イスラム教から世界がどう見えている?|【レビュー】一神教と国家 イスラーム、キリスト教、ユダヤ教 (内田樹、中田考、集英社新書)

 


 内田樹先生と中田考先生による、イスラム教をメインテーマとした対談をまとめた一冊。

 内田先生が一般的な日本人を代表するような考え方・疑問を提示し、それに対して中田先生がイスラームの視点から回答をするというスタイルで展開されています。

 そのためイスラームに興味のない人でも読みやすく、「へぇ、イスラームってこういう考え方をするのか…」ということが、抵抗感なく飲み込めるような構成になっているように思えました。

グローバリゼーションと領域国民国家の維持

 中田先生がぶっ壊そうとしている「領域国民国家」(領域を区切り、その中に国家を作り、領域内の人間を国民ととらえるシステムのこと)という考え方に対して、内田先生は領域国民国家のよきところをどうにかメンテナンスしながらやっていけないか、というスタイルのため、たぶん多くの日本人は内田先生に憑依しながら中田先生に対峙することになると思います。
 
 私たち日本人は、島国に生きており、現在の「日本」という国が海という領域で区切られていることから領域国民国家というシステムにあまり抵抗がありません。
 しかし、海外に目を向けると、宗主国の都合で作られた国境線によって人・物・金などのネットワークが阻害され、貧富の差を生み出しています。

 資本主義社会においては往々にして、中心と周辺を作り出し、周辺から搾取することで中心が富を独占するということが起こるわけですが、その中心と周辺の区切りに国境というものが大きくかかわっている。

 だからこそ、多くの人々がイスラーム的発想に立ち返ることで、国境がなくなり、独の自宗教的ネットワークで中東に大きなイスラーム共栄圏のようなものが復活(かつてはあった)することを恐れる国々がある。

 このイスラーム共栄圏のようなものの指導者としてカリフが復活する必要がある、この「カリフ制の復活」を目指しているのが中田先生。
 
 カリフとは、イスラム教の全体の代表者のようなもので、イスラム法を執行するのに必要な役職です。

 カリフは今いないのですが、がまた現れれば、イスラーム教徒は一つの共同体になれるかもしれない。

 だからカリフ制復活を訴えると、国によっては殺されかねないそう。

 中田先生は日本だからカリフ制を訴えることができるようです。

 なぜ殺されかねないのか?

 それは領域国民国家というシステムを守ることで援助を受ける人たちが政権を握っているケースがあるからです。

 「周辺」の国の中においても、国内で序列ができており、その序列を崩さないためのパワーが外部から与えられているということです。

 こうして領域の機能を維持するシステムが構築されている。 

 これが本書でも解説されている欧米のダブルスタンダードです。

 つまり、列強国は、中東以外の税を含めた様々な障壁を取り除いて人・モノ・金が何の阻害も受けずに行き来するグローバリゼーションを進める一方、中東のようなイスラーム圏においては逆に領域の区別を強めることで周辺国として維持することを図っているわけです。

多文化理解へのテキスト

 本書の中でも出てきますが、イスラームは「喜捨」を重んじます。2人のやり取りでこのことは、砂漠などの農産物の乏しい世界において衣食住は、「今、あなたが恵んでくれなければ死ぬ」というまさに生命線であり、そうした状況が日常のすぐそばに簡単に生じる、という環境から生まれたのではないかと分析されていました。

