置付け自分の政策がすべて信任されたように振る舞う者もいる。だが選挙結果はあくまで選挙結果であり、必ずしも民意と呼ぶにふさわしい何かであるわけではない。そして選挙結果はどの集約ルールを使うかで大きく変わりうる。(P50)


64%ルール:憲法改正の要件は3分の2では弱い

憲法の改正を考えてみたときに、改正案Aというのが出たとする。
この改正案に賛成する者が過半数だったとしても、その改正が適切とは言えない。
なぜなら別の改正案Bのほうが適切だという可能性が排除できないからだ。
では、改正案Aを適切だ(改正案Bを選ぶ人よりも多い)と言わせるためには、どれくらいの賛成率が必要かというと、64%なのだそうだ。
これを64%ルールというが、日本の憲法改正には衆参両院の3分の2の賛成(66%)が必要ということで、かなり近い。
しかし、日本の選挙は小選挙区が多いため、少ない投票率で多くの議席を確保できるケースがある。
著者はこの点を鑑み、適切な改憲ができるよう国民投票で64%の賛成が必要とするように改正すべきという。
衆参両院で3分の1が反対したら改憲できないのは厳しいという意見がある中で、斬新な提言だ。

第九六条の擁護として「人間は判断を間違いうるから現行の三分の二条件を尊重せよ」とはよく言われる。また、改憲の硬性は、多数派の暴走が少数派の権利を侵害することへの歯止めだとしても重視される。
(中略)しかし、そもそも多数決は、人間が判断を間違わなくとも、暴走しなくとも、サイクルという構造的難点を抱えており、その解消には三分の二に近い64%が必要なのだ。そしてまた小選挙区で制のもとでは、半数にも満たない有権者が衆参両院に三分の二以上の議員を送り込むことさえできる。つまり第九六条はみかけより遥かに弱く、より改憲しにくくなるよう改憲すべきなのだ。具体的には、国民投票における改憲可決ラインを、現行の過半数ではなく、64%程度まで高めるのがよい。
(P135)

実は民主主義に参加できていない主権者(民衆)

最後にこうした民意の集約ルールがあるものの、現実ではそれがそもそも生かせていない例(都道328号線について)が挙げられた。
都が新しく道路を整備するという施策について、市民の意見というのはほとんど入り込む余地がないのである。
唯一できる市民投票でも、市議会等でそれを受け付けるかどうかを決めることができるそうだ。
そして、困ったことに、市の一部の人間に大きな損害がある政策だとしても、市全体での投票率が何%以上でないと開票しないというルールが条例で定められてしまうと、実際に市民投票をしたところで開票もされないままスルーされてしまうということが起こりうる。

主権に基づく統治の困難とは、立法が執行を制御できないということである。しかし「主権者である国民が国会議員を選出し、国会が立法し、行政機関はそれを執行する」という形式があるゆえ、現行制度は国民に由来する正当性を持ち「民主的」である、という理屈がまかり通る。だが行政機関による執行には、実際上のきわめて広い裁量があり、そこで独自の決定ができる。
(中略)執行が強力であることは、ときに「民主的なプロセス」の一部として安易に位置づけられてしまう。すると行政機関は当事者である住民の声を聴く必要がないばかりか、その声は「民主的プロセス」を阻害するノイズにさえ扱われてしまう。
(P149)



最後に、特別紹介しておきたい一文を引用して終えます。

ところで「政治に文句があるなら自分が選挙で立候補して勝て」といった物の言い方がある。何を根拠としているのか不明だが、それを口にする者の頭の中では、それが「ゲームのルール」なのだろう。だが、わざわざ政治家にならねば文句を言えないルールのゲームは、あまりにもプレイの費用が高いので、それは事実上「黙っていろ」というようなものだ。人々に沈黙を求める仕組みはまったくもって民主的ではない。(P150)

「民主的」というのは、対話の場が開かれており、対話の余地が残されているところにしか適用されないものなのです。




バカの壁(養老孟司、新潮新書)



バカの壁』(養老孟司、新潮新書)を読みました。

たしか高校生のときに読んで、なんでこの本がベストセラーになるのかわからないと思ったと記憶していましたが、この年で読み返すと染み渡ります。
「そうそう、本当にそうなんだよね!」というところばかり。
この我が意を得たりという感じは内田先生に通じるものがあります。

本書の趣旨は「常識を大切にしろ」「わかるということを軽んじるな」という2点に集約されると思いますが、この2点はまさに民主主義が成立するために市民に求められる要素にほかならないと思います。
この2つの要素がない人は、「頓珍漢な考えを持ち」「それこそ正しいと確信している」。
故に話にならない。
壊しようのない「壁」ができてしまうわけですね。
バカの壁というのは、ある種、一元論に起因するという面があるわけです。バカにとっては、壁の内側だけが世界で、向こう側が見えない。向こう側が存在していることすらわかっていなかったりする。(中略)今の一元論の根本には、「自分は変わらない」という根拠のない思い込みがある。(P194)

自分は100%正しい(相手が折れるべきだ=自分は意見を変えるつもりはない)と思っている人間とは、議論なんてできません。
議論とは相手を論破するためのものではなく、より良い答えを導くための"相談"に近いのですから。
ところがそこを理解せずに、自分は議論に「強い」などと豪語したりする人がいる。
普通に考えれば、おめでたくて凝り性の人だと思われるだろうけど、なんとなく今の社会はそういう人を持ち上げるきらいがある気がする。
「常識に縛られない鬼才」だとか、「毅然とした改革者」だとか。
養老先生はそういうのが「気持ち悪い」と思ったのではないかと私は思います。
(もし本当にそうだとすれば、私には養老先生の感覚が非常にわかります)

社会は共通了解の上に成り立ち、その構成員としての振る舞いが求められるということは、(格差の再生産が甚だしくなければ)当たり前でしょう。
自称人間嫌い中島義道先生さえもその前提で持論を展開している。
(非常識人のような人間嫌いが、常識を理解している事は1ミリもおかしくない。詐欺師が法律や人の心理を理解していてもおかしくないでしょう?)
「人間嫌い」のルール(中島義道、PHP新書)

問題は、どうしたら「壁を取り払うことができるのか」ということですが、著者の言うように「個人的に付き合っていくしかない」(P200)のかもしれません。
「ひょっとしたら、全く通じないかもしれないけど、付き合っていればいつか状況が変わるかもしれない」という希望を抱いて接し続けることのできる人が近くにいたとして、そのことのありがたさを感じられる様な人間を肯定するのも教育だと思わせられました。

ということで、やっぱり、先生にはいろんなタイプの人間がいたほうががいいと思います。
たまには「常識と外れた人」や「常識を外れた人」もいたほうがいい。
だけどこの辺の問題は、やっぱり程度の問題で、だからこそやっぱり難しい。

いずれにしてもいい本です。
読んでどう思うかはわからないけど、ぜひ子どもにも読んでほしい。
(そういえばこの本は実家の父の本から借りてきたのでした、父はどんな思いでこの本を読んでいたのやら?)
ということで、本棚入りです。

 

