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名ばかり大学生(河本敏浩、光文社新書)



名ばかり大学生 日本型教育制度の終焉 (河本敏浩、光文社新書)を読みました。
まことに面白かったです。
著者は東進ハイスクールの講師という肩書なので、予備校講師から見た学力の話なのかな?と思って読み始めましたが、そんな限定的な話ではなく、今の教育制度の根本的な瑕疵を様々なデータから考察している素晴らしい本でした。
絞れば荒れる、12歳で大きな壁、いずれも聞けばなるほど納得の論でした。

要点を列挙します。
・絞れば荒れる(大学定員の減少は、いい改革ではない)
・大学のアクセスをよくせよ(間口を拡げよ)
・初年次教育にこそ力をいれ、卒業しにくくするべき
(ちなみに、入りやすく、卒業しやすいのは日本独自。日本はとにかく私学が多すぎる)
・対策としては、「義務教育修了の資格試験」「古典読書の奨励」など
・とにかく、現行の制度設計の失敗点を認めて、いい教育を再生産できるように再度制度設計すべき(競争しても子どもは伸びない。競争すべきは大人である)
・今は大学受験も勉強をするモチベーションにできない(12歳で超えられない壁、地方と都市部の熱量差)
・東北大学が地域での勉強のモチベーションの底上げに貢献している。しかもAOの方がいい学生が入る(新しい展開。受験生も手間を理解する)
・教育を公共事業と捉えて、お金を投入することも大事(中等教育を無償化しないのは世界にも珍しい)
などなど

これらを挙げた後、著者は以下のように締めくくる。
 つまり、問題は学力論ではなく大学論なのである。まず議論の出発点を大学教育、あるいは選抜試験のありようから始めるべきなのではないか。小学校や中学校、高校を「改革」しても誰も踊らないが、大学入試が変われば、教育熱心な家庭は一斉に変化する。
 だから、小学校や中学校、高校の小手先の改革はすべてやめた方がいい。改革など何もせず、勉強をしない子供に大人が一生懸命教えるということだけを念頭に置いて行動するべきである。
 高校卒業時に中学レベルの学力を問う資格試験を実施し、それに向けて大人が競い、より多くの子供が目標を達成するべく奔走する。塾にはできないが、小学校や中学校、高校にできることは学力の底上げである。これは目立たないが、極めて重要なことである。なぜならそういう手厚い教育を受けた子供は、学校を信じ、社会を信じ、そして大人になったときに子供を学校や勉強に積極的に関与させるだろうから。
 誰がどう考えても、教育の根本はこういう営みにこそあるのではないか。そしてそう思い、行動している人は、この現代の日本において決して少ない数ではないはずだ。
(同書P196。下線は私の加筆)

義務教育終了の資格試験も無理のない提案かと思います。
加えて古典を読ませる対策も、いいなぁと思いました。
(考える子は、読めば色々考えるでしょうからね)

子どもの教育がうまくできていないと感じるのであれば、それは大人の作った制度に問題がある、というのは真摯な受け止め方だと感じます。
その上でいかに子どもの学びに寄り添うかということが重要で、子どものときに受けた対応を、その子が子ども持ったときに次世代に伝えてしまう、というサイクルができてしまうことを、大人が理解することが大切なのでしょう。
我が家の場合は、どうなのだろう。
ちゃんと子どもの学びに付き添ってあげられてるんだろか。
時々わが身を顧みないといけないなぁと反省させられます。


また、やはり教育は、現場に任せたほうがいいのだ、と言うのは秋田県の義務教育に関する対応の成果をみて思います。
そして、行政、文科省はそれらの良い点を他の地域に共有するところに役割を負うというのがいいのでしょう。
これは、■教育改革の幻想(刈谷剛彦、ちくま新書)と同じ結論です。
相手が人間である以上、画一的な対策には無理が生じてしまうのでしょう。
ましてや地域ごとに文化や風習も違うのであればなおさらです。

その点から考えると、リーダーシップを求める組織というのは、そもそも弱い組織なのかもしれません。

ーーー

大学人として、東北大学のオープンキャンパスに行ってみるのは、具体的にできる行動でしょう。
文系理系両方共なかなかおもしろそうな催しがたくさんありそうです。
http://www.tnc.tohoku.ac.jp/opencampus.php


教育改革の幻想(刈谷剛彦、ちくま新書)




教育改革の幻想 (刈谷剛彦、ちくま新書)を読みました。
面白かった。
ドラスティックな改革は不利益を生むことが多いんだろうね。
改革なんてやめた方がいい。
現場が実践する、小さな改善の積み重ねが大事です。

本書は、2002年4月から施行された新学習指導要領に対してその政策の良し悪しを、いろいろな角度から書かれた本です。
まぁ、ほとんど批判ですね。
もうちょっと分析と議論をしっかりやってよ、というのが本書の主張だと私は理解しています。

それにしても通読してみると、お上(役人)の頓珍漢なことといったら笑えてきますね。
しかも子どもを主人公にする教育については、すでにカリフォルニアで失敗例があることというのもなおさらおかしい。
いや、笑ってる場合ではないのですが。
ロサンゼルス・タイムズ紙に紹介された、カリフォルニア大学のエンバス教授はその失敗について、こんなことを言っています。
「私たちは、学校を子どもたちにとってより有意義で、より楽しい場にするための努力をしてきた。その中で、知識を暗記するとか、つづりと発音の関係を教えるためのドリルとかは、『退屈』な活動としてカリキュラムから消されていった。しかし、たらいの水と一緒に赤ん坊も流してしまったようなものだ。学習には、必ず、むずかしいことや、楽しくはないが大事なことも含まれているのだから」(著者抄訳)
「水と一緒に赤ん坊を流しちゃう」という比喩は言いえて妙です。
考えるのにも、材料としての知識がないと考えられないというのは、いかにも当たり前のことで、反論の余地はないように思えますが、実はこの問題が程度の問題であるというところに一番の問題があるのです。
程度の問題ということは、結局個人のレベルにどこまで合わせてあげようか、という問題で、明確な答えなどない。
だから、議論が進まない。

しかも、学ぶ子どもたちにも個人差もあるので、「みんながわかる」という極端なレベルを設定してしまうと、勉強ができる子は自分でどんどん知識を仕込んでいくでしょうが、勉強が苦手な子はそれが全然できなくなるわけですね。
だってそもそも何を仕込めばいいのかもわからないし、やる気もないんだから。

そもそもの話になってしまいますが、私は、教育で個人を変えることができるというのが幻想のように思います。
また、個人の本質的な性格は変わらないという前提に立って教育をした方がいいと思います。
知識を授けるのはできても、主体性をはぐくむ(望ましい性格を持たせる)なんてことは、たぶんできない。
(ちょっと曲解しているかもしれませんが、この辺については、安藤寿康先生の本を一度読んでみていただけると少しわかっていただけると思います。おすすめは、遺伝子の不都合な真実―すべての能力は遺伝である (ちくま新書)
様々な体験を通じて、本人が変わる可能性はあっても、それは人為的にコントロールできるものではないと思います。

