売り渡される食の安全(山田正彦、角川新書)


売り渡される食の安全(山田正彦、角川新書)』を読みました。
面白かったです。
現政権の産業界への傾注加減がよく分かります。
本書の内容をすっかりそのまま受け取るならば、全くひどいもんです。
政権にも官僚にも呆れ果てます。
どうして種子法の廃止なんてアホな事をするのかということもありますが、そもそも「そういうことができてしまう」ということが恐ろしい。
法治国家、議会制民主主義の限界を感じます。

非遺伝子組み換え食品の表示についても、我が国では「100%非遺伝子組換位食品でないと表示できない」という法律になっており、これは他の国の「0.9%未満」等の制限を更に厳しくしたものとなっているようです。
これは、つまり非遺伝子組換え食品との表示は「ほぼできない」制度を作ったに等しいものなのです。
だって、すべての素材をそれぞれすべて調べない限り、100%の保証なんてできないのですから。
著者は、ここに遺伝子組換え作物を生産している企業の思惑を見て取ります。
もしそれが本当なら、我が国の政府は完全に腐ってますね。

ーーー

アメリカの主婦たちが組織した食の安全を企業等に訴える団体の活動紹介もされていました。
その中で、有機栽培された食品を月に1万円ほど買いましょうという活動が展開されていました。
良い活動ですね。
以前読んだ『日本の「食」は安すぎる』(山本謙治、講談社+α新書)という本でも、消費者がいいものを買うという積極的な行動が農家やサプライチェーンを変えると書いていた。
私達市民も「意識的に選ぶ」こと、そして「声を出す」ことで自分たちの食を守るという姿勢が必要なのでしょう。
私ももう少し「選んで」「積極的に」お金を使っていこうと思います。
節約ばっかりしていては、世の中良くならないでしょうからね。

ところで、この本は、以前読んだ『日本は世界5位の農業大国』(浅川芳裕、講談社+α新書)と「食料自給率」「農家補償」について正面から対立しており、あちらを立てればこちらが立たずの典型のように見受けられます。
でも、議論をすることで、対立があると認識できるわけなので、対立が生じること自体は悪いことではないのだと思います。
見る人が見れば、きっと妥協点があるはずですし、そこにこそプロの視点や議論の意義があるように思います。
(これは、農業に限りませんね)

  

教室内(スクール)カースト(鈴木翔、光文社新書)


教室内(スクール)カースト(鈴木翔、光文社新書)』を読みました。
面白かったです。
読んでいると、「あー、こういうのあったなぁ」という点が多々あります。
自分の過去を振り返ざるを得ません。
そして、自分も一部ではこういう序列形成に関与していたことを認めざるを得ません。


著者は、アンケートとインタビューを通じて、スクールカーストの構造を解明しようとします。
そして、出てきた答えは「生徒」と「教師」は同じ「スクールカースト」という序列を、前者は「権力」の階層とみなし、後者は「能力」による区分け、と見ていることがわかりました。

また、スクールカーストが「下位」の生徒には劣等感や屈辱感を与える一方で、「上位」の生徒にも上位カーストに属するものとしての義務感のような重苦しさを与えるという、両者への負の側面も解説され、単純に上位のものが優遇されるものでないことも示されています。
(それでもやっぱり「上位」のほうが何かと楽しそうですが)

ではどうすればそうした階層・序列をなくすことができるのかといえば、これは学級制度自体に伴う現象であるがゆえに、教育システムの大幅な改修が必要になりそうだと思われます。
それを鑑みた上で、著者は「当事者ができる対応策」を幾つか上げていますが、これがとても優しい印象。
特に「学校は社会に比べればよっぽど複雑」という助言は、かなり当事者(特に下位に属する生徒)を助けるのではないかと思います。
個人的にも学校というのは、「同じ年」「近い地域」の子どもたちが「10年近くも」同じ集団に属して生活の半分近くを捧げなくてはならないという、大変特殊な場所だと思います。
個人的な差異が少ない集団であれば、当然「少ない差異」の中の序列を作ろうとするのが集団です。
ましてや年齢も地域も近いのであれば、「素質」「才能」「人間関係」と言った「どうしても差が生まれるような要素」で序列を作るのは全く違和感を感じません。
しかし、社会に出れば、そういう軸で個人をソートすることは(一応)ありません。
(もちろん大きなくくりで、上級国民・下級国民なんて言葉ありますが)
適材適所とまでは行かないまでも、「まぁ我慢できる居場所」を多くの人が獲得できます。
だから、無理してまで学校に行かなくていい、という対応策もやはり至極真っ当だと感じます。

