史上最強の哲学入門(飲茶、河出文庫)



『史上最強の哲学入門』(飲茶、河出文庫)を読みました。
大変面白かったです。
西洋哲学史を、単純に時系列で並べていないところがいいですね。
大きなテーマ(真理、国家、神様、存在の4テーマ)に分けて哲学者が紹介されており、「あの人の考えとその人の考えはこうつながっているのか!」、というのが理解しやすく、非常にわかりやすい。
初学者でもわかるように、かなり端折っている部分もあるため、これ一冊で哲学を知ったつもりになるのは痛い目を見そうだけど、教養として哲学の流れや、概要や、つながりを理解するのには、大変役立つと思いました。

また、現代の我々の視点をもちながら説明してくれるので、現代社会とのつながりというか、私達が日常的な事柄を考える際にも役立つと思います。
例えば、愚衆政治の話(P137)や新自由主義の話(P204〜)などは、まさに身近なニュースとも関係するトピックスかと思います。
いやいや、実際のところ、民主主義にも大きな落とし穴がある。(中略)民衆が政治に興味を持って十分に吟味したうえで投票し、優れた政治家を選べばよいが、そうでない場合、民衆は政治家の思想や公約の内容も知らずに「なんか堂々としていて、リーダーシップがありそうだから」などのイメージで選ぶようになってしまう。そうすると、煽動政治家(もっともらしく語るのが上手なだけの無能な政治家)ばかりが支持されてしまい、国家がどんどん間違った方向に進んでしまうのだ。こういう状態を愚衆政治という。(P137)

という事態がすでに2000年前の古代ギリシャでも起きていたそうで、なるほど、人間というのはなかなか変わらないというのがよくわかります。

最後に存在について、ソシュールの記号論を説明しながら、このようにまとめます。
(前略)もし、あなたに、どうしても譲れない、自分にとって一番大切な「価値のある何か」が存在するのであれば、もしあなたが死んだら、その存在はもはや存在しない。あなたが見ている「世界」に存在するものはすべて、あなた特有の価値で切り出された存在なのである。だから、あなたがいない「世界」は、あなたが考えるような「世界」として決して存在しないし、継続もしない。なぜなら、存在とは存在に「価値」を見いだす存在がいて、はじめて存在するからである。(P344)
熱い…熱すぎる…「バキ」分が溢れ出しているのを感じます。

とは言いつつも、著者のテンションは、かなり軽いです。
「よろしいならば戦争だ」
「一向に構わん」
などなどのフレーズが散見されるといえば、「若者向きで、(誤解を恐れずいえば)男の哲学入門書と言える」ということの意味が何となくわかっていただけるのではないかと思います。

実は、本書には終い本として「東洋の哲学者版」もあるそうなので、近々読んでみたいと思います。

飲茶氏の本は、こちらもおすすめ→■正義の教室(飲茶、ダイヤモンド社)

  

正義の教室(飲茶、ダイヤモンド社)



正義の教室』(飲茶、ダイヤモンド社)を読みました。
めちゃくちゃ面白かった。

正功利主義、自由主義、直観主義に対応する3名の女の子とそれらの思想に違和感を覚える主人公が倫理の先生の授業を受けながら、正義とは何かを究明していく物語。
主人公の理解と並行して、私たち初学者でも学べるように多大なる配慮がされていました。
また、3つの主義それぞれの特徴と、問題点を学びながら、ざっくりとした西洋哲学史も学べて、哲学の大きな流れが理解できます(枠の中か外かで2500年、構造主義とポスト構造主義→社会が人を形作る)。
今読んでいる『史上最強の哲学入門』(飲茶、河出文庫)とも重なる部分があるけど、どっちも読んでいるとなお面白い。

最後に主人公が採用した「特定の正義を決めないことが正義」というのは、レヴィナスの「他者」と近い発想のような気がします。
真理それ自体に価値があるのではなく(そもそも我々は真理なんていうものには到達できない。誰かが到達した真理を否定する他者の存在を否定できないから)、真理を追い求めるということが大事なのでしょう。
そして、これは他者を尊重しながら、少なくとも公共の福祉を侵さないようにして真理を追い求めていく必要があります。
しかしどうやって?