だから、今一度、学校の役割というものを整理するところから着手したほうがいいのではないでしょうか。
「学校は豊かに生きていくための「知識」を得、「健全な肉体」を生涯にわたって維持するための手段を学ぶ場」、というのが私の案です。
うーん、でもこれだと結構いろんなことを勉強しないといけない気がしますが、別の人は「これだけならこれとこれの教科さえあればいいのでは」、という方もいるでしょう。
程度の問題とは、こういうことですね。
議論の余地ばかりあり、個人の感覚で議論すると平行線になる。
だからできるだけ個人の感覚ではない「研究などで調べた結果」を基にして決めていってほしいと思います。

あとは、程度の問題であるがゆえに、ある程度線を引いてあげないと、先生方の働き方改革も、モンスターペアレントの問題も、何も解決しないのではないかと思います。
教育に関心があって教員になっている先生が多いでしょうから、線を引かないと、どこまでも対応してしまい、全体としての教育の質が下がってしまうことも懸念されます。
(しかも、真面目な先生のほうが疲弊する可能性が高い)
とはいえ、教員だって玉石混交ということも前提にしておかなくてはまともな制度は作れません。
(教員の能力に100%左右される教育制度にも問題があると思います)

最後に、私個人の考えとしては、公教育は、あくまでも下の子を引き上げることに注力してほしいと考えます。
そうでないと、格差の再生産が起こって、近い将来、凄惨な社会を形作ることになりそうな気がしてしまうのです。
(まぁお金に物言わせて私立に入れちゃう家もあるでしょうけど)
「それではできる子は消化不良してしまうのでは」、という指摘もあるでしょう。
でも、できる子は、できない子を引っ張るように頑張ってもらうというのも、大切なことではないでしょうか。
そこを評価してあげられるようにしてはどうかなと思います。
(むしろそれが教育では?)
ただ、「じゃぁどうやってそれを評価するの?」と言われると、グーの音も出ないのですが…。

 

会社を変える分析の力 (河本薫、講談社現代新書)


会社を変える分析の力 (講談社現代新書)

『会社を変える分析の力』を読みました。
時々業務で分析を行う私には、大変面白かったです。

ポイントは、技術よりも感性という点です。
やっぱりクリエイティブでないとだめということですね。
小手先の技術だけなら、だれでもできる。誰でもできないことをやっていかないと、プロフェッショナルにはなれないし、会社を変える分析にもならない、ということをずーっと書いていた。
反論の余地はありません。
そして、指摘はいちいちためになります。
今後私も大学関係者として色々な分析を担当することになるかもしれないので、そうなったら座右の書になるでしょう。
「その分析がうまくできるとどうなるのか?」これを問い続けて業務に当たらなくてはなぁと思いました。
とはいっても、意思決定を行う人にも影響されるのが痛いところ。
プロフェッショナルは、そこもクリアしてこそなのでしょうけど、それはなかなかヘビーな仕事です。

さて、本書は、分析を中心として書かれていますが、本書の指摘は、何も分析だけに限定したことではないと思います。
本書の「分析」という言葉を「仕事」という言葉に置き換えても何ら齟齬は生じないと思われます。
例えば、
・成果を見据える
・トライアルアンドエラー
・オリジナリティ
・コミュニケーション力
・シンプルイズベター
などなど、いずれも分析だけでなく、あらゆる仕事に必要なことのように思います。
そう考えると本書はいたって平凡な内容という評価もできるかもしれませんが、読んでみると著者のこれまでの経験をもとにそれらが再構築された上で話が展開されるため、非常に腑に落ちやすい印象を持てます。
そこら辺のビジネス書とは違い、挫折と苦労の形跡が見えるのもいい。
多分この方、文章がうまいんだね。
そして、おおよそ文章がうまくないと、分析結果を相手に飲み込ませることなどできないのでしょう。
著者もとにかく文章を書けと指南しているように、相手にもわかる文章を書くということを常日頃やっていることが、仕事にも役立つし、役立つからまた書くし、といういいサイクルを生み出しているのでしょう。
また、いいこと言っているなぁと思ったのは、書くことで自分の考えが整理されていく、また、理論の綻びも見つけられるという指摘です。
たしかにね。
考えを書くというよりは、書いたことが自分の考えになる、というのに近いのかもしれません。

世の中全体がIT・データサイエンスという方向に向かいつつある今だからこそ、分析にあたっての心得を整理した本書は、ぜひ多くのひとに読まれるべき一冊だと思います。



ーーー


データサイエンス入門 (データサイエンス大系)は、なかなか読みやすかったです。
本当に基本のき、という感じ。
会社を変える分析の力も、本書の中で紹介されて読んだものです。
実務的な話に興味がある方は、下の本もおすすめです。

ただし、少し進めてみるとわかりますが、「どう分析するか」よりも「何を分析すれば、何がわかりそうか」という問いを立てることのほうが重要です。
ツールはどんどん進化していますから、統計の知識なんてなくても解析ができる時代になっています。
だから、問いを立てる力(課題発見能力)が必要なのですが、それはやっぱりいろいろなアンテナをはって(コミュニケーション能力、クリエぃティビティを発揮して)、日々の業務に取り組むということが大事なのかなぁと思います。

共働き社会は格差を固定する



結婚と家族のこれから~共働き社会の限界~ (光文社新書)

仕事と家族 - 日本はなぜ働きづらく、産みにくいのか (中公新書)人口減少社会の未来学を上げながら、出生力の回復に向けて、女性の社会的なつながりと経済基盤の確保の重要性を指摘しました。
しかし、結婚と家族のこれから~共働き社会の限界~ (光文社新書)では、共働き社会の実現は、必ずしもいいことばかりではないことを突きつけてきます。
共働き社会は、格差の固定を引き起こしかねないのです。

原因は、女性の社会進出が進む一方で男性の非正規雇用率を高まっていることが一点。
また、人は、放っておくと価値観や考え方の近い同類と結婚する傾向があるという点がもう一点。
この2つが組み合わさるとどうなるか?
その答えが、「傾向として、金持ち同士、貧乏同士のカップリングが増える」という事態に至る、というわけです。

私の読んだ限りでは、これを解決するすべはまだ見つかっていないようです。
著者は税の仕組みからこの解決が測れないか?との問を立てますが、税の仕組みは一長一短あり、あちらを立てればこちらが立たずと言った状況で、バシッと解決する方法はまだ見つかっていないのだとか。
具体的に言えば、あんまり高所得者に税金をかけ過ぎるとカップルが成立しにくくなるし、かと言ってやすくすると格差が広がる…そんな感じです。
筆者は最後に、「結婚しなくても困らない社会を作ること」が大事では?との提言をしていました。

