【読了】「官僚とマスコミ」は嘘ばかり(髙橋洋一著、PHP新書)

『「官僚とマスコミ」は嘘ばかり』(髙橋洋一著、PHP新書)を読みました。

この作品は、先日『AI時代の新・ベーシックインカム論』(井上智洋著、光文社新書)を読んで、財務省がHPで堂々と国民をミスリードしようとしていることに衝撃を受けて手に取りました。
国家レベルの虚言(AI時代の新・ベーシックインカム論から①)

本作で種明かしされるのは、官僚がいかにしてマスコミをコントロールしているのかです。
それに付随して、コントロールされてしまうマスコミとはどんな人たちなのか、ということも書かれていました。
なんとなく、記者というと、ジャーナリズムという高い志を持った、知力・体力・気力に活気あふれる人種というイメージがありますが、本書で語られる記者は知識がなく、数字が読めず、官僚の言いなりという姿が描かれています。
また、新聞やテレビというメディアは、法律に守られている存在であることも明らかにされます。
どんなふうに守られているかは、著者のWeb記事をご覧になってください。
こんなんでよく世の中のことが批判できるなというふうに思ってしまいます。
新聞テレビが絶対に報道しない「自分たちのスーパー既得権」(講談社現代ビジネス)

その他にも、例えば「フィリップス曲線」という金融政策を実施する上でインフレ目標を決める道具も紹介されていました。
インフレの状況は、常に失業率と関連して説明されるのが海外では当たり前で、インフレが進んでも、フィリップス曲線に当てはめてみて、失業率がまだ下限に達していないのであれば、金融政策を緩めてインフレに進めればいい、ということが自動的に決められるという便利な道具です。
ちなみにこの失業率の下限の始まりの場所(最小のインフレ値)をNAIRUという言うそうです。
(豆知識です)

つまり、新聞等でよく聞く、インフレ目標2.0%と言うのは、日本におけるNAIRUを目指しているわけですね。
なんで2.0%と思っていましたが、根拠があったのです。

また、著者も井上氏と同様、「財政再建には反対」の立場を取っておられます。
結局バランスシートで考えたときに、日本の財政は諸外国と比べても、そんなに悪いわけではなく、アメリカと比較しても健全で、むしろもっと積極財政を行わないとダメだとの主張です。
なお、外務省も、外国で国債を売るときには、バランスシートを使っているようです。
いかに健全なのかを伝えないと、買ってもらえるわけありませんもんね。

こうして考えると、果たして新聞とは?テレビとは?と思ってしまいます。
一次情報にアクセスしやすくなった今の社会で、報道機関とはどういう役割が求められているのかを改めて問われる必要がるように思います。
ぜひともメディアに市場経済の原理を働かせていただき、第四の権力として、既存の権力に鋭いメスを入れていただきたいと思います。
そのためにも、広く浅い記事ではなく、「経済なら〇〇新聞」「教育なら〇〇新聞」「政治なら〇〇新聞」というように、個性を強めていってほしいと思います。
そうすることが、官僚との間に緊張感を生むことにもつながるでしょう。
私は新聞を購読していませんが、そんなふうになったら私も何か購読するかもしれないなぁと思います。

いろいろな見方をする必要がありますが、自民党も、官僚も、いいところとだめなところがあるということを感じます。
極端はあまりないようです。
マスコミが盛大に何かを報道するとき、だいたいは裏にマスコミの思惑がありそうです(例:モリカケ等)。
また、本書を読むと、安倍政権は経済政策においてまともだという印象を持ちます。
実際はどうなのか、私には結論が出せませんが、少なくとも雇用は回復しているし、経済政策も誤ってはいない感じ。
賃金上昇という目に見える効果が出るのは、どうもこれからのようです。

それから、官僚も有能な人が働いてくれているのだろうな、と少し安心しました。
なんとなくドラマなどの影響なのか、官僚と政治家は悪いやつばかりというイメージがありましたし、また、本書の中でもしょうもないのもいるような描写もありました。
しかし、それもやっぱり極端な話で、殆どの人は誠実に働いているんだろうなぁと思わされます。
じゃなきゃ、とっくにもっと大変なことになっているように思われます。
(とはいえ、消えた年金問題なんかのように、大変なことになっちゃった例もありますが…)

