TN君の伝記(なだいなだ、福音館書店)



TN君の伝記(なだいなだ、福音館書店)』を読みました。
面白かった。大変面白かった。
すごく勇気の湧く本です。
本と社会に学び、はったりで己を鼓舞し、自らの正義を持ち続けるTN君の爽やかさと苦しさが、「お前も動け」と焚き付けてくるような心地がします。

これまで読んできた「三酔人経綸問答」や「一年有半」がどういう歴史の中で書かれてきたのかがよくわかりました。
なるほど洋学先生の言う自由はまだ遠い。
自由に向けて進んでは戻り、進んでは戻り…。
日本人は自由のないところに戻ろうとする国民性があるのかもしれません。
三酔人経綸問答(中江兆民、光文社古典新訳文庫)
一年有半・続一年有半(中江兆民、岩波文庫)

現代はどんなもんだろうかと考えてみると、確かに明治よりは自由だと思うが、精神的に自由になれているかと言えばそうではなさそうです。
そうでないから「スクールカースト」のようなものができるのでしょう。
やはり、まだまだ自由は遠いように思えます。
教室内(スクール)カースト(鈴木翔、光文社新書)

しかし、私たち日本人は本当に自由など求めているのだろうか。
かつての自由党の仲間たちが変わっていってしまったように、現代だってそんなに強く自由を求める雰囲気があるとはなかなか思えません。
それはあるいは私がそういう地位に甘んじているからなのかもしれませんね。
そう考えると、今の世の中に対して、自分が目を閉じてしまっているような気持ちになります。
何からやればいいのかはわかりませんが、動きたくなる、そういう本です。

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ところで、本書では幸徳秋水のことも多く書かれていて楽しめました。
内村鑑三が政府に反抗的な姿勢を示していたから帝国主義の序に書かせていたということもわかりました。
でも、二人がその後どうなったかは書かれていない。
内村は戦争を養護するような発言をしたとだけ書いていたから、あるいは二人は決別したのでしょうか。
何故だかわかりませんが、二人のことがずっと気になる…。
帝国主義(幸徳秋水、岩波文庫)

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本書を読めば、明治の政治がどんな人に運営されていたかがわかります。
そこが伝記の面白いところですね。
歴史に息を吹き込んでくれる気がします。
それのお陰で、現代とはそんなに変わらない当時の人々の姿が見えてきて親しみもわきます。

本書を読んでからならば、いくらか「一年有半」の政権批判も飲み込みやすくなりそうです。

  

大石内蔵助―赤穂四十七士 (西本 鶏介、講談社 火の鳥伝記文庫)


大石内蔵助―赤穂四十七士 (西本 鶏介、講談社 火の鳥伝記文庫)を読みました。
実際に歴史を動かした人たちがどんなことを思っていたのかということが細かく書かれた伝記で、面白く読めました。
ただ感想としては、「野蛮」だなぁというのが私の感じたところです。
(これはあくまでも現代から見た視点なのだと思いますが)

そもそもなんで吉良上野介を切ったのだろうかと疑問です。
また、なぜ吉良上野介が浅野内匠頭をいじめなくちゃならなかったのか。
その辺は、まだ本当にわかっていないのだそうですが、この解釈だけで物語の意味が全然変わってしまいます。
そこがわからないのになぜこんなにも赤穂浪士の擁護するようなストーリーになってしまうのかがわかりません。
当時、内匠頭がおかしいという話にならないのはならなかったのでしょうかね。
そういうことをしでかすはずの人物でないのだとしたら、なぜそういう史実を支持する資料がないのか気になります。

ファンからしたら暴言かもしれませんが、例えば内匠頭が短気で傷刃に及んだとすれば、キチガイ部下が逆恨みで復讐したと取れないこともないような気がします。
これが武士の振る舞いだと胸を張って言えるのでしょうか。
腹を切れば何でも許されるわけでもないでしょう。
あくまで現代の目線で見たらという前提ですが、ちょっとクレイジーです。
最後の討ち入りのシーンに至っては、吉良家の家臣や家族たちなんてなんの悪さもしてないのに、可愛そうだなと思ってしまいました。

