ラベル 日本 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 日本 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

やっぱり導入しようよベーシックインカム

【読了】妻たちの思秋期(斎藤茂男著、講談社+α文庫)
の続きです。

『妻たちの思秋期』を読むと、男女の平等はどこに置くべきなのか?ということを考えてしまいます。
男と女は生物学的に見てもかなりその生態に違いがあります。
(例えば月経や妊娠・出産など)
あくまで肉体的に、という意味のおいては、男のほうがあまり変化がなく、安定していると言えるでしょう。
だからこそ、会社という組織に属する歯車としては、男のほうが都合がいいのです。

しかし、この前提で物事を話していくと、どうしたって女性は勝ち目がありません。
だってそれは生理的なことだから。
それは背が高い人のほうが出世に有利(そんな会社があればの話ですが)というくらい理不尽なことに思われます。
とはいえ、こうした流れは急には変わらないでしょう。
ましてや日本の場合には解雇ができませんから、ことを慎重に進めるだろうと思われます。

じゃぁどうすればいいか。
とりあえずベーシックインカムを始めましょう。

夫婦のトラブルでも、一番の問題は「お金」のことだと思います。
お金のことさえ解決できれば逃げられる女性が多いというのが現実ではないでしょうか。
また、離婚による貧困で困るのも、ほぼ女性でしょう。
子の面倒を見るのも多くは女性でしょうし、育児や主婦でブランクのある女性が正社員で就職できてかつ子を育てられる収入が得られるかといえば、かなり厳しいはずです。

だから、女性限定でもいいのかな?とも思いましたが、そうすると、多分女性は肩身がせまくなることでしょう。
「男に食わせてもらえていいな」的な嫌味を言うやつが出てくるでしょう。
そんな社会で果たして自己実現ができるかといえば、厳しいように思います。
だから、さっさと全員への支給を始めましょうよ。
始めてしまえば、世の中の流れを変えるきっかけになると思うのです。

  

【読了】妻たちの思秋期(斎藤茂男著、講談社+α文庫)

先日読んだ『酒飲みの社会学』(清水新二著、素朴社)で紹介されていた『妻たちの思秋期』を読みました。


【読了】酒飲みの社会学(清水新二著、素朴社)

専業主婦が主人公の短編小説だと思って読み始めたのですが、大いなる勘違いでした。
前半では専業主婦としての悲しみや虚しさを酒で埋めることからアルコール依存症に陥った主婦たちが描かれており、後半では酒で埋めることなく離婚というアクションを取った主婦たちにスポットライトを当てた、れっきとしたルポルタージュです。
重い。

妻たちの言葉だけでなく、様々な取材を通して、いろんな視点から問題を切り取っており、非常に踏み込んだところまで書かれています。
私は記者という仕事を少々軽く見ておりました。
当たり前に存在している常識に対して、取材と文で世の中に疑問を投げかける素晴らしい作品だと思います。
本作で問われていることは「男と女、これでいいのか?」ということになると思います。

本書に出てくる女性たちは、「まーなんでこんな夫をもらっちゃったのご愁傷様」というくらいひどい男たちを夫にしています。
いずれのカップルも知り合ってから結婚までが短く、何かから逃げるようにして結婚をしているケースが多いのですが、それにしたって、ねぇ? という感じです。
しかし、こういう感想は、「自分は大丈夫」という前提から見ているわけであって、「果たして私は大丈夫なのか?」と考えない訳にはいかない。
少し家の中での身の振り方を省みるべきなのでしょう。

精神科の話(実際あっていない男を分析するのはいかがかと思いましたが)の中で、「結婚は自立した大人同士がしないと、ベッタリと寄りかかった関係になり、不幸なものになりかねない」と指摘しており、本当にそのとおりだなぁと思わされます。
しかし、一方でそうした認識が浸透したら、結婚する人は多分減るだろうし、少子化はどんどん進むに違いないと思います。
ここをどう考えるかが女性の権利拡大派になれるかどうかだと思います。
私は、たとえ少子化が進んだとしても、権利拡大路線に切り替えたいと思いました。

