名ばかり大学生(河本敏浩、光文社新書)



名ばかり大学生 日本型教育制度の終焉 (河本敏浩、光文社新書)を読みました。
まことに面白かったです。
著者は東進ハイスクールの講師という肩書なので、予備校講師から見た学力の話なのかな?と思って読み始めましたが、そんな限定的な話ではなく、今の教育制度の根本的な瑕疵を様々なデータから考察している素晴らしい本でした。
絞れば荒れる、12歳で大きな壁、いずれも聞けばなるほど納得の論でした。

要点を列挙します。
・絞れば荒れる(大学定員の減少は、いい改革ではない)
・大学のアクセスをよくせよ(間口を拡げよ)
・初年次教育にこそ力をいれ、卒業しにくくするべき
(ちなみに、入りやすく、卒業しやすいのは日本独自。日本はとにかく私学が多すぎる)
・対策としては、「義務教育修了の資格試験」「古典読書の奨励」など
・とにかく、現行の制度設計の失敗点を認めて、いい教育を再生産できるように再度制度設計すべき(競争しても子どもは伸びない。競争すべきは大人である)
・今は大学受験も勉強をするモチベーションにできない(12歳で超えられない壁、地方と都市部の熱量差)
・東北大学が地域での勉強のモチベーションの底上げに貢献している。しかもAOの方がいい学生が入る(新しい展開。受験生も手間を理解する)
・教育を公共事業と捉えて、お金を投入することも大事(中等教育を無償化しないのは世界にも珍しい)
などなど

これらを挙げた後、著者は以下のように締めくくる。
 つまり、問題は学力論ではなく大学論なのである。まず議論の出発点を大学教育、あるいは選抜試験のありようから始めるべきなのではないか。小学校や中学校、高校を「改革」しても誰も踊らないが、大学入試が変われば、教育熱心な家庭は一斉に変化する。
 だから、小学校や中学校、高校の小手先の改革はすべてやめた方がいい。改革など何もせず、勉強をしない子供に大人が一生懸命教えるということだけを念頭に置いて行動するべきである。
 高校卒業時に中学レベルの学力を問う資格試験を実施し、それに向けて大人が競い、より多くの子供が目標を達成するべく奔走する。塾にはできないが、小学校や中学校、高校にできることは学力の底上げである。これは目立たないが、極めて重要なことである。なぜならそういう手厚い教育を受けた子供は、学校を信じ、社会を信じ、そして大人になったときに子供を学校や勉強に積極的に関与させるだろうから。
 誰がどう考えても、教育の根本はこういう営みにこそあるのではないか。そしてそう思い、行動している人は、この現代の日本において決して少ない数ではないはずだ。
(同書P196。下線は私の加筆)

義務教育終了の資格試験も無理のない提案かと思います。
加えて古典を読ませる対策も、いいなぁと思いました。
(考える子は、読めば色々考えるでしょうからね)

子どもの教育がうまくできていないと感じるのであれば、それは大人の作った制度に問題がある、というのは真摯な受け止め方だと感じます。
その上でいかに子どもの学びに寄り添うかということが重要で、子どものときに受けた対応を、その子が子ども持ったときに次世代に伝えてしまう、というサイクルができてしまうことを、大人が理解することが大切なのでしょう。
我が家の場合は、どうなのだろう。
ちゃんと子どもの学びに付き添ってあげられてるんだろか。
時々わが身を顧みないといけないなぁと反省させられます。


また、やはり教育は、現場に任せたほうがいいのだ、と言うのは秋田県の義務教育に関する対応の成果をみて思います。
そして、行政、文科省はそれらの良い点を他の地域に共有するところに役割を負うというのがいいのでしょう。
これは、■教育改革の幻想(刈谷剛彦、ちくま新書)と同じ結論です。
相手が人間である以上、画一的な対策には無理が生じてしまうのでしょう。
ましてや地域ごとに文化や風習も違うのであればなおさらです。

その点から考えると、リーダーシップを求める組織というのは、そもそも弱い組織なのかもしれません。

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大学人として、東北大学のオープンキャンパスに行ってみるのは、具体的にできる行動でしょう。
文系理系両方共なかなかおもしろそうな催しがたくさんありそうです。
http://www.tnc.tohoku.ac.jp/opencampus.php


父・こんなこと(幸田文、新潮文庫)