「人間嫌い」のルール(中島義道、PHP新書)



「人間嫌い」のルール』(中島義道、php新書)を読みました。
人間嫌いというとても反人情的な響きのあるテーマを扱う本ですが、私としては非常に筋の通った本だと思えました。
私には、自分の社会的な弱点を見つめるこの著者だって普通の人間のように思えます。

個人的には、著者の意見は、ほとんどすべて納得できます。
要するに、個々人違うのだから、それを認める社会たれというだけのことです。
こういう本が書かれなくてはならないことが悲しいと思うのですが、そうでもないのでしょうか。
少なくない人が、著者とおんなじ事を思っていると思います。
特に立場の低い者はそうでしょう。
職場のパワハラもこういうところに根があると私は思っています。

中江兆民も葬式は行かなかったそうだし、私としても別に葬式に行く必要はないと思います。
行きたい人は行けばいいし、行きたくない人は行かなければいい。
後日線香をあげるのもよし、家で黙想するでも良いではないですか。
なぜに悲しさを外に見えるように表さなければならないのか。
著者はただ、他人の考えは他人に任せておけと言っているだけです。
行動の動機は、その真意は、つまるところ本人しか知り得ないのだから、周りが憶測でどうのこうの言うなという事に尽きると思います。

そして、現代社会はどんどんそういう方向に向かっているというのが私の印象です。
この社会的合理化がどこまで行くかはわかりませんが、近いうちに著者の望んだ共同体が日本という国には出来上がる気がします。

この本を理解できる人には、「昔は良かった」という言葉をそのまま受け取れることはできないでしょう。
「よそはよそ」という社会こそを理想とするし、現実の社会は今、家の解体や、核家族化、非婚・晩婚、シェアハウスなどなど、明らかに社会的な縛り(つながり)を減らす方向に動いていますから。
今回の新型コロナウイルスへの対応で、人と人との物理的な距離もいくらか広がるでしょう。
今後は、不必要なつながりは避けられ、現実的な生活に必要なゆるいつながりを残す流れが肯定されていくように思います(という希望)。

今日も社会の至るところ(主には日陰が多いかもしれません)で、緩やかな共同体が生まれつつあります。
私としては、いい時代だと思うのですが、たぶん異論は多いのでしょう。

この本を読んで自分の人間嫌いを自覚する人も多いのではないかと思います。
問題はそれで救われるか、傷つくかどうかです。
救われる人は救われればいい。
傷つく人も、気にする必要はありません。
傷つくあなたは、たぶん人間嫌いではないはずです。





大学の未来地図』(五神真、ちくま新書)を読みました。
面白かったです。

大学の経営層にいる方々の本には、「大学はなっとらん」「こんなんじゃ世界と渡り合えない」「大学教員なんかに教育を任せちゃいかん」という世間の声を柔らかく受け入れて、さらりと「ほんとにそうですよね、でもうちの大学は違いますよ。ちなみに私は海外の●●大学で云々」という書き方をする本が多いように感じていますが、本書は違います。
非常に冷静に「東大」を見ているように感じます。
あるいは、「東大」というか、東大をトップとした日本の高等教育の構造の中での東大の役割を(いい意味で)冷めた目でもって整理されている印象を受けました。
「確かにいろんな考えがあることは知っています。ただ、東大はこういう考えで、こういうことをすすめているんですよ」という感じです。

面白かったのは、意外と東大も自由に使えるお金が少ないということです。
資産が多くても、収益性の大きい資産ではなく(山林などの不動産などが多い)、またほとんどの資金(大学なので予算という方が正しいですね)が用途の決まった資金(予算)であり、ゆえに大胆な投資などは構造的にできない仕組みになっているそう。
そして、そこに公的な助成の減額がのっかってくるのだから、一昔前の東大と今の東大とでは経営の難しさが桁違いなのではないだろうかと思えてきます。
現場はどこも喘いでいて、その中でリーダーシップをふるう必要があるのですから、なかなかストレスフルな仕事でしょう。


---以下、話は本から逸れます---

上記のような運営資金に窮している状況であれば、なるほど著者の書いているように、産学連携やベンチャービジネスへの投資に注力していこうというのもわかります。
どうにかしてお金を稼ごうと思うのは当然です。
しかし、この方針は、東大のような大学だからできることであって、小規模かつ文系の大学などはなかなか採用できないでしょう。
ということで、すべての大学ができる施策ではないし、著者もそんなつもりでは言っていないでしょう。

では、小さい大学が生き残るためには何をすればいいのだろか、と思えば、言い方は悪いですが、弱いもの同士で協力することが大事ではないでしょうか。
ノウハウの共有や専門職人材の共有など、できることは多いはずです。
そうした連携が進めば、管理職の共有なんてこともあるかもしれません。
そのためにも、今後多くの大学で経営がひっ迫すればするほど、法人の合併は増えていくはずです。
という風に見ていくと、いろんな方法を使うことでしばらく大学は総数を減らしつつも、生き延びていくと思われます。

しかし、だからと言って(同書でも再三話題にしている)若手の雇用の不安定さが減ることはないでしょう。
大学や入学定員が適正な数に落ち着くのと、人口の減少とがマッチすることはしばらくないでしょうし、日本の雇用形態では専任の教員を首にはできない。
(むしろポストがない今、専任教員は必至で今大学の今のポジションを守ることでしょう)
ということで、どうしてもまだポストについていない若手研究者は専任のポストにありつけないことになります。
それはつまり、大きなスケールでの研究ができない(目先の成果を上げるための研究に力を注がざるを得ない)ということを表します。
これは知識集約型の社会において、非常に大きな損害になるように思います。

じゃぁどうすればいいのか。
私個人の考えでは、公的な助成を増やしてほしいのですが、それが望めないのであれば、人件費を下げてしまう、すなわち給料を下げてしまう、というのがいちばんいい気がします。
その分、もっと研究者を雇って、指導・講義・会議・事務作業の手間を分散してあげれば、むしろ喜んで給料を下げたい先生もいるのではないでしょうか。
人件費を下げてしまえば、優秀な人材が海外に逃げてしまう?
果たして本当にそうでしょうか?
自分が安定して自分の関心のある研究を追求できる環境があるのに、わざわざ別の大変な環境に行ってお金を稼ぎたいと思う人がそれほど多いとは私には思いません。
(どこかの大学で、アンケートでも取ってないものかと思います)

もちろん生活に苦しむほどの安易な給与カットを推奨するつもりは毛ほどもないのですが、給与はそこそこでいいから、教育・研究に使える予算を増やしてほしいという研究者が多いのではないでしょうか。
少なくとも、そういう仕組みでもない限り、ポストは増えないのではないでしょうか。
ポストが増えなければ、若手研究者はそもそも志望する人が減っていくでしょう。
高度な知識を持つ人材を有機的につないで社会的な価値を生み出していく、行かねばならない「知識集約型の社会」というものが到来するのであれば、みんなで少しずつ詰めて席を確保していくしかないのではないかなと思うのですが、いかがでしょうか。
(税金をもっと大胆に教育に投入してくれるなら、もうちょっと違う道もあるのかもしれませんが…)