最後に、昨今の研究への助成に対する「選択と集中」についても、非常に珍しい理系出身の財務官僚として、疑問を投げかけています。
結局研究とは博打で、ハズレは多いが、当たればすごいことになる。
どのくらいすごいかというと、ハズレを全部取り戻してあまりあるくらいにすごいことになる。
ところがどっこい、(選択と集中をすると言っても)当たるかどうかは、やってみないとかわからない。
だから、投資と考えるべきだ、という論ですね。

これは、教育に関連する仕事をしている人間としては、非常にありがたい気持ちと、そのとおりですよね、という共感の気持ちがわきます。

研究とは、長期にわたるものです。
そして、成果が出てくる可能性は未知数です。
でも、それをやらなければ、革新的な技術発展はありえない。
であるならば、未来のために投資をしようという発想は、至って当然の発想であるように思います。
「明日の便利より、今日の飯」という状況の方ももちろんいるでしょう。
しかし、国の方針として、やはり未来の世代のことにも思いを馳せて予算を分配してほしいと思います。
そして、それは理系の技術的なものだけではなく、文系の文化的なものについても同様に発展と保存を目指して、支援をするべきではないでしょうかーー。

と、そんなことを思ったのでした。

【鑑賞】尾形光琳と燕子花図@根津美術館

【聴講】燕子花図と洛中洛外図(奥平俊六さん)@根津美術館
の続きです。


さて、講演後には、改めて展示を拝見いたします。
お目当ての『燕子花図屏風(かきつばたずびょうぶ)』(国宝、根津美術館蔵)ですが、六曲一双の屏風を生で見ると、やはり違います。

金のグラデーションにのっぺりとした質感の燕子花が並んでいるだけなのですが、よく見ると青の色も花弁ごとに違うんですね。
(帰って本で確認すると、たしかに違ってましたが、気づきませんでした)
また、他の作者の燕子花を題材にした作品と比べると、燕子花の花弁が随分ぽっちゃりと強調されていることもわかりました。
とてもアンバランスな感じなのに、調和が取れているようにも見えるのが不思議な感じ。

こういう地が金の作品は、印刷や画像と現物では受ける印象がだいぶ違いますが、本作も同じ印象でした。
また、サイズが思っていたよりも大きく、現物を見ていると屏風の中に没入している感じがしてきます。
(奥平先生いわく、本作は伊勢物語の在原業平が「かきつばた」の歌を読んだ時に見ている燕子花をイメージしているとのこと。見る人を、在原業平にさせようとしているのではないか、というような話をされていました)

本展示の、もう一つの目玉である『洛中洛外図(根津本)』も見てきましたが、これは大変おもしろいですね。
前の記事でも書きましたが、これを見ながら京都巡りを是非したいと思いました。
なぜデジタルデータを公開してくれないのでしょうか。
デフォルメしたものをショップで販売してほしい!
他にもお伊勢めぐりの絵もありましたが、こちらも販売してくれ!

他の作品としては、光琳のお父さんの作品なんかもあります。
光琳はお父さんも芸に通じていたのですね。
弟も焼き物をやっているし、芸術一家だったようです。
また、光琳の周辺の人の作品も多く展示されていました。
全体としての展示は多くないことから、光琳自体の作品は割合としては少なめな印象です。

常設展では、茶器や箱も展示されており、日本人の生活品への芸術意識がどんなものであったか垣間見ることができます。
よく日本人が独創性のないコピー民族だという考えは、多分戦後の高度成長期以降のことなのではないでしょうか。
こんなに芸術が庶民にまで広まっている国はないのではないでしょうか、と思えてしまいます。
(浮世絵なんかがいい例ですよね)

根津美術館は、建築物としても、非常に洗練されていました。
根津美術館は、閉館が17:00のため、講演を聞いたあとではあまり鑑賞する時間が長くありません。
従いまして、できれば午前中に展示を鑑賞し、カフェで昼を食べ、庭を散策した後に講演を聞くという流れが良さそうです。
次はそのようなスケジュールでお邪魔したいと思います。
(家で相談したら連れに怒られそうですが…)

【聴講】燕子花図と洛中洛外図(奥平俊六さん)@根津美術館

東京の南青山にある「根津美術館」で開催されている「尾形光琳の燕子花図」に行きました。
根津美術館
初めて根津美術館にお邪魔しましたが、庭が広いんですね。
庭の池にはたくさんの燕子花が育っており、4月下旬から5月上旬にかけて見頃になるのだとか。
そのタイミングで来ればよかった。
場所柄か、外国人の観光客も多かったです。
おいでになる方は、庭の散策も含めて、時間に余裕を持っていかれることをおすすめします。

