多数決=民主主義ではないし、民主主義ってそんなに簡単じゃない:【書評】多数決を疑う―社会選択理論とは何か―(坂井豊貴、岩波新書)




多数決を疑う―社会選択理論とは何か―(坂井豊貴、岩波新書)を読みました。
とても面白かったです。

本書のいいところは、多数決を疑うところから始まって、民主主義の歴史や自由とは何か、一般意思とは何か、民主主義とは何か、民主主義を遂行するとはどういうことか、など多岐にわたるトピックスに触れている点だと思います。
ある意味、倫理の本を読んでいるようでした。
多数決というものについて、ここまで深く考える余地があるということも驚きです。

通読してみて、自分が当たり前のように選挙に行き、民主主義国家の主権の一人として権利を行使しているものと思っていましたが、全然そんなことはないということを知りました。


多数決では民意が反映されない

著者は何度かアメリカ大統領選の例を取り上げて説明を試みる。
ブッシュVSゴアの大統領選だ。
当初ゴアが有力候補であったが、そこに第三の立候補者でゴアよりの政策を打ち出したネーダーが入ることで、ゴアの票が割れてしまい、ブッシュが漁夫の利を得たという。
このような複数の選択肢の中から1人を選ぶ多数決の場合、単純に第一志望のみを集約してくとこのような「票割れ」が起きてしまい、民意が反映されなくなってしまうことがある。
こういった票割れを起こさない集約ルールはないのかと考えたのが、ジャン=シャルル・ド・ボルダだ。
ボルダは、第一志望にだけ得票を入れるのではなく、すべての選択肢の順位を集約することで、全体の意見を集約するという「ボルダルール」を考案した。
具体的には一つの投票で1番には3点、2番には2点、3番には1点を付与し、すべての投票を加点して集計するというものだ。
先の大統領選でボルダルールを使用したとして、世論通りに投票されたとしたならば、おそらくゴア、ネーダー、ブッシュ(民主党寄り)あるいは、ブッシュ、ゴア、ネーダー(共和党寄り)という票が多く入ることとなったであろう。
しかし、結果は民主党寄りの多数派意見は反映されなかった。
同じことは小選挙区制の日本でも言える。

どの集約ルールを使うかで結果がすべて変わるわけだ。「民意」という言葉はよく使われるが、この反例を見るとそんなものが本当にあるのか疑わしく思えてくる。結局のところそんざいするのは民意というよりは集約ルールが与えた結果に他ならない。選挙で勝った政治家の中には、自分を「民意」の反映と位置付け自分の政策がすべて信任されたように振る舞う者もいる。だが選挙結果はあくまで選挙結果であり、必ずしも民意と呼ぶにふさわしい何かであるわけではない。そして選挙結果はどの集約ルールを使うかで大きく変わりうる。(P50)


64%ルール:憲法改正の要件は3分の2では弱い

憲法の改正を考えてみたときに、改正案Aというのが出たとする。
この改正案に賛成する者が過半数だったとしても、その改正が適切とは言えない。
なぜなら別の改正案Bのほうが適切だという可能性が排除できないからだ。
では、改正案Aを適切だ(改正案Bを選ぶ人よりも多い)と言わせるためには、どれくらいの賛成率が必要かというと、64%なのだそうだ。
これを64%ルールというが、日本の憲法改正には衆参両院の3分の2の賛成(66%)が必要ということで、かなり近い。
しかし、日本の選挙は小選挙区が多いため、少ない投票率で多くの議席を確保できるケースがある。
著者はこの点を鑑み、適切な改憲ができるよう国民投票で64%の賛成が必要とするように改正すべきという。
衆参両院で3分の1が反対したら改憲できないのは厳しいという意見がある中で、斬新な提言だ。

