
アメリカの大学の裏側 「世界最高水準」は危機にあるのか? (アキ・ロバーツ、竹内洋、朝日新書)を読みました。
大変面白い。
私の持っていたアメリカの大学に対する「入りやすいけど卒業しにくい」のイメージは上位大学以外のことを指しており、総じてアメリカ全体のことをイメージしていたわけではなかったということがよくわかりました。
その他、面白かった点
・営利大学の存在(金さえ払えば学位が取れる)
・テニュアによって枯れ木教授が生まれている(終身雇用の悪い面)
・テニュアを取りたくて、若手は革新的な研究ができない(評価されにくい研究ではテニュアが取れない。しかも評価するのが枯れ木教授だったりする理不尽)
・授業料を高く設定し、ディスカウントする手法が流行(なお留学生は正規料金)
・やかましい学生の対応が面倒で成績を甘くつける教授が増えてる→学生の質の低下(成績が進路に直結するがゆえの問題点)
・AO入試では差別の助長が横行しかねない
などなど
文科省の政策が、アメリカを模範として、日本に良い点を輸入しようと努めてきたことは以前記事を書いた『
アメリカの大学・ニッポンの大学』(刈谷剛彦)や『
大学改革の迷走』(佐藤郁哉)でも紹介されていましたが、「模範としているアメリカの大学」というのは、かなり偏ったイメージのもとで捉えられているのではないかと思えてしまいます。
『
大学改革の病』(山口裕之)でも指摘されているように、「教育」は「社会」と密接につながっており、片方(「教育」)だけを改革しても何も変わらない、というケースが多々あるようです。
(極論とも言える例をあげれば、新卒一括採用、終身雇用が続く限り、偏差値による序列はなくならない、など)
ということで、「アメリカの教育」を輸入する際には、やはり同様にその後ろでつながっている「アメリカの社会制度や習慣」も一緒に導入する必要があるのでしょう。
問題は、その社会制度や習慣を、簡単に日本に根づかせることが容易ではないということでしょう。
だから佐藤氏や刈谷氏が指摘しているように、シラバスやTAと言った小手先の小道具の導入に終始して、最終的に要らない仕事を増やしてしまうという結果に帰結してしまう。
別に、アメリカの真似を一律にする必要はないのではないか、というのが本書を読んだ感想です。
どこの国にも良い点と悪い点があるでしょうから、特定の国の教育制度や仕組みに執着する必要はないのではないでしょうか。
特に、我が国は日本語を公用語として、海外と隣接していないという地理上の特質があります。
そのことを念頭に置かなければ、あらゆる輸入品は骨抜きになるでしょうし、かと言って極端な英語教育などを導入すれば学生も置いてけぼりになりかねません。
これの形骸化・極化を避けるためには、各大学に教育方針の設計・運営について裁量をもたせ、大学ごとの多様性を担保させることが大事だと思うのですが、大学大綱化以降もなかなか日本の大学の多様化は進んでいないことを考えると、そう簡単には行かないんでしょうね。
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また、本書を読むと学費が高く、学生ローンに悩んでいるアメリカ学生の姿が見えてきます。
その原因は職員の業務の高度化、ポストの増加だそうです。
日本でもどんどん学費が上がってますが、同じような原因なのでしょうか。
否、公的な補助金の推移が多分に関係しているのでしょうけれど、こと職員の人件費については、給与の上がり方が日本は一律なので、人件費をコントロールするという観点からするとなかなか良いシステムと言えそうです。
「やめさせられない」という条件がつく両刃の剣みたいなシステムですが。
さらに、アメリカでも成績のインフレが起きてるとは知りませんでした。
教授としては、時間を食われて成果がでないので、甘く成績をつけるというのは仕方ないのでしょう。
研究成果で評価を下せば、まぁそうなっていくでしょうね。
この辺は、日本の大学もよく考えるべきところだと思います。
大学って研究成果だけを求めるところなのか、ということです。
アメリカの入試については、特に人種の優先入試に関する記述が興味深かった。
一律にやってると、ユダヤ人ばかりになるというのもなかなか興味深い。
またアメリカにおけるAO入試は「格差を再生産させるために始まった」(表向きはもちろんそうではありません)という理解が日本には欠如しているように思われる。
確かに著者の父・竹内氏のいうように、沈思黙考型の人材も排除されてしまいますよね。
(ただ、日本の場合、AOとか推薦で合格する人は、割りといい就職に行ってるのではないかというイメージがあります。そういう調査をしている人いないでしょうか)
関連記事
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大学改革の迷走(佐藤郁哉、ちくま新書)
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アメリカの大学・ニッポンの大学(刈谷剛彦、中公新書ラクレ)