英語教育の危機(鳥飼玖美子、ちくま新書)


英語教育の危機』(鳥飼玖美子、ちくま新書)を読みました。
いやいや、痛快ですね。
英語にまつわる日本社会が持つふんわりとした希望に形を与え、その上でそれらをばっさばっさと切っていきます。

曰く、
・外国語のみの外国語学習はその効果が久しく疑問視されており、時代遅れの感が否めない
・外国語を学ぶことが直接異文化理解につながるものではない
→母語との差異を学ぶ必要があるが、そのためには一定の母語運用能力が必要
・外国での体験がそのまま異文化理解につながるものではない
→留学を増やせばいいというものではない
・民間試験では英語での「コミュニケーション能力」は伸びない
→そもそもコミュニケーション能力は測定ができない
などなど。


読んでみて驚いたのは、今年から導入される新学習指導要領の小学校英語についての到達目標が余りにもレベルが高すぎると思われた点です。

以下、小学校での導入される英語の実施に向けた目標(学習指導要領からの転載)
(1)外国語の音声や文字、語彙、表現、文構造、言語の働きなどについて、日本語と外国語との違いに気付き、これらの知識を理解するとともに、読むこと、書くことに慣れ親しみ、聞くこと、読むこと、話すこと、書くことによる実際のコミュニケーションにおいて活用できる基礎的な技能を身に付けるようにする。
(2)コミュニケーションを行う目的や場面、状況などに応じて、身近で簡単な事柄について、聞いたり話したりするとともに、音声で十分に慣れ親しんだ外国語の語彙や基本的な表現を推測しながら読んだり、語順を意識しながら書いたりして、自分の考えや気持ちなどを伝え合うことができる基礎的な力を養う。
(3)外国語の背景にある文化に対する理解を深め、他者に配慮しながら、主体的に外国語を用いてコミュニケーションを図ろうとする態度を養う。

鳥飼玖美子. 英語教育の危機 (ちくま新書) (Kindle の位置No.773-780). 筑摩書房. Kindle 版.

これを小学校で到達できるレベルだとするならば、今までは何だったのか。
これが絵にかいた餅でないなら、これまでの学習指導要領を採用していたことについて、文科省は謝罪をしてほしい。
私全然しゃべれないよ!
それは冗談ですが、小学校の先生は、おそらくこんな目標を達成できるような英語を、教えきれないでしょう。
教えられるなら、英会話教室を立ち上げている先生が大勢いるはずです。
政策起草者は学校の先生をスーパーティーチャー集団か何かだと思っているのではないでしょうか。

しかも、小・中・高の英語の目標がほとんど同じで、どのように接続・発展させていくのかは現場任せの様子。
これでは学校ごとや教室ごとでの到達度合いにムラが生じます。
そもそも、そういうムラを極力生じさせないための指導要領ではないのでしょうか。

さらに言えば、このご時世、翻訳は機械がやってくれる。
だとしたら、なぜに外国語を学ぶ必要があるかと言えば、自国の文化等を知るためだと思います。
他国との差異を知ることが、自国を知ることになり、異文化への寛容を助けることに外国語学習の意義があると思います。
しかし、他国との差異を知るのは、翻訳された書物(つまり母語の資料)からもできるのですから、これでもやはり外国語が絶対必要というものでもないでしょう。
やはりまずは「母語で読める」ことが重要だと思うのです。
その上で翻訳の際の微妙なニュアンスの違いなどを読み込むために、「外国語で読む」というステップに至るのではないでしょうか。

ーーー

ところで、著者の提案する英語学習では、グループワークの推奨がありました。
確かに個々人の個性を、長所を生かしたディスカッションができれば、自信につながる授業が展開できるでしょう。
しかしながら、スクールカーストなどが教室運営の要素と密接に絡んでいる我が国の学校ではなかなかなじまないという懸念が生じます。
このことは、著者の懸念している、そもそも日本人は自立した個人を育てたいのか、という疑問につながります。

