国際感覚ってなんだろう(渡部淳、岩波ジュニア新書)



国際感覚ってなんだろう(渡部淳、岩波ジュニア新書)』を読みました。
耳が痛いなぁと思いながら、楽しく読めました。

全体を通じて、「喋れれば国際感覚を持った人間になれるというものではない」ということを強調しています。
(そうですよね)
大切なことは「異文化を否定しない」「理解できない他者に手を差し伸べる」「自分にできることをやる、発信する、行動する」というようなことに集約されるのではないか、ということでした。
(本当にその通りだなぁ)
特に新型コロナウイルスの感染が拡大している今の世の中において、世界が一丸となってことにあたることの重要性はさらに増しているのではないかと思います。
合意形成の進行形式(集団討論など)を考えると、喋れることが国際化にならないとは言いつつも、喋れるということは合意を形成するうえでとても大切なようです。
ディベートの箇所を読むと、そうした直接的、瞬間的なコミュニケーションのやり取りの重要性が強調されていました。
特に大人数で、一定の時間の中で合意を形成する場合、事前の準備とその場での対応力が求めらるということですから、まだまだgoogle翻訳では難しい領域かもしれません(そのうち解決しそうですが)。
とはいえ、やはり「自分の意見」をもって、それを発信し、「他者の意見」を受け入れ、それに返事をする、こういうことが一般的な世界になるのです(そうでない日本が特殊なのかもしれませんが)。
そうなると、確かに海外で(あるいは「の」)教育を受けている人の方が、なじみやすいかもしれません。
ここで変な方向に舵を切ってしまいますが、このことはつまり、外国語の学習が「日本の教育から逃れるための船」のような役割を果たすことにならないかと不安になります。
「日本では世界とやりとりする教育は受けられない。だから話せる英語を身に着けて、海外でコミュニケーション力を持った人材が育ってほしい」という願いのもとに外国語教育がなされてしまっていないかと疑いの気持ちが芽生えてしまいます。
もちろん、グローバルスタンダードが正解とは思いません。
国ごと、個人ごとに理想をもって勉強なり生活に励めばいいと思います。

とはいいつつも、一定数海外で学ぶ人がいることは、国内の教育制度改善の刺激にもなるかもしれませんので、絶対ダメという事も言えないですね。
ということで国内で生きていたって「自分の理解できない事象に対する寛容さ」が求められるわけです。
ということでこの本の示した「国際感覚」とは、「常識」「成熟」という言葉に置き換えてもいいものなのかもしれません。


幸田露伴1867-1947(幸田露伴、筑摩書房)



幸田露伴1867-1947(幸田露伴、筑摩書房)』を読みました。
少ししんどいところもありましたが、面白かったです。
『貧乏』は江戸っ子の語り口が面白く、『突貫紀行』は徒歩旅行をしたくなります。
『蒲生氏郷』は重かったけど、伝記らしく、その人の周辺の世界がわかり、伊達政宗や豊臣秀吉の人柄が呑み込みやすい形で表現されていて、読み終わったときには少しさわやかな気持ちになります。
ところで、武士の世界の倫理というかルール、規律のようなものも、なるほどこういうことだったのかと合点がいった部分も多かったのが印象的でした。
いやはや、武士の世界とは、不良の世界ですね。

それから、個人的には『野路』という話が好きでした。
幸田露伴のイメージからは全然想起できないような、春の温かい、パステルカラーのゆったりとした世界が描かれています。
そして、そんな春の休日で、のんびり散歩しながら野草を食べて歩くというのはなかなか乙ですね。
酒が飲みたくなってしまいます。

解説の人も書いていましたが、幸田文の「父・こんなこと」を読む限りは堅物の父親のイメージがあったので、本書を読んで全体的に人情味のある、明るい内容が多かったのがいい意味で予想外でした。
父こんなこと(幸田文、新潮文庫)
(幸田文の文体と重なる部分が散見され、ちょっとほっこりしました)

ということで、次は代表作『五重塔』を読みたいと思います。


 

TN君の伝記(なだいなだ、福音館書店)



TN君の伝記(なだいなだ、福音館書店)』を読みました。
面白かった。大変面白かった。
すごく勇気の湧く本です。
本と社会に学び、はったりで己を鼓舞し、自らの正義を持ち続けるTN君の爽やかさと苦しさが、「お前も動け」と焚き付けてくるような心地がします。

