知恵とやさしさに満ちたイスラーム|【レビュー】イスラム――癒しの知恵(内藤正典、集英社新書)

本記事では、

イスラーム法学者・中田考先生の入門書として|【レビュー】イスラーム 生と死と聖戦 (中田考、集英社新書)

で紹介した、『イスラム――癒しの知恵(内藤正典、集英社新書)』について書きたいと思います。

―――

イスラームって窮屈?

イスラームに限らず、宗教とはまず、意識的にせよ無意識にせよ、信じることから始まる。

イスラームにおいては、神と天使を信じ、預言者とクルアーンを信じ、来世と運命を信じる。

神と天使を信じるからこそ、預言者とクルアーンが信じられ、それゆえに来世と運命を信じることが出来る。

来世と運命を信じることで、イスラームは人々に規範と、その規範内における自由を与えている。


この世界で起こることは全て、神の思し召しである。

良いことも、悪いことも、全て神の思し召し。

それに対してどう解釈して、どう行動するかは、個々人に託されている。

イスラム教徒たちにおいて、その解釈・行動の指針となるのが神からの啓示であるクルアーンと預言者の現行録であるハディースだ。

それらに直接的・間接機に示されている指針に則って取った行動の結果として失敗したとしても、それはそれでポイントがつくというのがイスラム教である。

失敗もまた、神の思し召し。

しかし天国に近づくため、神の意志を推し量って行動をとったことにポイントがつく。

現世においてはマイナスの結果かもしれないが、来世で天国に行くことには近づくと考える。


生きていれば選択は日常茶飯事にやってくる。

何を食べるか、何を話すか、何をするか、どう過ごすか…などなど。

そうした選択の度にムスリムたちは指針に沿って考え、行動する。

なぜなら来世を信じており、来世に向けて少しでも近づける選択を取りたいから。

だから、来世を信じないならイスラームの戒律など守られるはずもない。

そもそも守る意義を見出せるはずもない。

現世での実害をいかに減らすかということに重きを置く方が合理的だ。


私たち日本人から見ればとても窮屈に見える。

でも、本当はそうではない、ということをわかりやすく教えてくれるのが『イスラム――癒しの知恵(内藤正典、集英社新書)』という本です。

この本は、現代イスラーム地域研究者である非ムスリムの著者が、イスラームにどのような生きる知恵が内蔵されているか、イスラーム地域での実際の体験を織り交ぜながらとてもわかりやすく記述しています。


戒律はやさしさ

イスラームは、人を弱いものと捉えている。

間違いを犯す存在、神から離れうる存在、それこそが人間だと規定する。

だからこそ、その誤りを起こさないようにする方法もセットで規定されている。


例えば、礼拝は、神から離れやすい人間が、1日に何度か神を思い出すことを助けるだろう。

また、婚前交渉の禁止は、公正な相続、結婚への動機づけ、感染症のまん延防止など、家族や親族、そしてもっと広い共同体の存続に寄与するものも考えられる。


施しやすいシステム

また、人の尊厳にも配慮されているのがイスラームのいいところだ。

イスラームでは、格差は当然あるものとして捉えられており、故にその格差を埋めることが良いと定める。

富める者は、施しをしなくてはならない。

しかし、面白いのは、この施しは、神への行為となるのである。

また、施しを受ける側も、神から施しを受けたものとなる。

つまり、善行は、神を経由して施されるのである。

与える方は、神様に対して差し上げて、来世へのポイントをもらう。

受け取る方は、神様から施されるのだ。


これなら与える方も気兼ねなく与えられるし、受け取る方も後ろめたさを感じることが少ない。

つまりみんながが施しやすく、施されやすい仕組みになっているのだ。


―――


危ない宗教なら16億人も信じない

上のような、イスラームが内包している機能について、本書は肯定的に紹介しています。

私たち日本人の社会は、イスラーム社会とは全然違うので、参考にできない部分も多いかもしれませんが、それでも本書を読むことでイスラームへの眼差しは少し柔らかいものになるのではないかと思います。