以下は私の感想です。
「結婚しなくても困らない社会」この実現にはもうベーシック・インカムしかないのでは?と早合点したくなります。
ベーシック・インカムであれば、低所得の人のほうが税的な補助が多くなるし、子供を生むことで収入が増えるわけだから出生力にプラスに働くと思われます。
また、そもそも子供を経済的な負担から作れないという事態は減るのではないでしょうか。
加えて言えば、こうした経済的な基盤があることで、ケア・サービスに就職するハードルも下がり、サービスの拡充が格差の是正を伴いながら、進んでいくのではないでしょうか?
(ちょっと話がうますぎるので、眉唾ものですが)

ちなみに、現状ではケア・サービスは格差が前提で供給されており、ケア・サービスは供給する側が、自分たちのケアの機会を奪われる事態が生じています。
例えば、移民のケア・ワーカー(ナニー)は、自分の子供のケアを自国のケア・ワーカーにまかせています。
つまり、国と国との格差を利用して、先進国はケア・サービスを享受しているわけですね。
ケア・サービスを受けれる経済的に優位な女性しか、経済的な安定を得られないという格差の固定化が進んでいるようです。



ベーシック・インカムに興味のある方は、下の書籍もご参考になさってください。
   

関連記事
【読了】AI時代の新・ベーシックインカム論(井上智洋著、光文社新書)
【読了】ベーシック・インカム(原田泰著、中央公論社新書)

【読了】仕事と家族(筒井淳也、中公新書)



仕事と家族 - 日本はなぜ働きづらく、産みにくいのか (中公新書)を読みました。

女性の長期的な収入確保をどうするかが出生力に影響するようです。
ノルウェー(大きな政府)とアメリカ(小さな政府)はどちらも先進国の中で出生力が回復している国なのですが、その2つの国と他の国を比較しながら、そのことを本書は論証していきます。

それらを踏まえて、「日本ではなぜ少子化が進んでいるのか」といえば、日本は総合職という男しか働けない環境が広く整備されており、政府も企業のこの雇用体系をずっと支援してきたから、とのこと。
(そのおかげで財政支出を抑えることができたから)
こうすることで、女性は家庭にいることしかできなくなってしまったわけですね。
ここには農家を含む自営業がどんどん減っていったという背景も関わります。

このことはつまり、国が企業の働かせ方を変えさせれば、極端な少子高齢化を回避することができたと言えます。
でも、それをしなかった。
そこには戦争を経験した国民の「出産についての言及を忌避したがる感情」があったということもあるということですが、だからといって政府がそこまで具体的な対策を取ってこなかったことを否定できるわけではありません。
要するに国民・政府が目をそらし続けているわけですね。

また、個人的には、産業界の体質が全然変わっていないというのが非常に気になりました。
一大学人としては、これだけ大学に変われ変われと言っている産業界自身が全然変わっていないと言うのは笑止千万です。
自分たちが変われないから周りに変われというのはわがままではないでしょうか?

ちなみに、私自身は、少子化問題についてはかねてから「しょうがないのでは?誰も悪くないし…」と思っていました。
しかし、本書を通読すると、政府としてできることがこんなにもあったんだなぁと勉強になりました。
(あるいはそれは振り返ってこそわかることなのかもしれませんが)
そして、私のこの政府への批判は、結局のところその政策を議論させることのできなかった有権者(つまり私)にも向かってしまうということにも気付かされます。

本書一冊で「じゃぁ、個人としては結局どうしたらいいの?」という質問に即答できるはずもありません。
(結婚して産めというのは暴論でしょう)
しかし、その答え…ではないですが、ヒントは人口減少社会の未来学にありましたので、後日紹介します。

それと、余談ですが、著者は「「共働き社会」は日本社会のこれからの社会的連帯の第一歩であると筆者は考える。」と書きますが、実は結婚と家族のこれから 共働き社会の限界 (光文社新書)において、「共働き社会」が格差を固定化しかねないという論に達します。
自分で提言した内容の、批判を自分でしてしまうと言うのは、すごいことだと感じます。
こちらについても、後日紹介できればと思います。


【読了】美術館で愛を語る(岩渕純子著、PHP新書)

『美術館で愛を語る』(岩渕純子著、PHP新書)を読みました。

「はじめに」と「終わりに」にすべての言いたいことの9割が詰められているように感じる本でした。
「自分とは異なる価値観に対する寛容性をはぐくむのが美術館の役割」という意見には賛同いたします。

美術鑑賞をどう教育に活かすのかという命題に悩む教師たちに対して、彼女は斬りかかります。

ーー美術作品とは、理解できないことをどう教材にしていいのかわからないのではなく、理解できないということがあるということを学ぶための教材なのだ。
ーーそして、他人とはむしろ違った印象を持つことを求めるための教材なのだ。

こうした寛容性についての指摘から、ヒトラーの話にまで展開していくところに、著者の強い美術愛を感じます。
たぶん彼女は本気で怒っているのだと思いました。
不寛容性とそうした態度の引き起こした歴史的残虐行為に対して。

ーーー

本書はほとんどが著者の旅行記のような形になっています。
そして、美術の本ですが、食べ物の話が多いです。
著者は、その作品の蔵されている美術館に行くことの重要性を身体的あるいは霊的な感覚をベースにして説いています。
全身全霊を用いて作品を鑑賞する際に、場としてのその美術館特有の空気が必要だと言うことだ、と私は理解しました。
そうした美術館を作るための思想というか前提となる価値観のようなものが、食べ物とつながっていると言いたいのかもしれません。
多分、食べ物と美術館は肉体や思想、文化、その他諸々の物理的な条件(気候や地勢)を媒介してつながっているのです。

また、美術の世界の裏側紹介として、社交の大変さを説明するくだりなどもありました。
社交界では個人としての資質(見た目、度胸、会話力など)が求められるようで、なかなかにしんどい世界のように思われます。
たぶん訓練だけではどうしようもない世界なのでしょう。
(もちろん、訓練しないとどうしようもない世界でもあるのでしょうが)

世界中のめぼしい美術館を紹介する本なのに、本書を読んだ後には、むしろ近所の美術館に行きたいなぁと思ったのが不思議な感じでした。
先日読んだ、『美術館へ行こう』(草薙奈津子著、岩波ジュニア新書)の著者が館長である「平塚市美術館」に猛烈に行きたくなりました。
【読了】美術館へ行こう(草薙奈津子著、岩波ジュニア新書)

 

【読了】美術館へ行こう(草薙奈津子著、岩波ジュニア新書)