ある女性から、下のような投稿が届いたと紹介されます。

<夫との距離に心傷つき、アルコールで全てを麻痺させようとする妻の姿は痛ましい。だが、今の日本の妻たちにとって、教育ママになることも、亭主のおしりを叩くことさえも、かたちを変えたアルコールではなかろうか。夫たちにしても、身も心も捧げ尽くしている"仕事"というものが、その実、形を変えたアルコールではないか>(『妻たちの思秋期』P151)
この言葉を読んだときに、『マインド・コントロール』(岡田尊司、文春新書)に出てきた以下の言葉を思い出しました。
デビーはこう語っている。「貧者の面倒を見ることも、株式を公開して100万ドルを手に入れることも、最終的な目的は同じなのです。自分の苦しみは何らかの形で報われるはずだと思う。そうして人は広い視野を失ってしまうのです」と。(渡会圭子訳『隠れた脳』より)(『マインド・コントロール』P35)
これらの言葉の底流には「脳にとって耐え難い状況」があることが考えられます。
だからこそ、思考を止めて「あるべきとされてきた役割」を演じようとするのでしょう。
妻たちは、自分の視野を極端に狭くして、自らトンネルに入り込もうとしているのかも知れません。
そして、そうせざるを得ない状況が、そこにはあったということでしょう。
【読了】マインド・コントロール

X先生は、統計やアンケートでは上がってこないであろう事例の回収に本書が成功していると評します。
結局、統計やアンケートは個々人を一つのサンプルに押し込んで全体の傾向を見るものですから、一つ一つの家庭にある小説よりも奇なる夫婦関係というものは、出てこない、というか出さないようにするのが統計・アンケートなのでしょう。
したがって、こうしたルポによって切り出すのは、非常に意義があるということですね。
しかし、ルボだけに頼れば、恣意的な、偏った記事になることも懸念されます。
ということで、やはりミクロとマクロの両方で物事を見ることが必要なのだということでしょう。
分析だけでは足りないし、特定の事例だけでは間違った方向に舵取りしてしまう。
冷静に、いろんな視野を持って、どうしていくべきなのかを考えることが必要ですし、まずはそれを「個人のレベル」で考え、実践していくことが重要なのだろうなと思わされました。

そのためにも、まずは「労働至上主義」を廃したいと思います。

【鑑賞】尾形光琳と燕子花図@根津美術館

【聴講】燕子花図と洛中洛外図(奥平俊六さん)@根津美術館
の続きです。


さて、講演後には、改めて展示を拝見いたします。
お目当ての『燕子花図屏風(かきつばたずびょうぶ)』(国宝、根津美術館蔵)ですが、六曲一双の屏風を生で見ると、やはり違います。

金のグラデーションにのっぺりとした質感の燕子花が並んでいるだけなのですが、よく見ると青の色も花弁ごとに違うんですね。
(帰って本で確認すると、たしかに違ってましたが、気づきませんでした)
また、他の作者の燕子花を題材にした作品と比べると、燕子花の花弁が随分ぽっちゃりと強調されていることもわかりました。
とてもアンバランスな感じなのに、調和が取れているようにも見えるのが不思議な感じ。

こういう地が金の作品は、印刷や画像と現物では受ける印象がだいぶ違いますが、本作も同じ印象でした。
また、サイズが思っていたよりも大きく、現物を見ていると屏風の中に没入している感じがしてきます。
(奥平先生いわく、本作は伊勢物語の在原業平が「かきつばた」の歌を読んだ時に見ている燕子花をイメージしているとのこと。見る人を、在原業平にさせようとしているのではないか、というような話をされていました)

本展示の、もう一つの目玉である『洛中洛外図(根津本)』も見てきましたが、これは大変おもしろいですね。
前の記事でも書きましたが、これを見ながら京都巡りを是非したいと思いました。
なぜデジタルデータを公開してくれないのでしょうか。
デフォルメしたものをショップで販売してほしい!
他にもお伊勢めぐりの絵もありましたが、こちらも販売してくれ!

他の作品としては、光琳のお父さんの作品なんかもあります。
光琳はお父さんも芸に通じていたのですね。
弟も焼き物をやっているし、芸術一家だったようです。
また、光琳の周辺の人の作品も多く展示されていました。
全体としての展示は多くないことから、光琳自体の作品は割合としては少なめな印象です。

常設展では、茶器や箱も展示されており、日本人の生活品への芸術意識がどんなものであったか垣間見ることができます。
よく日本人が独創性のないコピー民族だという考えは、多分戦後の高度成長期以降のことなのではないでしょうか。
こんなに芸術が庶民にまで広まっている国はないのではないでしょうか、と思えてしまいます。
(浮世絵なんかがいい例ですよね)

根津美術館は、建築物としても、非常に洗練されていました。
根津美術館は、閉館が17:00のため、講演を聞いたあとではあまり鑑賞する時間が長くありません。
従いまして、できれば午前中に展示を鑑賞し、カフェで昼を食べ、庭を散策した後に講演を聞くという流れが良さそうです。
次はそのようなスケジュールでお邪魔したいと思います。
(家で相談したら連れに怒られそうですが…)

