氷川清話(勝海舟、講談社学術文庫)


氷川清話』(勝海舟、講談社学術文庫)を読みました。

夢酔独言』に引き続き、『困難な成熟』(内田樹、夜間飛行)で紹介されていた一冊です。
参考:夢酔独言(勝小吉、講談社現代文庫)

面白かったです。
勝海舟って、こういう人物だったんですね。
昔読んだ『武揚伝』(佐々木譲、中公文庫)では、ちょっと痛い感じで書かれていましたが、最下級の武士から直接将軍より幕府の後処理を任せられるまでに上り詰めた男としての貫禄というか、凄みみたいなものが本書からは感じ取れます。
視点がすごく高い。
それでいてシンプル。
おそらく、自分のダッシュボードの大きさをよく理解していて、そこに載せるべき要素の取捨選択に抜群の才能があったのだと思います。
そして、そこに父・小吉から引き継いだかはわかりませんが、胆力というものが備わったことで、このような人物が生まれたのでしょう。
本人は、剣術と禅のおかげと言っていますね。
あとは、戦が人を育てるとも言っています。
また、そういう意味では、今後人物が出てくる、ということもなかなか期待はできないということも話していました。
(この辺のことを、今読んでいる幸徳秋水の『帝国主義』(岩波文庫)は全面的に否定していますが、その幸徳秋水の書きぶりの痛快なことと言ったらありません。メッタ斬りです)
でも、そんなにこんな人間がホイホイ出てくるもんではないですよね。
だって、こういう人が他にいないから、勝海舟が幕府の後処理役になってしまっているわけで、そう考えると、その状況に適当な人物をしっかり表舞台に出す機能を維持しているのかどうか、ということのほうが重要な気がします。
そして現代においてそれができているとは思いませんが、明治維新30年の時点でもすでにそうだったようだ、というのが本書を読んで面白かったことの一つです。
父・勝小吉の本もそうでしたが、本書においても、気がつくと江戸の町中や明治の小さな座敷にタイムスリップしており、楽しい時間旅行できました。

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本書には、所々「爺の僻み」みたいな箇所もあります。
本人は政局などを「蚊帳の外」から見ているわけですから、もどかしさも多分にあったのでしょう。
それは、自分がその中心にすでに行けないことを知っているが故のもどかしさでもあると思います。
(役職定年になると、そういう気持ちになるのかもしれません)
だから、現役の議員や一部の人達からは(本人も言うように)「爺が何をいってやがんだい」というようなことにもなってしまうのでしょう。
聞いている側も「爺さんそりゃおかしいぜ」「そりゃいいすぎってもんだ」と感じる部分の散見されます。

ということで、なんとなく、本書は、おじいちゃんが死んだその葬式で、たまたま待ち時間に同じ机に座った親戚のおじちゃんから聴く昔話みたいな感じがあります。
話し方も面白いし、人のつながりとかが面白いから、なんか聞き入っちゃうんだけど、時々事実誤認や自慢話が織り交ぜられて、終いの方は少し説教臭くなっちゃう、みたいな。

それでも、人とのつながりって言ったて、あの西郷やら大久保やらですから、そんじょそこらのおじちゃんとはスケールが違いますね。
上の二人のほか、いろいろな方に対する人物評も、なかなかおもしろい。
「へぇ、そういう見方もあるのね?」という感じで勉強になります。
(横井小楠をえらく評価しているので、今度関連書籍を読んでみたいと思いました。)
あと、話しを聞いて(読んで)いると、西郷は非常にスマートな印象で、上野公園の銅像のイメージが崩れてきます。
(私の中で、もっと細身のイメージが強くなりました)

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また、本書からは、反知性主義の匂いも感じられました。
それは、おそらく勝が現場主義だったからでしょう。
世の中には、時勢があり、現場主義の時代と、知性主義の時代が行ったり来たりするのだと思います。
令和の今は、どっちなんだろう、もし現場主義の時代なら、勝の生きた時代のような、「社会に活かす知」を渇望する若者をどんどん登用する制度が必要でしょう。
(今はどちらかと言えば「自分を活かす知」が重用されている気がします)
でもそれは、ちょっと違う気もする。
もちろん、上昇志向の若者を積極的に登用することがだめだと言っているわけではありません。
(上昇志向の若者がどんどん登用するほどいるかは怪しいところですが)
多分今勝が生きていても、うまく必要なところには登用されないような気がするのです。
そういう制度になっているように思うのです。
それは、勝がこのような人物ではなく、腹黒く、卑しい性質を持っていたと仮定すれば、仕方ないことな気がします。
傑物がそのポストに収まるという前提で作られる制度なんて、とてもではないけど私は恐ろしくて信じられない。