---

決めつけたように書きましたが、多分道はほかにもあるのでしょう。
すぐに答えのでるものでもないかと思いますので、今後時間をかけて、もう少し落ちついて考えてみたいと思います。

国際感覚ってなんだろう(渡部淳、岩波ジュニア新書)



国際感覚ってなんだろう(渡部淳、岩波ジュニア新書)』を読みました。
耳が痛いなぁと思いながら、楽しく読めました。

全体を通じて、「喋れれば国際感覚を持った人間になれるというものではない」ということを強調しています。
(そうですよね)
大切なことは「異文化を否定しない」「理解できない他者に手を差し伸べる」「自分にできることをやる、発信する、行動する」というようなことに集約されるのではないか、ということでした。
(本当にその通りだなぁ)
特に新型コロナウイルスの感染が拡大している今の世の中において、世界が一丸となってことにあたることの重要性はさらに増しているのではないかと思います。
合意形成の進行形式(集団討論など)を考えると、喋れることが国際化にならないとは言いつつも、喋れるということは合意を形成するうえでとても大切なようです。
ディベートの箇所を読むと、そうした直接的、瞬間的なコミュニケーションのやり取りの重要性が強調されていました。
特に大人数で、一定の時間の中で合意を形成する場合、事前の準備とその場での対応力が求めらるということですから、まだまだgoogle翻訳では難しい領域かもしれません(そのうち解決しそうですが)。
とはいえ、やはり「自分の意見」をもって、それを発信し、「他者の意見」を受け入れ、それに返事をする、こういうことが一般的な世界になるのです(そうでない日本が特殊なのかもしれませんが)。
そうなると、確かに海外で(あるいは「の」)教育を受けている人の方が、なじみやすいかもしれません。
ここで変な方向に舵を切ってしまいますが、このことはつまり、外国語の学習が「日本の教育から逃れるための船」のような役割を果たすことにならないかと不安になります。
「日本では世界とやりとりする教育は受けられない。だから話せる英語を身に着けて、海外でコミュニケーション力を持った人材が育ってほしい」という願いのもとに外国語教育がなされてしまっていないかと疑いの気持ちが芽生えてしまいます。
もちろん、グローバルスタンダードが正解とは思いません。
国ごと、個人ごとに理想をもって勉強なり生活に励めばいいと思います。

とはいいつつも、一定数海外で学ぶ人がいることは、国内の教育制度改善の刺激にもなるかもしれませんので、絶対ダメという事も言えないですね。
ということで国内で生きていたって「自分の理解できない事象に対する寛容さ」が求められるわけです。
ということでこの本の示した「国際感覚」とは、「常識」「成熟」という言葉に置き換えてもいいものなのかもしれません。


TN君の伝記(なだいなだ、福音館書店)



TN君の伝記(なだいなだ、福音館書店)』を読みました。
面白かった。大変面白かった。
すごく勇気の湧く本です。
本と社会に学び、はったりで己を鼓舞し、自らの正義を持ち続けるTN君の爽やかさと苦しさが、「お前も動け」と焚き付けてくるような心地がします。

これまで読んできた「三酔人経綸問答」や「一年有半」がどういう歴史の中で書かれてきたのかがよくわかりました。
なるほど洋学先生の言う自由はまだ遠い。
自由に向けて進んでは戻り、進んでは戻り…。
日本人は自由のないところに戻ろうとする国民性があるのかもしれません。
三酔人経綸問答(中江兆民、光文社古典新訳文庫)
一年有半・続一年有半(中江兆民、岩波文庫)

現代はどんなもんだろうかと考えてみると、確かに明治よりは自由だと思うが、精神的に自由になれているかと言えばそうではなさそうです。
そうでないから「スクールカースト」のようなものができるのでしょう。
やはり、まだまだ自由は遠いように思えます。
教室内(スクール)カースト(鈴木翔、光文社新書)

しかし、私たち日本人は本当に自由など求めているのだろうか。
かつての自由党の仲間たちが変わっていってしまったように、現代だってそんなに強く自由を求める雰囲気があるとはなかなか思えません。
それはあるいは私がそういう地位に甘んじているからなのかもしれませんね。
そう考えると、今の世の中に対して、自分が目を閉じてしまっているような気持ちになります。
何からやればいいのかはわかりませんが、動きたくなる、そういう本です。

ーーー

ところで、本書では幸徳秋水のことも多く書かれていて楽しめました。
内村鑑三が政府に反抗的な姿勢を示していたから帝国主義の序に書かせていたということもわかりました。
でも、二人がその後どうなったかは書かれていない。
内村は戦争を養護するような発言をしたとだけ書いていたから、あるいは二人は決別したのでしょうか。
何故だかわかりませんが、二人のことがずっと気になる…。
帝国主義(幸徳秋水、岩波文庫)

ーーー

本書を読めば、明治の政治がどんな人に運営されていたかがわかります。
そこが伝記の面白いところですね。
歴史に息を吹き込んでくれる気がします。
それのお陰で、現代とはそんなに変わらない当時の人々の姿が見えてきて親しみもわきます。

本書を読んでからならば、いくらか「一年有半」の政権批判も飲み込みやすくなりそうです。

  

正義の教室(飲茶、ダイヤモンド社)



正義の教室』(飲茶、ダイヤモンド社)を読みました。
めちゃくちゃ面白かった。

正功利主義、自由主義、直観主義に対応する3名の女の子とそれらの思想に違和感を覚える主人公が倫理の先生の授業を受けながら、正義とは何かを究明していく物語。
主人公の理解と並行して、私たち初学者でも学べるように多大なる配慮がされていました。
また、3つの主義それぞれの特徴と、問題点を学びながら、ざっくりとした西洋哲学史も学べて、哲学の大きな流れが理解できます(枠の中か外かで2500年、構造主義とポスト構造主義→社会が人を形作る)。
今読んでいる『史上最強の哲学入門』(飲茶、河出文庫)とも重なる部分があるけど、どっちも読んでいるとなお面白い。

最後に主人公が採用した「特定の正義を決めないことが正義」というのは、レヴィナスの「他者」と近い発想のような気がします。
真理それ自体に価値があるのではなく(そもそも我々は真理なんていうものには到達できない。誰かが到達した真理を否定する他者の存在を否定できないから)、真理を追い求めるということが大事なのでしょう。
そして、これは他者を尊重しながら、少なくとも公共の福祉を侵さないようにして真理を追い求めていく必要があります。
しかしどうやって?

