【読了】奇想の系譜

『奇想の系譜』(辻惟雄著、ちくま学芸文庫)を読み終えました。

これから東京都美術館の『奇想の系譜展』を見に行かれる方は、ぜひ一読されることをおすすめします。

残念ながら私はこれまで美術史に関する本を読んだことがないため、本書が当時の日本美術界にどのような意義を投じたかはいまいちピンときてません。
当時は流派こそが日本美術史だった?ようなので、そういう意味において<傍系>や<異端>を取り上げた書としてセンセーショナルであったようです。
しかし、著者のあとがきにおいて、結局のところ取り上げた奇想の画家6名も単独で存在し得たわけではなく、それまでの主流の流れを汲む中でも前衛的であっただけだ、というように書かれています。
ということは、多分生まれるべくして生まれた作品(あるいは画家)たちだった、といいたいのではないかと、私は理解したいです。

いろいろな作品が出てきますが、私が一番観たいと思ったのは、狩野山雪の『老梅図襖』(メトロポリタン美術館所蔵)。
襖いっぱいに蛇行する梅の木のグロテスクさがたまりません。
本作は、株式会社キヤノンによる綴プロジェクトのお陰で精巧な複製が京都天祥院に寄贈されているそう。同社には、私も一眼レフでお世話になっておりますが、改めて素晴らしい会社だと認識しました。今後も積極的に同社の製品を使いたいと思います。GRDⅣとともに)

その他、岩佐又兵衛作の「官女観菊図」(山種美術館)と「山中常盤物語絵巻」の比較や、蘆雪の「薔薇に鶏図襖絵」と応挙の「双鶏図」の比較はぜひ今度やってみたいと思いました。

それから、若冲の作品に登場する「眼」や「のぞき穴」についての指摘も、言われればなるほと確かになぁと思わされます。

本作に書ききれなかったことを、『奇想の図譜』という本に書いているようなので、続いて『奇想の図譜』も読む予定です。


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【鑑賞】奇想の系譜展@東京都美術館

東京都美術館で開催されている『奇想の系譜展』に行ってきました。
これは大変おすすめな美術展です。

奇想の系譜』とは、美術史家・辻惟雄氏(1932〜)が、書いた著作で、これまであまりスポットライトのあたらなかった、自由な発想で筆を扱う画家たちを紹介したもの。
この「奇想の系譜展」では、著書『奇想の系譜』で取り上げられた6人の画家、岩佐又兵衛、狩野山雪、伊藤若冲、曽我蕭白、長沢芦雪、歌川国芳の他に白隠慧鶴、鈴木其一の作品を展示しています。

かなりビビッドな配色の作品もおおく、見ごたえがあります。
作品のサイズも大きいので、混み方は先日の北斎展の鑑賞に比べれば、かなり鑑賞しやすい。
また、今回は『奇想の系譜』を少し読みながら行ったため、結構面白がりながら観ることができました。
(『美の巨人たち』で伊藤若冲の回を見ておいたのも良かったです)

興味深い展示は多々あったのですが、最も印象に残った作品はといえば、岩佐又兵衛作の『浄瑠璃物語絵巻』でした。
色の鮮やかさはもちろんですが、線の細かさ、ディテールの緻密さ、金銀の量、全てが尋常じゃありません。
しかもこれらは、多分展示物を見ないと、なかなかわからないもののように思います。
特に金銀の装飾については、度肝を抜かれました。
(え、こんな装飾がされてるの?てか金銀つかいすぎじゃね?)と思うこと必定です。
(牛若の口説き方がキュートなところも必見です)
また、その隣にある同氏作の「山中常盤物語絵巻」も相当なもんです。ただ、こっちはどちらかと言うと、ショッキングな意味で度肝を抜かれました。
常盤御前の死にゆくところをアニメーション動画のように何枚も描いており、正直しつこいくらいです。グロいし。

あとは、先日びじゅチューン!で出てきた『竜虎旅館』の団体客である猿達の元ネタであろう作品『群猿図襖』も見れたのがありがたかったです。
やっぱり元ネタがあったんですね、と一人で納得してます。
(そうえいば、武蔵の遅刻理由の元ネタも見れました。『宮本武蔵の鯨退治』。想像していたよりサイズが小さかった。)