イスラームは決して危ない宗教でも怖い宗教でもないというのが私の考えです。

むしろとても合理的というか、理に適っているというか、無理がなく、よくできた宗教だと思います。


だからこそ各地域の言語や文化を残しながらと、人々は徐々にイスラームに入信していきました。

今では世界に16億人と言われていますが、そのわけの一端がこの本で理解することができると思われます。


イスラームに興味がわいた方は、以下の本もおすすめです。

漫画+対話形式でイスラームがどんな宗教なのかが学べます。


 
イスラームがどういう論理で物事を捉えるかが知れます。
そのことから、転じて私たち日本人を含めた世俗主義の世界が、どんな神をあがめて生きているのかも客観的に浮かび上がらせています。

【ラン週報】伸びてる!だから落ち着こう(2022年8月14日-20日)

先週から再開したランニング。

【ラン週報】出だしは快調!(2022年8月7日-13日) 

今週で2週目ですが、今週はとにかくゆっくり走ることを意識しました。

面白いのは、それでもちゃんとタイムが縮められていること。

気持ちよく走れた上に、成長も感じられる…いい感じです。


今週は、1日雨で外が走れない日があったため、屋内のトレッドミルでインターバルトレーニングをやってみました。

その結果、9.5km/hが自分の今のニコニコペースだということがわかりました。

そして、やっぱり11km/hだと結構しんどい。

今後の目標としては、このニコニコペースが12km/hとなればいいなぁとは思うけど、それは結果でOK。

とにかく日々気持ちよく走って、夜気持ちよく寝るということを忘れないようにしたい。


ということで、第二週は…

週報2022年8月14日(日)~20日(土)分(←先週)

 合計距離:32.26km(ラン回数:5回) ← 33.4km(ラン回数:6回)

 合計時間:3:25:18 ← 3:35:42

 平均時速:9.45km/h ← 9.28333km/h

 平均ペース:06:21/km ← 06:28/km


今週は5回。

回数は少ないけど距離・時間はほとんど先週と同じくらいでした。

タイムは少し縮んでいる印象。

ここは徐々にを意識していきたい。

全体的に、気持ちよく走れた一週間でした。

ただ、ストレッチが億劫な日があるので、怪我に注意したい。

また、タイムが縮められているので、これを伸ばそう伸ばそうとスピード狂にならないように自制したい。


―――以下個別ログ


8/14 日

 距離:6.2km

 時間:0:39:00

 時速:9.54km/h

 ペース:06:17/km

 日中へとへとになったけど、走ると逆に疲れが取れる気がした。

 肉体的にも精神的にも、疲れた時こそ少しでもいいからゆっくり走るとよさそう。

 (走りだせば乗ってきて結構距離も走れる)


8/15 月

 距離:6.5km

 時間:0:40:00

 速度:9.6km/h

 ペース:06:09

 今日もスローペースを意識し、かなりストライドを縮めて走った。

 でもタイムはかなりいい。

 伸びてる感触あり。


8/16 火 オフ(台風)

 

8/17 水

 距離:6km

 時間:0:37:30

 速度:9.6km/h

 ペース:06:15/km

 インターバルトレーニング(速度:9→10→9.5→9.5→11→9.5、各1km)。

 トレッドミルでYOUTUBE見ながら走った。楽しい。

 11km/hで1kmは結構きつく、追い込めた感触あり。


8/18 木

 距離:7.56km

 時間:0:51:48

 速度:8.76km/h

 ペース:06:51/km

 アップダウンが大きいコースだったので、いいトレーニングになった気がする。

 新しいランニング用のシューズを買うため、走りがてらアウトドアショップへ行ったけどあまりいいのはなかった。

 風が少し涼しくて、秋の気配がした。(まだ早いか)


8/19 金 オフ

8/20 土

 距離:6km

 時間:0:37:00

 速度:9.73km/h

 ペース:06:10

 スローを心がけても9.73km/h!