その答えとして、主人公は、衆人監視下かそうでないかに関わらず善(自分が良いと思うこと)を行うことを正義とします。
しかし、それで被る損害が大きいことは往々にしてありえそうです。
だとすると、やはり他者の視線は強いと言わざるを得ません。
そして、それは要するに我々は社会に形作られているということを否定することができないということを突きつけてくるように思える。

このまま監視社会の強化が続けば、1984年のような世界が来るのだろうか。
それはいやだなぁ。
あるいはマイノリティ・リポートのような社会か。
ただ、個人間のつまらない小競り合いはなくなりそうだから、優しい社会になるようにも思えます。
この辺の感じ方については、どう生きたいか、それによって、答えは個々人で異なるのでしょう。
そして、同一の人物であっても、年を取れば、立場が変れば、優しい社会も退屈な社会となるかもしれません。
かくして正義とはあいまいで、うつろいやすく、だからこそ問い続けなくては私たちはただの元素の塊となってしまうのです。
ただし、ただの元素の塊ではいけない、ということもないというのが味噌です。
あくまで「自分はどう生きたいのか」。
これが各個人に託されているということですね。

結論、「良きに計らえ」

 

三酔人経綸問答(中江兆民、光文社古典新訳文庫)



三酔人経綸問答 (中江兆民、光文社古典新訳文庫)を読了。
面白かった。
一年有半と異なり、原文でもちゃんと意味がわかりました。
一年有半・続一年有半(中江兆民、岩波文庫)
原文と訳文の両方が掲載されており、どちらも味わうことができる素晴らしい構成です。
校注はほとんどないけれど、行ったり来たりすれば大体の意味はつかめます。
どちらも独特のリズムがあって、面白い。

さて、本書は問題提起の本だと思います。
当時の日本における課題とそれを取り巻く活動や世論をわかりやすく分類し、整理して、一冊の中で戦わせてしまったのだと私は理解しました。
帝国主義を読んだ後なので、どうしても幸徳秋水と洋学紳士が重なってしまいますが、その真意や如何に。
帝国主義(幸徳秋水、岩波文庫)
ひょっとしたら、これは世の中に向けてということもあるけれども、弟子たちに向けたテキストのようなものとして書かれた、という側面もあったのではないかと考えてしまいます。
対象はどうであれ、兆民自身も少なくとも多くの人間に思想という種をまくということを重視していることは確かであろうから、100%外れているということもないでしょう。
そして、多くの人の頭に残すためにあえて劇作のように拵えたのかもしれません。
確かに、座談形式なので読みやすく、自分の中で議論を咀嚼しやすい。
最終的になんの結論も書かれていないから、議論の扉は開け放たれた形で終わりますので、読後も自分の中で問い続けることができます。
ひょっとしたら兆民は、以降の議論を個々の自由に委ねることで種の肥料としようとしたのではあるまいか…。
などなど、読んだ後もなかなか楽しめる本です。

解説の中で、兆民の思想を端的に表す引用があったので、それを紹介します。

社会というものはな、秩序と進歩と相待ったものである、若しも急激に事を処すると飛んだ間違を起こすものぢやぞ、小児の病は癒ること速かなるが大人はそふぢやない。社会は成長すれば其構造も発達するものぢや、丁度人間の成長するに能く似て居るものぢや、斯く永久の年月を経て進歩する性質のものであるから、之れを改良するにはヤツパリ進歩の法則に従ひ、次第次第に根本的改良に従事せねばならぬものぢや、若しも急激に荒療治をするときは、正当なる身体をして却って害毒を来たし、不健康に陥らしむることがあるものぢや、徐かに急げとは社会改良家の一日も忘るべからざる言ぢや、理解たか理解たらモー帰れ帰れ(『中江兆民全集』第十七巻)(欄外に曰く。さあ、早く家に帰って『三酔人経綸問答』を読もう)(三酔人経綸問答P188)

改革を叫ぶ人は、この論をよく考えてみる必要があるだろう、ということを、以降頭の片隅に置いておきたいと思います。

 

一年有半・続一年有半(中江兆民、岩波文庫)



一年有半・続一年有半 (中江兆民、岩波文庫)を読みました。
面白かったです。
兆民先生はこういう本を書いていたのですね。
なるほど、幸徳秋水は完全に文体を引き継いでいます。

一年有半については時事の話が多く、なかなか進みませんでした。
難しい。
解説を読むと、なるほどそういうところを楽しむものかと関心する。
一緒に三酔人経綸問答の現代語訳を読んでいますが、現代語訳だと明治に書かれたものとは思えません。
付録の原文も現代語訳を読んだ後ということもあるのでしょうけれど、なかなか分かります。
そう考えると、多分この一年有半が難しいのでしょうね。

一方で、続一年有半については、大変分かりやすかったです。
以前世界十五大哲学で紹介されていた内容のほとんどが、続一年有半から引用されているようでした。
兆民先生(幸徳秋水、岩波文庫)
この続一年有半が兆民先生の絶筆となるのですが、本書はまさに兆民先生の集大成だったのだと思います。
内容はいたってシンプルで、物質(を構成する元素)は不変だが、精神は肉体より生じるものであるから死ねば消滅するという事で、それに伴って宗教や神話を木っ端みじんに退けていました。
この辺の知的な激しさは弟子の幸徳秋水にしっかり受け継がれていたのだなぁと思います。
帝国主義(幸徳秋水、岩波文庫)

ところで、本文とはあまり関係ないのですが、解説に面白いことが紹介されていました。
本書は非常にルビや校注が多いのですが、その点について訳者も解説で弁明しています。
そして、その理由に、一つの単語にいくつも読み方があって、その辺のニュアンスを楽しんでもらうということがあったようです。
例えば、「未曾有」に5通り、「正真正銘」に4通りの読み方があったのだとか。
あとは、「無害」というのが「無類」の意味だったりしたそうです。
それゆえに訳者は、あえて極力校注を入れたとのこと。
そして、ここには訳者に影響を与えた一言があったとのこと。
やさしいことのむずかしさをしることはむずかしい(里見弴、文章の話)
なるほど、わが身をよく省みたくなるお言葉です。
当たり前のように古典を楽しんでいますが、そこには必ず訳者、解説者の尽力があることに思い至ります。
こうした翻訳をしてくれる方がいるおかげで、私のような無学な人間でも尊い書物と交わることができるのですから、翻訳とは、誠に偉大な仕事のように思われます。
(欄外に曰く、英語教育の必要性ここに見つけたるか)
英語教育の危機(鳥飼玖美子、ちくま新書)

  

菊と刀 (ルース・ベネディクト、講談社学術文庫)



菊と刀 (ルース・ベネディクト、講談社学術文庫)を読みました。
面白かったです。

本書のタイトルは「日本人は圧力をもって菊をあたかも自然にあるように、育てる。そして、自身を刀と捉えてその美しさを保つところに美意識を感じる」ということを表しています。
本書はそのことを様々な角度(歴史、生活様式、教育、など)から分析している本です。
至る所に「あー、確かに」「なるほど、そう考えれば筋が通るな」という点が多々ありました。
これで一度も日本に来ていない人が書いているのだから信じられません。
解説者も書いていましたが、是非日本に来て直に観て、追加の分析をしてほしかったものです。

驚くべきは、アメリカが戦勝後に日本を占領するにあたり、どのような統治を行うべきか、その研究を進めていたのに対し、日本においては、そのような話は一切聞かないことです。
そういう話はあったのでしょうか。
大東亜共栄圏の発想の下には戦勝後のアジアにおける統治の構想はあったのかもしれませんが、アメリカを占領してカナダやメキシコとの関係をどうしようなんて構想があったというのは聞いたこともありません。
その差が全く戦果に影響を与えなかったということは、おそらくないと思われます。