父・こんなこと (幸田文、新潮文庫)を読みました。

氷川清話』に引き続き、『困難な成熟』(内田樹、夜間飛行)で紹介されていた一冊です。
参考:
兆民先生(幸徳秋水、岩波文庫)
夢酔独言(勝小吉、講談社現代文庫)
氷川清話(勝海舟、講談社学術文庫)

著者の幸田文は、幸田露伴の次女。
幸田露伴といえば、『氷川清話』で勝海舟が褒めていた人物です。
そんなわけで、近々幸田露伴の作品を読んでみたいなぁと思っていたら、図らずも先に娘さんの作品を読むことになってしまった。
こういうつながり方をするとは…。

いいですね、この流れるような文体。
樋口一葉ほどではありませんが、歯切れのよい流れです。
樋口一葉が川の流れだとすれば、幸田文は岩場の渓流という感じ。
ところどころ感情を露わに表現するところに、引き込まれます。
男勝りな人柄のようですが、非常に女性的な感性が文章からにじみ出ています。
幸田露伴のような父を持つと、大変だろうな…と思うけど、多分それは著者が誠実(という言葉を土橋さんは使う)が故にだろうと思う。
きっと程々でいい、という中途半端が嫌いな人なのではないだろうかと思います。

幸田露伴の作品も二三読みたくなってしましまいます。


  

現代語訳 幸徳秋水の基督抹殺論(鹿砦社)



現代語訳 幸徳秋水の基督抹殺論』(鹿砦社)を読みました。
大変おもしろかったです。

キリスト教が、既存の宗教から名前を変えただけのものであることが、実に多くの歴史家が多くの著で述べてきたのかが分かります。
論理的に考えるなら、多分キリストはいなかったのでしょう、と思わせるに十分。
(もっと言えば、マリアも使徒もいなかったようです)
それにしても、相変わらずコテンパンです。
これでもか、これでもか、というくらいあらゆる議論にメスを入れていきます。
で、結論としては、こう。
論じてここに至ればもはや明らかである。基督教というのは、その根本の教義から枝葉の式典に至るまで、なんら独創の事物は有していないのだ。他の宗教から画然と卓越した基督教ならではの独特の色彩、などというものはなんら存在していない。すべてがまさに、古代の太陽崇拝や生殖器崇拝を起源に発生した諸々の信仰の、遺物にすぎないのである。すべてがまさに、印度・波斯・埃及・猶太・希臘・羅馬の、残飯やら飲み残しの酒ばかりなのだ。そういうわけで、もはや史的人物としての基督の肖像は、ますます薄くなるばかりである。(中略)基督教の依って立つ土台は、『無智』以外の何ものでもないのだから。(同書P142)

個人的には「聖書が信じられてきた」という歴史は変えようのない事実なので(それ自体が非常に野蛮なことのようにも思えてしまうのですが)、イエスの存在がまんま聖書の意義に左右するかは少し議論の余地もある気もします。
ただ、秋水先生も別にキリストがいようがいまいが信仰としては関係ないと明記しています。
そして、そのあとで「でも基督がいて、基督の伝説を信じる、という姿勢はおかしい」と続くわけです。
信仰が人々の生活に規律と平穏を与えるのなら良いのでしょうが、これまでの歴史を見れば、基督教はかんたんに教会の便利な道具になるし、しかも帝国主義ともつながります。
秋水先生としては、そこは見逃せなかったのかもしれません。
帝国主義(幸徳秋水、岩波文庫)

面白かった話を二三あげます。
・あらゆる信仰の根本にあるのは「生殖器崇拝」と「太陽崇拝」(命を生むことの偉大さに起因)
・十字架は男性を、丸は女性を表す昔から用いられる記号である(イースター祭の卵も女性を表している)
・12月25日を祝うのは、太陽崇拝の宗教では一般的。多くの行事がこの辺に集まる。それは、ちょうど冬至から3日後に日が伸び始める(太陽が死んで復活する。しかもちょうど3日)というところに起因している
・僧院生活はテラピウト教派そのもの
・初期基督教の飲み会は食人、近親相姦の場となっており、故にローマ帝国で多大なる迫害を受けた
・クリシュナ(インド神話の英雄。多くの人が「Crishna」と書いて表したそう。Cristnaと記載されているのを秋水先生も見たことがあるという)との類似性
などなど。