その答えとして、主人公は、衆人監視下かそうでないかに関わらず善(自分が良いと思うこと)を行うことを正義とします。
しかし、それで被る損害が大きいことは往々にしてありえそうです。
だとすると、やはり他者の視線は強いと言わざるを得ません。
そして、それは要するに我々は社会に形作られているということを否定することができないということを突きつけてくるように思える。

このまま監視社会の強化が続けば、1984年のような世界が来るのだろうか。
それはいやだなぁ。
あるいはマイノリティ・リポートのような社会か。
ただ、個人間のつまらない小競り合いはなくなりそうだから、優しい社会になるようにも思えます。
この辺の感じ方については、どう生きたいか、それによって、答えは個々人で異なるのでしょう。
そして、同一の人物であっても、年を取れば、立場が変れば、優しい社会も退屈な社会となるかもしれません。
かくして正義とはあいまいで、うつろいやすく、だからこそ問い続けなくては私たちはただの元素の塊となってしまうのです。
ただし、ただの元素の塊ではいけない、ということもないというのが味噌です。
あくまで「自分はどう生きたいのか」。
これが各個人に託されているということですね。

結論、「良きに計らえ」

 

三酔人経綸問答(中江兆民、光文社古典新訳文庫)



三酔人経綸問答 (中江兆民、光文社古典新訳文庫)を読了。
面白かった。
一年有半と異なり、原文でもちゃんと意味がわかりました。
一年有半・続一年有半(中江兆民、岩波文庫)
原文と訳文の両方が掲載されており、どちらも味わうことができる素晴らしい構成です。
校注はほとんどないけれど、行ったり来たりすれば大体の意味はつかめます。
どちらも独特のリズムがあって、面白い。

さて、本書は問題提起の本だと思います。
当時の日本における課題とそれを取り巻く活動や世論をわかりやすく分類し、整理して、一冊の中で戦わせてしまったのだと私は理解しました。
帝国主義を読んだ後なので、どうしても幸徳秋水と洋学紳士が重なってしまいますが、その真意や如何に。
帝国主義(幸徳秋水、岩波文庫)
ひょっとしたら、これは世の中に向けてということもあるけれども、弟子たちに向けたテキストのようなものとして書かれた、という側面もあったのではないかと考えてしまいます。
対象はどうであれ、兆民自身も少なくとも多くの人間に思想という種をまくということを重視していることは確かであろうから、100%外れているということもないでしょう。
そして、多くの人の頭に残すためにあえて劇作のように拵えたのかもしれません。
確かに、座談形式なので読みやすく、自分の中で議論を咀嚼しやすい。
最終的になんの結論も書かれていないから、議論の扉は開け放たれた形で終わりますので、読後も自分の中で問い続けることができます。
ひょっとしたら兆民は、以降の議論を個々の自由に委ねることで種の肥料としようとしたのではあるまいか…。
などなど、読んだ後もなかなか楽しめる本です。

解説の中で、兆民の思想を端的に表す引用があったので、それを紹介します。

社会というものはな、秩序と進歩と相待ったものである、若しも急激に事を処すると飛んだ間違を起こすものぢやぞ、小児の病は癒ること速かなるが大人はそふぢやない。社会は成長すれば其構造も発達するものぢや、丁度人間の成長するに能く似て居るものぢや、斯く永久の年月を経て進歩する性質のものであるから、之れを改良するにはヤツパリ進歩の法則に従ひ、次第次第に根本的改良に従事せねばならぬものぢや、若しも急激に荒療治をするときは、正当なる身体をして却って害毒を来たし、不健康に陥らしむることがあるものぢや、徐かに急げとは社会改良家の一日も忘るべからざる言ぢや、理解たか理解たらモー帰れ帰れ(『中江兆民全集』第十七巻)(欄外に曰く。さあ、早く家に帰って『三酔人経綸問答』を読もう)(三酔人経綸問答P188)

改革を叫ぶ人は、この論をよく考えてみる必要があるだろう、ということを、以降頭の片隅に置いておきたいと思います。

 

一年有半・続一年有半(中江兆民、岩波文庫)



一年有半・続一年有半 (中江兆民、岩波文庫)を読みました。
面白かったです。
兆民先生はこういう本を書いていたのですね。
なるほど、幸徳秋水は完全に文体を引き継いでいます。

一年有半については時事の話が多く、なかなか進みませんでした。
難しい。
解説を読むと、なるほどそういうところを楽しむものかと関心する。
一緒に三酔人経綸問答の現代語訳を読んでいますが、現代語訳だと明治に書かれたものとは思えません。
付録の原文も現代語訳を読んだ後ということもあるのでしょうけれど、なかなか分かります。
そう考えると、多分この一年有半が難しいのでしょうね。