とはいえ、そんなこんなで、勝や西郷のような人物は完全に駆逐されてしまった。
そして多分、私達みんなが、それを望んだのだと、本書を読んでそんなことを思わされました。
そこに2つの問が浮かんできます。
「それは悪いことなのだろうか?」
「悪いとすればどうすればいいのか?」
この2つの問は、しばらく頭の片隅で温めて置きたいと思います。

   

教育改革の幻想(刈谷剛彦、ちくま新書)




教育改革の幻想 (刈谷剛彦、ちくま新書)を読みました。
面白かった。
ドラスティックな改革は不利益を生むことが多いんだろうね。
改革なんてやめた方がいい。
現場が実践する、小さな改善の積み重ねが大事です。

本書は、2002年4月から施行された新学習指導要領に対してその政策の良し悪しを、いろいろな角度から書かれた本です。
まぁ、ほとんど批判ですね。
もうちょっと分析と議論をしっかりやってよ、というのが本書の主張だと私は理解しています。

それにしても通読してみると、お上(役人)の頓珍漢なことといったら笑えてきますね。
しかも子どもを主人公にする教育については、すでにカリフォルニアで失敗例があることというのもなおさらおかしい。
いや、笑ってる場合ではないのですが。
ロサンゼルス・タイムズ紙に紹介された、カリフォルニア大学のエンバス教授はその失敗について、こんなことを言っています。
「私たちは、学校を子どもたちにとってより有意義で、より楽しい場にするための努力をしてきた。その中で、知識を暗記するとか、つづりと発音の関係を教えるためのドリルとかは、『退屈』な活動としてカリキュラムから消されていった。しかし、たらいの水と一緒に赤ん坊も流してしまったようなものだ。学習には、必ず、むずかしいことや、楽しくはないが大事なことも含まれているのだから」(著者抄訳)
「水と一緒に赤ん坊を流しちゃう」という比喩は言いえて妙です。
考えるのにも、材料としての知識がないと考えられないというのは、いかにも当たり前のことで、反論の余地はないように思えますが、実はこの問題が程度の問題であるというところに一番の問題があるのです。
程度の問題ということは、結局個人のレベルにどこまで合わせてあげようか、という問題で、明確な答えなどない。
だから、議論が進まない。

しかも、学ぶ子どもたちにも個人差もあるので、「みんながわかる」という極端なレベルを設定してしまうと、勉強ができる子は自分でどんどん知識を仕込んでいくでしょうが、勉強が苦手な子はそれが全然できなくなるわけですね。
だってそもそも何を仕込めばいいのかもわからないし、やる気もないんだから。

そもそもの話になってしまいますが、私は、教育で個人を変えることができるというのが幻想のように思います。
また、個人の本質的な性格は変わらないという前提に立って教育をした方がいいと思います。
知識を授けるのはできても、主体性をはぐくむ(望ましい性格を持たせる)なんてことは、たぶんできない。
(ちょっと曲解しているかもしれませんが、この辺については、安藤寿康先生の本を一度読んでみていただけると少しわかっていただけると思います。おすすめは、遺伝子の不都合な真実―すべての能力は遺伝である (ちくま新書)
様々な体験を通じて、本人が変わる可能性はあっても、それは人為的にコントロールできるものではないと思います。

だから、今一度、学校の役割というものを整理するところから着手したほうがいいのではないでしょうか。
「学校は豊かに生きていくための「知識」を得、「健全な肉体」を生涯にわたって維持するための手段を学ぶ場」、というのが私の案です。
うーん、でもこれだと結構いろんなことを勉強しないといけない気がしますが、別の人は「これだけならこれとこれの教科さえあればいいのでは」、という方もいるでしょう。
程度の問題とは、こういうことですね。
議論の余地ばかりあり、個人の感覚で議論すると平行線になる。
だからできるだけ個人の感覚ではない「研究などで調べた結果」を基にして決めていってほしいと思います。