今回、初めて東京都美術館にお邪魔しましたが、施設としての広さに驚きました。作品も多い。
ちなみに、一人で全部見るのに2時間かかりました。
当初は1時間位と思っていたのですが、馬鹿言っちゃいけませんね。

同館では、今後クリムト展なども開かれるようなので、ぜひまたお邪魔したいと思います。

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【鑑賞】北斎展@森アーツセンターギャラリー

六本木ヒルズの森アーツセンターギャラリーで開催されている『新北斎展』に行ってきました。

六本木ヒルズには、過去に『会田誠展:天才でごめんなさい』を見に行ったことがあるくらいなので、今回が2回め。
花の金曜日、夜18時半の六本木は多くのオフィスワーカーで溢れていました。
そして、この新北斎展はその中でも一際人の多く集まる場所だったに違いありません。
チケット買うのに30分、買って52階へ向かい、企画展を見るのにさらに20分も待つ必要がありました。
『フェルメール展』もびっくりです。
まぁ、北斎は有名な方ですし、それに東京でこのような展示が見られるのは、これが最後のようです。(詳細はこちらの下の方
今後は島根でのみの公開になるとのこと。
地方創生的には大変よろしいことと存じます。
(その分電子データに自由にアクセスさせてほしいところですが)

フェルメール展と比べて大きく違うのは、作品の数とサイズ。
この新北斎展では、約480点もの作品が展示されており、かつサイズが小さいものが多い。
したがって、近くで見るために、行列ができてしまうわけですね。
単眼鏡も、ゆっくり見る時間もなく、殆ど鑑賞ができませんでした。
まったく美術鑑賞というのは、あとに予定を入れてはなりません。
それから、ベースとなる知識もないので、北斎がどうすごいのか?ということがよくわからず、細かい線を書く人だったんだなー、とか、作風が結構変わってるんだねー、とか、そんな薄っぺらいことしか感じられませんでした。
(ただ、全体を通じて、結構書くことそれ自体が好きだったひとなんだろうな、と感じました。というのも、結構テーマが多岐に割っているし、日常的な題材も多かったので、普段から気になるものを書いていたのだろうなぁと思いました)

自分が今回の展示で気になったのは、『しん板くミあけとう ろふゆやしんミセのづ』。
この作品の面白いのは、もうこのときには混浴ではなかったのかな?というところでもあるのですが、一番は中の女性の一人がかの有名なボッティチェリの『ヴィーナスの誕生」のような格好をしていることです。
ヴィーナスの誕生は1483年頃の作品(wikipediaより)のようなので、当該作品を知っていたのかな?という疑問もありますが、女性が胸と局部を隠しているというのが、斬新でした。
まだ江戸時代でしょう?そんな貞操の感覚あったのかな?
北斎が生きていたのは、宝暦10年9月23日〈1760年10月31日〉? - 嘉永2年4月18日〈1849年5月10日〉)(wikipediaより)のようなので、ちょうど混浴が取り締まられ始めた時期なのでしょうか?
この辺は、先日読んだ『性のタブーのない日本』をもう一度当たりたいところです。

それとも、隠しているような意図などはなかったのでしょうか…気になるところです。
あと、2階の男たちが下を見ているのは、多分覗き穴を覗いてるんじゃないかな?なんてアホなことを想像したりして、結構楽しく鑑賞できました。

全体として、展示は、本当に全然楽しめませんでしたが、wikipediaで北斎のことを読んでみると、めちゃくちゃ面白い人ですね。
ちょっと(いやかなり)変人だったようです。
それがしれただけでも良かったとしましょう。
これも出会いです。

今回の鑑賞の反省点は、以下のとおりです。
次回は対処して、鑑賞を楽しみたいと思います。

1.事前学習の不足 
北斎ってどんなひと?何がすごいの?みどころは?
2.眼鏡、単眼鏡の不携帯
サイズに対する理解が乏しいが故に
3.音声ガイドを借りなかった
多分借りたほうがよかった。でも、時間もなかった。
4.時間に余裕を
落ち着いて見ないと、何も感じられない。
音声ガイドを使わないなら、集中するために耳栓をつけてもいいかもしれない。