もっと言えば、日本社会は本当に「自立した個人」を育てたいのか、という疑問にもぶつかる。「主体的で自立し、批判精神旺盛な個人」は、和をもって尊しとなす日本社会で果たして求められているのだろうか。欧米の教育実践の一部を恣意的に表面だけ導入しても、カリキュラムなど教育の根本を変えようとしないのは、もしかすると日本社会の本音が表れているのかもしれない。
鳥飼玖美子. 英語教育の危機 (ちくま新書) (Kindle の位置No.584-588). 筑摩書房. Kindle 版.

なるほど、我々大人たちは、「俺は喋れなくても、喋れる奴がいればいいんだ。喋れるだけでいい。批判は要らない」というスタンスだったかもしれない。
直接こうは意識していないけれど、否定はできない気がします。

そして、私の頭の中では、先日読んだ『スクールカースト』が、これはうまくいかないと警報を鳴らしています。
また、以前読んだ『アクティブラーニング』という書籍もこの辺の学びの難しさ、特に日本の教育の中での実践の難しさ、歪みやすさを指摘していた気がします。


最期に、多くの日本人が英語を喋れない最も大きな要因の一つは、外国語が必要な状況が日本にはあまりない、という点あると言えないでしょうか。
だから全員が外国語を学ぶ必要があるのかどうかをまず議論してはいかがかと思います。

  

戦艦大和ノ最期(吉田満、講談社文芸文庫)



戦艦大和ノ最期 (吉田満、講談社文芸文庫)を読みました。

父・こんなこと』(幸田文、新潮文庫)に引き続き、『困難な成熟』(内田樹、夜間飛行)で紹介されていた一冊です。

参考:
兆民先生(幸徳秋水、岩波文庫)
夢酔独言(勝小吉、講談社現代文庫)
氷川清話(勝海舟、講談社学術文庫)
父・こんなこと(幸田文、新潮文庫)

書名だけは聞いたことがありましたが、こういう内容だったのですね。
腹の奥に何か重たい物が残る一冊でした。
文語体で、リズムは堅く、体を突き刺してくるような文章です。
重油の重さが、水の冷たさが、血の臭さが漂ってくるような気がします。
読んでいると時間の間隔がおかしくなってきます。
何分間かしか読んでいないようなのに1時間近く立っていたり、何分も読んでるのに全然進んでいなかったり…これまであまりない経験をしました。

大和の大きさのせいかもしれませんが、戦場における一個人がいかに小さいのかということが強調されているように感じます。
ただ、その一方で、それでも戦場というフィールドに置いてはその小さい個人の働きが大きな役割を担っている、ということも同時に強調されているようです。

ーーー

当時から戦艦大和の最後の作戦が無謀なものだと理解されていたというのは意外でした。
そして、それでも突っ込む兵士たちの心境は結構揺れていたのだということもわかりました。
まぁそりゃそうだよなぁ、と思います。

主人公が助かって家に帰ったとき、父の「マア一杯ヤレ」と母の料理を振舞う姿に、胸がつかえるものを感じました。

 

売り渡される食の安全(山田正彦、角川新書)


売り渡される食の安全(山田正彦、角川新書)』を読みました。
面白かったです。
現政権の産業界への傾注加減がよく分かります。
本書の内容をすっかりそのまま受け取るならば、全くひどいもんです。
政権にも官僚にも呆れ果てます。
どうして種子法の廃止なんてアホな事をするのかということもありますが、そもそも「そういうことができてしまう」ということが恐ろしい。
法治国家、議会制民主主義の限界を感じます。

非遺伝子組み換え食品の表示についても、我が国では「100%非遺伝子組換位食品でないと表示できない」という法律になっており、これは他の国の「0.9%未満」等の制限を更に厳しくしたものとなっているようです。
これは、つまり非遺伝子組換え食品との表示は「ほぼできない」制度を作ったに等しいものなのです。
だって、すべての素材をそれぞれすべて調べない限り、100%の保証なんてできないのですから。
著者は、ここに遺伝子組換え作物を生産している企業の思惑を見て取ります。
もしそれが本当なら、我が国の政府は完全に腐ってますね。

