【読了】飲酒文化の社会的役割(ジェリー・スティムソン他著、アサヒビール株式会社)

『飲酒文化の社会的役割(英名:Drinking in Context)』(ジェリー・スティムソン他著、新福尚隆監修、アサヒビール株式会社発行)を読み終えました。
飲酒文化の社会的役割―様々な飲酒形態、規則が必要な状況、関係者の責任と協力
飲酒文化の社会的役割―様々な飲酒形態、規則が必要な状況、関係者の責任と協力
難しい本でした。
基本的には保健医療関係者や研究者、アルコール業界の関係者、NGOなど、アルコールに関する政策を考えたり、実際に策定された対策を導入する立場にある人向けに書かれており、専門性が高い印象を持ちます。
プロからしたら、さまざまな政策の事例と評価がまとめられており、実用的な参考資料になるものだと思われました。

内容は、酒害をどう減らすか? という方向で話が進みます。
個人レベルで問題飲酒とどう向き合いましょうか?という内容ではなく、あくまで介入と評価に力点が置かれています。
また、随所で飲酒のプラス面にも触れています。
そんなことから、少しは飲んだほうがいいのかな? という気持ちになってしまうため、断酒している人向けの本ではないかもしれません。

私は「酒を飲まない立場」なので、一個人としてはどんどん酒に規制をかけて「飲まない人の利益を最大化」してほしいなぁと思っておりました。
しかしそれは人格的な視点からしても、政策的な視点からしても良くない方策のようです。
例えば酒の販売価格を上げたり、購入の機会を極端に制限した場合、過去の事例では密造酒の製造増大などが引き起こされ、個人の消費する酒量があまり変わらないにも関わらず粗悪な品質の酒を摂取することによって健康被害が増大するなど、マイナスな結果を招いてしまったことがあるようです。
こういうやってみたらまずかった、という規制は結構あると言うことを本書では多々紹介しています。
「飲まない人の利益を最大化」してほしいというのは、こうなると随分自分勝手なわがままだなぁと反省せざるを得ません。
(まぁ、常識的に考えても、今日において禁酒に近いそんな極端な政策は採用されないでしょうけど)

上の例のように、飲酒はいろいろな人間活動に関わっているため、極端な規制は、むしろ全体に対してマイナスな影響を与える可能性があるというのが、本書の指摘です。
アルコールの問題消費等に対してどういった介入が望ましいのかは、その国やその地域において酒がどう捉えられているかという、文化的な面を考慮して検討される必要があるようです。
また、合わせて酒のプラス面をいかに増幅するかということも考えておく必要があるということが、度々強調されていました。

この本を読んで気になったのは、以下の3点です。
①日本での飲酒の捉え方とは?(文化的な役割)
②日本での飲酒にまつわる問題とは?(解決すべき課題)
③日本での飲酒によるプラスの面とは?(促進すべき点)
これらは、本書では触れられていません。
というか、日本についての記述がほとんどありません。
ですから、この辺の話については、別の本を読んだりしながら考えを巡らせてみたいと思います。

ちなみに、現段階でこんなことじゃないかなぁ?と思っているのが、いこのようなキーワード。

① 神事、ハレの日、共同体意識の醸成
② キッチンドリンカー、アルハラ、酒害・依存性への理解
③ 穏やかな人間関係の形成、一体感の共有

いずれも想像の域は出ません。
また、穏やかな人間関係の形成というプラス面は、ひょっとしたらソトのトラブルを家庭というウチで解消するという、マイナス面につながっている可能性も考えられます。
こういうことが100%いいというものは、多分ないのでしょう。
いろいろな文献を当たりながら、「これはグレーゾーンの中の、このへんにあるからまぁいいことなんじゃない?」くらいのゆるい考え方で検討していけるといいなぁと思います。


幸せな世界とは(AI時代の新・ベーシックインカム論から③)

先日読んだ『AI時代の新・ベーシックインカム論』を踏まえて、特にVR技術について思うところを書いてみたいと思います。
本書の面白い点の一つに、BIとAIの話が中心になっていると思いきや、最後はVR(ヴァーチャルリアリティ、仮想現実)の技術についての警鐘で幕を閉じるという点があげられると思います。
本書の中でも突然湧いて出てきた感が否めないこのVR技術は、私たちの暮らしを根本から変えてしまうといいます。
著者は、VR技術の発展した世界を、映画『マトリックス』で例えていますが、それを聞いて私はハックスリーの『すばらしい新世界』を思い出しました。