『美術館へ行こう』(草薙奈津子著、岩波ジュニア新書)を読みました。



優しい語り口で美術館の表も裏も話してくれる素敵な本でした。
また、
・適当な感じで交渉に来た外部の学芸員にちょっと意地悪をしちゃった
・展示品を貸してくれない修復家に心のなかで憎まれ口を叩いちゃったり
など、所々に著者の本音が垣間見えて、非常に親近感がわきます。
ちなみに著者は平塚市美術館の館長。

以前、■子どもたちに美術鑑賞の楽しみをという記事を書きましたが、本書には以下のような記載がございました。
また最近は、小中学校での美術教育の一環として鑑賞教育に力を入れるようになってきています。おのずと美術館の出番も多くなってきているのです。(同書P25)
実際にもうこういう取り組みに向かっているのですね。
非常に素晴らしいことだと思います。
絵がうまくなくても、美術は楽しんでいいのです。
そして、自分がある作品からどう感じようと、それは個人の勝手なのです。
こういう個人の勝手な感じ方を尊重することが、個人の尊厳につながるのだということを教えることは、学校教育の非常に大切な役割だと思います。

その他、学芸員にも専門分野があるとは知りませんでした。
また、キュレーターという仕事が、学芸員の仕事を細分化した内の一つであるということもこの本で初めて知りました。
欧米の有名な美術館では、キュレーターの他にもかなり細分化された専門家が配置されているようで、日本ではまだまだ美術館の事業や学芸員の仕事の地位が低いということが伺えます。

本書の中で私が特に感銘をうけたのは、以下の箇所です。
どんなに汚い箱でも捨ててはいけないと言いましたが(中略)新しいものに勝手に変えたりしてはいけません。(中略)なぜなら、そういった古いものにはきちんとした来歴由緒があって、そのまま保管しているのかもしれないからです。歴史のあるものには思いもかけない秘密と価値があるのです。(同書P107-108、下線は私の加筆)
この一文にははっとさせられました。
これは美術作品にだけ言えることではなく、普遍的なことではないかと思わずにはいられません。
「自分には価値の分からないもの」にも「それでも価値がある」と認められること、これが知性を探求する第一歩のような気がします。
もし美術教育が、ここにまで及ぶのであれば、展示される作品や制作する作家、そして美術館・学芸員・管理方を含む行政を見る目は、輝きに満ちてくるのではないかと期待せずにはいられません。

子ども向けの本ですが、全然馬鹿にはできません。
案外大人は、子どもに向けたほうが、本音を語れるのかもしれませんね。

今度是非一度同美術館にお邪魔してみたいなぁと思います。

【読了】図書館で調べる(高田高史著、ちくまプリマー新書)

『図書館で調べる』(高田高史著、ちくまプリマー新書)を読みました。



図書館の存在意義を探りながら、その中で司書として働く著者が「どうやって図書館で情報を探すか」について解説していく本でした。
2時間ほどで読める優しい本でしたが、目からうろこが落ちた気持ちです。
特に分類から情報を探そうという発想は、知るだけで役に立つ知識だと思います。
ワード検索だけでは、なかなか情報にたどり着くことが難しいという前提を知らないと、なかなか飲み込めないかもしれませんが、「情報」が「肉まんの中のたけのこ」を探すような作業だと捉えると、ちょっとわかるかもしれないと思いました。

簡単に説明をすると、「たけのこ」でヒットする本を調べると、「たけのこの育て方」「美味しいたけのこレシピ集」などの本がヒットするでしょう。
「肉まんのあんの作り方集」「肉まん文化史」と言う本仮にあったとしても、「たけのこ」というワードではヒットしないわけです。
ではどう調べるか?
まずは「料理」、「中華」という少し包括的な情報を扱った書籍を調べるのです。
この包括的な情報というのが「分類」に当たるということです。
書架にはこの分類でまとめられて本が並べられるので、そのへんの本をめくっていけば、欲しい情報の周辺情報などが得られて、芋づる式に情報に近づいていくことができます。
要するに、いきなり中心に行くんじゃなくて、まずは周りから見ていったほうが、結局は早いし、自分のレベルにあった情報に行き着く可能性が高いですよ、ということですね。

また、情報量が必ずしも調べやすさに比例するものではなく、したがって大きい図書館だからいいということではないという指摘もありました。
むしろ小さい本だからこそ、限られた書籍の中から様々な本に横断して調べる力がつくのだとか。
また、どうしても深い知識を必要とする場合には、取り寄せることなどもできると紹介されています。
どうしても行き詰ったときには、図書館の重要なサービスの一つとして「司書によるリファレンス(相談)」がありますので、それをどんどん有効に使いましょうとのことでした。

今後図書館で調べ物をするときに、非常に役に立つ知識・考え方が整理された素敵な本だと思いました。

ーーー
この本を読んで思ったのは、「先日疑問に思った”屏風”のこともそうやって調べればよかったのかもしれない」ということです。
何もいきなり『屏風と日本人』(しかも600ページ)という対策に挑むのではなく、美術史(屏風の位置づけ)、屏風の代表作品、屏風と歴史、みたいな形で段階的、横断的に調べていったのなら、もう少し短時間で消化不良を起こすことなく調べることができたのかもしれません。
(とはいえ、通読したからこそ感じることもあるわけで、一概にどっちが良かったとはいえないのでしょう)
【読了】屏風と日本人(榊原悟著、敬文社)

今私が気にしていることは「大学はなぜ生まれたのか」「そして今大学はどういう存在であるべきなのか」ということです。
これまで『大学の理念』(ヤスパース)、『文系学部廃止の衝撃』(吉見俊哉)などを読みましたが、いずれも少し難しかった…。
もう少し柔らかく調べて行きたいと思っていたところなので、少しずつやっていきたいと思います。
できれば本書に出てくる栞さんのように、理解の流れなどをちゃんとメモとして残して自分の中に積み上げられると望ましいですね。
とはいえ、仕事でも勉強でもなんでもないので、楽しくやることを第一にして取り組めたらいいなぁと思います。

“有能さ”ついて(『「官僚とマスコミ」は嘘ばかり』から)

「有能な人間」と聞いて、どんなイメージを持つかは、多分人によってかなり違うとは思いますが、だいたい何パターンかに集約されることでしょう。
・人柄でみんなのまとめ役になるタイプ(スラムダンクの小暮先輩 等)
・個人としての能力が高い職人タイプ(ブラックジャック 等)
・時代の先を見て牽引するタイプ(スティーブ・ジョブズ 等)
などなど、まぁ上げてみればいくらでも上がるでしょうけど、こんなところではないですか?