ーーー

アメリカの主婦たちが組織した食の安全を企業等に訴える団体の活動紹介もされていました。
その中で、有機栽培された食品を月に1万円ほど買いましょうという活動が展開されていました。
良い活動ですね。
以前読んだ『日本の「食」は安すぎる』(山本謙治、講談社+α新書)という本でも、消費者がいいものを買うという積極的な行動が農家やサプライチェーンを変えると書いていた。
私達市民も「意識的に選ぶ」こと、そして「声を出す」ことで自分たちの食を守るという姿勢が必要なのでしょう。
私ももう少し「選んで」「積極的に」お金を使っていこうと思います。
節約ばっかりしていては、世の中良くならないでしょうからね。

ところで、この本は、以前読んだ『日本は世界5位の農業大国』(浅川芳裕、講談社+α新書)と「食料自給率」「農家補償」について正面から対立しており、あちらを立てればこちらが立たずの典型のように見受けられます。
でも、議論をすることで、対立があると認識できるわけなので、対立が生じること自体は悪いことではないのだと思います。
見る人が見れば、きっと妥協点があるはずですし、そこにこそプロの視点や議論の意義があるように思います。
(これは、農業に限りませんね)

  

教室内(スクール)カースト(鈴木翔、光文社新書)


教室内(スクール)カースト(鈴木翔、光文社新書)』を読みました。
面白かったです。
読んでいると、「あー、こういうのあったなぁ」という点が多々あります。
自分の過去を振り返ざるを得ません。
そして、自分も一部ではこういう序列形成に関与していたことを認めざるを得ません。


著者は、アンケートとインタビューを通じて、スクールカーストの構造を解明しようとします。
そして、出てきた答えは「生徒」と「教師」は同じ「スクールカースト」という序列を、前者は「権力」の階層とみなし、後者は「能力」による区分け、と見ていることがわかりました。

また、スクールカーストが「下位」の生徒には劣等感や屈辱感を与える一方で、「上位」の生徒にも上位カーストに属するものとしての義務感のような重苦しさを与えるという、両者への負の側面も解説され、単純に上位のものが優遇されるものでないことも示されています。
(それでもやっぱり「上位」のほうが何かと楽しそうですが)

ではどうすればそうした階層・序列をなくすことができるのかといえば、これは学級制度自体に伴う現象であるがゆえに、教育システムの大幅な改修が必要になりそうだと思われます。
それを鑑みた上で、著者は「当事者ができる対応策」を幾つか上げていますが、これがとても優しい印象。
特に「学校は社会に比べればよっぽど複雑」という助言は、かなり当事者(特に下位に属する生徒)を助けるのではないかと思います。
個人的にも学校というのは、「同じ年」「近い地域」の子どもたちが「10年近くも」同じ集団に属して生活の半分近くを捧げなくてはならないという、大変特殊な場所だと思います。
個人的な差異が少ない集団であれば、当然「少ない差異」の中の序列を作ろうとするのが集団です。
ましてや年齢も地域も近いのであれば、「素質」「才能」「人間関係」と言った「どうしても差が生まれるような要素」で序列を作るのは全く違和感を感じません。
しかし、社会に出れば、そういう軸で個人をソートすることは(一応)ありません。
(もちろん大きなくくりで、上級国民・下級国民なんて言葉ありますが)
適材適所とまでは行かないまでも、「まぁ我慢できる居場所」を多くの人が獲得できます。
だから、無理してまで学校に行かなくていい、という対応策もやはり至極真っ当だと感じます。