これまで読んできた「三酔人経綸問答」や「一年有半」がどういう歴史の中で書かれてきたのかがよくわかりました。
なるほど洋学先生の言う自由はまだ遠い。
自由に向けて進んでは戻り、進んでは戻り…。
日本人は自由のないところに戻ろうとする国民性があるのかもしれません。
三酔人経綸問答(中江兆民、光文社古典新訳文庫)
一年有半・続一年有半(中江兆民、岩波文庫)

現代はどんなもんだろうかと考えてみると、確かに明治よりは自由だと思うが、精神的に自由になれているかと言えばそうではなさそうです。
そうでないから「スクールカースト」のようなものができるのでしょう。
やはり、まだまだ自由は遠いように思えます。
教室内(スクール)カースト(鈴木翔、光文社新書)

しかし、私たち日本人は本当に自由など求めているのだろうか。
かつての自由党の仲間たちが変わっていってしまったように、現代だってそんなに強く自由を求める雰囲気があるとはなかなか思えません。
それはあるいは私がそういう地位に甘んじているからなのかもしれませんね。
そう考えると、今の世の中に対して、自分が目を閉じてしまっているような気持ちになります。
何からやればいいのかはわかりませんが、動きたくなる、そういう本です。

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ところで、本書では幸徳秋水のことも多く書かれていて楽しめました。
内村鑑三が政府に反抗的な姿勢を示していたから帝国主義の序に書かせていたということもわかりました。
でも、二人がその後どうなったかは書かれていない。
内村は戦争を養護するような発言をしたとだけ書いていたから、あるいは二人は決別したのでしょうか。
何故だかわかりませんが、二人のことがずっと気になる…。
帝国主義(幸徳秋水、岩波文庫)

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本書を読めば、明治の政治がどんな人に運営されていたかがわかります。
そこが伝記の面白いところですね。
歴史に息を吹き込んでくれる気がします。
それのお陰で、現代とはそんなに変わらない当時の人々の姿が見えてきて親しみもわきます。

本書を読んでからならば、いくらか「一年有半」の政権批判も飲み込みやすくなりそうです。

  

大石内蔵助―赤穂四十七士 (西本 鶏介、講談社 火の鳥伝記文庫)


大石内蔵助―赤穂四十七士 (西本 鶏介、講談社 火の鳥伝記文庫)を読みました。
実際に歴史を動かした人たちがどんなことを思っていたのかということが細かく書かれた伝記で、面白く読めました。
ただ感想としては、「野蛮」だなぁというのが私の感じたところです。
(これはあくまでも現代から見た視点なのだと思いますが)

そもそもなんで吉良上野介を切ったのだろうかと疑問です。
また、なぜ吉良上野介が浅野内匠頭をいじめなくちゃならなかったのか。
その辺は、まだ本当にわかっていないのだそうですが、この解釈だけで物語の意味が全然変わってしまいます。
そこがわからないのになぜこんなにも赤穂浪士の擁護するようなストーリーになってしまうのかがわかりません。
当時、内匠頭がおかしいという話にならないのはならなかったのでしょうかね。
そういうことをしでかすはずの人物でないのだとしたら、なぜそういう史実を支持する資料がないのか気になります。

ファンからしたら暴言かもしれませんが、例えば内匠頭が短気で傷刃に及んだとすれば、キチガイ部下が逆恨みで復讐したと取れないこともないような気がします。
これが武士の振る舞いだと胸を張って言えるのでしょうか。
腹を切れば何でも許されるわけでもないでしょう。
あくまで現代の目線で見たらという前提ですが、ちょっとクレイジーです。
最後の討ち入りのシーンに至っては、吉良家の家臣や家族たちなんてなんの悪さもしてないのに、可愛そうだなと思ってしまいました。

ということで、最近兆民先生や幸徳秋水に影響されている私としては、
菊と刀はこの物語に義理と恩の分類で説明を試みていたましたが、私にはさっぱりわかりません。
持て余した野蛮人が勝手な大義を作って壮大な、人騒がせな復讐を果たして自殺したってだけではないでしょうか」
と書きたいところなのですけれど、私にはやっぱりこの話を美談として捉えたい気持ちがわかってしまいます。
ということで私も日本人の型にしっかりとはまっていることを実感しました。

そしてこういう感覚が自然にあって、それが社会を覆っているのであれば、たしかに我が国はまだまだ市民社会には到達していないのかもしれません。
菊と刀が書かれた時代にはそうだったかもしれませんが、今の若者はどうなのだろう。
ぜひ若い人の「忠臣蔵」に関する感想を聞いてみたいものです。
案外私と似たような感想を持つ若者も多いような気がします。
(気のせいかもしれませんが)