ということで、最近兆民先生や幸徳秋水に影響されている私としては、
菊と刀はこの物語に義理と恩の分類で説明を試みていたましたが、私にはさっぱりわかりません。
持て余した野蛮人が勝手な大義を作って壮大な、人騒がせな復讐を果たして自殺したってだけではないでしょうか」
と書きたいところなのですけれど、私にはやっぱりこの話を美談として捉えたい気持ちがわかってしまいます。
ということで私も日本人の型にしっかりとはまっていることを実感しました。

そしてこういう感覚が自然にあって、それが社会を覆っているのであれば、たしかに我が国はまだまだ市民社会には到達していないのかもしれません。
菊と刀が書かれた時代にはそうだったかもしれませんが、今の若者はどうなのだろう。
ぜひ若い人の「忠臣蔵」に関する感想を聞いてみたいものです。
案外私と似たような感想を持つ若者も多いような気がします。
(気のせいかもしれませんが)

それにしても、こうした子ども向けの伝記というのは、とてもわかり易いですね。
入門書として、ざっくり、一般的なことを学ぶには、非常に良いように思います。
ちょこちょこ読みつつ、シリーズを読破したい気持ちになりました。

 

史上最強の哲学入門(飲茶、河出文庫)



『史上最強の哲学入門』(飲茶、河出文庫)を読みました。
大変面白かったです。
西洋哲学史を、単純に時系列で並べていないところがいいですね。
大きなテーマ(真理、国家、神様、存在の4テーマ)に分けて哲学者が紹介されており、「あの人の考えとその人の考えはこうつながっているのか!」、というのが理解しやすく、非常にわかりやすい。
初学者でもわかるように、かなり端折っている部分もあるため、これ一冊で哲学を知ったつもりになるのは痛い目を見そうだけど、教養として哲学の流れや、概要や、つながりを理解するのには、大変役立つと思いました。

また、現代の我々の視点をもちながら説明してくれるので、現代社会とのつながりというか、私達が日常的な事柄を考える際にも役立つと思います。
例えば、愚衆政治の話(P137)や新自由主義の話(P204〜)などは、まさに身近なニュースとも関係するトピックスかと思います。
いやいや、実際のところ、民主主義にも大きな落とし穴がある。(中略)民衆が政治に興味を持って十分に吟味したうえで投票し、優れた政治家を選べばよいが、そうでない場合、民衆は政治家の思想や公約の内容も知らずに「なんか堂々としていて、リーダーシップがありそうだから」などのイメージで選ぶようになってしまう。そうすると、煽動政治家(もっともらしく語るのが上手なだけの無能な政治家)ばかりが支持されてしまい、国家がどんどん間違った方向に進んでしまうのだ。こういう状態を愚衆政治という。(P137)

という事態がすでに2000年前の古代ギリシャでも起きていたそうで、なるほど、人間というのはなかなか変わらないというのがよくわかります。

最後に存在について、ソシュールの記号論を説明しながら、このようにまとめます。
(前略)もし、あなたに、どうしても譲れない、自分にとって一番大切な「価値のある何か」が存在するのであれば、もしあなたが死んだら、その存在はもはや存在しない。あなたが見ている「世界」に存在するものはすべて、あなた特有の価値で切り出された存在なのである。だから、あなたがいない「世界」は、あなたが考えるような「世界」として決して存在しないし、継続もしない。なぜなら、存在とは存在に「価値」を見いだす存在がいて、はじめて存在するからである。(P344)
熱い…熱すぎる…「バキ」分が溢れ出しているのを感じます。

とは言いつつも、著者のテンションは、かなり軽いです。
「よろしいならば戦争だ」
「一向に構わん」
などなどのフレーズが散見されるといえば、「若者向きで、(誤解を恐れずいえば)男の哲学入門書と言える」ということの意味が何となくわかっていただけるのではないかと思います。

実は、本書には終い本として「東洋の哲学者版」もあるそうなので、近々読んでみたいと思います。

飲茶氏の本は、こちらもおすすめ→■正義の教室(飲茶、ダイヤモンド社)