人間は受精卵の段階から培養ビンの中で「製造」され「選別」され、階級ごとに体格も知能も決定される。また、あらゆる予防接種を受けているため病気になる事は無く、60歳ぐらいで死ぬまで、ずっと老いずに若い。ビンから出て「出生」した後も、睡眠時教育で自らの「階級」と「環境」に全く疑問を持たないように教え込まれ、人々は生活に完全に満足している。不快な気分になったときは、「ソーマ」と呼ばれる薬で「楽しい気分」になる。人々は、激情に駆られることなく、常に安定した精神状態である。そのため、社会は完全に安定している。ビンから出てくるので、家族はなく、結婚は否定されてフリーセックスが推奨され、人々は常に一緒に過ごして孤独を感じることはない。隠し事もなく、嫉妬もなく、誰もが他のみんなのために働いている。一見したところではまさに楽園であり、「すばらしい世界」である。すばらしい新世界 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

こうやって考えてみると、マトリックスとすばらしい新世界が描こうとしているのは、非常に近いものがあると思います。
そこで問われているのは、「自分の知っている世界とは別の世界があり、別の世界から自分のいる世界がコントロールされているということを、知らないほうが幸せかどうか」でしょう。
私個人としては、さっさとすばらしい新世界のような世界が訪れることを願っておりますが、そのことが人間の営みとして正しいかどうかは、個々人意見の別れるところでしょう。
正直今に生きる私としては、違和感は感じまくりです。
そして、結局のところ、どんな世界を作ったとしても、ネオやジョンのような人間は出てくると思います。
なぜなら、これまでだって自分の知っている世界が、別の誰かにコントロールされているという状況は多々発生しましたし、人々はそこから脱することで文明が発展してきたからです。

たとえVRで一部(あるいは大多数)の人が「誰も傷つかない優しい世界」に没頭したとしても、おそらくそれとは違う世界(VRを排除した世界)が形作られるように思われます。
その世界とは、「人間の、人間による、人間のための社会」とでも標榜した世界になるのではないかと想像されます。
問題は、その2つの社会が共存できるかどうかではないでしょうか。
特に、人間の社会側が、VRの世界に生きる人々を許せるかどうかが重要になる気がします。

私は、できればVRの世界に住みたいし、そこで生きることを放っておいてほしいと思います。
皆さんはどうでしょうか?

ちなみに、本書では、VR世界の「人間社会としての欠落」した点を儒教やコミュニタリアニズム、アレントの視点から見つけつつも、だからVR世界がだめなのかというと、結論はすぐに出せないと締めくくっています。
確かに、VRに人々が溺れてしまうことは、意思のない個人を作り上げてしまう可能性があります。
そもそもその人を一人の人間としてカウントするかどうかについても、議論があるかもしれません。
マトリックスでは、だからこそ機械が世界を運用していたのでしょう。

果たして、私たち人類は、そのような世界を選ぶのでしょうか。
正直、そこに至る道筋が、私には全くイメージできないというのが、正直な感想です。
VR世界には浸りたいけど、想像力が追いつかない、もどかしい気分です。
ということで思いは答えに至らず、結局、「これまで通り生きていくことになるのではないか」という、面白くもない締めくくりになってしまいました。



ハクスリーは、『すばらしい新世界』では皮肉を持ってディストピアを描いたようですが、『島』という作品ではユートピアを描いたようです。
こちらも読んでみたいなぁ(と思うけど、古書なんですね)。

汎用AIがBIを連れてくる?(AI時代の新・ベーシックインカム論から②)

