“有能さ”ついて(『「官僚とマスコミ」は嘘ばかり』から)

「有能な人間」と聞いて、どんなイメージを持つかは、多分人によってかなり違うとは思いますが、だいたい何パターンかに集約されることでしょう。
・人柄でみんなのまとめ役になるタイプ(スラムダンクの小暮先輩 等)
・個人としての能力が高い職人タイプ(ブラックジャック 等)
・時代の先を見て牽引するタイプ(スティーブ・ジョブズ 等)
などなど、まぁ上げてみればいくらでも上がるでしょうけど、こんなところではないですか?

私の中では、有能の最たるものは漫画「ヒストリエ」のエウメネスや「シン・ゴジラ」の矢口などがそうなのですが、どこがどうすごいのか、いまいち自分でも言葉にはできないでおりました。
そんな中、先日読んだ『「官僚とマスコミ」は嘘ばかり』で、以下のような表現が出てきて衝撃が走ります。

本当にできる財務官僚は、「人間的魅力」と「使命感」と「友だち甲斐」で人脈を広げていける人たちです。(中略)日本のできる官僚たちは、そのようにしてできあがった人脈を武器として国を動かしていくのです。(中略)だからこそ、先ほども述べたように、机にへばりついているばかりの官僚は「能力がない」と見なされるのです。(中略)官僚たちがそのような役割を果たしてきたことは、「国を動かす」ということを考えた場合、けっして悪いことだけだったわけではありません。(『「官僚とマスコミ」は嘘ばかり』P145〜147)

そう、まさにこのことが言いたかったんです。
人を巻き込んで、大きなことを動かしていく、そして、自分はトップではないけど多くの人間関係の中心にいて全体の方向性をコントロールできる、そういうことが“有能”なんだーー。
(このように他人の文を読んで自分の考えが適当な表現を持つというのも、読書の楽しみの一つですね)
しかし、こういう能力というのは、「才能」による部分が大きい気がします。
見た目もあるでしょうし、性格もあるでしょうし、家庭や友達の環境も大きいのでしょう。
つまるところ、「運」と言えると私は思います。
(努力できるのも才能ですから)

こういう“有能さ”というものは、残酷ながら人間社会においては普遍的なアドバンテージだと思います。
どんな組織、団体であっても、優秀な財務官僚のような人間は求められるでしょう。
しかし、頑張ってこういう人間になろう、と考えるのは、不幸な考え方ではないかと私は心配してしまいます。
同様に、「頑張って官僚になり、国を動かせ!」という叱咤激励も、励まされる側にとってはおせっかいで、危険な気づかいではないかと思われてなりません。
いかに使命が大きく、やりがいのある仕事だとしても、合わない人には絶対合わないし、こういう仕事が合う人というのはとても限られた人間だと思うからです。

冒頭でも書いたように“有能”の価値観は、個々人違います。
そして、何よりも有能かどうかは、他人が決めるという点に注意が必要です。
新自由主義的な発想であれば、当然有能な人のほうが市場価値が高いので、そこを目指しましょうという発想につながることは想像できます。
そりゃ一般論でも、無能と言われるよりは、有能だと言われたいでしょう。
ただし、皆がみんな、有能に生まれてこれるわけではありません。
ですから、有能を目指す、という考えに縛られると、自分がなんなのか、わけが分からなくなってしまうのではないかと心配してしまうのです。

AIが発展して、これまで普通に生きてきた「特段有能でもない人」たちは、仕事を失う可能性が大きくなってきます。
そうなると、BIのように、働かなくても生活を保証する仕組みが導入されることでしょう。
というか、そうならないと、皆死んでしまいます。
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仕事がなくなっても、生きられる時代が来るのであれば、人生をどう幸せに生きるか、ということが重要になっていくと私は思います。
その視点に立ったときに必要なのは、むしろ「自分の能力はどのへんなのか?」ということ知ることではないかと思います。

もちろんそれは自分の限界を知ることですから、面白くありません。
でも、気持ちは楽になるでしょう。
気持ちが楽になれば、自分の生きられる世界の中で、面白いものが見えてくるはずです。

私の持論ですが、暇になれば、人間は学びます。
また、学びとは、すなわち遊びです。
学んで遊ぶといえば、研究者ですね。
つまり、働かなくてもいい時代と言うのは、世の中の皆が研究者になれる時代なのです。
人からどう思われても関係のなく、自身の興味のある研究に没頭できる世界。
成熟した社会というのは、そういう社会のことを言うのではないかと、そんなことを考えさせられました。

そして、そんな社会になったら、有能の意味合いも変わっていくのかもしれません。
本の内容とは関係ないですけどね。

余談ですが、先日根津美術館で聴いた奥平先生の話では、貴族の遊びに「和漢聯句」というものがあったそうです。
これは最初を和語の句で始め、以下五言の漢詩句と交互に詠み進めるもの(デジタル大辞泉から)だそうで、要するに連想ゲームみたいなものなのでしょう。
こういう遊びをした、ということが当時のお偉方の周りの人の日記などから確認ができるそうです。
そして、こうした遊びは、一度始まると三日三晩続いた、なんてことも書かれているのだとか。
遊び方が半端じゃないですね。
多分求められた教養も半端じゃなかったんでしょうけどね。
こういう例を聞くと、文化が遊びから生まれたという論がしっくり腑に落ちる気がしてきます。
【聴講】燕子花図と洛中洛外図(奥平俊六さん)@根津美術館

  

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