一面の燕子花。咲いてるときに来たかった…。
さて、お目当ては『燕子花図屏風(かきつばたずびょうぶ)』(国宝、根津美術館蔵)ですが、その前に、イベントに参加しました。
イベントとは、大阪大学名誉教授の奥平俊六先生による「燕子花図と洛中洛外図」という講演のことです。
無料ということもあって、初めてこうした美術関連の講演会に参加しましたが、定員130名の会場は満席で、大変な賑わいでした。
皆さんメモを取りながら熱心にメモを取られています。
奥平先生が燕子花図のモチーフのところで、「から衣 きつつ慣れにし つましあれば はるばる来ぬる たびをしぞ思う」をうっかり失念してしまったときなど、聴衆から返答があって驚きました。
皆さん大変造詣が深いようでいらっしゃいます。

奥平先生の話は、大きく(1)「燕子花図」、(2)「洛中洛外図」についての講演とレジュメにはありましたが、ほとんど燕子花図パートについての話で、しかも燕子花図はあくまでも導入で、「藤袴図屏風」についての話に多くの時間が割かれていました。
そもそも、この時代の美術作品においては、能=謡曲の概念が非常に重要で、様々なモチーフが謡曲に存在し、そこから絵画に表現されたと言うことを伺いました。
藤袴図屏風についても、モチーフは謡曲にあり、かつ当時起きた紫衣事件を通じて表現したかったのではないか、というような話をされていました。

この話のポイントとしては、画家にこうした謡曲の知識やそのモチーフを風刺だったり、時代のイベントにつなげるということを、画家が単独でやったわけではないということ。
例えば、上の藤袴図屏風で言えば、宗達に書かせたのは誰か?ということです。
紫衣事件に近しく、かつ、叢蘭秋風という言葉をよく理解する者だということではないか、つまり、非常に尊い人なのではないか、と奥平先生は推測します。
(ちなみに、実は叢蘭が藤袴を指すというのがポイントです)
こういう話を聞くと、今後「誰が発注したのか?」ということも気にかけることができるようになりますね。

と、こんな話が90分も続きます。
へぇ、なるほどなぁ〜という感じ。
こんな風に90分もまるまる楽しそうに美術の話ができるってのは、すごいことだなぁと思いますし、そのベースには何十年とかけて作品と歴史と文献をつなげていく仕事があるのでしょう。
素晴らしいことだと思います。
ところどころ笑いどころもあり、あっという間の90分でした。

短かった「洛中洛外図」においては、「景観指標」というものも知ることができました。
景観指標とは、それがあることで、いつごろのことを描いたのかわかるという目印のことで、例えば京都で言えば二条城の天守が移動しているかどうかで寛永3年の前後どちらなのかがわかるそうです。
そういう豆知識を聞くと、ちょっとおもしろいですよね。
ぜひとも、洛中洛外図を片手に京都中を歩き回りたいと思いました。


本と違って、人の話を聞くと、「余談」があるのが大変おもしろいですね。
一見つながらない話の展開が、新しい発想や発見を生むように感じます。
本だけでは行き詰まることが、講義によって新しい理解をつかむことに繋がることがありそうです。
大学の講義はつまらない、という話しを聞きますが、ひょっとしたら、聞く側にも多少問題があるのかもしれませんね。
実際、大学の先生の話は、私にはとても興味深い話ばかりです。
あるいは、たまたま私の運がいいのかもしれませんが。

【鑑賞】ジョイス・スペンサート展@NANZUKA(渋谷)

東京の南青山にある「根津美術館」で開催されている「尾形光琳の燕子花図」を見に行く途中、渋谷のアートギャラリーである「NANZUKA」に寄ってみました。
なんとジョイス・スペンサートさんの展示がこの日から始まったようで、見ていくことにしました。

ジョイス・ペンサートさんは、アメリカ人女性アーティストで、アニメーションのキャラクターを大きくペイントなどで描く作家さんのようです。
少し不気味で、悲しげな印象の作品が多い印象です。