【聴講】燕子花図と洛中洛外図(奥平俊六さん)@根津美術館

東京の南青山にある「根津美術館」で開催されている「尾形光琳の燕子花図」に行きました。
根津美術館
初めて根津美術館にお邪魔しましたが、庭が広いんですね。
庭の池にはたくさんの燕子花が育っており、4月下旬から5月上旬にかけて見頃になるのだとか。
そのタイミングで来ればよかった。
場所柄か、外国人の観光客も多かったです。
おいでになる方は、庭の散策も含めて、時間に余裕を持っていかれることをおすすめします。

一面の燕子花。咲いてるときに来たかった…。
さて、お目当ては『燕子花図屏風(かきつばたずびょうぶ)』(国宝、根津美術館蔵)ですが、その前に、イベントに参加しました。
イベントとは、大阪大学名誉教授の奥平俊六先生による「燕子花図と洛中洛外図」という講演のことです。
無料ということもあって、初めてこうした美術関連の講演会に参加しましたが、定員130名の会場は満席で、大変な賑わいでした。
皆さんメモを取りながら熱心にメモを取られています。
奥平先生が燕子花図のモチーフのところで、「から衣 きつつ慣れにし つましあれば はるばる来ぬる たびをしぞ思う」をうっかり失念してしまったときなど、聴衆から返答があって驚きました。
皆さん大変造詣が深いようでいらっしゃいます。

奥平先生の話は、大きく(1)「燕子花図」、(2)「洛中洛外図」についての講演とレジュメにはありましたが、ほとんど燕子花図パートについての話で、しかも燕子花図はあくまでも導入で、「藤袴図屏風」についての話に多くの時間が割かれていました。
そもそも、この時代の美術作品においては、能=謡曲の概念が非常に重要で、様々なモチーフが謡曲に存在し、そこから絵画に表現されたと言うことを伺いました。
藤袴図屏風についても、モチーフは謡曲にあり、かつ当時起きた紫衣事件を通じて表現したかったのではないか、というような話をされていました。

この話のポイントとしては、画家にこうした謡曲の知識やそのモチーフを風刺だったり、時代のイベントにつなげるということを、画家が単独でやったわけではないということ。
例えば、上の藤袴図屏風で言えば、宗達に書かせたのは誰か?ということです。
紫衣事件に近しく、かつ、叢蘭秋風という言葉をよく理解する者だということではないか、つまり、非常に尊い人なのではないか、と奥平先生は推測します。
(ちなみに、実は叢蘭が藤袴を指すというのがポイントです)
こういう話を聞くと、今後「誰が発注したのか?」ということも気にかけることができるようになりますね。

と、こんな話が90分も続きます。
へぇ、なるほどなぁ〜という感じ。
こんな風に90分もまるまる楽しそうに美術の話ができるってのは、すごいことだなぁと思いますし、そのベースには何十年とかけて作品と歴史と文献をつなげていく仕事があるのでしょう。
素晴らしいことだと思います。
ところどころ笑いどころもあり、あっという間の90分でした。

短かった「洛中洛外図」においては、「景観指標」というものも知ることができました。
景観指標とは、それがあることで、いつごろのことを描いたのかわかるという目印のことで、例えば京都で言えば二条城の天守が移動しているかどうかで寛永3年の前後どちらなのかがわかるそうです。
そういう豆知識を聞くと、ちょっとおもしろいですよね。
ぜひとも、洛中洛外図を片手に京都中を歩き回りたいと思いました。


本と違って、人の話を聞くと、「余談」があるのが大変おもしろいですね。
一見つながらない話の展開が、新しい発想や発見を生むように感じます。
本だけでは行き詰まることが、講義によって新しい理解をつかむことに繋がることがありそうです。
大学の講義はつまらない、という話しを聞きますが、ひょっとしたら、聞く側にも多少問題があるのかもしれませんね。
実際、大学の先生の話は、私にはとても興味深い話ばかりです。
あるいは、たまたま私の運がいいのかもしれませんが。

【読了】もっと知りたい尾形光琳(中野啓子著、東京美術)

東京の南青山にある「根津美術館」で開催されている「尾形光琳の燕子花図」を見に行くため、予習として『もっと知りたい尾形光琳』(中野啓子著、東京美術)を読んでみました。

本書は、大変スッキリした内容で光琳の生涯と代表的な作品を紹介していました。
光琳が生まれるところから始まり、画家となり、江戸に行き、また京都に戻ってくる…それぞれに段階に光琳の芸術家としての影響があり、それらを代表作を通して観ていきましょうという趣向です。
最後には光琳の後の世代についても触れられています。