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死刑の前(幸徳秋水)と同様、本書も獄中で死刑を前にして書かれたと、訳者のあとがきには書いてありました。
手元に出典もなく、よくもまぁこんな書がかけることです。
それに、この方は高校中退の学歴なのに、どうしてこうも博学なのでしょうか。
私も、もっと本を読んで、色々考えなくちゃならんなと思わされます。

本書は、『死刑の前とかなり近い思想をベースに書かれている気がします。
(同じ人が書いているのだから、当たり前といえば当たり前ですね)
すなわち、両書は次の一言を言いたかったのではないかと思うのです。
科学的精神に適合せず、道理に協(かな)わず、批評に耐えず、常識と相容れないものが、どうして今日における倫理道理の主義や、安心立命の基礎になれようか?(同書P180)
つまり秋水先生は、この「科学的精神」でもって生と死を捉えることを奨励したいのです。
(とはいえ、『死刑の前』は1章しか書かれていないので、本当のところはもう誰にもわからないのですが)

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ところで、帝国主義の序には、キリスト教徒の内村鑑三が文をしたためていました。
二人は仲が「良かった」のだと思われます。
さて、内村鑑三がもしこの書を読んでいれば、果たしてどう思ったであろうか。
ぜひキリスト教徒としての感想(できれば反論)を伺ってみたいと思いました。


   

死刑の前(幸徳秋水、kindle)



死刑の前(幸徳秋水)を読みました。
死刑を目前に控えていて、なんなんだこの落ち着きは。
そして、続きがめっぽう気になる。
どうして死刑に処してしまったのか…。
せめて本稿が終わるまで待てなかったのか。

本書は、自殺幇助とも取れる内容だから、あまり人に進められる内容ではないのかもしれないが、非常に理系的(?)な発想で「死」を捉えており、あるいはこの説で救われる人もいるのではないかと思います。
だからこそ、続きが読みたい。
同氏がどんな運命感を持っていたのか、ぜひ書いてほしかった。
およそ死ぬ段になってもこんな文章を書く人間は、殺し甲斐のない人間ではないか。
個人的には、この書がここに終わっていることの一事を持って死刑の反対に十分の理由となる。
誠に、残念でならない。

同じく獄中で書いたという『現代語訳 幸徳秋水の基督抹殺論』がいくらかその続きを示唆しているのだとすれば、早く同書の続きを進めたくなります。

  

帝国主義(幸徳秋水、岩波文庫)




先日、幸徳秋水著の『兆民先生』を読んで、もう少し同氏の別の書も読みたいと思って帝国主義 (幸徳秋水、岩波文庫)を読んで見ました。
兆民先生(幸徳秋水、岩波文庫)

これでもかというほど執拗に帝国主義(暴力を持って領土拡大をすすめる国の姿勢)を批判し続けていました。
軍人の主張する軍備拡充の必要性を、一つ残らず叩き潰す感じ。
痛快です。
曰く、
・戦争によって、経済が疲弊している
・戦争によって、芸術、文明が破壊されている
・暴力的な組織(軍隊)が、社会的規範を破壊している
・軍隊が暴力を呼ぶ
・戦争をしたいと思うのは動物的本能である
などなど。

確かに、戦争はかなりお金を必要とすることが、本書を読むとわかりやすく解説されています。
ただ、問題なのは、そのお金のかかるところが極端に偏るというのが問題で、多くの費用は戦争に関連する産業にしか回らない。
そして、福利の方は手薄になる。
そうすると、結局貧乏な人ほど大変になり、社会が回らなくなるということですね。
至ってその通りです。

工業製品の生産過剰についても、中産階級以上は貧民の労働力を搾取することで海外展開するほどの生産力を持つけど、その海外進出する原因(国内の需要量を生産量が上回ってしまうの)は国内の人々から購買力がなくなるためだということを指摘しています。
これはまさに資本論に通じるものではないのでしょうか?
というか、社会主義者と自分で言っているくらいなのですから、多分そうなのでしょう。

この本を読むと、社会主義の本来の意義というか目的がわかってくる気がします。
「格差の是正」、それにともなう「平和」こそが、幸徳秋水の思い描く社会主義の世界だったのでしょう。