私の中では、有能の最たるものは漫画「ヒストリエ」のエウメネスや「シン・ゴジラ」の矢口などがそうなのですが、どこがどうすごいのか、いまいち自分でも言葉にはできないでおりました。
そんな中、先日読んだ『「官僚とマスコミ」は嘘ばかり』で、以下のような表現が出てきて衝撃が走ります。

本当にできる財務官僚は、「人間的魅力」と「使命感」と「友だち甲斐」で人脈を広げていける人たちです。(中略)日本のできる官僚たちは、そのようにしてできあがった人脈を武器として国を動かしていくのです。(中略)だからこそ、先ほども述べたように、机にへばりついているばかりの官僚は「能力がない」と見なされるのです。(中略)官僚たちがそのような役割を果たしてきたことは、「国を動かす」ということを考えた場合、けっして悪いことだけだったわけではありません。(『「官僚とマスコミ」は嘘ばかり』P145〜147)

そう、まさにこのことが言いたかったんです。
人を巻き込んで、大きなことを動かしていく、そして、自分はトップではないけど多くの人間関係の中心にいて全体の方向性をコントロールできる、そういうことが“有能”なんだーー。
(このように他人の文を読んで自分の考えが適当な表現を持つというのも、読書の楽しみの一つですね)
しかし、こういう能力というのは、「才能」による部分が大きい気がします。
見た目もあるでしょうし、性格もあるでしょうし、家庭や友達の環境も大きいのでしょう。
つまるところ、「運」と言えると私は思います。
(努力できるのも才能ですから)

こういう“有能さ”というものは、残酷ながら人間社会においては普遍的なアドバンテージだと思います。
どんな組織、団体であっても、優秀な財務官僚のような人間は求められるでしょう。
しかし、頑張ってこういう人間になろう、と考えるのは、不幸な考え方ではないかと私は心配してしまいます。
同様に、「頑張って官僚になり、国を動かせ!」という叱咤激励も、励まされる側にとってはおせっかいで、危険な気づかいではないかと思われてなりません。
いかに使命が大きく、やりがいのある仕事だとしても、合わない人には絶対合わないし、こういう仕事が合う人というのはとても限られた人間だと思うからです。

冒頭でも書いたように“有能”の価値観は、個々人違います。
そして、何よりも有能かどうかは、他人が決めるという点に注意が必要です。
新自由主義的な発想であれば、当然有能な人のほうが市場価値が高いので、そこを目指しましょうという発想につながることは想像できます。
そりゃ一般論でも、無能と言われるよりは、有能だと言われたいでしょう。
ただし、皆がみんな、有能に生まれてこれるわけではありません。
ですから、有能を目指す、という考えに縛られると、自分がなんなのか、わけが分からなくなってしまうのではないかと心配してしまうのです。

AIが発展して、これまで普通に生きてきた「特段有能でもない人」たちは、仕事を失う可能性が大きくなってきます。
そうなると、BIのように、働かなくても生活を保証する仕組みが導入されることでしょう。
というか、そうならないと、皆死んでしまいます。
関連記事
【読了】AI時代の新・ベーシックインカム論(井上智洋著、光文社新書)
汎用AIがBIを連れてくる?(AI時代の新・ベーシックインカム論から②)

仕事がなくなっても、生きられる時代が来るのであれば、人生をどう幸せに生きるか、ということが重要になっていくと私は思います。
その視点に立ったときに必要なのは、むしろ「自分の能力はどのへんなのか?」ということ知ることではないかと思います。

もちろんそれは自分の限界を知ることですから、面白くありません。
でも、気持ちは楽になるでしょう。
気持ちが楽になれば、自分の生きられる世界の中で、面白いものが見えてくるはずです。

私の持論ですが、暇になれば、人間は学びます。
また、学びとは、すなわち遊びです。
学んで遊ぶといえば、研究者ですね。
つまり、働かなくてもいい時代と言うのは、世の中の皆が研究者になれる時代なのです。
人からどう思われても関係のなく、自身の興味のある研究に没頭できる世界。
成熟した社会というのは、そういう社会のことを言うのではないかと、そんなことを考えさせられました。

そして、そんな社会になったら、有能の意味合いも変わっていくのかもしれません。
本の内容とは関係ないですけどね。

余談ですが、先日根津美術館で聴いた奥平先生の話では、貴族の遊びに「和漢聯句」というものがあったそうです。
これは最初を和語の句で始め、以下五言の漢詩句と交互に詠み進めるもの(デジタル大辞泉から)だそうで、要するに連想ゲームみたいなものなのでしょう。
こういう遊びをした、ということが当時のお偉方の周りの人の日記などから確認ができるそうです。
そして、こうした遊びは、一度始まると三日三晩続いた、なんてことも書かれているのだとか。
遊び方が半端じゃないですね。
多分求められた教養も半端じゃなかったんでしょうけどね。
こういう例を聞くと、文化が遊びから生まれたという論がしっくり腑に落ちる気がしてきます。
【聴講】燕子花図と洛中洛外図(奥平俊六さん)@根津美術館

  

【読了】「官僚とマスコミ」は嘘ばかり(髙橋洋一著、PHP新書)

『「官僚とマスコミ」は嘘ばかり』(髙橋洋一著、PHP新書)を読みました。

この作品は、先日『AI時代の新・ベーシックインカム論』(井上智洋著、光文社新書)を読んで、財務省がHPで堂々と国民をミスリードしようとしていることに衝撃を受けて手に取りました。
国家レベルの虚言(AI時代の新・ベーシックインカム論から①)

本作で種明かしされるのは、官僚がいかにしてマスコミをコントロールしているのかです。
それに付随して、コントロールされてしまうマスコミとはどんな人たちなのか、ということも書かれていました。
なんとなく、記者というと、ジャーナリズムという高い志を持った、知力・体力・気力に活気あふれる人種というイメージがありますが、本書で語られる記者は知識がなく、数字が読めず、官僚の言いなりという姿が描かれています。
また、新聞やテレビというメディアは、法律に守られている存在であることも明らかにされます。
どんなふうに守られているかは、著者のWeb記事をご覧になってください。
こんなんでよく世の中のことが批判できるなというふうに思ってしまいます。
新聞テレビが絶対に報道しない「自分たちのスーパー既得権」(講談社現代ビジネス)

その他にも、例えば「フィリップス曲線」という金融政策を実施する上でインフレ目標を決める道具も紹介されていました。
インフレの状況は、常に失業率と関連して説明されるのが海外では当たり前で、インフレが進んでも、フィリップス曲線に当てはめてみて、失業率がまだ下限に達していないのであれば、金融政策を緩めてインフレに進めればいい、ということが自動的に決められるという便利な道具です。
ちなみにこの失業率の下限の始まりの場所(最小のインフレ値)をNAIRUという言うそうです。
(豆知識です)

つまり、新聞等でよく聞く、インフレ目標2.0%と言うのは、日本におけるNAIRUを目指しているわけですね。
なんで2.0%と思っていましたが、根拠があったのです。