 共有しなければ簡単に死んでしまうことを、皆が共有していた。

 こうした土壌があって、一神教が生れ、イスラームが生れた。

  一方、内田先生曰く、日本では一夜泊めてほしいという旅人に一度断る文化があったのだとか。

 こういう話を読むと、イザヤ・ベンダサンの「日本人とユダヤ人」を思い出します。

 全然文化が違う。

 まるで理解しあえる気がしない。

  でもこの「理解しあえないくらい違う」ということを知ることから多文化理解は始まるのではないかと思います。 

 そういう意味では本書は多文化理解のとっかかりになるとともに、理解する方法論や姿勢をも提示してくれる良書だと感じました。

不幸におさらば!脱広告のススメ

「幸せになりたい」とは多くの人が思うことだと思います。

かくいう私も、もちろん幸せになりたい。

各宗教や哲学をはじめ多くの本には、幸せとは、本人が感じるかどうかであり、何かをすれば得られるというものではない、というようなことが書かれています。

とはいえ、それがわかっていても、どうすりゃいいのかわかりません。

というわけで、逆に「不幸」について考えてみましょう。

我々が不幸だと感じるのであれば、そこはどこから来るのかということを考えてみると、「不幸とは、相対的なもの」と思えてきます。

つまり、「不幸とは比較によって生じる」ということです。


比べるから不幸になる

例えば、普段の暮らしを考えてみます。

朝は布団の中で起き、カーテンを開ければ日が入り、朝食にはパンかごはんかが選べて、電車で出社し、エアコンのあるオフィスで仕事をし、帰ってきてベットで寝れる。

当たり前ですが、江戸時代から見ればこんな豊かな暮らしは想像できないと思います。

現代でも、例えば途上国などから見れば恐ろしいほどに快適な暮らしでしょう。

なのに私たちはこんな暮らしを当たり前と思って、ほかの足りないところに目を向けて「不幸」を感じているのです。

なぜでしょうか。

私には「不幸が金になる」からだと思えて仕方ありません。


広告から離れよう

皆が幸せだと、物が売れません。

だってもう満ち足りているんだから、新たに買う必要などありませんから。

それだと困るから、多くの企業は広告を打ちます。

「これがあれば快適な暮らしができます」

「これを買えば素敵な人生になります」

「これを手に入れるとみんなから一目おかれます」

というようなささやきをテレビから、看板から、ネットから送ってくるわけです。

そうすることで持つものと持たざるものの間に分断を生み、持たざる者が買いたいと思うように誘導していきます。

その結果、別に持っていなくてもいいようなものまで持たないと「不安」になる。

「不安」を解消するために、また買う。

でも買うとすぐに次の製品が出る。

次の製品が出るとまた同じように持たないと「不安」になる…という繰り返しです。

この「不安」が「不幸」とは言えないでしょうか。

この連鎖から抜け出すためには、広告から離れることが必要だと思います。


でもどうやって離れるの?

さぁ、どうやって広告から離れましょうか。

これはとても難しい問題です。

現代の日本社会において会社員として働いている以上、完全に広告から離れて生きることはほぼ不可能でしょう。

でも、意図的に広告と距離を取ることは可能です。

例えば、以下の方法は試してみる価値があると思います。

  • ネットと距離を取る
  • 電車の中では本を読んだり、日記を書いたりする
  • テレビを見ない
  • 出かけない
  • ラジオではなく音楽を流す
  • 家事を楽しむ
  • 自然の中で過ごす
などなど、行動としてはいろいろな選択肢がありますが、いずれにしてもまずは「広告を見ると不幸になる、かもしれない」という仮説を自分の中で温めてあげることがスタートになります。

この仮説を持っていることで、多くの情報が無駄なものであり、自分に「不足感」をもたらすものであることに気づける、かもしれません。

でも、ひょっとしたら気づいても、何も変えられないかもしれません。

悔しいですが、それでいいと思います。

広告とは、相手は人間の心理を研究して、注意を引き付け、我々の関心を惹くことに多くの投資をして作られているのですから、我々一庶民がそんなに簡単には逃れられるものではありません。

一進一退を恐れないことが大切です。

そして、時々負けても、一生をかけて取り組む価値のあることだと思います。

少なくとも、不幸から遠ざかれるのですから。


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やはり私も、時々不足感に苛まれます。

大抵それはYoutubeを見た後だったり、漫画を読んだ後だったり、誰かとのおしゃべりの後だったりしますが、不足感のすべてが悪いわけでもないとも思っています。

結局のところ、バランスが大切で、そういう意味でも中庸に戻るために時々「自分は今どんな情報を食べているのだろうか。過不足ないだろうか?」と疑うことは生きる知恵だと考えます。

幸せになるために、その情報が不幸を招くものではないか?と、時々立ち止まって考えられるようになりたいものです。


モモ (Mエンデ、岩波少年文庫)





楽しい帰省のために(妻の実家に帰省する子持ち男性に向けて)

 妻の実家への帰省と聞いて、どんなイメージを持ちますか?