先日読んだ『AI時代の新・ベーシックインカム論』で紹介されていたAIの発展について、思うことを少々。

近頃、囲碁や将棋の世界でのAIの話題が多くなってきております。
これらは、特定の処理を高速に行うことができる、「特化型AI」と呼ばれています。
ある特定の職域は、こうした「特化型AI」に取って代わられることが予想されますが、人間の特異的な性質は「汎用性」という、新しい処理を覚えてそれをブラッシュアップできるところにあります(だから本当は人間よりAIのほうが専門職は得意なんでしょうね。かつ、人間には汎用性があるのであるから、昨今の非正規化の流れは、経営者の自由を追求するとすれば、必然なのだと思います。余談ですが)。
ところが、今AIの世界で目指されているのは、まさにその汎用性を持ったAI、すなわち「汎用AI」の開発なのです。
汎用AIが完成した暁には、情報を扱うことはすべてAIがやってくれるようになるようです。
情報というとわかりづらいかもしれませんが、要するに事務仕事については、ほとんどAIやAIを搭載したロボットが人間の代わりにやってくれるという事ですね。
「Hey,Siri.ウチの会社の過去5年の売上実績と純利益を比較して、分析結果をA4一枚くらいのレポートにしてくれる?」みたいなことができるようになるかもしれません。

こんな時には、もうロボットが肉体労働も取って代わるでしょうから、言葉通り、殆どの仕事がなくなります。
残る仕事は、想像系、経営・管理系、ホスピタリティ系の仕事のみとなり、更にそれらの仕事のなかでも、半分近い仕事が特化型AIによって奪われる可能性があると指摘されています。
結局、人口の一割くらいの人しか働く必要がなくなる社会が来るわけです。
「そんな世界で大丈夫なの?」と思いますね。
答えは、微妙です(またか!)。
働く人が減ったとしても、経営する人は、機械やAIを使って収益を出すことができます。
つまり、経営者と貧困者の格差が拡大していくわけです。
ただ、こうなると、実は経営者も困ります。
なぜなら、モノに対する需要が次第に乏しくなり、付加価値をつけてイノベーションを起こす機会がなくなるからです。
そうなると、どんどん経済全体が落ち込んでいくことになり、結局は資産家もジリ貧になっていくという流れですね。
ところが、こうした社会にBI(ベーシックインカム)が導入されることで、人々の暮らしを守ることができ、かつ需要も喚起することができるというのが著者の主張です。

大体こんなことが2030年頃から2060年までには、起こるだろうとのことですから、ひとまずはそこを安定して迎えることができるように、貯金をしておかなくちゃなと思います。
あとは、その辺から働かなくていいなら、なるべく元気に趣味を謳歌したいと思いますので、あまり仕事を頑張りすぎず、のんびり心穏やかに健康的な暮らしをしていきたいなぁと感じます。
実際のところは、BIが導入されるかどうかわかりませんし、汎用AIが導入されるかもわかりません。
だから、今まで通りに生きていくほかない訳ですが、こういうことを考えると、「お金の心配がなければ何がしたいか」という皮算用が、現実味を帯びてきます。
皆さんは、お金の心配がなければ何をしたいですか?

私は、正直、今の生活のままでいたいです。
上昇志向なんてありませんし、現状維持で十分幸せです。
ただ、仕事をしなくていいならば、今仕事をしている分の時間の半分くらいをボランティアに使い、もう半分を趣味に使うくらいがちょうどいいような気がします。
こんな考えが広がり、人々の自発的な活動が、結局みんなの暮らしを豊かにするような社会になるのであれば、さっさと汎用AIが普及して、BIも導入されるといいなと思います(そんな都合よくいくとは思えませんけどね)。

ただし、と著者は警鐘を鳴らします。
汎用AIが導入されて、BIが導入されないならば、格差が拡大し、固定化された社会、すなわちディストピアの社会が到来することも想定されるのです。



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国家レベルの虚言(AI時代の新・ベーシックインカム論から①)

先日読んだ『AI時代の新・ベーシックインカム論』で知った、日本の財政状況について簡単にまとめます。

驚くべきことは、日本の財政は、全然悪くないということです。
どういうこと?日本って700兆の借金があるんじゃないの?それで全然悪くないってどういうこと?と思う方もいると思います。
私も大変驚きました。
でも、実情はそうではないようです。
日本政府が抱えている負債のは、国内における公債発行によります。
そして、公債は、日銀による買いオペレーションによって、貨幣と交換することで、市場から回収することができます。
「それでは結局お金を出すんだから借金じゃないか」と私は思いましたが、ここに通貨発行権というものが関わってきます。
中央銀行は、お金を作り出せるのです。
1万円札を作るのに、およそ20円のコストがかかることから、9,980円の利益を“生み出す”ことができます。
負債を回収するためのコストを自分で埋め合わせることができるわけですね。
そんなんあり?と思いますが、そうやって買いオペと売りオペで市場の貨幣量を調整することによって金融を調整するのが中央銀行の役割なのだそうです。
知らなかった…。こんなこと公民でならったかしらん?