この辺は、親も理解しておく必要があるでしょう。
別にスクールカーストに疲れてしまうことは、異常ではないし、どんな理由にせよ、学校に通えないから社会に通用しないわけではない。
(例えば幸徳秋水も幸田露伴も学校を卒業していませんしね)
むしろ学校と家庭しか世界のない子どもにとって、学校が苦痛のときに、家庭でも「学校にいけ」という圧力が働いたなら、子どもはおかしくなっても少しも不思議ではないでしょう。

しかし、もしスクールカーストのような序列をなくすことを目的とするならば、本当に私たちには何ができるだろうか。
そもそも序列意識を私達からなくすことなどできるのでしょうか。
著者も「スクールカーストを意識しなかった人たち」の意見を聞く必要があると指摘していますが、本当にその通りだと思います。
もし序列を意識しない人がいるとするのであれば、その人はどういう世界を見ているのだろうか。

あるいは、それはアルプスの少女ハイジの主人公・ハイジのような人なのかもしれない。
なるほど、地球上のみんながハイジのようになれば、世界は平和でしょう。
ということで、道徳の時間にみんなでハイジを観るってのはどうでしょうか?

 

アメリカの大学の裏側 (アキ・ロバーツ、竹内洋、朝日新書)



アメリカの大学の裏側 「世界最高水準」は危機にあるのか? (アキ・ロバーツ、竹内洋、朝日新書)を読みました。
大変面白い。
私の持っていたアメリカの大学に対する「入りやすいけど卒業しにくい」のイメージは上位大学以外のことを指しており、総じてアメリカ全体のことをイメージしていたわけではなかったということがよくわかりました。

その他、面白かった点
・営利大学の存在(金さえ払えば学位が取れる)
・テニュアによって枯れ木教授が生まれている(終身雇用の悪い面)
・テニュアを取りたくて、若手は革新的な研究ができない(評価されにくい研究ではテニュアが取れない。しかも評価するのが枯れ木教授だったりする理不尽)
・授業料を高く設定し、ディスカウントする手法が流行(なお留学生は正規料金)
・やかましい学生の対応が面倒で成績を甘くつける教授が増えてる→学生の質の低下(成績が進路に直結するがゆえの問題点)
・AO入試では差別の助長が横行しかねない
などなど

文科省の政策が、アメリカを模範として、日本に良い点を輸入しようと努めてきたことは以前記事を書いた『アメリカの大学・ニッポンの大学』(刈谷剛彦)や『大学改革の迷走』(佐藤郁哉)でも紹介されていましたが、「模範としているアメリカの大学」というのは、かなり偏ったイメージのもとで捉えられているのではないかと思えてしまいます。

大学改革の病』(山口裕之)でも指摘されているように、「教育」は「社会」と密接につながっており、片方(「教育」)だけを改革しても何も変わらない、というケースが多々あるようです。
(極論とも言える例をあげれば、新卒一括採用、終身雇用が続く限り、偏差値による序列はなくならない、など)
ということで、「アメリカの教育」を輸入する際には、やはり同様にその後ろでつながっている「アメリカの社会制度や習慣」も一緒に導入する必要があるのでしょう。
問題は、その社会制度や習慣を、簡単に日本に根づかせることが容易ではないということでしょう。
だから佐藤氏や刈谷氏が指摘しているように、シラバスやTAと言った小手先の小道具の導入に終始して、最終的に要らない仕事を増やしてしまうという結果に帰結してしまう。

別に、アメリカの真似を一律にする必要はないのではないか、というのが本書を読んだ感想です。
どこの国にも良い点と悪い点があるでしょうから、特定の国の教育制度や仕組みに執着する必要はないのではないでしょうか。
特に、我が国は日本語を公用語として、海外と隣接していないという地理上の特質があります。
そのことを念頭に置かなければ、あらゆる輸入品は骨抜きになるでしょうし、かと言って極端な英語教育などを導入すれば学生も置いてけぼりになりかねません。