一方で、続一年有半については、大変分かりやすかったです。
以前世界十五大哲学で紹介されていた内容のほとんどが、続一年有半から引用されているようでした。
兆民先生(幸徳秋水、岩波文庫)
この続一年有半が兆民先生の絶筆となるのですが、本書はまさに兆民先生の集大成だったのだと思います。
内容はいたってシンプルで、物質(を構成する元素)は不変だが、精神は肉体より生じるものであるから死ねば消滅するという事で、それに伴って宗教や神話を木っ端みじんに退けていました。
この辺の知的な激しさは弟子の幸徳秋水にしっかり受け継がれていたのだなぁと思います。
帝国主義(幸徳秋水、岩波文庫)

ところで、本文とはあまり関係ないのですが、解説に面白いことが紹介されていました。
本書は非常にルビや校注が多いのですが、その点について訳者も解説で弁明しています。
そして、その理由に、一つの単語にいくつも読み方があって、その辺のニュアンスを楽しんでもらうということがあったようです。
例えば、「未曾有」に5通り、「正真正銘」に4通りの読み方があったのだとか。
あとは、「無害」というのが「無類」の意味だったりしたそうです。
それゆえに訳者は、あえて極力校注を入れたとのこと。
そして、ここには訳者に影響を与えた一言があったとのこと。
やさしいことのむずかしさをしることはむずかしい(里見弴、文章の話)
なるほど、わが身をよく省みたくなるお言葉です。
当たり前のように古典を楽しんでいますが、そこには必ず訳者、解説者の尽力があることに思い至ります。
こうした翻訳をしてくれる方がいるおかげで、私のような無学な人間でも尊い書物と交わることができるのですから、翻訳とは、誠に偉大な仕事のように思われます。
(欄外に曰く、英語教育の必要性ここに見つけたるか)
英語教育の危機(鳥飼玖美子、ちくま新書)

  

菊と刀 (ルース・ベネディクト、講談社学術文庫)



菊と刀 (ルース・ベネディクト、講談社学術文庫)を読みました。
面白かったです。

本書のタイトルは「日本人は圧力をもって菊をあたかも自然にあるように、育てる。そして、自身を刀と捉えてその美しさを保つところに美意識を感じる」ということを表しています。
本書はそのことを様々な角度(歴史、生活様式、教育、など)から分析している本です。
至る所に「あー、確かに」「なるほど、そう考えれば筋が通るな」という点が多々ありました。
これで一度も日本に来ていない人が書いているのだから信じられません。
解説者も書いていましたが、是非日本に来て直に観て、追加の分析をしてほしかったものです。

驚くべきは、アメリカが戦勝後に日本を占領するにあたり、どのような統治を行うべきか、その研究を進めていたのに対し、日本においては、そのような話は一切聞かないことです。
そういう話はあったのでしょうか。
大東亜共栄圏の発想の下には戦勝後のアジアにおける統治の構想はあったのかもしれませんが、アメリカを占領してカナダやメキシコとの関係をどうしようなんて構想があったというのは聞いたこともありません。
その差が全く戦果に影響を与えなかったということは、おそらくないと思われます。

ところで、この本を読んだ今でも、日本がアメリカを統治しているイメージが全く持てません。
アメリカでは個々人が強いから、指導者層だけを操ってもダメでしょう。
ということで、アメリカが日本を統治したやり方では、おそらくアメリカを統治することはできないと思えます。
果たしてアメリカという国は、どうやったら占領できるんだろう。
(誰か考えた人の本があるなら読んでみたいです)

ーーー

著者は、先の戦争は、日本が自分のいるべき位置を確認するための戦争だったといいます。
なるほどそうかもしれないという気持ちになりました。
日本人は自分の治まりどころがわからないと、非常にストレスを感じるのが一般だというのは全く違和感ありません。
この辺は『スクールカースト』にも通じるものがありますね。
教室内(スクール)カースト(鈴木翔、光文社新書)

なまじ日清、日露で買っちゃったから、どこまでつきすすむべきなのか、分からないまま、いけるところまでやってしまった、という事なのかもしれません。
そして、限界が来たら(敗戦において)、ここが限界だと気づいて、すぐに方向転換してしまう性質も私たちの特徴のようです。
結構図太い民族のようです。
これらは、恥の文化(西洋の罪の文化との対比)にその一因があることも指摘されていました。