そこまで説明を受けて、私としては気になることが出てきました。
「そんなことして大丈夫なの?」
答えは、微妙のようです。
なぜなら、買いオペレーションで市場に貨幣を流すことは、インフレーションを引き起こす可能性があるためです。
しかし、現在日銀は毎年60兆円分の公債を回収しているようですが、それでも目標としているインフレ率2.0%には達していないようで、つまり、今市場に貨幣を投下しても、しすぎることはない(インフレに向かわない)という状況だといえます。

ちょっとまってくれよ、そんなわけねーだろ!嘘ばっかし!
財務省はなんて言っているんだ!と私は思いました。
そこで、財務省のHPを見てみると、まぁ素敵に解説されています。
動画、図解、予算のポイント等を見ながら日本の財政を考える(財務省HP)
国の借金が多く、毎年増えている、だから増税が必要なんだ、という論法です。
非常にわかりやすい。
これを見たら、消費税上げなくちゃいかんねーなんて思いかねません。
(と言うか思ってました)
これに対しては、【三橋貴明】国を家計に例えるのはやめようをご一読ください。
これを読むと、途端に怒りがこみ上げてきます。
国レベルで国民を騙そうとしていると疑わずにはいられません。

その後も「なんでこんな騙すようなことをするのだろうか?」と調べてみておりますが、ここからはいろんな推測があるようです。
財務省の天下り先確保のためだなんていう意見もありましたが、どうなんでしょうね?
「部分的にはあるのかな?」なんてワイドショー的な疑い方ですが、確証は見つけておりません。
ちなみに、ある人の記事では、所得税がこれ以上あげられない(他国と比べて高い)から、消費税でまんべんなく税を徴収したいという思惑があるのではないか、と指摘していました。
しかし、消費税とは、相対的に低所得者が損をする税です。
そして、消費税増税はデフレを引き起こすことから、産業界からも敬遠されてします。
となると、安倍政権でこういう方針を立てていると言うのは、あまり考えづらいような…
(所得税を上げさせない方には安倍政権が噛んでいてもおかしくない気がしますが…これも憶測の域をでておりません。)
まだまだ勉強不足なのですが、謎は深まる一方です。

それから、なんで借金がないなら最近の災害等における復興にお金を回さないのか?という意見もあるかと思います。
なんでなんでしょうね?これは私にもよくわかりません。
もっとバンバン国債を発行して復興に予算を回せばいいのにと思えてしまいます。
素人としては、ある程度モラルを持って予算を配分しようという良心を感じます。
それが本当なのか、また、対応として正しいことなのかどうかは、全然判断できませんが…。

この辺は高橋洋一さんという方が詳しいようなので、高橋さんの著書を色々と読んでみたいと思います。

 

詳しい方がこの記事をお読みになられたら、ぜひご解説やご指摘をいただけるとありがたいなと思うばかりです。

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【読了】国語辞典の遊び方(サンキュータツオ著、角川文庫)

『国語辞典の遊び方』を読みました。


面白い。
先日、色々と思うところがあって『三省堂国語辞典(小型版)』を買いました。
また、職場では『新明解国語辞典』を使っています。
すでに2冊(と広辞苑をあわせて3冊)使っているのですが、他にも色々と欲しくなりました。
例えば、『ベネッセ表現・読解国語辞典』『語感の辞典』『基礎日本語辞典』あたりは、今度買おうと思います。
(ミニマリストを目指していたのですが、少し難しそうです…)