ところで、この本を読んだ今でも、日本がアメリカを統治しているイメージが全く持てません。
アメリカでは個々人が強いから、指導者層だけを操ってもダメでしょう。
ということで、アメリカが日本を統治したやり方では、おそらくアメリカを統治することはできないと思えます。
果たしてアメリカという国は、どうやったら占領できるんだろう。
(誰か考えた人の本があるなら読んでみたいです)

ーーー

著者は、先の戦争は、日本が自分のいるべき位置を確認するための戦争だったといいます。
なるほどそうかもしれないという気持ちになりました。
日本人は自分の治まりどころがわからないと、非常にストレスを感じるのが一般だというのは全く違和感ありません。
この辺は『スクールカースト』にも通じるものがありますね。
教室内(スクール)カースト(鈴木翔、光文社新書)

なまじ日清、日露で買っちゃったから、どこまでつきすすむべきなのか、分からないまま、いけるところまでやってしまった、という事なのかもしれません。
そして、限界が来たら(敗戦において)、ここが限界だと気づいて、すぐに方向転換してしまう性質も私たちの特徴のようです。
結構図太い民族のようです。
これらは、恥の文化(西洋の罪の文化との対比)にその一因があることも指摘されていました。

また、この本で指摘されるまでは当たり前すぎて気にもとめなかったことがいくつもありました。
例えば、義理と義務、人情、歴史、誠(まこと)など、欧米人はこういう見方をするのか、というさわやかな驚きを何度も経験できます。
全く意識せずにこれらの運用を私たちがしてきたということも目から鱗でした。
異文化理解とは、つまるところ、こういうことではないでしょうか。
他者から見た自己を理解し、その差異にスポットライトを当てて自他を理解する。
そして、外国語でなければ光を当てることのできない箇所がある、という点に、外国語を学ぶ意味があるのではないかと、そんなことを思いました。
英語教育の危機(鳥飼玖美子、ちくま新書)

本書を読んだからどうなる、という事ではないのでしょうけれど、本書を読んだ人と読んでいない人とでは、日本人としての自分の行動原理への理解度が大きく隔たれるのではないかと思います。
自分の行動原理が理解できたからと言って、得するもんでもないのでしょうけれど、気心のしれない他人と接する際に自分を律することに対しては、いくらか役に立ちそうな気がします。

本書は、解説もなかなかいい感じでした。
読みながら、なんとなくもやもやしていたものについて、詳細に解説しくれました。
ぜひ、解説もご一読をおすすめします。

売り渡される食の安全(山田正彦、角川新書)


売り渡される食の安全(山田正彦、角川新書)』を読みました。
面白かったです。
現政権の産業界への傾注加減がよく分かります。
本書の内容をすっかりそのまま受け取るならば、全くひどいもんです。
政権にも官僚にも呆れ果てます。
どうして種子法の廃止なんてアホな事をするのかということもありますが、そもそも「そういうことができてしまう」ということが恐ろしい。
法治国家、議会制民主主義の限界を感じます。

非遺伝子組み換え食品の表示についても、我が国では「100%非遺伝子組換位食品でないと表示できない」という法律になっており、これは他の国の「0.9%未満」等の制限を更に厳しくしたものとなっているようです。
これは、つまり非遺伝子組換え食品との表示は「ほぼできない」制度を作ったに等しいものなのです。
だって、すべての素材をそれぞれすべて調べない限り、100%の保証なんてできないのですから。
著者は、ここに遺伝子組換え作物を生産している企業の思惑を見て取ります。
もしそれが本当なら、我が国の政府は完全に腐ってますね。

ーーー

アメリカの主婦たちが組織した食の安全を企業等に訴える団体の活動紹介もされていました。
その中で、有機栽培された食品を月に1万円ほど買いましょうという活動が展開されていました。
良い活動ですね。
以前読んだ『日本の「食」は安すぎる』(山本謙治、講談社+α新書)という本でも、消費者がいいものを買うという積極的な行動が農家やサプライチェーンを変えると書いていた。
私達市民も「意識的に選ぶ」こと、そして「声を出す」ことで自分たちの食を守るという姿勢が必要なのでしょう。
私ももう少し「選んで」「積極的に」お金を使っていこうと思います。
節約ばっかりしていては、世の中良くならないでしょうからね。

ところで、この本は、以前読んだ『日本は世界5位の農業大国』(浅川芳裕、講談社+α新書)と「食料自給率」「農家補償」について正面から対立しており、あちらを立てればこちらが立たずの典型のように見受けられます。
でも、議論をすることで、対立があると認識できるわけなので、対立が生じること自体は悪いことではないのだと思います。
見る人が見れば、きっと妥協点があるはずですし、そこにこそプロの視点や議論の意義があるように思います。
(これは、農業に限りませんね)

  

教室内(スクール)カースト(鈴木翔、光文社新書)


教室内(スクール)カースト(鈴木翔、光文社新書)』を読みました。
面白かったです。
読んでいると、「あー、こういうのあったなぁ」という点が多々あります。
自分の過去を振り返ざるを得ません。
そして、自分も一部ではこういう序列形成に関与していたことを認めざるを得ません。


著者は、アンケートとインタビューを通じて、スクールカーストの構造を解明しようとします。
そして、出てきた答えは「生徒」と「教師」は同じ「スクールカースト」という序列を、前者は「権力」の階層とみなし、後者は「能力」による区分け、と見ていることがわかりました。

また、スクールカーストが「下位」の生徒には劣等感や屈辱感を与える一方で、「上位」の生徒にも上位カーストに属するものとしての義務感のような重苦しさを与えるという、両者への負の側面も解説され、単純に上位のものが優遇されるものでないことも示されています。
(それでもやっぱり「上位」のほうが何かと楽しそうですが)

ではどうすればそうした階層・序列をなくすことができるのかといえば、これは学級制度自体に伴う現象であるがゆえに、教育システムの大幅な改修が必要になりそうだと思われます。
それを鑑みた上で、著者は「当事者ができる対応策」を幾つか上げていますが、これがとても優しい印象。
特に「学校は社会に比べればよっぽど複雑」という助言は、かなり当事者(特に下位に属する生徒)を助けるのではないかと思います。
個人的にも学校というのは、「同じ年」「近い地域」の子どもたちが「10年近くも」同じ集団に属して生活の半分近くを捧げなくてはならないという、大変特殊な場所だと思います。
個人的な差異が少ない集団であれば、当然「少ない差異」の中の序列を作ろうとするのが集団です。
ましてや年齢も地域も近いのであれば、「素質」「才能」「人間関係」と言った「どうしても差が生まれるような要素」で序列を作るのは全く違和感を感じません。
しかし、社会に出れば、そういう軸で個人をソートすることは(一応)ありません。
(もちろん大きなくくりで、上級国民・下級国民なんて言葉ありますが)
適材適所とまでは行かないまでも、「まぁ我慢できる居場所」を多くの人が獲得できます。
だから、無理してまで学校に行かなくていい、という対応策もやはり至極真っ当だと感じます。