  

正義の教室(飲茶、ダイヤモンド社)



正義の教室』(飲茶、ダイヤモンド社)を読みました。
めちゃくちゃ面白かった。

正功利主義、自由主義、直観主義に対応する3名の女の子とそれらの思想に違和感を覚える主人公が倫理の先生の授業を受けながら、正義とは何かを究明していく物語。
主人公の理解と並行して、私たち初学者でも学べるように多大なる配慮がされていました。
また、3つの主義それぞれの特徴と、問題点を学びながら、ざっくりとした西洋哲学史も学べて、哲学の大きな流れが理解できます(枠の中か外かで2500年、構造主義とポスト構造主義→社会が人を形作る)。
今読んでいる『史上最強の哲学入門』(飲茶、河出文庫)とも重なる部分があるけど、どっちも読んでいるとなお面白い。

最後に主人公が採用した「特定の正義を決めないことが正義」というのは、レヴィナスの「他者」と近い発想のような気がします。
真理それ自体に価値があるのではなく(そもそも我々は真理なんていうものには到達できない。誰かが到達した真理を否定する他者の存在を否定できないから)、真理を追い求めるということが大事なのでしょう。
そして、これは他者を尊重しながら、少なくとも公共の福祉を侵さないようにして真理を追い求めていく必要があります。
しかしどうやって?

その答えとして、主人公は、衆人監視下かそうでないかに関わらず善(自分が良いと思うこと)を行うことを正義とします。
しかし、それで被る損害が大きいことは往々にしてありえそうです。
だとすると、やはり他者の視線は強いと言わざるを得ません。
そして、それは要するに我々は社会に形作られているということを否定することができないということを突きつけてくるように思える。

このまま監視社会の強化が続けば、1984年のような世界が来るのだろうか。
それはいやだなぁ。
あるいはマイノリティ・リポートのような社会か。
ただ、個人間のつまらない小競り合いはなくなりそうだから、優しい社会になるようにも思えます。
この辺の感じ方については、どう生きたいか、それによって、答えは個々人で異なるのでしょう。
そして、同一の人物であっても、年を取れば、立場が変れば、優しい社会も退屈な社会となるかもしれません。
かくして正義とはあいまいで、うつろいやすく、だからこそ問い続けなくては私たちはただの元素の塊となってしまうのです。
ただし、ただの元素の塊ではいけない、ということもないというのが味噌です。
あくまで「自分はどう生きたいのか」。
これが各個人に託されているということですね。

結論、「良きに計らえ」

 

三酔人経綸問答(中江兆民、光文社古典新訳文庫)



三酔人経綸問答 (中江兆民、光文社古典新訳文庫)を読了。
面白かった。
一年有半と異なり、原文でもちゃんと意味がわかりました。
一年有半・続一年有半(中江兆民、岩波文庫)
原文と訳文の両方が掲載されており、どちらも味わうことができる素晴らしい構成です。
校注はほとんどないけれど、行ったり来たりすれば大体の意味はつかめます。
どちらも独特のリズムがあって、面白い。

さて、本書は問題提起の本だと思います。
当時の日本における課題とそれを取り巻く活動や世論をわかりやすく分類し、整理して、一冊の中で戦わせてしまったのだと私は理解しました。
帝国主義を読んだ後なので、どうしても幸徳秋水と洋学紳士が重なってしまいますが、その真意や如何に。
帝国主義(幸徳秋水、岩波文庫)
ひょっとしたら、これは世の中に向けてということもあるけれども、弟子たちに向けたテキストのようなものとして書かれた、という側面もあったのではないかと考えてしまいます。
対象はどうであれ、兆民自身も少なくとも多くの人間に思想という種をまくということを重視していることは確かであろうから、100%外れているということもないでしょう。
そして、多くの人の頭に残すためにあえて劇作のように拵えたのかもしれません。
確かに、座談形式なので読みやすく、自分の中で議論を咀嚼しやすい。
最終的になんの結論も書かれていないから、議論の扉は開け放たれた形で終わりますので、読後も自分の中で問い続けることができます。
ひょっとしたら兆民は、以降の議論を個々の自由に委ねることで種の肥料としようとしたのではあるまいか…。
などなど、読んだ後もなかなか楽しめる本です。