デジタル時代にはつい忘れがちですが、私達が人間である以上完璧な情報というものは存在しません。
情報が多けりゃいいってもんでもないのです。
いかにピンポイントに要約されているか。
自分が知りたいの情報の深さの程度によっても、辞書に求める語釈のレベルは変わります。
辞書も例外ではなく、自分の用途に合わせて選ぶ必要が有ることを思い知らされました。
つまり、辞書も一つの本(性質としては実用書や技術書でしょうか)である、ということなのですが、そのことが本書を読むとよくわかります。
一つの本として、辞書と向き合うと、たしかにそれぞれの辞書ごとに個性が浮かび上がってくる。
この辺は2つ以上の辞書を持たないと味わえないと著者は言うのですが、こう言われると、2冊以上持ちたくなっちゃいますね。
(私はもう持っていますが、もっと欲しくなります)

言葉を集め、取捨選択し、編集する、こうした事業には、国語の専門家が必要です。
その専門家とは誰か?それは、すなわち学者です。
それなのに、文系の学者なんていらないと言われるのはどういうことなのでしょうか?
言葉が生きているものである以上、生きた学者を輩出し続ける必要があるとなぜ気づかないのでしょうか。
と、本書を読む前の自分に言ってやりたい。
私は、高校〜大学生の頃、文系の大学なんて不要と思っておりましたが、まったくもって世界が狭かったと反省しています。
本を読んでいると、その本を書いているのが大学の先生であることも多く、文系の大学があるからこそこうした面白い本が読めるのだと思えば、文系の大学が不要、なんてことは思えなくなりました。
本を読まないと、極論に走ってしまう、というのは私の持論ですが、本書を読んで国語辞典制作の難しさ・苦労・重要性などを知ると、そのことを再確認させられたように感じました。
(逆に言うと、極論を言う人は、概ね教養がないと、個人的には踏んでいます。偏見ですし、これも極論かもしれませんね。読書が足りない、かも知れない。)

話は少し変わりますが、暇つぶしをするのに、紙の辞書は大変便面白いです。
どう面白いかというと、関心のない言葉に出会えるという点が大変面白い。
デジタルではピンポイントで言葉を調べますが、紙だとその隣の言葉なんかもつい見てしまう。
これが素晴らしい。
ラジオで突然素敵な楽曲に出会うというのと似ています。
まだまだ紙媒体の良さっていうのはなくならないでしょう。

ちなみに私の辞書使用状況は以下の通り。
職場→新明解国語辞典、広辞苑
自宅→三省堂国語辞典、電子辞書
(家にはネットがないので、電子辞書は大変助かります。)
ゆくゆくは職場に『ベネッセ表現・読解国語辞典』を、家には『語感の辞典』と『基礎日本語辞典』を置きたいなあと思います。



あとは、言海。これはいずれ欲しい…


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【読了】AI時代の新・ベーシックインカム論(井上智洋著、光文社新書)

先日の記事『【読了】ルポ 中年フリーター(小林美希著、NHK新書)』でも引用をした『AI時代の新・ベーシックインカム論』を読みました。

めちゃくちゃおもしろい本でした。

まずは経済の話から入り、AIの今後に触れ、ついで政治的な思想に移り、最後はVR技術で締めくくるという構成。
非常にテーマが広く、かつどの項でも易しく、わかりやすい表現で説明がされており大変勉強になりました。
読んでみると、BIの導入は当然のように思えてきます。
著者の予想では2030年頃には汎用AIができ始めて、BIが導入されないならディストピアになりかねないと警鐘を鳴らします。
また、BIが導入されないと、消費がダメになるため、結局は経済が立ち行かなくなるとも主張。
要するに、BI等のバラマキをするしかないという結論になるということを説明していました。
2030年に失業か…と思うと、真面目に働くのがもう馬鹿らしいことのように感じてしまいます。
でも、著者の主張は笑ってしまうくらい肯定できます。
私もまた、リバタリアンでリベラリストなのかもしれないなと感じました。

あまりにも面白かったので、①貨幣制度、②AIの発展、③VR技術の3項目について、別途思ったことなどを書ければなぁと思います。
本書を簡単にまとめると、①により財源の確保は問題ないどころか、財源確保を行うためにもバラマキが必要だと主張します。
②によって雇用がなくなることを示し、BIが導入されるだろうと論じます。
導入には、「儒教的な道徳観」から派生してくる暗黙のルールが邪魔をするだろうと予想。
最終的にはBIの導入により人々はより人間らしく生きることができるだろうとまとめるかと思いきや、③の出現によって、人間の営みとは?という問を立てて幕が閉じます。
AI、BI、VRの導入で、これまでに実現しなかった優しい世界ができるかもしれないけど、それってどうなの?という問ですね。