第九六条の擁護として「人間は判断を間違いうるから現行の三分の二条件を尊重せよ」とはよく言われる。また、改憲の硬性は、多数派の暴走が少数派の権利を侵害することへの歯止めだとしても重視される。
(中略)しかし、そもそも多数決は、人間が判断を間違わなくとも、暴走しなくとも、サイクルという構造的難点を抱えており、その解消には三分の二に近い64%が必要なのだ。そしてまた小選挙区で制のもとでは、半数にも満たない有権者が衆参両院に三分の二以上の議員を送り込むことさえできる。つまり第九六条はみかけより遥かに弱く、より改憲しにくくなるよう改憲すべきなのだ。具体的には、国民投票における改憲可決ラインを、現行の過半数ではなく、64%程度まで高めるのがよい。
(P135)

実は民主主義に参加できていない主権者(民衆)

最後にこうした民意の集約ルールがあるものの、現実ではそれがそもそも生かせていない例(都道328号線について)が挙げられた。
都が新しく道路を整備するという施策について、市民の意見というのはほとんど入り込む余地がないのである。
唯一できる市民投票でも、市議会等でそれを受け付けるかどうかを決めることができるそうだ。
そして、困ったことに、市の一部の人間に大きな損害がある政策だとしても、市全体での投票率が何%以上でないと開票しないというルールが条例で定められてしまうと、実際に市民投票をしたところで開票もされないままスルーされてしまうということが起こりうる。

主権に基づく統治の困難とは、立法が執行を制御できないということである。しかし「主権者である国民が国会議員を選出し、国会が立法し、行政機関はそれを執行する」という形式があるゆえ、現行制度は国民に由来する正当性を持ち「民主的」である、という理屈がまかり通る。だが行政機関による執行には、実際上のきわめて広い裁量があり、そこで独自の決定ができる。
(中略)執行が強力であることは、ときに「民主的なプロセス」の一部として安易に位置づけられてしまう。すると行政機関は当事者である住民の声を聴く必要がないばかりか、その声は「民主的プロセス」を阻害するノイズにさえ扱われてしまう。
(P149)



最後に、特別紹介しておきたい一文を引用して終えます。

ところで「政治に文句があるなら自分が選挙で立候補して勝て」といった物の言い方がある。何を根拠としているのか不明だが、それを口にする者の頭の中では、それが「ゲームのルール」なのだろう。だが、わざわざ政治家にならねば文句を言えないルールのゲームは、あまりにもプレイの費用が高いので、それは事実上「黙っていろ」というようなものだ。人々に沈黙を求める仕組みはまったくもって民主的ではない。(P150)

「民主的」というのは、対話の場が開かれており、対話の余地が残されているところにしか適用されないものなのです。




他者に強くなる方法としての自然体といくつかのおすすめ書籍:【書評】人に強くなる極意(佐藤優、青春新書)


面白かったです。

人に強くなる≒自然体で生きる、ということだと私は理解しました。
人に媚びず、びびらず、直感を大事にしながらも先人や他社の知恵を借りながら賢く生きていくことが大切だと語りかけてくるようです。
ではどうやってそんな生き方をしていけばいいのか。
当然ですが簡単ではなさそうですが、そのための方法論を、著者の体験や読んだ本などを通じて紹介されています。

ところどころに「うつになりやすい人の仕事の捉え方」なども書かれており、なるほどと思いました。
(読んだからといってすぐに捉え方を修正できるような処方箋ではありませんが)
ただ、クラッシャー上司サイコパス上司のように、本当にやばい人もいるということは、知っておいたほうがいいでしょう。
本当にやばい人とは、どううまくやろうとしてもどうにもなりませんから、逃げるしかありません。
私個人としては、その点を強調しておきたいと思います。
(最近の著書ではこの点にも触れらていました→メンタルの強化書(佐藤優、クロスメディア・パブリッシング)

各章の最後には、おすすめの書籍も紹介されていました。
今後読みたいなぁと思った書籍をメモ代わりに列挙します。

怒らない

びびらない

侮らない

断らない

あきらめない

先送りしない

他者を優先する「甘えんぼいい子ちゃん」を卒業しよう:【書評】「いい人に見られたい」症候群(根本橘夫、文藝春秋)



面白かったです。

「自分よりも他人を優先してしまう」という心理を分析し、そのことに『「偽りの自分」を感じてしまう人』に対してどうすればそれを乗り越えられるかを示した一冊でした。
自分を犠牲にして、他者を優先させるというのは、多かれ少なかれ、自分も該当してると思う方も多いと思いますが、その他人優先が行き過ぎてしんどくなる人に向けられた本です。