今回私が一番観ておきたかったのは、もちろん『燕子花図屏風(かきつばたずびょうぶ)』(国宝、根津美術館蔵)。
この絵のモチーフとなったのは、『伊勢物語』の第九章に出てくる「から衣 きつつ慣れにし つましあれば はるばる来ぬる たびをしぞ思う」という有名な歌の頭文字を取った「かきつばた」だと言われているようです。
(東国に向かう旅の途中で、妻を置いて来て、ここまで来たことを振り返る悲しい歌のようです。みんなこのあと泣きながらご飯を食べて、ご飯がふやけちゃったそう)

本書の言葉を借りるならば、この絵と向き合う時の知識として、
「かきつばた」から『伊勢物語』そして住み慣れた都を離れ東国に向かう在原業平の望郷の思い。一つのモチーフから生み出される様々なイメージ、そこに美術作品鑑賞の面白さがある。
ということを心に留めておくのは有益かと存じます。

さて、『燕子花図屏風』は、見れば見るほど引き込まれる、不思議な屏風です。
単調なのにリズムがあり、平面的なのに奥行きを感じます。
どんどん視線が横に、奥に、あるいは上に下に引っ張られていくような感じがしてしまい、あたかも自分がこの絵の二次元の世界に入ってしまったかのような感覚に陥ってしまうのです。
金の地に、のっぺりとした緑と青を乗せた絵にしか見えないのに、どこかアンバランスで、違和感を覚えさせ、一体何を語りかけたいのか? と深読みしたくなってしまうものがあります。
根津美術館での現物鑑賞が楽しみです。

また、燕子花で言えば、「八橋蒔絵硯箱(やつはしまきえすずりばこ)」(国宝、東京都美術館蔵)という面白い作品もあります。
これは箱の五面渡って橋をかける、ユニークなデザインで装飾された箱で、燕子花は貝を使って光る趣向が施されています。
美しさがたまりません。
色がいいのでしょうか? 多分それだけではなく、質感や素材の味、丸み、シンメトリーなデザインが一度見ると目を離せなくさせるのでしょう。
ついつい橋を巡って行ったり来たりしながら燕子花を鑑賞せざるを得ません。
こんなんよく思いつきますね。光琳さん。
そして、こういうふうに箱や焼き物にもたくさんの作品を残したのが、尾形光琳なのです。
弟の尾形乾山(おがたけんざん)は焼き物で有名ですが、合作も結構多いようです。

また、光琳は、もともと能が好きだったようです。
でも、遊び人だったようで、お金をバンバン使っちゃって、お金を稼ぐ必要があったことから絵描きになったとか。
本格的に絵描きになったのは、30歳の後半とのこと。
そんなんでこんな作品たちを残せるのだから、すごいことだなと思います。

その他にも、素敵な作品がいくつもありました。
メモとして残しておきたいと思います。
・仙翁図香包
・千羽鶴図香包
・金鶏雌図画稿
・竹梅図屏風
・松島図屏風
・風神雷神図屏風
・槇楓図屏風
・八橋図屏風
・孔雀立葵図屏風
・四季草花図屏風
・紅白梅図屏風
・(おまけ)百合図(乾山作)


【読了】酒飲みの社会学(清水新二著、素朴社)

酒飲みの社会学』(清水新二著、素朴社)を読み終えました。
酒飲みの社会学―アルコール・ハラスメントを生む構造酒飲みの社会学―アルコール・ハラスメントを生む構造素朴社
面白かったです。
参考文献の紹介が少なめなため、より深く知りたいなと思う点などはちょっと残念でした。
また、それ故に、「これって憶測なのでは?」という箇所がちらほらあるのも少し気になりました。
しかし、ストーリーは流れるようで、講義を受けているように感じました。
また、憶測ではないかとの箇所についても、その意見に共感できるという箇所が多く、親しみを持って読み進めることができたのが印象的です。
「研究者たちはこう言ってるけど、私はもっとこうだと思うんだよね」という感じが、とても中立的というか、人間味があるというか、あまり抵抗なく「そうですよねー」と納得できてしまう魅力があります。