 だんだん脚ができている気がする。


週合計

 合計距離:32.26km(ラン回数:5回)

 合計時間:3:25:18

 平均時速:9.45km/h

 平均ペース:06:21/km

【家計簿】身を切る誕生日(2022年7月分)

 7月分の家計簿の集計が終了しました。

今月の収支はこちら。


収入:258,771円

支出:259,860円

収支:-1,089


コメント:

・食費と日用品は7万円強に抑えられていますが、これは妻がたびたび野菜を「おこづかい(妻)」から払ってくれたからで、実際には8万円に達しない程度の支出だったかと思います。

・7月は子どもの誕生日があったりして、何かと交際費に出費がかさんでしまいました。誕生日プレゼント自体は大したものを買ってやってないのですが、親戚も含めての食事会を開催し、その分が計上されています。

 →やっぱり外食は高い。ビュッフェに行ったのですが、高いうえに落ち着いてしゃべれないし、ちょっと反省です。次の誕生日会では、いいケーキを用意して、ごはんはポットラックとかで楽しみたいと思います。

・光熱水費について、水道代が来月の請求となるため、それもあってこの収支に収まったと言えるでしょう。(来月が怖い)

・正直習い事が高すぎる感じは否めませんが、これは妻の意向もありなかなか調整できないところ。

・自分のおこづかいは22,969円でしたが、内7000円ほどは妻への誕生日プレゼント代と子どもたちとの遊び費用だったので、結構頑張っていると評価したい。とはいえ、コンビニ(ビール)が多かった印象(およそ5,000円!)。8月からランニングを再開したので、少し減るといいのですが…。

総じていえば、今月は「まぁこんなもんでしょう」。


8月の抱負:

・外食を減らす

・副業を検討する

・夏休みなのであまり神経質にならずに遊ぶ(節約は別の月で頑張ろう)

【ラン週報】出だしは快調!(2022年8月7日-13日)

ここのところ運動不足からか、あまり深く眠れない日が続いているので、ランニングを再開することにした。

目的は「走ってよく眠る」。

ということで8月7日からまた走り始めたが、やっぱり楽しいので、だんだん走ることばっかり考えるようになってしまっています。

それは決して悪いことではないんだけど、けがをしたり、気持ち的にいっぱいいっぱいになったりするのもばかばかしいので、週報を残すことで己の熱中加減を客観視しようと思います。

ということで、再開した第一週は…

週報2022年8月7日(日)~13日(土)分

 合計距離:33.4km(ラン回数:6回)

 合計時間:3:35:42

 平均時速:9.28333km/h

 平均ペース:06:28/km

 ランニングを再開して最初の1週目は6日連続ラン。

 ちょっとかんばり過ぎな感じもする。

 目的はよく寝るために走るのだから、あまり無理せず、けがをしないようにゆっくり走ることを今後意識していきたい。

 でも、ゆっくり走ったほうが、逆に早く走れる。これは収穫だ。

-------以下個別ログ

8/7

 距離:4.82km

 時間:0:31:48

 時速:9.09

 ペース:06:36

 久しぶりのラン。気持ちよく走れた


8/8

 距離:5

 時間:0:31:00

 時速:9.68

 ペース:06:12

 二日目。今日は少し飛ばし過ぎた感じ。


8/9

 距離:6.3km

 時間:0:40:00

 時速:9.45

 ペース:06:21

 ストライドを短くしたほうが楽だし、早い


8/10

 距離:6.68km

 時間:0:42:54

 時速:9.34

 ペース:06:25

 コース途中の階段がきついけど、いいトレーニングになってる気がする。


8/11

 距離:6.4km

 時間:0:42:00

 時速:9.14

 ペース:06:34

 かなりストライドを短く意識してみたけど気持ちよく走れた。


8/12

 距離:4.2km

 時間:0:28:00

 時速:9

 ペース:06:40

 少し疲れてきた。毎日走るとだんだんくたびれてくる。


8/13 オフ


合計距離:33.4km(ラン回数:6回)

合計時間:3:35:42

平均時速:9.28km/h

平均ペース:06:28/km

イスラーム法学者・中田考先生の入門書として|【レビュー】イスラーム 生と死と聖戦 (中田考、集英社新書)

 


大変わかりやすい。

これまで中田先生の本はいくつか読んできましたが、中でも一番わかりやすく自身の主張を説明されていると感じます。
語りかけてくるような文体のため、講義を受けているように感じられ、言葉がスッと飲み込める(ような気が)します。

イスラームの論理 (筑摩選書)帝国の復興と啓蒙の未来(太田出版)増補新版 イスラーム法とは何か?(作品社)カリフ制再興 ―― 未完のプロジェクト、その歴史・理念・未来(書肆心水)などなど、面白い本はいくらでもあるのですが、それらの本を読む前に、一度本書を読んでおくと理解しやすいのではないでしょうか。