社会主義は、私達の中では基本的に「失敗作」として理解されているように思います。
しかし、その思想のいいところを、うまく今の社会に取り込まないと、今後ますます格差は広がり、やがてまた凄惨な事件を起こすような気がします。
ということで、ぜひベーシックインカムを導入してほしいなぁという思いを新たにしました。
ベーシックインカム関連記事

ところで、改題を読むと、幸徳秋水のこうした「平等」「博愛」「平和」という思想は、中江兆民から受け継いでいるとの記載がありました。
そう書かれてしまうと、中江兆民の作品も読みたくなってしまいます。
とりあえず、三酔人経綸問答 (岩波文庫)を読んでみようかなぁと思います。

また、改題では、本書を中江兆民に事前に見せてやり取りをしたのが『兆民先生』内の書簡のやり取りに当たるとの解説もされていました。
なるほど、そういうことだったのかと腑に落ちました。
原著を読んでから誰かの解説を聞くというのも、面白いものですね。

また、同氏の著書で面白そうな本があったので、借りてみました。
書名はズバリ『現代語訳 幸徳秋水の基督抹殺論』。
どうも基督を当時の天皇のスケープゴートにして批判をしたという疑いをかけられている作品のようです。
でも、そんなことどうでもいいくらいに、基督教をボコボコにしています。
イエスキリストは、当時こんなにも無名だったのかと思うと、一体今のキリスト教とは何なのだろうかと思わずにはいられません。
先日『旧約聖書物語』を読み終えて、『新約聖書物語』を今度読もうと思っていたのに、一体どういう心持ちで望めばいいのやら・・・。
でも、”物語”だから、その時の”つもり”で読めばいいのか。
旧約聖書物語(犬養道子、新潮社)

そういえば、本書の序では、キリスト教徒の内村鑑三が文を寄せていました。
内村鑑三が『現代語訳 幸徳秋水の基督抹殺論』を読んだら、なんというのか、非常に興味がわきます。
友達の思想をこてんぱんにすることに、抵抗はなかったのだろうか。
ネットで調べた限りでは、あまりそういう資料は残ってなさそうですが、今度内村鑑三の著書も読んでみたいものです。

また、当のキリスト教徒やキリスト教会は、この辺の事実をどう捉えているのだろうかとも気になります。
別にキリストがいたかどうかは関係ない、聖書が聖書として信じられてきたことが大事なのだ、という論説もあるかもしれませんが、胡散臭さを拭い去ることはできないでしょう。

それにしても、キリストがいたのかどうかなんて、考えたこともありませんでした。
私はてっきりいたものかと思っていましたが…頬に平手打ちを受けたような思いです。

ちなみに、『クルアーン』(イスラム教)では、キリストを預言者としては認めているものの、メシアとしては認めておらず、同様に三位一体説も否定をしています。


    

氷川清話(勝海舟、講談社学術文庫)


氷川清話』(勝海舟、講談社学術文庫)を読みました。

夢酔独言』に引き続き、『困難な成熟』(内田樹、夜間飛行)で紹介されていた一冊です。
参考:夢酔独言(勝小吉、講談社現代文庫)

面白かったです。
勝海舟って、こういう人物だったんですね。
昔読んだ『武揚伝』(佐々木譲、中公文庫)では、ちょっと痛い感じで書かれていましたが、最下級の武士から直接将軍より幕府の後処理を任せられるまでに上り詰めた男としての貫禄というか、凄みみたいなものが本書からは感じ取れます。
視点がすごく高い。
それでいてシンプル。
おそらく、自分のダッシュボードの大きさをよく理解していて、そこに載せるべき要素の取捨選択に抜群の才能があったのだと思います。
そして、そこに父・小吉から引き継いだかはわかりませんが、胆力というものが備わったことで、このような人物が生まれたのでしょう。
本人は、剣術と禅のおかげと言っていますね。
あとは、戦が人を育てるとも言っています。
また、そういう意味では、今後人物が出てくる、ということもなかなか期待はできないということも話していました。
(この辺のことを、今読んでいる幸徳秋水の『帝国主義』(岩波文庫)は全面的に否定していますが、その幸徳秋水の書きぶりの痛快なことと言ったらありません。メッタ斬りです)
でも、そんなにこんな人間がホイホイ出てくるもんではないですよね。
だって、こういう人が他にいないから、勝海舟が幕府の後処理役になってしまっているわけで、そう考えると、その状況に適当な人物をしっかり表舞台に出す機能を維持しているのかどうか、ということのほうが重要な気がします。
そして現代においてそれができているとは思いませんが、明治維新30年の時点でもすでにそうだったようだ、というのが本書を読んで面白かったことの一つです。
父・勝小吉の本もそうでしたが、本書においても、気がつくと江戸の町中や明治の小さな座敷にタイムスリップしており、楽しい時間旅行できました。