あとは、程度の問題であるがゆえに、ある程度線を引いてあげないと、先生方の働き方改革も、モンスターペアレントの問題も、何も解決しないのではないかと思います。
教育に関心があって教員になっている先生が多いでしょうから、線を引かないと、どこまでも対応してしまい、全体としての教育の質が下がってしまうことも懸念されます。
(しかも、真面目な先生のほうが疲弊する可能性が高い)
とはいえ、教員だって玉石混交ということも前提にしておかなくてはまともな制度は作れません。
(教員の能力に100%左右される教育制度にも問題があると思います)

最後に、私個人の考えとしては、公教育は、あくまでも下の子を引き上げることに注力してほしいと考えます。
そうでないと、格差の再生産が起こって、近い将来、凄惨な社会を形作ることになりそうな気がしてしまうのです。
(まぁお金に物言わせて私立に入れちゃう家もあるでしょうけど)
「それではできる子は消化不良してしまうのでは」、という指摘もあるでしょう。
でも、できる子は、できない子を引っ張るように頑張ってもらうというのも、大切なことではないでしょうか。
そこを評価してあげられるようにしてはどうかなと思います。
(むしろそれが教育では?)
ただ、「じゃぁどうやってそれを評価するの?」と言われると、グーの音も出ないのですが…。

 

旧約聖書物語(犬養道子、新潮社)



旧約聖書物語』(犬養道子、新潮社)を読みました。
いやー面白かった。
旧約聖書ってこういう話だったのね、という感じ。
これは教養の書です。読んでよかった。
これを読んでおけば、欧米の人の名前の由来などもわかるし、キリスト教のベースもわかる。イスラム教のベースもわかる。
実際、著者も新約聖書とのつながりはかなり意識して書いたということでした。
次に読もうと思っている『新約聖書物語』も非常に楽しみです。
古事記物語(鈴木三重吉)』のユダヤ教版というと雑かもしれませんが、そんな感じです。
この本は阿刀田高の『旧約聖書を知っていますか (新潮文庫)』を読んだ際に参考文献として紹介されていたので購入したもの。
余りの分量に一度匙を投げたのですが、先日コーランを読み始めるにあたって再度本棚から出してきたのです。
(捨てなくて良かった)

阿刀田高の『旧約聖書を知っていますか』では「アイヤーヨ」(アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨゼフの頭文字)という言葉を覚えさせられて、それは本書を読むのにも役に立ちましたが、その大筋以外の各預言者の紹介だとか、名もなき家族の信仰の様子なども物語テイストで描いているところも本書の面白い特徴の一つです。
いやはや、非常に血の通った話ばかりではないですか。
3千年も前の話なのに、倫理的に「これは絶対おかしい」という点はあまり多くない。
むしろ周辺国のやり方の方が野蛮というか、蛮族というか、野性味の強い印象を受けます。
結局人間というのはそんなに変わらない、ということなのかもしれません。

ユダヤ教は砂漠や岩石に囲まれた不毛地帯だからこそ生まれた宗教だといいます。
そうですね、だからこそ「試練を与えるのも神」という視点がないと、生きていけない側面もあるのでしょう。
神も割りと理不尽だけど、それも含めて主の思し召しと思えるかどうか、というのが信仰だということでなのでしょう。
でも、それって結構厳しいですよね。
どこまでも果てしない、自分との戦いですから。
だから厳格な信奉者は人格的にも優れているという評価を得ることが多いのかもしれません。
立派な人というのは自分(欲望)を理性でコントロールすることができるということなのでしょう。
そういう意味では、どの宗派でも、尊敬を受ける人間というのは自分を律せる人、ということになるのかもしれません。