それにしても、こうした子ども向けの伝記というのは、とてもわかり易いですね。
入門書として、ざっくり、一般的なことを学ぶには、非常に良いように思います。
ちょこちょこ読みつつ、シリーズを読破したい気持ちになりました。

 

史上最強の哲学入門(飲茶、河出文庫)



『史上最強の哲学入門』(飲茶、河出文庫)を読みました。
大変面白かったです。
西洋哲学史を、単純に時系列で並べていないところがいいですね。
大きなテーマ(真理、国家、神様、存在の4テーマ)に分けて哲学者が紹介されており、「あの人の考えとその人の考えはこうつながっているのか!」、というのが理解しやすく、非常にわかりやすい。
初学者でもわかるように、かなり端折っている部分もあるため、これ一冊で哲学を知ったつもりになるのは痛い目を見そうだけど、教養として哲学の流れや、概要や、つながりを理解するのには、大変役立つと思いました。

また、現代の我々の視点をもちながら説明してくれるので、現代社会とのつながりというか、私達が日常的な事柄を考える際にも役立つと思います。
例えば、愚衆政治の話(P137)や新自由主義の話(P204〜)などは、まさに身近なニュースとも関係するトピックスかと思います。
いやいや、実際のところ、民主主義にも大きな落とし穴がある。(中略)民衆が政治に興味を持って十分に吟味したうえで投票し、優れた政治家を選べばよいが、そうでない場合、民衆は政治家の思想や公約の内容も知らずに「なんか堂々としていて、リーダーシップがありそうだから」などのイメージで選ぶようになってしまう。そうすると、煽動政治家(もっともらしく語るのが上手なだけの無能な政治家)ばかりが支持されてしまい、国家がどんどん間違った方向に進んでしまうのだ。こういう状態を愚衆政治という。(P137)

という事態がすでに2000年前の古代ギリシャでも起きていたそうで、なるほど、人間というのはなかなか変わらないというのがよくわかります。

最後に存在について、ソシュールの記号論を説明しながら、このようにまとめます。
(前略)もし、あなたに、どうしても譲れない、自分にとって一番大切な「価値のある何か」が存在するのであれば、もしあなたが死んだら、その存在はもはや存在しない。あなたが見ている「世界」に存在するものはすべて、あなた特有の価値で切り出された存在なのである。だから、あなたがいない「世界」は、あなたが考えるような「世界」として決して存在しないし、継続もしない。なぜなら、存在とは存在に「価値」を見いだす存在がいて、はじめて存在するからである。(P344)
熱い…熱すぎる…「バキ」分が溢れ出しているのを感じます。

とは言いつつも、著者のテンションは、かなり軽いです。
「よろしいならば戦争だ」
「一向に構わん」
などなどのフレーズが散見されるといえば、「若者向きで、(誤解を恐れずいえば)男の哲学入門書と言える」ということの意味が何となくわかっていただけるのではないかと思います。

実は、本書には終い本として「東洋の哲学者版」もあるそうなので、近々読んでみたいと思います。

飲茶氏の本は、こちらもおすすめ→■正義の教室(飲茶、ダイヤモンド社)

  

正義の教室(飲茶、ダイヤモンド社)



正義の教室』(飲茶、ダイヤモンド社)を読みました。
めちゃくちゃ面白かった。

正功利主義、自由主義、直観主義に対応する3名の女の子とそれらの思想に違和感を覚える主人公が倫理の先生の授業を受けながら、正義とは何かを究明していく物語。
主人公の理解と並行して、私たち初学者でも学べるように多大なる配慮がされていました。
また、3つの主義それぞれの特徴と、問題点を学びながら、ざっくりとした西洋哲学史も学べて、哲学の大きな流れが理解できます(枠の中か外かで2500年、構造主義とポスト構造主義→社会が人を形作る)。
今読んでいる『史上最強の哲学入門』(飲茶、河出文庫)とも重なる部分があるけど、どっちも読んでいるとなお面白い。

最後に主人公が採用した「特定の正義を決めないことが正義」というのは、レヴィナスの「他者」と近い発想のような気がします。
真理それ自体に価値があるのではなく(そもそも我々は真理なんていうものには到達できない。誰かが到達した真理を否定する他者の存在を否定できないから)、真理を追い求めるということが大事なのでしょう。
そして、これは他者を尊重しながら、少なくとも公共の福祉を侵さないようにして真理を追い求めていく必要があります。
しかしどうやって?