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本書には、所々「爺の僻み」みたいな箇所もあります。
本人は政局などを「蚊帳の外」から見ているわけですから、もどかしさも多分にあったのでしょう。
それは、自分がその中心にすでに行けないことを知っているが故のもどかしさでもあると思います。
(役職定年になると、そういう気持ちになるのかもしれません)
だから、現役の議員や一部の人達からは(本人も言うように)「爺が何をいってやがんだい」というようなことにもなってしまうのでしょう。
聞いている側も「爺さんそりゃおかしいぜ」「そりゃいいすぎってもんだ」と感じる部分の散見されます。

ということで、なんとなく、本書は、おじいちゃんが死んだその葬式で、たまたま待ち時間に同じ机に座った親戚のおじちゃんから聴く昔話みたいな感じがあります。
話し方も面白いし、人のつながりとかが面白いから、なんか聞き入っちゃうんだけど、時々事実誤認や自慢話が織り交ぜられて、終いの方は少し説教臭くなっちゃう、みたいな。

それでも、人とのつながりって言ったて、あの西郷やら大久保やらですから、そんじょそこらのおじちゃんとはスケールが違いますね。
上の二人のほか、いろいろな方に対する人物評も、なかなかおもしろい。
「へぇ、そういう見方もあるのね?」という感じで勉強になります。
(横井小楠をえらく評価しているので、今度関連書籍を読んでみたいと思いました。)
あと、話しを聞いて(読んで)いると、西郷は非常にスマートな印象で、上野公園の銅像のイメージが崩れてきます。
(私の中で、もっと細身のイメージが強くなりました)

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また、本書からは、反知性主義の匂いも感じられました。
それは、おそらく勝が現場主義だったからでしょう。
世の中には、時勢があり、現場主義の時代と、知性主義の時代が行ったり来たりするのだと思います。
令和の今は、どっちなんだろう、もし現場主義の時代なら、勝の生きた時代のような、「社会に活かす知」を渇望する若者をどんどん登用する制度が必要でしょう。
(今はどちらかと言えば「自分を活かす知」が重用されている気がします)
でもそれは、ちょっと違う気もする。
もちろん、上昇志向の若者を積極的に登用することがだめだと言っているわけではありません。
(上昇志向の若者がどんどん登用するほどいるかは怪しいところですが)
多分今勝が生きていても、うまく必要なところには登用されないような気がするのです。
そういう制度になっているように思うのです。
それは、勝がこのような人物ではなく、腹黒く、卑しい性質を持っていたと仮定すれば、仕方ないことな気がします。
傑物がそのポストに収まるという前提で作られる制度なんて、とてもではないけど私は恐ろしくて信じられない。

とはいえ、そんなこんなで、勝や西郷のような人物は完全に駆逐されてしまった。
そして多分、私達みんなが、それを望んだのだと、本書を読んでそんなことを思わされました。
そこに2つの問が浮かんできます。
「それは悪いことなのだろうか?」
「悪いとすればどうすればいいのか?」
この2つの問は、しばらく頭の片隅で温めて置きたいと思います。

   

教育改革の幻想(刈谷剛彦、ちくま新書)




教育改革の幻想 (刈谷剛彦、ちくま新書)を読みました。
面白かった。
ドラスティックな改革は不利益を生むことが多いんだろうね。
改革なんてやめた方がいい。
現場が実践する、小さな改善の積み重ねが大事です。

本書は、2002年4月から施行された新学習指導要領に対してその政策の良し悪しを、いろいろな角度から書かれた本です。
まぁ、ほとんど批判ですね。
もうちょっと分析と議論をしっかりやってよ、というのが本書の主張だと私は理解しています。