話は少しそれますが、内田先生が旧約聖書に関連することをブログに書いていたのでここでも紹介したいと思います。
http://blog.tatsuru.com/2009/06/18_1134.html
曰く、
ミスは「これが原因」と名指しできるような、わかりやすい単一の原因では起こらない。
「誰が有責者かを特定できない」からミスが起きるのである。
それは「私の仕事」と「あなたの仕事」のどちらにも属さない領域で起こる。
「オフィスの床に落ちているゴミ」を拾うのは「私の仕事」ではない。
私のジョブ・デスクリプションには「床のゴミを拾うこと」という条項はないからである。
だから、「私は『そんなこと』のために給料をもらっているわけではない」という言葉がつい口を衝いて出る。
そのような人たちばかりのオフィスはすぐに「ゴミだらけ」になる。
同じように、ミスは「誰もそれを自分の仕事だと思っていない仕事」において選択的に発生する。
「ジョブ」について書かれた印象深いテクストがある。
カインがアベルを殺した後、主はカインに訊ねた。
「あなたの弟アベルはどこにいるのか。」
カインは答えた。
「知りません。私は自分の弟の番人なのでしょうか。」(『創世記』4:9)
「私は自分の弟の番人なのでしょうか」とカインは言った。
「『私の仕事』がどこからどこまでなのか、それをはっきりさせて欲しい」というカインの要求を主は罰された。
「私の仕事」はその境界線を「ここまで」と限定してはならない。
それは信仰上の戒律であるというよりは、集団で仕事をするときの基本的な心構えのように私には思われる。

(私の仕事2009-06-18 jeudi)
我が行いを省みざるを得なくなるお言葉です。
とはいえ、なんとなく、欧米というのは仕事の範囲を決めて(ジョブディスクリプションを取り交わし)、それ以上のことはしない、というスタンスが一般的という印象を持っていましたが、旧約聖書のスタンスがこういう感じだとすると、案外そうでもないものなのでしょうか。
それとも新約聖書だとこの辺の概念はあまりないのかな。
砂漠での集団生活をしているわけでもないから、関係ないのかもしませんね。
となると、イスラム圏の方がこの思想を残しているのかもしれない…のだろうか。
現状、あんまりそういうイメージは持っていないけれど、調べてみたら面白そうな気がしてきます。
(あるいは、宗教は関係ないのかもしれませんが)

   

夢酔独言(勝小吉、講談社現代文庫)


夢酔独言』(勝小吉、講談社現代文庫)を読みました。

兆民先生』に引き続き、『困難な成熟』(内田樹、夜間飛行)で紹介されていた一冊です。

いやはや、とんでもねぇ野郎ですよ勝小吉(夢酔)さん。
クレイジーすぎるだろ。

正直いえば、言葉遣いなどが現代とは少々ちがっていて、何を言っているのかわからない箇所もいくらかありましたが、ぶっ飛び加減は嫌でも伝わってきます。
いやだって、この人どう考えても、カタギではないよね。
間違いなく、その筋の人ですよね?
大物、なんだろう…か?
いや、まぁ大物なんだろうなぁ…。
7歳で喧嘩に負けて切腹しようとする子どもはあんまりいない(否、聞いたことない)ものね。
(14歳で8ヶ月乞食しながら旅をする子どももそういないでしょうし、その上もう一回逃げるように旅に出て座敷牢に入れられる青年もあまりいないでしょう)
そしてその精神を40才近くまで持ち続けるんだからなかなかいるわけない。
(いや、江戸時代にはそこそこいたのか?)
それでいて、「俺を真似しないようにくれぐれも気をつけろ」だからやっぱりとんでもない人ですよ。
奥さん、大変だったでしょうね…。

ーーー

本文を読み終えて、年表を見てみると、初見なら絶対に「え?」となりそうな出来事も、あぁこういうことだったのか、と穏やかに読めてしまうから不思議です。
いや、その年表に記載されている内容も、とんでもなことばっかりなんですけどね。

本文はなかなか読むのがしんどい感じの流れとなっていて、そのたどたどしさがまた無骨というか無頼というか、読者に媚びない感じを出してる気がしました。
だから悪いやつなのに、時々、ちょっといいやつ?なんて思ったりしてしまうこともある。
(まぁ実際いいことしているときもあります。映画版のジャイアンみたいなかんじですかね。親分って感じです)
それから、読んでいるとなんとなく江戸時代に来ちゃったような感じがします。
内田先生が『困難な成熟』でいう、グルーヴ感というのは、上のように読んでると「意識が時間・空間を超えちゃう」ということを指しているのかななんてことを思いました。