中田先生の言う「カリフ制」とは、人による支配からの人々の開放し、法による支配を実現することを意味します。
すなわち、人の作った法律は廃棄する。
ゆえに国境もなくす。
人・物・資本が自由に行き来できるような、自然権が当然に行使できる共同体の実現を目指すものです。

本書を読むとどうして著者が「国境の廃絶」にここまで執着するのかがわかると思います。
自然法に従えば、人はおかしな世界からは離れ、居心地のいい世界に行くことができる。
おかしな世界からはどんどん人がいなくなり、淘汰されていくのに、領域国民国家というシステムがあるからその浄化システムが機能せず、富の偏在がうまれる。
こうした富の偏在をなくす方にイスラームは指向しています。
こう聞くと、格差を減らして、うまいことみんなで助け合って生きていこうよ、という風に諭している宗教だと思えてこないでしょうか。


本書では、著者が健康保険に加入していないことにも触れられていました。
多くの人は「え、この人、頭おかしいんじゃないの」と感じると思いますが、背景を知れば、「筋の通った話」となります。

これは何も健康保険のエピソードに限った話ではなく、イスラームに関しては「背景を知れば」ということが往々にして不足している気がします。
色々な情報が、悪いものとしてとられるように伝えられてしまっているように感じられるのです。

イスラームというと何かと「テロ」や「自由がない」というイメージを持ってしまいがちですが、よくよく知っていくと決して自由がない、ということはないし、テロにしてもなぜそうしたテロが引き起こされるかの問題提起はあまり聞きません。

テロはよくない。
そんなことは子どもでもわかります。
でも、なぜテロがなくならないのか?が議論されないのかについては、あまり関心を持たれているようには思えません。
たぶん私たちの恵まれた生活が、テロを起こす人々の暮らしに支えられているのを意識的にか無意識的にか感じているから、争点にできないのではないかと私は思っています。

もし人々が自由に移動できたなら、テロを起こさざるを得ないような場所からは逃げられるのに…それを妨げるのが領域国民国家というシステムだと著者は主張します。
とはいえ、なかなか領域のない世界というのもピンとこない。
この辺は、イスラム教徒になればわかるのだろうか…たぶんイスラム教徒になってもわからない気がします…。



本書を読んでイスラームに興味を持つ人がどれくらいいるかはわかりません。
私の印象としては、残念ながら、あんまりいないんじゃないかと思います。
イスラム教というのは、日本人にはやっぱりちょっとわかりにくいというか、腰を据えて話を聞かないとどこがいいのかわからない気がします。
(いや、腰を据えて聞いたうえでいいなぁと思っても、その正しく理解できているかはわからないのですが…)

本書は「イスラム教いいですよ~」というスタンスで書かれてはいません。
イスラームではこう考えます、イスラームはこういう原理で回っています、という事実紹介がほとんどのため、すでにイスラームに関心がある人向けの本という印象です。
なので、あらかじめイスラム教に関心がないと、全然響いてこないように思われます。

信じる者は救われるじゃないですが、関心がなければ響くものは少ないってのは、イスラム教に限らず普遍的なことですね。
でも、面白いもので、信じるか信じないかで見え方は180度異なってきます。

例えば「1日5回の礼拝が義務である」という戒律も、イスラム教を信じない人には自由を制限する重荷でしかないと思うでしょうけれど、信徒にしてみれば義務であるおかげで自分の信じるものを1日に5回も確認できるわけです。
この思い出すシステムが、社会生活に実装されているというのは、強いと思います。
1日に5回、自分が使えるべきは神だけだと思い出すのです。
思い出すことで、楽になれる。
楽になれる上に、天国に行ける。
なんて宗教なんだろう…、と感心せずにはいられません。

イスラームのいい面を知りたい人には、イスラム―癒しの知恵 (内藤正典、集英社新書)がおすすめです。

イスラム教から世界がどう見えている?|【レビュー】一神教と国家 イスラーム、キリスト教、ユダヤ教 (内田樹、中田考、集英社新書)

 