これの形骸化・極化を避けるためには、各大学に教育方針の設計・運営について裁量をもたせ、大学ごとの多様性を担保させることが大事だと思うのですが、大学大綱化以降もなかなか日本の大学の多様化は進んでいないことを考えると、そう簡単には行かないんでしょうね。


ーーー

また、本書を読むと学費が高く、学生ローンに悩んでいるアメリカ学生の姿が見えてきます。
その原因は職員の業務の高度化、ポストの増加だそうです。
日本でもどんどん学費が上がってますが、同じような原因なのでしょうか。
否、公的な補助金の推移が多分に関係しているのでしょうけれど、こと職員の人件費については、給与の上がり方が日本は一律なので、人件費をコントロールするという観点からするとなかなか良いシステムと言えそうです。
「やめさせられない」という条件がつく両刃の剣みたいなシステムですが。

さらに、アメリカでも成績のインフレが起きてるとは知りませんでした。
教授としては、時間を食われて成果がでないので、甘く成績をつけるというのは仕方ないのでしょう。
研究成果で評価を下せば、まぁそうなっていくでしょうね。
この辺は、日本の大学もよく考えるべきところだと思います。
大学って研究成果だけを求めるところなのか、ということです。

アメリカの入試については、特に人種の優先入試に関する記述が興味深かった。
一律にやってると、ユダヤ人ばかりになるというのもなかなか興味深い。
またアメリカにおけるAO入試は「格差を再生産させるために始まった」(表向きはもちろんそうではありません)という理解が日本には欠如しているように思われる。
確かに著者の父・竹内氏のいうように、沈思黙考型の人材も排除されてしまいますよね。
(ただ、日本の場合、AOとか推薦で合格する人は、割りといい就職に行ってるのではないかというイメージがあります。そういう調査をしている人いないでしょうか)

関連記事
大学改革の迷走(佐藤郁哉、ちくま新書)
アメリカの大学・ニッポンの大学(刈谷剛彦、中公新書ラクレ)

   

アメリカの大学・ニッポンの大学(刈谷剛彦、中公新書ラクレ)



グローバル化時代の大学論1 - アメリカの大学・ニッポンの大学 - TA、シラバス、授業評価 (刈谷剛彦、中公新書ラクレ)を読みました。
著者は刈谷剛彦。
20年近く前に書かれたアメリカの大学と日本の大学の比較論を取り扱う本ですが、とても面白かったです。
当初、20年前の本だから、あまり参考にならないかな?と思いましたが、とんでもございません。
今を考えるのに、とても参考になる本です。

著者は、アメリカでの教授経験をベースにして、さんざんアメリカの大学のよさそうな面を紹介してきたのに、まとめでは日本の大学には日本の大学の型があるのだから、無条件にアメリカの真似をしてもだめだ、といういたって常識的なまとめ方でした。
というか、そもそもアメリカの学部教育だって、いろいろな問題点を抱えていることを理解しないとだめですよ、という指摘も。
確かに、完璧な教育システムがあれば、どの国でもそれを採用しているものね。

とはいえ、どうにか良くしていこうというあがくことは大事でしょう。そのあがき方にアメリカの真似ということもあってもいいかもしれないとは思います。
その結果として、TA、シラバス、授業評価が日本に導入されて来た事自体は決して悪いことではないのだと感じます。

問題は、それらが個別の小道具として導入されてしまったことです。
例えばTA制度は、優秀な教員養成という目的があったにも関わらず、安価な人材として導入されてしまう傾向があったり、シラバスは授業ごとの契約書にもかかわらず、単なる”カタログ”として導入されてしまったり、授業評価も成績が重視されない日本では一体何の意味があるのか…ということで本当にただ導入するだけになってしまったことが問題だったのだと思います。
(この辺は、『大学改革の迷走(佐藤郁哉、ちくま新書)』が更に深掘りしています)
大学改革の迷走(佐藤郁哉、ちくま新書)