それにしても通読してみると、お上(役人)の頓珍漢なことといったら笑えてきますね。
しかも子どもを主人公にする教育については、すでにカリフォルニアで失敗例があることというのもなおさらおかしい。
いや、笑ってる場合ではないのですが。
ロサンゼルス・タイムズ紙に紹介された、カリフォルニア大学のエンバス教授はその失敗について、こんなことを言っています。
「私たちは、学校を子どもたちにとってより有意義で、より楽しい場にするための努力をしてきた。その中で、知識を暗記するとか、つづりと発音の関係を教えるためのドリルとかは、『退屈』な活動としてカリキュラムから消されていった。しかし、たらいの水と一緒に赤ん坊も流してしまったようなものだ。学習には、必ず、むずかしいことや、楽しくはないが大事なことも含まれているのだから」(著者抄訳)
「水と一緒に赤ん坊を流しちゃう」という比喩は言いえて妙です。
考えるのにも、材料としての知識がないと考えられないというのは、いかにも当たり前のことで、反論の余地はないように思えますが、実はこの問題が程度の問題であるというところに一番の問題があるのです。
程度の問題ということは、結局個人のレベルにどこまで合わせてあげようか、という問題で、明確な答えなどない。
だから、議論が進まない。

しかも、学ぶ子どもたちにも個人差もあるので、「みんながわかる」という極端なレベルを設定してしまうと、勉強ができる子は自分でどんどん知識を仕込んでいくでしょうが、勉強が苦手な子はそれが全然できなくなるわけですね。
だってそもそも何を仕込めばいいのかもわからないし、やる気もないんだから。

そもそもの話になってしまいますが、私は、教育で個人を変えることができるというのが幻想のように思います。
また、個人の本質的な性格は変わらないという前提に立って教育をした方がいいと思います。
知識を授けるのはできても、主体性をはぐくむ(望ましい性格を持たせる)なんてことは、たぶんできない。
(ちょっと曲解しているかもしれませんが、この辺については、安藤寿康先生の本を一度読んでみていただけると少しわかっていただけると思います。おすすめは、遺伝子の不都合な真実―すべての能力は遺伝である (ちくま新書)
様々な体験を通じて、本人が変わる可能性はあっても、それは人為的にコントロールできるものではないと思います。

だから、今一度、学校の役割というものを整理するところから着手したほうがいいのではないでしょうか。
「学校は豊かに生きていくための「知識」を得、「健全な肉体」を生涯にわたって維持するための手段を学ぶ場」、というのが私の案です。
うーん、でもこれだと結構いろんなことを勉強しないといけない気がしますが、別の人は「これだけならこれとこれの教科さえあればいいのでは」、という方もいるでしょう。
程度の問題とは、こういうことですね。
議論の余地ばかりあり、個人の感覚で議論すると平行線になる。
だからできるだけ個人の感覚ではない「研究などで調べた結果」を基にして決めていってほしいと思います。

あとは、程度の問題であるがゆえに、ある程度線を引いてあげないと、先生方の働き方改革も、モンスターペアレントの問題も、何も解決しないのではないかと思います。
教育に関心があって教員になっている先生が多いでしょうから、線を引かないと、どこまでも対応してしまい、全体としての教育の質が下がってしまうことも懸念されます。
(しかも、真面目な先生のほうが疲弊する可能性が高い)
とはいえ、教員だって玉石混交ということも前提にしておかなくてはまともな制度は作れません。
(教員の能力に100%左右される教育制度にも問題があると思います)

最後に、私個人の考えとしては、公教育は、あくまでも下の子を引き上げることに注力してほしいと考えます。
そうでないと、格差の再生産が起こって、近い将来、凄惨な社会を形作ることになりそうな気がしてしまうのです。
(まぁお金に物言わせて私立に入れちゃう家もあるでしょうけど)
「それではできる子は消化不良してしまうのでは」、という指摘もあるでしょう。
でも、できる子は、できない子を引っ張るように頑張ってもらうというのも、大切なことではないでしょうか。
そこを評価してあげられるようにしてはどうかなと思います。
(むしろそれが教育では?)
ただ、「じゃぁどうやってそれを評価するの?」と言われると、グーの音も出ないのですが…。

 

辞令交付式への違和感(みんなよく参加するなぁ)

 今日は4月1日。  我社では辞令交付式が行われました。  そのため、土曜日ですが、人事課員として出勤しました。  明日も仕事なので、12連勤となります。   人事課の闇ですね。  それはさておき、辞令交付式に関して、毎年違和感を持ちます。  それは、お礼を言われる側が、何故かホ...