また、この本で指摘されるまでは当たり前すぎて気にもとめなかったことがいくつもありました。
例えば、義理と義務、人情、歴史、誠(まこと)など、欧米人はこういう見方をするのか、というさわやかな驚きを何度も経験できます。
全く意識せずにこれらの運用を私たちがしてきたということも目から鱗でした。
異文化理解とは、つまるところ、こういうことではないでしょうか。
他者から見た自己を理解し、その差異にスポットライトを当てて自他を理解する。
そして、外国語でなければ光を当てることのできない箇所がある、という点に、外国語を学ぶ意味があるのではないかと、そんなことを思いました。
英語教育の危機(鳥飼玖美子、ちくま新書)

本書を読んだからどうなる、という事ではないのでしょうけれど、本書を読んだ人と読んでいない人とでは、日本人としての自分の行動原理への理解度が大きく隔たれるのではないかと思います。
自分の行動原理が理解できたからと言って、得するもんでもないのでしょうけれど、気心のしれない他人と接する際に自分を律することに対しては、いくらか役に立ちそうな気がします。

本書は、解説もなかなかいい感じでした。
読みながら、なんとなくもやもやしていたものについて、詳細に解説しくれました。
ぜひ、解説もご一読をおすすめします。

英語教育の危機(鳥飼玖美子、ちくま新書)


英語教育の危機』(鳥飼玖美子、ちくま新書)を読みました。
いやいや、痛快ですね。
英語にまつわる日本社会が持つふんわりとした希望に形を与え、その上でそれらをばっさばっさと切っていきます。

曰く、
・外国語のみの外国語学習はその効果が久しく疑問視されており、時代遅れの感が否めない
・外国語を学ぶことが直接異文化理解につながるものではない
→母語との差異を学ぶ必要があるが、そのためには一定の母語運用能力が必要
・外国での体験がそのまま異文化理解につながるものではない
→留学を増やせばいいというものではない
・民間試験では英語での「コミュニケーション能力」は伸びない
→そもそもコミュニケーション能力は測定ができない
などなど。


読んでみて驚いたのは、今年から導入される新学習指導要領の小学校英語についての到達目標が余りにもレベルが高すぎると思われた点です。

以下、小学校での導入される英語の実施に向けた目標(学習指導要領からの転載)
(1)外国語の音声や文字、語彙、表現、文構造、言語の働きなどについて、日本語と外国語との違いに気付き、これらの知識を理解するとともに、読むこと、書くことに慣れ親しみ、聞くこと、読むこと、話すこと、書くことによる実際のコミュニケーションにおいて活用できる基礎的な技能を身に付けるようにする。
(2)コミュニケーションを行う目的や場面、状況などに応じて、身近で簡単な事柄について、聞いたり話したりするとともに、音声で十分に慣れ親しんだ外国語の語彙や基本的な表現を推測しながら読んだり、語順を意識しながら書いたりして、自分の考えや気持ちなどを伝え合うことができる基礎的な力を養う。
(3)外国語の背景にある文化に対する理解を深め、他者に配慮しながら、主体的に外国語を用いてコミュニケーションを図ろうとする態度を養う。

鳥飼玖美子. 英語教育の危機 (ちくま新書) (Kindle の位置No.773-780). 筑摩書房. Kindle 版.

これを小学校で到達できるレベルだとするならば、今までは何だったのか。
これが絵にかいた餅でないなら、これまでの学習指導要領を採用していたことについて、文科省は謝罪をしてほしい。
私全然しゃべれないよ!
それは冗談ですが、小学校の先生は、おそらくこんな目標を達成できるような英語を、教えきれないでしょう。
教えられるなら、英会話教室を立ち上げている先生が大勢いるはずです。
政策起草者は学校の先生をスーパーティーチャー集団か何かだと思っているのではないでしょうか。

しかも、小・中・高の英語の目標がほとんど同じで、どのように接続・発展させていくのかは現場任せの様子。
これでは学校ごとや教室ごとでの到達度合いにムラが生じます。
そもそも、そういうムラを極力生じさせないための指導要領ではないのでしょうか。