江戸っ子というにはあまりにアウトローすぎて江戸の人に失礼なんでしょうけれど、江戸っ子っぽい(と私が思っている)両津勘吉をもっと悪い方に持っていくとこういう感じになるのかな。

ーーー

解説を読むと、こんな父親を持ったことで、息子勝海舟も小さい頃は癇癪持ちとして知られていたとの記載がありました。
勝海舟については、せっかく『氷川清話』でいいイメージができていたのに、また残念な感じになってしまった。
(とは言え、いろんな見方があるでしょうから、しょうもない人と断定することも控えましょう。)

ーーー

個人的に心に残ったのは、ある老人の言葉。
「世の中は恩を怨で返すが世間人のならいだが、おまへは是から怨を恩で返して見ろ」
素晴らしすぎて歯がゆいくらいですが、夢酔はこの言を受けて「なるほど」とその通りにして色々なことがうまく回るようになったそうです。
「んなあほな!」と思いながらも、なんとなく微笑ましく読めてしまうのが、夢酔さんの魅力の一つなのかなぁと思いました。
キャラですね。

会社を変える分析の力 (河本薫、講談社現代新書)


会社を変える分析の力 (講談社現代新書)

『会社を変える分析の力』を読みました。
時々業務で分析を行う私には、大変面白かったです。

ポイントは、技術よりも感性という点です。
やっぱりクリエイティブでないとだめということですね。
小手先の技術だけなら、だれでもできる。誰でもできないことをやっていかないと、プロフェッショナルにはなれないし、会社を変える分析にもならない、ということをずーっと書いていた。
反論の余地はありません。
そして、指摘はいちいちためになります。
今後私も大学関係者として色々な分析を担当することになるかもしれないので、そうなったら座右の書になるでしょう。
「その分析がうまくできるとどうなるのか?」これを問い続けて業務に当たらなくてはなぁと思いました。
とはいっても、意思決定を行う人にも影響されるのが痛いところ。
プロフェッショナルは、そこもクリアしてこそなのでしょうけど、それはなかなかヘビーな仕事です。

さて、本書は、分析を中心として書かれていますが、本書の指摘は、何も分析だけに限定したことではないと思います。
本書の「分析」という言葉を「仕事」という言葉に置き換えても何ら齟齬は生じないと思われます。
例えば、
・成果を見据える
・トライアルアンドエラー
・オリジナリティ
・コミュニケーション力
・シンプルイズベター
などなど、いずれも分析だけでなく、あらゆる仕事に必要なことのように思います。
そう考えると本書はいたって平凡な内容という評価もできるかもしれませんが、読んでみると著者のこれまでの経験をもとにそれらが再構築された上で話が展開されるため、非常に腑に落ちやすい印象を持てます。
そこら辺のビジネス書とは違い、挫折と苦労の形跡が見えるのもいい。
多分この方、文章がうまいんだね。
そして、おおよそ文章がうまくないと、分析結果を相手に飲み込ませることなどできないのでしょう。
著者もとにかく文章を書けと指南しているように、相手にもわかる文章を書くということを常日頃やっていることが、仕事にも役立つし、役立つからまた書くし、といういいサイクルを生み出しているのでしょう。
また、いいこと言っているなぁと思ったのは、書くことで自分の考えが整理されていく、また、理論の綻びも見つけられるという指摘です。
たしかにね。
考えを書くというよりは、書いたことが自分の考えになる、というのに近いのかもしれません。

世の中全体がIT・データサイエンスという方向に向かいつつある今だからこそ、分析にあたっての心得を整理した本書は、ぜひ多くのひとに読まれるべき一冊だと思います。



ーーー


データサイエンス入門 (データサイエンス大系)は、なかなか読みやすかったです。
本当に基本のき、という感じ。
会社を変える分析の力も、本書の中で紹介されて読んだものです。
実務的な話に興味がある方は、下の本もおすすめです。

ただし、少し進めてみるとわかりますが、「どう分析するか」よりも「何を分析すれば、何がわかりそうか」という問いを立てることのほうが重要です。
ツールはどんどん進化していますから、統計の知識なんてなくても解析ができる時代になっています。
だから、問いを立てる力(課題発見能力)が必要なのですが、それはやっぱりいろいろなアンテナをはって(コミュニケーション能力、クリエぃティビティを発揮して)、日々の業務に取り組むということが大事なのかなぁと思います。