展示室の奥にあるのはバッドマンのオマージュでしょうか。
悲しみと怒りから来る咆哮を感じさせる表現で、とてつもない激しさを感じます。
#NANZUKA #joicepensato #JoicePensato #ジョイス・スペンサート

また、シンプソンズのパパもなんだか憂いをたたえた表情がなんともいえず面白い。
#NANZUKA #joicepensato #JoicePensato #ジョイス・スペンサート

世の中には、こういう作家さんがいて、こんな作品があるんですねぇ。

ショップには佐伯俊男の小冊子も売っていて、買おうかと思いましたが、踏みとどまりました。
通り道の渋谷で、思わぬ出会いがあり、ありがたい限りでした。


#NANZUKA #joicepensato #JoicePensato #ジョイス・スペンサート

#NANZUKA #joicepensato #JoicePensato #ジョイス・スペンサート

【読了】もっと知りたい尾形光琳(中野啓子著、東京美術)

東京の南青山にある「根津美術館」で開催されている「尾形光琳の燕子花図」を見に行くため、予習として『もっと知りたい尾形光琳』(中野啓子著、東京美術)を読んでみました。

本書は、大変スッキリした内容で光琳の生涯と代表的な作品を紹介していました。
光琳が生まれるところから始まり、画家となり、江戸に行き、また京都に戻ってくる…それぞれに段階に光琳の芸術家としての影響があり、それらを代表作を通して観ていきましょうという趣向です。
最後には光琳の後の世代についても触れられています。

今回私が一番観ておきたかったのは、もちろん『燕子花図屏風(かきつばたずびょうぶ)』(国宝、根津美術館蔵)。
この絵のモチーフとなったのは、『伊勢物語』の第九章に出てくる「から衣 きつつ慣れにし つましあれば はるばる来ぬる たびをしぞ思う」という有名な歌の頭文字を取った「かきつばた」だと言われているようです。
(東国に向かう旅の途中で、妻を置いて来て、ここまで来たことを振り返る悲しい歌のようです。みんなこのあと泣きながらご飯を食べて、ご飯がふやけちゃったそう)

本書の言葉を借りるならば、この絵と向き合う時の知識として、
「かきつばた」から『伊勢物語』そして住み慣れた都を離れ東国に向かう在原業平の望郷の思い。一つのモチーフから生み出される様々なイメージ、そこに美術作品鑑賞の面白さがある。
ということを心に留めておくのは有益かと存じます。

さて、『燕子花図屏風』は、見れば見るほど引き込まれる、不思議な屏風です。
単調なのにリズムがあり、平面的なのに奥行きを感じます。
どんどん視線が横に、奥に、あるいは上に下に引っ張られていくような感じがしてしまい、あたかも自分がこの絵の二次元の世界に入ってしまったかのような感覚に陥ってしまうのです。
金の地に、のっぺりとした緑と青を乗せた絵にしか見えないのに、どこかアンバランスで、違和感を覚えさせ、一体何を語りかけたいのか? と深読みしたくなってしまうものがあります。
根津美術館での現物鑑賞が楽しみです。

また、燕子花で言えば、「八橋蒔絵硯箱(やつはしまきえすずりばこ)」(国宝、東京都美術館蔵)という面白い作品もあります。
これは箱の五面渡って橋をかける、ユニークなデザインで装飾された箱で、燕子花は貝を使って光る趣向が施されています。
美しさがたまりません。
色がいいのでしょうか? 多分それだけではなく、質感や素材の味、丸み、シンメトリーなデザインが一度見ると目を離せなくさせるのでしょう。
ついつい橋を巡って行ったり来たりしながら燕子花を鑑賞せざるを得ません。
こんなんよく思いつきますね。光琳さん。
そして、こういうふうに箱や焼き物にもたくさんの作品を残したのが、尾形光琳なのです。
弟の尾形乾山(おがたけんざん)は焼き物で有名ですが、合作も結構多いようです。

また、光琳は、もともと能が好きだったようです。
でも、遊び人だったようで、お金をバンバン使っちゃって、お金を稼ぐ必要があったことから絵描きになったとか。
本格的に絵描きになったのは、30歳の後半とのこと。
そんなんでこんな作品たちを残せるのだから、すごいことだなと思います。