さらに言えば、このご時世、翻訳は機械がやってくれる。
だとしたら、なぜに外国語を学ぶ必要があるかと言えば、自国の文化等を知るためだと思います。
他国との差異を知ることが、自国を知ることになり、異文化への寛容を助けることに外国語学習の意義があると思います。
しかし、他国との差異を知るのは、翻訳された書物(つまり母語の資料)からもできるのですから、これでもやはり外国語が絶対必要というものでもないでしょう。
やはりまずは「母語で読める」ことが重要だと思うのです。
その上で翻訳の際の微妙なニュアンスの違いなどを読み込むために、「外国語で読む」というステップに至るのではないでしょうか。

ーーー

ところで、著者の提案する英語学習では、グループワークの推奨がありました。
確かに個々人の個性を、長所を生かしたディスカッションができれば、自信につながる授業が展開できるでしょう。
しかしながら、スクールカーストなどが教室運営の要素と密接に絡んでいる我が国の学校ではなかなかなじまないという懸念が生じます。
このことは、著者の懸念している、そもそも日本人は自立した個人を育てたいのか、という疑問につながります。

もっと言えば、日本社会は本当に「自立した個人」を育てたいのか、という疑問にもぶつかる。「主体的で自立し、批判精神旺盛な個人」は、和をもって尊しとなす日本社会で果たして求められているのだろうか。欧米の教育実践の一部を恣意的に表面だけ導入しても、カリキュラムなど教育の根本を変えようとしないのは、もしかすると日本社会の本音が表れているのかもしれない。
鳥飼玖美子. 英語教育の危機 (ちくま新書) (Kindle の位置No.584-588). 筑摩書房. Kindle 版.

なるほど、我々大人たちは、「俺は喋れなくても、喋れる奴がいればいいんだ。喋れるだけでいい。批判は要らない」というスタンスだったかもしれない。
直接こうは意識していないけれど、否定はできない気がします。

そして、私の頭の中では、先日読んだ『スクールカースト』が、これはうまくいかないと警報を鳴らしています。
また、以前読んだ『アクティブラーニング』という書籍もこの辺の学びの難しさ、特に日本の教育の中での実践の難しさ、歪みやすさを指摘していた気がします。


最期に、多くの日本人が英語を喋れない最も大きな要因の一つは、外国語が必要な状況が日本にはあまりない、という点あると言えないでしょうか。
だから全員が外国語を学ぶ必要があるのかどうかをまず議論してはいかがかと思います。

  

戦艦大和ノ最期(吉田満、講談社文芸文庫)



戦艦大和ノ最期 (吉田満、講談社文芸文庫)を読みました。

父・こんなこと』(幸田文、新潮文庫)に引き続き、『困難な成熟』(内田樹、夜間飛行)で紹介されていた一冊です。

参考:
兆民先生(幸徳秋水、岩波文庫)
夢酔独言(勝小吉、講談社現代文庫)
氷川清話(勝海舟、講談社学術文庫)
父・こんなこと(幸田文、新潮文庫)

書名だけは聞いたことがありましたが、こういう内容だったのですね。
腹の奥に何か重たい物が残る一冊でした。
文語体で、リズムは堅く、体を突き刺してくるような文章です。
重油の重さが、水の冷たさが、血の臭さが漂ってくるような気がします。
読んでいると時間の間隔がおかしくなってきます。
何分間かしか読んでいないようなのに1時間近く立っていたり、何分も読んでるのに全然進んでいなかったり…これまであまりない経験をしました。

大和の大きさのせいかもしれませんが、戦場における一個人がいかに小さいのかということが強調されているように感じます。
ただ、その一方で、それでも戦場というフィールドに置いてはその小さい個人の働きが大きな役割を担っている、ということも同時に強調されているようです。

ーーー

当時から戦艦大和の最後の作戦が無謀なものだと理解されていたというのは意外でした。
そして、それでも突っ込む兵士たちの心境は結構揺れていたのだということもわかりました。
まぁそりゃそうだよなぁ、と思います。

主人公が助かって家に帰ったとき、父の「マア一杯ヤレ」と母の料理を振舞う姿に、胸がつかえるものを感じました。

 

辞令交付式への違和感(みんなよく参加するなぁ)

 今日は4月1日。  我社では辞令交付式が行われました。  そのため、土曜日ですが、人事課員として出勤しました。  明日も仕事なので、12連勤となります。   人事課の闇ですね。  それはさておき、辞令交付式に関して、毎年違和感を持ちます。  それは、お礼を言われる側が、何故かホ...