こうした他者を過剰に優先するという心理の裏には、「あなたを優先するのだから、自分にも優しくしてくれ」という甘えが存在すると著者は分析します。
また、こういう心理に至るのには、自分の価値を低く見てしまうせいであり、自分の価値を低く見てしまうのは、十分な愛を得られずに自分を表現してこなかったからだとも。
自分の価値を見出すためには、自分の感情や思いを吐き出し、社会や他人とぶつかることでちょうどいいところを探っていくという作業が必要で、そのためにも反抗期というのは重要な自己表現の時期となる。
だからこそ反抗期がないというのは成熟へのきっかけを失うことにつながるそうです。
(どうせ分かり合えない、という諦めはすでに代償的自己への階段を上りつつあるということでしょうね。わかる気がします)

本書の中には20代から60代まで、男女ともに多数の患者(?)の声が紹介されています。
いい人に見られたい自分に苦しんでいる(代償的自己を生きている)人は世代や性別を問わないようです。
また、特に日本は自分を律することを求められることが多く、学校という機能そのものにも、代償的自己を助長する部分があると著者は指摘します。
代償的自己を生きるほうが楽な時期というのがあるということだと私は理解しました。

本書がよかったのは、代償的自己のような生き方についても、これまでそういう生き方だったことをまずは認めることが大事だと教えてくれるところです。
誰のせいでもなく、代償的自己を生きるしかないからそのように生きてきた、という認識でまずは受け止める。
次に、それをどうしたいか、どう生きていきたいかを自分でつかみ取りましょう、そのためにはこんな風に考えるのがいいのでは? というような感じです。
普通の人が読めば、「こんなの普通じゃん」という内容かもしれません(例えば、自分の感情や感性を大事にする、など)。
でも、代償的自己を生きる人は些細なことですべてが崩れ去ると思っています。
だから、自分を出せず、それによってさらに自分の価値が低く感じられ、余計に自分を出せずになり…といったつらいループをぐるぐる回ってしまうのですね。
このループから抜け出すには、自分でやるしかないのがポイントです。
自分の人生は、自分にしか変えることはできないのです。
そして、自分の人生を変えるために必要なことは「傷つくことから逃げないこと」「行動すること」の2つだけと著者は強調していました。

私自身も仕事で上司と合わずに休みながらこの本を読んでみると、確かに代償的自己のような生き方をしていた部分があると感じます。
「私は、いい子ちゃんになりたがっていたんだなぁ」と気づかされました。
これまでの人生を思い返してみれば、そうやって自分からしんどい方向に自分を持って行ってもがいていた部分もありそうです。

タイトルを見て何かピンと来た人は、ぜひ一読をお勧めします。
「あぁ、この感覚は、そういうことなのか」と腑に落ちる部分がきっとあるはずです。



たぶん根っこの部分は『繊細さん』と近いものがあると思います。

モモ (Mエンデ、岩波少年文庫)



モモ (Mエンデ、岩波少年文庫)』を読みました。
時間とはどういうものなのかを考えさせられます。
1973年に書かれた本ですが、まさに今ここで読まれるために書かれた本だと思わせる一冊です。

物語ですから、読んでみないと内容はわかりません。
誰かから聞いてもピンとこないし、端的に言えば「時間泥棒と女の子が戦う話」ですが、これだけではこの物語の核には触れることができない。
でも、読んでみれば「生きていくうえで大事なことってどんなことだったっけか」、と考えるために立ち止まるきっかけをくれることでしょう。
子ども向けの本という設定ですが、忙しい大人こそ読むべきと思います。