この辺は、親も理解しておく必要があるでしょう。
別にスクールカーストに疲れてしまうことは、異常ではないし、どんな理由にせよ、学校に通えないから社会に通用しないわけではない。
(例えば幸徳秋水も幸田露伴も学校を卒業していませんしね)
むしろ学校と家庭しか世界のない子どもにとって、学校が苦痛のときに、家庭でも「学校にいけ」という圧力が働いたなら、子どもはおかしくなっても少しも不思議ではないでしょう。

しかし、もしスクールカーストのような序列をなくすことを目的とするならば、本当に私たちには何ができるだろうか。
そもそも序列意識を私達からなくすことなどできるのでしょうか。
著者も「スクールカーストを意識しなかった人たち」の意見を聞く必要があると指摘していますが、本当にその通りだと思います。
もし序列を意識しない人がいるとするのであれば、その人はどういう世界を見ているのだろうか。

あるいは、それはアルプスの少女ハイジの主人公・ハイジのような人なのかもしれない。
なるほど、地球上のみんながハイジのようになれば、世界は平和でしょう。
ということで、道徳の時間にみんなでハイジを観るってのはどうでしょうか?

 

アメリカの大学の裏側 (アキ・ロバーツ、竹内洋、朝日新書)



アメリカの大学の裏側 「世界最高水準」は危機にあるのか? (アキ・ロバーツ、竹内洋、朝日新書)を読みました。
大変面白い。
私の持っていたアメリカの大学に対する「入りやすいけど卒業しにくい」のイメージは上位大学以外のことを指しており、総じてアメリカ全体のことをイメージしていたわけではなかったということがよくわかりました。

その他、面白かった点
・営利大学の存在(金さえ払えば学位が取れる)
・テニュアによって枯れ木教授が生まれている(終身雇用の悪い面)
・テニュアを取りたくて、若手は革新的な研究ができない(評価されにくい研究ではテニュアが取れない。しかも評価するのが枯れ木教授だったりする理不尽)
・授業料を高く設定し、ディスカウントする手法が流行(なお留学生は正規料金)
・やかましい学生の対応が面倒で成績を甘くつける教授が増えてる→学生の質の低下(成績が進路に直結するがゆえの問題点)
・AO入試では差別の助長が横行しかねない
などなど

文科省の政策が、アメリカを模範として、日本に良い点を輸入しようと努めてきたことは以前記事を書いた『アメリカの大学・ニッポンの大学』(刈谷剛彦)や『大学改革の迷走』(佐藤郁哉)でも紹介されていましたが、「模範としているアメリカの大学」というのは、かなり偏ったイメージのもとで捉えられているのではないかと思えてしまいます。

大学改革の病』(山口裕之)でも指摘されているように、「教育」は「社会」と密接につながっており、片方(「教育」)だけを改革しても何も変わらない、というケースが多々あるようです。
(極論とも言える例をあげれば、新卒一括採用、終身雇用が続く限り、偏差値による序列はなくならない、など)
ということで、「アメリカの教育」を輸入する際には、やはり同様にその後ろでつながっている「アメリカの社会制度や習慣」も一緒に導入する必要があるのでしょう。
問題は、その社会制度や習慣を、簡単に日本に根づかせることが容易ではないということでしょう。
だから佐藤氏や刈谷氏が指摘しているように、シラバスやTAと言った小手先の小道具の導入に終始して、最終的に要らない仕事を増やしてしまうという結果に帰結してしまう。

別に、アメリカの真似を一律にする必要はないのではないか、というのが本書を読んだ感想です。
どこの国にも良い点と悪い点があるでしょうから、特定の国の教育制度や仕組みに執着する必要はないのではないでしょうか。
特に、我が国は日本語を公用語として、海外と隣接していないという地理上の特質があります。
そのことを念頭に置かなければ、あらゆる輸入品は骨抜きになるでしょうし、かと言って極端な英語教育などを導入すれば学生も置いてけぼりになりかねません。