こんなところでしょうか。
来週は上野の東京都美術館で開催されている『奇想の系譜展』に行く予定なので、ちょっと勉強をしておこうと思います。
混んでないといいけど…無理だろうなぁ。

単眼鏡は、Kenko 単眼鏡 ギャラリーEYEがほしいところです。

1万…このまえGRDⅣを買っちゃったからきついなぁ…
こちらのサイトで紹介しています。

【読了】宗教改革三大文書(ルター著、講談社学術文庫)


読みました。偉い疲れましたが、なかなか興味深く読めました。
こんなに痛烈に批判しててよくもまぁ殺されなかったなと感心してしまいます。

先にマルティン・ルター――ことばに生きた改革者 (岩波新書)を読んでいたため、なんとなくどんな人物かはわかっていましたが、それを知ってて良かったと思います。
これほどの批判を、なんの前提知識もなく読んでいたら、多分気分が悪くなることでしょうから。

さて、ルターの主張はシンプルです。
すべて聖書に従え、これに尽きます。
聖書に載っていないのに、教会が作った規則は横暴であり、サタンに騙された産物であることから、無視しても構わないということを徹底的に書き上げています。
キリスト教徒は洗礼を通じてあらゆるものから自由になるのだから、教皇、司祭にさえ従属することは、それこそ不信仰につながると提言します。
当時としては大胆であったであろうその理論は、わかりやすく噛み砕いて説明されていますます。
一方で、彼のいう、信仰こそが全てであり、業は信仰の前では取るに足らないことである、という理念は、確かにそのとおりなのですが、難しいなぁと思いました。
それは、完全に自分について、常に監視をしていなさいという理念なのです。
ここまでやったからいいでしょう?ではないのです。
死ぬまで自分の行い、信仰を監視し続け、常にキリストに立ち返ることこそがキリスト教徒のあるべき姿だと解くのです。

こう聞くと、なぜキリスト教が聖戦と称して多数の戦争を行ったのか、理解に苦しみますが、多分それは勉強不足のせいでしょう。

*

解説では、ルターの聖書に帰れという姿勢が、ローマ教皇に様々な辛酸を舐めさせられているドイツの諸侯の利害と合致して宗教改革の機運が広まっていったというから、あるいはルターは時代の(あるいは当時のドイツの)代表者として主張をしたのもしれません。
少なくともルターを生む土壌はあったように思えます。
それだけ教会も行くところまで行ってしまっていたのしょうかね。

この本を読めば、なんとなくキリスト教がどんなものかがわかることと、キリスト教会の既得権益の独占っぷりがみてとれます。
特に教皇の、胸中保留と、大権による随意決定はめちゃくちゃの極みです。
教皇はこの教会領地を自分と自分の大権に保留していたとして土地を巻き上げる権利を持っているのだそうですが、まさに外道ですね。
こういうところは民衆が盲目的にキリスト教に対して従属しているから、権力が拡大集中してしまったのかもしれません。
先日読んだ、『アメリカの公教育の崩壊』にでてくる新自由主義の社会への浸透に近いものを感じます。
あるいはナチス誕生の経緯とも似ていなくもない。

*

ルターは、聖書を基に、以下の点を主張します。

  • 信仰こそ第一
  • 金のために祈りを上げる司祭はありえない
さて、こんなルターさんが現代日本に来て結婚式を見たら何というのでしょうね?
卒倒するかもしれません。
あるいは文化の違いだと許容されるのでしょうか。
そんなくだらないことを考えてふふふとできるのも、本書の面白いところ…ではないかもしれませんね。

* 

ルターの主張を通して見えるローマのキリスト教会は、完全に権威を利用して富の集中を図っています。
権力は腐る、その様が見て取れたように思いました。
おそらく、キリスト教だけでなく、人間としての普遍的な性質なのではないかとさえ、思えてしまうのでした。

【読了】春画入門(車浮代著、文春新書)