解説の中で、兆民の思想を端的に表す引用があったので、それを紹介します。

社会というものはな、秩序と進歩と相待ったものである、若しも急激に事を処すると飛んだ間違を起こすものぢやぞ、小児の病は癒ること速かなるが大人はそふぢやない。社会は成長すれば其構造も発達するものぢや、丁度人間の成長するに能く似て居るものぢや、斯く永久の年月を経て進歩する性質のものであるから、之れを改良するにはヤツパリ進歩の法則に従ひ、次第次第に根本的改良に従事せねばならぬものぢや、若しも急激に荒療治をするときは、正当なる身体をして却って害毒を来たし、不健康に陥らしむることがあるものぢや、徐かに急げとは社会改良家の一日も忘るべからざる言ぢや、理解たか理解たらモー帰れ帰れ(『中江兆民全集』第十七巻)(欄外に曰く。さあ、早く家に帰って『三酔人経綸問答』を読もう)(三酔人経綸問答P188)

改革を叫ぶ人は、この論をよく考えてみる必要があるだろう、ということを、以降頭の片隅に置いておきたいと思います。

 

一年有半・続一年有半(中江兆民、岩波文庫)



一年有半・続一年有半 (中江兆民、岩波文庫)を読みました。
面白かったです。
兆民先生はこういう本を書いていたのですね。
なるほど、幸徳秋水は完全に文体を引き継いでいます。

一年有半については時事の話が多く、なかなか進みませんでした。
難しい。
解説を読むと、なるほどそういうところを楽しむものかと関心する。
一緒に三酔人経綸問答の現代語訳を読んでいますが、現代語訳だと明治に書かれたものとは思えません。
付録の原文も現代語訳を読んだ後ということもあるのでしょうけれど、なかなか分かります。
そう考えると、多分この一年有半が難しいのでしょうね。

一方で、続一年有半については、大変分かりやすかったです。
以前世界十五大哲学で紹介されていた内容のほとんどが、続一年有半から引用されているようでした。
兆民先生(幸徳秋水、岩波文庫)
この続一年有半が兆民先生の絶筆となるのですが、本書はまさに兆民先生の集大成だったのだと思います。
内容はいたってシンプルで、物質(を構成する元素)は不変だが、精神は肉体より生じるものであるから死ねば消滅するという事で、それに伴って宗教や神話を木っ端みじんに退けていました。
この辺の知的な激しさは弟子の幸徳秋水にしっかり受け継がれていたのだなぁと思います。
帝国主義(幸徳秋水、岩波文庫)

ところで、本文とはあまり関係ないのですが、解説に面白いことが紹介されていました。
本書は非常にルビや校注が多いのですが、その点について訳者も解説で弁明しています。
そして、その理由に、一つの単語にいくつも読み方があって、その辺のニュアンスを楽しんでもらうということがあったようです。
例えば、「未曾有」に5通り、「正真正銘」に4通りの読み方があったのだとか。
あとは、「無害」というのが「無類」の意味だったりしたそうです。
それゆえに訳者は、あえて極力校注を入れたとのこと。
そして、ここには訳者に影響を与えた一言があったとのこと。
やさしいことのむずかしさをしることはむずかしい(里見弴、文章の話)
なるほど、わが身をよく省みたくなるお言葉です。
当たり前のように古典を楽しんでいますが、そこには必ず訳者、解説者の尽力があることに思い至ります。
こうした翻訳をしてくれる方がいるおかげで、私のような無学な人間でも尊い書物と交わることができるのですから、翻訳とは、誠に偉大な仕事のように思われます。
(欄外に曰く、英語教育の必要性ここに見つけたるか)
英語教育の危機(鳥飼玖美子、ちくま新書)

  

菊と刀 (ルース・ベネディクト、講談社学術文庫)