これの形骸化・極化を避けるためには、各大学に教育方針の設計・運営について裁量をもたせ、大学ごとの多様性を担保させることが大事だと思うのですが、大学大綱化以降もなかなか日本の大学の多様化は進んでいないことを考えると、そう簡単には行かないんでしょうね。


ーーー

また、本書を読むと学費が高く、学生ローンに悩んでいるアメリカ学生の姿が見えてきます。
その原因は職員の業務の高度化、ポストの増加だそうです。
日本でもどんどん学費が上がってますが、同じような原因なのでしょうか。
否、公的な補助金の推移が多分に関係しているのでしょうけれど、こと職員の人件費については、給与の上がり方が日本は一律なので、人件費をコントロールするという観点からするとなかなか良いシステムと言えそうです。
「やめさせられない」という条件がつく両刃の剣みたいなシステムですが。

さらに、アメリカでも成績のインフレが起きてるとは知りませんでした。
教授としては、時間を食われて成果がでないので、甘く成績をつけるというのは仕方ないのでしょう。
研究成果で評価を下せば、まぁそうなっていくでしょうね。
この辺は、日本の大学もよく考えるべきところだと思います。
大学って研究成果だけを求めるところなのか、ということです。

アメリカの入試については、特に人種の優先入試に関する記述が興味深かった。
一律にやってると、ユダヤ人ばかりになるというのもなかなか興味深い。
またアメリカにおけるAO入試は「格差を再生産させるために始まった」(表向きはもちろんそうではありません)という理解が日本には欠如しているように思われる。
確かに著者の父・竹内氏のいうように、沈思黙考型の人材も排除されてしまいますよね。
(ただ、日本の場合、AOとか推薦で合格する人は、割りといい就職に行ってるのではないかというイメージがあります。そういう調査をしている人いないでしょうか)

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大学改革の迷走(佐藤郁哉、ちくま新書)
アメリカの大学・ニッポンの大学(刈谷剛彦、中公新書ラクレ)

   

アメリカの大学・ニッポンの大学(刈谷剛彦、中公新書ラクレ)



グローバル化時代の大学論1 - アメリカの大学・ニッポンの大学 - TA、シラバス、授業評価 (刈谷剛彦、中公新書ラクレ)を読みました。
著者は刈谷剛彦。
20年近く前に書かれたアメリカの大学と日本の大学の比較論を取り扱う本ですが、とても面白かったです。
当初、20年前の本だから、あまり参考にならないかな?と思いましたが、とんでもございません。
今を考えるのに、とても参考になる本です。

著者は、アメリカでの教授経験をベースにして、さんざんアメリカの大学のよさそうな面を紹介してきたのに、まとめでは日本の大学には日本の大学の型があるのだから、無条件にアメリカの真似をしてもだめだ、といういたって常識的なまとめ方でした。
というか、そもそもアメリカの学部教育だって、いろいろな問題点を抱えていることを理解しないとだめですよ、という指摘も。
確かに、完璧な教育システムがあれば、どの国でもそれを採用しているものね。

とはいえ、どうにか良くしていこうというあがくことは大事でしょう。そのあがき方にアメリカの真似ということもあってもいいかもしれないとは思います。
その結果として、TA、シラバス、授業評価が日本に導入されて来た事自体は決して悪いことではないのだと感じます。

問題は、それらが個別の小道具として導入されてしまったことです。
例えばTA制度は、優秀な教員養成という目的があったにも関わらず、安価な人材として導入されてしまう傾向があったり、シラバスは授業ごとの契約書にもかかわらず、単なる”カタログ”として導入されてしまったり、授業評価も成績が重視されない日本では一体何の意味があるのか…ということで本当にただ導入するだけになってしまったことが問題だったのだと思います。
(この辺は、『大学改革の迷走(佐藤郁哉、ちくま新書)』が更に深掘りしています)
大学改革の迷走(佐藤郁哉、ちくま新書)

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こと教育に関するアメリカの評価できる点は、問題があったら素直にそれを認めて、改善をするところが評価されるという点にあると思います。
(我が国はまず失敗を認めることができない)
もちろん、すべての改善がうまく遂行されるわけではなく、思ってもいない弊害を生むこともあるようですが、そうして生じてきた問題にもまた対処するような風土があるようです。