春画を鑑賞するための基本の「き」を解説する入門書。
本当に、入門!という感じで、すぐに鑑賞に役立つ基礎知識がまとめられていました。
特に面白いのは、技術について詳細に説明をされていることです。
前提として、すでに江戸時代には、現在もある出版のシステムのようなものが確立されていて、版本(企画、立案)したものを絵師、彫師、摺師の三者が共同で作る形になっていたようです。
そして、大体、私たちはいつも絵師のことばかり話題にしますが、実は浮世絵の作成について一番重要なのは彫師なのだそう。
そして、次が摺師で、絵師は実は割りとかんたんになれる仕事だったようなのです。

絵師が優秀な彫師に下絵を渡す際には、下絵の髪の部分などにどう描くか文字で指示書きしておけば、後は彫師が掘ったというのだから驚きです(例えば、頭に髪型(丸髷など)の指示書きをしたりした)。
そして、彫師の技術は、1ミリの中に3本の髪の毛を彫ると言われているくらい、精巧なものであったということが紹介されていました。

また、摺師についても、彫師同様職人適な技術が求められますが、彼らの技術があったからこそ、版画にグラデーションを凝らしたり、エンボス加工をしたりということができたのだそうです。
ちなみに、摺師によって、最終的な作品の出来は大きく変わるらしく、だいたい最初の摺りを熟練者がやるため、次第次第に絵の色合いや重ね方が雑になるということが説明されていました。
面白いですね。

本書の良い点は、西洋に与えた影響にも言及をしているところだと感じます。
1800年台後半のパリ画壇が重視する写実主義に対して登場した、後に印象派と呼ばれる画家(例:モネ、ドガ、ルノワールなど)も浮世絵(春画も含むかもしれない)に影響を受けているとのこと。
そういうことを知ると、また美術展に行きたくなってきますね。

先日読んだ『春画の見かた』(早川聞多著)のときにも思いましたが、やはりくずし字を読めるようになりたいという思いが溢れ出ています。
すごいモチベーションに包まれて、まるで超サイヤ人になったような気分です。
実はもう、くずし字の練習に関する本を図書館に予約をしているので、借りたら勉強を始めたいと思います。


【鑑賞】起点としての80年代@静岡市美術館




(静岡市美術館HPから引用http://shizubi.jp/index.php)

https://bijutsutecho.com/magazine/news/exhibition/15497

ただ今静岡へ出張に来ておりますので、アフター5にお邪魔してきました。
静岡駅の傍にあり、とてもきれいな内装の美術館です。
働いているスタッフさんの感じもすこぶる良い。
また、ありがたいことに、80年台生まれの人は300円引きの800円で入れたことも、大変ラッキーでした。(年がバレそうですね)

さて、展示はと言えば、なかなかユニークというか、理解しがたいと言うか、「これにはどういう意図や目的があるのだろう?」という作品が多くありました。
説明では戦後の現代美術の研究に立脚する70年代までとサブカルチャーん影響を受けた90年代以降の表現の間にある80年代の美術を見つめ直す、ということが書かれておりましたが、難しい。
抽象画などについては、多分意図も目的もなく、そこには表現があるだけ、ということもあるでしょうから、上のような「?」は野暮なのかもしれません。

とはいえ、すべての作品について意味不明で何も感じなかったというわけではなく、中には「ふふふ」と思ってしまう作品がいくつもありました。

例えば、中村一美さんの『湿潤気候の樹林』は、なんとなく女性が泣いているような姿が見て取れて面白かったです。

また、杉山知子さんの『the midnight oasis』なんかは、まどか☆マギカの世界を感じさせる作品でした。

吉澤美香さんの『RO-9』という作品は、強烈な赤色と平面上に書かれた円・丸みが、とてつもない勢いを持って迫ってきます。激しさと、少しの怖さと、不安さが湧き上がってくるのを感じました。

その他、日比野克彦さんの紙で作られたジャケット『SWEAYT JACKET』は精巧に作られているのに、紙の質感が残っている感じがとても新鮮でいた。
サイズや見た目が、本当に着れそうなリアリティを持って作成されているのが面白かったです。

中でも最もオモシロイと思ったのが、森村泰昌さんと藤本由紀夫さんの作品。

森村さんはゴッホになりきる写真を取っていたり、胸像になりきる写真を取っていたりと、写真なのに、絵画風で、しかもパロディーで、そこになんとも言えないおかしみが含まれていて、画集をほしいなと思うほどでした。
(この方は大変おもしろみに富んでおられます。
 森村ミュージックって本当にあるのかしら?
 今度大阪に行く機会があれば、行ってみたいけど…)