その他にも、素敵な作品がいくつもありました。
メモとして残しておきたいと思います。
・仙翁図香包
・千羽鶴図香包
・金鶏雌図画稿
・竹梅図屏風
・松島図屏風
・風神雷神図屏風
・槇楓図屏風
・八橋図屏風
・孔雀立葵図屏風
・四季草花図屏風
・紅白梅図屏風
・(おまけ)百合図(乾山作)


【読了】酒飲みの社会学(清水新二著、素朴社)

酒飲みの社会学』(清水新二著、素朴社)を読み終えました。
酒飲みの社会学―アルコール・ハラスメントを生む構造酒飲みの社会学―アルコール・ハラスメントを生む構造素朴社
面白かったです。
参考文献の紹介が少なめなため、より深く知りたいなと思う点などはちょっと残念でした。
また、それ故に、「これって憶測なのでは?」という箇所がちらほらあるのも少し気になりました。
しかし、ストーリーは流れるようで、講義を受けているように感じました。
また、憶測ではないかとの箇所についても、その意見に共感できるという箇所が多く、親しみを持って読み進めることができたのが印象的です。
「研究者たちはこう言ってるけど、私はもっとこうだと思うんだよね」という感じが、とても中立的というか、人間味があるというか、あまり抵抗なく「そうですよねー」と納得できてしまう魅力があります。

著者は、日本における酒があることを前提にしている社会システムを「アルコホリック・ソーシャル・システム(ASS)」と名付けていました。
ASSとは、次のような事を言います。
①飲酒と集団的に共有された酔いのどちらに対しても寛容な飲酒文化
②アルコールが社会の組織化に決定的な役割を果たしている
③アルコールに対する構造的脆弱性
④許容と統制が同時存在する統合メカニズム
⑤以上の四点は、女性には必ずしも当てはまらない。
(『酒飲みの社会学』P67)
日本では共に飲むこと以外に、共に酔うことが求められているといいます。
共に酔うことで、ソトの人間をミウチ化してしまおうという思いがあるようです。
そうしたミウチ化が組織形成や社会形成に必要だという認識が共有されているがゆえに、 飲むことで組織感の意思疎通も図りやすく、それがまた個々の関係形成に酒を必要とする状況に還元されているということですね。
また、日本のアルコール依存症の患者は5万人だが、予備軍としては240万人いると書かれていました。
その背景には「アルコール依存症=逸脱した人」という認識が未だに根強く残っていることがあります。
こうしたレッテル貼りは、かなり強い抑止力として、酒以外にもあらゆる反社会的な行動を抑える力を持っているとのこと。
日本は、こうした他者の目で社会をコントロールする社会なのですね。
それは、一方では犯罪率の低さなどにつながっているわけですが、一方では生きる選択の幅が少ない社会を作っているという側面もあるようです。

日本の酒文化の特徴としては、①共に飲むこと、共に酔うことが求められている②しかし飲んで失敗することは破滅を意味する③そうして逸脱した人はなかなかそこから回復できない④みんなにそういう理解があるから、酒害にあっている人が酒害を認めず、結局医療につながらず、症状がどんどん進行してしまう、ということが挙げられそうです。

また、女性の飲酒にも触れられており、興味深かったのは、キッチンドリンカーについての紹介です。
ことお酒に関しては、非常に女性というのは不利な立場というか、かわいそうな立場にあるということが強調されていました。
理由としては、
・まず肉体的に、男性よりもアルコール依存症になりやすい。
・夫が依存症の場合、離婚しても自活が難しい。
・自分が依存症になった場合には、離婚を言い渡される(かつ、自活が難しい)
という点が挙げられます。
このことは、要するに女性の社会的な立場がまだまだ弱いことを表しているとしか思えません。
女性が経済的な理由からまだまだ弱い立場であるということを痛感します。
この辺の解決には、おそらくベーシックインカム的なものが役に立つでしょう。

また、キッチンドリンカーは高度経済成長を超えて経済的に豊かになった家庭が増えるのとともに、専業主婦が現れたことによって、出現し始めたようです。
面白いのは、それまで女性もちゃんと働いていたということが書かれていて、目からウロコでした。
以前は女性が働きながら子育てをしていたということを知ると、今の社会の余裕の無さがより強調されるように感じます。

だから昔はよかったのだなぁというのは、その昔の一面しか見ていないという情報不足による帰結だと思いますが、今と昔でどう違ったのか、なぜ昔は働きながら子育てができたのか、を調べることは無意味ではなさそうです。