 内田樹先生と中田考先生による、イスラム教をメインテーマとした対談をまとめた一冊。

 内田先生が一般的な日本人を代表するような考え方・疑問を提示し、それに対して中田先生がイスラームの視点から回答をするというスタイルで展開されています。

 そのためイスラームに興味のない人でも読みやすく、「へぇ、イスラームってこういう考え方をするのか…」ということが、抵抗感なく飲み込めるような構成になっているように思えました。

グローバリゼーションと領域国民国家の維持

 中田先生がぶっ壊そうとしている「領域国民国家」(領域を区切り、その中に国家を作り、領域内の人間を国民ととらえるシステムのこと)という考え方に対して、内田先生は領域国民国家のよきところをどうにかメンテナンスしながらやっていけないか、というスタイルのため、たぶん多くの日本人は内田先生に憑依しながら中田先生に対峙することになると思います。
 
 私たち日本人は、島国に生きており、現在の「日本」という国が海という領域で区切られていることから領域国民国家というシステムにあまり抵抗がありません。
 しかし、海外に目を向けると、宗主国の都合で作られた国境線によって人・物・金などのネットワークが阻害され、貧富の差を生み出しています。

 資本主義社会においては往々にして、中心と周辺を作り出し、周辺から搾取することで中心が富を独占するということが起こるわけですが、その中心と周辺の区切りに国境というものが大きくかかわっている。

 だからこそ、多くの人々がイスラーム的発想に立ち返ることで、国境がなくなり、独の自宗教的ネットワークで中東に大きなイスラーム共栄圏のようなものが復活(かつてはあった)することを恐れる国々がある。

 このイスラーム共栄圏のようなものの指導者としてカリフが復活する必要がある、この「カリフ制の復活」を目指しているのが中田先生。
 
 カリフとは、イスラム教の全体の代表者のようなもので、イスラム法を執行するのに必要な役職です。

 カリフは今いないのですが、がまた現れれば、イスラーム教徒は一つの共同体になれるかもしれない。

 だからカリフ制復活を訴えると、国によっては殺されかねないそう。

 中田先生は日本だからカリフ制を訴えることができるようです。

 なぜ殺されかねないのか?

 それは領域国民国家というシステムを守ることで援助を受ける人たちが政権を握っているケースがあるからです。

 「周辺」の国の中においても、国内で序列ができており、その序列を崩さないためのパワーが外部から与えられているということです。

 こうして領域の機能を維持するシステムが構築されている。 

 これが本書でも解説されている欧米のダブルスタンダードです。

 つまり、列強国は、中東以外の税を含めた様々な障壁を取り除いて人・モノ・金が何の阻害も受けずに行き来するグローバリゼーションを進める一方、中東のようなイスラーム圏においては逆に領域の区別を強めることで周辺国として維持することを図っているわけです。

多文化理解へのテキスト

 本書の中でも出てきますが、イスラームは「喜捨」を重んじます。2人のやり取りでこのことは、砂漠などの農産物の乏しい世界において衣食住は、「今、あなたが恵んでくれなければ死ぬ」というまさに生命線であり、そうした状況が日常のすぐそばに簡単に生じる、という環境から生まれたのではないかと分析されていました。