仕事で体調を壊しかけている私には、ベッポという掃除夫のおじさんの言葉が印象的だったので、長いですが、引用します。

「なあ、モモ、」とベッポはたとえばこんなふうにはじめます。「とっても長い道路をうけもつことがあるんだ。おっそろしく長くて、これじゃとてもやりきれない、こう思ってしまう。」しばらく口をつぐんで、じっと前のほうを見ていますが、やがてまた続きます。「そこでせかせかと働きだす。どんどんスピードを上げてゆく。ときどき目を上げてみるんだが、いつ見てものこりの道路はちっともへっていない。だからもっとすごいいきおいで働きまくる。心配でたまらないんだ。そしてしまいには息がきれて、動けなくなってしまう。道路はのこっているのにな。こういうやり方はいかんのだ。」
ここでしばらく考え込みます。それからようやく、さきをつづけます。
「いちどに道路ぜんぶのことを考えてはいかん。わかるかな? つぎの一歩のことだけ、次の一呼吸のことだけ、つぎの一掃きのことだけを考えるんだ。いつもただつぎのことだけをな。」
またひと休みして、考えこみ、それから
「するとたのしくなってくる。これがだいじなんだな、たのしければ仕事がうまくはかどる。こういうふうにやらにゃあだめなんだ。」
そしてまたまた長い休みを取ってから
「ひょっと気がついたときには、一歩一歩すすんで来た道路がぜんぶおわってる。どうやってやりとげたかは、じぶんでもわからんし、息もきれていない。」
ベッポはひとりうなずいて、こうむすびます。
「これがだいじなんだ。」
(P52)

時間泥棒はまだいなくなっていません。
奴らは、いつでも、そこかしこから現れるのだということを知ること、それが豊かな時間を生きることにつながると思えます。

バカの壁(養老孟司、新潮新書)



バカの壁』(養老孟司、新潮新書)を読みました。

たしか高校生のときに読んで、なんでこの本がベストセラーになるのかわからないと思ったと記憶していましたが、この年で読み返すと染み渡ります。
「そうそう、本当にそうなんだよね!」というところばかり。
この我が意を得たりという感じは内田先生に通じるものがあります。

本書の趣旨は「常識を大切にしろ」「わかるということを軽んじるな」という2点に集約されると思いますが、この2点はまさに民主主義が成立するために市民に求められる要素にほかならないと思います。
この2つの要素がない人は、「頓珍漢な考えを持ち」「それこそ正しいと確信している」。
故に話にならない。
壊しようのない「壁」ができてしまうわけですね。
バカの壁というのは、ある種、一元論に起因するという面があるわけです。バカにとっては、壁の内側だけが世界で、向こう側が見えない。向こう側が存在していることすらわかっていなかったりする。(中略)今の一元論の根本には、「自分は変わらない」という根拠のない思い込みがある。(P194)

自分は100%正しい(相手が折れるべきだ=自分は意見を変えるつもりはない)と思っている人間とは、議論なんてできません。
議論とは相手を論破するためのものではなく、より良い答えを導くための"相談"に近いのですから。
ところがそこを理解せずに、自分は議論に「強い」などと豪語したりする人がいる。
普通に考えれば、おめでたくて凝り性の人だと思われるだろうけど、なんとなく今の社会はそういう人を持ち上げるきらいがある気がする。
「常識に縛られない鬼才」だとか、「毅然とした改革者」だとか。
養老先生はそういうのが「気持ち悪い」と思ったのではないかと私は思います。
(もし本当にそうだとすれば、私には養老先生の感覚が非常にわかります)

社会は共通了解の上に成り立ち、その構成員としての振る舞いが求められるということは、(格差の再生産が甚だしくなければ)当たり前でしょう。
自称人間嫌い中島義道先生さえもその前提で持論を展開している。
(非常識人のような人間嫌いが、常識を理解している事は1ミリもおかしくない。詐欺師が法律や人の心理を理解していてもおかしくないでしょう?)
「人間嫌い」のルール(中島義道、PHP新書)

問題は、どうしたら「壁を取り払うことができるのか」ということですが、著者の言うように「個人的に付き合っていくしかない」(P200)のかもしれません。
「ひょっとしたら、全く通じないかもしれないけど、付き合っていればいつか状況が変わるかもしれない」という希望を抱いて接し続けることのできる人が近くにいたとして、そのことのありがたさを感じられる様な人間を肯定するのも教育だと思わせられました。