ーーー

こと教育に関するアメリカの評価できる点は、問題があったら素直にそれを認めて、改善をするところが評価されるという点にあると思います。
(我が国はまず失敗を認めることができない)
もちろん、すべての改善がうまく遂行されるわけではなく、思ってもいない弊害を生むこともあるようですが、そうして生じてきた問題にもまた対処するような風土があるようです。

とはいえ、全てにおいてそうかというとそうでもなく、例えばテニュア制度における枯れ木問題などは、結構八方塞がり感があります。
研究をやめてしまう専任教授。
この辺は日本も同じです。
しかし、個人的にはテニュア制のような終身雇用制度は大学ではなくしてはいけないと思います。
大学は社会を批判する機能を持った社会インフラであるからです。
使えない枯れ木教授が何人いたとしても、その制度をなくしてしまったら、「誰かが批判しなくてはいけないことを批判する人」がいなくなってしまう。

ーーー

本書を読むと、アメリカにおいては教育は”商品”として扱われている感じがひしひしと伝わってきます。
こういう商品を売ります(シラバス)、こういう商品だから買います(履修)、買ったあとに購入レビューをします(授業評価)、という感じ。
で、売ると言っていた商品(知識、経験など)が得られないと思われてしまったら抗議・訴訟と…この辺は少し日本とは温度差がありそうです。
ひょっとしたら、買う側の意識の高さが、売り手の質を上げてるのかもしれません。
授業料も高いですしね。

そして、「アメリカで出版されたアメリカの大学論」を扱う本を通じて、こういう風潮が大学の質にも影響を与えつつあるという指摘もありました。
(前略)アメリカの大学が市場原理にもとづき、学生や親たちを消費者とみなすようにあってきていることにある。学生たちの選択を重視する至上主義は、学生たちの求める様々な教育「サービス」の提供を大学に求める。その中で、例えば消費者(=学生)の声に耳を傾けようとする授業評価なども、学習への要求度の低い授業や、成績評価の甘い授業が学生から好意的に評価されるとなると、そのような授業の広がりを許す一因となる。たとえ一部の教員が厳しい成績評価と学習への高い要求を掲げても、選択重視の仕組みのもとでは、そういう授業の人気は下がり、学生も集まらない。そのうえ、学生や親たちが大学に求めているのは、難しい学習よりも、居心地のよい設備の完備した学生寮であったり、キャンパスでの他の学生たちとの交流や「社会経験であったりする」(R・アラム、J・ロクサ共著『漂流する大学』一三七ページ)(同書P240)
なるほど、日本も近い状況が起きている気がします。
私としては、この一文を読んで、内田先生の『下流志向』を思い出してしまいました。
日本はまさにアメリカの後を追っているようです。
どうして先人の失敗を活かせないのかという疑問は、冒頭の内田先生の話(専門家に託せない性質)につながるのかもしれません。

  

大学改革の迷走(佐藤郁哉、ちくま新書)




大学改革の迷走 (佐藤郁哉、ちくま新書)を読みました。
いやー面白かったです。
随所に皮肉が効いている、ユーモラスな本です。
ブラックユーモアですが。

この本の指摘は、別に教育だけに当てはまるものではないと思います。
内田先生が言うところの「この国の病理」の一つである「専門家のあたるべき問題を非専門家があたってしまう」ということを指摘しています。(内田樹の研究室:コロナウィルスと社会的共通資本2020-02-29 samedi)
そして、大学における政策の失敗について、本書はいろいろな角度(例えば、大学の中から、行政の側面から、などなど)から検証、評価、批判を行っています。

ポイントは以下の通り。
・シラバスの導入で事務業務が増加(しかも形骸化)
・PDCAは工場生産に用いるもので、予算管理の大学教育には適さない(PDCAは神話)
・結局PdCa(計画と評価のみ肥大してしまう。結果として形骸化する)
・KPIを目標にするのは見当違い。KPIはあくまでも達成の度合いを示す指標。
・民間の経営手法は少し遅れて(廃れはじめてから)行政や大学に入ってくるため、うまくその経営手法は機能しないし、次の経営手法がどんどん入ってきて、導入・幻滅を繰り返す
・金は出さないが口は出す行政が大学の多様性を奪っている
・日本はアメリカとは違う
・この国には、失策の責任者がいない
・この国の教育改革は小道具の変更に終止している
・理論武装するためのエビデンス集めが蔓延
・60万人調査も全然調査の手法を意識せずに進められている様子