 共有しなければ簡単に死んでしまうことを、皆が共有していた。

 こうした土壌があって、一神教が生れ、イスラームが生れた。

  一方、内田先生曰く、日本では一夜泊めてほしいという旅人に一度断る文化があったのだとか。

 こういう話を読むと、イザヤ・ベンダサンの「日本人とユダヤ人」を思い出します。

 全然文化が違う。

 まるで理解しあえる気がしない。

  でもこの「理解しあえないくらい違う」ということを知ることから多文化理解は始まるのではないかと思います。 

 そういう意味では本書は多文化理解のとっかかりになるとともに、理解する方法論や姿勢をも提示してくれる良書だと感じました。

不幸におさらば!脱広告のススメ

「幸せになりたい」とは多くの人が思うことだと思います。

かくいう私も、もちろん幸せになりたい。

各宗教や哲学をはじめ多くの本には、幸せとは、本人が感じるかどうかであり、何かをすれば得られるというものではない、というようなことが書かれています。

とはいえ、それがわかっていても、どうすりゃいいのかわかりません。

というわけで、逆に「不幸」について考えてみましょう。

我々が不幸だと感じるのであれば、そこはどこから来るのかということを考えてみると、「不幸とは、相対的なもの」と思えてきます。

つまり、「不幸とは比較によって生じる」ということです。


比べるから不幸になる

例えば、普段の暮らしを考えてみます。

朝は布団の中で起き、カーテンを開ければ日が入り、朝食にはパンかごはんかが選べて、電車で出社し、エアコンのあるオフィスで仕事をし、帰ってきてベットで寝れる。

当たり前ですが、江戸時代から見ればこんな豊かな暮らしは想像できないと思います。

現代でも、例えば途上国などから見れば恐ろしいほどに快適な暮らしでしょう。

なのに私たちはこんな暮らしを当たり前と思って、ほかの足りないところに目を向けて「不幸」を感じているのです。

なぜでしょうか。

私には「不幸が金になる」からだと思えて仕方ありません。


広告から離れよう

皆が幸せだと、物が売れません。

だってもう満ち足りているんだから、新たに買う必要などありませんから。

それだと困るから、多くの企業は広告を打ちます。

「これがあれば快適な暮らしができます」

「これを買えば素敵な人生になります」

「これを手に入れるとみんなから一目おかれます」

というようなささやきをテレビから、看板から、ネットから送ってくるわけです。

そうすることで持つものと持たざるものの間に分断を生み、持たざる者が買いたいと思うように誘導していきます。

その結果、別に持っていなくてもいいようなものまで持たないと「不安」になる。

「不安」を解消するために、また買う。

でも買うとすぐに次の製品が出る。

次の製品が出るとまた同じように持たないと「不安」になる…という繰り返しです。

この「不安」が「不幸」とは言えないでしょうか。

この連鎖から抜け出すためには、広告から離れることが必要だと思います。


でもどうやって離れるの?

さぁ、どうやって広告から離れましょうか。

これはとても難しい問題です。

現代の日本社会において会社員として働いている以上、完全に広告から離れて生きることはほぼ不可能でしょう。

でも、意図的に広告と距離を取ることは可能です。

例えば、以下の方法は試してみる価値があると思います。

  • ネットと距離を取る
  • 電車の中では本を読んだり、日記を書いたりする
  • テレビを見ない
  • 出かけない
  • ラジオではなく音楽を流す
  • 家事を楽しむ
  • 自然の中で過ごす
などなど、行動としてはいろいろな選択肢がありますが、いずれにしてもまずは「広告を見ると不幸になる、かもしれない」という仮説を自分の中で温めてあげることがスタートになります。

この仮説を持っていることで、多くの情報が無駄なものであり、自分に「不足感」をもたらすものであることに気づける、かもしれません。

でも、ひょっとしたら気づいても、何も変えられないかもしれません。

悔しいですが、それでいいと思います。

広告とは、相手は人間の心理を研究して、注意を引き付け、我々の関心を惹くことに多くの投資をして作られているのですから、我々一庶民がそんなに簡単には逃れられるものではありません。

一進一退を恐れないことが大切です。

そして、時々負けても、一生をかけて取り組む価値のあることだと思います。

少なくとも、不幸から遠ざかれるのですから。


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やはり私も、時々不足感に苛まれます。

大抵それはYoutubeを見た後だったり、漫画を読んだ後だったり、誰かとのおしゃべりの後だったりしますが、不足感のすべてが悪いわけでもないとも思っています。

結局のところ、バランスが大切で、そういう意味でも中庸に戻るために時々「自分は今どんな情報を食べているのだろうか。過不足ないだろうか?」と疑うことは生きる知恵だと考えます。

幸せになるために、その情報が不幸を招くものではないか?と、時々立ち止まって考えられるようになりたいものです。


モモ (Mエンデ、岩波少年文庫)





辞令交付式への違和感(みんなよく参加するなぁ)

 今日は4月1日。  我社では辞令交付式が行われました。  そのため、土曜日ですが、人事課員として出勤しました。  明日も仕事なので、12連勤となります。   人事課の闇ですね。  それはさておき、辞令交付式に関して、毎年違和感を持ちます。  それは、お礼を言われる側が、何故かホ...