とはいえ、全てにおいてそうかというとそうでもなく、例えばテニュア制度における枯れ木問題などは、結構八方塞がり感があります。
研究をやめてしまう専任教授。
この辺は日本も同じです。
しかし、個人的にはテニュア制のような終身雇用制度は大学ではなくしてはいけないと思います。
大学は社会を批判する機能を持った社会インフラであるからです。
使えない枯れ木教授が何人いたとしても、その制度をなくしてしまったら、「誰かが批判しなくてはいけないことを批判する人」がいなくなってしまう。

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本書を読むと、アメリカにおいては教育は”商品”として扱われている感じがひしひしと伝わってきます。
こういう商品を売ります(シラバス)、こういう商品だから買います(履修)、買ったあとに購入レビューをします(授業評価)、という感じ。
で、売ると言っていた商品(知識、経験など)が得られないと思われてしまったら抗議・訴訟と…この辺は少し日本とは温度差がありそうです。
ひょっとしたら、買う側の意識の高さが、売り手の質を上げてるのかもしれません。
授業料も高いですしね。

そして、「アメリカで出版されたアメリカの大学論」を扱う本を通じて、こういう風潮が大学の質にも影響を与えつつあるという指摘もありました。
(前略)アメリカの大学が市場原理にもとづき、学生や親たちを消費者とみなすようにあってきていることにある。学生たちの選択を重視する至上主義は、学生たちの求める様々な教育「サービス」の提供を大学に求める。その中で、例えば消費者(=学生)の声に耳を傾けようとする授業評価なども、学習への要求度の低い授業や、成績評価の甘い授業が学生から好意的に評価されるとなると、そのような授業の広がりを許す一因となる。たとえ一部の教員が厳しい成績評価と学習への高い要求を掲げても、選択重視の仕組みのもとでは、そういう授業の人気は下がり、学生も集まらない。そのうえ、学生や親たちが大学に求めているのは、難しい学習よりも、居心地のよい設備の完備した学生寮であったり、キャンパスでの他の学生たちとの交流や「社会経験であったりする」(R・アラム、J・ロクサ共著『漂流する大学』一三七ページ)(同書P240)
なるほど、日本も近い状況が起きている気がします。
私としては、この一文を読んで、内田先生の『下流志向』を思い出してしまいました。
日本はまさにアメリカの後を追っているようです。
どうして先人の失敗を活かせないのかという疑問は、冒頭の内田先生の話(専門家に託せない性質)につながるのかもしれません。

  

大学改革の迷走(佐藤郁哉、ちくま新書)




大学改革の迷走 (佐藤郁哉、ちくま新書)を読みました。
いやー面白かったです。
随所に皮肉が効いている、ユーモラスな本です。
ブラックユーモアですが。

この本の指摘は、別に教育だけに当てはまるものではないと思います。
内田先生が言うところの「この国の病理」の一つである「専門家のあたるべき問題を非専門家があたってしまう」ということを指摘しています。(内田樹の研究室:コロナウィルスと社会的共通資本2020-02-29 samedi)
そして、大学における政策の失敗について、本書はいろいろな角度(例えば、大学の中から、行政の側面から、などなど)から検証、評価、批判を行っています。

ポイントは以下の通り。
・シラバスの導入で事務業務が増加(しかも形骸化)
・PDCAは工場生産に用いるもので、予算管理の大学教育には適さない(PDCAは神話)
・結局PdCa(計画と評価のみ肥大してしまう。結果として形骸化する)
・KPIを目標にするのは見当違い。KPIはあくまでも達成の度合いを示す指標。
・民間の経営手法は少し遅れて(廃れはじめてから)行政や大学に入ってくるため、うまくその経営手法は機能しないし、次の経営手法がどんどん入ってきて、導入・幻滅を繰り返す
・金は出さないが口は出す行政が大学の多様性を奪っている
・日本はアメリカとは違う
・この国には、失策の責任者がいない
・この国の教育改革は小道具の変更に終止している
・理論武装するためのエビデンス集めが蔓延
・60万人調査も全然調査の手法を意識せずに進められている様子

これまでの多くの大学改革は、思いつき・思い込みをベースに設計され、やること時代に意味をもたせ、シラバスやKPI・PDCAといった小道具を導入することで現場を混乱させてきたというのが趣意。
(しかも結局形骸化して、実質化の改革を図るという始末)
原因として、それらの改革に乗っかった大学人にも問題があるとの指摘はごもっともだと思います。