著者は、日本における酒があることを前提にしている社会システムを「アルコホリック・ソーシャル・システム(ASS)」と名付けていました。
ASSとは、次のような事を言います。
①飲酒と集団的に共有された酔いのどちらに対しても寛容な飲酒文化
②アルコールが社会の組織化に決定的な役割を果たしている
③アルコールに対する構造的脆弱性
④許容と統制が同時存在する統合メカニズム
⑤以上の四点は、女性には必ずしも当てはまらない。
(『酒飲みの社会学』P67)
日本では共に飲むこと以外に、共に酔うことが求められているといいます。
共に酔うことで、ソトの人間をミウチ化してしまおうという思いがあるようです。
そうしたミウチ化が組織形成や社会形成に必要だという認識が共有されているがゆえに、 飲むことで組織感の意思疎通も図りやすく、それがまた個々の関係形成に酒を必要とする状況に還元されているということですね。
また、日本のアルコール依存症の患者は5万人だが、予備軍としては240万人いると書かれていました。
その背景には「アルコール依存症=逸脱した人」という認識が未だに根強く残っていることがあります。
こうしたレッテル貼りは、かなり強い抑止力として、酒以外にもあらゆる反社会的な行動を抑える力を持っているとのこと。
日本は、こうした他者の目で社会をコントロールする社会なのですね。
それは、一方では犯罪率の低さなどにつながっているわけですが、一方では生きる選択の幅が少ない社会を作っているという側面もあるようです。

日本の酒文化の特徴としては、①共に飲むこと、共に酔うことが求められている②しかし飲んで失敗することは破滅を意味する③そうして逸脱した人はなかなかそこから回復できない④みんなにそういう理解があるから、酒害にあっている人が酒害を認めず、結局医療につながらず、症状がどんどん進行してしまう、ということが挙げられそうです。

また、女性の飲酒にも触れられており、興味深かったのは、キッチンドリンカーについての紹介です。
ことお酒に関しては、非常に女性というのは不利な立場というか、かわいそうな立場にあるということが強調されていました。
理由としては、
・まず肉体的に、男性よりもアルコール依存症になりやすい。
・夫が依存症の場合、離婚しても自活が難しい。
・自分が依存症になった場合には、離婚を言い渡される(かつ、自活が難しい)
という点が挙げられます。
このことは、要するに女性の社会的な立場がまだまだ弱いことを表しているとしか思えません。
女性が経済的な理由からまだまだ弱い立場であるということを痛感します。
この辺の解決には、おそらくベーシックインカム的なものが役に立つでしょう。

また、キッチンドリンカーは高度経済成長を超えて経済的に豊かになった家庭が増えるのとともに、専業主婦が現れたことによって、出現し始めたようです。
面白いのは、それまで女性もちゃんと働いていたということが書かれていて、目からウロコでした。
以前は女性が働きながら子育てをしていたということを知ると、今の社会の余裕の無さがより強調されるように感じます。

だから昔はよかったのだなぁというのは、その昔の一面しか見ていないという情報不足による帰結だと思いますが、今と昔でどう違ったのか、なぜ昔は働きながら子育てができたのか、を調べることは無意味ではなさそうです。

また、そもそも昔は酒造りも女性の仕事だったのだとか。
日本人は、「ハレの日」に酒を飲むという文化なのだそうですが、そうしたハレの時には、女性も結構飲んでいたそうです。

【読了】奇想の図譜(辻惟雄著、ちくま学芸文庫)

『奇想の図譜』(辻惟雄著、ちくま文庫)を読みました。


先日記事にも書いた、『奇想の系譜』 (ちくま学芸文庫)の続きですが、内容は北斎、若冲、洒落、白隠を取り上げつつ、『奇想の系譜』の根源がどこにあるのか、縄文土器以来の作品を取り上げながら辿っていく本でした。
最終的には、「見立て」を用いた「かざり」に行き着きます。
前回の記事【読了】奇想の系譜にも

しかし、著者のあとがきにおいて、結局のところ取り上げた奇想の画家6名も単独で存在し得たわけではなく、それまでの主流の流れを汲む中でも前衛的であっただけだ、というように書かれています。
ということは、多分生まれるべくして生まれた作品(あるいは画家)たちだった、といいたいのではないかと、私は理解したいです。
と記載をいたしましたが、結局この系譜は日本人の「かざる」という根源的な性質から起きたものであるということをこの本は証明するべく書かれたものだと思われました。

もともと「かざる」心があり、そこには2種類、すなわち陰と陽の側面があり、陽のほうが奇想=奇をてらう大胆な色彩や構図の絵を産んだというのがこの本の論です。(ちなみに、陰とは詫び・寂びの方向のようです)
ホイジンガの言葉をもじった「文化は<かざり>の形をとって生まれた。文化はその初めから飾られた」が著者の本当に言いたいことだったのではないかと思います。(元ネタ:ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』「文化は遊びの形をとって生まれた、つまり、文化はその初めから遊ばれた」)