「楽しみ!」という方もいれば、「考えるだけで憂鬱…」という方もいると思います。

私はどちらかと言えばあんまり行きたくないタイプです。

正直、疲れます。

なんなんでしょうね、何が疲れるかって言われると具体的に何が嫌だってわけではないのですが、やっぱり自宅のペースでは過ごせないのが嫌なのかな。

一時的にかかわる人数も増えるから、普段より気を遣うのかもしれない。

まぁとにかく疲れて後半あたりにはもうぐったりして帰りたくなっちゃうのが常です。

毎回次回どうしようと反省をするのですが、なかなかいざ帰省してみるとその反省を生かそうとすること自体が難しい状況に陥ってしまいます。

例えば「一人になれる時間を作る」とか、やるべきなんだけど、できない。

ダメって言われているわけではないのだけど、できない。

優しすぎるのかもしれませんが、たぶんこういう人は多いんじゃないかな。

そんなわけで、次回の自分への申し送りの意味も込めて、こういう点に気をつけよう、というところをまとめていきたいと思います。


1.帰省の期間は短めに

まず「帰省は苦しいもの」という前提をインプットしておきましょう。

これで楽しければ儲けもんですが、たぶんこの通りになります。

そんなわけで、自分のためにも親族のためにも、期間を短めに設定しましょう。

可能であれば「一泊二日」。

難しければ「二泊三日で遅出早帰り」。

子どもが大きいのであれば、「自分は行かない」「子どもと留守番」「自分だけ早く帰る」という選択肢も出てくるかもしれません。

車移動だとなかなか難しいかもしれませんが、公共交通機関を利用した帰省を組み合わせれば、結構いろいろな選択肢が見えてきます。

大切なのは「帰省は苦しい」ということを自分だけでなく、周りの関係者にもやんわりと伝わるようにしておくことです(言葉にしてはおしまいです)。

ちなみに私は次回は「子どもと留守番」あたりを狙ってみようかと思っています。

そのためにも友人との飲み予定をどしどし入れようと思います。


2.暇つぶし道具は多めでもいいくらい!

優しいあなたはきっとこう思っているはずです。

「せっかくの帰省で普段合わない親戚と会うのだから、交流を”すべきだ”。しかも会話による交流を”すべきだ”」

ええ、わかります。それがたぶん求められている姿勢です。

でも、「そんなに話のあう親戚はいない」という諦めが必要です。

それよりも穏やかに、機嫌よく同じ時間を過ごすために、とにかく暇つぶしアイテムを多数用意していくことが重要です。

その点、ニンテンドースイッチは1人~4人まで、しかも簡単な操作で遊べます。

もし持っているなら、これをもっていかない手はありません。

多少荷物が増えても、ゲームは持っていくのが吉です。

ゲームさえあれば、帰省先で雨が降った日も楽しく過ごすことができます。

交流とは、会話だけではありません。

同じ時間、同じ空間で過ごすだけでも立派な交流です。

相手のことは知れないかもしれないけれど、そもそも知る必要もありません。

ゲームして同じ時間を過ごせれば十分なのです。

ということにしておきましょう。


3.ネット環境を忘れるな

ゲームだけでは、親戚の中には頭の固いおじさんやおばさんが許さないかもしれません。

そんなときのために、ネット環境は必須です。

YoutubeやAmazonPrimeなど、皆で映画を観れば文句はないでしょう。

親のあなたも、昼間の疲れをいやすために、ドラマを一人で見てもいいかもしれません。

ネットに癒しを求めるのは少し寂しい気もしないではないですが、「帰省とは苦しいもの」。

行ってみれば戦場と同じようなものです。

なんでもいいから自分を癒し、機嫌よく帰省を乗り越えるために利用できるものは利用すべきです。

自分を鍛えるのは、帰省を終えてからでもいいではないですか…。


4.子どもの面倒を見ることに徹しよう

はっきり言って、妻の実家に帰省するときには、アウェイへと赴くことと認識してください。

そこは、あなたのための家ではないのです。

しかもあなたはゲストです。

ゲストですが、本当のところはゲストのおまけ、みたいな立ち位置になります。

あなたに求められているのは、ずばり「子どもの面倒をみる」くらいしかありません。

正確に言えば「子どもが飽きないように工夫する」ことを求められています。

結構高度かもしれませんが、選択肢は結構ありますので、2.3.のようなゲーム・ネットを活用しながら、例えばおじいさんと釣りに行く、おばあさんと買い物に行く、など色々と子どもが飽きないようなアクティビティを提案するといいと思います。

子どもとじじばばだけでできるアクティビティを提案できれば、それが最高ですが、それには様々な条件が合わないと実現しないため、まずは手ごろに思いつく、無理のないものから提案をしていきましょう。