菊と刀 (ルース・ベネディクト、講談社学術文庫)を読みました。
面白かったです。

本書のタイトルは「日本人は圧力をもって菊をあたかも自然にあるように、育てる。そして、自身を刀と捉えてその美しさを保つところに美意識を感じる」ということを表しています。
本書はそのことを様々な角度(歴史、生活様式、教育、など)から分析している本です。
至る所に「あー、確かに」「なるほど、そう考えれば筋が通るな」という点が多々ありました。
これで一度も日本に来ていない人が書いているのだから信じられません。
解説者も書いていましたが、是非日本に来て直に観て、追加の分析をしてほしかったものです。

驚くべきは、アメリカが戦勝後に日本を占領するにあたり、どのような統治を行うべきか、その研究を進めていたのに対し、日本においては、そのような話は一切聞かないことです。
そういう話はあったのでしょうか。
大東亜共栄圏の発想の下には戦勝後のアジアにおける統治の構想はあったのかもしれませんが、アメリカを占領してカナダやメキシコとの関係をどうしようなんて構想があったというのは聞いたこともありません。
その差が全く戦果に影響を与えなかったということは、おそらくないと思われます。

ところで、この本を読んだ今でも、日本がアメリカを統治しているイメージが全く持てません。
アメリカでは個々人が強いから、指導者層だけを操ってもダメでしょう。
ということで、アメリカが日本を統治したやり方では、おそらくアメリカを統治することはできないと思えます。
果たしてアメリカという国は、どうやったら占領できるんだろう。
(誰か考えた人の本があるなら読んでみたいです)

ーーー

著者は、先の戦争は、日本が自分のいるべき位置を確認するための戦争だったといいます。
なるほどそうかもしれないという気持ちになりました。
日本人は自分の治まりどころがわからないと、非常にストレスを感じるのが一般だというのは全く違和感ありません。
この辺は『スクールカースト』にも通じるものがありますね。
教室内(スクール)カースト(鈴木翔、光文社新書)

なまじ日清、日露で買っちゃったから、どこまでつきすすむべきなのか、分からないまま、いけるところまでやってしまった、という事なのかもしれません。
そして、限界が来たら(敗戦において)、ここが限界だと気づいて、すぐに方向転換してしまう性質も私たちの特徴のようです。
結構図太い民族のようです。
これらは、恥の文化(西洋の罪の文化との対比)にその一因があることも指摘されていました。

また、この本で指摘されるまでは当たり前すぎて気にもとめなかったことがいくつもありました。
例えば、義理と義務、人情、歴史、誠(まこと)など、欧米人はこういう見方をするのか、というさわやかな驚きを何度も経験できます。
全く意識せずにこれらの運用を私たちがしてきたということも目から鱗でした。
異文化理解とは、つまるところ、こういうことではないでしょうか。
他者から見た自己を理解し、その差異にスポットライトを当てて自他を理解する。
そして、外国語でなければ光を当てることのできない箇所がある、という点に、外国語を学ぶ意味があるのではないかと、そんなことを思いました。
英語教育の危機(鳥飼玖美子、ちくま新書)

本書を読んだからどうなる、という事ではないのでしょうけれど、本書を読んだ人と読んでいない人とでは、日本人としての自分の行動原理への理解度が大きく隔たれるのではないかと思います。
自分の行動原理が理解できたからと言って、得するもんでもないのでしょうけれど、気心のしれない他人と接する際に自分を律することに対しては、いくらか役に立ちそうな気がします。

本書は、解説もなかなかいい感じでした。
読みながら、なんとなくもやもやしていたものについて、詳細に解説しくれました。
ぜひ、解説もご一読をおすすめします。

辞令交付式への違和感(みんなよく参加するなぁ)

 今日は4月1日。  我社では辞令交付式が行われました。  そのため、土曜日ですが、人事課員として出勤しました。  明日も仕事なので、12連勤となります。   人事課の闇ですね。  それはさておき、辞令交付式に関して、毎年違和感を持ちます。  それは、お礼を言われる側が、何故かホ...