東京都美術館で開催されている『奇想の系譜展』にも行きましたが、この本も読んでいればよかったなと少し残念です。
(奇想の系譜展は4月7日(日)まで。まだ行っていない方は、ぜひ本書と『奇想の系譜』を読んでから足をお運びください)

余談ですが、洛中洛外図屏風は当初岩佐又兵衛作説を否定していた著者が、後にその考えを改めることになったのだということなので、ぜひその書(浮世絵をつくった男の謎 岩佐又兵衛 (文春新書))も読んでみたいと思いました。
また、『ホモ・ルーデンス』も読みたいですね。



にほんブログ村 本ブログへ
にほんブログ村 本ブログ 読書備忘録へ
にほんブログ村 教育ブログへ
にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ
にほんブログ村 美術ブログへ
にほんブログ村 美術ブログ 美術鑑賞・評論へ
ブログランキング・にほんブログ村へ

【読了】奇想の系譜

『奇想の系譜』(辻惟雄著、ちくま学芸文庫)を読み終えました。

これから東京都美術館の『奇想の系譜展』を見に行かれる方は、ぜひ一読されることをおすすめします。

残念ながら私はこれまで美術史に関する本を読んだことがないため、本書が当時の日本美術界にどのような意義を投じたかはいまいちピンときてません。
当時は流派こそが日本美術史だった?ようなので、そういう意味において<傍系>や<異端>を取り上げた書としてセンセーショナルであったようです。
しかし、著者のあとがきにおいて、結局のところ取り上げた奇想の画家6名も単独で存在し得たわけではなく、それまでの主流の流れを汲む中でも前衛的であっただけだ、というように書かれています。
ということは、多分生まれるべくして生まれた作品(あるいは画家)たちだった、といいたいのではないかと、私は理解したいです。

いろいろな作品が出てきますが、私が一番観たいと思ったのは、狩野山雪の『老梅図襖』(メトロポリタン美術館所蔵)。
襖いっぱいに蛇行する梅の木のグロテスクさがたまりません。
本作は、株式会社キヤノンによる綴プロジェクトのお陰で精巧な複製が京都天祥院に寄贈されているそう。同社には、私も一眼レフでお世話になっておりますが、改めて素晴らしい会社だと認識しました。今後も積極的に同社の製品を使いたいと思います。GRDⅣとともに)

その他、岩佐又兵衛作の「官女観菊図」(山種美術館)と「山中常盤物語絵巻」の比較や、蘆雪の「薔薇に鶏図襖絵」と応挙の「双鶏図」の比較はぜひ今度やってみたいと思いました。

それから、若冲の作品に登場する「眼」や「のぞき穴」についての指摘も、言われればなるほと確かになぁと思わされます。

本作に書ききれなかったことを、『奇想の図譜』という本に書いているようなので、続いて『奇想の図譜』も読む予定です。


にほんブログ村 本ブログへにほんブログ村 本ブログ 読書備忘録へ
にほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ
にほんブログ村 美術ブログへにほんブログ村 美術ブログ 美術鑑賞・評論へ
ブログランキング・にほんブログ村へ

【鑑賞】奇想の系譜展@東京都美術館

東京都美術館で開催されている『奇想の系譜展』に行ってきました。
これは大変おすすめな美術展です。

奇想の系譜』とは、美術史家・辻惟雄氏(1932〜)が、書いた著作で、これまであまりスポットライトのあたらなかった、自由な発想で筆を扱う画家たちを紹介したもの。
この「奇想の系譜展」では、著書『奇想の系譜』で取り上げられた6人の画家、岩佐又兵衛、狩野山雪、伊藤若冲、曽我蕭白、長沢芦雪、歌川国芳の他に白隠慧鶴、鈴木其一の作品を展示しています。

かなりビビッドな配色の作品もおおく、見ごたえがあります。
作品のサイズも大きいので、混み方は先日の北斎展の鑑賞に比べれば、かなり鑑賞しやすい。
また、今回は『奇想の系譜』を少し読みながら行ったため、結構面白がりながら観ることができました。
(『美の巨人たち』で伊藤若冲の回を見ておいたのも良かったです)

興味深い展示は多々あったのですが、最も印象に残った作品はといえば、岩佐又兵衛作の『浄瑠璃物語絵巻』でした。
色の鮮やかさはもちろんですが、線の細かさ、ディテールの緻密さ、金銀の量、全てが尋常じゃありません。
しかもこれらは、多分展示物を見ないと、なかなかわからないもののように思います。
特に金銀の装飾については、度肝を抜かれました。
(え、こんな装飾がされてるの?てか金銀つかいすぎじゃね?)と思うこと必定です。
(牛若の口説き方がキュートなところも必見です)
また、その隣にある同氏作の「山中常盤物語絵巻」も相当なもんです。ただ、こっちはどちらかと言うと、ショッキングな意味で度肝を抜かれました。
常盤御前の死にゆくところをアニメーション動画のように何枚も描いており、正直しつこいくらいです。グロいし。