基本は「自分には子どもの面倒をみることが求められている」という思いを持っていれば、その姿勢を評価してもらえるはずです。

とはいえ、そこに自分の楽しみも絡めればより機嫌よく帰省を終えることができるはずです。


5.あらかじめ一人になる時間を申告しておく

1~4までの対策をしたところで、やっぱり疲れてしまうと思います。

それが当然です。

どんなに親戚がいい人ばかりでも、疲れて当然です。

疲れる自分に罪悪感を感じる必要はありません。

そこはアウェイなのです。

戦場なのです。

とはいえ、どんなに屈強な兵士も、ずっと前線にはいられません。

大切なのは、「帰省は苦しいものだ」という理解のもと、どのような対策を取るかです。

私は5.として、事前に休める環境を作っておくことを提案します。

どこでもいいので一人になりましょう。

近場の喫茶店に1時間から2時間ほど行けるように、妻に協力を仰いでください。

ひょっとしたら妻は「むっ」としちゃうかもしれません。

そんな時には、「一人の時間がないと、俺は不機嫌になっちゃうと思う」と伝えれば、きっとわかってくれます。

わかってもらえないならば、思いっきり不機嫌になってぶち壊してみてもいいでしょうし、黙って一人になってもいいと思います。

あなたが大事にすべきは、あなたです。

あなたが機嫌よく過ごすことが帰省の成否を決めると思ってください。


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以上、妻の実家に赴く子持ちの男性に向けて楽しい帰省を実現するための提案を列挙してみました。

「帰省は苦しい」。

でも、これからも全く帰省をしないわけにはいきません。

年に一度か、2年に一度か、頻度はまちまちかもしれませんが、生きていれば親族とかかわらずに生きていくことはできませんし、助け合ってこそ親族だと思います。

だから、必ずしも一回一回を全力投球しなくてもいいのです。

むしろ手を抜くべきだ。

これから一生やっていく可能性もある事業なわけです。

だから、「ただ一泊二日機嫌よく過ごす」、これくらいの目標設定がちょうどいいと思うのです。


願わくば、次回のあなたの帰省と私の帰省が機嫌よく終われるものでありますように。

生き方を考えざるを得ない|脱資本主義宣言(鶴見済、新潮社)を読んで

 
脱資本主義宣言―グローバル経済が蝕む暮らし』(鶴見済、新潮社)を読みました。
面白かったです。
本書は世界の経済的なつながりのゆがみを見ていき、私たちが普通に生活することがどのように世界に影響を与えているかを教えてくれます。
著者の言うように、ただ単に個人が生活スタイルを変えればいいというものではなく、企業に圧力をかける、規制を強めるなどの施策もとる必要性がよく理解できます。
とはいえ、個人で何かするための道も照らしてくれる本です。

生きてるだけで誰かを搾取しているという衝撃

世界を北と南、上と下に分けてみると世の中はこんな風に繋がっているのかとゲンナリしてしまいます。

私たちが普通に暮らしているこの暮らし自体が南の世界を搾取せずには成り立たない暮らしなのです。

もちろん、輸入がゼロになれば多大な不便が出るだろうなぁとは思いつつも、こんな形で貿易をしているとはつよほども知りませんでした。

パンを食べ、コーヒーやビールを飲み、安い服を着てマックに行く自分は間違いなく南の人から搾取する側です(とはいえ北の上からは搾取されてるかも知れないけど)。

国際社会というものを南の国々も含めたものであるならば、国際社会の一員として学校で学ぶべきことってのは語学やプログラミング技術などではなく、こういう現実を知ることなんじゃないかと思えます。

(しかし、一方でこの一冊で全てを決め付けない態度も大事かも知れませんが)

何のため、誰のために経済を回すのか

本書を読むと、経済を回す必要がある社会を作ったのは、どうも経済が回ることで儲かる人たちのようです。

この視点に立つと、今回のコロナ禍で経済を回す必要性が叫ばれていたのが少し空々しく感じられます。

お偉い方たちの言う経済を回せってのは、つまり金を吐き出して召し上げさせろってことなのではないでしょうか。

あるいは「俺らの金を再配分なんてしねーかんな?」ってところでしょうか。


コーヒーを飲まなくても、農家は困らないのかもしれない

こうやって経済を回すことに否定的なことを言うと、「お前はいいけど、それで職を失う人だっているんだぞ」と批判されそうです。

でも、職を失っても生けていけるようにするのが政府の仕事でしょ?