ということで、やっぱり、先生にはいろんなタイプの人間がいたほうががいいと思います。
たまには「常識と外れた人」や「常識を外れた人」もいたほうがいい。
だけどこの辺の問題は、やっぱり程度の問題で、だからこそやっぱり難しい。

いずれにしてもいい本です。
読んでどう思うかはわからないけど、ぜひ子どもにも読んでほしい。
(そういえばこの本は実家の父の本から借りてきたのでした、父はどんな思いでこの本を読んでいたのやら?)
ということで、本棚入りです。

 

「人間嫌い」のルール(中島義道、PHP新書)



「人間嫌い」のルール』(中島義道、php新書)を読みました。
人間嫌いというとても反人情的な響きのあるテーマを扱う本ですが、私としては非常に筋の通った本だと思えました。
私には、自分の社会的な弱点を見つめるこの著者だって普通の人間のように思えます。

個人的には、著者の意見は、ほとんどすべて納得できます。
要するに、個々人違うのだから、それを認める社会たれというだけのことです。
こういう本が書かれなくてはならないことが悲しいと思うのですが、そうでもないのでしょうか。
少なくない人が、著者とおんなじ事を思っていると思います。
特に立場の低い者はそうでしょう。
職場のパワハラもこういうところに根があると私は思っています。

中江兆民も葬式は行かなかったそうだし、私としても別に葬式に行く必要はないと思います。
行きたい人は行けばいいし、行きたくない人は行かなければいい。
後日線香をあげるのもよし、家で黙想するでも良いではないですか。
なぜに悲しさを外に見えるように表さなければならないのか。
著者はただ、他人の考えは他人に任せておけと言っているだけです。
行動の動機は、その真意は、つまるところ本人しか知り得ないのだから、周りが憶測でどうのこうの言うなという事に尽きると思います。

そして、現代社会はどんどんそういう方向に向かっているというのが私の印象です。
この社会的合理化がどこまで行くかはわかりませんが、近いうちに著者の望んだ共同体が日本という国には出来上がる気がします。

この本を理解できる人には、「昔は良かった」という言葉をそのまま受け取れることはできないでしょう。
「よそはよそ」という社会こそを理想とするし、現実の社会は今、家の解体や、核家族化、非婚・晩婚、シェアハウスなどなど、明らかに社会的な縛り(つながり)を減らす方向に動いていますから。
今回の新型コロナウイルスへの対応で、人と人との物理的な距離もいくらか広がるでしょう。
今後は、不必要なつながりは避けられ、現実的な生活に必要なゆるいつながりを残す流れが肯定されていくように思います(という希望)。

今日も社会の至るところ(主には日陰が多いかもしれません)で、緩やかな共同体が生まれつつあります。
私としては、いい時代だと思うのですが、たぶん異論は多いのでしょう。

この本を読んで自分の人間嫌いを自覚する人も多いのではないかと思います。
問題はそれで救われるか、傷つくかどうかです。
救われる人は救われればいい。
傷つく人も、気にする必要はありません。
傷つくあなたは、たぶん人間嫌いではないはずです。





大学の未来地図』(五神真、ちくま新書)を読みました。
面白かったです。

大学の経営層にいる方々の本には、「大学はなっとらん」「こんなんじゃ世界と渡り合えない」「大学教員なんかに教育を任せちゃいかん」という世間の声を柔らかく受け入れて、さらりと「ほんとにそうですよね、でもうちの大学は違いますよ。ちなみに私は海外の●●大学で云々」という書き方をする本が多いように感じていますが、本書は違います。
非常に冷静に「東大」を見ているように感じます。
あるいは、「東大」というか、東大をトップとした日本の高等教育の構造の中での東大の役割を(いい意味で)冷めた目でもって整理されている印象を受けました。
「確かにいろんな考えがあることは知っています。ただ、東大はこういう考えで、こういうことをすすめているんですよ」という感じです。