少し方向はずれるかもしれませんが、どんどんと『素晴らしい新世界』(ハックスリー)の世界観に近づいているように感じます。
(そのうち発生も管理されるかもしれません)

また、「無知のヴェール」などの話を読むと、自分の人生も「たまたま」の上に成り立っていると理解でき、他の人に対して少し優しくなれる気がしてきます。

押し付けがましいところのない、素敵な本だと思いました。





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【読了】ルポ 中年フリーター(小林美希著、NHK新書)

『ルポ 中年フリーター』(小林美希著、NHK新書)を読みました。



序盤、胸が痛くなる話が多いですが、最後には希望の光が差すという構成でした。
今後は少子化ですし、人材の確保が難しい時代になることが予想されるわけですが、こうした流れで中年のフリーターの方たちの可能性が明るいものになればいいなと感じます。
(移民の政策が進まなければの話ですが…)
しかし、前半の重さと言ったら…そこには”THE貧困”があぶり出されていました。

レールから外れると、もうレールには戻れず、かつ、ほとんど即貧困につながる流れが、取材を通じて見えてきます。
どう考えてもセーフティネットが機能していないと思わざるを得ません。
(本書では、アクセスに問題があるのか、法律・行政の運営に問題があるのかは触れていません)
この辺を知ると、ベーシックインカムの導入が本気で期待されます。
ベーシックインカム関連の本を読みたいと感じました。

また、あまりにも理不尽な働き方や生活を強いられているケースもあり、とても胸が締め付けられます。
自分はたまたまいい仕事につけたように思えます。
そしてそのことが少し後ろめたく思われるほどです。

『AI時代の新・ベーシックインカム論』の著書である井上智洋さんは、同著の中で以下のようなことを記載しています。
(私は大いに賛同するため、長めに引用させていただきます)

そう考えると、今、私がニートやホームレスではなく大学教員でいられるのは、究極的のところ偶然にすぎない。そして、私だけでなく、今順調な人は人生を歩んでいるという人は、等し並に運がよいのではないだろうか。(中略)人は、病気や障害、高齢、失業など様々な理由で貧困に陥る。純粋に労働意欲がなく怠けるというケースも中にはあるかもしれない。だが、勉強意欲や労働意欲がないことも、広い意味ではハンディキャップとはいえないだろうか? そうした人たちにも、生きる権利があってしかるべきではないだろうか? 生まれる前にまで遡行すれば、自分がホームレスになる人生を歩んでいたという可能性を私は全く否定できなくなる。その可能性に思いを馳せたとき、「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」が保証された社会であって欲しいと願わずにはおれない。
本当にそのとおりだなぁと思います。
たまたま、自分は今の状況にありますが、そうでない可能性もあったわけです。
そう考えると、この社会でのうのうと生きてこれたことがなんだか綱渡りをしてきたように感じられます。

安定ばかりを求めては行けないと、おじさんたちは言いますが、こういう本をよむと安定こそ一番大事と思えてしまいます。
エイベックス社の社長が言う「安定しているからこそ、付加価値を生むことができる」という言葉は印象的でした。

個人としては、人とうまくやり、少しでも他社の成長に貢献できるように慣れればなと、薄っぺらい気持ちをつのらせています。

また、やはり子どもには、安定を求めてほしいなぁと感じます。
そして、その事自体は、親としては寂しくもあります。
叶うならば、ベーシックインカムのようなセーフティネットの充実した社会で、本人の希望に沿った生き方が選べればなぁと思います。

仕事の有無にかかわらず、その人の尊厳を保てる仕組みがあるといいなぁと心から願うばかりです。



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辞令交付式への違和感(みんなよく参加するなぁ)

 今日は4月1日。  我社では辞令交付式が行われました。  そのため、土曜日ですが、人事課員として出勤しました。  明日も仕事なので、12連勤となります。   人事課の闇ですね。  それはさておき、辞令交付式に関して、毎年違和感を持ちます。  それは、お礼を言われる側が、何故かホ...