それに、世界中の人がコーヒーを飲まなくなっても、コーヒー農家は多分別の作物を栽培するようになるのではないかな。

あんなに苦くて加工に手間のかかる作物よりも、おいしくて栄養の多い作物を作ったほうがその地域にもいいような気がします。

しかも、その方がグローバル企業から買い叩かれることもなくて幸せかも知れない。

そしてこれはコーヒーだけに限った話ではないはずです。

(あるいは他の仕事をするよりも今の仕事を続けた方が楽な理由があるのかも知れないけれど)


なにはともあれ、職を失うことを恐れさせるってのは、搾取する側の基本戦略なわけです。

札束でほっぺたを叩けば人を好きに動かせれるってのは、楽ちんに違いありません。

その札束だって、その叩いている人から吐き出される金なんですから。


ではどう生きるのか

さて、じゃあ搾取されつつも、どちらかと言えば搾取する側についている自分には何ができるのか。

例えばこんなこととか。

  •  コーヒー、缶ビールを飲まない(結構難しそう…)
  •  チェーン店は避ける(マックで時間つぶせるのはありがたいのだが…)
  •  高くても国産品を買う(服はめっちゃ高くなりそう)
  •  応援したいものを買う(これはできそう)
  •  ご飯中心の生活にする(これもできそう)

とまぁ、こんなところでしょうか?

あとは、流行には乗らない、とかかな(これはいける気がする)。

参考までに流行を作り出す企業代表であると思われる電通の「戦略十戒」をご紹介します(P43)。

  1. もっと使用させろ
  2. 捨てさせ忘れさせろ
  3. 無駄づかいさせろ
  4. 季節を忘れさせろ
  5. 贈り物をさせろ
  6. コンビナート(組み合わせ)で使わせろ
  7. きっかけを投じろ
  8. 流行遅れにさせろ
  9. 気安く買わせろ
  10. 混乱を作り出せ

これらに抵抗すれば、大量消費・大量廃棄への抵抗につながるかも知れません。


とはいえ、個人は弱いから

でも、いろんな南の惨状を知った上でも、やっぱりコーヒーを飲みたい気持ちは消えない(し、結構飲まざるを得ない状況は多い上に、つい飲んでしまう)。

だからそんなに悪いものなら、そもそも輸入されなければいいのになと思う。

目の前に快があれば、手を伸ばしたくなるのが人情というもの。

自由だけでは、世の中は良くなりそうにありません。

東洋哲学は説明ができない:【書評】史上最強の哲学入門-東洋の哲人たち(飲茶、河出文庫)



史上最強の哲学入門-東洋の哲人たち(飲茶、河出文庫)を読みました。
面白い。
相変わらずいろいろな作品からの名言をちりばめており、男の子ならクスリと笑いながら読める一冊です。
ぜひ姉妹本の『史上最強の哲学入門』も合わせて読まれることをお勧めします。
史上最強の哲学入門(飲茶、河出文庫)


東洋哲学の最大の特徴は、「説明することができない」ということです。

『インドで生まれた仏教が、中国でタオとして生き残り、日本に来て禅へと昇華された。東へ、東へと言葉や形を変えながら継承されてきている。』というようなことは言えても、中身については、説明ができない。
西洋哲学との比較はできても、「じゃぁ東洋哲学の真理って具体的に何なの?」と聞かれても答えられない。
なぜなら、それは「個人が体験すること」であり「個人が理解をすること」だから。
単純に書物を読めば「はい悟ったよ」とはならないので、説明のしようがない。
どうしてこういうことになるのか、それは、そもそもの真理へのアプローチに原因があるようです。

西洋哲学は、過去の哲学を壊しながら新しい哲学を作って真理に近づこうとする。
一方で東洋哲学はすでに真理を捕まえたところから、どのようにそれを知るか(理解するか)というアプローチの仕方を取る。
ということで、西洋哲学は究極の真理へと登りつめていこうとする「階段」の構造であり、東洋哲学は究極の真理から様々な解釈が裾を広げていくような「ピラミッド型」の構造といえます。

西洋哲学はそのため、言葉で表現しなくてはならない。
逆に言うと、言葉で表現できないものは扱えない。
一方、東洋哲学は、そもそも言葉で表現できないもの(教祖の体験)を教授・解釈していくため、上のような構造の違いが生まれるそうだ。
どちらが優れているということもなく、方向性の違いです。
(とはいえ、この方向性の違いが科学技術等の発展の違いを生むことになるわけですが…)