兆民先生(幸徳秋水、岩波文庫)

以前読んだ『困難な成熟』(内田樹、夜間飛行)で紹介されていた一冊である『兆民先生』(幸徳秋水、岩波文庫)を読みました。
すごく丁寧な書簡を書く人だなぁというのが私の持った兆民先生の印象です。
通読すると、いかに秋水が師を敬っていたのかよく分かるし、兆民は兆民で一人の人物として秋水を見ていたことも分かります。
師弟関係の素敵なモデルと言えるでしょう。
おそらく内田先生もこの師弟モデルを伝えたかったのだと思います。

それにしても兆民先生はすごい人です。
自分の哲学をどうにか世の中において実践し、社会を変えようと努力した行動派の哲学者です。
世界15大哲学』(大井正、寺沢恒信、PHP新書)においては、唯一の日本人の哲学者として、それも「実践する哲学者」「真の哲学者」として紹介されています。
氏の哲学としては、唯物論がメインで、精神は肉体に宿るのだから、肉体が朽ちれば精神もなくなると考えていたそう。
霊も神も信じない、という立場。でも、物質は永遠不変、ということでした。

「釈迦耶蘇の精魂は滅してすでに久しきも、路上の馬糞は世界とともに悠久である」

皮肉が効いてますね。

ーー

兆民は、勝海舟を人物だと認めています。
実は内田先生が『困難な成熟』の中で進めている別の本に『氷川清話』(勝海舟、講談社学術文庫)という勝海舟の談話集が入っており、現在それも並行して読んでいたので感慨深い気持ちになりました。
色々つながって面白い。
勝海舟という人物は、以前読んだ『武揚伝』(佐々木譲、中央公論社文庫)などの榎本武揚関連の書籍では口達者の成り上がりみたいな扱いをされていたので、私の中でイメージが大分変わりました。
いやはや、『氷川清話』を読んでいると、明治の重要人物たる豪傑さです。
また別の機会に書きますが、それにしてもなんで生き延びたんだろうねこのひと(勝海舟)?って感じです。

で、実はもう一冊『夢酔独言』(勝小吉、講談社学術文庫)という本がありまして、これも『困難な成熟』で紹介されている本なのですが、これを読むと勝海舟の豪傑さの由来がわかる気がしてきます。
勝小吉は、勝海舟の父親で、その父親の気質が少なからず受け継がれたと言っていいでしょう。
(遺伝学的にはなんとも言えないけど、そう考えたくなる無骨さが『夢酔独言』にはあります)

ーー

世界15大哲学』によると、兆民は、(革命家のような)実践的な性質と(理学研究者のような)観照的な性質を兼ね備えており、その2つを媒介するニヒリスティックな性質も持っていたそうです。
世界15大哲学』ではそのことを
「われらは、これ、虚無海上一虚舟」
という言葉に見ます。
かれの哲学観にわれわれがみいださざるをえなかったあの観照的な一面の素性もしれるであろう。また、それがそのままではただちに変革的実践にむすびつくことのできぬものであり、むすびつくためにはニヒリスチックなものないし観念的なものを媒介とせねばならなかったということも。
そして、このニヒリスティックないし観念的なもの、弟子の幸徳秋水に顕著に引き継がれたという。
となると、じゃぁその幸徳秋水ってどんなひとだったの?といえば、大逆事件で死刑にあっているようです。
ウィキペディアをみると、かなり肝の座った記者だった様子。
Kindleの無料本がいくつかあったので、近々読んでみたいと思いました。

死刑の前』を少しだけ読みましたが、すごい観照的だなぁという印象。
自分の死刑の直前なのにこんなこと書いとる場合なのか…?。

「赤星孝と赤星信子展」と「第29回福岡県中学校美術展」@福岡県立美術館

福岡県立美術館に行ってきました。
https://fukuoka-kenbi.jp/
(〒810-0001 福岡市中央区天神5丁目2-1 TEL 092-715-3551)

今は、「赤星孝と赤星信子展」が開催されておりました。
夫婦で絵描きという赤星夫妻は、生前共催で展覧会を開くことがなかったのを、同館が企画し夫婦のコラボレーションを図った展覧会です。
いいなぁと思ったのは、