著者はこれらを総括した上で、以下のようにまとめます。
もっとも当然のことながら、政治や行政の失策について指摘することと並んで大切なのは、大学と大学人がそれに対してどのように向き合ってきたかという点について改めて振り返ってみることでしょう。実際、幾つもの止むにやまれぬ事情があったにせよ、これまで大学側が「大人の事情」を優先させて示してきた対応の中には、子どもたちの未来を奪うことにつながりかねないものが含まれています。 いま必要なのは、そのようなもっぱら「大人たちの都合」だけで進められてきた従来型の改革について徹底的に問い直していくことでしょう。それは、取りも直さず、大学と大学教育が抱えている問題に関して、大学関係者が自分の頭で考え抜いた上で結論を出していくことに他なりません。そして、その結論については借り物ではない自分たち自身の言葉で表現していかなければなりません。実際、そのようにして、「大人げない話」をあえて口に出すことを抜きにしては、これから大学という場で学ぶことになる子どもたちにとって何が本当に必要になってくるのかという問いに対する答えの姿は見えてこないはずなのです。
大学は、あるいは学校は、子どもたちは、一様ではありません。
だからこそ、状況に即した対応なり対策が必要で、それは紋切り型のトップダウン式の改革では見当違いの結果を生むのは仕方のない事のように思います。
いかにしてボトムアップを促すのか、そういう発想で教育を捉え直す必要があると思います。
もし多くの人がこの「現場からのボトムアップ」を願うことができたら、その時教師と生徒の信頼関係が構築され、また地域と学校の信頼関係も整い、故に国としての人材育成も多様な、柔軟な、しなやかな形態を取れるのではないでしょうか。
優秀な指導者とは、ひょっとしたらボトムアップを促せる指導者なのかもしれませんね。
名ばかり大学生(河本敏浩、光文社新書)

この観点から考えると、刈谷氏が『教育改革の幻想』であとがきに書いていた「教育行政」を地方に委ねる、ということの重要性が理解できてくる気がします。
教育改革の幻想(刈谷剛彦、ちくま新書)
すべてを現場に任せるのではなく、現場周辺で色々と試行錯誤をしていく、そして大本の文科省が地域ごとのネットワークを形成して国としての共有を図るというのがいいのではないか。
とはいえ、これも理想論です。文科省が予算を地方に移譲するなど考えにくい。
省益と反するでしょうから。
だから、せめて大学だけは、うまくできないもんでしょうかね。
いや、うまくやるためにはやっぱりお金が必要だから、お上への忖度はなくせない。
どうも八方塞がりな感じになってしまった。どうにかうまくやる方策がないものだろうか…。

この本とその姉妹編である『50年目の「大学解体」20年後の大学再生』も近いうちに読んでみたいと思います。


   

名ばかり大学生(河本敏浩、光文社新書)



名ばかり大学生 日本型教育制度の終焉 (河本敏浩、光文社新書)を読みました。
まことに面白かったです。
著者は東進ハイスクールの講師という肩書なので、予備校講師から見た学力の話なのかな?と思って読み始めましたが、そんな限定的な話ではなく、今の教育制度の根本的な瑕疵を様々なデータから考察している素晴らしい本でした。
絞れば荒れる、12歳で大きな壁、いずれも聞けばなるほど納得の論でした。

要点を列挙します。
・絞れば荒れる(大学定員の減少は、いい改革ではない)
・大学のアクセスをよくせよ(間口を拡げよ)
・初年次教育にこそ力をいれ、卒業しにくくするべき
(ちなみに、入りやすく、卒業しやすいのは日本独自。日本はとにかく私学が多すぎる)
・対策としては、「義務教育修了の資格試験」「古典読書の奨励」など
・とにかく、現行の制度設計の失敗点を認めて、いい教育を再生産できるように再度制度設計すべき(競争しても子どもは伸びない。競争すべきは大人である)
・今は大学受験も勉強をするモチベーションにできない(12歳で超えられない壁、地方と都市部の熱量差)
・東北大学が地域での勉強のモチベーションの底上げに貢献している。しかもAOの方がいい学生が入る(新しい展開。受験生も手間を理解する)
・教育を公共事業と捉えて、お金を投入することも大事(中等教育を無償化しないのは世界にも珍しい)
などなど