また、著者も井上氏と同様、「財政再建には反対」の立場を取っておられます。
結局バランスシートで考えたときに、日本の財政は諸外国と比べても、そんなに悪いわけではなく、アメリカと比較しても健全で、むしろもっと積極財政を行わないとダメだとの主張です。
なお、外務省も、外国で国債を売るときには、バランスシートを使っているようです。
いかに健全なのかを伝えないと、買ってもらえるわけありませんもんね。

こうして考えると、果たして新聞とは?テレビとは?と思ってしまいます。
一次情報にアクセスしやすくなった今の社会で、報道機関とはどういう役割が求められているのかを改めて問われる必要がるように思います。
ぜひともメディアに市場経済の原理を働かせていただき、第四の権力として、既存の権力に鋭いメスを入れていただきたいと思います。
そのためにも、広く浅い記事ではなく、「経済なら〇〇新聞」「教育なら〇〇新聞」「政治なら〇〇新聞」というように、個性を強めていってほしいと思います。
そうすることが、官僚との間に緊張感を生むことにもつながるでしょう。
私は新聞を購読していませんが、そんなふうになったら私も何か購読するかもしれないなぁと思います。

いろいろな見方をする必要がありますが、自民党も、官僚も、いいところとだめなところがあるということを感じます。
極端はあまりないようです。
マスコミが盛大に何かを報道するとき、だいたいは裏にマスコミの思惑がありそうです(例:モリカケ等)。
また、本書を読むと、安倍政権は経済政策においてまともだという印象を持ちます。
実際はどうなのか、私には結論が出せませんが、少なくとも雇用は回復しているし、経済政策も誤ってはいない感じ。
賃金上昇という目に見える効果が出るのは、どうもこれからのようです。

それから、官僚も有能な人が働いてくれているのだろうな、と少し安心しました。
なんとなくドラマなどの影響なのか、官僚と政治家は悪いやつばかりというイメージがありましたし、また、本書の中でもしょうもないのもいるような描写もありました。
しかし、それもやっぱり極端な話で、殆どの人は誠実に働いているんだろうなぁと思わされます。
じゃなきゃ、とっくにもっと大変なことになっているように思われます。
(とはいえ、消えた年金問題なんかのように、大変なことになっちゃった例もありますが…)

最後に、昨今の研究への助成に対する「選択と集中」についても、非常に珍しい理系出身の財務官僚として、疑問を投げかけています。
結局研究とは博打で、ハズレは多いが、当たればすごいことになる。
どのくらいすごいかというと、ハズレを全部取り戻してあまりあるくらいにすごいことになる。
ところがどっこい、(選択と集中をすると言っても)当たるかどうかは、やってみないとかわからない。
だから、投資と考えるべきだ、という論ですね。

これは、教育に関連する仕事をしている人間としては、非常にありがたい気持ちと、そのとおりですよね、という共感の気持ちがわきます。

研究とは、長期にわたるものです。
そして、成果が出てくる可能性は未知数です。
でも、それをやらなければ、革新的な技術発展はありえない。
であるならば、未来のために投資をしようという発想は、至って当然の発想であるように思います。
「明日の便利より、今日の飯」という状況の方ももちろんいるでしょう。
しかし、国の方針として、やはり未来の世代のことにも思いを馳せて予算を分配してほしいと思います。
そして、それは理系の技術的なものだけではなく、文系の文化的なものについても同様に発展と保存を目指して、支援をするべきではないでしょうかーー。

と、そんなことを思ったのでした。

【読了】AI時代の新・ベーシックインカム論(井上智洋著、光文社新書)

先日の記事『【読了】ルポ 中年フリーター(小林美希著、NHK新書)』でも引用をした『AI時代の新・ベーシックインカム論』を読みました。

めちゃくちゃおもしろい本でした。

まずは経済の話から入り、AIの今後に触れ、ついで政治的な思想に移り、最後はVR技術で締めくくるという構成。
非常にテーマが広く、かつどの項でも易しく、わかりやすい表現で説明がされており大変勉強になりました。
読んでみると、BIの導入は当然のように思えてきます。
著者の予想では2030年頃には汎用AIができ始めて、BIが導入されないならディストピアになりかねないと警鐘を鳴らします。
また、BIが導入されないと、消費がダメになるため、結局は経済が立ち行かなくなるとも主張。
要するに、BI等のバラマキをするしかないという結論になるということを説明していました。
2030年に失業か…と思うと、真面目に働くのがもう馬鹿らしいことのように感じてしまいます。
でも、著者の主張は笑ってしまうくらい肯定できます。
私もまた、リバタリアンでリベラリストなのかもしれないなと感じました。

あまりにも面白かったので、①貨幣制度、②AIの発展、③VR技術の3項目について、別途思ったことなどを書ければなぁと思います。
本書を簡単にまとめると、①により財源の確保は問題ないどころか、財源確保を行うためにもバラマキが必要だと主張します。
②によって雇用がなくなることを示し、BIが導入されるだろうと論じます。
導入には、「儒教的な道徳観」から派生してくる暗黙のルールが邪魔をするだろうと予想。
最終的にはBIの導入により人々はより人間らしく生きることができるだろうとまとめるかと思いきや、③の出現によって、人間の営みとは?という問を立てて幕が閉じます。
AI、BI、VRの導入で、これまでに実現しなかった優しい世界ができるかもしれないけど、それってどうなの?という問ですね。

少し方向はずれるかもしれませんが、どんどんと『素晴らしい新世界』(ハックスリー)の世界観に近づいているように感じます。
(そのうち発生も管理されるかもしれません)

また、「無知のヴェール」などの話を読むと、自分の人生も「たまたま」の上に成り立っていると理解でき、他の人に対して少し優しくなれる気がしてきます。

押し付けがましいところのない、素敵な本だと思いました。





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【読了】ルポ 中年フリーター(小林美希著、NHK新書)

『ルポ 中年フリーター』(小林美希著、NHK新書)を読みました。



序盤、胸が痛くなる話が多いですが、最後には希望の光が差すという構成でした。
今後は少子化ですし、人材の確保が難しい時代になることが予想されるわけですが、こうした流れで中年のフリーターの方たちの可能性が明るいものになればいいなと感じます。
(移民の政策が進まなければの話ですが…)
しかし、前半の重さと言ったら…そこには”THE貧困”があぶり出されていました。

レールから外れると、もうレールには戻れず、かつ、ほとんど即貧困につながる流れが、取材を通じて見えてきます。
どう考えてもセーフティネットが機能していないと思わざるを得ません。
(本書では、アクセスに問題があるのか、法律・行政の運営に問題があるのかは触れていません)
この辺を知ると、ベーシックインカムの導入が本気で期待されます。
ベーシックインカム関連の本を読みたいと感じました。

また、あまりにも理不尽な働き方や生活を強いられているケースもあり、とても胸が締め付けられます。
自分はたまたまいい仕事につけたように思えます。
そしてそのことが少し後ろめたく思われるほどです。