・「自画像」赤星孝
全体的に影が多く、すごく渋い感じが良いです。怪しい雰囲気。だけど力強い。葉巻とバーボンが似合いそう。ダンディー。

・「シシ」赤星孝
画面いっぱいに2頭の獅子。四角で作られたその獅子は、無機質なのに、コミカルな感じ。止まっているような、でも動いているような、不思議な感覚です。直線と直角が多いので、口などに使われている曲線が目立つ。そのチグハグさが独特な愛らしさを醸し出しているのかもしれない。

の2つです。

両氏とも、抽象画が多く展示されていて、一体何を表したいのか、観る者に委ねているような作品が多い印象でした。
だから、よくわからない。
でも、それもいいものです。
その「よくわからない作品」は、作者にとっては完成品としての作品なのだから、私たちはその作品を見て「何を表したかったのか」を問えばいい。
答えはもちろんないのですが、「ひょっとして?」なんて考えるのも面白いし、「やっぱようわからん」でも別に何も減りません。
特に赤星信子氏の作品は、キャンバス一面を赤く塗って、その赤の塗りの厚さで「何か」を表現していたように見受けられました。
一体何を?
結局それはわかりませんが、このもやもやがなんとなく楽しい。
まぁこういう楽しみ方が楽しいから私は美術館に行くかもしれません。

ちなみに、こういう楽しみ方は本でもできます。
例えば、佐藤亜紀さんの著作を読んでみてください。
多分少しだけ私の言いたいことがわかっていただけると思います。

ーーー

同館では同時開催で「第29回福岡県中学校美術展」も行われていました。
もちろんこれも見ていくつもりでした。
ただ正直こちらはあまり期待せずに同館に来たのですが、その期待はいい方向に裏切られました。
めちゃめちゃおもしろい。中学生レベル高い!
特に目を引いたのはガラスアートやスクラッチアート。動物の毛やサメの肌をものすごく繊細に再現していて、惚れ惚れしました。
こういう作品があった事自体、初めて知り、大変勉強になりました。

また、有名な絵画(例えばゴッホの「ひまわり」など)の贋作というか、模写のようなものも多数あったのですが、「なるほどそういう解釈もあるのか!」というような色使いやデフォルメ、加工などがされており、これまた刺激的でした。
別の歌手が歌った好きなアーティストのカヴァー曲がなかなかいい!でもそれ聴くと原作も聴き返したくなっちゃう!みたいな感じでしょうか。原作の違う側面が強調されるような、そんな不思議な感覚を覚えました。
(宮崎あおいの歌うソラニンみたいな感じです。)
他にも、細かいのですが、立体構図を描いた作品に付した作者自身のコメントなんかも非常に味があり、中学生ってこんなこと考えてるんだなと、年寄りみたいにしみじみ感じ入ってしまいます。
いいよ、すごくいい。すごく楽しい。

全体として、技術が高いわけではありません。
そして、展示されている作品すべてが素晴らしいと感じたわけでもありません。
殆どの作品は、別に誰かに何かを感じさせることもなく、この展示を終えるのでしょう。
しかし、これらの作品を作っている時間というのは、本人にとって、非常に豊かな時間になっているんじゃないかな、とそんなことを思わされました。
「なんのため」「何に役立つ」そういうことを無視した純粋な表現の楽しみのようなものを感じます。
展示の質、量、共に、無料で見ちゃ申し訳ないレベルといっていいと思いました。
なかなかどうして、中学生も侮れません。

ーー

佐藤亜紀さんはどの小説を読んでも「意味わからんのに面白い」「全然話についていけないのに読み進めるのをやめられない」という体験をさせてくれる、私にとって最高の作家さんです。
その中でも『天使』は割りとわかりやすい方な気がしますので、皮切りにぜひ。

辞令交付式への違和感(みんなよく参加するなぁ)

 今日は4月1日。  我社では辞令交付式が行われました。  そのため、土曜日ですが、人事課員として出勤しました。  明日も仕事なので、12連勤となります。   人事課の闇ですね。  それはさておき、辞令交付式に関して、毎年違和感を持ちます。  それは、お礼を言われる側が、何故かホ...