その答えとして、主人公は、衆人監視下かそうでないかに関わらず善(自分が良いと思うこと)を行うことを正義とします。
しかし、それで被る損害が大きいことは往々にしてありえそうです。
だとすると、やはり他者の視線は強いと言わざるを得ません。
そして、それは要するに我々は社会に形作られているということを否定することができないということを突きつけてくるように思える。

このまま監視社会の強化が続けば、1984年のような世界が来るのだろうか。
それはいやだなぁ。
あるいはマイノリティ・リポートのような社会か。
ただ、個人間のつまらない小競り合いはなくなりそうだから、優しい社会になるようにも思えます。
この辺の感じ方については、どう生きたいか、それによって、答えは個々人で異なるのでしょう。
そして、同一の人物であっても、年を取れば、立場が変れば、優しい社会も退屈な社会となるかもしれません。
かくして正義とはあいまいで、うつろいやすく、だからこそ問い続けなくては私たちはただの元素の塊となってしまうのです。
ただし、ただの元素の塊ではいけない、ということもないというのが味噌です。
あくまで「自分はどう生きたいのか」。
これが各個人に託されているということですね。

結論、「良きに計らえ」

 

三酔人経綸問答(中江兆民、光文社古典新訳文庫)



三酔人経綸問答 (中江兆民、光文社古典新訳文庫)を読了。
面白かった。
一年有半と異なり、原文でもちゃんと意味がわかりました。
一年有半・続一年有半(中江兆民、岩波文庫)
原文と訳文の両方が掲載されており、どちらも味わうことができる素晴らしい構成です。
校注はほとんどないけれど、行ったり来たりすれば大体の意味はつかめます。
どちらも独特のリズムがあって、面白い。

さて、本書は問題提起の本だと思います。
当時の日本における課題とそれを取り巻く活動や世論をわかりやすく分類し、整理して、一冊の中で戦わせてしまったのだと私は理解しました。
帝国主義を読んだ後なので、どうしても幸徳秋水と洋学紳士が重なってしまいますが、その真意や如何に。
帝国主義(幸徳秋水、岩波文庫)
ひょっとしたら、これは世の中に向けてということもあるけれども、弟子たちに向けたテキストのようなものとして書かれた、という側面もあったのではないかと考えてしまいます。
対象はどうであれ、兆民自身も少なくとも多くの人間に思想という種をまくということを重視していることは確かであろうから、100%外れているということもないでしょう。
そして、多くの人の頭に残すためにあえて劇作のように拵えたのかもしれません。
確かに、座談形式なので読みやすく、自分の中で議論を咀嚼しやすい。
最終的になんの結論も書かれていないから、議論の扉は開け放たれた形で終わりますので、読後も自分の中で問い続けることができます。
ひょっとしたら兆民は、以降の議論を個々の自由に委ねることで種の肥料としようとしたのではあるまいか…。
などなど、読んだ後もなかなか楽しめる本です。

解説の中で、兆民の思想を端的に表す引用があったので、それを紹介します。

社会というものはな、秩序と進歩と相待ったものである、若しも急激に事を処すると飛んだ間違を起こすものぢやぞ、小児の病は癒ること速かなるが大人はそふぢやない。社会は成長すれば其構造も発達するものぢや、丁度人間の成長するに能く似て居るものぢや、斯く永久の年月を経て進歩する性質のものであるから、之れを改良するにはヤツパリ進歩の法則に従ひ、次第次第に根本的改良に従事せねばならぬものぢや、若しも急激に荒療治をするときは、正当なる身体をして却って害毒を来たし、不健康に陥らしむることがあるものぢや、徐かに急げとは社会改良家の一日も忘るべからざる言ぢや、理解たか理解たらモー帰れ帰れ(『中江兆民全集』第十七巻)(欄外に曰く。さあ、早く家に帰って『三酔人経綸問答』を読もう)(三酔人経綸問答P188)

改革を叫ぶ人は、この論をよく考えてみる必要があるだろう、ということを、以降頭の片隅に置いておきたいと思います。

 

辞令交付式への違和感(みんなよく参加するなぁ)

 今日は4月1日。  我社では辞令交付式が行われました。  そのため、土曜日ですが、人事課員として出勤しました。  明日も仕事なので、12連勤となります。   人事課の闇ですね。  それはさておき、辞令交付式に関して、毎年違和感を持ちます。  それは、お礼を言われる側が、何故かホ...