『AI時代の新・ベーシックインカム論』の著書である井上智洋さんは、同著の中で以下のようなことを記載しています。
(私は大いに賛同するため、長めに引用させていただきます)

そう考えると、今、私がニートやホームレスではなく大学教員でいられるのは、究極的のところ偶然にすぎない。そして、私だけでなく、今順調な人は人生を歩んでいるという人は、等し並に運がよいのではないだろうか。(中略)人は、病気や障害、高齢、失業など様々な理由で貧困に陥る。純粋に労働意欲がなく怠けるというケースも中にはあるかもしれない。だが、勉強意欲や労働意欲がないことも、広い意味ではハンディキャップとはいえないだろうか? そうした人たちにも、生きる権利があってしかるべきではないだろうか? 生まれる前にまで遡行すれば、自分がホームレスになる人生を歩んでいたという可能性を私は全く否定できなくなる。その可能性に思いを馳せたとき、「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」が保証された社会であって欲しいと願わずにはおれない。
本当にそのとおりだなぁと思います。
たまたま、自分は今の状況にありますが、そうでない可能性もあったわけです。
そう考えると、この社会でのうのうと生きてこれたことがなんだか綱渡りをしてきたように感じられます。

安定ばかりを求めては行けないと、おじさんたちは言いますが、こういう本をよむと安定こそ一番大事と思えてしまいます。
エイベックス社の社長が言う「安定しているからこそ、付加価値を生むことができる」という言葉は印象的でした。

個人としては、人とうまくやり、少しでも他社の成長に貢献できるように慣れればなと、薄っぺらい気持ちをつのらせています。

また、やはり子どもには、安定を求めてほしいなぁと感じます。
そして、その事自体は、親としては寂しくもあります。
叶うならば、ベーシックインカムのようなセーフティネットの充実した社会で、本人の希望に沿った生き方が選べればなぁと思います。

仕事の有無にかかわらず、その人の尊厳を保てる仕組みがあるといいなぁと心から願うばかりです。



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【読了】マインド・コントロール

『マインド・コントロール(増補改訂版)』(岡田尊司著、文春新書)を読み終えました。
知っているか知らないかで、それこそ人生を変えるかもしれない、そんな内容でした。


人は、こうも簡単な原理でマインド・コントロールに陥るものかと驚きます。本書の中でも、近年「自由意志」に対する信仰に近い考えがあらたまり、本人の思想・行動に強制的な介入も認められるようになってきた、と語られていますが、たしかに自由意志というものが如何に心もとないかを考えさせられます。
恐ろしいのは、「私」はそれを望んでやっている、と「思わせられる」こと。自覚がないことですね。
本書のいいところは、マインド・コントロールの発展してきた歴史やマインド・コントロールのかけ方という技術的な側面に限らず、どうやったら自分や周りの家族たちを守ることができるかという対策の側面にも触れているのが良いと感じます。
もちろん、それを知っているからといっても、拉致、監禁の後に強制的なマインド・コントロールをされてしまえばどうしようもないのですが、日常生活上でのマインド・コントロール(に近いもの)とは一定の免疫を持って立ち向かえるようになれそうです。
ポイントは「自立と依存」。結局は自分の人生を主体的に生きようとしているかどうかが、マインド・コントロールにかかりやすい・かかりにくいを決めているようです。

自分の場合はどうか、と振り返ってみると、私はどうも(特に仕事において)嫌なことをする人に積極的に関わろうとする傾向があるのを感じます。
多分コミュニケーションを重ねることで、心理的・肉体的な不快感が少なくなるようにする無意識の処世術なのでしょうが、これはある意味において嫌なことをする人に縛られている(依存している)状況ともみれます。
…気をつけようと思います。

また、依存の話で出てくるのは、家族の絆が重要という、割りと一般論的な話がされます。
結局は、普遍的な愛やつながりを求めるが故に、マインド・コントロールによって別のものがその普遍的愛やつながりを約束し、その人の価値観を換えてしまうわけです。
だから、安全地帯としての家族というユニットが正常な関係を回復した時、その人のかかっているマインド・コントロールは前提を失い、もろくなるようです。
近年、自己実現に重きが置かれ、家族の価値が少しずつ低下していると感じるのは私だけでしょうか。こうした時代において、マインド・コントロールの危険性が拡大しているという強い懸念を感じます。

本書は、洗脳やマインド・コントロールの歴史にも多くの紙面が割かれています。
マインド・コントロールの歴史は、戦争の歴史と、近代では大衆コントロールの歴史とリンクしていますので、必然、戦争や広告、選挙の手法の遷移についても学べるという趣向になっていました。

また、仕事や人間関係に活かせるテクニックも多く、非常に参考になる本だとも感じます。
矢継ぎ早に話す、善意の第三者になる、相手に共感してみる、断定を避ける、付加疑問的な会話・投げかけをする、などがそれです。
これらのテクニックは、マインド・コントロールの発展とともに編み出された手法を応用して、日常生活を有利に生きるための知恵と考えることもできますが、当然悪徳商法にも使われるため、上のような手法で何か自分に訴えかけてくる人には、よく注意したほうがいいと思われます。

便利は危ない。
危ないは便利。
そんなマインド・コントロールの大まかな概念がつかめる本でした。

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【読了】春画入門(車浮代著、文春新書)


春画を鑑賞するための基本の「き」を解説する入門書。
本当に、入門!という感じで、すぐに鑑賞に役立つ基礎知識がまとめられていました。
特に面白いのは、技術について詳細に説明をされていることです。
前提として、すでに江戸時代には、現在もある出版のシステムのようなものが確立されていて、版本(企画、立案)したものを絵師、彫師、摺師の三者が共同で作る形になっていたようです。
そして、大体、私たちはいつも絵師のことばかり話題にしますが、実は浮世絵の作成について一番重要なのは彫師なのだそう。
そして、次が摺師で、絵師は実は割りとかんたんになれる仕事だったようなのです。

絵師が優秀な彫師に下絵を渡す際には、下絵の髪の部分などにどう描くか文字で指示書きしておけば、後は彫師が掘ったというのだから驚きです(例えば、頭に髪型(丸髷など)の指示書きをしたりした)。
そして、彫師の技術は、1ミリの中に3本の髪の毛を彫ると言われているくらい、精巧なものであったということが紹介されていました。

また、摺師についても、彫師同様職人適な技術が求められますが、彼らの技術があったからこそ、版画にグラデーションを凝らしたり、エンボス加工をしたりということができたのだそうです。
ちなみに、摺師によって、最終的な作品の出来は大きく変わるらしく、だいたい最初の摺りを熟練者がやるため、次第次第に絵の色合いや重ね方が雑になるということが説明されていました。
面白いですね。