この辺は、親も理解しておく必要があるでしょう。
別にスクールカーストに疲れてしまうことは、異常ではないし、どんな理由にせよ、学校に通えないから社会に通用しないわけではない。
(例えば幸徳秋水も幸田露伴も学校を卒業していませんしね)
むしろ学校と家庭しか世界のない子どもにとって、学校が苦痛のときに、家庭でも「学校にいけ」という圧力が働いたなら、子どもはおかしくなっても少しも不思議ではないでしょう。

しかし、もしスクールカーストのような序列をなくすことを目的とするならば、本当に私たちには何ができるだろうか。
そもそも序列意識を私達からなくすことなどできるのでしょうか。
著者も「スクールカーストを意識しなかった人たち」の意見を聞く必要があると指摘していますが、本当にその通りだと思います。
もし序列を意識しない人がいるとするのであれば、その人はどういう世界を見ているのだろうか。

あるいは、それはアルプスの少女ハイジの主人公・ハイジのような人なのかもしれない。
なるほど、地球上のみんながハイジのようになれば、世界は平和でしょう。
ということで、道徳の時間にみんなでハイジを観るってのはどうでしょうか?

 

アメリカの大学・ニッポンの大学(刈谷剛彦、中公新書ラクレ)



グローバル化時代の大学論1 - アメリカの大学・ニッポンの大学 - TA、シラバス、授業評価 (刈谷剛彦、中公新書ラクレ)を読みました。
著者は刈谷剛彦。
20年近く前に書かれたアメリカの大学と日本の大学の比較論を取り扱う本ですが、とても面白かったです。
当初、20年前の本だから、あまり参考にならないかな?と思いましたが、とんでもございません。
今を考えるのに、とても参考になる本です。

著者は、アメリカでの教授経験をベースにして、さんざんアメリカの大学のよさそうな面を紹介してきたのに、まとめでは日本の大学には日本の大学の型があるのだから、無条件にアメリカの真似をしてもだめだ、といういたって常識的なまとめ方でした。
というか、そもそもアメリカの学部教育だって、いろいろな問題点を抱えていることを理解しないとだめですよ、という指摘も。
確かに、完璧な教育システムがあれば、どの国でもそれを採用しているものね。

とはいえ、どうにか良くしていこうというあがくことは大事でしょう。そのあがき方にアメリカの真似ということもあってもいいかもしれないとは思います。
その結果として、TA、シラバス、授業評価が日本に導入されて来た事自体は決して悪いことではないのだと感じます。

問題は、それらが個別の小道具として導入されてしまったことです。
例えばTA制度は、優秀な教員養成という目的があったにも関わらず、安価な人材として導入されてしまう傾向があったり、シラバスは授業ごとの契約書にもかかわらず、単なる”カタログ”として導入されてしまったり、授業評価も成績が重視されない日本では一体何の意味があるのか…ということで本当にただ導入するだけになってしまったことが問題だったのだと思います。
(この辺は、『大学改革の迷走(佐藤郁哉、ちくま新書)』が更に深掘りしています)
大学改革の迷走(佐藤郁哉、ちくま新書)

ーーー

こと教育に関するアメリカの評価できる点は、問題があったら素直にそれを認めて、改善をするところが評価されるという点にあると思います。
(我が国はまず失敗を認めることができない)
もちろん、すべての改善がうまく遂行されるわけではなく、思ってもいない弊害を生むこともあるようですが、そうして生じてきた問題にもまた対処するような風土があるようです。

とはいえ、全てにおいてそうかというとそうでもなく、例えばテニュア制度における枯れ木問題などは、結構八方塞がり感があります。
研究をやめてしまう専任教授。
この辺は日本も同じです。
しかし、個人的にはテニュア制のような終身雇用制度は大学ではなくしてはいけないと思います。
大学は社会を批判する機能を持った社会インフラであるからです。
使えない枯れ木教授が何人いたとしても、その制度をなくしてしまったら、「誰かが批判しなくてはいけないことを批判する人」がいなくなってしまう。

ーーー

本書を読むと、アメリカにおいては教育は”商品”として扱われている感じがひしひしと伝わってきます。
こういう商品を売ります(シラバス)、こういう商品だから買います(履修)、買ったあとに購入レビューをします(授業評価)、という感じ。
で、売ると言っていた商品(知識、経験など)が得られないと思われてしまったら抗議・訴訟と…この辺は少し日本とは温度差がありそうです。
ひょっとしたら、買う側の意識の高さが、売り手の質を上げてるのかもしれません。
授業料も高いですしね。

そして、「アメリカで出版されたアメリカの大学論」を扱う本を通じて、こういう風潮が大学の質にも影響を与えつつあるという指摘もありました。
(前略)アメリカの大学が市場原理にもとづき、学生や親たちを消費者とみなすようにあってきていることにある。学生たちの選択を重視する至上主義は、学生たちの求める様々な教育「サービス」の提供を大学に求める。その中で、例えば消費者(=学生)の声に耳を傾けようとする授業評価なども、学習への要求度の低い授業や、成績評価の甘い授業が学生から好意的に評価されるとなると、そのような授業の広がりを許す一因となる。たとえ一部の教員が厳しい成績評価と学習への高い要求を掲げても、選択重視の仕組みのもとでは、そういう授業の人気は下がり、学生も集まらない。そのうえ、学生や親たちが大学に求めているのは、難しい学習よりも、居心地のよい設備の完備した学生寮であったり、キャンパスでの他の学生たちとの交流や「社会経験であったりする」(R・アラム、J・ロクサ共著『漂流する大学』一三七ページ)(同書P240)
なるほど、日本も近い状況が起きている気がします。
私としては、この一文を読んで、内田先生の『下流志向』を思い出してしまいました。
日本はまさにアメリカの後を追っているようです。
どうして先人の失敗を活かせないのかという疑問は、冒頭の内田先生の話(専門家に託せない性質)につながるのかもしれません。

  

大学改革の迷走(佐藤郁哉、ちくま新書)




大学改革の迷走 (佐藤郁哉、ちくま新書)を読みました。
いやー面白かったです。
随所に皮肉が効いている、ユーモラスな本です。
ブラックユーモアですが。

この本の指摘は、別に教育だけに当てはまるものではないと思います。
内田先生が言うところの「この国の病理」の一つである「専門家のあたるべき問題を非専門家があたってしまう」ということを指摘しています。(内田樹の研究室:コロナウィルスと社会的共通資本2020-02-29 samedi)
そして、大学における政策の失敗について、本書はいろいろな角度(例えば、大学の中から、行政の側面から、などなど)から検証、評価、批判を行っています。