 西洋は、論理や知識というものを有効だと信じている。だからこそ、西洋はより高度な論理を組み上げることを目指し、西洋哲学は巨大な理屈の体系として発展していった。
 だが、東洋は、理論や知識というものをそれほど有効だとは信じていない。なぜなら、東洋にとって「真理」とは「あ、そうか、わかったぞ!」という体験として得られるものであり、そして、体験とは決して言葉では表せられないものであるからだ。そのため、「思考を磨き続ければいつか真理に到達できる。言語の構造物で真理を表現できる」といった幻想を東洋哲学は最初から持っていなかった。
 だから、東洋哲学は、理屈の体系はそっちのけで、「どうすれば釈迦と同じ『悟りの体験』を起こすことができるのか」、その一点だけに絞り、そこに特化して体系を洗練してきた。かくして、東洋哲学は「悟りの体験を引き起こす方法論(方便)の体系」として発展していったのである。
 このように東洋哲学は「とにかく釈迦と同じ体験をすること」を目的とし、「その体験が起きるなら、理屈や根拠なんかどうだっていい! 嘘だろうと何だろうとつかってやる!」という気概でやってきた。なぜなら、彼らは「不可能を可能にする(伝達できないものを伝達する)」という絶望的な戦いに挑んでいるからだ。そういう「気概」でもなければ、とてもじゃないがやってられない!
 そして、事実、東洋哲学者たちは、そのウソ(方便)を何千年もかけて根気強く練り続けてきた。(P340)

そんなわけだから、東洋哲学の場合、本当に仏陀とほかの哲人たちが同じ体験をしたのかはわからない。
ひょっとしたら仏教から禅への系譜は全く引き継がれていないかもしれない。
でも、すべて「個人の体験」だから、当人にさえ可否さえは判別できないし、ましてや最終的な境地は「普通の人」見わけがつかないのだから、他人にはどうしたってわかりようがない。
ゆえに、説明のしようがないのである

*

かなり冒頭に出てくる「世界は自分とは関係のない映画みたいなもの」という考え方は、なんだか不思議な感じがした。
しかし、それを悟ったからといって、いったいどうなるのだろうか。
なんとなく、むなしくなるだけではないかと思うのだけど、ひょっとしたらそのむなしさの先みたいなものがあるのかもしれない。

そう考えると、ある意味、学問と似ています。
・一般人からすれば、何のためにそんなに修行をするのか(研究をするのか)わからない。
・修行(研究)の先に何があるのかもわからない。
・わかったとしても、一般人には理解できないことが多い。
などなど。
結局、人間というものは「学問してしまう生き物」なのかもしれませんね。


 

教育が子どもから自主性を奪う:【書評】反教育論(泉谷関示、講談社現代新書)



反教育論(泉谷関示、講談社現代新書)を読みました。
面白かったです。

内容としては、いかにして自主性をはぐくむかという点にあると私は感じました。
基礎教育にこだわったり、何でもレールを引いてあげたりすることで、いかに個人の自主性がなくなっていくのかといった内容です。
本書の内容は、かなり根本橘夫氏の『「いい人に見られたい」症候群』等の著作につながるものが多い印象を持ちました。
いずれも「自分を持て」というメッセージを発しているように私は感じます。
『「いい人に見られたい」症候群』がどうやって「自分の持つか」という方法が主だったのに対して、本書は「なぜ自分を持てなくなるのか」という根本原因を深堀したような感じでしょうか。
また、様々な先人からの引用や現代社会とのつながりなども絡めて説明するため、「自分を持てなくなる背景」がより鮮明になっている感じがします。

自主性の育て方

本書には、「自主性を育ませたいなら、自主的にさせておかなくてはならない」というロジックが底流しています。
なるほどその観点で行くのであれば、私たち大人は「どうにか子どもをコントロールしないように」自律しなくてはいけません。
そして、私たち大人から逃れるべき機関である学校にもそのことを求めなければなりません。
そのためにも、自主性は外から育てることはできないということを認めることが必要です。
「いい距離で見守る勇気」、大人にはこの勇気が求められているようです。