本書の良い点は、西洋に与えた影響にも言及をしているところだと感じます。
1800年台後半のパリ画壇が重視する写実主義に対して登場した、後に印象派と呼ばれる画家(例:モネ、ドガ、ルノワールなど)も浮世絵(春画も含むかもしれない)に影響を受けているとのこと。
そういうことを知ると、また美術展に行きたくなってきますね。

先日読んだ『春画の見かた』(早川聞多著)のときにも思いましたが、やはりくずし字を読めるようになりたいという思いが溢れ出ています。
すごいモチベーションに包まれて、まるで超サイヤ人になったような気分です。
実はもう、くずし字の練習に関する本を図書館に予約をしているので、借りたら勉強を始めたいと思います。


【読了】性のタブーのない日本(橋本治著、集英社新書)


読みました。
いやあ、面白かったです。
何でしょうね、この淡々とした展開。
独特のテンポの文体で、スイスイ進んでいきます。
他人事な感じがまたたまらないです。

見る=やる、という前提に立つというのは、目からウロコでした。
そんな前提を知ると知らないとではそれは鑑賞の深さが違うでしょう。
とんでもない設定ですね。

現代でも、コミケや同人誌、企画物などがあったりと、決して古事記の世界から私達の本質的な「生理」は変わっていないように思いました。
もしかしたらそれは過去の作品へのオマージュとして現代に生み出されているのかもしれませんね。
あるいは、私たちは、そういう性癖を持っているのかもしれません。
でもしょうがないですよね。
それは「生理的なものだから」しょうがないのです、という著者の言葉がよくわからないけど腑に落ちました。

「いろんなことがあったけど、まぁ人間ってそういうもんだよね」という達観した思想のようなものが、日本の歴史の中にはあったんだということを俯瞰できる(ような気がする)一冊でした。

ぜひ中学生くらいの子どもたちに読んでほしいと思います。
こういう淡々とした古典への入門書(?)が、自分の国の文化に興味を持つことにつながると思うからです。

【読了】歴史の「普通」ってなんですか?(パオロ・マッツァーリノ著、ベスト新書)

歴史の「普通」ってなんですか? (ベスト新書)
歴史の「普通」ってなんですか? (ベスト新書)
ベストセラーズ
この方の著作は本当に毎回面白い。
昔も今も、人はあまり変わらないというのがよくわかる。
とはいえ、いろんなことが少しずついい方向にはなってるように自分には思える。
ここで言われてるような「おじさん」(新しいものを個人的なノスタルジーを基に否定する人)にならないように心がけたいものです。
後、祭りの下りでは、自分の意見も大事だけど、人の意見や論拠も同じくらい大切にしなければ、簡単に独りよがりになってしまうのだなぁと感じました。

【読了】文系学部廃止の衝撃(吉見俊哉著、集英社新書)

「文系学部廃止」の衝撃 (集英社新書)
「文系学部廃止」の衝撃 (集英社新書)
集英社
2016-02-17
前々から読みたいと思っていた本ですが、やっと読めました。
話は全然文系学部のことだけでなく、大学それ自体や大学を取り巻く人や社会についても論じている作品でした。
目白押しです。
今の大学に関する各種議論の基礎知識も得られるため、大学人なら間違いなく読むべき一冊。

世の中全体が短絡的な視点になってるのが一つの問題のように思います。
でもそれは、人口が減り、景気は良くならない社会では仕方のない事なのかもしれない。割を食うのは、多分何年も先の人だ。
それにいちいち説明をしなくちゃならない社会になったというのも大学が劣化し始めた要因ではないだろうか?
それ役に立つの?という問いに、50年か100年後に役に立ってるかもね、と答えて普通にコミュニケーションが取れるわけないものね。
でも大学はそういうところなわけで、その認識がもともと日本には希薄だったんですかね。
そういえば『東京に暮らす』を書いたキャサリン・サンソムも、著書の中で日本人は役に立つものばかりに飛びつくと述べていたなぁ。
昔っからの傾向なんでしょうかね?
東京に暮す―1928~1936 (岩波文庫)
東京に暮す―1928~1936 (岩波文庫)
岩波書店

【読了】アクティブラーニング(小鉢誠著、講談社新書)

アクティブラーニング 学校教育の理想と現実 (講談社現代新書)
アクティブラーニング 学校教育の理想と現実 (講談社現代新書)
講談社

これもいい本。
いかに私たちが過去を振り返らないがゆえに行ったり来たりしているか、ということを突きつけてくる。
主体性を育む、ということが、他者からの投げかけで「全員」に役立つなんてことがもしあるなら、人類の長い歴史の中で、なぜそれが実現できなかったのかを考えることが大切だ。
結局、素質なのではなかろうか、という悲しいところに着地させたくなってしまう。
でも、それもまたわからないのだ。
教育の難しいところは、取組と結果の関連がわからないことなのかもしれない。

【読了】ベーシック・インカム(原田泰著、中央公論社新書)

ベーシック・インカム - 国家は貧困問題を解決できるか (中公新書)
ベーシック・インカム - 国家は貧困問題を解決できるか (中公新書)
中央公論新社
大変楽しく読めた。
現実的に可能だと、データをもとに説明してくれている。
早く実現してくれたらいいのだけど…
でも世界中でまだ一カ国もやったことがないってのはどうしてなんだろうか?

以下、面白いと思った箇所。
・貧困はお金のないことなのだから、お金をばらまけばいい。
・バラマキのほうが無駄な公共事業などより平等でプラスになることが多い。
・バラまかない政策は基準の調査など無駄が生じる。

なかなか歯切れのいい展開も良かった。
自分の論拠の曖昧なところもしっかりと記載していて好感が持てる。
まめ、その上で現行よりはマシという結論もその通りだと感じる。

とどの詰まり、変えたくないから変えないのだ。
貧困が少数派だからってのもあるだろうし、頑張って働いている意識のある人はなんで働かないやつをバラマキで助けなきゃならんの?と思うのもわかる。
でも、それで貧困を解決できてないのだから、議論にはならない。
そして、著者も言うように、ベーシックインカムによって経営者と交渉ができる従業員は多く出てくるはずだ。
無理してブラック企業で搾取される世の中も変わるんじゃないでしょうか?

月7万ですよ。死ぬまで。
一人で生きていくなら、あと2-3万円あれば自分は十分だ。
そうなったらどう生きていきたいかなぁ。
バイトとボランティアでもいいかもなぁ。

辞令交付式への違和感(みんなよく参加するなぁ)

 今日は4月1日。  我社では辞令交付式が行われました。  そのため、土曜日ですが、人事課員として出勤しました。  明日も仕事なので、12連勤となります。   人事課の闇ですね。  それはさておき、辞令交付式に関して、毎年違和感を持ちます。  それは、お礼を言われる側が、何故かホ...