これまでの多くの大学改革は、思いつき・思い込みをベースに設計され、やること時代に意味をもたせ、シラバスやKPI・PDCAといった小道具を導入することで現場を混乱させてきたというのが趣意。
(しかも結局形骸化して、実質化の改革を図るという始末)
原因として、それらの改革に乗っかった大学人にも問題があるとの指摘はごもっともだと思います。

著者はこれらを総括した上で、以下のようにまとめます。
もっとも当然のことながら、政治や行政の失策について指摘することと並んで大切なのは、大学と大学人がそれに対してどのように向き合ってきたかという点について改めて振り返ってみることでしょう。実際、幾つもの止むにやまれぬ事情があったにせよ、これまで大学側が「大人の事情」を優先させて示してきた対応の中には、子どもたちの未来を奪うことにつながりかねないものが含まれています。 いま必要なのは、そのようなもっぱら「大人たちの都合」だけで進められてきた従来型の改革について徹底的に問い直していくことでしょう。それは、取りも直さず、大学と大学教育が抱えている問題に関して、大学関係者が自分の頭で考え抜いた上で結論を出していくことに他なりません。そして、その結論については借り物ではない自分たち自身の言葉で表現していかなければなりません。実際、そのようにして、「大人げない話」をあえて口に出すことを抜きにしては、これから大学という場で学ぶことになる子どもたちにとって何が本当に必要になってくるのかという問いに対する答えの姿は見えてこないはずなのです。
大学は、あるいは学校は、子どもたちは、一様ではありません。
だからこそ、状況に即した対応なり対策が必要で、それは紋切り型のトップダウン式の改革では見当違いの結果を生むのは仕方のない事のように思います。
いかにしてボトムアップを促すのか、そういう発想で教育を捉え直す必要があると思います。
もし多くの人がこの「現場からのボトムアップ」を願うことができたら、その時教師と生徒の信頼関係が構築され、また地域と学校の信頼関係も整い、故に国としての人材育成も多様な、柔軟な、しなやかな形態を取れるのではないでしょうか。
優秀な指導者とは、ひょっとしたらボトムアップを促せる指導者なのかもしれませんね。
名ばかり大学生(河本敏浩、光文社新書)

この観点から考えると、刈谷氏が『教育改革の幻想』であとがきに書いていた「教育行政」を地方に委ねる、ということの重要性が理解できてくる気がします。
教育改革の幻想(刈谷剛彦、ちくま新書)
すべてを現場に任せるのではなく、現場周辺で色々と試行錯誤をしていく、そして大本の文科省が地域ごとのネットワークを形成して国としての共有を図るというのがいいのではないか。
とはいえ、これも理想論です。文科省が予算を地方に移譲するなど考えにくい。
省益と反するでしょうから。
だから、せめて大学だけは、うまくできないもんでしょうかね。
いや、うまくやるためにはやっぱりお金が必要だから、お上への忖度はなくせない。
どうも八方塞がりな感じになってしまった。どうにかうまくやる方策がないものだろうか…。

この本とその姉妹編である『50年目の「大学解体」20年後の大学再生』も近いうちに読んでみたいと思います。


   

辞令交付式への違和感(みんなよく参加するなぁ)

 今日は4月1日。  我社では辞令交付式が行われました。  そのため、土曜日ですが、人事課員として出勤しました。  明日も仕事なので、12連勤となります。   人事課の闇ですね。  それはさておき、辞令交付式に関して、毎年違和感を持ちます。  それは、お礼を言われる側が、何故かホ...