子離れが大事

そういう意味では、本書は、子育てをしている方にとっては、結構きつい本かもしれません。
例えば、幼児教育やいい学習環境が子どもを必ずしも成長させるわけではないなど、親としてはしてあげたいことが子どもの成熟には却ってマイナスに働くというような主張も多いです。
逆に、親に嘘をつけないと子どもは成長しないという主張も、親的には少し「えっ…本当に?」と思ってしまうでしょう。
ただ、「無菌状態で育てれば、弱い子になる」と言われてみれば、私としてはよくわかります。
極力親は介入せず、子どもが大けがしないように見守ってあげることが、親のしてあげられる最大限のことなのかもしれません。
そういう点からみると、ぜひ子育てに自信を持っている人にこそ読んでほしい一冊です。
(まぁ自信を持っている人はこういう本を読まないと思いますが)

逆に、子育てにへとへとになっている人にはいいかもしれない。
本書を読めば、子どもはうっちゃっておいてもいいかもと思えると思います。
親がかかわらないほうが、子どもが成熟するのですから。
あとは、親が何か没頭できる遊びのようなものを持っているほうが、子どももそれをまねるかもしれないので、そういう時間を作ってもいいのかもしれないと思えるかもしれません。
そういう意識を持っておけば、少なくとも、子どもが何かに没頭していることを容認できるはずです。
また、子どもが集団の中で浮いていたり、先生から疎まれたりしていたとしても、ひょっとしたら自分で考えることのできる子どもなのかもしれないとポジティブに考えることができます。
(もちろん人を傷つけるというようなことは許されませんが)
こういう風に見ていくと、子育てや教育というのは、そんなに難しいことではないように思えます。

といった感じで、人によっては少し肩の荷が下りる本です。


幸せと執着の関係:【映画評】秒速5センチメートル(新海誠)




秒速5センチメートル(新海誠)を観ました。
胸をえぐる作品です。

ジブリ作品の『耳をすませば』の正反対というか、バッドエンドというか、そんな風に表現すればいいのでしょうか。

あんなにぜんぜん進まない電車でイライラ感を共有させた上でいい感じになった2人なのに、そこからなんやかんやあって「え、そうなるの? 実は主人公といい感じで終わるとかじゃないの?」という感じでスパッと終わります。

本作を端的に表現してしまえば、「繊細な人達がすれ違う物語」です。
そんな物語なので、主題歌の「One more time, One more chance」はぴったりです。


が、各登場人物たちそれぞれの繊細に気付けるのは、ひょっとしたら鑑賞者だけかもしれません。
例えば澄田からしたら、遠野は繊細とは思えないだろうなぁと思います。

繊細ゆえに、ここではない遠くを見て生きてしまうというのは仕方のないことなのかもしれません。
しかも、そういう生き方というのは、一見浮世離れしていてかっこいい側面もあります。
まして澄田のような狭い世界に窮屈な思いをしている高校生からしたらなおさらかもしれません。
(遠野くんイケメンだしね)
でも、ここではない遠くを見て生きているというのは、ある意味自分の人生を生きれていないということで、だから遠野は苦しみ続けているのです。

チューしたときに「この先がないことがはっきりわかった」とかなんとか察してないで、後日さっさと明里ちゃん会いに行って、色々とはっきりさせればよかったのに、それを逃げててだらだらと生きていたところに大きなかけ違いが生じたのです。
(「鹿児島に住んでたって、羽田で合流すればいいじゃん」と言ってしまえば作品にはならないのでしょうけれど)
繊細な人というのは、粘着質なところがあるのかもしれません。
(…気を付けよう)

その点、明里ちゃんは偉い。
遠野のことなんてすっぱり忘れて、結婚相手も見つけて幸せになっています。
遠野との思い出を昔のこととして受けれてもいる。

2人の違いは何だったのか。
それは執着の有無でしょう。

こう考えると、どうにもならない(と思える)ことを手放すというか、忘れるということは、幸福に生きていく上で重要なんだなぁと思わされます。
仏教も「執着を手放せ」とはよく言いますが、こういうことですね。

忘れて、許して、今を生きれる人が一番幸せなのです。
秒速5センチメートルは、そんなことを突き付けてくる作品でした。

辞令交付式への違和感(みんなよく参加するなぁ)

 今日は4月1日。  我社では辞令交付式が行われました。  そのため、土曜日ですが、人事課員として出勤しました。  明日も仕事なので、12連勤となります。   人事課の闇ですね。  それはさておき、辞令交付式に関して、毎年違和感を持ちます。  それは、お礼を言われる側が、何故かホ...