面白かったのは、意外と東大も自由に使えるお金が少ないということです。
資産が多くても、収益性の大きい資産ではなく(山林などの不動産などが多い)、またほとんどの資金(大学なので予算という方が正しいですね)が用途の決まった資金(予算)であり、ゆえに大胆な投資などは構造的にできない仕組みになっているそう。
そして、そこに公的な助成の減額がのっかってくるのだから、一昔前の東大と今の東大とでは経営の難しさが桁違いなのではないだろうかと思えてきます。
現場はどこも喘いでいて、その中でリーダーシップをふるう必要があるのですから、なかなかストレスフルな仕事でしょう。


---以下、話は本から逸れます---

上記のような運営資金に窮している状況であれば、なるほど著者の書いているように、産学連携やベンチャービジネスへの投資に注力していこうというのもわかります。
どうにかしてお金を稼ごうと思うのは当然です。
しかし、この方針は、東大のような大学だからできることであって、小規模かつ文系の大学などはなかなか採用できないでしょう。
ということで、すべての大学ができる施策ではないし、著者もそんなつもりでは言っていないでしょう。

では、小さい大学が生き残るためには何をすればいいのだろか、と思えば、言い方は悪いですが、弱いもの同士で協力することが大事ではないでしょうか。
ノウハウの共有や専門職人材の共有など、できることは多いはずです。
そうした連携が進めば、管理職の共有なんてこともあるかもしれません。
そのためにも、今後多くの大学で経営がひっ迫すればするほど、法人の合併は増えていくはずです。
という風に見ていくと、いろんな方法を使うことでしばらく大学は総数を減らしつつも、生き延びていくと思われます。

しかし、だからと言って(同書でも再三話題にしている)若手の雇用の不安定さが減ることはないでしょう。
大学や入学定員が適正な数に落ち着くのと、人口の減少とがマッチすることはしばらくないでしょうし、日本の雇用形態では専任の教員を首にはできない。
(むしろポストがない今、専任教員は必至で今大学の今のポジションを守ることでしょう)
ということで、どうしてもまだポストについていない若手研究者は専任のポストにありつけないことになります。
それはつまり、大きなスケールでの研究ができない(目先の成果を上げるための研究に力を注がざるを得ない)ということを表します。
これは知識集約型の社会において、非常に大きな損害になるように思います。

じゃぁどうすればいいのか。
私個人の考えでは、公的な助成を増やしてほしいのですが、それが望めないのであれば、人件費を下げてしまう、すなわち給料を下げてしまう、というのがいちばんいい気がします。
その分、もっと研究者を雇って、指導・講義・会議・事務作業の手間を分散してあげれば、むしろ喜んで給料を下げたい先生もいるのではないでしょうか。
人件費を下げてしまえば、優秀な人材が海外に逃げてしまう?
果たして本当にそうでしょうか?
自分が安定して自分の関心のある研究を追求できる環境があるのに、わざわざ別の大変な環境に行ってお金を稼ぎたいと思う人がそれほど多いとは私には思いません。
(どこかの大学で、アンケートでも取ってないものかと思います)

もちろん生活に苦しむほどの安易な給与カットを推奨するつもりは毛ほどもないのですが、給与はそこそこでいいから、教育・研究に使える予算を増やしてほしいという研究者が多いのではないでしょうか。
少なくとも、そういう仕組みでもない限り、ポストは増えないのではないでしょうか。
ポストが増えなければ、若手研究者はそもそも志望する人が減っていくでしょう。
高度な知識を持つ人材を有機的につないで社会的な価値を生み出していく、行かねばならない「知識集約型の社会」というものが到来するのであれば、みんなで少しずつ詰めて席を確保していくしかないのではないかなと思うのですが、いかがでしょうか。
(税金をもっと大胆に教育に投入してくれるなら、もうちょっと違う道もあるのかもしれませんが…)

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決めつけたように書きましたが、多分道はほかにもあるのでしょう。
すぐに答えのでるものでもないかと思いますので、今後時間をかけて、もう少し落ちついて考えてみたいと思います。

辞令交付式への違和感(みんなよく参加するなぁ)

 今日は4月1日。  我社では辞令交付式が行われました。  そのため、土曜日ですが、人事課員として出勤しました。  明日も仕事なので、12連勤となります。   人事課の闇ですね。  それはさておき、辞令交付式に関して、毎年違和感を持ちます。  それは、お礼を言われる側が、何故かホ...