ポイントは以下の通り。
・シラバスの導入で事務業務が増加(しかも形骸化)
・PDCAは工場生産に用いるもので、予算管理の大学教育には適さない(PDCAは神話)
・結局PdCa(計画と評価のみ肥大してしまう。結果として形骸化する)
・KPIを目標にするのは見当違い。KPIはあくまでも達成の度合いを示す指標。
・民間の経営手法は少し遅れて(廃れはじめてから)行政や大学に入ってくるため、うまくその経営手法は機能しないし、次の経営手法がどんどん入ってきて、導入・幻滅を繰り返す
・金は出さないが口は出す行政が大学の多様性を奪っている
・日本はアメリカとは違う
・この国には、失策の責任者がいない
・この国の教育改革は小道具の変更に終止している
・理論武装するためのエビデンス集めが蔓延
・60万人調査も全然調査の手法を意識せずに進められている様子

これまでの多くの大学改革は、思いつき・思い込みをベースに設計され、やること時代に意味をもたせ、シラバスやKPI・PDCAといった小道具を導入することで現場を混乱させてきたというのが趣意。
(しかも結局形骸化して、実質化の改革を図るという始末)
原因として、それらの改革に乗っかった大学人にも問題があるとの指摘はごもっともだと思います。

著者はこれらを総括した上で、以下のようにまとめます。
もっとも当然のことながら、政治や行政の失策について指摘することと並んで大切なのは、大学と大学人がそれに対してどのように向き合ってきたかという点について改めて振り返ってみることでしょう。実際、幾つもの止むにやまれぬ事情があったにせよ、これまで大学側が「大人の事情」を優先させて示してきた対応の中には、子どもたちの未来を奪うことにつながりかねないものが含まれています。 いま必要なのは、そのようなもっぱら「大人たちの都合」だけで進められてきた従来型の改革について徹底的に問い直していくことでしょう。それは、取りも直さず、大学と大学教育が抱えている問題に関して、大学関係者が自分の頭で考え抜いた上で結論を出していくことに他なりません。そして、その結論については借り物ではない自分たち自身の言葉で表現していかなければなりません。実際、そのようにして、「大人げない話」をあえて口に出すことを抜きにしては、これから大学という場で学ぶことになる子どもたちにとって何が本当に必要になってくるのかという問いに対する答えの姿は見えてこないはずなのです。
大学は、あるいは学校は、子どもたちは、一様ではありません。
だからこそ、状況に即した対応なり対策が必要で、それは紋切り型のトップダウン式の改革では見当違いの結果を生むのは仕方のない事のように思います。
いかにしてボトムアップを促すのか、そういう発想で教育を捉え直す必要があると思います。
もし多くの人がこの「現場からのボトムアップ」を願うことができたら、その時教師と生徒の信頼関係が構築され、また地域と学校の信頼関係も整い、故に国としての人材育成も多様な、柔軟な、しなやかな形態を取れるのではないでしょうか。
優秀な指導者とは、ひょっとしたらボトムアップを促せる指導者なのかもしれませんね。
名ばかり大学生(河本敏浩、光文社新書)

この観点から考えると、刈谷氏が『教育改革の幻想』であとがきに書いていた「教育行政」を地方に委ねる、ということの重要性が理解できてくる気がします。
教育改革の幻想(刈谷剛彦、ちくま新書)
すべてを現場に任せるのではなく、現場周辺で色々と試行錯誤をしていく、そして大本の文科省が地域ごとのネットワークを形成して国としての共有を図るというのがいいのではないか。
とはいえ、これも理想論です。文科省が予算を地方に移譲するなど考えにくい。
省益と反するでしょうから。
だから、せめて大学だけは、うまくできないもんでしょうかね。
いや、うまくやるためにはやっぱりお金が必要だから、お上への忖度はなくせない。
どうも八方塞がりな感じになってしまった。どうにかうまくやる方策がないものだろうか…。

この本とその姉妹編である『50年目の「大学解体」20年後の大学再生』も近いうちに読んでみたいと思います。


   

帝国主義(幸徳秋水、岩波文庫)




先日、幸徳秋水著の『兆民先生』を読んで、もう少し同氏の別の書も読みたいと思って帝国主義 (幸徳秋水、岩波文庫)を読んで見ました。
兆民先生(幸徳秋水、岩波文庫)

これでもかというほど執拗に帝国主義(暴力を持って領土拡大をすすめる国の姿勢)を批判し続けていました。
軍人の主張する軍備拡充の必要性を、一つ残らず叩き潰す感じ。
痛快です。
曰く、
・戦争によって、経済が疲弊している
・戦争によって、芸術、文明が破壊されている
・暴力的な組織(軍隊)が、社会的規範を破壊している
・軍隊が暴力を呼ぶ
・戦争をしたいと思うのは動物的本能である
などなど。

確かに、戦争はかなりお金を必要とすることが、本書を読むとわかりやすく解説されています。
ただ、問題なのは、そのお金のかかるところが極端に偏るというのが問題で、多くの費用は戦争に関連する産業にしか回らない。
そして、福利の方は手薄になる。
そうすると、結局貧乏な人ほど大変になり、社会が回らなくなるということですね。
至ってその通りです。

工業製品の生産過剰についても、中産階級以上は貧民の労働力を搾取することで海外展開するほどの生産力を持つけど、その海外進出する原因(国内の需要量を生産量が上回ってしまうの)は国内の人々から購買力がなくなるためだということを指摘しています。
これはまさに資本論に通じるものではないのでしょうか?
というか、社会主義者と自分で言っているくらいなのですから、多分そうなのでしょう。

この本を読むと、社会主義の本来の意義というか目的がわかってくる気がします。
「格差の是正」、それにともなう「平和」こそが、幸徳秋水の思い描く社会主義の世界だったのでしょう。

社会主義は、私達の中では基本的に「失敗作」として理解されているように思います。
しかし、その思想のいいところを、うまく今の社会に取り込まないと、今後ますます格差は広がり、やがてまた凄惨な事件を起こすような気がします。
ということで、ぜひベーシックインカムを導入してほしいなぁという思いを新たにしました。
ベーシックインカム関連記事

ところで、改題を読むと、幸徳秋水のこうした「平等」「博愛」「平和」という思想は、中江兆民から受け継いでいるとの記載がありました。
そう書かれてしまうと、中江兆民の作品も読みたくなってしまいます。
とりあえず、三酔人経綸問答 (岩波文庫)を読んでみようかなぁと思います。

また、改題では、本書を中江兆民に事前に見せてやり取りをしたのが『兆民先生』内の書簡のやり取りに当たるとの解説もされていました。
なるほど、そういうことだったのかと腑に落ちました。
原著を読んでから誰かの解説を聞くというのも、面白いものですね。

また、同氏の著書で面白そうな本があったので、借りてみました。
書名はズバリ『現代語訳 幸徳秋水の基督抹殺論』。
どうも基督を当時の天皇のスケープゴートにして批判をしたという疑いをかけられている作品のようです。
でも、そんなことどうでもいいくらいに、基督教をボコボコにしています。
イエスキリストは、当時こんなにも無名だったのかと思うと、一体今のキリスト教とは何なのだろうかと思わずにはいられません。
先日『旧約聖書物語』を読み終えて、『新約聖書物語』を今度読もうと思っていたのに、一体どういう心持ちで望めばいいのやら・・・。
でも、”物語”だから、その時の”つもり”で読めばいいのか。
旧約聖書物語(犬養道子、新潮社)