また、そもそも昔は酒造りも女性の仕事だったのだとか。
日本人は、「ハレの日」に酒を飲むという文化なのだそうですが、そうしたハレの時には、女性も結構飲んでいたそうです。

【読了】飲酒文化の社会的役割(ジェリー・スティムソン他著、アサヒビール株式会社)

『飲酒文化の社会的役割(英名:Drinking in Context)』(ジェリー・スティムソン他著、新福尚隆監修、アサヒビール株式会社発行)を読み終えました。
飲酒文化の社会的役割―様々な飲酒形態、規則が必要な状況、関係者の責任と協力
飲酒文化の社会的役割―様々な飲酒形態、規則が必要な状況、関係者の責任と協力
難しい本でした。
基本的には保健医療関係者や研究者、アルコール業界の関係者、NGOなど、アルコールに関する政策を考えたり、実際に策定された対策を導入する立場にある人向けに書かれており、専門性が高い印象を持ちます。
プロからしたら、さまざまな政策の事例と評価がまとめられており、実用的な参考資料になるものだと思われました。

内容は、酒害をどう減らすか? という方向で話が進みます。
個人レベルで問題飲酒とどう向き合いましょうか?という内容ではなく、あくまで介入と評価に力点が置かれています。
また、随所で飲酒のプラス面にも触れています。
そんなことから、少しは飲んだほうがいいのかな? という気持ちになってしまうため、断酒している人向けの本ではないかもしれません。

私は「酒を飲まない立場」なので、一個人としてはどんどん酒に規制をかけて「飲まない人の利益を最大化」してほしいなぁと思っておりました。
しかしそれは人格的な視点からしても、政策的な視点からしても良くない方策のようです。
例えば酒の販売価格を上げたり、購入の機会を極端に制限した場合、過去の事例では密造酒の製造増大などが引き起こされ、個人の消費する酒量があまり変わらないにも関わらず粗悪な品質の酒を摂取することによって健康被害が増大するなど、マイナスな結果を招いてしまったことがあるようです。
こういうやってみたらまずかった、という規制は結構あると言うことを本書では多々紹介しています。
「飲まない人の利益を最大化」してほしいというのは、こうなると随分自分勝手なわがままだなぁと反省せざるを得ません。
(まぁ、常識的に考えても、今日において禁酒に近いそんな極端な政策は採用されないでしょうけど)

上の例のように、飲酒はいろいろな人間活動に関わっているため、極端な規制は、むしろ全体に対してマイナスな影響を与える可能性があるというのが、本書の指摘です。
アルコールの問題消費等に対してどういった介入が望ましいのかは、その国やその地域において酒がどう捉えられているかという、文化的な面を考慮して検討される必要があるようです。
また、合わせて酒のプラス面をいかに増幅するかということも考えておく必要があるということが、度々強調されていました。

この本を読んで気になったのは、以下の3点です。
①日本での飲酒の捉え方とは?(文化的な役割)
②日本での飲酒にまつわる問題とは?(解決すべき課題)
③日本での飲酒によるプラスの面とは?(促進すべき点)
これらは、本書では触れられていません。
というか、日本についての記述がほとんどありません。
ですから、この辺の話については、別の本を読んだりしながら考えを巡らせてみたいと思います。

ちなみに、現段階でこんなことじゃないかなぁ?と思っているのが、いこのようなキーワード。

① 神事、ハレの日、共同体意識の醸成
② キッチンドリンカー、アルハラ、酒害・依存性への理解
③ 穏やかな人間関係の形成、一体感の共有

いずれも想像の域は出ません。
また、穏やかな人間関係の形成というプラス面は、ひょっとしたらソトのトラブルを家庭というウチで解消するという、マイナス面につながっている可能性も考えられます。
こういうことが100%いいというものは、多分ないのでしょう。
いろいろな文献を当たりながら、「これはグレーゾーンの中の、このへんにあるからまぁいいことなんじゃない?」くらいのゆるい考え方で検討していけるといいなぁと思います。


辞令交付式への違和感(みんなよく参加するなぁ)

 今日は4月1日。  我社では辞令交付式が行われました。  そのため、土曜日ですが、人事課員として出勤しました。  明日も仕事なので、12連勤となります。   人事課の闇ですね。  それはさておき、辞令交付式に関して、毎年違和感を持ちます。  それは、お礼を言われる側が、何故かホ...