あとは、先日びじゅチューン!で出てきた『竜虎旅館』の団体客である猿達の元ネタであろう作品『群猿図襖』も見れたのがありがたかったです。
やっぱり元ネタがあったんですね、と一人で納得してます。
(そうえいば、武蔵の遅刻理由の元ネタも見れました。『宮本武蔵の鯨退治』。想像していたよりサイズが小さかった。)


今回、初めて東京都美術館にお邪魔しましたが、施設としての広さに驚きました。作品も多い。
ちなみに、一人で全部見るのに2時間かかりました。
当初は1時間位と思っていたのですが、馬鹿言っちゃいけませんね。

同館では、今後クリムト展なども開かれるようなので、ぜひまたお邪魔したいと思います。

にほんブログ村 本ブログへにほんブログ村 本ブログ 読書備忘録へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 美術ブログへにほんブログ村 美術ブログ 美術鑑賞・評論へブログランキング・にほんブログ村へ

【鑑賞】北斎展@森アーツセンターギャラリー

六本木ヒルズの森アーツセンターギャラリーで開催されている『新北斎展』に行ってきました。

六本木ヒルズには、過去に『会田誠展:天才でごめんなさい』を見に行ったことがあるくらいなので、今回が2回め。
花の金曜日、夜18時半の六本木は多くのオフィスワーカーで溢れていました。
そして、この新北斎展はその中でも一際人の多く集まる場所だったに違いありません。
チケット買うのに30分、買って52階へ向かい、企画展を見るのにさらに20分も待つ必要がありました。
『フェルメール展』もびっくりです。
まぁ、北斎は有名な方ですし、それに東京でこのような展示が見られるのは、これが最後のようです。(詳細はこちらの下の方
今後は島根でのみの公開になるとのこと。
地方創生的には大変よろしいことと存じます。
(その分電子データに自由にアクセスさせてほしいところですが)

フェルメール展と比べて大きく違うのは、作品の数とサイズ。
この新北斎展では、約480点もの作品が展示されており、かつサイズが小さいものが多い。
したがって、近くで見るために、行列ができてしまうわけですね。
単眼鏡も、ゆっくり見る時間もなく、殆ど鑑賞ができませんでした。
まったく美術鑑賞というのは、あとに予定を入れてはなりません。
それから、ベースとなる知識もないので、北斎がどうすごいのか?ということがよくわからず、細かい線を書く人だったんだなー、とか、作風が結構変わってるんだねー、とか、そんな薄っぺらいことしか感じられませんでした。
(ただ、全体を通じて、結構書くことそれ自体が好きだったひとなんだろうな、と感じました。というのも、結構テーマが多岐に割っているし、日常的な題材も多かったので、普段から気になるものを書いていたのだろうなぁと思いました)

自分が今回の展示で気になったのは、『しん板くミあけとう ろふゆやしんミセのづ』。
この作品の面白いのは、もうこのときには混浴ではなかったのかな?というところでもあるのですが、一番は中の女性の一人がかの有名なボッティチェリの『ヴィーナスの誕生」のような格好をしていることです。
ヴィーナスの誕生は1483年頃の作品(wikipediaより)のようなので、当該作品を知っていたのかな?という疑問もありますが、女性が胸と局部を隠しているというのが、斬新でした。
まだ江戸時代でしょう?そんな貞操の感覚あったのかな?
北斎が生きていたのは、宝暦10年9月23日〈1760年10月31日〉? - 嘉永2年4月18日〈1849年5月10日〉)(wikipediaより)のようなので、ちょうど混浴が取り締まられ始めた時期なのでしょうか?
この辺は、先日読んだ『性のタブーのない日本』をもう一度当たりたいところです。

それとも、隠しているような意図などはなかったのでしょうか…気になるところです。
あと、2階の男たちが下を見ているのは、多分覗き穴を覗いてるんじゃないかな?なんてアホなことを想像したりして、結構楽しく鑑賞できました。

全体として、展示は、本当に全然楽しめませんでしたが、wikipediaで北斎のことを読んでみると、めちゃくちゃ面白い人ですね。
ちょっと(いやかなり)変人だったようです。
それがしれただけでも良かったとしましょう。
これも出会いです。