これらを挙げた後、著者は以下のように締めくくる。
 つまり、問題は学力論ではなく大学論なのである。まず議論の出発点を大学教育、あるいは選抜試験のありようから始めるべきなのではないか。小学校や中学校、高校を「改革」しても誰も踊らないが、大学入試が変われば、教育熱心な家庭は一斉に変化する。
 だから、小学校や中学校、高校の小手先の改革はすべてやめた方がいい。改革など何もせず、勉強をしない子供に大人が一生懸命教えるということだけを念頭に置いて行動するべきである。
 高校卒業時に中学レベルの学力を問う資格試験を実施し、それに向けて大人が競い、より多くの子供が目標を達成するべく奔走する。塾にはできないが、小学校や中学校、高校にできることは学力の底上げである。これは目立たないが、極めて重要なことである。なぜならそういう手厚い教育を受けた子供は、学校を信じ、社会を信じ、そして大人になったときに子供を学校や勉強に積極的に関与させるだろうから。
 誰がどう考えても、教育の根本はこういう営みにこそあるのではないか。そしてそう思い、行動している人は、この現代の日本において決して少ない数ではないはずだ。
(同書P196。下線は私の加筆)

義務教育終了の資格試験も無理のない提案かと思います。
加えて古典を読ませる対策も、いいなぁと思いました。
(考える子は、読めば色々考えるでしょうからね)

子どもの教育がうまくできていないと感じるのであれば、それは大人の作った制度に問題がある、というのは真摯な受け止め方だと感じます。
その上でいかに子どもの学びに寄り添うかということが重要で、子どものときに受けた対応を、その子が子ども持ったときに次世代に伝えてしまう、というサイクルができてしまうことを、大人が理解することが大切なのでしょう。
我が家の場合は、どうなのだろう。
ちゃんと子どもの学びに付き添ってあげられてるんだろか。
時々わが身を顧みないといけないなぁと反省させられます。


また、やはり教育は、現場に任せたほうがいいのだ、と言うのは秋田県の義務教育に関する対応の成果をみて思います。
そして、行政、文科省はそれらの良い点を他の地域に共有するところに役割を負うというのがいいのでしょう。
これは、■教育改革の幻想(刈谷剛彦、ちくま新書)と同じ結論です。
相手が人間である以上、画一的な対策には無理が生じてしまうのでしょう。
ましてや地域ごとに文化や風習も違うのであればなおさらです。

その点から考えると、リーダーシップを求める組織というのは、そもそも弱い組織なのかもしれません。

ーーー

大学人として、東北大学のオープンキャンパスに行ってみるのは、具体的にできる行動でしょう。
文系理系両方共なかなかおもしろそうな催しがたくさんありそうです。
http://www.tnc.tohoku.ac.jp/opencampus.php


父・こんなこと(幸田文、新潮文庫)



父・こんなこと (幸田文、新潮文庫)を読みました。

氷川清話』に引き続き、『困難な成熟』(内田樹、夜間飛行)で紹介されていた一冊です。
参考:
兆民先生(幸徳秋水、岩波文庫)
夢酔独言(勝小吉、講談社現代文庫)
氷川清話(勝海舟、講談社学術文庫)

著者の幸田文は、幸田露伴の次女。
幸田露伴といえば、『氷川清話』で勝海舟が褒めていた人物です。
そんなわけで、近々幸田露伴の作品を読んでみたいなぁと思っていたら、図らずも先に娘さんの作品を読むことになってしまった。
こういうつながり方をするとは…。

いいですね、この流れるような文体。
樋口一葉ほどではありませんが、歯切れのよい流れです。
樋口一葉が川の流れだとすれば、幸田文は岩場の渓流という感じ。
ところどころ感情を露わに表現するところに、引き込まれます。
男勝りな人柄のようですが、非常に女性的な感性が文章からにじみ出ています。
幸田露伴のような父を持つと、大変だろうな…と思うけど、多分それは著者が誠実(という言葉を土橋さんは使う)が故にだろうと思う。
きっと程々でいい、という中途半端が嫌いな人なのではないだろうかと思います。

幸田露伴の作品も二三読みたくなってしましまいます。


  

辞令交付式への違和感(みんなよく参加するなぁ)

 今日は4月1日。  我社では辞令交付式が行われました。  そのため、土曜日ですが、人事課員として出勤しました。  明日も仕事なので、12連勤となります。   人事課の闇ですね。  それはさておき、辞令交付式に関して、毎年違和感を持ちます。  それは、お礼を言われる側が、何故かホ...