そういえば、本書の序では、キリスト教徒の内村鑑三が文を寄せていました。
内村鑑三が『現代語訳 幸徳秋水の基督抹殺論』を読んだら、なんというのか、非常に興味がわきます。
友達の思想をこてんぱんにすることに、抵抗はなかったのだろうか。
ネットで調べた限りでは、あまりそういう資料は残ってなさそうですが、今度内村鑑三の著書も読んでみたいものです。

また、当のキリスト教徒やキリスト教会は、この辺の事実をどう捉えているのだろうかとも気になります。
別にキリストがいたかどうかは関係ない、聖書が聖書として信じられてきたことが大事なのだ、という論説もあるかもしれませんが、胡散臭さを拭い去ることはできないでしょう。

それにしても、キリストがいたのかどうかなんて、考えたこともありませんでした。
私はてっきりいたものかと思っていましたが…頬に平手打ちを受けたような思いです。

ちなみに、『クルアーン』(イスラム教)では、キリストを預言者としては認めているものの、メシアとしては認めておらず、同様に三位一体説も否定をしています。


    

共働き社会は格差を固定する



結婚と家族のこれから~共働き社会の限界~ (光文社新書)

仕事と家族 - 日本はなぜ働きづらく、産みにくいのか (中公新書)人口減少社会の未来学を上げながら、出生力の回復に向けて、女性の社会的なつながりと経済基盤の確保の重要性を指摘しました。
しかし、結婚と家族のこれから~共働き社会の限界~ (光文社新書)では、共働き社会の実現は、必ずしもいいことばかりではないことを突きつけてきます。
共働き社会は、格差の固定を引き起こしかねないのです。

原因は、女性の社会進出が進む一方で男性の非正規雇用率を高まっていることが一点。
また、人は、放っておくと価値観や考え方の近い同類と結婚する傾向があるという点がもう一点。
この2つが組み合わさるとどうなるか?
その答えが、「傾向として、金持ち同士、貧乏同士のカップリングが増える」という事態に至る、というわけです。

私の読んだ限りでは、これを解決するすべはまだ見つかっていないようです。
著者は税の仕組みからこの解決が測れないか?との問を立てますが、税の仕組みは一長一短あり、あちらを立てればこちらが立たずと言った状況で、バシッと解決する方法はまだ見つかっていないのだとか。
具体的に言えば、あんまり高所得者に税金をかけ過ぎるとカップルが成立しにくくなるし、かと言ってやすくすると格差が広がる…そんな感じです。
筆者は最後に、「結婚しなくても困らない社会を作ること」が大事では?との提言をしていました。

以下は私の感想です。
「結婚しなくても困らない社会」この実現にはもうベーシック・インカムしかないのでは?と早合点したくなります。
ベーシック・インカムであれば、低所得の人のほうが税的な補助が多くなるし、子供を生むことで収入が増えるわけだから出生力にプラスに働くと思われます。
また、そもそも子供を経済的な負担から作れないという事態は減るのではないでしょうか。
加えて言えば、こうした経済的な基盤があることで、ケア・サービスに就職するハードルも下がり、サービスの拡充が格差の是正を伴いながら、進んでいくのではないでしょうか?
(ちょっと話がうますぎるので、眉唾ものですが)

ちなみに、現状ではケア・サービスは格差が前提で供給されており、ケア・サービスは供給する側が、自分たちのケアの機会を奪われる事態が生じています。
例えば、移民のケア・ワーカー(ナニー)は、自分の子供のケアを自国のケア・ワーカーにまかせています。
つまり、国と国との格差を利用して、先進国はケア・サービスを享受しているわけですね。
ケア・サービスを受けれる経済的に優位な女性しか、経済的な安定を得られないという格差の固定化が進んでいるようです。



ベーシック・インカムに興味のある方は、下の書籍もご参考になさってください。
   

関連記事
【読了】AI時代の新・ベーシックインカム論(井上智洋著、光文社新書)
【読了】ベーシック・インカム(原田泰著、中央公論社新書)

少子化対策のヒント(『人口減少社会の未来学』から)



人口減少社会の未来学を読みました。

前回の記事では少子化においては、女性がいかにして経済基盤を獲得するかが出生力の回復に重要な要素であり、「共働き社会」の実現が少子化社会脱却の第一歩になるのではないか、という提言をした『仕事と家族 - 日本はなぜ働きづらく、産みにくいのか (中公新書)』を紹介しました。

これについて、「ではどうすればいいのか?」のヒントが『人口減少社会の未来学』には書いてあります。

本書は専門の異なる著者陣が、自身の専門領域から人口減少という現象を捉えてその社会がどこに向かうのか、どういう対応が求められるのか、などについて論じています。

著者陣の一人、平田オリザさんの章には、女性が子供を生みたくなる自治体の具体的な取り組みが紹介されています。

特に市役所内にワークシェアリングの場を設けるなどの取り組みは、女性をコミュニティーに緩やかにつなぐ、素晴らしい取り組みだと思います。
ただ、平田オリザさんの提言の中で私が重要だと思ったのは、「女性が昼間っから酒を飲んでも後ろ指を刺されない社会でないと話にならない」という指摘です。
このことは、何も女性が昼間から酒を飲める環境をもっと作るべき、という具体的な対策をすすめるものではないと思われます。
この指摘は、もっと大きな視点、すなわち「個人を尊重しつつ、緩やかなつながりが形成できる社会」を目指しましょうという提言だと私は捉えました。

これからの自治体は、女性が安心して子供を産み、育てる環境を作れるかどうかが生き残りのポイントで、そのためには、母親の生活しやすい社会基盤が必要です。
こういった社会基盤を整備するためには、市民一人ひとりが「個人を尊重する」「個人が社会につながることを奨励する」意識を持つことが重要で、そのことを「昼間から外で酒を飲んでも」に込めたのだと思います。

女性が安心して子供を産み、育てられる自治体であれば、やがてその子供たちが大人になり、子供を産もうと思ったときに帰ってくる可能性も高まるでしょう。
多くの自治体がそうなれば、国として見た際には少子化という問題が改善されていることになる。
そして、現にそういう自治体が出てき始めている。

地域が母親を助け、地域で子供を育てるという意識のある自治体づくりが求められているということですね。
でも難しいのは、あまり介入しすぎるのもマイナスだということ。
それは確かに勝手すぎる気もしますが、それが移住者の本音であることもまた事実でしょう。

自治体の担当者は、こんなに難しいことを調整しなくちゃいけないんだから、まずは公務員の給料を上げるとこから始めてもいいのでは?と思えてしまいます。
公務員の皆さんにはほんとに頭が下がります。

辞令交付式への違和感(みんなよく参加するなぁ)

 今日は4月1日。  我社では辞令交付式が行われました。  そのため、土曜日ですが、人事課員として出勤しました。  明日も仕事なので、12連勤となります。   人事課の闇ですね。  それはさておき、辞令交付式に関して、毎年違和感を持ちます。  それは、お礼を言われる側が、何故かホ...