今回の鑑賞の反省点は、以下のとおりです。
次回は対処して、鑑賞を楽しみたいと思います。

1.事前学習の不足 
北斎ってどんなひと?何がすごいの?みどころは?
2.眼鏡、単眼鏡の不携帯
サイズに対する理解が乏しいが故に
3.音声ガイドを借りなかった
多分借りたほうがよかった。でも、時間もなかった。
4.時間に余裕を
落ち着いて見ないと、何も感じられない。
音声ガイドを使わないなら、集中するために耳栓をつけてもいいかもしれない。

こんなところでしょうか。
来週は上野の東京都美術館で開催されている『奇想の系譜展』に行く予定なので、ちょっと勉強をしておこうと思います。
混んでないといいけど…無理だろうなぁ。

単眼鏡は、Kenko 単眼鏡 ギャラリーEYEがほしいところです。

1万…このまえGRDⅣを買っちゃったからきついなぁ…
こちらのサイトで紹介しています。

【鑑賞】起点としての80年代@静岡市美術館




(静岡市美術館HPから引用http://shizubi.jp/index.php)

https://bijutsutecho.com/magazine/news/exhibition/15497

ただ今静岡へ出張に来ておりますので、アフター5にお邪魔してきました。
静岡駅の傍にあり、とてもきれいな内装の美術館です。
働いているスタッフさんの感じもすこぶる良い。
また、ありがたいことに、80年台生まれの人は300円引きの800円で入れたことも、大変ラッキーでした。(年がバレそうですね)

さて、展示はと言えば、なかなかユニークというか、理解しがたいと言うか、「これにはどういう意図や目的があるのだろう?」という作品が多くありました。
説明では戦後の現代美術の研究に立脚する70年代までとサブカルチャーん影響を受けた90年代以降の表現の間にある80年代の美術を見つめ直す、ということが書かれておりましたが、難しい。
抽象画などについては、多分意図も目的もなく、そこには表現があるだけ、ということもあるでしょうから、上のような「?」は野暮なのかもしれません。

とはいえ、すべての作品について意味不明で何も感じなかったというわけではなく、中には「ふふふ」と思ってしまう作品がいくつもありました。

例えば、中村一美さんの『湿潤気候の樹林』は、なんとなく女性が泣いているような姿が見て取れて面白かったです。

また、杉山知子さんの『the midnight oasis』なんかは、まどか☆マギカの世界を感じさせる作品でした。

吉澤美香さんの『RO-9』という作品は、強烈な赤色と平面上に書かれた円・丸みが、とてつもない勢いを持って迫ってきます。激しさと、少しの怖さと、不安さが湧き上がってくるのを感じました。

その他、日比野克彦さんの紙で作られたジャケット『SWEAYT JACKET』は精巧に作られているのに、紙の質感が残っている感じがとても新鮮でいた。
サイズや見た目が、本当に着れそうなリアリティを持って作成されているのが面白かったです。

中でも最もオモシロイと思ったのが、森村泰昌さんと藤本由紀夫さんの作品。

森村さんはゴッホになりきる写真を取っていたり、胸像になりきる写真を取っていたりと、写真なのに、絵画風で、しかもパロディーで、そこになんとも言えないおかしみが含まれていて、画集をほしいなと思うほどでした。
(この方は大変おもしろみに富んでおられます。
 森村ミュージックって本当にあるのかしら?
 今度大阪に行く機会があれば、行ってみたいけど…)

また、藤本さんの作品では、特に『HERMETIC SCALE (DIAMETERE)』という、サイズの違う五枚のお皿の上に、それぞれ音をだす針金を歪ませたオルゴールユニットが置かれているという作品で、全部いっぺんに鳴らしてみると、それぞれのオルゴールの音も違うし、ゼンマイが動く影響で時々鳴る皿の音も違う。
それらがアンサンブルして起こすなんともとらえどころがない旋律がおかしかったです。

これまであまり地方の美術館なんて興味なかった(と言うか美術時代に興味がなかった)ですが、行ってみると、なかなかおもしろいですね。
ひょっとしたら、面白そうだな、と興味を持っていくからいいのかもしれませんね。

そう言えば、昨日夜食を買いに行ったセブンイレブンで『大人が行きたい美術展2019』なる雑誌が売られておりました。
1000円近くするため、少し考えてしまいます。

辞令交付式への違和感(みんなよく参加するなぁ)

 今日は4月1日。  我社では辞令交付式が行われました。  そのため、土曜日ですが、人事課員として出勤しました。  明日も仕事なので、12連勤となります。   人事課の闇ですね。  それはさておき、辞令交付式に関して、毎年違和感を持ちます。  それは、お礼を言われる側が、何故かホ...