また、藤本さんの作品では、特に『HERMETIC SCALE (DIAMETERE)』という、サイズの違う五枚のお皿の上に、それぞれ音をだす針金を歪ませたオルゴールユニットが置かれているという作品で、全部いっぺんに鳴らしてみると、それぞれのオルゴールの音も違うし、ゼンマイが動く影響で時々鳴る皿の音も違う。
それらがアンサンブルして起こすなんともとらえどころがない旋律がおかしかったです。

これまであまり地方の美術館なんて興味なかった(と言うか美術時代に興味がなかった)ですが、行ってみると、なかなかおもしろいですね。
ひょっとしたら、面白そうだな、と興味を持っていくからいいのかもしれませんね。

そう言えば、昨日夜食を買いに行ったセブンイレブンで『大人が行きたい美術展2019』なる雑誌が売られておりました。
1000円近くするため、少し考えてしまいます。

【読了】崩壊するアメリカの公教育-日本への警句(鈴木大裕著、岩波書店)


アメリカが、とんでもないことになってる…絶句です。
そしてその流れが、日本にも到来しつつあることに警鐘を鳴らす本でした。
新自由主義という、「金」にフォーカスした価値観の下、社会全体が効率化と規格化を進め、その顕在化としてアメリカでは公教育の崩壊が起こっているようです。
難しい問題だと感じるのは、新自由主義は「それ、どうなの?意味あるの?」という質問を投げかけるのです。
教育や、抽象的な研究は、それについてわかりやすく表現することが困難であり、説明をしても素人には理解しきれない部分があったとしても、新自由主義は更に質問をします。「よくわかんないな。結局役に立つの?」
もちろん役に立つ、しかし教育がどう役に立つかなど、誰にわかろうか?そんな回答には目もくれず、矢継ぎに投げかけてくる質問はこうだろう。「それにお金回す意味あるの?」
そして最後にはこうなる。「こうした方がもっと役に立つし、稼げるよ」

新自由主義の怖いところは、生活の根本を形成するのに必要不可欠な「金」をベースに話をすすめるため、大変理詰めで議論を進めやすいところだと思います。
しかし、市場に任せては行けない領域というのがかならずあるものです。
というか市場は、市場価値だけでは測れないものがあることを無視するため、市場に任せると、市場の価値以上の価値には到達できないことになるのです。
だから先人はそれは公的な事業であるべきだとしてきた経緯が、新自由主義の流れの中で、どんどん効率化の錦旗の下で民営化されていく。
もちろんいい民営化もあるだろうけど、悪い民営化だってあるでしょう。
果たしてそれらを検証し、改善できているだろうか。
行政としてかける予算が減ったから成功、という判断になっていないだろうか。
そして、私達市民も、杯金至上主義に陥っていないだろうか。
教育の崩壊とそれに対して戦う人々の活動という現象から、社会に暮らす私達の、市民としての自覚が問われる一冊でした。
それはあたかも「みんなさ、民主主義って言葉、知ってる?」と投げかけているような心地がしました。

本書でも盛んに出てくる、「何を持って学力とするのか?」という問いは、子供を持つ私も当然考えなくてはならないだろうと思いました。
そして、公教育に何を求めるのか、素人なりに考え、プロの意見を尊重しながら、その上で親として何ができるのかを考え、行動しなくてはならないとも思います。
それが、ハンナ・アーレントの言うところの「大人の責任」を果たすことにつながるかもしれないですね。

それにしても、新自由主義ってそんなに影響力のあるものなんだなぁと関心しました。
別の本も読んでみたいと思います。


辞令交付式への違和感(みんなよく参加するなぁ)

 今日は4月1日。  我社では辞令交付式が行われました。  そのため、土曜日ですが、人事課員として出勤しました。  明日も仕事なので、12連勤となります。   人事課の闇ですね。  それはさておき、辞令交付式に関して、毎年違和感を持ちます。  それは、お礼を言われる側が、何故かホ...